2013年11月21日

飯館村の木材をめぐる争いの原因は何だったのか (入会権が戦国時代の戦争の基になっていた)


飯館村の木材をめぐる争いの原因は何だったのか

(入会権が戦国時代の戦争の基になっていた)

入会山は、地方により、カイト山(垣内山)、仲間山、惣山(そうやま)、モヤイ山(催合山)、総持山(そうもちやま)、込山、村山などと、共有の意を示す語を含む名で呼ばれた。
草刈場は、地方により、秣場、馬草場、萱場、茅場、草場と、多くに「場」のつく名で呼ばれるものがあった。
他の村落の入会地と区別するものとして、内山、内野、内原と、内外の「内」を冠する地名で呼ばれる場合もあった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E4%BC%9A%E5%9C%B0

原発事故で問題になったのは漁業権だった。漁業権はもともと入会権を基にしているのだろう。本当は漁業権は海に境界がないのだから定めにくい、取り締まるのもむずかしい。漁場にしても一定していないのだから変わりやすい。すると山林や馬草や家の屋根をふく萱などを村で所有するのとは大分違っている。海はもともと所有しにくい、所有しにくいものは財産になりにくい、それが海の特徴だった。
検地の結果として土地の私有権が定められた。もともと土地も私有されていない、公有的な要素が大きかった。古代では国のものだった。江戸時代前も荘園とか領主のもので中で私的に所有されてはいない、江戸時代になり検地がなされて本百姓が生れ私的所有権が確立した。結果として税を納めることになった。

飯樋御出陣(奥相茶話記)(天正十八年六月十八日)

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飯樋に割木とあるのは境界の木である。割山というのも入会権の山を現している。まさに木材資源をめぐって割れる山だったのである。


御城内造営の事ありて良村を草野山にて選びとらせたまふ草野は適地の境なれば岡田兵庫に四篠但馬を相副て置ければ但馬かの村木を奉行す採所の不可なりとて兵庫但馬を叱する但馬憤り深し兵庫義たねへ訴え但馬草野より城下に召して住せしめんとし給ふところに家挙げて伊達領川俣に走る、川俣に桜田卯兵衛玄番封境を守りて但馬子あり兄を織部といい弟を内記といい父子三人にてかねて飯樋の者どもかたらい恨をはらさんとすこれ故に飯樋に逆徒多しとて大亀興一郎を飯樋に移さる・・・・


飯館村の飯樋(いいとい)で起きたこの事件何のなのか?
図解したようにこれは木材資源をめぐる争いである。飯館村は木材資源が豊富であった。それで御城内造営の事ありて岡田氏と但馬氏にそれをまかせて遣わした。岡田氏は中村城に別に岡田館とあるくらいで重臣である。ここで但馬氏とは伊達領の川俣に兄と弟がいたから元からいた土着の勢力だったのだろう。
岡田氏と争いになったのは自分たちの入会権が山を木を所有する権利が失われることで争った。この時、伊達領と相馬領はまだ明確に分かれていない、但馬氏が領有していた山であり木であった。だから但馬氏には川俣に兄弟がいたことでもわかる。
ここでの争いはそもそも伊達領と相馬領の争いではない、但馬氏という元からいた土着の所有者が領有していた土地であり山であり木であることから起こっていたのだ。

大亀氏というのは但馬氏の兄弟が遣わして暴挙にでた。それは一つの戦争であった。

戦争はこの入会権が元で起こっていることが多い。戦国時代が起きたのはそうした入会権をめぐることに発している場合がある。それは領主同士の争いというより村人の入会権をめぐる争いに領主が加担したのである。この場合も藩主の義胤に訴えている。義胤が家来を遣わして平定している。それで死んだ家来もいる。飯樋に塩の番屋があり牢屋もあった。だから牢屋に入れられたということも書いてある。大亀氏という名前も南相馬市の原町区の人で知っているのも奇妙である。この姓は変わっているから覚えられやすい。

この時伊達藩自体はかかわっていない、でも伊達藩の川俣の内記という但馬氏の弟は死んでいる。だからこの争いはそれなりに大きな事件であり記されたのだろう。
なぜ戦国時代が起きて熾烈な争いになったかというとそれはこの入会権が元で村人同士が争いになり領主に訴えて大きな争いに発展したとする見解がある。ドラマばかり見ていると歴史は非常に偏った見方になるのだ。歴史というのは信長だ、秀吉だとか面白い劇的なものばかり見ているがもっと細部を見ないとわからない、それは学問的になるから庶民には受けないのである。小さな事件でも必ず大きな事件の基となっているからだ。


この木をめぐる争いは玉野村での境界争いは有名である。上杉と伊達と相馬の三つ巴の争いとなってた。境界争いも木をめぐる争いが多かったのである。御蔵島には20数軒しか住んでないがその一軒でも境木というのをもっていた。それは自分の家の木だという所有権の主張なのである。木は薪となり炭となり家の材料にもなり資源として貴重なものだったのである。だからこそ争いも起きた。
世界戦争でも石油とかの資源をめぐることが多いように人間の歴史でも資源の争奪戦が戦争の基になっていた。


飯館村では飯樋は重要な地域であった。あそこには大きな墓地があった。飯館の田んぼの面積も広い、川俣は耕地が極めて少ない、飯館は平らな所がかなりあり米の収穫高も多いし今でも多かった。川俣はもともと織物が主産業であった。

飯樋には大きな墓地があった。あの墓地は明治時代の以降のものであったが飯館村もこうした古い歴史がある。この事件は天正時代なのである。ここも玉野村と同じく木材資源をめぐって境界争いが起きたのである。その原因は但馬氏という在地の勢力が存在していたところに相馬藩の岡田氏が進入して争いになったのである。 ここで合力が行われたのである。この合力が基で大きな戦争にも発展した。飯館村はもともと未開の地であり相馬藩から新郷士が入ってきたところだからこうした問題が起きる素地があった。
山中郷となるのは遅いのである。ただその後野馬追いにも山中郷では参加している。

飯樋の墓地の広しも松風の鳴りて冬日さし誰そ眠りぬ

飯館村はこれからどうなるのか?あそこの墓地は広かった。そういう墓も捨てられるのか?墓をたずねるのも歴史を知ることである。
なぜか、土盛るだけの墓もあった。そういうのは墓石を建てられないからなったのか?昔だったらそうだろう。でもそれは明治時代以降の墓である。土盛っただけの墓だったらいづれは消えてしまうからだ。

相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?
http://musubu.sblo.jp/article/33335256.html

百姓たちの戦国(其の四 近江全域を巻き込んだ隣村戦争
http://harada-iory.cocolog-nifty.com/seikoudoku/2011/06/post-0552.html

posted by 老鶯 at 16:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)