2013年11月20日

川子の冬の森の倒木(詩) (森は一つの命)


川子の冬の森の倒木(詩)

(森は一つの命)

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この家の枯木二本変わらじや冬の日さして我がまた通る
川子なる墓所に冬の日さしにつつここに眠れる人のよしかも
倒木の一木ここになほ死なじ冬の日さして森の暮れなむ
倒木の森に朽ちゆく落葉踏み土に還れる命なるかな
道なきし森と思ふに道のあり落葉を踏みてたどりけるかな
森の中耳を澄ませば残る虫鳴く声かすか日も暮れむとす

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倒木の詩


倒木は今日もここにある
倒木はなほも森の中にある
倒木は死んだわけではない
倒木は風の音を聞いて眠っている
倒木はまだ生きている
倒木は久しく森を支えていた
しかし寿命が尽きて倒れて
嵐に倒された倒木もある
それでも森は一つである
倒木はやがて森の命に還る
森の土となり栄養分となる
冬の日がさし落葉を踏み歩む
木の葉が散り積る落葉も
かすかに虫の鳴く声聞こえ
森は静かに暮れてゆく
我が落葉を踏みて森は鎮まる
森に無益なものはないだろう
倒木は朽ちて土になり
森をまた支えて命は循環する



川子の高台の墓所は場所がいい、いつも日があたりあそこに眠っている人は安らかだとも思う。海老は墓地だけ残ったけどあそこも海が見えるのだから場所としては良かった。
ただ津浪で村が流されてなくなったから悲劇だった。
墓に興味があるとやはり場所が問題になる。都会のようなごみごみした所は場所としてよくない。田舎は場所がいい、でも津浪で墓地自体が流されたのは悲劇だった。
電動自転車だからあそこの坂を上ると廃棄物処理場になるが森がありあごむ場所である。近くに森があればなごむ。そこは原町に買い物にゆく時も通るから通り道に自然があると気持ちいい、最近はほとんど近間しか行っていない、あそこは暑い時も木陰が長いから気持がいいのだ。

あそこの森は広くはないけど一応森ではある。樹々にしてもそれほどいい樹はない、でも森が近くにあることは自然があることはなごむのである。仙台辺りだともう近くに自然はなくなる。今は行動範囲が狭くなっているから余計に自然が近くにないと親しめない。
老人になると何か行動範囲が本当に狭くなるのだ。車をもっていないと余計にそうなる。自転車だと疲れるからなかなか遠くに行くのがむずかしくなるからだ。


森は一つの命である。だから倒木でも死んだわけではない、まるで介護している百歳にもなる母ともにている。耳が遠くしゃべることもほとんどできない、聞き取ることができなくてもなお生きている。人間もやがて死んで大きな自然の中に土に還るというのがいい死に方なのだろう。本来人間はそうだったのである。土に還るというのは自然な死生観である。今はどこもコンクリートにしきつめられているとすると土に還る感覚もなくなる。
だから飯館辺りでも都会の団地辺りに住んだら相当な違和感を覚えるだろう。
確かに便利でいいともなるが反面何か失ったものの大きさを感じるだろう。
その感覚はそこに生きたものではないとわからないだろう。


この辺では放射能の森になっていてセシウムが森を循環して消えないというのも悲劇である。森を除染することは不可能に近いだろう。ただこの辺はそれほど放射能は高くない。飯館は森は相当に高い、自然とともに生きるなどとこの辺では他からも入ってきていたが原発事故でそれも失われた。
原発事故があっても「自然とともに生きる」という感覚だったのである。
原発に対する認識がたりなすぎたのである。原発は煙もでないから温暖化にはいいとなって推進もされていたのである。
原発でも森の命のように循環しないものだった。一つの命となりえないものだった。

放射性物質という毒をもたらしその毒は消えないのである。
ただ外見では放射能の怖さはわからない、それもまた怖いということなのか?
放射能は人間の感覚で感知できないからかえって怖いということもある。
自然界で処理できない毒を作るものなど作るべきではなかった。
ただ原発がこの辺の産業となり金になるから悪いことを聞かない、問うこともなされなかった。


ともかく人間は最後倒木のように眠り土に還り森に還るのが自然である。
ただ死ぬ時は病院で死にたくない、延命治療で地獄の苦しみを受ける。
医者が地獄の獄卒のようにもその時見える。苦しむのをながめているからだ。
看護師もそうである。そうなったら安楽死の方がいいだろう。
自然な死をかなえてやることが高齢化社会では必要である。