2013年11月16日

今日は冬満月(今年は秋が短く本格的な冬になってしまった)


今日は冬満月

(今年は秋が短く本格的な冬になってしまった)

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一壺に秋の彩り豊かかな

赤き実に紫式部や平安の世
同じ道冬の日さして枯木かな
墓のあり欅の幹に冬日かな
冬晴れや一軒の家建つひびきかな
流る水冬満月を写すかな

冬の日や仮設に盆栽の手入れかな

冬の月雲ににじみて光るかな誰か棲みなむ籠もる家かも

鍋物を我が手に作りあたたかき母に与えしも食べず淋しき

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フラワーアレンジはただいろいろなものを挿すことである。それが基本でありそうしてそれぞれの花を映えさせることが基本である。だからあまりテクニックは必要ないかもしれない、ただ花は今の時期は秋となり限られている。それで最近忙しくてしていなかった。別に野の花をさしても生け花でありもともと花を買ってさしてたりしていないだろう。

紫式部という源氏物語の作者がいた。それは平安時代だった。現代は奈良時代の唐風文化を取り入れた奈良時代から平安時代のかなを発明した平安時代になりつつある。

明治時代は欧風化であり戦後はアメリカ化でありグローバル化であったがそれも一応体験した。だから次はそれを消化して新たな国風文化の創造の時代になるのだ。
安土桃山時代も欧米化とにていた。その後は鎖国で国風文化の時代に還ったのである。
日本の歴史にはそうした循環がある。


何か最近相馬市から原町を行き来している二両の電車のような生活である。相馬市にすら最近一カ月も行っていない、今年は仙台に4月ころ一回行っただけである。
人間はだんだん年取ると行動範囲が狭くなる。だからほとんど近間の同じ道をめぐっているだけである。でもそこに同じ枯木があり冬日がさしている。そんななんでもないことが俳句になっている。ということはそういう平凡な日常が何か愛おしいものになっているのだ。

欅の木が固い感じがして冬の日にあっている。そこには自分の家の墓がある。

今日は近くで烏の人の家の建前だった。その柱を叩く音が冬晴れの空にひびいた。
ただ電動ノコギリの音が必ずしているから嫌だが一日で骨組みはできた。
あとは組み立てるだけだからうるさいといっても期間が短い、自分の家は三カ月もかかった。今は組み立てるだけだから一週間くらいでできる。
そういう建て方は効率的であり数をこなせる。人手がそんなにかからないからだ。
大工など人手不足だけどそういう点では改善されている。
働く人が少なくて働かない人が実質三分の一以上いるということはこうして人手を省いているからである。


今日は冬満月がでている。流れる水に写っていた。流れる水というのが写生なのである。写真でとったら肉眼で見たのとはまた違っていた。こんなふうには肉眼で見えないのである。流れる水が銀色に見える。このカメラは買ってよかった。


鍋物を作った、これは一人用の簡単なものだった。汁だけが小さなもので入れてあとは野菜と肉などを入れればよい、これは便利だと思った。一人だと汁が多すぎるのだ。
今は料理することではない、便利なものを買うことなのである。その買うものを知ることがなかなかできないのである。
鍋物を作っても一緒に食べる人もいない、介護している母はほとんど食べないから張り合いがない、料理も作ってみれば誰かうまいとかいって食べてくれれば張り合いがある。
これは主婦や母親などが思っていたことである。それを自ら経験しているのだ。

なにかを与えることは人間として経験すべきである。結局何も与えないものは何も得られないからだ。ただ家事全般をしていると忙しいのである。時々疲れもする。
でも機械と買ってやっているからなんとかやれるのである。

今年は本当に秋が終わり秋が短かった。だから秋深しという感覚がなかった。何か季節感も狂ってしまったのだ。
 

郷土史研究に欠かせない墓地を調べること


郷土史研究に欠かせない墓地を調べること

郷土史研究で一番身近なのは祖父母から聞く話である。なぜならそれは生きた証人から聞く話になるから本で読むのとは違う重みが加わる。老人は無駄だから税金の無駄使いだから早く死ねと若い人に高齢化社会で言われる。それはあまりにも高齢者が多くなりそれに金がかかりすぎるからである。老人が貴重だったのは長生きした人が少なく価値があったのである。昔は長生きしただけで何も功績がなくても価値があった。なぜなら長生きすることが極めて困難な厳しい時代だったから長生きしたということだけで価値が生れた。
今はそういう価値が生れない、ただ老人は若者の負担になるだけだというのが現代である。でもそもそもそういう経済的な負担などをぬきにすれば老人はもともと存在するだけでも重みある価値あるものがあった。すべてではないにしろそういう重みをもつものが人間が長生きするということであった。今だって一芸に秀でるには60過ぎないとならない、それだかけの積み重ねが年月が必要なのである。天才は別にして普通の人間はそうである。

もう一つ郷土史研究で必要なのが墓地を調べることだった。これは自分はずいぶんしてきた。それをプログにも出してきた。墓地というのも本で調べるよりここに生きて死んだと人がいたということで具体性がでてくるから過去がより身近に感じるから墓地を調べることは郷土研究にかかせないのである。墓地には故郷の人が知らない意外な発見がある。
それか自分の墓のある鹿島御子神社の脇の墓地だった。あそこは新しい明治以降の墓地だと思っていた。でも天保時代の小さな碑があったし宝暦の大きな碑もあった。あそこは神宮寺であり神社が前にありそのあとに寺ができてそこで寺小屋が生れあの碑が建てられたのかもしれない、墓地はどこでも必ず歴史を語っているのだ。一つ一つの家族墓でも歴史を語っている。


墓の歴史をかえりみると不思議なのは最初は個人墓なのである。これは自分も働いて財を残したから墓を建ててみようとなったらしい。墓を作るには今でもそうだがそれなりの財が必要なので簡単に建てられなかった。武家は五輪塔など建てたが庶民は建てられなかった。そして個人墓の次が夫婦墓だったのである。この辺でも夫婦墓が多い、それは江戸時代からの継続として明治時代でも夫婦はか多いのである。家族墓は明治時代になり政府の指示で家族墓になったという経緯がある。ということは家族墓は何か人間の自然な生活から生れたものではなかった。強制されたものだったともいえる。

妻が夫の姓を名乗るのは明治時代以降のことである。それであるから、妻が死ぬとその遺骸は里方の墓地に葬られることが多かった。夫方の墓地に葬られても、その名は里方のものを記されたのである。
こういう墓が相馬市の成田にあった。それをプログで紹介した。


大まかな変遷としては個人墓がまず出現し、次に夫婦ないしは一組の男女と三名以上 )
併記の家族墓が一七世紀中頃に出現する。( )なお、男女一組の戒名は親子の組み合わせも考えられるが、基本的には夫婦と捉えている。同様に複数の成人、あるいは子供も血縁者と考えて家族墓とする。個人墓は一人世紀代まで卓越し、一九世紀以降は夫婦ないしは男女一組墓・家族墓が主体となる
ただし、個人墓は減少せずに一九世紀代まで推移していることが大きな特徴であり

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野田山墓地の無縁墳墓の改葬に関する実証的研究
http://www.icc.ac.jp/univ/morizemi/Date/PDF/Muen-2.pdf


まず個人がなにかしらの自分の記念として後世に伝えようとして墓を作った。次に夫婦墓になったのは夫婦の結合が一番人間にとって強かったということもある。
「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」という諺がこれを示している。他に他人は五世という諺もある。五世とはなぜなのか?それは親子や夫婦の関係でもいつかは切れてしまう。死んでしまいばもうそのつながりは墓だけに記されるてもやがてその墓も消えてしまう。でも他人とか地域とか社会はつづいている。親子でも夫婦でも主従でも長い時間では実際他人になってしまう。人間は結局血縁でももともと他人なのである。そういうことを子供他人だという時、親の財産が欲しいというだけになったりするからその時子供他人だと思ってしまうし現実にそうっなっている人もいる。血縁でも家族でもあるとき、老後はそうなりやすいのである。現代では家族の紐帯が弱くなっているから余計にそうなのだ。もともと日本では家族のつながりより村のつながりが強いからほとんど地名が姓になっていた。

夫婦墓というとき、宮本常一の考察が人間を深く見ているなとつくづく思う。


この地の墓には夫婦の戒名を刻んだものがほとんどである。この墓が象徴しているように島の人たちの夫婦仲はいたってよいようである。夫婦で力いっはい稼いでこの風光の中で生きこの丘に埋められている。そして墓も一つなのである。
(私の日本地図-瀬戸内海4 備讃の瀬戸付近)
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俳句にすると「故郷や冬の日さして夫婦墓」とかなる


こういうふうに墓を見ている人は少ないだろう。島で暮らした人の一生をここで深くみているのである。つまりこの人たちは幸せだったなと墓からも回想できているのである。それは今は瀬戸内海の島のあたたかい光につつまれて眠っているのである。墓も海に向いて墓もあるし山の中の墓もあるし海を向いた墓だと常に海を死んでも思っているのかと想像するのである。島ではたいがいそうなりやすい。これは明治以降昭和になっても夫婦墓がこれほど多かったのは他とは違っている。それは夫婦で協力して島で生活していたことが影響していたのである。それだけ島での生活は人間の一体感を生んでいたのである。
これは昔はたいがいそういう傾向があったが破壊されてきたのである。
田から人間の幸福などなかなかわからないのだ。昔は貧乏だというのも本当だしでも本当にそれが全部不幸かとは言えないのである。それを墓から見えたのである。
ただ墓地でも地域性があり相馬藩では三分の一が天明の飢饉などによる越中などからの移民であり真宗系統でありその墓がわかりやすいのである。墓地をみればこんなに真宗系統の移民が多かったことが納得する。


墓が跡継ぎとかいないとか問題になるのは家族墓が維持できなくなっているのはまさに現代の家族の状況とかが反映しているのだ。核家族化とか家族の紐帯の希薄化は家族にだけ原因があるのではなく島での生活ならそこでの生活で紐帯が強められるがそこから人々が工場とか外にでてゆくようになるとつながりは希薄化する。すると夫婦の繋がりも弱められる、離婚も増えてくるとかいろいろな現代的問題が生れる。
現発事故だってそうである。事故で家族がばらばらにされたとき大熊の人だったかロウソクでも家族一緒に暮らしたいと言っていた。この辺は家族もバラバラにされてしまっているのだ。若い人は流出して家族はばらばらになっている。飯館村などでも大家族で暮らしていた人たちも多かったかバラバラなって暮らすようになった。原発でもそうだがそうしたものが地域の生活を破壊してしまうものだった。過度な工業化とかで失われたものも多いのである。


「現代社会においては、過去との連続性が失われ、 過去は遠い異邦となり、その典型として、先祖は集合的記憶を共有することによって形成 される「記憶の共同体」の成員ではなく、異邦人となった」(片桐2006:187)
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/jinshaken21-12.pdf


墓もその一つだったのである。墓の共同性というときそれは今の現実の生活に共同性が失われているから墓もそうなっているのだ。夫婦でも一つの墓に入りたくないという女性が三分の一とかいるとしたらそれは何を意味しているのか?夫婦でも島の夫婦墓のような感覚がない、それは離婚が多いということでもわかる。家族でも地域でもそうした昔からの共同とか繋がりが破壊されてみんな会社の一員となった。結果として会社が第一になり地域はないがしろにされ東電のような巨大会社に地域は踏みじられたのである。
これは地域の生活はそもそもすでにその昔ながらの生活も破壊されていた結果だったともなる。

郷土史でしれ国の歴史であり「記憶の共同体」として根底にある。それが歴史の意味である。そういう記憶の共同体も最小単位の家族でも
そのつながりが消えたら失われる。現実に原発事故で警戒区域となり住めなくな地域は「記憶の共同体」が喪失してしまう。
歴史を失うということである。それか何を意味しているのか?結局もう地域のつながりが喪失する。
ただ補償金をぶんどるための組織だけになってしまったのである。そういうつながりはやがてまたばらばらになり地域のつながりは喪失する。
明かに原発周辺は東電の社員化していたのである。だから東電に世話になれということが盛んに外部から言われているのだ。

posted by 老鶯 at 12:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)