2013年11月23日

広範囲に政治家と結びついていた徳州会 (金の集まる所は腐敗する-でも検察の裁量権は危険)


広範囲に政治家と結びついていた徳州会

(金の集まる所は腐敗する-でも検察の裁量権は危険)

●金の集まる所が腐敗する


何度も浮かんでは消えた「石原新党」は、今回の衆院選で石原慎太郎前都知事が橋下徹大阪市長と組むことでようやく結実したが、10年前にも一度、現実化しそうになったことがある。


2003年5月31日、都内のホテルで盛大な結婚式が開かれた。新郎は徳田虎雄自由連合代表の次男毅氏で、媒酌人は亀井静香自民党元政調会長。石原氏は野中広務自民党元幹事長とともに主賓として出席。全員、当時の小泉純一郎首相に公然と反旗を翻しているメンバーで、「石原新党結成の布石」と、取り沙汰された。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34862?page=3


5千万円もらった猪瀬知事だけではない、徳州会の金は自民党にも民主党にも流れているという、徳田虎雄氏の自由連合には70億円流れたかその金は不明になっているという。
そもそも病院はそんなにもうかるものなきか?赤字病院も多い。なぜ徳州会の病院だけこんなに利益をあげていたというのも謎である。経営手腕があったことは確かにしても病院はそもそも福祉事業でありそんなにもうかるものとはとは思えない、そこに何らかの不正があり見逃されていたのかもしれない、徳州会の金を通じて幅広い政治人脈が作られていたのである。だから石原氏にも検察の手が及ぶとか噂される。
ここではあくまでも人だけの関係だけど金の流れから明確な証拠を特定しやすい、それを否定することはむずかしくなる。猪瀬知事にポンと五千万くれたとしても知事なのだからそれで都内の徳州会に便宜を図ってもらうことを画策していたととられる。
選挙資金でないとしたらそうなる。

結局徳州会という病院は東電と同じく金の鳴る木になっていたから政治家も群がった。

高度成長期はゼネコンが金を生み出してそこに腐敗が生れた。金が集まるところに腐敗が必ず生れているのだ。だから絶対的権力は腐敗するというのはそのためである。金は現代の最大の権力である。金が集まるところに権力も集まる。現代で金の集まるところは電気事業であり東電が僧てありそこに政治家から官僚からマスコミから地元の利権団体からあらゆるものが群がりたかり集まった。人間社会はすでに金が集まりすぎるとそこは腐敗してゆく、カルト宗教団体でも巨額の金が集まり腐敗してゆく、最後は跡目相続で内紛になり権力争いになり分裂して組織は解体してゆく、それか徳州会でも起きていたのだ。

徳田虎雄氏が病気になったとき指導力を失いその部下と家族との間で権力争いが起こり部下が情報をもらしたらしい。こういうことは人間社会では常に起きてきたことである。
なぜそうなるかというと巨額の金が集まりその金をめぐって権力争いが起こるからである。遺産相続でもそうである。兄弟が血肉の争いになる。自分もたいしてた遺産でなくても受けたからそこて兄弟がいればそうなった恐怖がある。全然関係ない人までそうした金があると入りこんでくるのだ。


ただ病院が権力の場となることは前からあった。日本医師会が自民党の後ろ楯となり有名だった。医師会には逆らえないとなっていた。徳州会は医師会と対立関係にあった。全面的ではないにしろ医師会の特権利権に対して対立した構図もあった。
前にも書いたけど病院は現代の神殿でもある。医者は最後に命を助けてくれと神様のようにもなっている。だから権力を持つのもわかる。でも金がそれほどもうかるのかとなるとそうでもなかった。だから徳州会がなぜそんなに金をもうけたのかそれか謎のなのである。そこに不正が見逃されていたのかとなる。絶えず政治家とかかわり政治家によるつながりで不正が見逃されていたのかともなる


●検察や医者の裁量権が問題


この巨大な裁量権こそ、警察、検察の利権の源泉である。

この裁量権があるからこそ、警察、検察は巨大な天下り利権を手にするのである。また、政治権力に対して影響力を保持し、また政治権力は警察、検察権力を利用することができる。


「裁量権」は立件の有無の判定だけに関わるものでない。刑事事案をメディアに公表するのかどうかも、「裁量権」のなかに含まれる。

中堅・ベテランなど、裁量権のある担当者には、住戸の販売価格の0.5%程度までといった裁量権がもたされているのが通例なので、このような裁量権のある人と直接交渉できれば、話が早くてラッキーだといえるでしょう
http://www.aspreyjacques.com/02/007.html


最近、あるプロサッカー選手に対する静脈注射(点滴)がドーピング行為にあたるか否か、議論を呼んでいる。最近の論調を見ると「正当な医療行為であるか否かはそれを行う医師の判断に委ねられ、しかもそれには誰も口を挟めない」かのような風潮に対して、

一般の医療行為における正当性の判断は誰がするか、であるが、多くの医師はそれこそ医師の「裁量権」であろうと考えているかも知れない。しかし、医師に委ねられている裁量の範囲は、医師が考えているほど広くはない。
http://www.ombas.co.jp/drkida/post-19.html


電車の車内で化粧をする人がいて、顰蹙を買う。電車の車内の空間は、切符を買った人に属している。しかし、そこの裁量権は公共にある。化粧をする人は切符を買っている以上車内にいる権利を持っているし、その座席はその人に属している。しかし、そこで何をしてもいいというものではない。その空間を勝手に化粧室に変える権利、すなわち裁量権はその人にない。

 「それが誰かに属する」所有権と「誰かの自由な裁量権の下にある」裁量権は異なる。その自由な裁量権を持っているのは、対象に応じて、神だったり、自然、国際社会、世間、コミュニティ、先祖、将来世代などさまざまであるが、個人を超えた存在だと言えるhttp://eritokyo.jp/independent/sato-col0115.html


裁量権というのは何なのかこれまたわかりにくい、何かを決定する力である。例えば誰であれ金をもっていてその金を与えることができればそれは裁量権をもっているということである。金が今は一番わかりやすいである。誰が権力をもっているかといったらまず金を自由にできる人なのである。ただ裁量権にはいろいろある。検察の裁量権は最大の権力である。そこに検察の権力の源があった。検察は別に公平な法を施行する場ではない、巨大な一つの官僚の権力集団なのである。法のもとに公平を実行するということになるとは限らないのだ。時の政治勢力との均衡を計るとかアメリカの意向に従うとかいろいろな権力の圧力を受けて動く。だから東電の幹部は逮捕しないし罰せられないことでもわかる。
それかできない何かが検察にあるから公平とは言えない。
だから今回はTPPに反対だった徳州会を標的にしたという憶測も嘘ではない。
ただ明らかに猪瀬知事に5千万渡されたとかそうしたことはTPPとは関係ないことである。明らかに徳州会に便宜を図ってもらうための賄賂だったとなるから許されないことだろう。そこには明確な不正があった。

医者の裁量権は大きいものと思っているが確かにそんなにと大きいものではないということも確かである。ただ一旦病院に入院したらその裁量権は大きい。自分も一カ月間入院したとき二三時間家に帰らしてもらいたいと懇願したが点滴をはずせないことでできなかった。まるで刑務所に入れられたと同じだった。裁量権がその時医者にあった。
結果的に家に誰もいず盗まれて大損害を受けた。入院することは医者の言うことが絶対になるのだ。刑務所を脱出するようにしなければ自由はなくなる。これも怖いことなのである。もう延命治療されたくないとしても一旦入院したらどうにもならなくなるのだ。
だから病院は一面怖い場所なのである。自由がきかなくなる、裁量権が医者にそだねられるからである。


●検察の権力を監視できない恐怖


検察は一面絶対的権力をもっている。その裁量権を医者でも疑問にもちとがめることができるが検察の裁量権はできない、そういう人間が絶対的権力をもつことは怖いことである。だから現代では証拠不十分とか罪が明確にならない場合は不問になり罰することができない。疑わしきは罰せずになる。ところが裁量権が与えられればそれを行使できるのだから権力を用いてできるとしたらそれはどうなるのか?それは検察が絶対的権力を有することになるのではないか?だからこそ検察の権力を自由にしようと創価でも検察に入りこませて権力を得ようとする。それは他の団体でもあたうる。オウムでもそういう工作をしていた。そもそも検察の力の根源が法に本当にあるのかと言ったら人間かか行うことだから絶対的公正とかありえないのだ。

だから検察にもいろんな圧力がかかり東電の幹部は罰せられることがないのである。庶民は検察の実態がどうなっているのかわからないだろう。検察は警察の怖いのは人間を罪人として認定することである。そんなことをできる権限は本当は神しかない、人間の罪は人間にはわからないからだ。もちろん犯罪として明確にわかるものもありだから罪に定める、でもその犯罪で追求してゆくといろいろな事情があり一様には判定できないのだ。だから聖書では他人を裁くなと言っている。それより人間は人間を裁けないのである。人間を公平に裁けるのは神しかいないのだ。

だから検察がそんな絶対的裁量権をもつこと自体逸脱しているのである。

とにかく検察でもそこか公正なもの正義を実行する場所ではない、一種の政治権力の場所であり時代を反映して変わる。今はアメリカ側につくが次は中国側につくようになるかもしれない、時の権力によっても変わってくる。絶対的場ではないのだ。原発の裁判では常に原子力発電推進の側について判決していた。国策で原発推進だからそうなった。
検察官僚からも東電に天下りしていたし検察官僚が警察でもいろんな会社に天下りして巨額の報償金を得ていことでもわかる。検察警察も巨大な権力集団の組織なのである。

だから不正でも権力のバランスをとるためにとりしまりもしないことがある。それがカルト宗教団体だったり東電だったりするのである。
ただなぜ今回は徳州会を標的にして取り締まったのか?徳州会が創価のような他の団体より巨大なものとなっていない、だからつぶしてもかまわないと思ったのか、アメリカの意向もありTPPのためにまず徳州会が反対していたのでつぶしにかかった。
医療が自由化するとアメリカの利益も膨大なものとなるからだ。だから日本の医療産業がアメリカに強奪されるというのもそのためである。アメリカの産業は軍事と医療が大きい。あとは金融であり例えば投資信託会社が200兆もっているというときそんな金を何に使うのだろうとなる。それ自体腐敗を生んでいるのだ。それて絶えずユダヤ金融によって

世界は支配されていると陰謀史観では言う。その真意はわからないにしてもその巨額な金があくこと自体腐敗を生む源なのである。

結局巨額な金が集まるところは腐敗する、権力は腐敗するというのは人間社会で繰り返されてきたことである。東電も三兆円の資産があるとか一千億近くの金がマスコミでもばらまかれたとか巨額な金を生み出す場所だったから腐敗して事故にもつながったとなる。
つまり「裁量権」をもったのが東電だったのである。政府の保安院は飾りであり裁量権は決定する権力は東電がもっていたのである。だから検察でもそうした裁量権をもつことは危険なのである。それを監視する権力もとめる権力もないからである。検察だって権力集団だから監視されるべきなのである。それが民主主義社会である。

今回の徳州会の逮捕は確かに不正があり国民も納得する事件である。でもそれを口実にアメリカの意向をくみTPPを押し進める役目やその他のアメリカの政策を実行しようとする魂胆が背後にあるということも考慮する必要がある。大きな事件なるとどうしても背後にアメリカかかかわってくるのが日本なのである。中国が大きくなると中国がかかわってくる。それが政治であり検察もそうした背後の大きな権力の動向によって裁量権を利用するのである。

posted by 老鶯 at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

南相馬市原町区大原に死んだ斉藤茂延さんを偲ぶ冬の短歌十首 (人を通じて親しみ深くなる場所)

 

南相馬市原町区大原に死んだ斉藤茂延さんを偲ぶ冬の短歌十首


(人を通じて親しみ深くなる場所)

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橲原やたまゆらに消ゆ冬の蝶
水の音倒木あわれ冬紅葉
鳥隠る鳴き声かすか冬紅葉
冬紅葉一木ここに村古りぬ
大原に眠れる人や冬紅葉
大原の荒地となりて寒烏
大原や寒烏三羽日も暮れむ


大原を冬にたずねてあわれかな形見と残る家の淋しき

大原の杉木立の中墓所ありて冬の日さしつ我が参るかな
五輪塔二つ古きを杉木立の墓所に埋もれて冬の日暮れぬ
知る人の妻の死すあと二年過ぎ夫も死ぬあわれ冬のくれかな
病院に大原語るその人の眠れる墓や冬の日さしぬ
大原に代々生きる人にあれその墓参り冬の日暮れぬ
大原の墓所の近くに竜胆の数輪なおも咲きにけるかな
大原ははや山に陽も没らむ短き日かな死ぬははやしも
大原の山中田畑開きしを継ぐものなくて荒地となりぬ
大原の山に通じる道歩み暮らしを思ふ冬のくれかな
大原に生きてここにし眠るかな跡継ぎなきを祖(おや)は悲しむ
大原に思いのこして死ににけりその人思ふ冬のくれかな

大原ゆ深野を通り豪蔵や長野にいでて冬のくれかな

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墓所に入る道

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文久からはしまっているから古い

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これは相当古いだろう、年代がわからない

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この五輪塔も古い感じだ
いつの゛時代なのか?
大きくはないから名だたる侍ではないかもしれない


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ここは田んぼだったのか畑だったのか
先祖が開墾した場所だった



橲原から橲原渓谷に入り大原の方を回ってきた。何か今年の紅葉は変だ、いつものような紅葉の色がでていない、もう秋が終わり紅葉の季節が終わってしまったのか?
すでに冬紅葉の色であり秋の紅葉の色がなかったのか変だ。
今年は晩秋とか秋深しという感覚もなくなっていた。

斉藤重信ではなく茂延であり平成24年(2012-5)5月に死んでいた。ということは2011-3月に原発事故があったから約一年事故の混乱から生きていて死んだのである。
事故が影響して死んだということもあるかもしれない、心労とか重なったかもしれない、その二年前に妻が死んでいた。その妻が死んだことが痛手だった。なぜなら病気になったとき介護されなかったし大原の家に一人で猫と一緒に住んでいたからである。

近くにも75歳の人が六年前頃死んでその苦労を語っていた。良吏などもてきず泣いていたという。それは自分もそうだったから家事で苦労したから同情した。

その人は糖尿病で妻をなくして自分も糖尿病になり糖尿病の食事制限の料理をしている。その人は津浪の被害にもあっていた。一応床上まで来たからそれなりの被害だった。
海から遠いからたいしたことないと見ていた。でも津浪は低い波でも物が流れてくるから被害か大きくなるのだ。ともかく夫婦でも妻が死んで夫だけ残ると悲惨になる。
料理とか家事のことがなかなかわからないからである。自分も五年くらいしていても料理のことがわからないのである。めんどうくさいから外で食べるのが一番楽だし外で食べた方がうまいのである。


大原という地域はいつも幹線道路だけを通っているとわからない、ある地域を知るにはやはり幹線道路だけを通っているとわからない、全体を知るには村を歩き回らないとわからない、今日は大原を山の道とか歩いた。山の方に入る道が四方にあった。山と密接に結びついていた暮らしがあった。それで戦後食料難で猿まで食ったという話は本当なのだろう。

ともかく病院は暇であり閉ざされた空間で話す人も斉藤さんだけだった。だから大原の話を聞くのが日課だった。そして何か自分自身も大原の人のようになる気分になったのは不思議である。そして病院の窓からは大原の方が見えていたのである。
病院の一カ月は長いのである。病院は刑務所ともにているのだ。

だから病院で一カ月斉藤さんと一緒にいて大原が親しくなっていた。ある土地に思い入れができるのは人を通じてそうなることがある。ある人と親しくなってその土地への思いが生れてくる。そして死んだということを大原の人がやっている仮設の食堂で聞いたのは二三日前だったのである。実際に死んだのは2012年の五月だった。80歳というとそれなりに生きたとなる。平均寿命は生きた。でも何か農家で跡継ぎがいないということなどで息子に頼んでいた。でも原発事故で大原は放射線量が高く避難した人が結構いるし今でも若い人たちは住んでいない、道であった老人はここに棲むほかない、相馬市の仮設に入った人もいるがもどってきた。区長がだめだとか盛んに言っていた。

大原でも南側よりの斉藤さんの家がある所は放射線量が高い、一地域でも違っていて補償金も違うとめんどうになる。一地区でも分断されてしまうからだ。

墓かあった所はす杉木立に隠れて隠されるようにあり墓所としてはいい場所だと思った。そこは江戸時代からしった墓所だった。たいがい村の墓所は江戸時代からある古いのか多いのだ。斉藤家は古い家だという、でも斉藤家の墓は三つあり一番上の斎藤家かさらに古くそこから分家したのかもしれない、こういう村で姓が同じだと親戚であり分家したのが多いのである。五輪塔も小さいけどかなり古いと思われるものがあった。これはいつの時代になるのか?何かわからない、名前すらないからわからない。大原という地域もまた古いのである。

そこから深野に出た。深野はフコウノの呼んでいた。そこはまだ大原だと思っていた。
大原は一三〇軒あると聞いたから大原のつづきだと思っていたが深野になっていた。
深野のおばしちゃんが福寿草で自分の母親と一時同室だった。それから長野に出ると
「豪倉」というバス停があった。あそこをバスが止まるのか通っているのかと思う。
ただその名前から江戸時代のものであり豪蔵は飢饉のために米や食料を備蓄していた蔵だったのである。今は名前だけが残っているのだ。

 
 

2013年11月24日

冬の星 (今年は晩秋なのか冬かまぎらわしい-日本の文化は木にあり変わりやすい)

 

冬の星

(今年は晩秋なのか冬かまぎらわしい-日本の文化は木にあり変わりやすい)

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死に場所へ烏帰るや冬日没る

鳶の二羽新築の家回るかな
隣家の紅葉の赤し時を経て
晩秋の山脈日当たり影深む
大原の土埋もる碑冬薊
新築の家真新し冬の星
新築の家はや成らむ冬の星


陽のあたるところも見えて影深む冬の山脈今日も見ゆかも

明らけく北斗七星さしにける北極星見つつ我が進むかも

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今年は冬なのか晩秋なのかまきらわしい。季節的には冬でも秋が短かったから阿武隈山脈を見ると晩秋の色合いにも見える。でも寒いから冬なのか枯野だから冬なのかとも思う。要するに秋が短いとか晩秋とか秋の暮とか秋深し・・といいう季語の感覚がなくなると
何かが狂ってくる。今まであったものがなくなる、なじんだものがなくなる。
その影響は結構大きいだろう。季節は普通は変わらないからである。それか熱帯化するとかなったら感覚的におかしくなってくる。
それは日本の文化の喪失さえ感じるようになる。晩秋とか秋深しとかは極めて日本的季節の感覚だったからである。それは人生観とかにも影響してくる。
日本では季節から季語が生まれ微妙な自然の感覚を磨いていたからである。

日本の紅葉が外国からも見るんにくる人がいることは日本のようなきれいな紅葉に外国はならない、なんか今年のような秋の鮮明な紅葉でなくて冬紅葉のような光景が外国らしい。日本のような紅葉は日本でしか見れないのである。するとそれは相当に貴重なものだったとなる。日本の自然は特殊であり日本でしか感じ得ないものがかなりある。
雨の多様性などもそうである。だから擬態語が発達したのかもしれない、日本の自然は変わりやすい、それで日本人は変化に強いと言う人もいる。また変わりやすいから一貫したものが作れないともいう。アメリカ人も戦争に負けた全く変わってしまった日本人を信じられないとか驚いたように本当に変わり身が早いのが日本人なのである。


隣に新築の家が建った、ほぼ外観はできた。今は積み立てるだけだから早い、冬の星が一つ屋根の上に今日も輝いている。日本人は木の文化なことも変わりやすい性質を作ったのかもしれない、木は生きているのであり生きているから木はやがて死ぬこともある。寿命がありそれも短い、伊勢神宮の二〇年で遷宮して新しく建て替えることでもわかる。
日本人は古いものを尊ぶというけど絶えず新しいもの変える文化なのである。
二〇年ごとに代えることでまた技術が伝承されてゆく、建て替え作業のために技術が伝承されてゆくということがある。それも木は生きているからである。

外国では歴史的なものは城でも古いままにそのまま残すのが多いというけと石だから古いままに残せるのである。日本は木だから必ず木は生きているから死ぬのも早いのである。だから絶えず建て替えることが迫られる。そもそも日本の家の寿命が三〇年とかなると開国では驚く、開国では100年など当たり前とてっているからだ。

日本は歴史があるといっても何か継続した時間の中で維持する思想がない、それは津浪でも現れていた。相馬藩で四〇〇年前の津浪のことを全くわすれていたことでもわかる。

ただこれは相馬藩の記録には戦争のことなどことこまかに書き記しているから無視されたのだろう。ただ民衆側でも何か記録に残せたはずである。伝説にも残らないということが未だにわからないのである。言葉でも日本語には時制がなく過去を明確に意識できないのである。ゆく川の水は絶えずして元の水にあらじ・・・・絶えず水のように流れてやまないのが日本人の精神でありだから変わりやすく過去も忘れやすい、ただ利点として変化しやすいから変化に強いともなる。でも日本人的な一貫したものを作れないという弱点にもなっている。

明治維新の時、城をみんな壊してしまいというのも今になるともったいないことだったとなる。今に城が残っているのも五つくらいしかないというのもそのことを示している。

真新しい城にしたとき何か違和感があるというのは外国のように石の城だったら昔のままに残っているからその歴史を感じる。新しく作られた城はむしろ現代を感じてしまうということがあるのだ。過去のもののように思えなくなると外人が言っていたことでもわかる。古いのに古くない新しい建物になっているからそう感しるのである。


人間は斎藤さんの死んで偲んだようにある土地ときりはなせくあった。斎藤さんが大原て生きて大原で死んだ。そこが死ぬ場所であった。そういうことを老年になるといやおうなく感じるだろう。特に農家の暮らしをしてきた人は自然とそうなる。その土地と一体化するのである。だから墓はまるで木の根っこのようになっているのだ。
でも大原は老人だけになり荒地となってしまうのか、農業も跡継ぎがいないなど各地で土地も利用されず荒地になる。この辺は津浪原発事故で現実にそうなってしまった。

日本の人口がこれから四千万減るということは農業をやる人がさらに激減してこの辺のように荒地として残されるようになるかもしれない、でも先祖は日本人の場合、その土地に思い入れが強いから悲しんでいるだろ。
だんだん日本人のアイディンティテの場所がなくなってしまのだろうかと思うと淋しい。

烏が山に帰る、山はやはり死に場所なのである。何かだんだん身近な人も死んでゆくと死をさらに意識する。だから死に場所は山であり山に烏が帰るように山で日本人が死ぬというのが日本人的感覚なのである。病院では死にたくない、死んだら山に葬ってほしいとなる。そして先祖となる。こういうのは理屈ではないのだろう。そういう文化を日本人は自然とともに作ってきたのである。


今回北斗七星がはっきり見えた。星は見える場所によっても相当違っていた。今回は明らかに北極星をさしていた。星も見る場所と違っているから生きている間でも違ったように見える。狭い場所でもそうなのである。だから角度を変えるとまた違って見える。
今回は明らかに北極星が輝きあの方向が北だと明確に意識されたのである。
相馬氏の妙見信仰は北斗七星だから星なのだけど日本だとあまり星を意識しない、
ただ冬は星がきれいに見えるから今回は北極星を明確に意識したのである。
「北極星に進路をとれ」と自転車を走りながら明確に意識されたのだ。

 
 

2013年11月26日

なくなってはじめて意識する人間の感覚の不思議 (歴史には記憶が消える空白化が膨大にある)


なくなってはじめて意識する人間の感覚の不思議

(歴史には記憶が消える空白化が膨大にある)

日々通るこの道の脇家の跡誰か住みしと冬のくれかな


●その家が消えてはじめて意識する人間の感覚の不思議


人間の不思議はその家がある時はその家のことを意識しない、六号線の脇の家もそうだった。誰が住み何をしているのかも意識しない,普通にありふれた一軒の家にすぎない、そこに誰が住んでいて何をしているのかも関心がない、しかしなぜその家がなくなった時、その家のことを意識したのだろうか?
そこを散歩の為に毎日通っているということもあった。毎日通るからどうしても更地と化したその場所が気になる、意識するのである。
もう一つはその家について誰が住んだのか何をしたのか?そうしたことが全く不明なためである。だからこの家は何だったと意識する。
これは人間として奇妙なことである。それは人間特有の感覚である。
あった時何も意識しない関心もないのになくなったとき意識する。


例えば墓にしても碑にしても名前がなかったり何も書いてないものがある。字も薄れて何が書いてあるのか年代もわからない、すると何とかその書いてある字を知りたいとなる。知り得ないから余計に知りたいとなるのも不思議である。かえって明確に字が記されているとああそうかで終わりになる場合もある。だから人間の感覚は不思議である。
謎であればその謎を知りたい究めたいとなる。
古代文明の興味はすでにわからない謎になっているからいつまでたっても興味の対象となっているのだ。

そしてもう一つは人間は何らかの空白に耐えられないのだ。真空になっていることを許さない、そこに何かがあるべきものとしての感覚である。何もないということはそれは物理的現象だけではない人間的に存在についても言えるのである。
何もないということはあってはならないことなのだ。

だから奇妙なことなのだけどここに住んだ人は誰だったのだ?何をした人だったのだ。
故郷にとってどういう人だったのだとかまで考える。
この辺は津浪で家をなくした人が多い、それから移動したり何かで家が壊されて更地になった所もふえた。そして次々と家が建っているのが現実である。
そういう変化の激しい地域になっている。
だから家がなくなったのはこの家だけではない、でもなぜかその家を意識するのは自分が毎日通るということにもあった。
その家に住んだ人について何も語り得ないことが空白になっいることがかえって余計に意識するようになっている不思議である。


●人間も生きている時は意識せず死んだ時意識する


人間でも生きている時は意識しない、死んだ時かえってその人を意識するようになる。
大原の斎藤茂延さんのことを忘れていたが死んだと聞いてまた意識した。より深く意識するようになった。一カ月ではなかった。実際二〇日間くらい一緒に病院にいて話を聞いただけだったが病院は閉鎖された特殊な異様な空間でありそれで親密になったということもあった。ただその前にその人のことを全く知らなかった。大原についても興味はなかった。だけどその人を通じて大原に関心を持つようになった。
そして死んだ時さらに関心をもつようになった。


あの人がここに生きて死んだ、この土地で農業していたからこの土地に愛着をもっていただろうな、それで跡継ぎがないとか廃屋が増えて村が廃れてくるとか何かそういうことに関心をもつ、そして山の中に田んぼなのか荒地になっているところを見たら先祖がさぞかし苦労して開墾した土地なのに捨てられる、放射能汚染地域でもう誰も耕さないのかとなると悲しいとなる。

それがちょうどその茂延さんの墓所のすぐ近くだったのである。

そして茂延さんは死んだのだけどまだ愛着ある大原に生きていると感じるのも不思議である。なんか大原の道を歩いているとひょいと出てきて逢うような気がするのも不思議である。これは都会に暮らしている人と違ってその土地と密着して生きた農家のような人たちはそうなる。死んだらその土地の先祖となりその土地の霊となる。山の神となるというのはそれは理屈ではなく日本人の自然な感覚だったのである。


●歴史にも記録の空白化がいくらでもある


いづれにしろ人間はどんな人でも死んだ時点で死んだ時その人を一時的でも意識する。
近くに住んでいた人は一回も話していないし名前もしらないし何をした人かもしらない、仙台から拾ってきたんだとか噂していた。でも三〇年も一緒にいたのである。
周りの人も何もしらない、一人だけ知っていた人はいるにはいた。
でもほとんどの人はその人について何も知らない、それで夫は金がなく市で始末してくれるだろう、無縁仏になると言っていた。でも最近籍に入れていたとすると墓に入れられたのである。でも貧乏だから母親の名前も墓誌に刻んでいないから何もできないのである。そういう人でもその人は何だったろうとなる。
それなりの人生があったのだろうと思う、すぐ隣にいても全く不明だったという不思議である。無縁仏になっていてもそれなりの人生はあったとのだろうとなる。
ただもう誰もわからないし知り得ようもないのだ。誰ももう聞こうともしない、これも全くの消失空白化になっているから気にかかるということもある。


歴史的にも歴史となると膨大な人々が生きているのだからいくらでもこうした記憶の空白化は起きている。人間は日々死んでいるのだから日々忘れられてゆくというのも現実である。相馬藩でなぜ溺死者七〇〇人としか四〇〇年前の慶長津浪のことが記されていないのか?これも謎であり歴史の空白化現象なのかもしれない、他に・・千軒とか街ごと消失した伝説が各地にある。多賀城にもあり横浜にもあり草戸千軒は有名である。
それらについてもただ・・・千軒があったということしか伝えられていない、だから本当にあったのかどうかさえわからないのだ。ただ草戸千軒の場合は最近発掘物で実際にあったとわかったのである。

相馬藩政記のことを時々紹介しているけど他のこと戦争のことや跡継ぎ問題などはことこまかに記録している。だから津浪で七〇〇人死んだということの記録が一行だけというのはやはり一つの歴史の空白を作り出していたのである。
津浪でも相馬市の奥まで津浪が来ていたと土を掘り下げてわかった。それは貞観津浪の砂だった。とにかく歴史となると長いからそうした記録の空白がいくらでもある。
 津波で神社のことが問題になったけど神社についても謂われもいつ建てられたのかもわからないのが多い。
建てたときはやはり何かしら建てる理由があり建てられたけどわからなくなってしまったのだ。
でも何らかの記念であったことは確かなのである。
津神社などは何かわからなくなっていた。それが津波の記念だったのかどうかなのもよくわからないのだ。
津波のあとの百年後とかにも建てられているからだ。
意味不明の神社が相当数ある。それも歴史の空白化現象なのである。

 
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カルマはめぐりめぐって返すことを要求される (誰でもカルマを背負わないものはいない)

 

カルマはめぐりめぐって返すことを要求される

(誰でもカルマを背負わないものはいない)

●自分がサイフを落とした時は必ず返ってきたから今度は拾って届けた


カルマについて家系の因縁とかを気にしている人は多いみたいだ。なんか今日サイフをめずらしく拾った。中味は千円しか入っていなかった。カードが十枚くらい入っていた。
保険証が入っていたから名前もわかっているしカードがあれば警察で名前が割り出される。本当は警察にゆくとめんどうだから届けたくなかった。
でもなぜ届けたかというと自分は田舎で暮らして十回くらいサイフを忘れているがもどってこないことはなかった。これだけは不思議だと思った。
サイフを盗られたという人がいたから田舎ではそんなことあるのかと疑問に思った。
田舎ではサイフだけは届けられる。サイフは普通あまり金が入っていなことが影響しているかもしれない、ただ一万でももちいたいという人もいるからわからない。
自分がカードをなくして困るのはキャッシュで金を下ろすカードである。
これはなくすとカード会社に連絡しないとならないからめんどうである。
三回以上そういう手続きをしたから嫌なのである。
それもすぐしないとまずいからめんどうである。

今回はそうして自分のサイフがいつも返ってきたから今度はサイフを拾ったので警察に届けた。前は仙台で落としたのも警察に届いた。あとから連絡が来た。日本ではサイフを落としても返ってくる割合が大きい。80パーセントくらい返ってくるだろう。名前が書いてあり住所が特定できれば警察から必ず連絡がくる。カードだけでも住所や名前も割り出せるようである。だから都会でも落としても警察に届けられると返ってくる割合も多いのかもしれない、忘れたところがスーバーだとスーバーやコンビニでもとっておいてくれて連絡がくる。だから仙台は遠いにしろ近くでサイフを落として返ってこないことはなかった。その点は安心だった。金よりハンコなどが入っていたときそれがなくなると本当にめんどうになる。全部貯金通帳を書き換えるようにさえなる。ハンコはなくすことがありめんどうである。サインだったらこんなめんどうなことはないのだ。


結局これもカルマだった。十回もなくしてサイフがもどってきたのだから自分も返さねばならないと思った。だから警察に届けた。つまりそれだけすでにカルマを積んでいたのである。だからどこかで返さねばならなくなっていたのだ。もちろんサイフも拾ったりして中味の金を使ったりしたら犯罪になるらしい。それで監視カメラからサイフを拾った人が犯罪者にされたというのも驚く。そんなことあるのか、どこで見ているかわからないというが監視カメラ見ていた。人間は生きている間に必ずこうしたサイフを落とすということでもカルマを積んでいるのだ。もちろん落とさなければそのカルマを意識はしない。
でも長い間生きていればそうしたカルマを積むのが人間なのである。


●カルマはどんな人でも積んでいる


カルマというのは人生をふりかえれば必ずそれぞれが積んでいる。自分の家は店屋でありスーバーがない前は繁盛していた。その時母は食事する暇もなく働いていた。どうしても食事中にお客さん来てたたなければならないからだ。それを子供の時から見ていて何でそんなにしてまで働かなければならないのかと嫌だった。
それが今母を介護しているけど必ず食事中に食べ物を運んだりするし料理もしているから食事の途中で必ずたたなければならない、だから何かゆっくりと食事できないのである。子育てしている母親もそういう経験をしている。
今になり自分は楽だったけど様々な災難に見舞われた。誰も助けるものもいなかった。
それもはカルマだと思うようになった。楽しすぎたことが今の苦しいカルマを作り出していたのである。そしてカルマは返すことが必ず要求されるのだ。

具体的にカルマはそれぞれの人生で違ったものとなるからわかりにくいが個々の人生を紐解けばそれぞれのカルマが明確に認識できるだろう。

まず人はどんな人でも必ずカルマを積んでいる
人は必ず誰かに親でも世話になっているし誰かの労働によって活かされてもいる
だからカルマなしで生きられる人はいないのである。
カルマはすでに意識しなくても背負わされたもの、チャージされたものなのだ
ただそれを感じなかったのは親であれ兄弟であれ他人であれ背負ってくれていたから
自らカルマを返さなくてもいいという面があった。
誰かがカルマを背負ってくれればカルマを背負わずにすんでいるということがあった。

親の世代とか祖父母の世代とかがカルマを背負ってくれて次代のものが楽をしているということがある。また逆に親や祖父母の世代のカルマが次の世代のカルマとなり苦しみを背負わされるということがある。それはこの辺の原発事故が次代のものに多大なカルマを背負わせたことでもわかる。放射能という毒は消えないということでそのカルマが大きすぎたのである。まだ結果はわからないにしろそういうカルマを今の時代の人が作り出して背負わせたのである。だからこのカルマを解消するにはとてつもない時間がかかる。
プルトニウムの毒が二万年消えないということがそれを証明している。


●金がたまりすぎるとカルマも返せなくなり悪となる危険


こういう大きなカルマもあるが個々人の人生でもカルマは負わされる。
今は格差社会だけどなぜこんなに貧乏な人がいてまた裕福な人もいるのかということがある。一万とかの金に苦労している人もいる。一方で一万とかはした金になっている人もいる。百万すら落としても平気な人もいるだろう。
億の金をもっていればそうなる。だから金に対する感覚は金持ちと貧乏人では相当に今は違う。でも金持ちも実はカルマを背負っていたのである。
貧乏な人がこれだけ増えているということは金持ちも安穏として金持ちではいられない、金を多くもっていることもカルマなのである。すでに多すぎる活用できない金はカルマになっているから返さねばならないとかなる。
こんなふうに意識する人は少ない、でも何らかそうした金は貧乏人に対してであれ社会にであれ返さねばならないものとなる。それを返さないと借りになり返還を要求されるだろう。


こうしてカルマを返さないとそれが社会の中で巨大な悪として膨張して成長してそれが社会自体に大きく影響するから怖いのである。徳州会などもその志は最初がよかった。それが政治にその巨額の金を使うようになって堕落した。つまり金がたまりすぎてそれを使う術が間違っていたのである。そうした巨額の金を社会に有効に使うとなるとすでに使いきれなくなる。だからカルマを積み金自体が巨大なカルマとなっているのだ。

カルト宗教団体でも会社でもあまりにも金が集まりすぎるともうその金を社会に有効に還元できなくなりかえって悪いものに使うようになる。東電なども3兆円とか巨額な資産がありそれがマスコミ対策とか天下り先の提供とかに使われたことでもわかる。金も一つのカルマなのである。

もちろん借金も明確に目に見えるカルマである。返しきれないほどの借金をしている人はすでにカルマのためにつぶれる。そのカルマは他人にも転嫁される。返しきれないからそうなる。そういうことを自分は経験している。病気の時も借金を要求される。さらに極端化してくると借金のために家族まで生命保険にかけて殺されるとまでなる。借金から起きる犯罪が一番多いように見えるからだ。借金は具体的に目に見えるカルマなのである。
まずそういうカルマを背負う人は見栄があり節約しない、金を使い自分は金がないということを見せない、成功者のように装うのである。でもそうしたみせけもいつか露呈する。その時はすでに返せないほどの借金になり他者にそのカルマをおしつける。それが犯罪までになるから怖いのである。


神々がシシューポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった

まさにこの石を絶え間なく運ぶことがカルマだった。このカルマは有益なことをしていないために課せられたのである。
この有益なことは実際は個々の人生ではわからない、でも有益なことをしないものはこの罰が課せられる
延々と石を持ち上げる作業を続けねばならない、まさにこれがカルマなのである。
自分もこうして料理して運ぶことをすでに六年間くらいしている。これもカルマだから逃れることができないのだ。
これまでは自由に旅もできた。いつ帰るかなど心配したこともない、今や六時ころまで帰らねばならないとか
近くにもゆっくり外出すらできないのだ。そして代わりを探したがしてくれる人はいない、金でも解決できない
結果的は大損害になった。家の中を他人に簡単にまかせることはできないからだ。
これも結局自分の人生で積んだカルマだったのであり返すことを要求されたのである。

2013年11月27日

原町市街から大原への地理的感覚 (原町は野馬原が中心に広がり大原に達していた)


原町市街から大原への地理的感覚

(原町は野馬原が中心に広がり大原に達していた)

●猿も日本では食べていた

東京は両国橋の猪鍋屋に行ったところ、その店には大きな猪が三頭ぶら下がっていたのだが、何といっしょに猿も吊り下げられていて「恨みを込め、いかにも悲しく死にましたという形相で、とても食う気にはなれなかった」(『古都』)と書いているのだ。えっ、いつのことかって? 昭和12年(1937)のことだ。猪も猿も食材だったのだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/huwawatanpopo2000/13506371.html

「猿の肉はとてもとても、たとえようのない程の美味だ。また、猿の頭の黒焼きは薬として珍重されていたものだった」。これは、昭和51年に亡くなった十和田の木村金吾氏の証言である。石川県の山村などでは「秋猿は嫁に食わすな」というらしい。近年まで非常に評価されていたことがわかる。

秋田県仙北の寺子屋のソロバンの稽古の教材で、「猿の皮30文、肉60文、頭10文、肋骨8文」というのが残っていた
http://diamond.jp/articles/-/3243

南相馬市の大原の斎藤さんが戦後猿を食べたというのは特別なことでもなかった。日本でも猿が食べられていたのだ。インドでは牛も猿も食べない、神聖な動物とされているからだ。仏教が伝わった日本では猿も食べていたし明治になって牛もすぐ食べた。ということは肉食にそれほど抵抗がなかったのかもしれない、日本ほど今や何でも食べる国はない、日本に食のタブーがなかったみたいだ。豚を食べないイスラム圏とかもあるが日本には何か食べていけないというタブーがない。
ソロバンの稽古で御破算で願いましては「猿の皮30文、肉60文、頭10文、肋骨8文」こんなこと子供に教えていたということ自体、日常的に猿は食べられていて川から頭まで利用されていた。

浜通りでも海側は魚介類がとれてそれでタンパク源が摂取できたが山になるとイノシシでも猿でも食べないとタンパク源がとれない、すると筋肉を強化できないから肉体労働に耐えられないともなる。山菜など食べても力はつかない、ソバでもそうだろう。
ともかく何らか昔の生活は栄養不足になっていた。脚気とか目が悪いとかみんな栄養不足のための病気だし他にも栄養不足の病気が多かったろう。

人間の健康はやはり根本的には栄養だからである。栄養がとれないことは致命的になる。どうしても医療も発達していないし医者などいない地域が多いから長生きする人は極わずかの選ばれた人だったのである。だからそうして長生きした人は村では尊ばれた。

大原という地域を地勢的にみると石神まで家が多い、紙漉きをしていた古い家に嫁いだ人を知っているから石神も古い地域である。ただ今石神というと長野辺りにも石神小学校があったり石神地域は広すぎるのである。そして家も多いし農家とは限らない、街のように広がっているのだ。原町区というのは浜街道の宿場町として発展した。

●原町の市街は広大な野馬原だった

でも野馬土手が今の市街地に広がっていて文字通り原っぱになっていた場所である。
現代で野馬土手とか牧がどこにも広大にあり馬が放し飼いにされている光景をリアルにとらえられなくなっている。北海道で競走馬を飼っているような風景である。
それはどこにでもあった。田んぼが今は広がっているが昔は馬を放つ牧が広がっていたのだ。だから馬というのは最も身近な動物だった。そういう絵を見たらわかった。
農家があり広い庭で作業して牧から家まで馬を連れてくる風景である。
実に広々とした風景なのである。だから原町の野馬土手もそういう広々とした風景だったのである。

つまり今の原町市街は野馬土手であり馬が放し飼いしてある広大な地域であり家がない、その回りの地域が石神でも高平でも農家でありそこに家が点在して田畑を作っていたのである。だから今とはまるで違った風景だからイメージしにくいのである。
相馬市は城があり城を中心にして発展したことはわかりやすいが原町は城もないし野馬原が真ん中にあったということでわかりにくいのである。

ともかく家の中にも馬が飼われていて曲家が残っているように馬とは親しいものだった。だから娘が馬と結婚した伝説もあってもおかしくないのである。
この辺では確かに野馬追いのために馬を飼っているが柵て囲っているか狭いのである。
野馬土手を作っているということは柵でもない、土手なのだから越えられないものとして作った。馬によって農作物が荒らされるから大規模な土手を作った。今の雲雀が原より何十倍も広さがあったのだろう。四方十キロもあった。そういう風景がイメージできないから過去に対して錯覚しているのだ。
いつもそうして放し飼いしている馬や家にいる馬を見ていたのである。

そういう馬の文化もほとんど忘れられてしまった。ただ野馬追いの時だけ思い出すのである。

おそらく田畑が今は広がっていたが牧がその半分くらいの地域を馬が放し飼いにされていた牧だった。そうでなければとても戦争をすることはできない、馬は戦国時代は軍馬であり農耕馬ではない、馬がそれだけ必要だったのである。野馬追いはもともと軍事訓練だったからである。これだけの土地が馬の放し飼いの牧としたらその回りを田畑にするほかない、その影響で深野と大原の方に開拓地が広がった。
原町の場合は平坦だから大原も原町の延長線にあった。原町自体が大原だったのである。その名残が大原に残っている。石神は野馬原の延長線にあっても家が多いから今は原という感じはない、

●原町は原の地名がやはり多い


北原、南原、東原、西原、北西原、原、・・・原町も原だけど原という一字だけの地名もある。それに比べて鹿島区とかに確かに橲原(じさばら)とか皆原とかある。でも町の回りには原のつく地名がない、原町は今の中心地帯市街地が原だった。太田の辺りも原地名はなく田畑である。原町の場合は相馬市と違い最も繁華な地帯が最も新しい地域になっている。相馬市は城下町だから城の延長として街が形成された。原町はもともと野馬原であり馬の放牧地としてあった。だから原という地名にふさわしい場所だともなる。


いづれにしろ大原というと桜井古墳からも遠いし原町は広いからかなり遠い場所になっていた。だから


新田川渡りて遠く大原や山に陽の没る秋の夕暮

大原にはや陽の没りて山かげる墓所の隠れて冬に参りぬ


こんな地勢を感じる場所である。この地勢の感覚はどうしても自転車でも走ってみて地理的感覚が身につくのである。


昔の山の暮らし(馬を飼う牧として利用されていた)
http://musubu2.sblo.jp/article/18181533.html


こんなことを書いていたのを忘れていた。人間は自分の書いたものを忘れるから時々前に書いたものを読んでおく必要がある。こんなことを自分が書いたのかと不思議になってしまう。飯館村でも葛尾(かつろう)村でも広大な牧があり馬がどこでも飼われていたのだ。

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 (渡辺崋山 「四州真景図 釜原」・・現在の鎌ヶ谷)

こういう広々とした原が牧であった。
posted by 老鶯 at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2013年11月28日

平泉の金色堂と京都の金閣の相違 (金色堂は意外とつまらないと感じるのか)


平泉の金色堂と京都の金閣の相違

(金色堂は意外とつまらないと感じるのか)

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永久の金閣の美


金閣の朝日に映えてまばゆしや
常磐木の松の緑の添えにつつ
水面に写るその影の夢ならじかな
朝の冷えしも千年の都に
塵はらいその姿永遠に保たむ

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三代の栄耀(えいよう)一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。まづ高館(たかだち)に登れば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣をすぐつてこの城にこもり、巧名一時の草むらとなる。「国破れて山河あり、城(じやう)春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍(はべ)りぬ。

 
 夏草やつはものどもが 夢の跡  卯の花に 兼房見ゆる 白毛(しらげ)かな    曾良

 
 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠(たま)のとびら風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽ちて、すでに頽廃空虚の草むらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆うて風雨をしのぐ。しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり
 
  五月雨の 降りのこしてや 光堂

光堂を奥州の雨露から守るためには、膨大な財政的負担がいる。ほぼ10年か20年に一度は、金箔の張り替えを繰り返さなければいけない。結局、政子死後、50年ほど過ぎてから、光堂を守るためには、これをすっぽりと覆うことが一番経済的という判断が下された。そして正応元年(1288)、現在の鞘堂が建立されたのである。本来であれば、金色堂は、金箔を張り替えながら、金色に輝く姿で、関山の中央に黄金の蓮のごとく、光り輝いているべきものかもしれない
http://www.st.rim.or.jp/~success/sayadou02_ye.html


金閣と平泉の金色堂は同じ金色でも相当に違っている。平泉の金色堂は鞘堂が残っているが覆堂というものに隠されていたのである。雨風にさらされていたら金色には保てない、いちいち金箔も張り替えるものもいなくなっていた。千年の都今日とではそういうことができた。金色堂が残ったのは覆堂や鞘堂があったからである。隠されて残っていたというのに魅力が生れた。だから芭蕉も良くのこっていたなとふりのこしてやの句ができた。
でも芭蕉が見たのも鞘堂に入っていたものだったのである。
だから平泉の金色堂は荘厳な内陣の装飾に魅力を感じるという人もいることはわかる。
そこにアフリカの象の牙まで使い贅をこらして作りあげた最高の工芸品だったということである。平泉の金色堂はやはり奥の細道のみちのくのわび、さびの風情なのである。
それは何か孤立しているそこだけが華麗な美を極めて残ったという感じがする。

一方京都の金閣は趣を異にしているのはそれがいつもあからさまに何も覆われず金色が映えていることにあった。だから日の光に映えるし前の池にも写っているし雪の金閣もすばらいし美を現している。四季の移りで金閣が美を極めて映えているのだ。
だからこの美に魅せられる人がいても当然である。

京都には金閣があれば銀閣があり秀吉の黄金の茶室があれば利休のわびさびの茶室がある。秀吉の黄金の茶室をいちがいに否定はできない、それもまた美でありそれと対象的に金閣の美がある。そこに千年の都の豊かさがある。平泉の金色堂にはそういうものがない、単体であり孤立している、金色でもそれが京都の金閣とは全く違ったものなのである。
やはり美というのは自然が根本的に作るのであり自然の背景がないと本当の美は生れない、金閣は自然に映えるということで魅了されているのだ。朝日にまばゆく輝く金色は鞘堂に覆われた中で輝く黄金の輝きとは違っている。
金の魅力はやはり色あせないものをもっている。ヨーロッパなどでは黄金は富の象徴であり美の象徴というものでもない、日本は黄金を美の象徴としたともいえる。


平泉が意外とつまらない、見るべきものがないという時、金色堂にしても単体であり七堂伽藍も消失したしただ柱の礎石のみか残っていた以前として廃墟の跡なのである。廃墟の魅力が平泉なのである。だから金色堂の輝きは確かに華やかさがあっても金閣とは違っている。確かに金閣のように自然の中に映えるようにしてあればまた違っていた。
朝日に輝く金色の色が見えることになるからだ。その相違は大きいということである。

だから金閣にしても自分でも訪ねたとしても一回くらいであり一日の時間の変化で季節の変化で見ていない、他の人たちも地元でない限り関西近辺でないとそんなに見れない、だから本当の美がわからない、自分はただ想像で今は詩を書いている。

また旅というのは旅する行程で違って見える。芭蕉は繁華な石巻を見て淋しい平泉に向かって行った。


十二日*、平和泉*と心ざし、あねはの松・緒だえの橋*など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘*の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」*とよみて奉たる金花山*、海上に見わたし*、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つヾけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし*。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はら*などよそめにみて、 遙なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩*と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。


不思議にこの行程は今でも一致している。石巻から石巻線は面白い、その駅の名前も・・・何かものさびている。


冬田の中の石巻線、短歌十首と詩
http://musubu2.sblo.jp/article/35518385.html


石巻線枯野のあわれ城あれや小牛田につきて平泉へゆく


湧谷には伊達藩の城があった。あの辺は何かもの淋し地帯である。
奈良時代に黄金がとれた地帯としても知られていた。

遙なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩*と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ

長沼というのは大きな沼だったのだろう、品井沼とか干拓した場所もある。・・もある。干拓される前だから日本では湿地帯が多く沼が多かったのである。海岸沿いでも沼とつく地名が多いのである。平泉までいたるにはそこに大きな野が原が田んぼが広がっていたのである。ただまだ田んぼではなく沼や野や原が多かったのだ。
そういう荒寥とした風景の中を平泉の金色堂にいたりその輝きを見たのである。
それはこのみちのくにこれほどの輝きを見た驚きがあった。
芭蕉が見たみちのくは荒野の風景だったからである。だから旅は新幹線で東京から二時間ちょっとだと来ても旅にはならないし金色堂の感動もないのである。


− 中尊寺の金色堂と鞘(さや)堂 −
http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi?mode=res&one=1&no=2972

2013年11月29日

原発避難者の帰還をはばむものは? (川内村や都路村は辺鄙な村で帰りたくなくなった)

 

原発避難者の帰還をはばむものは?

(川内村や都路村は辺鄙な村で帰りたくなくなった)

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NHKのクローズアップ現代で都路村が避難解除になるけど住民は帰らないという、その理由は何なのか?川内村でもそうだけどあの辺は相当に辺鄙な場所なのである。
川内村には行ったことないけど都路村はその地名の由来について書いたけど四方から道が通じて小さな盆地になっているような場所である。そこに350軒とか住んでいた。

都路村というと何か都というのをイメージするけど全然違ったものだった。
ただ名前だけ都路村であり華やかなのだけど実際の村は辺鄙な村であり家が集中してある場所は古道となっていた。あそこには何回か行ったけど大熊の方からかなり上ってゆく場であり郡山市からもかなり遠い場所である。買い物でも病院でも相当に不便な場所になる。なぜか都路村ということで浪江の高瀬川渓谷にゆくとこの山の向こう側が都路村だと意識したのである。でも都路村とはただ名前だけだったのである。


都路は山のかなたや久しくも訪ねゆかじも冬に入るかな


都路にはもう20年くらい行っていない、自転車でゆくとなると結構坂を上るから辛い場所である。あそこはただ名前故に覚えられる。人間は名前をまず意識する不思議があるのだ。電車の旅行でも駅名だけが記憶に残り地名に興味をもったのが自分だった。
最近読んだ中央公論の「壊死する地方都市」というなかに北海道の秘境だった雄冬のことが書いてあった。この名前も何か寒そうな感じて名前がいいのである。

ここはまず道路が通らず閉ざされた地域だった。だから海を舟で行き来していた。
日本には確かに山が多いから道を作ることは大変である。トンネルを作っても崩れてしまったとかトンネルを作る技術が日本で発達したというのもわかる。
日本という国は山か多いし坂や峠が多すぎるのだ。だから自転車旅行して歴史の紀行文を書いた人の本を読んでも日本は道を作るのが大変だった、だから海上交通の方が発達した。古代にはすでに日本海の秋田の方まで船で大和から進出している記録があるのもそのためである。その後も江戸時代にも北前船が活躍した。
また急な坂や峠が多いから車輪が発達しなかったというのもわかる。自転車の最大の難関は坂であり峠である。80キロもつづくような会津から栃木にぬける坂だってある。
だから自分は体力がないから坂では歩いていた。今は電動自転車でなんとか坂を越している。


雄冬では「小さい赤ん坊さ、熱出して、背中さおぶって山道越えて行って、赤ん坊がなかなくなったと思ったっけ背中で死んでたって、・・・

こんな話がのっている。辺鄙な所ではまずこうして死んだ人も多いだろう。それが道路ができて車社会になって助かるようになった。反面余計に過疎化したのは今度は車で遠くに行けるからそんな辺鄙な所を離れてゆく、便利なところに車で直結するから村はさびれてゆく、だからもう現代社会に日本には秘境はないというのは本当である。
この辺でも大原とか大葦などは秘境だったと書いたが今は幹線道路が福島市まで通っているからひっきりなしに車が通るからにぎやかな場所だとかえって思うのである。

結局原発事故や津浪で何か起こったのか?それはこうした辺鄙な限界集落のような所が壊滅的打撃を受けた。もともとこうした場所は生活自体が限界に達していた。便利なもきを求める現代では医者もいないし買い物も不便だとか不満が大きかったのである。
だから郡山市で買い物している女性がいたけど着るものを選んで楽しそうにしていた。
川内村でも郡山市に住んだら便利だから川内村に帰りたくなったというのもわかる。
そこに住んでいる外部の人もみん多額の補償金で働きもしない遊んで暮らしているからこんなところに棲むのは嫌になったと出て行った。

実際に大家族の人がいた。孫が三人とか7人くらいいたとしたら一人十万もらうと70万も一カ月もらう、都路村でそんな収入などありえようがないのだ。補償金をもらって便利の所で暮らしたいとなってしまう。生活するにももともと医者もいないような辺鄙な限界集落に近いのである。椎茸も作れないとかなると余計にそうである。売っても現金収入にもならない、そういうことはこの辺でも事情は違うが起きている。
南相馬市の小高区の八人家族の人が一人十万以上補償金をもらっている。その老人は毎日マグロのサシミを食べいると言っていた。金銭的にはほくほくだし便利な郡山で生活も楽だとなると帰りたくない、帰る理由もなくなる。

こういうことはここだけではない、津浪被害にあった辺鄙な零細な漁村にも起きていた。もうそこは跡継ぎもいない老人しかない漁村でありそれで特に岩手県の津浪の被害地で
官僚がそんなジジババしかいない所に金をつぎこんでもむだだという本音を言って批判された。このように津浪や原発事故はこうした限界集落的な所を壊滅させたのはその前からそういう状態にもあったのである。津浪や原発事故が致命傷にしたともなる。


南相馬市の原町区の大原のことを何回か書いたけどここもなぜか廃屋が目立つ、三軒は見たが最近また増えた。知り合った人は息子は市街で働いていて家には住んでいないでその人は猫と一緒に住んで猫のことを心配していたのである。息子は農業を継がない、大原は原町市街から一番離れた地域でも市街に車で行けるから都路村や大内村よりもいい、でも市街の方に住居を移す人はふえる。今は放射線量がそこは高いので老人しか住んでいない、鹿島にも大原の人が仮設に住んでいる。

津浪や原発事故はもともと過疎化した地域に最後の一撃を与えた。だから今回はもうそうした村々を人々は去り村は消失してしまう危機になっている。ここでは小高などは別にそうした過疎地域ではない、でも南相馬市でも山側の大原などはそういう地域だったのである。それは川内村や都路村とにていたのである。
posted by 老鶯 at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年11月30日

北海道の地名(思い出す旅の不思議)


北海道の地名(思い出す旅の不思議)

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北海道は十回行ったから思い出深い場所である。最初は電車の旅だった。それから自転車の旅に変わった。電車ではものたりないと思って自転車になった。それも40歳くらいになってからだった。若い時に自転車で旅できると思っていなかったのである。
旅も今になると思い出す旅になる。その思い出す時不思議なのは何か記憶に残っているかということである。何が思い出すのか?それがまた旅だったのである。

老人になると何でもそうだけど思い出すことが仕事になるのだ。
別に旅だけではない、それぞれの一生がありそれが何だったか思い出すことが生きることにさえなる。だから夫婦でも人生でもどういう人生を送ったかが必ず老人になると否応なく思い出さされるのである。嫌なことを忘れたいと言っても思い出すことがある。
罪なことも例え刑に服さなくても罪として意識される。


ただ旅を思い出すという時忘れるものが実に多い、どこに行ったのかもわからなくなる。電車の旅は電車は早く過ぎ去るから思い出しにくくなる。それで「雄冬」という地名が気にいった。何か簡潔で地から強いしまさに秘境にふさわしい名前だった。ただここには行っていない。でも名前から人間はまず記憶するということがある。これは北海道らしい名前だと思った。


記憶して思い出したのは函館線の「黒松内」という駅である。なぜかそこに長く止まっていたような記憶がある。そこはこの名の通り黒い森林地帯だからその名とあっている。
そういう街も見えない森林地帯が延々とつづいていたみたいだ。そういう場所が北海道にはある。

それからなぜか「和寒」という駅も思い出す、これは字の通りに何か寒い感じになるから不思議である。稚内線に入ってゆく線だからそれも不思議ではない、何かこの辺からそうした奥地に行くという感覚になっていた。ただ電車の旅は時間がたつと忘れやすい、どこをどう通ってどういう景色だったか思い出せない、ただ黒松内という駅名を記憶していたときあそこは確かに黒々とした森林地帯だったなと思い出した。何らか記憶に残っていたのだ。


北海道の地名にはアイヌ語の当て字だから変わっているしアイヌ語より漢字でイメージする。美瑛とかなると美しい場所だとイメージして本当にそういう場所だった。
和寒などもこれもアイヌ語であるかアイヌ語には何か簡単すぎて実用的で漢字のイメージとは違っている。むしろ地名はそうした無味乾燥なものが多いのだ。だから漢字の当て字にしたのは全く別なものなのである。

記憶をたどる時何かたどるべきものがないとたどれなくなる。それで地名がその一つの印として記憶する。名は体を現すで名前から人もイメージする。だから名前が大事になる。「雄冬」という名前はその名前と実体が一致しているのだ。いかにも寒そうだし力強いし簡潔なのである。岩内までは行ったがその奥だった。北海道は広いからとても回りきれない、バイクなどだと一応回ることはできるだろう。自転車だとできない、電車でも通らない所があるから行けない場所がかなりある。特に北海道は廃線になっているのが多い。

街には昔の駅が記念にあるのが多い。歯がぬけたように鉄道路線は消えているのだ。


夏の暮黒松内の駅暗し

和寒の名のみ覚えて冬の暮
北海道雄冬のありや冬に入る
 

冬鴎 (外部の人が働き地元の人が働かないことが問題の継続)


冬鴎

(外部の人が働き地元の人が働かないことが問題 の継続)

長々と町に留まる冬の雲
外部より働く人や冬鴎
ここに棲む老夫婦の顔冬菜かな
 

何望むここに動かず石のごと安らけくあれ冬の日さしぬ

一番星きらめきいでぬ方角を今日見につつ冬となるかな

the one first star
the big one
in the same direction
in winter

今年は仙台に行ったのはついに一回だけだった。電車か通じないとこれだけ外に出るのが億劫になる。介護のためもある。家事に追われ暇なく動いている。
今ここがこういう状態のとき、今までとは見方が変わる。
今までだったら別に一人二人働かなくても遊んでいても嫌でも何かとがめなかったろう。今はこの辺は違う。ボランティアが働いて地元の人がパチンコだとか遊んでいて働かないということで喧嘩になったことでもわかる

つまり外部の人が相当数入ってきている。その人たちが工事や建築関係で働いている。
地元の人は働いている人か少ない、特に仮設に入っている人は働いていない

もう三年にもなるからこうして補償金で遊び暮らすことは許されなくなるかもしれない

イワキでそのことで事件が起きた。嫌がらせが起きたことでもわかる。避難民は補償金で優遇されて働かない、働いている人は地元の人である。ただ酒飲んでパチンコして札びらをきっている。俺たちはたた働かせられている。そういう不満が避難民に対して大きくなったことはわかる。もちろん避難民にも言い分がある。簡単に仕事を見つけられないしできないとかろうじんか多いから仕事などできないということもある。
ただ前から田舎では生活保護とかは目立つから受けにくい、なんであいつは俺たちの金で働きもしないで遊んでいるのたとなる。そういう人を知っている。そういう人は田舎では目立つから何であいつは働かないんだとなる。都会だったら目だたないからわからないから楽である。


こういう状態になったとき、今までとは違う状況が生れた。復興事業で働いているのは外部からきた人たちでありほランティアであり地元の人は少ない、すると外部の人たちから見ると何で働かず遊んでいて俺たちが働く必要があるんだとなる。金をもらっていてもそうなる。金があるから何でもできるというわけではない事情がこの辺では生れたのである。
ただ外部の人が入ってきて事件も起きている。若い女性はレイプされるから気をつけろとか噂になった。どうしても外部の人がこれだけ入ってくると治安は悪くなる。


ただ最近この辺では畑を作りはじめたのが目立つ、だから結構地元の野菜でも出回っているだろう。畑というのは自分も作っている人を知っているが小さな畑でも結構とれるのである。だからたいしたとれないと外から見えても結構とれるものだと思った。
これはいい傾向だろう。それも一つの復興である。放射能汚染していてもやはり外部からばかり買って食べていることはつづかない、特に農家の人は自分で作っていたのだから悔しがっていた。

30キロ圏内で米を作りはじめたところもあった。田畑が前のように作られれば復興が目に見える。

今は冬菜の時期というとき、農家で年老いたふ死んでもそれが冬菜のような顔になる。
この冬菜も去年あたりはあまり見えなかった。今年は明らかに増えていることは確かである。

ただ60代過ぎてくるとあまり動きたくなる。何か動かないでいることに幸せさえ感じる。だからそういう住みなれたところから避難させられた老人は過酷だと思った。

そもそももし避難民が住めなくなったら補償金がいくら高くてもわりにあわない、一億円でも土地を求めて家を建てると5千万とかなるしそのあとどうして生活するのかとなると
仕事があるのかとなるとむずかしい、農家でも少なくて土地があったらこれも補助金がでていたからやれた。では土地もなくなってどうして農家の人は生活するのだろうとかなる。金があってもいづれはなくなるからだ。
避難民でもアフガニスタンの避難民に同調して訪ねたとかシリアの避難民を見たら雲泥の差がある。
食うや食わずであり補償金などもゼロである。今日食べられればいいという悲惨な状態である。
200百万人も避難民になるということか信じられない、人間の社会にはそういうこともあることなのだ。
だからなんであれ国がなくなるような国があんな悲惨な状態になることはさけねばならぬ。
だから明治維新も最小限の内戦でくいとめたことはやはり日本はそういう国の和を作るものが
歴史的に作られていたのだろう。それが天皇というのではなく日本の文化だったのである。

だから今はいいにしてもあと十年とかするとこの辺は外部の人も去り補償金もつづかずかなり困窮する人たちが増えてくるだろう。
何か生産してもそれが売れないということもある。


ただ働く場所、会社かあればそれなりの生活は今はできるようになっているのかもしれない、でもやはり衰退してゆく都市になるだろう。
それはここだけではない、全国で人口減少でそうなってゆく、田舎の仕事が福祉関係の医療とか介護で若い人が働いているがそれすら30年後とか激減するという
そういう場所すら働く場所がなくなる。すると今は看護師でも医者でも介護関係も人手不足で困っているが今度は逆に患者がいない、介護する老人がいないと騒ぐようになるのも不思議な現象である。
老人なんかいらない、無駄だ、税金の無駄使いだと盛んに言われたがもっと老人や患者がいたら俺たちの仕事もあったのになとかなったらこれも世の中の変わり用に驚くとなる。長い目で見ればそんなことをくりかえしてきたのが人間なのだろう。
決して同じ状態は何でもつづかないのである。
いいと思ったことが悪くなり悪いと思ったことがいいことだったと思ったことが悪いことになっているのだ。そういう変化の繰り返しなのである。


最近一番星が同じ方角にでる。冬だから星が強く光る。日本はしめっているから星があまり輝かないので星の文化が希薄である。方角でも星にあまり注意しない、外国では星に注意している。星がいつもはっきり見える、乾燥しているし空が広く見えるからそうなる。星座の文化ができたのもそうである。外国の文化を知ればいかに星と密接な関係にあったかわかる。野馬追いの妙見信仰も北斗七星であり北極星信仰であり方角を知るためだった。

年取ると動かないことが幸せなことになる。動くことは安定しない、不安になる。
だから定住して動かない場所が老人には必要なのである。それが奪われたことは意外と避難民にとって老人の方が辛いとなることがわかるのだ。