2013年11月16日

今日は冬満月(今年は秋が短く本格的な冬になってしまった)


今日は冬満月

(今年は秋が短く本格的な冬になってしまった)

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一壺に秋の彩り豊かかな

赤き実に紫式部や平安の世
同じ道冬の日さして枯木かな
墓のあり欅の幹に冬日かな
冬晴れや一軒の家建つひびきかな
流る水冬満月を写すかな

冬の日や仮設に盆栽の手入れかな

冬の月雲ににじみて光るかな誰か棲みなむ籠もる家かも

鍋物を我が手に作りあたたかき母に与えしも食べず淋しき

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フラワーアレンジはただいろいろなものを挿すことである。それが基本でありそうしてそれぞれの花を映えさせることが基本である。だからあまりテクニックは必要ないかもしれない、ただ花は今の時期は秋となり限られている。それで最近忙しくてしていなかった。別に野の花をさしても生け花でありもともと花を買ってさしてたりしていないだろう。

紫式部という源氏物語の作者がいた。それは平安時代だった。現代は奈良時代の唐風文化を取り入れた奈良時代から平安時代のかなを発明した平安時代になりつつある。

明治時代は欧風化であり戦後はアメリカ化でありグローバル化であったがそれも一応体験した。だから次はそれを消化して新たな国風文化の創造の時代になるのだ。
安土桃山時代も欧米化とにていた。その後は鎖国で国風文化の時代に還ったのである。
日本の歴史にはそうした循環がある。


何か最近相馬市から原町を行き来している二両の電車のような生活である。相馬市にすら最近一カ月も行っていない、今年は仙台に4月ころ一回行っただけである。
人間はだんだん年取ると行動範囲が狭くなる。だからほとんど近間の同じ道をめぐっているだけである。でもそこに同じ枯木があり冬日がさしている。そんななんでもないことが俳句になっている。ということはそういう平凡な日常が何か愛おしいものになっているのだ。

欅の木が固い感じがして冬の日にあっている。そこには自分の家の墓がある。

今日は近くで烏の人の家の建前だった。その柱を叩く音が冬晴れの空にひびいた。
ただ電動ノコギリの音が必ずしているから嫌だが一日で骨組みはできた。
あとは組み立てるだけだからうるさいといっても期間が短い、自分の家は三カ月もかかった。今は組み立てるだけだから一週間くらいでできる。
そういう建て方は効率的であり数をこなせる。人手がそんなにかからないからだ。
大工など人手不足だけどそういう点では改善されている。
働く人が少なくて働かない人が実質三分の一以上いるということはこうして人手を省いているからである。


今日は冬満月がでている。流れる水に写っていた。流れる水というのが写生なのである。写真でとったら肉眼で見たのとはまた違っていた。こんなふうには肉眼で見えないのである。流れる水が銀色に見える。このカメラは買ってよかった。


鍋物を作った、これは一人用の簡単なものだった。汁だけが小さなもので入れてあとは野菜と肉などを入れればよい、これは便利だと思った。一人だと汁が多すぎるのだ。
今は料理することではない、便利なものを買うことなのである。その買うものを知ることがなかなかできないのである。
鍋物を作っても一緒に食べる人もいない、介護している母はほとんど食べないから張り合いがない、料理も作ってみれば誰かうまいとかいって食べてくれれば張り合いがある。
これは主婦や母親などが思っていたことである。それを自ら経験しているのだ。

なにかを与えることは人間として経験すべきである。結局何も与えないものは何も得られないからだ。ただ家事全般をしていると忙しいのである。時々疲れもする。
でも機械と買ってやっているからなんとかやれるのである。

今年は本当に秋が終わり秋が短かった。だから秋深しという感覚がなかった。何か季節感も狂ってしまったのだ。
 

2013年11月17日

海の紋様(続編)(抽象画) (抽象画は抽象画から変化加工されやすい)



海の紋様(続編)(抽象画)

(抽象画は抽象画から変化加工されやすい)

中国ー抽象画
http://www.alibaba.co.jp/product/100440566.htm?inid=ms_dpv_rcmlnk7

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光る海虫

オリジナルからの加工(万華鏡)


海中花

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海に開く窓-海辺の都市


抽象画は最近忙しくてやれなかった。抽象画は自分で作るのではなくインターネットの中にいいオリジナルなものがあるできやすい、ここはまさに海の抽象画だった。
つまり抽象画からは抽象画ができやすいのである。
最初のものは著作権に違反しているだろう。
ただどこから加工したかを知らせるためにアップした。

その次の自分の加工したものは何をオリジナルにしたかもうわからない
とするとこれはもう著作権は問われないだろう。
それは自分の感性によるものだから自分の独創であり著作権が発生する

たださらに自分の抽象画を加工して全くわからなくななればそれも創作である
抽象画は具象画と違ってもう誰の作品かわかりにくくなるのが特徴なのだ。
変化加工されやすいからである。

海の紋様は前もテーマにしてアップしていた。
海の花模様が偶然に見えたのである。

山と蝶(抽象画)

 

山と蝶(抽象画)

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蝶の まぐあい

こういうふうにオスとメスが結合しているのを実際に見ている。
ただこれも偶然になっていたのである。


 

上の絵から万華鏡で蝶の絵ができるというのも信じられない
抽象画が何がでてくるかわからないということである。
これは何だろうという時やはり何か自然や現にあるものをイメージしている
前は海や花だったけど今度と山と蝶だった。
やはり抽象画といっても具象から人間は離れられない
なぜならすべての芸術の源は自然にあるのだから具象から離れられないのである。

2013年11月18日

文化は多様性 (一様になると滅びる-グローバル化で日本は自国の米さえ作れなくなる)

 

 文化は多様性


(一様になると滅びる-グローバル化で日本は自国の米さえ作れなくなる)

この辺は津浪や原発事故以後、田んぼは荒れ地になり畑をしている人も少ない、田んぼが稲が刈られて落ち穂などが雀の食料になっていた。だから田んぼない稲田がないということで雀などが減っていると思っていたがそうでもなかった。畑を作っている人が雀が野菜の芽を食べて困るとか言っていた。雀は虫も食べるという,雑食性である。
ある時蝶を襲い食べていた。雀も結構獰猛なんだと見た。ただ不思議なのは一体鳥でも何を食べて生きているのか見えない、虫を食べているにして虫というのは見えにくいからわからない、田んぼや畑がなくても虫が減るということはなかったのかもしれない、烏も雑食性であり減った感じがしない、蛙はほとんどいないから鷺は見えない、ただ湿地帯化したところに時々来る。ネズミが原野化すると増えたというけどネズミも見えない、ただ一時台所にネズミが入ってきて恐怖だった。この頃ネズミは来ないから安心した。
そしてノスリが五羽くらい住み着いたのはネズミを餌にしているからだという。ただ原野化した草原でネズミは見えないからいるのかいないのかわからないのだ。
ただ雑食性のものは生き延びやすいように見える。熊なんか大型なのに生き残っているのは山を住処として雑食性だからだろう。雑食性ということは肉食であっても肉がなかったら植物性の木の実を食べる、この逆も成り立つ、そうすれば飢饉の時でも生き延びられる。

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これは人間も同じだった。ペルーとかでもトウモロコシもジャガイモにもいろいろ種類がある。標高差によって種類を分けて植えている。寒いのに強いものや乾燥に強いものや虫に強いものとかいろいろである。寒暖の差や雨期と乾季に分かれているから余計にそうなる。天候の変化に適応した品種を作る。これも多様な種類の食料があってその土地で生きられることを証明している。それは長年の生活の知恵で生れたのである。人間はもともとこうしてあらゆる地域で自然にその風土に適応して生きてきた。世界中の原住民の生活はだから多様なのである。それはその土地のものを食べてり利用して生きる持久自足が原則だと自然とそうなるのである。日本だって江戸時代から戦後十年くらいまでそうして暮らしていたのである。燃料は炭であり江戸時代の延長になっていた。だからこれほど世界中の食べ物を集めているということは二千年もなかったことなのである。
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地球千年紀行-原住民の知恵に学ぶーBSーTBS


グローバル化というのは別に今の国際化でなくても江戸時代の鎖国の中で起こった。東北地方は米を作ったのは江戸に売るためであり商品作物として作っていた。特に伊達政宗の時代がそうだった。石巻から大量の米が船で江戸に運ばれて売られていた。大規模な干拓が行われた仙台平野は今回も津浪で大被害を受けた。津浪の後も米作りしたのは商品として江戸に売るためだったのである。だから東北ではそもそも寒いから米作りに向いていなかった。それをあえてそうした結果、米が不作の時飢饉になったということもある。これはアフリカ辺りでも商品作物のコーヒばかり作っていたら地元での多様な食料がとれなくなり飢饉になったとかの報告もある。江戸時代にもすでに国内でそうしたグローバル化があったのである。だから一つの作物だけに依存することは何か天候の異変や想定外のことなどか起きた時対処できずに滅亡するということがある。

動物でも雑食性はいいが単一のものを食べているものは死滅するかもしれない、適応能力が低いということである。

だからグローバル化経済は危険なものをはらんでいる。TPPでも非常に危険なものがある。日本人は車とかカメラだけを作って食料は作らなくてもいいとかされたらその時日本は滅亡してしまうだろう。でも今やそういうことが現実化しているから怖いのである。
農協など既得権で都会のサラリーマンの税金をむしりとられるだけだとか言われる。

都会中心で田舎は経済的に無駄だから消滅しろとか言われる。でも一千万の東京とかは異変に対して弱いのである。地震であれ津浪であれ自然災害でも弱いし例えば他国に攻撃されたときも一たまもんりもなく破壊されて滅亡する。ベトナム人がアメリカの戦争で戦いぬいたのはタロイモなどを地下に逃れ食料にしていたことがあった。食料がなければあんなゲリラ戦争かてきないのである。逆にそうして自国でも地元での食料があればゲリラでも抵抗できるいうことである。文明というのは便利すぎて一面の便利さが大きな危険をはらんでいる。それが津浪や原発事故でわかったのである。
車があってもガソリンがないと車は何の用もなさない、水道が壊れて使えなくなる、電気もこないところもあった。それで薪や山の清水をくんでしのいだ地域もあった。
グローバル化した文明は何かの自然でも人為的なものでも異変にもろいのである。
多様的な時給自足的なものが基盤にないと危機のさいには一挙に崩壊滅亡する危険にさらされているのた。


だからこの辺では米も作らない畑も作らない、魚もとることができない・・・こんな状態になったときいくら補償金をもらってもそうした生産に従事していた人たちは不安になっている。金がいくらあっても不安なのである。なぜなら紙幣は紙切れになる可能性がある。その時外からも食料が入らないとなる時、飢饉になりそれはもう日本陣か死に絶えるというほどまでになるかもしれない、それが平然としていられるのは危機を知らないからである。津浪でも海岸に接していた村の人たちは何ら危機感もなく平然としていたと同じである。なぜあんなところに住んでいたのだど今だから盛んに言われけど東京でも大災害になったらなぜそんな危険な都市に住んでいたのだと言われるのである。高層ビルが崩壊しない保証はこにもないのである。


グローバル化経済というのは何かいい面だけを語られるかそこには地域の文化を破壊する危険なものがひそんでいた。もちろん外国の貿易とかすべて否定するとかではない、多様性を維持しつつそうした貿易も行うということである。極端にグローバル化したら日本人は車だけ作っていろとかカメラだけ作っていろとなってしまうからである。米は広大なアメリカ大陸がオーストラリア大陸が向いているとかなるからである。そんなことしたらどうなるのか?危機の時は自国に食料がなく他国に容易に支配されてしまうということである。日本は確実にさらにアメリカの本当に奴隷と化してゆくのである。アメリカのグローバル金瘡資本主義も異常である。アメリカの投資信託の会社は200兆の金を保有しているという、野村證券でさえ10兆くらいだとするとその金は桁外れてありそんな金を一体世界でどう使うのだろうとなる。それこそその金でもって世界を買うということにもなる。
日本もアメリカに買われるということになるのだ。
だからアメリカではそうした国々の文化う否定してグローバル化した多国籍企業の世界支配を企んでいるのである。多国籍企業にすれば日本人は米は作るなアメリカやオーストラリアの米を食べろということになるのだ。そして地獄の食料がないのだからアメリカの意向にはますます逆らえないものになるのである。それはアメリカの新たな日本支配の戦略なのてある。


あとがき

TBSを利用したけどこれも現代では知の応用でありある程度引用が許されないと人類の知は発展しないだろう。
映像でもそうだけど創造に発展するものは利用してもいいとならないと時代にそぐわないだろう。
テレビを見てそれがまた視聴者が反応してインターネットにアップするというのが現代のメデアなのである。

2013年11月19日

南相馬市原町区大原の斉藤茂延(しげのぶ)さん死亡 (南相馬市立病院で同室の人の思い出)


南相馬市原町区大原の斉藤茂延(しげのぶ)さん死亡

(南相馬市立病院で同室の人の思い出)

今日仮設の食堂で聞いた。あそこは大原の人がやっているということて聞いた。そしたらそこに大原出身の人がいた。斉藤さんのことを聞いたら死んだと聞いてびっくりした。
そしてその時のプログに書いたことを読み直した。病院でもプログを何回か書いてアップした。自分はその時、腎不全で緊急入院して一カ月いた。本当は二週間で退院だったか
風邪をひき四〇度の熱をだして三日寝込んだ結果、二週間退院が遅れてその時、話できたのは大原の斉藤さんだけだった。斉藤さんも最初は喉を切っていて話できなかった。
その状態をプログに書いてあった。



同室の人は最近きたのだけど息するのに苦しいし呼吸困難の様になっていた。ぜーぜーとなりそのたびに看護師を呼んでいたし看護師が絶え間なく世話していた。しゃべることが全くできなかった。よほどの重態だとみていた。ただ体はそれなりにうごいてはいた。でも今日耳鼻科で診てもらったら普通に話す様になったのには驚いた。そして今までのように苦しい状態が6カ月もつづいていたという。そんなに長く入院していたのである。それが突然耳鼻科に診てもらったらしゃべれるようになったのだから奇跡的である。自分でも突然こんなに良くなるのが信じられない、そんなに突然なおることがあることの不思議である。草刈りしていて倒れた。腸捻転になりばい菌にやられ敗血症になった。敗血症は全身がやられる危険な病気である。実際は死線をさまよってたのである。突然よくなったのではない、6カ月間治療して良くなったのである。

その人は原町の大原の人で農家の人だった。家の人がきて話していた。これまで田畑をやていたがもうやれない、草刈りもやれないと・・・・
際はだめだ、猿から猪からハクビシンから狸から農作物が食い荒らされる、猿は柿を食う、頭がいいから種をだしてくようになったとか豆の束をもっていったとか、猪もでてくる。
猪を捕らえて殺して街に売ったら警察につかまったという、鳥獣は許可がないと殺すことはできないからやっかいである。この問題はすでに人間が稲作を田を作り始めたときから始まった。縄文時代は共生していたのである。田を稲を猪が荒らすようになったとき問題が生まれたのである。稲作は自然の破壊でもあった。今でも稲作は農薬やそのほか自然破壊になっているがすでに田を作り始めたときからそうなっていたのである。


大原というとき前にも書いた。病室の窓から大原の辺りが見えるのだ。その大原の人が同じ部屋にいた
のである。それも今日六カ月間しゃべれない人がしゃべりわかったのである。


原町の病室に見ゆともる灯は大原辺り秋の夕暮


まさにこの歌のとうりに大原の人が同室にいたという不思議があった。病室では病気で親しくなりやすいからこうした話しを聞きやすいのである。



これがそのプログに書いてあった記録である。奇跡的にしゃべれるようになって話すことができた。そこで話できたのは斉藤さん一人だけだった。もう一人は重体であり浪江の人だったがその人はしゃべることも何もできない、ただやっと手をあげて妻が介護にきたときだけ手をにぎりあとは起きることもできない人だった。
だから斉藤さんとだけ話していたのである。
ちょうど三階であり南相馬市立病院はながめがよく見晴らしが良く海の方と山の方の大原の辺りが見えたのである。だから暇だから毎日その外の景色を見ていたのである。海には船が行くのが見えた。山側が暮れて秋の夕焼けに染まり写真にとった。

病院の一カ月は実に長い、病院から出れないから長いのである。だからそこに一緒にいたことは長く感じたのである。自分は病気といっても食欲はあったしどこが悪いとも感じられなかった。ただ10キロはやせていたからそれなりに悪かったのだろう。
ただ悪いと自分で感じたのは風邪をひいて40度の年を三日間だしたことであった。
その時は誰もみてもらうものもなく恐怖だった。
その時の看護師のことを覚えている。それは津浪が来る半年前のことだったのである。
それから津浪がきて原発事故になり大変な騒動になり病院も閉鎖のような状態になった。


大原に猿の出てきて柿を食い鳩は種食い秋深まりぬ

イノシシのマムシを食うと山に住む人の語りて秋深むかも
原町の病室に見ゆともる灯は大原辺り秋の夕暮
大原に昔の暮し薪を積み干し柿作り冬支度かな
大原に事故に自殺に二人死すこの世の苦ここにもあるかな
大病に大原の人生きながらふ病院に我と語りて親しも
原町や大原の方に緑濃く秋の朝の日さして明けゆく
いくたびか秋の夕焼け大原の人と見にけり病院に暮る
大原に住む農家の人ともに病室に過ごす秋の夕暮
大原に住み仕事をやめると後を心配する農家の人
大原を望みそこに住む人の秋の日晴れて病癒え帰る
大原に住む人猫を心配す病院に長く秋深まりぬ
素朴なる人の住みにき何伝ゆあとふりかえる冬のくれかな
退院の日を待ちわびて原町のともる灯見つつ秋も深まる
退院し空となるベッド看護師の何か思うや秋の夕暮



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自分は退院して斉藤さんも退院する予定になっていた。大原には猫と暮らしていて猫を心配していた。ただ街内には息子もいるし近くに娘もいたから病気でも住めたのだろう。
でもその後大原は放射線量が思った以上高く若い人はた流出して老人だけが残ったと聞いた。
ともかく斉藤さんとは病院でともに過ごしたから思い出となった。
たからまた大原をたずねて斉藤さんを偲ぶことちしよう。
大原はすでに三軒か廃屋になっているのいるのを見ている。
農業は跡継ぎがないとかいろいろ問題がありそのことを語っていた。

ともかく大原に長年暮らし住んでいた人が死んだということはやはり偲ぶことになる。
斉藤家は古い家だったとか他にも斉藤姓はある。斉藤家の本家がどこなのか分家なのかもしれない、前田という地域は古いだろう。
郷土史もそうしてある土地に長く土着的に住んで生きた人のことを語ることである。
そういう家や人はその土地と一体化しているから余計にそうなるのである。


病院にともにありし大原の人の死にしとあわれ冬のくれかな

 

小春日(ようやく晴れの日がつづく)


小春日(ようやく晴れの日がつづく)


冬の日や白髭のライダー走り去る

小春日や蝶三羽ほど集まりぬ
鳶回る大工の屋根に身の軽し


今年の陽気は変である。晩秋とか秋深しとかの感覚がなく冬になった。最近は晴れた日がつづいているから小春日なのだろう。何か普通よりあたたかく感じる。つまり何か晩秋と冬が一緒になった感覚なのである。

白髭のライダーが走り去った。高齢化でこういう人が見える。映画で80歳のライダーが出演する時代である。80歳となると結構バイクは危険であり乗れるのかとなるがそれも時代である。自分もそうだが自転車にのっていると死ぬまで乗り続けたいしあの世でも自転車に乗っていたいとなる。人間はそういうものであり今まで楽しんできたことを年取ったからと簡単にやめられないである。それはあらゆることに言えるのだ。今は隠居などという感覚はないたろう。何かやり残したことをもっとやってみたいという感覚になる。

ただ自分はあまり動きたくない、じっとして過去を回想しているのが何かかえって充実感を覚えるのも不思議である。こういう感覚は若い時は絶対にもちえない、過去を回想することは至福のようになる。

鳶が飛んで新築の屋根に大工が軽やかに仕事している。縁を歩むので危険だなと思う。
鳶職とは鳶のようにまさに飛んで軽やかなことだった。何で鳶職かと思ったけど鳶が飛んで屋根に大工さんが軽やかに歩いていることでわかったのである。
鳶は冬の季語でもあった。

まず人間はいろいろなことを一つの言葉でもその由来を理解することがむずかしい。
自分一人の体験は限られているから余計にわかりにくいのだ。



冬の蜂についてコメントがあったので返答した。


冬の蜂衰えずさす痛きかな

冬の蜂なお衰えず我をさす

冬の蜂というとき自分もさされた写真をだしたけどその痛さが記憶されている。
冬の蜂はろう老人でもあるのだろう。

老人も衰えてもやはり刺してくる。

コメントがあってので今回は答えた、書く方が忙しくてコメントを書く余裕がない
 

密林の花(抽象画)

 

密林の花(抽象画)

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これができるまでの過程はどうなっていたか?
結局加工の積み重ねでありそれをしているのは機械のソフトの操作だとなる
人間はそれをただ名付け判定する。
機械は絶対にこの絵を作ってもこれが密林だとは見ないし名付けることもできない
人間だけが結局価値判断ができる
機械は作ったとしても価値判断はできない
人間だけが価値を知るのである。価値を見つけ価値づけできるのだ。
自然でもそうなのである。
自然の美は自然自身が意識していない
人間が自然を価値づけて価値あらしめているのだ
すべての価値を決めるのは人間なのである。
だから抽象画でもこれは価値が決めにくい
こんなものなんなんだくだらないで終わるのか多いだろう
でも見る人があってこれは何に見えるとかすばらしいと思えば価値あるものとなる
抽象画は特にそうなたやすいのである。

2013年11月20日

川子の冬の森の倒木(詩) (森は一つの命)


川子の冬の森の倒木(詩)

(森は一つの命)

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この家の枯木二本変わらじや冬の日さして我がまた通る
川子なる墓所に冬の日さしにつつここに眠れる人のよしかも
倒木の一木ここになほ死なじ冬の日さして森の暮れなむ
倒木の森に朽ちゆく落葉踏み土に還れる命なるかな
道なきし森と思ふに道のあり落葉を踏みてたどりけるかな
森の中耳を澄ませば残る虫鳴く声かすか日も暮れむとす

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倒木の詩


倒木は今日もここにある
倒木はなほも森の中にある
倒木は死んだわけではない
倒木は風の音を聞いて眠っている
倒木はまだ生きている
倒木は久しく森を支えていた
しかし寿命が尽きて倒れて
嵐に倒された倒木もある
それでも森は一つである
倒木はやがて森の命に還る
森の土となり栄養分となる
冬の日がさし落葉を踏み歩む
木の葉が散り積る落葉も
かすかに虫の鳴く声聞こえ
森は静かに暮れてゆく
我が落葉を踏みて森は鎮まる
森に無益なものはないだろう
倒木は朽ちて土になり
森をまた支えて命は循環する



川子の高台の墓所は場所がいい、いつも日があたりあそこに眠っている人は安らかだとも思う。海老は墓地だけ残ったけどあそこも海が見えるのだから場所としては良かった。
ただ津浪で村が流されてなくなったから悲劇だった。
墓に興味があるとやはり場所が問題になる。都会のようなごみごみした所は場所としてよくない。田舎は場所がいい、でも津浪で墓地自体が流されたのは悲劇だった。
電動自転車だからあそこの坂を上ると廃棄物処理場になるが森がありあごむ場所である。近くに森があればなごむ。そこは原町に買い物にゆく時も通るから通り道に自然があると気持ちいい、最近はほとんど近間しか行っていない、あそこは暑い時も木陰が長いから気持がいいのだ。

あそこの森は広くはないけど一応森ではある。樹々にしてもそれほどいい樹はない、でも森が近くにあることは自然があることはなごむのである。仙台辺りだともう近くに自然はなくなる。今は行動範囲が狭くなっているから余計に自然が近くにないと親しめない。
老人になると何か行動範囲が本当に狭くなるのだ。車をもっていないと余計にそうなる。自転車だと疲れるからなかなか遠くに行くのがむずかしくなるからだ。


森は一つの命である。だから倒木でも死んだわけではない、まるで介護している百歳にもなる母ともにている。耳が遠くしゃべることもほとんどできない、聞き取ることができなくてもなお生きている。人間もやがて死んで大きな自然の中に土に還るというのがいい死に方なのだろう。本来人間はそうだったのである。土に還るというのは自然な死生観である。今はどこもコンクリートにしきつめられているとすると土に還る感覚もなくなる。
だから飯館辺りでも都会の団地辺りに住んだら相当な違和感を覚えるだろう。
確かに便利でいいともなるが反面何か失ったものの大きさを感じるだろう。
その感覚はそこに生きたものではないとわからないだろう。


この辺では放射能の森になっていてセシウムが森を循環して消えないというのも悲劇である。森を除染することは不可能に近いだろう。ただこの辺はそれほど放射能は高くない。飯館は森は相当に高い、自然とともに生きるなどとこの辺では他からも入ってきていたが原発事故でそれも失われた。
原発事故があっても「自然とともに生きる」という感覚だったのである。
原発に対する認識がたりなすぎたのである。原発は煙もでないから温暖化にはいいとなって推進もされていたのである。
原発でも森の命のように循環しないものだった。一つの命となりえないものだった。

放射性物質という毒をもたらしその毒は消えないのである。
ただ外見では放射能の怖さはわからない、それもまた怖いということなのか?
放射能は人間の感覚で感知できないからかえって怖いということもある。
自然界で処理できない毒を作るものなど作るべきではなかった。
ただ原発がこの辺の産業となり金になるから悪いことを聞かない、問うこともなされなかった。


ともかく人間は最後倒木のように眠り土に還り森に還るのが自然である。
ただ死ぬ時は病院で死にたくない、延命治療で地獄の苦しみを受ける。
医者が地獄の獄卒のようにもその時見える。苦しむのをながめているからだ。
看護師もそうである。そうなったら安楽死の方がいいだろう。
自然な死をかなえてやることが高齢化社会では必要である。

2013年11月21日

飯館村の木材をめぐる争いの原因は何だったのか (入会権が戦国時代の戦争の基になっていた)


飯館村の木材をめぐる争いの原因は何だったのか

(入会権が戦国時代の戦争の基になっていた)

入会山は、地方により、カイト山(垣内山)、仲間山、惣山(そうやま)、モヤイ山(催合山)、総持山(そうもちやま)、込山、村山などと、共有の意を示す語を含む名で呼ばれた。
草刈場は、地方により、秣場、馬草場、萱場、茅場、草場と、多くに「場」のつく名で呼ばれるものがあった。
他の村落の入会地と区別するものとして、内山、内野、内原と、内外の「内」を冠する地名で呼ばれる場合もあった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E4%BC%9A%E5%9C%B0

原発事故で問題になったのは漁業権だった。漁業権はもともと入会権を基にしているのだろう。本当は漁業権は海に境界がないのだから定めにくい、取り締まるのもむずかしい。漁場にしても一定していないのだから変わりやすい。すると山林や馬草や家の屋根をふく萱などを村で所有するのとは大分違っている。海はもともと所有しにくい、所有しにくいものは財産になりにくい、それが海の特徴だった。
検地の結果として土地の私有権が定められた。もともと土地も私有されていない、公有的な要素が大きかった。古代では国のものだった。江戸時代前も荘園とか領主のもので中で私的に所有されてはいない、江戸時代になり検地がなされて本百姓が生れ私的所有権が確立した。結果として税を納めることになった。

飯樋御出陣(奥相茶話記)(天正十八年六月十八日)

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飯樋に割木とあるのは境界の木である。割山というのも入会権の山を現している。まさに木材資源をめぐって割れる山だったのである。


御城内造営の事ありて良村を草野山にて選びとらせたまふ草野は適地の境なれば岡田兵庫に四篠但馬を相副て置ければ但馬かの村木を奉行す採所の不可なりとて兵庫但馬を叱する但馬憤り深し兵庫義たねへ訴え但馬草野より城下に召して住せしめんとし給ふところに家挙げて伊達領川俣に走る、川俣に桜田卯兵衛玄番封境を守りて但馬子あり兄を織部といい弟を内記といい父子三人にてかねて飯樋の者どもかたらい恨をはらさんとすこれ故に飯樋に逆徒多しとて大亀興一郎を飯樋に移さる・・・・


飯館村の飯樋(いいとい)で起きたこの事件何のなのか?
図解したようにこれは木材資源をめぐる争いである。飯館村は木材資源が豊富であった。それで御城内造営の事ありて岡田氏と但馬氏にそれをまかせて遣わした。岡田氏は中村城に別に岡田館とあるくらいで重臣である。ここで但馬氏とは伊達領の川俣に兄と弟がいたから元からいた土着の勢力だったのだろう。
岡田氏と争いになったのは自分たちの入会権が山を木を所有する権利が失われることで争った。この時、伊達領と相馬領はまだ明確に分かれていない、但馬氏が領有していた山であり木であった。だから但馬氏には川俣に兄弟がいたことでもわかる。
ここでの争いはそもそも伊達領と相馬領の争いではない、但馬氏という元からいた土着の所有者が領有していた土地であり山であり木であることから起こっていたのだ。

大亀氏というのは但馬氏の兄弟が遣わして暴挙にでた。それは一つの戦争であった。

戦争はこの入会権が元で起こっていることが多い。戦国時代が起きたのはそうした入会権をめぐることに発している場合がある。それは領主同士の争いというより村人の入会権をめぐる争いに領主が加担したのである。この場合も藩主の義胤に訴えている。義胤が家来を遣わして平定している。それで死んだ家来もいる。飯樋に塩の番屋があり牢屋もあった。だから牢屋に入れられたということも書いてある。大亀氏という名前も南相馬市の原町区の人で知っているのも奇妙である。この姓は変わっているから覚えられやすい。

この時伊達藩自体はかかわっていない、でも伊達藩の川俣の内記という但馬氏の弟は死んでいる。だからこの争いはそれなりに大きな事件であり記されたのだろう。
なぜ戦国時代が起きて熾烈な争いになったかというとそれはこの入会権が元で村人同士が争いになり領主に訴えて大きな争いに発展したとする見解がある。ドラマばかり見ていると歴史は非常に偏った見方になるのだ。歴史というのは信長だ、秀吉だとか面白い劇的なものばかり見ているがもっと細部を見ないとわからない、それは学問的になるから庶民には受けないのである。小さな事件でも必ず大きな事件の基となっているからだ。


この木をめぐる争いは玉野村での境界争いは有名である。上杉と伊達と相馬の三つ巴の争いとなってた。境界争いも木をめぐる争いが多かったのである。御蔵島には20数軒しか住んでないがその一軒でも境木というのをもっていた。それは自分の家の木だという所有権の主張なのである。木は薪となり炭となり家の材料にもなり資源として貴重なものだったのである。だからこそ争いも起きた。
世界戦争でも石油とかの資源をめぐることが多いように人間の歴史でも資源の争奪戦が戦争の基になっていた。


飯館村では飯樋は重要な地域であった。あそこには大きな墓地があった。飯館の田んぼの面積も広い、川俣は耕地が極めて少ない、飯館は平らな所がかなりあり米の収穫高も多いし今でも多かった。川俣はもともと織物が主産業であった。

飯樋には大きな墓地があった。あの墓地は明治時代の以降のものであったが飯館村もこうした古い歴史がある。この事件は天正時代なのである。ここも玉野村と同じく木材資源をめぐって境界争いが起きたのである。その原因は但馬氏という在地の勢力が存在していたところに相馬藩の岡田氏が進入して争いになったのである。 ここで合力が行われたのである。この合力が基で大きな戦争にも発展した。飯館村はもともと未開の地であり相馬藩から新郷士が入ってきたところだからこうした問題が起きる素地があった。
山中郷となるのは遅いのである。ただその後野馬追いにも山中郷では参加している。

飯樋の墓地の広しも松風の鳴りて冬日さし誰そ眠りぬ

飯館村はこれからどうなるのか?あそこの墓地は広かった。そういう墓も捨てられるのか?墓をたずねるのも歴史を知ることである。
なぜか、土盛るだけの墓もあった。そういうのは墓石を建てられないからなったのか?昔だったらそうだろう。でもそれは明治時代以降の墓である。土盛っただけの墓だったらいづれは消えてしまうからだ。

相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?
http://musubu.sblo.jp/article/33335256.html

百姓たちの戦国(其の四 近江全域を巻き込んだ隣村戦争
http://harada-iory.cocolog-nifty.com/seikoudoku/2011/06/post-0552.html

posted by 老鶯 at 16:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2013年11月22日

阿武隈高原の回想の旅の短歌 (阿武隈高原の魅力は幾重にも分かれた道にある)


阿武隈高原の回想の旅の短歌

(阿武隈高原の魅力は幾重にも分かれた道にある)
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(飯館)

小宮へと行く道遠く久しくも行かず閉ざさる冬のくれかな
月館へ行く道遠し夏の日のなお明るしもまた行かむかな


 (三春)

三春へと行く道遠し日永きにのちの憂いもなくて行きなむ
三春なれしだれ桜の長々と夕日のさして古き家かな
三春なる城の跡かな四方の山ここに映えつつ春の夕暮
五万石三春の城や栄えなれ愛姫(めごひめ)嫁ぐ政宗のもとへ
なお夕べ優艷にして滝桜匂いのつきじしだれけるかな
目に見ぬも我が心にそ離れても花の明るく映えて輝く


(二本松)


二本松道のり遠く相馬よりなお花残り夕ぐるるかも

二本松城跡の井戸深しかも椿の落ちて重なりけるかな
二本松安達太良まじか椿映え残れる雪の清しかりけり
安達太良の影の大きく川俣を我が去りゆくや秋の夕暮


(小浜城跡)


小浜城夕べあわれも遠く来て花咲きそめて闇のつつみぬ

小浜城廃城となりて長きかな夕べかそかに桜咲きそむ
小浜城興亡ありぬ一時は政宗棲みぬ秋の夕暮
小浜城滅びてのちの久しかも雲に隠りて月の光りぬ
小浜城落ち延び遠く会津へと逃れる武士や曇る月かな


(梁川城跡)


丸森ゆ峠を越えて梁川の城跡に来れば花は散りにき

阿武隈川桃に桜や丸森へそいくだるかも海への道かな


旅心尽きざりしかな分かる道なおつづきつつ年も暮れなむ

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阿武隈高原は広い、高い山もないし温泉もないけど広い、だから自転車で行けば旅になる。どこまでも道をたどることが旅なのである。だから旅では別れ道が一番印象に残るのである。分去(わかれさり)という地名が全国に残るのはそのためである。つまり別れ道に来たとき道を一番意識するのである。これは車だとそうした旅の感覚はなくなる。

道をたどるというよりただ早く移動するという感覚になるからだ。車の旅はある地点に行くのにはいい、例えば富士山が一番良く映える場所に行くのは車がいいが車では旅にはならないのだ。旅をするということは現代では特殊なことなのである。

バイクでも旅にはならない、バイクも早すぎるからだ。どっちの道へ行こうかとか旅の感覚はなくなる。車とバイクの速さは同じだからである。自転車は旅になっている。

ただ自転車でも早すぎるということはある。ただ別れ道などでは道を意識するから旅になる。実際に分かれ道があったとしてそこから5キロで温泉があるとして行きたくても行けなかった。なぜなら5キロとして往復10キロになるとかなり遠くなるし疲れるからだ。
車だったらこういうことはないから秘湯めぐりなどには向いている。


旅する時はやはり歴史的な知識も必要である。小浜城についてはわからなかった。勘違いしていたのはこれが江戸時代もあったと思っていたのだ。この城は江戸時代前に廃城になっていた。だから城の跡としてだけこれまで残っていたのだ。その期間は400年とかにもなる。だから良く残っていて今も訪れる人があると思う。城跡でも土塁だけとか堀とかでわからないのがあるからだ。相馬藩の城でも堀とわずかな石垣しかないのである。
だからあそこの城が江戸時代もあると思っていたのである。これは小さな城でもそれなりの城だった。なぜここにあったのかも謎である。地理的な要衝としてあったともある。

この頃会津までもこの城にかかわったりしている。だから伊達に攻め落とされた時、会津に逃れた武将がいる。梁川城も伊達領の城だが一時は会津の城にもなっていた。それから上杉もかかわっていた。戦国時代はどうしてか遠くも関係してくる。まだ領地が確定していないからせめぎあいが各地で大規模にあった。入会地で山林資源の争いのことを飯館村の飯樋のことで書いたが丸森の玉野村は大規模だった。その時合力が行われて上杉や伊達や相馬と三つ巴の争いとなった。
ともかく小浜城は何か神秘的な場所にあった。あのうよな出城とか小さな城でも江戸時代前は各地にありそれが戦国時代だったのである。


1627年(寛永4)に、一国一城令に基づき廃城となった。現在、本丸跡など城域の一郭は下館山児童公園として整備され、郭、石垣、帯郭、堀切、土橋跡などが残っている。かつての本丸南側の虎口である同公園の入り口に残る石垣は、蒲生氏郷の属城となっていた時期につくられたものである


阿武隈高原でもふりかえると自分は自転車で相当に回っている。今になると回想するとき不思議である。回想する旅になるとこれまた現実旅しているのとは違う、それは何か内面化した旅ともなっているのだ。だから旅というのは何度も言っているけどあとで記憶されている旅をしていないとほとんど忘れる。どこをどう行ったのかさえ忘れる。

自分も回想して短歌を作ったりしてもそれが春だったのか秋だったのかわからなくなる時がある。ただ回想しやすいのは近間だからである。これが阿武隈高原から離れて会津の方になるとわかりにくくなる。人間は自分の住んでいる場所から離れれば離れるほど忘れやすい、だから外国のことはさらに忘れてしまう。福島県でも会津はかなり遠い。そして山国だから余計にわからなくなる。
阿武隈高原だと二本松とか梁川とか福島市とかまではつづいて記憶されやすい、でも会津になるとすでに地理的にも記憶しにくくなるのだ。


阿武隈の魅力は道にある
http://www.musubu.jp/abukumichimiryoku.htm