2013年11月01日

戦後経済を振り返る (石炭ー石油ー原発は文明を支えるもので最終的に滅亡)


戦後経済を振り返る

(石炭ー石油ー原発は文明を支えるもので最終的に滅亡)

中核になったのが炭鉱であり国鉄であり、いわゆる昔の「3公社5現業」の構造である。

人間が太陽の恵みのみを唯一の生産行為として時代は過去のものとなり、人間がエネルギーを利用して人間へものを供給する時代それが産業革命以降の流れになってきたのだから。
http://speech.comet.mepage.jp/news02/mint_106.htm


確かに福島県でも常磐炭鉱は有名であった。その記念館が今もある。そして国鉄も大きな力をもっていた。社会党のバックは国鉄でありそれは一貫して変わらなかった。その社会党は反対するだけの党として長い間国会で存続していたのも不思議である。その社会党も今になと全く過去のものになった。その後続の社民党などあるのかないのか消えるのかとかなっている。社会党というと万年野党として団塊の世代でも印象づけられていた。

それもいつのまにか遠い過去になっていた。国鉄がなぜあれほど大きな力をもっていたのか?それは全国の輸送網を握っていたからだ。それは東京という中心だけではない地方に根を張っていた組織だった。国鉄職員はエリートでありそれは明治維新以来、鉄道は国家なりということもあったのだ。だから国鉄が民営化されると国鉄職員には組合が大きく退職金が高いものであった。ちょうどその時、日本経済が高度成長の最中でありそれだけの資金を用意することができたのである。地方でも国鉄職員は多く地方の経済もになっていたのである。国鉄の官舎なども駅前にあり国鉄がいかに全国に根を張っていたかわかる。蒸気機関車の時代が燃料が石炭だったのだから常磐炭鉱とも直接結びついていたのである。国鉄とか社会党とかは全く過去のものになってしまった。だから社会党という名前も知らない何だったのか知らない若い人も増えてくる。過去のもの歴史になってしまったのである。


戦後のはじめは農業社会の継続であり農協が一時勢力をもっていた。農協は世界まで知られていた。その農協をバッグにして自民党があった。自民党が50年も政権担当できたのはなぜか?それは社会党のように国鉄とか特定の企業の組合を票田としていない、国民的政党だったからだというのもそうかもしれない、社会党は国鉄であれ一部の大企業の組合の代弁者だったところに政権がとれない限界があった。そして国鉄が車社会になり民営化されたりしていつのまにか消滅してしまった。ただ今になると社会党はそれなりに長い間万年野党でも存在感があった。でも今や社会党を知っている世代はみんな老人になっている。政治というのはその時代の勢力あるものをバッグにして成立している。その後自民党の長期政権で田中首相が有名だけとその時は日本列島改造論でゼネコンか政治のパッグになっていた。それも時代を反映していたのである。高度成長にのってまさに日本列島がゼネコンの仕事場になった。全国の道路網などの整備が行われた。そのゼネコンの力も高度成長が終わると衰退した。そしてそのあとはバブルであり低成長不況とか失われた20年とか日本経済は低迷がつづき今日にいたっている。


だから何が経済をひっぱっているのか明確ではない、車の生産と電機関係と最近はIT熱があった。でも国鉄とか農協とかゼネコンとか明確な大きな牽引力となる力は見えない時代になった。ただ電力会社が電機は国家なりとなっていたことは確かである。
東電があれだけ大きな会社だと知らなかった。エネルギーは人間の血液のような働きをする。エネルギーが作り出すものによって文明は変わる。石油の前は石炭でありイギリスで産業革命が起きたのは石炭が自前でとれたからであった。それが蒸気機関車とかの発明になり世界的に普及したのである。それは石炭がとれたということにあったのである。

イギリスの対岸のカレ-という所でゴッホが石炭の採掘場で一時働いていたことでもわかる。石炭がエネルギー源の時はどこでも石炭が重要であった。福島県でも石炭をいたるところで少量でも探してとっていたのである。この辺でも南相馬市の鹿島区の小池で石炭とっていた女性がいた。そんなところでとっていたのかとなるが日本全国極めて小規模でも石炭を探してとっていたのである。それだけ石炭を必要としていたのである。
エネルギーか産業の血だからそうなっていたのである。


なぜ日本が戦争に負けたかというと石油の流通が海上でとめられたからだったとか常に言われのもそうである。石油がなければ船も飛行機も動かせないからである。その反省から軍人だった正力松太郎とか中曽根首相は原発を作るために奔走した。日本はアメリカの科学技術に負けたから科学技術を進行させることが国力を増すことだと思ってそうしたのである。文明はエネルギーが作るとなれば原発が文明を作るともなる。
インカ帝国では太陽を崇めていたがそれは当然太陽がエネルギーの基だと自然になってたからそうなった。それで太陽の力が弱ると終わりだとなり太陽に生贄がささげられた。
これは一見野蛮な科学を知らない時代だからそうなったと思うが今も変わりなかった。
エネルギーか供給できなければ文明は終わりなるのである。そうしたら文明を維持するためにエネルギーが必要であり原発だって必要だからそのための犠牲はやむをえないとなる。つまり福島県人のように生贄にされるということである。


つまり大きく考えればエネルギーは文明の問題であり原発も文明の問題である。トルコ辺りでも経済が発展すると必ずエネルギーがたりなくなるから日本から原発をつくってもらいたとなり承認した。日本でこれだけの事故が起きたのになぜなのかと思うが文明を維持するために発展するために原発を必要としている。それ意外の方策がないからそうしている。だから文明というのは最終的に原発と心中して崩壊するとまでなる。文明の維持のために人間の命は犠牲にされても文明は維持されねばならないのである。それが人間の運命だとなってしまうのである。原発問題は文明の発展過程で必然的に起きたことであり最終的には文明が滅亡する過程として原発事故が起きた。そしてその犠牲になったのが福島県だったとなる。文明の崩壊をまのあたりにして見たのが自分の住んでいる場所だったともなるのだ。



原子力規制委員会は30日、福島第1原発4号機の使用済み燃料プールから「燃料棒」を取り出す実施計画を認可した。水素爆発で破壊された建屋から、使用済み燃料1331体未使用燃料202体の計1533体もの燃料を取り出す作業は人類史上初だ。
地上に運ぶ際、何らかのトラブルでキャスクが傷付いたり、落下したりして燃料棒が空気に触れれば、たちまち即死レベルの放射性物質が放出される。仮に1500本を超える燃料棒がムキ出しになれば、放出される放射性物質の量はチェルノブイリ事故の10倍。東日本に人が住めなくなるのは間違いない。失敗が許されない命懸けの「UFOキャッチャー」作戦だ。




今でもこうした危険性があり事故は収束していない、それは東日本全体で人が住めなくなるとかの危険性なのである。それは日本の滅亡であり将来的には世界全体の滅亡に実際問題してありうることを現実に示しているのだ。空想ではなく未だに現実問題として文明崩壊、滅亡の危機にさらされているのだ。
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2013年11月02日

津浪原発事故より二年半過ぎしめぐる相馬の想い (文語でつづる相馬に住むものの心境)


津浪原発事故より二年半過ぎしめぐる相馬の想い


(文語でつづる相馬に住むものの心境)


秋の雨ぬれて小さき街の路地をいくつか曲がり仮設食堂に惣菜を買いにゆく、その裏方に我が知れる人の働くも今日はいでこず、小高の人の三人ばかり昼間より酒を飲む。
財布だして一万札を数える。補償金もらいしゆえに今は懐も豊かなり。
何も成すこともなく昼間より酒を飲むは楽しきや、しかあらず働くは喜びにあり
ただ毎日昼間より酒飲みて成すことなければ何故に生きるかも知らずなりぬ
そのことの心に重しもただ術もなく酒を飲む一日またすぎゆきぬ。

津浪の被害はなお深き傷跡を残しぬ。門のみ残りて家はなくなりぬ。
誰が住みしとその前にたたずみ不思議に思う。津浪原発事故より不思議に思うこと絶えぬなり。
家ある跡が草茫々となりそちこち沼となりぬ。ただ凄まじき無常の現実として日々見ゆる。

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六号線を一人の若き旅人歩むゆく、原町の方から来るに聞けば川俣から飯館を回りて来れりと千葉県の人てれど今は東京に六号線は原発事故で通じざればなり
その旅人の一人歩きつ今日は相馬市に泊まるという、芒のなびき歩み去り行けり。

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しとと雨ふり木の葉一二枚となりの庭より道に散る。この道も曲がり仮設に住む人も二年半過ぎしばし通り過ぎ行く。川の木の葉散る土手の道も踏みして歩む。
まことに世の無常やその変わりし故郷や我が家の墓地の前には復興住宅のたたむとして工事中なり。その変わりようの思いもかけぬことなり。

小高の人木の葉散りそむ土手の道踏みしめ歩み二年半すぐ


ここに数奇なる運命の人あり。常磐高速道路に土地を売り多額の金が入りしに大熊に牛の牧場をはじめしという。その人の原発事故にあいまた多額の補償金を得ることになりにし。不運なのか幸運なのか損にはあらじ。この辺では常に原発補償金が最大の話題なり。


小高の人の住み慣れし我が家を何と思わむ、月日は過ぎて二年半はたちぬ。月日は何を成すも成さざるもめぐりゆくなり。今金あるはてこれよりあるとは限らず、その金はただ一時的なものなり。土地あれば常に働けば実りあり。金は消失しやすし。さればとて今帰るせならず、津浪に家を消失せし人は帰れず、土地が手に入れずと家も建てられず、空き地に家建てる予定のあれどのびのびになる。働く人でも少なく資材も高騰して不足するとままならぬ。

土地は奪われ家は奪われ金を与えられしもその金を活用ならずば無価値なり、ただ月日は留められず過ぎてゆくなり。

社一つ淋しかな、村人帰るを待ちにしやあり、ここに人の集い祈り祭りある日を思い出すらむ。鹿島神社の欅の大木に蝉鳴く声を聞きし夏はすぎて今は秋の雨ふり時ならぬ台風のまた襲いくるかも。大島にまた大災害のあり。福島より自衛隊の恩返しと勇みい出ゆく、近くに自衛隊の人も住むなり、ここも津浪のあと自衛隊の人の働けり。

小高まで電車は来たらじ、途絶えけり、小高の駅まで津浪は越えて町中に来て泥を運こべば驚きぬるかな。小高神社はふ浮舟城といい、野馬追いの野馬掛けの神事行う神社なり。夏に尋ぬればしきり蝉はしげく鳴くなり。なおまた野には津浪に流されぬ車放置ささあり。家は空屋にていつ人の住みぬらむ。ただその小高区の区役所の天井高くガラス張りにて広々として役所の人の働ける。ボランティアの集まる家もありて復興はすすみしや、それも町中のみなりしや遅々として進まじや、秋も深まりぬ。二年の秋と春はすでに過ぎにい。


井田川の浦尻に仮設に住む人の津浪に家流されしと鹿島に住む。かの家の一週間にたつと暇なれば一日見てをり。土地が得られずに家が建てられでという。広き家に住む人の多く仮設は狭しも。盆栽を飾るはまことに日本の土地はもともと狭く耕す地も狭く海側に土地を求めて干拓せしが徒となれり。その家も狭く盆栽はその狭さ故に生まれぬ。茶室もまたおなじなり。


小高を過ぎて浪江に入るなり。街内のみ入るを許可されぬ。
幾夜橋とは和歌を学んでいた昌胤が師の中院内府通茂にみちもち)卿より贈られし


跡たへしながらもあるを幾世橋いくよ変わらずふり残るらむ


という賀歌によりこの里を泉田から幾世橋(きよはし)に変えぬ。
水増せし請戸川勢い良く流れこの橋を渡りて浪江の街中に入りぬ。

幾世橋久々に渡る秋の暮西行も来ると道は閉ざされぬ

浪江には西行の来るあおいの茎に知られるなり。


陸奥の 高瀬の清水 来て見れば あほいのくきの 下にこそあれ 西行


西行の惜しみて去るを道は通じず悲しかな。またいつの日か浜街道を旅したきを
うらむべしかな。

その請戸川に沿い上りて行けば昔の浜街道ありて一つの碑あり。
浪江に出口一里塚あり。

この付近には大出口、小出口という地名があるが、平山氏の居館と関連のある地名ならむ
地名を探ればこのような一文あり。名のある人の館ありてその出口なるゆえに名づけられしやその故しらじ、一句生まれぬ。出口とはここに館ありて出る所にて名づけらる。その館は古く1600年代よりある。浪江の歴史も古きものなり。


浜街道一里塚あり秋の暮


浜街道は余の森と相馬藩の殿様の名づけしも今は原発事故で閉ざされて通ることもならじ。余の森は夜の森となれり。双葉には昔我が父の酒屋に丁稚として働きあわれかな、日掛けの通い帳の我が家に古りて残れる。双葉の名はその頃はなく長塚駅なり、新山に城ありぬ。その城ありしところを真ん中を電車は通るも今は通らず。我が父は葛尾(かつろう)村の小出谷(こでや)出身なり。遠祖は柏原なり津島に近く江戸時代より住みしものなり。

浪江より浜街道から山を伝いて小高の上浦にいずる。そこの坂を下りてかなた秋の海の見ゆるかな、海は遠くも津浪の奥までおしよせぬ。上浦下浦とある名はかつては浦なり、ここは海より遠しもまた海は近きなり。


再び我が町の鹿島に帰れば淋しかな、十三夜の月は明るく出でて夕べ芒の映えぬ。昨日まで吹く風はやみて穏やかに一三夜の満月は明るく煌々と輝きにけるかも。
一五夜は中国より伝われと十三夜は日本のみのものにて日本の風土になじみて趣き深きものかな。

すでに津浪の災害より二年半過ぎ心も静まりつつありや十三夜の月の心にしみぬ。
ただ常磐線は原町ー相馬間の鹿島と日立木に止まるのみなり。秋の雨にふられてあわれかな。乗る人も少なく虫の音もあわれなり。我は久しくも遠くに出ることなく狭き相馬に閉ざされけるかも。江戸時代に帰りしごとくに思ふ。

相馬駅で鉄道は戸絶え桃内駅の鉄路は草に覆われていつの日や電車は来たらむ。特急スーパーヒタチは原町駅に止まりしままに二年半は過ぎにけるかも

相馬市に行けば六万石の城跡の石垣も一部崩れそのままに淋しきかな、一ひら二ひら木の葉散るらむ。松川浦は復興の気配あり。食堂の何軒か再開して宿にも泊まる人あれや、女性二人の釣りしてありぬ。神奈川より美人なりとからかい老人の旅人去りぬ。
また一人釣り人ありて今は渡り蟹というのもとれると十匹ほど網に入れてありしも。
津浪より二年は相馬市は変わらず田畑を耕作してあり。何かここには変わらぬ平和のもどりしや心なごみぬ。

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表現するとき何かを伝えるにしても写真が今は有効でも写真だけでは伝えられない、心持ちなどがなかなか伝えられない、その場所や事件でも伝えられない、そうした微妙なものを伝えるにはやはり文章が向いているし日本人なら文語が格調高く情緒的になるから明治にはこうした文語調とか漢文調の文が作られた。
今もそういう時代になった。戦争に負けてアメリカ一辺倒の世界から国風文化への回帰がはじまったのである。つまり新しい国風文化の再興が模索されはじまる。
それは物質的繁栄が高度成長が終わり二〇年が衰退期となったことでもわかる。
もう高度成長は日本には起こらないが文化の興隆は起きてくる。高齢化というのも文化の成熟には向いているからすべてが悪いとはならない、日本の成長はもはや経済的復興とかではない、文化的な復興であり精神世界の復興なのである。
だから日本の文化の伝統が新たな命を帯びて復活してくる。明治維新そのものが維新とは古いもの新しく蘇らせる意味だったのである。

2013年11月03日

電車と朝日の写真がうまく撮れた

 

電車と朝日の写真がうまく撮れた

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人がのっていないみたいで淋しいな、高校の通学にはまだ早い


朝日映え電車渡るや秋の川

電車行く鳥の飛翔や秋の朝


撮り鉄というのがあった。鉄道の楽しみ方は人それぞれである。鉄道は文化になったというときそれだけ人間の精神的な面にかかわるようになったからである。
鉄道が人間の出会いとか別れを演出するようになったのである。
鉄道がいいのは自然に映えることなのである。バスとか車が自然に映えるということはない。ただ便利に運ぶ機械に見える。鉄道は今回の朝日でも夕日でも映えるのである。


鉄道専門家写真がいたけどあれほど鉄道に思い込みがあるのがわかる。鉄道には何か人間の汗と涙とか何かそうした人間的なものがしみこんでいるのである。昔の駅舎なんかもそうである。特に鉄道全盛時代がそうだった。道の駅には車には何かそうした人間的なものが感じられないのである。ただ便利に動く機械としか感じられない。

鉄道にあれほどひかれるのはそこに何か人間臭いものがあり今や郷愁となっている。
ただ物流とか輸送の面ではローカル線だと過去のものとなっている。

常磐線は別に仙台までは八両編成であり廃線になるような線ではなかった。
ただイワキまでは便も少なく二両とかでありローカル線としてつなぎとしての線になっていた。それが原発事故で途絶えてしまった。この線が回復するのかどうかは予定がたたない、もしかしたら廃線になってしまうかもしれない、車優先だからそうなりやすいのである。


この写真で肉眼でわからなかったのが鳥が飛ぶところが写っていたのである。
またこんなふうに光がきれいになっているとは思わなかった。
シャッターチャンスは無数にありそれは偶然なのである。
だから意外と同じ写真は撮れないのである。
朝日でも毎日違った朝日になっているからである。


こういう写真は旅ではなかなかとれない、旅だと落ち着かないし一瞬をとることがむずかしいのだ。とにかく動いているものを撮るのはむずかしい。こういう写真にしても鉄道の写真にしても一枚しかないということに価値があるだろう。
別な角度からとればまた違って見えるのが写真なのである。

ただ写真だとこれが秋なのか冬なのかということがわかりにくいのだ。
芒などが写っていればわかりやすいけど意外と太陽だけだったら季節がわからないのである。だから季節がわかるような撮り方が必要になる。

2013年11月04日

近隣の秋の日の写真(老後は家が大事になる-家が尊厳をもたせる)



近隣の秋の日の写真

(老後は家が大事になる-家が尊厳をもたせる)

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老木のなお朽ちざるや冬に入る

土壁に秋の日さして蔵古りぬ


日のさして一輪一輪の野菊かな


栃窪に蛹の一つ秋の陽の山間に没り村の古りにき


ソニーの新しいRX200M2を買ってから写真の魅力を深く感じるようになった。このデジカメは六万くらいでも今まででは一番高い。一回一眼レフのデジカメ買ったが重くて使い物にならなかった。自転車だと重いのは使いない。

このデジカメはやはり写りが違う。光の感じが他とは違っていた。一見同じように見えても違うのである。写真はカメラによって相当影響されることを知った。
いいカメラでとれば平凡な風景が違って見える。

現代はともかく写真の時代である。写真で日記のように日々を記録しているのだ。それもデジカメが安くても高度な写真をとれることにあったのだ。
それが一般向きにしたのである。

土蔵は土壁でありそこにさしている秋の光は何とも言えないものがある。土壁など今はないけど自分の家は土壁だった。もうそのときは職人すらいなくなっていた。
でも昔風の家は土壁でも何か重みがある。現代風の家はみんな建て売りであり組み立てているだけである。だから一週間でもできてしまうのである。まるでプラモデルを組み立てるようにできる。でも何か重厚な家というのはなくなった。

家で意外と大事だなと思ったの天井なのである。なぜなら天井は寝る時いつでも見ているからそこが貧弱だと何かみすぼらしい感じにさせるのである。
家というのは家によって人間が尊厳をもたされるということがあるのだ。
ルネサンスのラファェロのアティイの学堂がそうである。
あのアーチの建築が人間に威厳をもたせていたのである。
それはヨーロッパの駅がアティネィの学堂のような立派なアーチの煉瓦作りのがあり駅でも人間に威厳をもたせているのである。
ただ高層ビルなどは人間に威厳をもたせない、都会の林立するビルはただビジネスの空間であり精神的な人間に威厳をもたせるものがないのである。
だから人間はただ蟻のようにうごめく貧弱なものにされているのだ。

家など自由人には重要じゃないというのもある。
若い時はそうにしても老後は家が大事である。
なぜなら家にいる時間が長くなるからだ。
そして老後から死ぬまでの時間は家で過ごすことが多くなる。
家がくつろぎの場所でありまた創造の場所でもあり回顧する場所にもなっている。
だから貧弱なの家だと何か精神的にも見すぼらしくなる。
もちろんあばら屋でも人間の精神の持ちようで風流はある。

ただ老後は出て歩く時間より家にいる時間がずっと長くなる。家が一つの世界になる。
もし歩けなくなったりしたら余計そうなるだろう。もちろんそうなると家に住めなくなるだろう。誰かの助けがないと生活できないからだ。今まで家というのを自分はそんなに大事だと思っていなかった。

ただ家の主人だった身内の人が死んで自分の家を自覚するようになった。
このところ六年間介護でありそして家との格闘だった。
家を直すことや家の中を整理することがずっと仕事だったのである。
今日も一室の天井を自分で模様紙ではりつけた。
これは簡単だからできた。狭い部屋だからできた。
ともかく家を維持することはもう一人ではできない
家というのは人間にとって実際は今になると大問題だった。
墓はめんどうでも小さいからそれほど手はかからないが
家は大きいから手がかかりすぎるのである。

中心市宣言書(平成21) ー原町区の中心が衰退 「ともにつくる 活力に満ちた 安心で潤いのある南相馬」


中心市宣言書(平成21) ー原町区の中心が衰退   

「ともにつくる 活力に満ちた 安心で潤いのある南相馬」

http://www.city.minamisoma.lg.jp/index.cfm/
8,3260,c,html/3260/sengen.pdf

 
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相馬市から5500人もが南相馬市立病院の診療を受けていた。原発事故前は南相馬市立病院は中核病院だったのである。
飯館村からも4400人で多い。浪江町も11000人で多い。浪江とか双葉、大熊には大きな病院がないから南相馬市立病院が
中核になっていた。実際に大熊から入院した人が同じ病室であった。病院に関しては大熊双葉浪江は不便な場所だった。
おそらく泌尿器科というのはないだろう。ただ南相馬市立病院でも泌尿器科は貧弱だった。専門医が一人いても若いし良くみてもらえいないものだっ。たそれを知らないでそこに長くかかっていて病気を長引かせた。相馬総合病院は泌尿器科は三人体制であり
全国でも優れているとかいわれるのもわかる。院長が泌尿器科の医者であることでもわかる。
現代では病院は本当に大事である。病院を知らないと確実に寿命を縮める。
現代で不便なところは明らかに病院とか医療体制がないところなのである。
限界集落などは医者もいないし何もない、飯館村には歯医者もいないのである。

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これも意外である、相馬市から17000千人も南相馬市地域に特に原町区に通っているのかとなる。
南相馬市が特に原町市が中心地域とっなっていることがこの数字から一目瞭然である。
原町区には丸三製紙とか大きな工場があるとすると相馬市からも通っている人がいるということである。

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買い物動向でも小高区と鹿島区では70パーセントくらいが原町区で買い物している。
ただ食料品は20パーセントだから地元のスーバーなどで買い物していたのである。
電気製品は浪江町と双葉町で50バーセント以上である。
電気製品は原町区に集中しやすいのである。
飯館村は全般的に20パーセントくらい原町区に負っている。
ただ20パーセントなのは川俣の方が近いからそっちの方にも行っているからである。

いづれにしろ相馬地域は浪江とか双葉とか大熊でも旧相馬藩内が一つの経済圏でもあり文化圏でもある。
だから浪江とか双葉や大熊がなくなるということは経済的にも相当な痛手なのである。
それだけの買い物客も喪失するしいろんな面で失うものが多い。
病院にしても南相馬市立病院が旧相馬藩内の中核病院になっていたのである。

ともかく相馬藩の石高から飢饉のことを研究した学者がいたように何か経済の面でも社会の面でも
相馬藩というのは六万石で小藩なのだけど小藩ゆえにかえって見えてくるものがある。
社会が見えやすいということがある。伊達藩などになると大きすぎて社会全体をみることがむずかしくなる。
もちろん東京のように巨大化するともう社会を手にとるようにみることは不可能であり
自分がどんな役割を果たしているかも検討もつかなくなる。

今回の原発事故で相馬地方は様々な課題を持つ地域として全国から注目されたし今もされている。
何か自分でもこうして公務員になったように相馬地域をいろいろな角度から研究すればみえてくるものがある。
そして社会が見えるということが政策にも通じる。
有効な政策は何かということがおのずと出てくるのである。
社会が見えなければ出しようもないのである。

こういう狭い地域だと無益な人間も目立ちやすい、なぜあいつは遊んでいるのかみんな苦労しているのにとかなり安いのだ。
それで仮説に入って補償金でパチンコばかりしているとか昼間から酒飲んでいるとか批判されるようになる。
大都会だったらそうはならない、狭い地域だからこそみんなが協力しないと生きていけないという面があるからそうなる。

それでNHKで青森の4000人くらいの藤里町でニートが百人ほどいるとかその人たちを介護などで働かせる事に成功した放送をしていた。
あれも狭い地域だからそれだけのニートを見つけ働かせるようにできたしそうしてもらわないと働き手が少ないから村自体が町自体が成り立たなくなるから公務員がそういう努力をしたのである。

人数が少ないから何とかしてともかくニートであれなんであれ人を活かす工夫をせざるをえなくなったのである。
ともかく何か有効な策をうちだすにしてもその街自体を知らないとできないのである。

相馬市より南相馬市が今回の原発事故でいかに痛手を負ったか数字からわかる。
相馬地域は原町区が中心区となっていた。それが原発事故でその中心がゆらいだのである。
中心を保てないような状態になっているのだ。
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2013年11月05日

なぜ相馬藩では慶長津浪が記録が皆無に近いのか? (初代の時に津浪の被害があり戦国時代で混乱していたから?)


なぜ相馬藩では慶長津浪が記録が皆無に近いのか?

(初代の時に津浪の被害があり戦国時代で混乱していたから?)

相馬藩初代となる利胤は、天正9年に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれる。
慶長元年(1596年)元服の際に父義胤は石田三成に烏帽子親を頼み、三成の一字を得て三胤と名乗る。
これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、以来三成と昵懇であったためであった。


徳川家康は会津の上杉攻めに向う途中、下野小山で石田三成の挙兵を聞き兵を返す。
慶長5年(1600年)8月関ヶ原本戦で家康が勝利、この報を聞いた義胤は遅ればせながら翌慶長6年正月に上杉領であった安達郡を攻めて失敗している。


慶長7年(1602年)5月24日に関ヶ原不参により義胤は領地を没収される。このとき常陸の佐竹義宣も領地を没収されて、出羽久保田20万石に移封されたが、義胤には佐竹領のうち1万石が分与される予定であったという。

さらに慶長6年(1601年)に正室を亡くしていた密胤は、秀忠の側近土屋忠直の異父妹で旗本岡田元次の二女を正室にこ迎えた。
旗本の二女ではあったが秀忠の養女として嫁ぎ、この婚姻の仲立ちとなった土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めた。また、徳川家と縁戚となったなったことで従四位下、大膳大夫に昇任している。

この間、慶長3年(1598年)に小高城から本拠を牛越城に移しているが、領地没収騒動を不吉として。
慶長8年(1603年)には再び小高城に戻っている。

慶長12年(1607年)江戸城普請の手伝い、慶長16年(1611年)12月には小高城から宇多郡中村城に本拠を移している。以後、ここが相馬藩の城下町となる。
利胤は宇多川の流れを変え、碁盤の目状に街割を行って城下町の形成に意を注いだが、この際に北方の伊達氏を仮想敵として考慮したという。




慶長地震の津浪が起こる前のことからたどると詳しく初代の利胤の記録が残っているのだ。この時注意しなければならないのは戦国動乱の時代であり相馬藩は初代であり安定していない。つまり政治といっても藩主の関心は戦国時代の中でどうして藩を維持するのかということが最大の関心事だった。だから石田三成が主役の時代は三成にとりいることが政治であり名前まで三成からもらっている。野馬追いの旗にも三成の旗印が残っているのもそのためである。鹿島区の田中城にも実際に三成は来ていたのである。
相馬藩の初代が戦国時代でありそこでの関心は民にはない、城も中村城に移る前は何度も移動しいる。一端中村城に移ってからも移動している。それほど安定していない、こういう中で民に気を配ることすらできないだろう。
だから記録としてはそうした戦国時代で領地をどうしたら安堵してもらえるかが政治だったのである。


さらに慶長6年(1601年)に正室を亡くしていた密胤は、秀忠の側近土屋忠直の異父妹で旗本岡田元次の二女を正室にこ迎えた


こういうことまで記録されているのになぜ700人も死んだ津浪のことか全く空白になっているのか?今の時代からすると理解できないが当時の事情からするとそうではない、相馬藩の基盤が安定していない、だから民のことはないがしろにされていた。


文禄二年に(1559)に相馬三郡の検地があった。


文禄に検地があった?とすると新地にあった文禄の碑は検地を記念したものなのか?
検地の時に記念として年号を石碑に刻む傾向はあった。明暦とか元禄とかにも検地があり葛尾村の落合にあった碑にも刻まれていたのである。その時あの辺に検地が施行ささたのかもしれない、検地の記念として年号が刻まれた。ただその時新地は相馬領になっていたのかどうか不明である。


文禄の時代でも慶長津浪の11年前にもそうした記録は正確に残っているのだ。だから慶長津浪の記録が残されないということは民の歴史を藩では行政では無視したということになる。その前に度々戦争があり戦死者150名とかも月夜畑の戦いであった。
そういう方には関心があり津浪の被害とか死者数には関心がなかった。

ただ一方でなぜ民間で津浪のことが伝承されなかったのか?
それも深い謎なのである。伝説にも残らないし都神社か津浪を記念したとしても不明となっていた。津神社がすべて津浪を記念したものとは限らないしその謂われも不明となっていたのだ。


つまり津浪に対して全く相馬藩では記録の空白地帯となっていたのである。
伊達藩では相馬藩より歴史が古く伊達政宗の活躍の時代だから慶長津浪のことは伊達藩から全国に知られるようになったのである。ただ相馬藩の津浪に関しては閑却されていた。
だから歴史の記録は必ずぬけおちるものがある。その事実もわからなくなるものが相当にある。何が事実だったのか特定して証明することが歴史研究だともなる。
ある人が存在したのか存在しなかったのかも証明することが歴史だとなる。

歴史の記録の欠落には重大なことが見逃されているということをかえって証明しているのだ。そういうことを掘り起こすことは容易ではない、柳田国男が民間の人たちから口碑として聞いたものを集めて学問にしたことでもわかる。それは文書で記録されたものに対しての反抗として生れた学問だったのである。
膨大な伝説とか民話とかそうした民間で語られたものの中にも歴史があったということである。そういう歴史は文書に残されないことで忘れられてしまった。それを掘り起こすことが学問になった。
そういう民間の歴史の消失がいかにあとで重要なものとなっていたか、津浪のことでわかったのである。柳田国男か戦争ばかりが歴史ではないというときまさにそうだったのである。ドラマでも面白いから戦争のことばかりドラマにするけど地味な民間の伝承とかは話題になりにくいから忘れられるのである。


その当時でも津浪で700人死んだということは民間人から見れば大事件だった。でも戦争に追われていたものが支配者だったとき戦争で死ぬことの方が大事件になっていた。
こういうことは歴史をふりかえるとき研究する時必ずある。
忘却された記録されない歴史の空白が実は重大なことを語っているということがあるのだ。津浪のことが伝えられない語られないということでこんなひどい被害になったともなるからだ。


ただ伊達藩の記録には名取辺りまでは濃厚に民間の伝承は伝えられていた。ただ相馬藩になると地元の人もほとんど注目していなかっのたである。伊達藩でそれだけの津浪の被害が記録されていれば相馬藩でも注目するべきだったのである。それも郷土史というと一地域の狭い範囲のことに関心が向きやすいということもある。全国的レベルで共通の課題を研究することに欠けている。そういう方法もなかった。インターネットでそういう方法が生れたことは言える。
まず郷土史研究が何か科学のように命にかかわるようなものというより好事的なものであり一般的に暇人がしていくくらいしか思われない、でも歴史の研究は民俗学であれ何か重大なものか命にかかわるものさえあったということである。
もし貞観津浪とか慶長津浪のことをもっと知っていれば海岸に接して人は住まないだろう。最近は科学で証明もされていた。それでも危機感をもちえなかった。
歴史を忘れてしまうことは常にそうした危険がある。戦争のことでもすでに何かわからないものとなっている。300万人以上死んだ戦争すらだんだん霧の中になり忘却されてゆきまた同じような戦争も起こりうるのである。


だから歴史は繰り返す、個人的にも家族的に家系でもカルマは消滅せず繰り返されるのである。カルマが何かというときそのカルマ自体が何か気付かない人が多いのである。だからカルマを繰り返しているということにもなっているからである。あなたにはこういういうカルマがありますよと指摘してもそんなこと意に介さない人が多いのである。そしてどうしてこんなに不幸なことばかり起きるのかとかばかり言っているのだ。仏法なら原因があり結果があるということでありただナムナムナムと唱えて入れは解決するとはならないのである。でもカルマを直視することは厳しいからできないということもある。ナムナムナと唱えれば何でも解決しますよと言うのが楽だから人間は楽な方に目が向いてしまうのである。そのために人間のカルマは一向に解消しないということがあるのだ。歴史もまた一つのカルマを背負っているのである。
そのカルマについて良くしらないと重大なことが見逃されてしまうのである。

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2013年11月06日

近くに烏崎の人が家を建てた (補償金のことで漁業組合の人たちは地元からも批判される)


近くに烏崎の人が家を建てた

(補償金のことで漁業組合の人たちは地元からも批判される)

烏崎の人が近くに家を建てるというので菓子折りをもってきた。直接会わなかったがあとで近所の人に聞いたら若い人たちだという。若いというとこの辺ではめずらしいとも思った。なんかみなん老人のように思えるからだ。
でも老人だと家を建てるのは長く住まないのだから新しく建てるのに金を使う気になれないだろう。家というのは他の買い物とは違っている。
長い期間使うものだし大金を使うから他の買い物とは根本的に違っている。
長期的なものとしての買い物でありそういう買い物は家くらいだろう。
車でも十年とかもつものがあるがたいがいは短期的なものである。
最近ではすぐに新しいものに家電などは買い換えてしまう。
家とは何か長期的ものとして建てる、最近の住宅は30年ももたないとしても30年でも長いのである。だから家をもつことはその土地に根付いて生活するということになる。
家をもつことはその土地に土着することになる。
賃貸住宅だとなにか一時的に住んでいる仮の宿という感じからぬけられないだろう。


南相馬市では一時土地の需要が増えて値段があがったが低下して上がらない。そのた理由が老人が金をもっていても新しく家を建てることに躊躇する。先が短いから大金を家に使いたくないということがある。若い人なら先が長いからローンでも家を建てるということがある。老人は年金暮らしだから先が長い買い物は躊躇する。ここにも高齢化社会の影響がでている。小さな一軒家でも土地代を入れると3000万くらいになるから家は高くつく。
ただこの辺で常に話題になるのは補償金の問題なのである。烏の人だと金もっているだろうなとなる。前は火力発電所ができてその補償金で大金が入り近くの呉服屋では高い着物が売れて豊かになったとかある。今度は漁業組合に入っていればまた金が入っただろうなとなる。浜通りは火力発電所もあるし原発もあったしエネルギーの供給基地だった。
それで金か会津などより入っていたということがある。
金は運だというとき公共事業などの影響で大金が入り得することが多い。
まず自分の近所がそうだった。区画整理でじけ住宅地になったとき長屋のような家に住んでいた人たちが広い土地が与えられて住宅費用も何千万とか与えられて立派な家を建てられたのだ。それは運が良かったということである。


最近聞いた話では常磐高速道路のために土地を売り大金を手に入れた人が今度は大熊で牛を飼う牧場をはじめたという。そしたら原発事故になった。ただその補償金も牧場を経営しているとなると楽か大きくなる。何億ともらったとかの噂もある。これも公共事業がいいにしろ悪いにしろ巨額の金をもたらすということである。

烏とか右田は船主になっている人が多いだろう。それで右田の人が街内に立派な家を建てたときやはり漁業組合に入っていて金があるのだろうとかなる。実際に相馬総合病院に入院していたとき請戸の人がいて特等室に入っていた。そして家を建てるのだと言っていた。でも今になると漁業組合に入っていた人たちは批判される。天罰だとも言われる。それは地元の人たちが言っているのであり自分が言っているのではない、それは漁業組合の人は東電に漁業権を売り渡して巨額の補償金をもらっていたからである。事故が起きたあとも同じように巨額の補償金をもらっている。つまり漁業組合が一番金をもらっているから批判これるようになった。漁業組合が原発に反対すれば原発は建てられなかった。

それだけの権力を与えられていたのである。ヨーロッパには漁業権はないという、漁業権は大きな権利だったのである。でも海の資源を守るならいいが原発事故では海は汚されて漁師自体が海でとれたものを食べられず買って食べているという不満がある。それは田畑で自家生産しない農家の人も同じである。日頃から買って食べている人はその悔しさがわからない。

いづれにしろ漁業権をもっている人たちに対する反発は地元でもあるだろう。それも多額の補償金をもらっているからそうなった。現代は金の多寡で金を持つことに比例して責任が問われているのだ。だから原発事故地域は常に補償金とかか話題の中心になる。
補償金のために心が分断されている。あいつはあんなにもらっているのにこっちはもらえないとかが常に言われるようになる。だからかえって一致協力して復興しようとするようにならない、心がそういうふうに分断されているからだ。


それにしても南相馬市では復興住宅の数がどれほどになるのか?鹿島区だけでも100戸くらいは建つみたいだ。それで300人くらいになるのか?その人数はわからないにしてもやはり新しく家を建てる人は少ないだろう。100軒くらい新しく建っているようでも全体では少ないかもしれない、老人所帯が多いと新しい家を建てるのをためらうのはわかる。
そのことも高齢化が津浪被害地域では復興になってゆかない足かせなのである。

宮城県にしても零細な漁業をしている港などがそうである。高齢化で跡継ぎもないところだったのにあれだけの津浪の被害にあったらもう村自体住めない、若い人も流出して村自体が消失してゆく記紀なのである。
この辺でも時給1200円でも働く若い人がいないのである。金だけでは解決しないのがこの辺の問題なのである。

復興という時長い時間がかかる。でも老人の先は短い、すると若い人は復興に向いているが老人はなるべく自分でもそうだが先が短いのだから苦労はしたくないとなるのだ。

若い人の時間感覚と老人の時間感覚は相当に違っているのだ。
だから老人は新しいことをはじめるより今まであったものを大事にする。そして新しく何かをはじめるというより過去の思い出に生きるのも老人なのである。
それは長い目で復興をしてゆくという感覚ではない、今の時間が貴重であり残りの時間を楽しむというか深く味わうという感覚になるから未来への投資などもてきなくなるのだ。だから過去の思い出に生きるという時故郷に住めなくなった老人が多いのだから辛いと思う。いくら多額の補償金をもらったとしても住み慣れた土地から離れるのは辛いのである。若ければ20代30代ならなんとか新しい場所で再出発できる気持なるのが年になるほどできなくなるのだ。


原発自己周辺であれ宮城県などの零細な漁業している港などでもこの高齢化社会の問題が深刻なのである。現代はいたるところに高齢化の問題が深刻なのである。介護時代というのもそうであり介護離職者がいて自分も同じだから同情した。介護の負担もこれからますます大きくなってくる。だから小さな湊の村は消滅してしまう危機である。

posted by 老鶯 at 10:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

相馬藩が中村城に移転したのは津浪の復興などと何の関係もない (当時の戦国時代の政治的事情で無視された)


相馬藩が中村城に移転したのは津浪の復興などと何の関係もない


(当時の戦国時代の政治的事情で無視された)



1611(慶長16)年12月2日、三陸沖、M8.1

さらに慶長16年(1611年)12月に宇多郡中村城に本拠を移し、ここが相馬藩の城下町となった。
治家記録慶長16年11月30日条に、この津波の到達した場所を推定できる記載がある。海に出ている間に地震発生、津波に流され、舟ごと「千貫松」に流れついた記載。

「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある

400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/04/post_921.html



1611年 (慶長 16年)、相馬利胤は藩境を接する伊達政宗に備えるため相馬藩の本拠地を小高域から 中村城に移し、廃藩置県を迎えるまでの260年余りの間、相馬中村は城下町となりました。


烏帽子親であった石田三成の一字を賜って初名を三胤といったが、これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、それ以来三成と昵懇であったためであった。


三成の旗印が野馬追いに残ったのもそのためだった。


江戸に上る際に三成の偏諱をはばかって密胤と名を改め、その後さらに幕閣の実力者土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めている。


名前も二度も変えているのである。名前は普通は簡単に変えないけどそれだけ上からの圧力が強い時代だった。この戦国時代の時は、まずどれだけ領地を守ること一族を守ることに必死になっていたかわかる。こういうとき中村城に移転したのか慶長津浪から一カ月後なのである。なぜそんな時期にわざわざ難儀な城の移転をしたのか?
それまた問題になった。これも学者が津浪の被害がありその復興のために中村城に移転したという説を出した。

これもその当時ありえないことである。まず公共事業で経済を活発化するなどという現代の感覚などゼロである。中村城移転は何ら津浪とは関係していない、伊達に備えるためだったというのがやはり正解だろう。新地が一時伊達領だったことでもわかる。
この戦国時代には領地の奪い合いなのだから領地を守るとなれば中村城が一番適地になる。それは津浪が起きたこととは何ら関係ない。

そもそも溺死者700名としか相馬藩政記に記されていないことがその証明である。
政治の中心は津浪の被害より領地を守ることに専念されていた。

そして相馬氏一族の安泰を計ることが第一である。たから家来が戦死したとかは藩政記に記されている。でも津浪で死んで被害がどうだこうだとかは全く記されていない、その時の関心は領地を守ることでありそれに必死になっていた。
その時津浪の被害も報告されたがただ溺死者700名としか記されない、もし公共事業のように中村城を移転したならもっと津浪のことについて書いている。
津浪で民が被害にあい苦しんでいる、そのために・・・と何か記しているはずである。
それがまるっきりないのである。だからむしろ津浪の被害者はこの時の政治で無視されたのである。津浪の被害は政治の最重要課題になっていないのである。
だからといって津浪の被害を受けた人たちにとって最大の問題だった。

でもその当時政治の課題は領地を守ることであり津浪の被害があってもそれは無視された。だから三カ月後に今度は徳川家康の冬の陣に大坂城に参戦している。これも津浪の被害の後にそれだけの財力があったのかと思う。今ならもう津浪の被害に政治がかかりきりなるはずだからである。つまり津浪の被害はほとんど無視されたから記録されなかったのである。もちろん津浪のために中村城に移転したということはありえない、ではなぜ津浪の被害にあった人たちの声が残されなかったのか?


これも謎なのだけど津浪の被害にあった民衆にその記録を残す力がなかったとも言える。もしかしたら被害を訴えたかもしれないけど政治の最重要課題は領地を守ることであり津浪の被害に対処できる状態ではなかった。だから無視してその財力も徳川を応援するための参戦するために使われた。つまり津浪の被害者には何ら藩では助力もしなかったともなる。それもできなかったともなる。だからそっけない一行で700人溺死としか記さなかった。その他のこと相馬藩の存続にかかわる跡継ぎ問題などは詳しく記されているからだ。
津浪のことが記されていないことは当時の相馬藩の政治事情のためでありそれで無視されて記録もされず忘れられてしまった。政治は今でも何が第一の課題か問題になる。何を優先するかが問題になる。それは必ずしも民衆をの要望を第一にするとは限らないのだ。
だから津浪で死んだ700人は当時は無視され歴史の闇に消えてしまったのである。
その消えたこと消されたことが実は大きな歴史であり意味あるものとして見直すことが必要だった。


相馬藩は歴史が古いために藩主相馬氏の蔵入地は他藩と比べて極端に少なかった。太閤検地の際の相馬氏の蔵入地は16%に過ぎなかったといわれている。実に8割以上が、藩士や寺社領であった。

このように財政基盤が弱いところに、江戸開幕後の軍役負担、中村城築城などの出費があり、たちまち財政難に陥った。つまり相馬藩は成立時から財政難に苦しめられたのである。

(戦国時代における蔵入地は、戦国大名が自己の所領のうち、家臣へ与える知行地に対して代官を派遣して直接支配を行って年貢・諸役などの徴収にあたった直轄地を指す。)
http://roadsite.road.jp/history/chishi/hanshi/mutsu-soma.html


まずこれだけ財政難なのだからそもそも津浪との被害のための復興としての公共事業などという発想すらできない、藩士や寺社領だったということは自前の財力がない、ただ藩士や寺社の領地が津浪の被害を出したら寺社でも藩士でも損害だからて何らか記録が残ったかもしれない、でも寺社にしても津浪で死んだから供養したなどない、海側が被害にあったのだからそこには自分たちの領地が少なかったのかもしれない、海側は米がとれないから漁業だけだと年貢にならない、検地もしないから記録として残りにくいということがあったかもしれない、様々な事情が重なって津浪の被害は無視されたのである。


実際に今なら津浪の被害者の名前がみんな石碑に刻まれているから忘れられることはありえないのだ。当時は津浪の被害にあった人たちはそうした石碑を残すことさえできなかった。それだけの経済力がなかった。墓を庶民が残せたのは江戸時代の後期だったのである。では伝説などで語り継がれなかったのか、それも謎なのだけどやはり津浪の被害は普通の災害とは違っている。・・・千軒とかが伝説に残されているように一瞬にして村自体が消滅するような災害である。すると村自体が消失したら歴史も記録も消えてしまうことになりかねない。例えば津浪で村自体が消失して他の村や町に移ったときそのことを語っても信じられなとならないか?みんな死んで村がなくなってしまったんだよと語っても信じられないとなり語り継がれることもなくなった。草戸千軒などはそうである。最近になって遺物が発見されてあったとなっているからだ。溺死者700人というのはそれとにて歴史から消失してしまった。しかしそのことか今になって重大なこととして蘇ったのである。その当時の記憶が同じ津浪が呼び起こされたのである。

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2013年11月07日

天皇は新興宗教のカルトだったの? (心に青雲のプログの天皇批判の衝撃)


天皇は新興宗教のカルトだったの?

(心に青雲のプログの天皇批判の衝撃)

●国家神道が日本をゆがめた
 
国家神道は日本古来からの神道から大きく逸脱している。
 古神道は万物の中に神を見る。だが、国家神道は天皇と国家が神の全てだ。
 古神道では仏教との結びつきをみた。だが、国家神道は廃仏毀釈を行った。
 古神道は敵をこそ手厚く祀る。それは無念の気持ちを持って死んでいった者達の祟りを畏れてのこと。
 だが、国家神道においては味方を手厚く祀り、敵の祀り方は非常に等閑なものだ。

 靖国には味方の戦没者しか祀られておらず、敵の戦死者は現地で細々と祀られればマシという程度。
 梅原猛氏が主張するように靖国は古来よりの神道の伝統に反する。

 国家神道は明治の元勲が作り出した新興宗教であり、天皇を現人神かつ絶対神とし、天皇への盲従を強いるカルトといえる。
 ある意味、明治の元勲は日本を短期間で国民国家に作り変えるために「カルト洗脳」を用いたといえよう。
 カルト洗脳は悪だが、短期間の内に人を作り変えるには有効な手段だ。
 国家神道は日本を欧米列強に対抗できる国民国家とするための必要悪だったといえる。
http://www.abysshr.com/san/san_co06.html


こういう批判は誰というのではなく今になると一般的にある。なぜ明治になって突然天皇がもちだされて異常な崇拝の対象になったのか?明治維新が勤皇でありその延長として天皇が錦の御旗であり官軍と賊軍に分けた。靖国神社はその官軍を祭るものであり賊軍は祭っていない。西郷隆盛も西南戦争で賊軍になったから祭られていない、薩摩も一時官軍だったか賊軍となり会津も賊軍となった。明治維新が何だったのかということはこのように敵が味方になり味方が敵となったりしてわかりにくいのである。
明治維新とは武士階級が武士という身分を否定する戦いだったというのも不思議である。だから西郷隆盛は武士階級を残すために今度は国民軍と戦ったのである。その時会津の元藩士も参戦して活躍した。

靖国は古来よりの神道の伝統に反する。国家神道は明治の元勲が作り出した新興宗教であり、天皇を現人神かつ絶対神とし、天皇への盲従を強いるカルトといえる。
国家神道というのもそもそも何なのか?それは古代にさかのぼるものだろう。第一古代とういときそれを西欧の近代化に合わせるのにはそぐわないものだった。つまり自分が常に問題にしている政教分離が西欧の近代でありそれが世界的なものとして現代も問題になっている。エジプトの政治の混乱もイスラム原理主義という宗教が政治に介入して実権まで握ったことにあるのだ。だから政教分離は近代化には欠かせないものとしてあった。


●古代や中世への先祖返りとしての天皇や仏教


 王法と仏法が冥合すること。三大秘法抄に「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して」と述べられているところに由来する。王法とは王の法、すなわち国王の法令・政治のこと。広くは世法の意。仏法とは、末法の今日では日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経をいう。王法が仏法に冥ずるとは、王法が仏法の慈悲の精神、法理などに冥々のうちに基づいていくということ。

日蓮の説く思想と天皇と国家が一体化する思想は似ている。天皇崇拝は古代に返り日蓮主義は中世に帰る、先祖返りである。そこに何か日本の近代化の大きな矛盾があった。
明治維新がそれだけ西欧化するために思想的にもあらゆる面で無理強いすぎたのである。天皇を頂点にした国家作りも日本をまとめるための苦心の策であり国民をまとめるために不可欠なものとして明治天皇自体が血統とは関係なく新たに作られた人だったというのも何かそうした無理した結果なのである。


とにかく明治維新の勤皇派の過激な延長として日本の国作りがあった。それを象徴していたのが廃物稀釈だったのである。仏像を破壊したのは江戸時代は寺が役所のようにされて幕府に優遇され神社が不遇であった。利権が得られなかったとかで神社側が仏像を破壊した。それは勤皇派の過激な思想が行動化してそうなったのだ。これはヨーロッパなどで起きた苛烈なこれはカトリックとプロテスタンとの血で血を争う宗教戦争ともにていた。
その背景にはイングランドはカトリックの国でありプロテスタントが就職でも不遇であり差別されているとかが背景にあった。利権の争いが宗教争いになる。だからそうした宗教争いの不毛から政教分離の法律が生れたのである。近代化にはそうした原則があって近代化が成されのだがそれが明治維新では行われなかった。結果としてそのことが天皇崇拝の太平洋戦争に向かっていった大きな要因だった。
吉田松陰も西郷隆盛も征韓論者であり外交政策では一致していたのである。
大東亜共栄圏というのはすでに明治維新のときにあった思想であった。


天皇と国家が一体化することは日蓮主義と通じるものがある。俗世の法を超越したものとして天皇があり天皇絶対主義が生れる。日蓮主義と天皇主義が一致するものがありなぜ日蓮主義の石原莞爾などの軍人が戦争の思想的背景となったことでもわかる。太平洋戦争の思想的背景として日蓮もナショナリズムとなりやすいものがあったのだ。今でも創価をはじめとしてカルト宗教団体は同じ思想として実践している。それは明らかに政教一致なのである。だから池田大作でもまるで神のように崇拝していることに特徴がある。実際は俗物そのものでもそんなことは関係ない、権力によって祭りあげられる。天皇は古来からの伝統があるから違うにしろやはり神として祭りあげられたからカルトと同じ体質があったのかとなる。


●戦後60年で見直される敗戦のアメリカ支配と天皇の責任


一体誰が戦争を起こしたのか?今は盛んに「心に青雲」のプログ主が天皇に責任があったと昭和天皇を批判している。天皇も責任がまねがれないだろう。天皇が何ら実権がない人形とは違っていたのである。だから戦争遂行に積極的かかわったというのは今になると見えてくる。だから天皇も戦犯として処刑されるところだったがアメリカに命乞いして助かったというのは確かかもしれない、天皇は統帥権とかもっていて実権があったのである。つまり権力を行使できたから権力が与えられていたら責任があったとされる。それは漁業組合が漁業権をもっていてそれを東電に売り渡して原発が建てられた。
実権を権力をもっていれば責任を課せられ批判されるのだ。もし権力もなければ責任も問われないことになる。権力に必ず責任が課せられているのである。
現代では明らかに金を何であれもっている人は責任が課せられているのだ。だから補償金であれ多くもらった人には責任があるとなり今になると批判されるのである。
自分たちの私益のためにだけその権力を使うから批判されているのだ。


天皇は昭和天皇が生きている時はタブーだったから批判しにくかった。昭和天皇は何かジキルとハイドだったのである。戦前は軍神であり戦後はまるで違った平和の使者を自ら演じたのである。国民もそれを受け入れたことが不思議である。なぜなら確かに心の青雲のプログ主のように天皇責任論が全面にでてもおかしくないからだ。では天皇だけがそうしたのかというと国民自体もまるで天皇と同じだったのである。戦争に負けて全くアメリカ一辺倒に変質してアメリカ崇拝になったことなのである。


寒々とした気持ちにさせられるのは、日本人の卑屈なまでの変容性である。昨日まで「鬼畜米英」と叫んでいた人達が、占領下となると、 マッカーサーを父や神のごとく称え、「日本を米国の属領となし下され」と擦り寄る変わり身は驚くばかりである。世界史に例のないほど、一切の抵抗も暴動もなく、正に「よき敗北者」として新たなる権威を受け入れていく体質は、日本を考える上で重要な素材であろう。
http://d.hatena.ne.jp/nakinomacchan/20050623/1161082622


日本国民そのものが信念も何もなく戦争を遂行したことではとないか?天皇はそうした首尾一貫した思想の実践もなにもない国民を象徴していたにすぎないともなる。天皇に実質責任があっても国民もそれに従ったのだから国民にも責任があるとなる。
極端に変わることが信用できなくなるのだ。原発でも前の双葉町長が反原発になったり小泉前首相か原発推進から反原発になるのはなぜだろうとなってしまう。

原発の利権を求めて原発推進だったのでありそれが急に事故後に反原発になるときとまどうことになる。それは戦争でもそういうことが起きた。全国民が戦争に邁進して一億総玉砕として300万人以上が死んだ。それがアメリカに破れるとその戦争を全く否定してしまった。天皇がアメリカに命乞いして助かったというのもそうである。それは国民もアメリカに命乞いしていたのである。だからアメリカ自体が日本人は信用できないというのもわかる。例えば三島由紀夫が天皇は神であるべきだと言って自刀として死んだ。それも一理あったのである。天皇は現人神(あらひとかみ)としてあるべきだったというのは戦前からの一貫性を守るべきだとなればそうなるからだ。そもそも天皇が無責任だというより日本国民が無責任なのである。戦争で負ければ全く白から黒に変わり反省もしていないのだ。原発でも事故前は官僚でもマスコミでも地元でも全員利権のために賛成だったが一旦事故が起きたら反原発になることと同じだったのである。


GHQの支配下になったとき子供がギブミチョコレートになったのもそうである。戦後はこのギブミチョコレートしかなくなっていた。物質的なものを求めて高度成長になりその経済が衰退して現在にいたっている。日本人はこうして変わりやすいのである。変化に強いから適応するから明治維新も成功したともなる。ただ一億総玉砕とか一眼となるがたちまち熱狂も覚めて変節する。それが日本人の特性だともなる。

NHKのクローズアアップ現代で日本人の手紙が戦後、GHQの占領軍によって検閲されていた。それにあたっていたのが中央郵便局の官僚でありそれが検閲管であったのだ。戦争中は特高となり戦後はアメリカのスバイとなり高級とりとなる。その時就職先もないのでしかたなくなったと言っている。その人たち高官となり贅沢をするようになった。官僚はただ利得だけで今も動いているのだ。検閲というとき自分の本でも創価を批判したら図書館に置けないとか検閲されて置けないとか原発の時も反原発は政府によって検閲されていたのである。例えば政府で出す教科書でも原発の安全神話が作られていた。その体質は戦前と何ら変わっていないし権力によって国民は操作されていたのである。

それは政府だけではない巨大権力によって操作されているのは同じである。なぜ創価がこれほど批判もできないタブー化しているのか?それは天皇カルトと同じだったのである。

創価は警察にまでも会員がいてにらみをきかしているとなると政府並の権力をもっているともなるのだ。マスコミも政教新聞を刷らせて支配している。カルト創価と天皇カルトはにていたのである。それは日本が政教分離ということで明治のときから近代化していない、古代とか中世をひきづっているからそうなる。そしてそうした巨大権力に国民は従順であり300万人が今になるとなぜ死んだのか問われる。原発事故も同じである。の責任は天皇にもあったし国民にもあった。だから常に権力に対して疑問をもつことが必要なのである。マスコミも権力をになうものであり巨大権力の手先になり誤った方向に導く、それは戦争でも原発でも同じだった。マスコミに電事連から


十一の電力会社の広告宣伝費は880億、販売促進費は623億、東京電力は広告宣伝費243億、普及啓発費200億


東電だけではない電事連合がこれだけの金をマスコミに払っていたから驚きである。電事連合は民主党でも票田であり核兵器に反対でも原水協では原発には賛成していた。それだけの勢力、権力をもっていた巨大な国家並の権力集団だったのである。これはもう一企業などというものではない国家と同じである。だから財閥の会社の利益のために国家が牛耳られて会社の利益優先で国家が動かされているというのもわかる。こうした巨大会社には一地域とか市町村ではもう対抗できないのである。
だから東電によって一地域が容易にふみにじられてしまう。その莫大な資金でふみにじられてしまったのである。

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冬の鳥来る(今年は秋が短かった)


冬の鳥来る(今年は秋が短かった)

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黄落に午後の日さして老いの友

冬の鳥はや来たれるや家籠もる
故郷に生き継ぐものや冬の蝶
晩菊によりそいさしぬ光かな


時にして一時に散れる木の葉かな老いて多事なり故郷の道

大倉にかすか鳥なきあわれかな秋の夕暮れ人の消えにき

この鳥はジュウビタキだろう。白い斑点がある。前からしか見ていいなし夕方だからぉかりにくい、でも冬の鳥であり渡り鳥である。今年は秋が短く冬になっている。晩秋がぬけ冬になっている。ただ晩秋と冬が一緒になっている感じである。

立冬はすぎたからやはり冬である。故郷に生き継ぐというとき華やかではない冬の蝶である。それは老人かもしれない、そこに深い趣がある。飯館辺りも冬の蝶などがあっていたけど人がすまなくなった。大倉も人が住んでいない、かすかに鳥がないて夕暮れた。
ただまだ人が住んでいるという感覚になっている。家も残っているからだ。
人が本当に住まなくなったら森に帰ってしまうだろう。
飯館村では大倉にしても佐須にしても人がまた住むようになるのだろうか?


ともかく昨日だった、突然風が吹いてぱたぱたと木の葉が一斉に散った。今日も突然雨がふりだして風が吹いた。ここ6年間はそうした突然に桜が散ったり木の葉が散る、自然と人事が一致している。突然に事件が起きて突然に災害が起きて桜が散り木の葉が散る。
そういうふうに変化が激しいしそういう変化にもまれてきたのである。
これは老人にとっては辛いと思う。老人は変化に弱いからだ。
80以上になったりしたら特にこうした変化に適応できず死んだ人もかなりいるみたいだ。

田舎で老後を過ごしたいと思っていた人もいたし現実にそういう人が浜通りにもいた。
浜通りのいいのは気候がいいからその点では老後を過ごすには良かったのである。

とにかくこの辺は神戸の地震と同じように10年くらい落ち着かないのではないだろうか?
そのうち自分にしてもかなり老いてゆくから死んでいるかもしれない、そういう動乱の中で老後を過ごすとなるとは思っていなかったろう。

電車が仙台に通じないと何か遠出しにくいから4月ころから遠くに行っていない、ほとんど近間だけが行動範囲になっている。だから家にいることが多いから家が大事になるのである。

2013年11月08日

近くの正体不明の人の死 (朝から警察が来て驚いた)

 

近くの正体不明の人の死

(朝から警察が来て驚いた)

近くの知っている人が死んだというので驚いた。そのことでいつあったのかと何度も聞かれた。昨日もそのおとといも会っていた。ちょっと挨拶程度に話もした。その人とは別につきあっているのでもない、ただ馬鹿正直な人ということで前にも書いた。自分の身内が認知症になったとき世話になったのでその息子にお礼をしていた。そのあとはその息子はいいかげんな人なのでつきあっていない、その息子には内縁の妻がいたのだがその人の方が死んだのだ。警官が間違って息子の方が死んだと言ったからおかしくなった。
その内縁の妻は10年くらいなのか長く一緒に生活していたのである。

ただ周りの人は名前すらしらないし住所の移転届けも役所に出していない、
噂では仙台から連れてきたとかいわれていた。ただ回りでも誰も話したひともいないのである。ただ犬の散歩には歩いていた時だけみかけた。でも回りで話す人は誰もいないのだ。名前すらわからなく10年くらいなのかそれより長いかもしれない、一緒に生活していたのである。

その女性は階段から落ちて肩をぶったことで死んだという、それもよくわからない、確かに最近犬の散歩に出るのをみていない。夫は生きていたので救急車を呼ばなかったと言っている。そのことが疑われることになった。とにかく救急車呼ばなくても医者が来て死んだとならない、死を認定できるのは医者なのである。勝手に生きているから救急車を呼ばなかったとなるとなぜ呼ばなかったのかと疑われる。かかりつけの医者がいれば医者を呼べばいい、なければ救急車を呼ばないと疑われる。


とにかくそこはいろいろ問題がある人でありその人が出てきたら検死に出したという。
何か疑われたけどまだ何かよくわからない、警察で検死して終わりなのかもしれない、その人は身元も身寄りも何もない、そしてその人は極端に貧乏であり葬式を出す金がないから市の方でしてもらうと言っていた。本当に金がなく金を貸したりしたが自分の墓に死んだ母親の名前を刻まないのは金がないからだった。まず親不孝な息子だった。

その人は死んだ女性は無縁仏になるという、葬式にしても何もない、その人には親戚もよりつかないと自分で言っていた。

それでも一カ月前ころだったのか?その女性を見た気がするのだ。話はしていない、そういう人が急に死ぬということも謎である。ただその女性と回りで話した人はいない、だから犬の散歩にみかけても誰も話す人もいない、そういう人でも死んだら何なのだとなる。まず死とか病気とか介護とかそうしたことで身寄りがないとかなると困ったことになる。この場合は特別例外でも自分もそうだったけどそういう人が増えてきている。
そんな正体不明の人でもそれなりの一生があったのだろう。
ただそれについて知る人は一人もいない、内縁の夫は何か知っているのだろう。
一番の責任者になっているからだ。

そんな人でも自分も多少かかわったからあの人は何だったのだろうとかなる。

なんだか寒々しいもになる。その時北風が吹いて木の葉が散った。
何かそういう身寄りがないとか人が死ぬとどういうわけか寒々しいものを自然でも一段と感じる。そういうことは前も経験していた。その人もほとんど無縁化していた人だった。誰も墓参りする人もなく埋もれていた人だったのである。
その時も何か寒々しいものを一段と感じて風が吹いたのである。
何かどんな人が死んでも死んだ時自然が一段と寒々しいものに感じることがある。


北風や朝より一人近間の死


ともかく残された人も一人となり寒々としたものである。それもその人をみていれば自業自得だとなってしまう。人間の最後は何かその人の一生が集約されることがある。
いくら一時期羽振りがいいとしてもその末路は寒々しいものとなっている人がいくらでもいるのだ。いくら偽り生活していても最後は暴露されるのが人間の一生なのかもしれない、市で死者を始末してしまうことは無縁仏となることだが夫にしても墓はあるのだから自分の家に墓に納めてもいいようなものだがそういうことをする気もないとするとあわれである。10年ではないそれ以上長くいた思えるからだ。そうしたら何らかの情というものが生れるだろう。ただそういう人だからそんな冷たい関係でしかなかったのかとも思う。

ただどんな人の死も死は厳粛さを感じるから死んだ時人は必ずその死者を思うことになるのだ。

一緒にいたのが30年だった?これには驚き、時間の感覚は狂ってくる
前も自分の異父兄弟の兄が交通事故で死んだのは25年とかたっていた。
でもそれがつい何年か前のように錯覚していた
こういうことが人間の時間感覚である
認知症になる40年前のことが若いときのことが先日のように思っている
これも人間にとって病気でなくてもそうなっていることの不思議である。
30年も一緒にいて近くに30年いても誰とも話もしない、名前もわからない
これも奇妙なことである。
でも30年もいたら普通は情が生まれるだろう
どうなったのかはわからない


posted by 老鶯 at 11:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2013年11月09日

原発建設地域は建てる前からも金にふりまわされる (山口県の上関原発でもめる漁業権問題)


原発建設地域は建てる前からも金にふりまわされる

(山口県の上関原発でもめる漁業権問題)

大島海域のゴチ網漁師は、3000万円かけてつくった船を150万円で売った。1250万円したローラーをつけても、その値段にしかならなかった。一本釣りをしている父親は1000万円かけた船を75万円で売った
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/gyogyoukenseidokowasukiseikanwa.htm


山口県の上関原発建設問題で漁業組合とか地元の漁師とかがもめている。山口漁業組合は賛成しているが地元の漁師は反対している。今回のフクシマ原発事故が影響して中止になるみたいだ。
ただ漁業はじり貧になっていた。外国の安い魚に追われ漁業だけではやっていけないというのは別に福島県でも宮城県でも津浪にあった地域では同じ悩みをかかえてい。
とくに零細な湊はそうだった。だから津浪で壊滅的な打撃を受けた。


漁業権は組合員の三分の二の賛成があって譲渡できる。それでもめている。でもこれも変なのだ。漁業権をもっているのがそうした組合員だけでいいのかということがこの辺の原発事故で問われたからである。「俺たちが漁業権をもっている、これを電力会社に売ろうと売るまいと自分たちの権利なのだ、他のものは何も言うな」こんな権利がどうしてありうるのか?漁業と関係もない、海と関係もない中通りまで放射能汚染の被害で福島県は苦しんだ。だからこそ漁業権というのを組合員だけの権利で売り渡し原発を建てさせて補償金をもらって豊かな暮らしをしている。原発御殿が建ったとか批判されているし天罰だったとも言われるのは多額の補償金をもらった漁師たち漁業組合の人たちだった。


そういわれるのは漁師は海の幸だけで魚介類だけをとって暮らしている人たちではなかった。漁業はもう農業と同じく成り立っていなかったのである。だから実際は電力会社の補償金で暮らしていたのである。漁業権がいかにおいしいものか事故前もそうであり事故後もそうであった。宮城県などでは電力会社から補償金がもらえいないから損だった。
福島県では事故後を船主だといくらだとかやはり多額の補償金をもらいつづけられるのである。これも何か変ではないか?

原発を建てさせ責任は漁業組合の人たちに地元では一番あった。でもその責任は何ら問われることがない、かえってまた同じように多額な補償金が支払いつづけられている。
もちろん魚がとることもできないという被害も大きいことはわかる。

しかし原発の被害が福島県でも広範囲だったのである。今になると漁業組合の人だけではなく双葉や大熊とか富岡とか避難地域になった人だけではない、南相馬市でも福島市に入ったらたまたま南相馬市とわかるものがあったので傷つけられたという。その真意はわからないにしても南相馬市でも反感をもつ人が福島市にいるということである。


それはなぜなのか?福島市は補償金を全然もらっていない、中通りはもらっていないからだ。そこに反発があったのだろうか?これは浜通り地域でも相馬市は全然もらっていないから避難した人たち仮設に住んでいて相当な不満がある。津浪の被害だけの人ももらえないから例えば相馬市でも仮設には避難しても補償金をもらえる人と津浪の被害でもらえない人が混在しているのだ。それで飯館村の人がトマト農家で働こうとしたら断られたというが相馬市では津浪の被害の人たちに職を優先的に斡旋するということにするのはかえって土地の事情にあっていて非難されるものでもなかったのである。


つまり福島県であれ山口県であれ原発では必ずすでに建てられる前から補償金でもめているのだ。補償金が巨額なためにその金につられてしまう。山口県の漁業組合が補償金目当てになったのはそのためである。原発は建てる前であれ建てた後であれ必ず巨額の補償金のことで地域も分断される。すでに漁業というのがもう成り立たないというとき、そこに多額の補償金が与えられるとなると心動かされない人はいない、ただそのことで地域は分断されるのである。


ただ現代が何を言おうが金をもっているものが強いのだとなると確かにそうは言える。
漁業組合に入っている人たちは金があるから立派な家を建てているなとかみる。自分の近くにも烏崎の人が家を建てた。金を持っていないものは家も建てられず復興住宅に住むほかないとなるかもしれない、ただ土地が手に入らなくて建てられない人もいるからわからない。ただ地元の人でも漁業組合の人たちには反感をもっている。それは補償金を他よりもらいすぎるからである。
請戸の人が相馬総合病院の特等室に入っていたのもなるほど漁師の人たちは金があるのだなと思っているだろう。その金も億とか大きいことは確かである。


人間はこうして何でも差があるとき協力しない、かえって貧乏人同士は協力し合うが金持ちと貧乏人は協力しない、ただうらやむだけである。豊かになると人間は協力しない、わずかのものでも分かち合うのがかえって貧乏な時代だったのである。皮肉なことにものあありすぎればそれを分かち合うという心もなくなる。ものが少なければ少ないものを活かし分かち合うという心が生まれのも不思議である。だから今は原発事故で補償金をもらっている人たちは外部から同情されていない、内部でも漁業組合の人たちには反感をもっている。それも補償金のためだったのである。


山口県は経済的には大阪からも遠いし今では辺境地域だったのか?何か貧乏な話が多い。
下関の貧乏なタクシー運転手のことがのっている。医者にもかかれず早死にしたとかある。それは全国的なことであり老人間の格差も大きいのである。60以上で4分の1は貯金をもっていないというし恵まれた老人はわずかである。みんな老人が金をもっているわけではないのだ。だからもう年金だけでは暮らしていけないという人たちが膨大にふえてゆく。そして生活保護をもらった方がいいとなりふえてくる。生活保護だったら病院は無料だから医者に行けるからだ。ただその生活保護費もあとは食べるだけくらいしかもけらえない、しかし老人に関しては一律10万とか支給するほかなくなるかもしれない、国民年金だけでは生活できないのである。


いづれにしろ人間は別に金を持っていてもそれが正当なものなら批判されないだろう。
金持ちでも批判されない金持ちはいる。その人たちは正当に働いて金持ちになったからだろう。パソコンとか発明したりした人はそうである。大金が入るのはまずコツコツ働いてはなれない、何か新しいものを発明したり富になる元を作り出した人だろう。
だから宝くじであれ地主が金が入ったとか株でもうけたとかそういうものには反発がある。遺産などでもそうなる。正当にもうけたり正当に金を使えば誰も非難しないのである。漁業組合の補償金は必要でも正当ではないから批判されることになった。

posted by 老鶯 at 16:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年11月10日

事故が起きるのは奢りのため (交通事故も原発事故も共通なものが)

 

事故が起きるのは奢りのため

(交通事故も原発事故も共通なものが)

車運転している人が言うには運転がうまいとおごっている人は事故にあうという。車のことはわからないけどそういうものなのか?。このことはあらゆることに共通性があるかもしれない。何でも人間は奢るとそれが事故にもなるし悪いことにつながってゆく。
例えば日本の技術が優秀だと何かいろいろなことで刷り込まれている。だから日本の技術は優れているというふうに思い込まされていたのだ。そして日本の技術は優秀だから原発は事故が起きないというふうに思い込まされていた。ところが技術というと多岐にわたっている。確かに日本の技術が優秀だという時、全部が優秀なのではない、ある技術に対して優秀なのである。技術が優秀だという時あらゆる技術が優秀だと錯覚させられるのである。


日本はカメラの技術に対しては優秀だとか何か限定して優秀だと言うべきだったのである。原発の技術に関してはアメリカやフランスが優秀だったのである。確かに日本は原子力発電でもある部分については原子炉などを作る技術は優れていたみたいである。でも安全を計る技術はどうかとなると優れていたとはならない。鉄道は安全を計る技術も優れていたのである。

技術にしてもABCDEFGE・・・・・・とかあるときその全部に優秀な技術はもっていない、グローバル化するときある技術にはA国がある技術にはB国が優秀だとかなりそれらの技術を組み合わせて新しいものを開発して作っているのが現代である。
日本の技術が優秀だという時、原発全体についての技術が優秀だということはなかったのである。


ただ日本の技術は優秀だと奢っていたことが事故につながっていたのである。技術が優秀だから事故が起きないとか安全神話まで作りすりこまれてしまった。だから情報の伝え方というのにも問題があった。日本の技術が優秀だという時あらゆる分野について優秀だと錯覚しやすいのである。こうしてし情報を錯覚してすりこまれることが多い。

結局人間は車の運転でも俺は運転がうまいんだ、だから事故にはならないという時、事故が起きる。それは結局人間の奢りが滅びに通じているからだ。つまり人間は何であれ奢った時、非常に危険なものとなっているのだ。原発にかかわった人たちにはそうした奢りがあった。それを見ている人たちにも日本の技術は優秀なんだという思い込みがありすりこまれていて安全神話が成立した。


例えばカメラなどは一部分の技術については日本は明らかに優れている。カメラは一部分の技術である。原発は総合的な技術力が試される。そして危険なものであることはわかっていた。だかちこそ謙虚になるべきだったが無理にあとおしされて安全を計れなかった。「奢れるもの久しからず」奢ることは歴史でも滅びに通じている。
科学は万能ではない、人間も万能ではない、だから不測の事故も必ず起きるということを前提に対処すべきだった。事故が起きたら回復できないようなものは使うべきではなかったとなる。


人間の奢りほど怖いものはない、どんな技術でも完全なものはない、機械も必ず壊れるのである。機械が完全でないのは機械を作るのは操作するのは人間だからである。人間が完全でないから機械も完全ではないのだ。だから安全神話などこの世にありえないのである。それを最も危険な原発に安全神話を権力で作りすりこまされたのが大事故につながったのである。


自分は優秀だといってもついには認知症になり馬鹿になり死んでしまったことは今でも信じられないのだ。あれだけ優秀な人間が馬鹿になるということそれもやはり奢りがあったためである。人間はそれだけもろいものなのである。人間はどんなことしてもこれからもいくら科学が発達しても万能にはなりえない、かえって科学の発達で人類滅亡に瀕するのはまさに人間が神のように万能になりえないものだからである。

だからあらゆることに奢ることは自体が危険なことなのである。個々人でもその才能や美貌におごったりするものそうなのである。よく優秀な人は優秀でない人を馬鹿にするけどそれも危険なのである。人間は本当に何が優秀なのかわからないからである。そこには必ず神の罰が加えられているのだ。
神から罰せられるということは実際にあるし今回の事故もそうだったとも言える。

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2013年11月11日

鴨(冬の雨)ー(たくましい貧乏な苦労した女性の驚き)

 

鴨(冬の雨)(たくましい貧乏な苦労した女性の驚き)

雨降るも水くぐる鴨橋の下
同じ町住みて老いるや冬の雨
盆栽の仮設に手入れや冬となる


今日は冬の雨である。手伝いさんを探していてまた一騒動だった。もめごとに巻き込まれててしまった。その人は福祉に世話になっているという62,3だけど10歳以上ふけてみえる。顔がしわくちゃになっている。今は60代でも若い人は若い、そういう女性と直接接しているからずいぶん老けているなと見た。それもそれだけ苦労の連続で老けてしまったのだろう。障害児の息子とかかかえ貧乏で今も苦労している。
ただ高齢化社会で老人はみんなたんまり金をもっているというけど実際は4分一は貯金すらないというからその格差も大きいのである。多額の貯金をしているとか年金が高い人は少ない、一割くらいになるかもしれない、あとは貧乏老人になっている。

それもこれから高齢化社会の大問題になってくる。だから貧乏ゆえの老人の犯罪もふえてくる。ぎりぎりにおいつめられている老人が多いのである。例えば国民年金で生活することは現代では不可能である。その国民年金からすら介護保険とかに引かれる時代なのである。7万とかで生活できるのかとなる。
そうなると老人もおいつめられて犯罪に走る。自分かその被害者だった。

同じ小さな町に住んでいてもどういう人が住んでいるかわからない、たいがいこの辺で住宅に住んでいる人は貧困層である。住宅という時、一軒家で二室とかでありまた棟つつきだったり二階建ての形式もある。そういうのは小さな町でところどころある。それも50年とか建っていて老朽化して市では取り壊したいのである。
たたそういう所に住んでいる人のことは大きな家でそれなりに豊かに暮らしていれば考えない、その人がしきりに言うのは広い家はいいなというのもわかる。その人は狭い家にしか住んだことがないからそうなる。家というのまず住んでみないとわからないのである。家の居心地は住んでみないとわからない、自分も最近広い座敷の方に寝るようになって部屋が広いということが気持いいものだと実感した。


仮設に住んでいる人は田舎だから農家が多いからあういう狭い所に住むのは相当に窮屈で嫌になっていることがわかる。盆栽というのが日本の住空間や土地の狭さから生れた芸術であることが納得する。俳句だってそうである。短いものに自然を写しだす。それは日本人が江戸時代だって住空間は貧弱なのである。特に江戸なんか昔も長屋住まいであり仮設と同じである。そういう所に一生住んで死んでゆくのかも広い家に住んでみればあわれだっとなる。ただ今でも広い部屋に住むことは贅沢なのた。


その女性は老けている、足も悪い、でもかなり体が動くのには驚く、なんというか人にあんなに平気で頼み込むというのが自分には理解できない、なかなか人に頼むのが自分はいやである。そういうことを気にせずに人を頼ることに何か遠慮がないのである。
それだけ生きることで苦労すると人もあのようになるのかもしれない、例えば金持ちのおくさんなど人に頼まずにも生きていけるからだ。だから金持ちの人は冷たいという時人にあまり頼ることをする必要がないからだ。貧乏な人やいろいろ問題をかかえる人は人に頼むことが多いからあのように人にたのむことができる。それもただでは頼むというのではなく他の人でもいろいろそれなりに助けている。津浪の時手伝ってその人は75歳の男性だけど家族のようにつきあっている。何か生きてゆくガッツがあるのである。
あういう人はなんか苦しくても雑草でも食って生き延びるだろうと思った。
苦労もしないお嬢さんや奥さんだったらそうした困難にあったら生き延びられないだろう。

ただ話してみると好奇心も強いしいろいろなことに一家言もっているのも不思議である。学がないにしろそうした経験を積んでそうなったのと性格もある。がらがらしているのだが遠慮はせずに人を利用するとまでなる。また頼まれた方もそうしてやりたいようになる。そんな人も珍しいと思った。義理堅いとか人情があるとかそれも昔風だと思った。
まず団塊の世代は功利的な人がほとんどであり人情的なことや義理と恩する感じない世代なのである。だからすべてを金で割り切る世界になっているのだ。
ただ人間にもいろんなタイプがいる。女性でもそうだし男性でもそうである。
ただあんな女性がいたというのもめずらしいというか驚きでもあった。


ずっと自分が介護とかで苦労するようになった時、つくづく感じたことは近くでないと助けられない、その人も津浪の被害にあった人を助けていた。その人は小学校の近くでありあそこでも床上まで水があがったことの驚きである。流木などが流れてくることが津浪は怖いのである。あそこでもあんな恐怖を味わったのである。海からは三キロくらい離れているように思う。津浪は例え低い波でも怖いものだということである。例え床下なら水害ではたいしたことがないにしろ津浪は違う。いろんなものが流れてくるから怖いのである。その女性は近くだから行けた。娘がいてもあまり来なかったという、相馬市に住んでいるから来れないし他の人も親戚も助けてくれなかったといってその女性に助けられたかと感謝しているのだ。助け助けられる関係になっていたのである。
いのである。


そういう関係はつくづく本当に近くでないとできないのである。例えば原町が近いと思っても意外と車で来るにしても助け合うときできないのである。近いなら行き来することが容易だが遠いとできないのである。相馬市なら近いと思っても車で来るにしても遠いのである。ましてや東京みたく遠くなったら何か起きたかさえ理解できなくなるのだ。
だから遠くの親戚より近くの他人になってしまう。この諺は遠くの親戚というとき東京とかではない、意外と隣の村とかでもあるかもしれない、それでも遠いという意味だったのである。ともかく老後は近くがそれも隣とか極近くが大事になるのだ。一人でヘルパーなどが毎日きている家は隣の人か買い物を手伝ってくれたりしているからなんとか一人で暮らしていける。そういう近くに助ける人がいないと暮らしていけな


今日は冬の雨である。そして買い物に行くのに橋の下の鴨を毎日みている。鴨は冬の季語である。だから鴨の季節になるのか、すでに白鳥も飛来した。鴨はただ秋からでもいつも橋の下に群れているのた。だから一番親しい鳥なのである。そして今日雨がふっているのに水にくぐっているのを見た。その時、その女性に重ねあわせてみていた。水にくぐって餌を探しいるのか、雨の日でも餌を探さねばならない、なんか水は冷たいなとか思う。
暮らしの苦労を重ね合わせるのである。俳句はこうしてその生活などの背景を読み込むと深く鑑賞できるのである。

冬の虹を今とってきた (冬薔薇の写真もとった-写真なしでありえなくなった写生俳句)


冬の虹を今とってきた

(冬薔薇の写真もとった-写真なしでありえなくなった写生俳句)

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一陣の風の荒しや冬の虹

風雲にかかりて消えぬ冬の虹
故郷に老いて友あれ冬の虹
長々と消えるまで見ゆ冬の虹
幅広く切れ端残る冬の虹
冬の虹余韻の深く消えにけり
粗末なる住宅の庭冬薔薇
風荒らし雨滴のつきし冬薔薇

冬薔薇凍れるごとく二輪かな

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今日も一日で天候の変化があった。最初は雨であり北風がふきつけた。かなり寒かったから冬になったことをみんな意識した。炬燵も必要になった。それから午後からやはり北風がビュビュ-吹いた、黒い雲がかかり虹がかかった。それは夏の虹とは違って幅広いが三分の一くらいしか虹はたたなかった。でも長くかかっていた。今年は虹を結構見る。
秋の虹も見た。今日は雨風であったが夕べ近くは晴れになった。ただ風は吹いていた。
虹はやはり縁起がいいような気もする。今年は虹をいくつも見たから縁起がいいかもしれない、体が回復したことで今年は余裕だった。ただ縁は二つ切れたけどあの人たちとはもうかかわりたくないい、人間はかかわる人間によって幸不幸があり運不運もある。

不運な不吉な人間も結構いしてこういう人間にかかわると親戚であれ何であれ必ず不幸になる。不幸にさせられるのである。実際に家の中には強盗だった入ってくるから怖い。
ある人はただ金だけを要求する。地獄まで金を要求し続ける。それが当然だとも思っている。こういう人とつきあっていたらきりがない、そんな人が結構いるのだ。

冬野に虹という時、やはり老いてから友はできにくいが何か深い信頼のなかで暮らしたいとなる。虹が契約の虹だというとき人間と人間が結びつくことを象徴しているのが虹なのである。もしそういう人がいれば虹のように老いても心は結ばれているのだ。

この薔薇は近くの家の庭の薔薇だった。いかにも冬薔薇らしいと思い写真にとった。写真でわかったのはそこに雨滴がついていた。それは肉眼ではわからなかったのである。

このソニーのRX100M2はやはり写真の醍醐味がわかる。写り方が今までのと違ってプロ的に感じるのだ。だから写真撮るのが楽しくなった。平凡な景色でも違って見えるのである。この辺で住宅というと4000円くらいで入れる一軒家の住宅である。でも古いが庭があったりしてそこに覗いたら冬薔薇が咲いていた。庭がもてるからいいとなる。そういうところで冬薔薇のようにつつましく暮らしている人がいればいいとなる。今日来た人などはそうかもしれない、ただ不満ばかり言っている人が多い。


ともかく今日の天気も変わり安かった。今年は秋が短くすでに冬になったのだ。
日本の天候は変わりやすいから狭いところに閉ざされていても変化がある。
大陸のような砂漠のようなところだと変化がないから飽きてしまうだろう。
日本は天気の変化が激しいし四季があるから狭い所に一カ所に閉ざされていても飽きないということはある。

いつれにしろ写生は今やデジカメなくしてはありえなくなった。写真で見て俳句がありうるのだ。冬薔薇に雨滴がついていたと言葉で表現してもそれを明確にイメージできないからだ。写真を見れば一目瞭然になるからだ。
 
 

2013年11月12日

東京から六号線は水戸街道だと車で行った人が言う (江戸時代からの連続としての道)



東京から六号線は水戸街道だと車で行った人が言う


(江戸時代からの連続としての道)

水戸街道は、資料等では水戸海道、あるいは水戸道中、水戸道と記されている場合があり、時代によってはそう呼ばれていたのであろう。また、陸前浜街道という名前で親しまれているが、「陸前」とは陸前国(宮城県)のことで、「浜街道」とは沿岸沿いの道という意味である。つまり、千住駅より常陸国水戸を経て陸前国岩沼に至る道筋を陸前浜街道と称し、明治5年以後の公式名である。それ以前は、江戸から水戸迄を水戸街道と一般に呼び、それ以北を岩城相馬街道と呼んだ。


車を運転する人は道が大事になるから道を覚える。東京から六号線とは言わず水戸街道だという、東京の人は六号線を行くとは言わない、水戸街道を行くというのは江戸時代の連続として道を意識している。六号線というと長いから一つの道として意識しにくい、例えば川で長い川になると一つの名称として意識しにくいから川にもいくつもの名前があったりする。浪江の請戸川や室原川とかなるのもそうである。請戸川は請戸地域から見てそうなづけた。川は上流から流れてくるのだから請戸川というのは普通はなじみにくい。
請戸となると港を意識するからてある。

こういうことは陸前浜街道は仙台方面から名づけられた。仙台から江戸に行こうとすると陸前国(宮城県)が出発点になるからそうなる。これは請戸川とにている。出発点から意識される名づけかたである。逆に水戸街道と言う時は水戸へ行くことが意識される。目的地が意識される名前である。それは江戸と水戸は水戸黄門で知られるように御三家でありつながりが強いからである。日光街道も日光へ将軍が参拝すること徳川家の代々の菩提があるから名付けられた。つまり江戸から近いから江戸の領域である。単に地理的なものだけでなく水戸は徳川幕府の延長のような場所だったのである。

 

 あらたうと青葉若葉の日の光 芭蕉


まさにこういう幕府の威光の及ぶ地域だった。みちのくとなるとこれは江戸時代でも相当に辺境の地域だから奥の細道が生れた。ただ当時の距離感覚時間感覚が今は変わりすぎて理解しにくい。諺で遠くの親戚より近くの他人と言うけどこれは今だと嫁ぎ先が全国に散らばる。千葉県に妹が嫁いだとか聞いても千葉県ですか近いですとかなる。島根県だとかなると遠いですとかなる北海道でもそうである。でも全国的に嫁ぎ先は広がっている。
外国までも広がっっている。だから遠くの親戚とはそういう遠い地域を意識する。でも江戸時代は隣の村でも遠いのである。なぜならば歩いて移動しているのだからそれだけ遠いことになる。だから何かあっても緊急事態でもとても隣の村からでも歩いたら遠い,途中に坂道などがあると余計に一日かかりとかなる。鹿島から相馬市まででも歩いたら遠いのである。そういう距離の感覚があまりにも違いすぎるから昔をふりかえるとき必ず大きな錯覚をしているのだ。


陸前浜街道と言っても海が見える場所はまれだった。ただ浜吉田の駅まで津浪が来ていたのには驚いた。あそこが海が近いとは思わなかった。実際に写真で鉄道の線路の前が海になっていたのである。本当に浜吉田だったのである。鉄道でも海が見えるのは新地の所でありそれもわずかしか見えないから海を意識しなかったのである。山下駅もあんなに海が近いとは意識しなかった。海はもっとずっと遠いと思っていたのである。山元町のの水田が砂土が多いのは海岸の砂丘地帯のためであると書いてある本があった。あの辺はやはり砂ということは海が迫っていて海岸の砂地だったのである。だから被害が大きかった。

ただこの辺でも海から三キロ地点くらいまで津浪が来た。これだけは本当に驚いた。

三キロ地点でも低い波でも津浪の被害が大きくなる。いろいろなものが流れてくるから津浪は怖いのである。だから前に林や竹藪のようなものがあると津浪の勢いがやわらげられたのであく。鹿島区の御刀神社はそうだった。神社の林にさえぎられて漂流物をさけることができたのである。ただ海岸に接していれば根こそぎ流されたから海岸に接したところは壊滅したのである。街道が津浪が押し寄せた所を避けるように作られていたというのはやはり古代からの記憶がそうさせたのか、やはり人間は自然の歴史も無視して開発したり文明化すると危険なことになっていた。


旅するにしてももう関東地域は都市化が激しいからとても昔を偲ぶことはむずかしい。
イワキからでも水戸に通じているという感覚が湧いてこない、


棚倉町には奥州一ノ宮を称する馬場都々古別神社と八槻都々古別神社の2社があり、両社とも日本武尊や坂上田村麻呂が関与し延喜式神名帳に記載されている式内社です


棚倉町のこの古い神社から水戸の方に昔の街道が通じていてこちらの方が何か水戸を意識したのである。福島県では棚倉は意外と意識されにくくなっている。東北線や常磐線や主要道路からもずれているからそうなった。ある意味で地理的に忘れられたスポットととなっている。エアボケットのようになっているのだ。ただ古代の道は棚倉を通っていたということである。まず歴史か地理だという時、この地理の感覚は地図を見てもわからないのだ。立体地図を見ようがとてもわかるものではない、福島県にしても広大であり地図見ただけではわからないのである。地理がわからないことがやはり誤解を生むのである。
水郡線は一回だけ乗ったけどこれもかなり距離があった。止まる駅も多かった。一回だけだから記憶があまりない。やはり自転車で行った方が記憶に残っている。


都々古別(つつこわけ)神社の古りて水戸へ行く街道見つつ秋の日暮れぬ


現代は車などだと昔を偲ぶこともむずかしいだろう。確かに遠くまでは行けるのだが距離感覚が全く違ったものとなってしまっているからだ。宿場なども車では意識しにくいのである。その点、自分は自転車で相当に旅したから記憶に残っているものがあった。鉄道の旅でも記憶にのこりにくいのである。要するに現代は旅というものが消えた時代なのである。ただ早く目的地に移動するだけになってしまっているのだ。旅はどうしても道を延々とたどることにあったからである。

 

2013年11月13日

冬籠もる栃窪村(村にはそれぞれ違った趣がある)

 

冬籠もる栃窪村(村にはそれぞれ違った趣がある)

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墓地ありぬ上栃窪や秋の蝉
栃窪の山に残れる冬薊
栃窪に古峰の碑や冬の暮
栃窪に三つの道や冬の暮
栃窪に眠れる人や落葉かな


栃窪に知られぬ道や誰が家や白き山茶花夕べ散りにき

栃窪に知られぬ道や古き碑のまたたずねけり秋のくれかな
栃窪に蛹一つや山間に陽の没りにしや冬ごもるかな
栃窪の奥の家かな薪を積み木の葉の散りて冬ごもるかな
栃窪に塩の道かな冬の日や助け観音昔祈りぬ
栃窪の水清くして米うまし前は我が家も買いにけるかな


栃窪には飯館に行く道は一本だけど脇道がある。そして知らない道があったことに気付いた。そこは初めて行ったから新鮮だった。真野川をわたった所にも家があり道がある。
そこは山陰になって暗い感じになる。そこは放射能が栃窪でも高かった不思議がある。
一つの村でも実際は一本だけの道ではない、どこでもいくつかの道がある。ただ旅をする時はどうしても早く近い道を行くから脇道によることができないのでてある。
でも旅は脇道を入ってゆくことにもあった。近くでも道はいくらでもある。するとその道によって趣が変わってくるのだ。

栃窪というとあそこはまだそれほど車が通らないのがいい。原町の大原は意外と飯館から川俣から福島市の県道になっているから頻繁に車が通るからあまりいい感じがしない、
鄙びた村という感じがしなくなる。

だから不思議なの大葦は秘境だったと書いたが昔は車が通らないから辺鄙な所になっていた。でも車が通ると幹線道路になっているから秘境などと誰も感じないのである。幹線道路沿いはみんなそうなる。

橲原(じさばら)はさらに車が通らないからエアポケットのようになたっているから趣がある。スポット的には茶室に一番向いているだろう。城下町の相馬市も最近ずっと行っていないが茶室的な趣がある。原町市にはそうしたものを感じないのである。
石神村にも紙漉きをしていた農家があったというが石神は広いから村の趣を今は感じない、総じて今は村を感じることが少ない、村は自給自足の時、村でありえたのである。
そういう暮らしがなくなったとき、村自体も変質してしまった。
ただ以前としてその土地は変わっていないから一応村ではある。


相馬藩内でもいろいろ特徴がある。海みがあるから漁村もあったということが浜通りでは違っていた。ただ今回津浪で壊滅させられた。それでも今は松川浦だって漁村というふうに見ていない、松川浦だってみんなが漁師ではないのだ。勤め人が多くなっているだろう。現実に新地相馬火力発電所に1000人雇用があるというときそっちの方がに勤めている人も多いし工業団地もあるのだから鄙びた漁村というのはもうどこにもありえないのだ。烏崎村などは火力発電所が建って漁村という感じはなくなっていた。
ただ港があり船が出ていることは違っていた。
船が出て松原があり松風が鳴る風景はつづいていたのである。海岸線のそうした風景は失われてしまった。ただ松川浦は磯部が壊滅しても港が大きいから船を残っているし海辺の街の風景は残っている。ただ今はどこでも鄙びた漁村はないのである。
浜通りの恵まれていたのは海があり山があり暮らしがあったことである。
今日も北風が唸り街の中に鴎が飛んできた。


風うなり街に飛び来る冬鴎


鴎が街の中に飛んでくるから海が近いのである。亘理でも駅に鴎が飛んできたのを見たことがある。つまり今回の津浪でわかったように海は見えないにしろ鴎が飛んでくれば海が近いのである。

栃窪は山の村である。でも規模的には村としては大きい、だから下栃窪と上栃窪がある。あそこに古峰とか碑だ並んでいるのも江戸時代からそれなりの規模で村があったからである。こういう村がなくなることは何か精神的にもそこに住んでいなくても失われるものがある。だからコンパクトシティは確かに便利だし必要なのだがこうした村がなくなりみんな街に住むようになったらどうなるのか?津浪で海老とか烏崎村がなくなりそうなった。でも村があり暮らしがあって村は作られていたのである。
そこがただの耕作地として家もなくなったらどうなるのか?そこには何か大きなものがぬけて空洞化したような感じになるだろう。
この辺では現実に村がなくなる、街までなくなるということが起きている。
飯館村も一年以上行っていないけどそこはどうなってしまうのか、幹線道路は通じているから人がまだ入っているから村自体がなくなったような気がしないにしろ何か空洞化してしまった。そもそも村は代々住む人がいて成り立っていたのである。


栃窪の特徴としては山側だから水がきれいだから米がうまいと米をついも買っていた。でも最近買っていない、米は会津の方の米でもうまい、新潟でもうまい、ブランド品がいろいろありみんなうまいのである。味噌にしても地元で作っていても最近京都の味噌で味噌汁を作ったがこれは薄味だった。でも米に会津の味があり味噌に京都の味がありともなる。ただ現実生活として地元のものを活かさない限り地元の味がないかぎり人間の生活は味わい深いものとはならないのだ。外部からばかり買っている生活は生活ではない、今や何も作らないで買うだけの生活、農家ですらそうなっていることはもうすでにこの辺は生活がないのだから何か都会化した感じになる。
田舎で根を下ろす生活とはやはりそこで生産して消費することがあってこそである。
それは農業にたづさわらない人でも田舎では農家的になるのだ。
ただこういうことも便利になり豊かになったときかえって昔はいいなとなるが現実昔に帰ったら前の便利な豊かな生活にもどりたいとなるのである。
つまり老人は昔を回想することに何か豊かさを感じると同じなのである。


いづれにしろ冬はじっくりと囲炉裏がありあたたまり昔を回想するのに向いているのだ。
それは田舎でないとそうはならない、そしいう生活は都会の人も求めているのである。
だから昔の生活が高齢化で見直され昔風なものが復活してくるかもしれない、高齢化社会の暗黒面だけが語られるが意外とそういう昔にもどる文化が復活してくる時代なのである。

十八の屋根並びたる小村かな 子規


このくらいの規模の村が多かったのか、一つ一つの家が数えられその生活が偲ばれる。
それが村だったのである。飯館の大倉村でも佐須村でもそうだった。そういう村の生活も味わい深いものがあった。ただこれは実際の現実になると苦労しかないともなる。
そもそもそういう小さい村でどうして今になると生活できたのが不思議だと感じるのもそのためなのである。今村で生活できるのは車があるからであり文明の恩恵があって村で生活できている。だから村自体が昔の村とはまるで違ったものとなっているのだ。

2013年11月14日

あらゆる権力は常に悪用される (徳州会の腐敗、原発事故と同じ構図だった)

 

あらゆる権力は常に悪用される


(徳州会の腐敗、原発事故と同じ構図だった)

●病院は現代の寺院である


資金の出所が患者の治療費だ。運動員も病院関係者である。運動も戸別訪問をさせてきている、という。違反、違反での当選は、いかにもひどすぎる。それを放任してきた鹿児島県警・検察であった。

http://blogs.yahoo.co.jp/uwajima_sophia/15621896.html


ここのプログで批判されているこれは徳州会だけの問題ではない、原発と同じように広範囲に政治家や検察まで巻き込んだものだった。だから何かこれも原発事故とにているのだ。東電を徳州会に置き換えればそき構図はにている。

現代は病院が権力を一番もっている。病院はかつての寺院であり医者は聖職者である。
人類の歴史で一番苦しんできたのが病気である。いかに病気を治すかが最大の課題だった。だから仏教でも病気を治すために祈ることであった。そのために信者になった。
今でも病気の問題は解決していないから以前として宗教に頼りカルト宗教が衰えないのである。医者は神様のように崇められるのもまさにかつての聖職者になっているからだ。

小さな村でもなぜ山伏、法印とかが必ず一人いたのだろうか?小さな村でなぜそういう人を養えたのだろうか?それはほとんど加持祈祷であり病気を直すために祈る人だったのである。それだけ病気は深刻なものだった。今でもそれは変わりないが今や宗教は衰え科学全盛の時代であり病院が寺院になり医者が聖職者となった時代である。だかち寺院が権力の場となり僧侶が堕落したようにそこに歴史的に同じ構図がある。

人間は一番病気に弱い存在なのである。徳州会の創始者の徳田氏が悲惨な難病にかかったことでもわかる。あれだけの病院を作り看護されているのも皮肉である。でもその病気が直せないことでいかに病気が深刻なものかわかる。どんな手厚い治療しても直せないのである。どんな英雄でも病気になったらあのように弱者になってしまう。

自分の身内でもそのことを嫌というほど体験した。認知症になったりしら筋ジストロフィーより悲惨である。自分の身内は本当に優秀な人だった。でも認知症になりその優秀さはすべて崩壊した。そして虫の息で「俺は優秀だった」と言って死んだが虚しかった。
そこまで自分が優秀だということにこだわることが理解できなかった。
その優秀さも認知症になりすべて崩壊してしまったのである。


●徳田虎雄氏の最初の志が政治への野心で消えた


徳田虎雄氏も相当に優秀な人であり天才か英雄だった。その志は僻地医療であった。辺鄙な島で生れたことや弟が若死にしたことで医療に志した。この志は悪いものではないしそれを実現したのだから天才だったのだろう。
ではなぜこのように狂ってしまったのか?それは政治家を志してその政治のために徳州会という病院組織を利用したことである。そこが間違いの元だった。すでに熾烈な島の選挙で現金が飛んでいた。その時から選挙違反だったのだけど検察や警察でも見逃していたというからもうすでにそれだけの権力をもっていたのである。それは東電ともにていた。
検察の天下り先として東電があるから検察もその権力に従うことになる。今でも検察は一体幹部をなぜ逮捕しないのだという世論があるが何もしていないのである。


徳田氏は政治に首をつっこんでから今度はその野心がふくらみ総理大臣になると言っていたそうである。そうすると政治の野心を達成することが目的となり最初の僻地医療につくすという志から離れたものとなっていった。それは政治への野望が大きくなっていったためである。それだけの力もあると過信していった。病院というのはそれだけの権力を現代ではもてる場所なのである。その莫大な金が政治家にも流れていたからその流れを与野党に及ぶという。これも東電とにた構図があったのである。


ここで共通しているのはあらゆる権力は悪用されるということである。それは歴史が証明している。宗教にしてもカトリックの歴史は政治として権力をもつことにより腐敗した。それも法王は国王と同等の権力をもち贅を極めたのである。妾も七人もったとか一族の繁栄のみ計ったとか免罪符で金儲けしか考えなかったとかその腐敗は目にあまるものでありルタ-が生れてプロテスタントが生れたことは歴史的必然だった。プロテスタントはカトリックの政治化して権力をもった腐敗に抵抗するという意味だったのである。
そこから政教分離という法律がヨーロッパに生れたのはこうした歴史があったためである。


一見今回のと徳州会のことと関係ないように見えてもやはり共通性があったのだ。病院が現代の寺院だとするとその患者は信者でありその信者から金をもらい信用を得て権力化している。患者も一票となるから政治力をもつことになる。それは創価などともにている。信者が何であれ一票であれ選挙を目的として権力を得ることを目的としていまことは同じなのである。ただ徳田氏のように最初は違っていたが池田大作が会長になったあたりから政治化して権力奪取を目指すようになった。これらは何か人間として歴史的に繰り返されたことであり今に始まったことではないのだ。ただ形を変えているから違ったように見える。その根底に人間の欲望があり欲望は消えないから同じカルマを繰り返すのである。


●権力は常に悪用され乱用される


この世の中あらゆる権力は悪用される、乱用されるということである。徳田虎雄氏が病気になったときその娘が権力をにぎり乱用するようになった。何かその人相も悪い、これは巨額な遺産を残す所では常に起きていることだから珍しくはない、娘にはただ権力のみが目的化して徳田氏のような志はまるでないからただ権力を乱用するだけとなる。
このことは必ず巨大な権力をもつ家であれ組織であれ起きていることである。
権力は必ず腐敗するとか、権力は乱用されるとか権力をもつこと自体がすでに危険をはらんでいる。そもそも人間の歴史がその権力の興亡だということが言える。
人間はいかに権力によってゆがめられるか、それは人間の欲望が限りないからである。


原発事故もまたにたものだったのである。東電というのは徳州会病院と同じく巨大な権力をもっていた。その金が湯水のように使われ政府も巻き込んで「安全神話が作られた。その時も検察は見逃していたし東電の見方だった。なぜなら検察も権力側につくからである。だからその権力の乱用を抑えることはできないのである。権力が東電であれ徳州会であれ巨大化すればその権力に検察も警察ものみこまれるということである。
「徳州会王国」「創価王国」「オウム王国」「幸福の科学王国」「・・・・」・・・
これららは同じものとしてあった。共通しているのは政治化することにより権力にかかわり権力を我が物にしようとすることである。そして権力への野心のみになりこの世の王になろうとする。それはまさにサタンの目論見であった。

つまり徳田虎雄氏は最初は志は天使だったけど権力を目指す、政治家になったときサタンになり悪魔に堕落したともなる。それはこの世で繰り返してきたことなのだろう。

それだけまた権力の魅力は大きいからそうなる。
人間の欲望こそが権力を作るのである。原発事故もやはりこうした人間の欲望と深くかかわって地元でも原発が建つ前から巨額の賠償金でふりまわされていたのである。
原発事故後も同じだった。ただこの辺は素朴な生活は失われ補償金だけが目当てとなっていてこんなところに住みたくないと外部から来て住んでいた人は去ってしまった。
歴史とは同じカルマの繰り返しかであり個人でも同じである。それがなくならないのは人間の欲望がなくならないからいつまでたっても同じことを個人でも組織でも繰り返しているのである。

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2013年11月15日

徳州会問題の深層(2) (その背景もまたアメリカの手先の特捜がかかわるーTPPと関係していた?)

 


徳州会問題の深層(2)

(その背景もまたアメリカの手先の特捜がかかわるーTPPと関係していた?)


徳州会について(医師自身の体験談)
http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2013-09-17

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医者へのお礼の金を拒否したことは評価できる


ここのプログは徳州会について詳しい。徳州会の問題もまたその背景が複雑であり簡単には断定できるものではなかった。テレビの報道やマスコミだと徳州会が何なのかわからないのに逮捕されたというだけで悪者と断定してしまう。白黒をそこでつけてしまう。
その原因がいろいろなことを調べるのが面倒だからである。次々に問題が起きる時、いちいちそれに詳しく知ることがめんどうになるしわからないからその時々で逮捕されたんだからあいつは悪者だと断定してしまう。マスメデアはそういうメデアであり深く掘り下げて報道しない、そういうことをまた見ている庶民も嫌うのである。とにかくわかりやすく断定するのが庶民に受ける。前小泉首相のやり口がワンフレーズで断定して大衆の指示を受けたのである。今も原発ゼロで断定して発言しているのでもわかる。大衆にとってめんどうなことを言っても受けない、断定して言うことがわかりやすいからひきつける。
それはナチスの手法ともにている。カルト宗教団体でも拝めば題目を唱えれば望みがかなえられるというのが一番いい方法なのだ。だからこそあれだけの信者がふえているのだ。

まず徳州会って何なのだろうと関係しない人はにはわからない、そして今までは調べようがなかったのである。インターネットが生れてキーワードで調べる手法が生れて庶民でもある程度知識を得ることができるようになった。これもマスコミからだけだと一方的なおしつけになる。プログで情報を発信する人は素人でもそれなりの専門家だから意外と詳しい。この人のプログも医者だから詳しいし実際に体験して語っているから訴えるものがある。

徳州会の理念は悪いものではない、医者へのお礼を受け取らないというのはいいことだった。プログの医者はそこに良心の痛みを感じていたという、確かに医者にお礼の金を払うことは常態化していたという、そして金をもらって患者への待遇は変わらないというのは嘘だという、人間だからどうしても金をもらったことによって変わってしまう。このことは金を払う方でも自分だけは良くししてもらいたいということがあり何かうしろめたいものができてくる。もらう方でも金をもらったから待遇を変えるというのに後ろめたさが生れる。そこで徳田氏の命は平等だという理念も

生れた。金や地位や財力によって患者を差別してはいけないという理念である。それは医療が命にかかわる問題だからそうなる。
差別されて金のあるもの地位あるものが生き残り財力も地位もないものが死んだとなると深刻だからである。現実に今は金がなくて高い薬が買えなくて死んでいる人もいる。これは昔からあったことである。そういう不平等をなくそうとしたことはやはり志があり人々に受け入れられていたのである。医者というのは給料だけではないそうした手術などのお礼金が入るから金を稼ぐ人は稼ぐのである。手術だと命にかかわるから患者はどうしても良くしてもらいたいとしてそうなる。一方で身寄りがないとか弱い立場の人、金のない人は研修医の実験台にされる。それはアメリカでは露骨に行われている。アメリカでは金によってあからさまに医療も差別される社会である。日本の国民保険はそういう点では問題があるにしろ平等の原理に基づいている。


●特捜がかかわり逮捕したのはTPPでアメリカに指示されたため


 だから、怪情報も飛ぶ。徳田毅と「徳州会」を刺した特捜部のバックには、米国がいるのでは――。なぜかというと、徳田毅は自身のブログで痛烈な米国批判をしているほどの「TPP反対派」だからだ。

 これまでの日米経済交渉では、オレンジ、米、自動車、半導体などひとつひとつで厳しい交渉をしてきた日本が、貿易、金融、保険、知的財産、政府調達、医療、教育など全ての分野において、米国が定める経済ルールを全て押し付けられ、我が国は主権国家であるにもかかわらず、何一つ決めることが出来なくなり、果として次世代の子供たちは日本の国創りが出来なくなるということが本当にわかっておられるのでしょうか。(徳田毅オフィシャルブログ2012年11月12日より)


検察とか特に特捜は日本がアメリカに戦争で負けて支配された時、アメリカの言うようにされた組織であった。そのことは今もひきづっている。つまり徳州会がTPPに反対でありそれでアメリカが検察や特捜にかかわり逮捕に踏み切ったのか?何かこうした大きな問題の背後にはアメリカが黒幕としてありその黒幕は表にでてこない、フクシマ原発でもアメリカのGEという会社がかかわっていたがそれも表には出てこない、そういう仕組みになっているからその裏の権力をもっているものが何なのかわかりにくいし闇の中にある。
つまりこの世で大きな権力は表に現れないのである。
TPPは本当はかなり国家にとって重大な問題でもこれもわかりにくい、農家や医療関係者が反対していることは何かそこに大きな問題を直接的に肌で感じているからである。
ただそれを主導しているのはアメリカの政治家ではないというのもまた複雑である。



原発・憲法・TPP&消費税・沖縄これが、いま私たち主権者が直面する五大問題である。
安倍政権はジュゴンが生息する辺野古の美しい海岸を破壊して、巨大な軍事基地を建設しようとしている。

辺野古海岸を破壊するには、沖縄の仲井真知事による海岸埋め立ての許可が必要だ。
来年1月には、最大の焦点となる沖縄県名護市の市長選がある。
安倍政権としては、この選挙前に仲井真知事から海岸埋め立ての許可を得たいとの思いが強い。
2010年の仲井真知事再選の直前には、尖閣海域で中国漁船の衝突事故が創作された。これも仲井真知事を再選させるための工作活動のひとつであったと思われる。
その選挙から3年が過ぎ去ろうとしている。
この選挙でも選挙違反があったのかどうか。
公訴時効の3年を目前に、いま、徳洲会病院の選挙違反捜査が進められている。

これは私の推測だが、徳洲会事件は安倍政権が仲井真知事を追い込むために表面化させた事件なのではないか。

 人の健康を治療するという、崇高な職業に相応の利益がもたらされることに、国民は理解している。しかし、それ以上については、大いなる疑問を抱いている。高級車・別荘・メカケに象徴される医師を尊敬していない。政治と行政との太いパイプを活用すると、途方もない暴利を手にできる不思議な職業に疑問を抱いている。
 「都知事候補に4億円をポンを出す病院理事長は、病院を犯罪組織にしている」という内通者の指摘は的を射ている。

 目下のTPPにからめて米国は、日本に対して医療行政に規制緩和を求めてきている。安倍内閣はそれに応えるようだ。このことに日本医師会は、対応に大わらわだという。皆保
険制度もピンチを迎えている。


TPPの狙いは、日本の資産を奪い尽くすことです。

その一つが、医療産業を支配することです。
医療産業が支配できれば、医療を表看板にして、日本最大の資産家層=老人層から莫大な資産を奪い取ることができる!というわけです。

さらに、癌や免疫不全など放射能障害の巨大な「治療市場」が生まれ始まっていますし、世界中に販売できる被曝データの収集だけでも世界一の市場が誕生しようとしています…。

そのために、先ずは、巨大病院チェーン・徳洲会を強奪しておく!
この手羽先として東京地検を使う! 東京地検は、徳洲会資産の強奪部隊なのです。


■検察は
 『殺人企業東電』の罪を断罪せず

 新たな殺人準備の
 露払いを買って出たのダ!

07. 2013年9月26日 22:04:15 : QTot2nwkdM
もう検察官を次々と殺さないと効かないじゃない。
検察を更生させるのは無理だぞ

検察庁は福島原発事故で住民を死傷させたとして告訴されていた東電経営陣や政府高官を全員不起訴にした。工場が事故を起こすなどした時はすぐに家宅捜索に入り、会社幹部を逮捕する検察庁なのだが、原子力ムラには手が出せないようだ。
 その検察庁が「泉田知事をターゲットにした」との記事が『サンデー毎日』(10月6日号)に掲載された。同誌は地検特捜部関係者のコメントとして次のように書いている――


これも複雑だけどアメリカの意向が反映している。アメリカはどうしても辺野古に基地を作りたい、それで中国の驚異を尖閣問題で吹聴する。それも操作しているというとアメリカがそうして日本の情報を操作して国民が洗脳されているということになる。
いづれにしろアメリカには日本は逆らえないから常にアメリカの意向に従うというのが政策になりそれに反するものは検察によって逮捕される。
なぜ本当に東電の幹部が逮捕されないのか?
検察には逮捕できない事情があることなのだ。
検察は国家的問題については信用できないということである。
なぜまた柏崎の東電の原発を再稼働するために泉田知事が責められている。それはプルサーマルで責められて失脚した前の佐藤栄佐久知事と同じ立場になっている。


●TPPはアメリカの企業が日本や世界を支配するためのもの


ゆえに、現在、米政府機能が停止しているがためにTPP交渉に多大な影響があるかいうと、オバマにすら実質的に何の権限もないため、影響などほとんどないに等しく、多国籍企業と参加各国のマヌケな高官の間で、「多国籍企業によるあらゆる産業分野での経済占領」を実現するためのプランが粛々と進められていることであろう。

TPPの”黒幕”は多国籍企業であり、米議会はTPP交渉の内容へのアクセス権も有しておらず、かつ多くの議員がこれら多国籍企業の”傀儡”であろうという現実を考えると、残念ながら誰ももはや「TPP」の流れを止められないであろうというのが個人的見解である。
そのTPP交渉の中で、あらゆる産業分野における「経済植民地化政策」が盛り込まれるであろうことは勿論、それに加え、「ネット言論の弾圧」までもが盛り込まれたとなるとこれは一大事である。

オバマ大統領にすら権限がないという時やはり常にいわれるロックフェラーやロスチャイルドが支配権を握っているのか?そうでないにしろ国家より国際企業が力が上であり企業のためめに国家があり政治家がある。その構図は東電の原発事故で明らかにされた。
実質的利益を生み出すのは企業であり政治家ではないからだ。政治家はその企業に癒着して利益の分け前をもらうという構図である。グローバル化といってもそれはアメリカの有利にできていてアメリカの意向に従うということなになる。それによって日本の文化すら破壊される。でもアメリカの圧力が具体的に見えない、アメリカは常に表に出てこないからわかりにくいのである。現代とは世界が国家を越えて企業化している。企業はすでにグローバル化して国家になっている。国家の役割は衰退して企業優先の社会になる。

そこが原発事故が起きた要因でもあった。企業の力があまりにも大きくなるとそれが自然破壊にもなるし事故にも通じてくる。東電の原発事故の要因はそうした巨大な企業が暴走したことにもあった。津浪の安全策をとらなかったのも東電ではコストを重視していたからである。それで清水社長がコストカッターとしてのしあがったことでもわかる。

「津浪対策は必要では」
「千年に一度とかそんなものを考えていられるか、400年前のことなどもどうでもいい今はコストカットなんだよ、
だから高くするより削り取って低くしろ」

おそろくこうした清水社長の意見に押されてわざわざ高くして作ったのを削り取り低くした。それをおさえるのが保安委員だけど何の役にもたたなかった。そのことは企業の力が上になっていたからだろう。それはアメリカでも同じだったのである。
そして日本でもそうだが会社の罪を問う法律がないのも不思議である。
そして会社を監視する検察も東電の幹部を逮捕できないことで会社の下僕であることがわかった。検察が何か正しいと思わされていたが検察も信用できないとなるときすでに民主主義とか国家とかそういうものも崩壊している。
新潟県知事の泉田知事が柏崎の原発再稼働反対で命の危険にもさらされているという。
これは福島県の前知事の佐藤栄佐久氏もそうだった。アメリカのGEの社員であった渡辺恒三の息子などがいてその後押しで原発が建てられていたのである。

現代の問題の構図にはそうしたアメリカとか多国籍グローバル化した企業とががかかわっている。それらが腐敗の元になっているのだ。

いづれにしろ今回の事件の問題はマスメデアや検察の方を一方的に評価してしまった。
なぜかというと徳州会についての知識がなかったためである。日頃から関心をもっていて知識があればそうはならなかった。それがインターネットでキーワードで調べることができたから知識を深めることができたのである。こういうのは即座に知らないと効果が発揮しないのである。一日遅れても効果が発揮しないことがある。
なぜなら問題は事件は次々に起きてくるからである。

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2013年11月16日

郷土史研究に欠かせない墓地を調べること


郷土史研究に欠かせない墓地を調べること

郷土史研究で一番身近なのは祖父母から聞く話である。なぜならそれは生きた証人から聞く話になるから本で読むのとは違う重みが加わる。老人は無駄だから税金の無駄使いだから早く死ねと若い人に高齢化社会で言われる。それはあまりにも高齢者が多くなりそれに金がかかりすぎるからである。老人が貴重だったのは長生きした人が少なく価値があったのである。昔は長生きしただけで何も功績がなくても価値があった。なぜなら長生きすることが極めて困難な厳しい時代だったから長生きしたということだけで価値が生れた。
今はそういう価値が生れない、ただ老人は若者の負担になるだけだというのが現代である。でもそもそもそういう経済的な負担などをぬきにすれば老人はもともと存在するだけでも重みある価値あるものがあった。すべてではないにしろそういう重みをもつものが人間が長生きするということであった。今だって一芸に秀でるには60過ぎないとならない、それだかけの積み重ねが年月が必要なのである。天才は別にして普通の人間はそうである。

もう一つ郷土史研究で必要なのが墓地を調べることだった。これは自分はずいぶんしてきた。それをプログにも出してきた。墓地というのも本で調べるよりここに生きて死んだと人がいたということで具体性がでてくるから過去がより身近に感じるから墓地を調べることは郷土研究にかかせないのである。墓地には故郷の人が知らない意外な発見がある。
それか自分の墓のある鹿島御子神社の脇の墓地だった。あそこは新しい明治以降の墓地だと思っていた。でも天保時代の小さな碑があったし宝暦の大きな碑もあった。あそこは神宮寺であり神社が前にありそのあとに寺ができてそこで寺小屋が生れあの碑が建てられたのかもしれない、墓地はどこでも必ず歴史を語っているのだ。一つ一つの家族墓でも歴史を語っている。


墓の歴史をかえりみると不思議なのは最初は個人墓なのである。これは自分も働いて財を残したから墓を建ててみようとなったらしい。墓を作るには今でもそうだがそれなりの財が必要なので簡単に建てられなかった。武家は五輪塔など建てたが庶民は建てられなかった。そして個人墓の次が夫婦墓だったのである。この辺でも夫婦墓が多い、それは江戸時代からの継続として明治時代でも夫婦はか多いのである。家族墓は明治時代になり政府の指示で家族墓になったという経緯がある。ということは家族墓は何か人間の自然な生活から生れたものではなかった。強制されたものだったともいえる。

妻が夫の姓を名乗るのは明治時代以降のことである。それであるから、妻が死ぬとその遺骸は里方の墓地に葬られることが多かった。夫方の墓地に葬られても、その名は里方のものを記されたのである。
こういう墓が相馬市の成田にあった。それをプログで紹介した。


大まかな変遷としては個人墓がまず出現し、次に夫婦ないしは一組の男女と三名以上 )
併記の家族墓が一七世紀中頃に出現する。( )なお、男女一組の戒名は親子の組み合わせも考えられるが、基本的には夫婦と捉えている。同様に複数の成人、あるいは子供も血縁者と考えて家族墓とする。個人墓は一人世紀代まで卓越し、一九世紀以降は夫婦ないしは男女一組墓・家族墓が主体となる
ただし、個人墓は減少せずに一九世紀代まで推移していることが大きな特徴であり

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野田山墓地の無縁墳墓の改葬に関する実証的研究
http://www.icc.ac.jp/univ/morizemi/Date/PDF/Muen-2.pdf


まず個人がなにかしらの自分の記念として後世に伝えようとして墓を作った。次に夫婦墓になったのは夫婦の結合が一番人間にとって強かったということもある。
「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」という諺がこれを示している。他に他人は五世という諺もある。五世とはなぜなのか?それは親子や夫婦の関係でもいつかは切れてしまう。死んでしまいばもうそのつながりは墓だけに記されるてもやがてその墓も消えてしまう。でも他人とか地域とか社会はつづいている。親子でも夫婦でも主従でも長い時間では実際他人になってしまう。人間は結局血縁でももともと他人なのである。そういうことを子供他人だという時、親の財産が欲しいというだけになったりするからその時子供他人だと思ってしまうし現実にそうっなっている人もいる。血縁でも家族でもあるとき、老後はそうなりやすいのである。現代では家族の紐帯が弱くなっているから余計にそうなのだ。もともと日本では家族のつながりより村のつながりが強いからほとんど地名が姓になっていた。

夫婦墓というとき、宮本常一の考察が人間を深く見ているなとつくづく思う。


この地の墓には夫婦の戒名を刻んだものがほとんどである。この墓が象徴しているように島の人たちの夫婦仲はいたってよいようである。夫婦で力いっはい稼いでこの風光の中で生きこの丘に埋められている。そして墓も一つなのである。
(私の日本地図-瀬戸内海4 備讃の瀬戸付近)
meotohaka11.jpg

俳句にすると「故郷や冬の日さして夫婦墓」とかなる


こういうふうに墓を見ている人は少ないだろう。島で暮らした人の一生をここで深くみているのである。つまりこの人たちは幸せだったなと墓からも回想できているのである。それは今は瀬戸内海の島のあたたかい光につつまれて眠っているのである。墓も海に向いて墓もあるし山の中の墓もあるし海を向いた墓だと常に海を死んでも思っているのかと想像するのである。島ではたいがいそうなりやすい。これは明治以降昭和になっても夫婦墓がこれほど多かったのは他とは違っている。それは夫婦で協力して島で生活していたことが影響していたのである。それだけ島での生活は人間の一体感を生んでいたのである。
これは昔はたいがいそういう傾向があったが破壊されてきたのである。
田から人間の幸福などなかなかわからないのだ。昔は貧乏だというのも本当だしでも本当にそれが全部不幸かとは言えないのである。それを墓から見えたのである。
ただ墓地でも地域性があり相馬藩では三分の一が天明の飢饉などによる越中などからの移民であり真宗系統でありその墓がわかりやすいのである。墓地をみればこんなに真宗系統の移民が多かったことが納得する。


墓が跡継ぎとかいないとか問題になるのは家族墓が維持できなくなっているのはまさに現代の家族の状況とかが反映しているのだ。核家族化とか家族の紐帯の希薄化は家族にだけ原因があるのではなく島での生活ならそこでの生活で紐帯が強められるがそこから人々が工場とか外にでてゆくようになるとつながりは希薄化する。すると夫婦の繋がりも弱められる、離婚も増えてくるとかいろいろな現代的問題が生れる。
現発事故だってそうである。事故で家族がばらばらにされたとき大熊の人だったかロウソクでも家族一緒に暮らしたいと言っていた。この辺は家族もバラバラにされてしまっているのだ。若い人は流出して家族はばらばらになっている。飯館村などでも大家族で暮らしていた人たちも多かったかバラバラなって暮らすようになった。原発でもそうだがそうしたものが地域の生活を破壊してしまうものだった。過度な工業化とかで失われたものも多いのである。


「現代社会においては、過去との連続性が失われ、 過去は遠い異邦となり、その典型として、先祖は集合的記憶を共有することによって形成 される「記憶の共同体」の成員ではなく、異邦人となった」(片桐2006:187)
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/jinshaken21-12.pdf


墓もその一つだったのである。墓の共同性というときそれは今の現実の生活に共同性が失われているから墓もそうなっているのだ。夫婦でも一つの墓に入りたくないという女性が三分の一とかいるとしたらそれは何を意味しているのか?夫婦でも島の夫婦墓のような感覚がない、それは離婚が多いということでもわかる。家族でも地域でもそうした昔からの共同とか繋がりが破壊されてみんな会社の一員となった。結果として会社が第一になり地域はないがしろにされ東電のような巨大会社に地域は踏みじられたのである。
これは地域の生活はそもそもすでにその昔ながらの生活も破壊されていた結果だったともなる。

郷土史でしれ国の歴史であり「記憶の共同体」として根底にある。それが歴史の意味である。そういう記憶の共同体も最小単位の家族でも
そのつながりが消えたら失われる。現実に原発事故で警戒区域となり住めなくな地域は「記憶の共同体」が喪失してしまう。
歴史を失うということである。それか何を意味しているのか?結局もう地域のつながりが喪失する。
ただ補償金をぶんどるための組織だけになってしまったのである。そういうつながりはやがてまたばらばらになり地域のつながりは喪失する。
明かに原発周辺は東電の社員化していたのである。だから東電に世話になれということが盛んに外部から言われているのだ。

posted by 老鶯 at 12:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)