2013年11月01日

戦後経済を振り返る (石炭ー石油ー原発は文明を支えるもので最終的に滅亡)


戦後経済を振り返る

(石炭ー石油ー原発は文明を支えるもので最終的に滅亡)

中核になったのが炭鉱であり国鉄であり、いわゆる昔の「3公社5現業」の構造である。

人間が太陽の恵みのみを唯一の生産行為として時代は過去のものとなり、人間がエネルギーを利用して人間へものを供給する時代それが産業革命以降の流れになってきたのだから。
http://speech.comet.mepage.jp/news02/mint_106.htm


確かに福島県でも常磐炭鉱は有名であった。その記念館が今もある。そして国鉄も大きな力をもっていた。社会党のバックは国鉄でありそれは一貫して変わらなかった。その社会党は反対するだけの党として長い間国会で存続していたのも不思議である。その社会党も今になと全く過去のものになった。その後続の社民党などあるのかないのか消えるのかとかなっている。社会党というと万年野党として団塊の世代でも印象づけられていた。

それもいつのまにか遠い過去になっていた。国鉄がなぜあれほど大きな力をもっていたのか?それは全国の輸送網を握っていたからだ。それは東京という中心だけではない地方に根を張っていた組織だった。国鉄職員はエリートでありそれは明治維新以来、鉄道は国家なりということもあったのだ。だから国鉄が民営化されると国鉄職員には組合が大きく退職金が高いものであった。ちょうどその時、日本経済が高度成長の最中でありそれだけの資金を用意することができたのである。地方でも国鉄職員は多く地方の経済もになっていたのである。国鉄の官舎なども駅前にあり国鉄がいかに全国に根を張っていたかわかる。蒸気機関車の時代が燃料が石炭だったのだから常磐炭鉱とも直接結びついていたのである。国鉄とか社会党とかは全く過去のものになってしまった。だから社会党という名前も知らない何だったのか知らない若い人も増えてくる。過去のもの歴史になってしまったのである。


戦後のはじめは農業社会の継続であり農協が一時勢力をもっていた。農協は世界まで知られていた。その農協をバッグにして自民党があった。自民党が50年も政権担当できたのはなぜか?それは社会党のように国鉄とか特定の企業の組合を票田としていない、国民的政党だったからだというのもそうかもしれない、社会党は国鉄であれ一部の大企業の組合の代弁者だったところに政権がとれない限界があった。そして国鉄が車社会になり民営化されたりしていつのまにか消滅してしまった。ただ今になると社会党はそれなりに長い間万年野党でも存在感があった。でも今や社会党を知っている世代はみんな老人になっている。政治というのはその時代の勢力あるものをバッグにして成立している。その後自民党の長期政権で田中首相が有名だけとその時は日本列島改造論でゼネコンか政治のパッグになっていた。それも時代を反映していたのである。高度成長にのってまさに日本列島がゼネコンの仕事場になった。全国の道路網などの整備が行われた。そのゼネコンの力も高度成長が終わると衰退した。そしてそのあとはバブルであり低成長不況とか失われた20年とか日本経済は低迷がつづき今日にいたっている。


だから何が経済をひっぱっているのか明確ではない、車の生産と電機関係と最近はIT熱があった。でも国鉄とか農協とかゼネコンとか明確な大きな牽引力となる力は見えない時代になった。ただ電力会社が電機は国家なりとなっていたことは確かである。
東電があれだけ大きな会社だと知らなかった。エネルギーは人間の血液のような働きをする。エネルギーが作り出すものによって文明は変わる。石油の前は石炭でありイギリスで産業革命が起きたのは石炭が自前でとれたからであった。それが蒸気機関車とかの発明になり世界的に普及したのである。それは石炭がとれたということにあったのである。

イギリスの対岸のカレ-という所でゴッホが石炭の採掘場で一時働いていたことでもわかる。石炭がエネルギー源の時はどこでも石炭が重要であった。福島県でも石炭をいたるところで少量でも探してとっていたのである。この辺でも南相馬市の鹿島区の小池で石炭とっていた女性がいた。そんなところでとっていたのかとなるが日本全国極めて小規模でも石炭を探してとっていたのである。それだけ石炭を必要としていたのである。
エネルギーか産業の血だからそうなっていたのである。


なぜ日本が戦争に負けたかというと石油の流通が海上でとめられたからだったとか常に言われのもそうである。石油がなければ船も飛行機も動かせないからである。その反省から軍人だった正力松太郎とか中曽根首相は原発を作るために奔走した。日本はアメリカの科学技術に負けたから科学技術を進行させることが国力を増すことだと思ってそうしたのである。文明はエネルギーが作るとなれば原発が文明を作るともなる。
インカ帝国では太陽を崇めていたがそれは当然太陽がエネルギーの基だと自然になってたからそうなった。それで太陽の力が弱ると終わりだとなり太陽に生贄がささげられた。
これは一見野蛮な科学を知らない時代だからそうなったと思うが今も変わりなかった。
エネルギーか供給できなければ文明は終わりなるのである。そうしたら文明を維持するためにエネルギーが必要であり原発だって必要だからそのための犠牲はやむをえないとなる。つまり福島県人のように生贄にされるということである。


つまり大きく考えればエネルギーは文明の問題であり原発も文明の問題である。トルコ辺りでも経済が発展すると必ずエネルギーがたりなくなるから日本から原発をつくってもらいたとなり承認した。日本でこれだけの事故が起きたのになぜなのかと思うが文明を維持するために発展するために原発を必要としている。それ意外の方策がないからそうしている。だから文明というのは最終的に原発と心中して崩壊するとまでなる。文明の維持のために人間の命は犠牲にされても文明は維持されねばならないのである。それが人間の運命だとなってしまうのである。原発問題は文明の発展過程で必然的に起きたことであり最終的には文明が滅亡する過程として原発事故が起きた。そしてその犠牲になったのが福島県だったとなる。文明の崩壊をまのあたりにして見たのが自分の住んでいる場所だったともなるのだ。



原子力規制委員会は30日、福島第1原発4号機の使用済み燃料プールから「燃料棒」を取り出す実施計画を認可した。水素爆発で破壊された建屋から、使用済み燃料1331体未使用燃料202体の計1533体もの燃料を取り出す作業は人類史上初だ。
地上に運ぶ際、何らかのトラブルでキャスクが傷付いたり、落下したりして燃料棒が空気に触れれば、たちまち即死レベルの放射性物質が放出される。仮に1500本を超える燃料棒がムキ出しになれば、放出される放射性物質の量はチェルノブイリ事故の10倍。東日本に人が住めなくなるのは間違いない。失敗が許されない命懸けの「UFOキャッチャー」作戦だ。




今でもこうした危険性があり事故は収束していない、それは東日本全体で人が住めなくなるとかの危険性なのである。それは日本の滅亡であり将来的には世界全体の滅亡に実際問題してありうることを現実に示しているのだ。空想ではなく未だに現実問題として文明崩壊、滅亡の危機にさらされているのだ。
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2013年11月02日

津浪原発事故より二年半過ぎしめぐる相馬の想い (文語でつづる相馬に住むものの心境)


津浪原発事故より二年半過ぎしめぐる相馬の想い


(文語でつづる相馬に住むものの心境)


秋の雨ぬれて小さき街の路地をいくつか曲がり仮設食堂に惣菜を買いにゆく、その裏方に我が知れる人の働くも今日はいでこず、小高の人の三人ばかり昼間より酒を飲む。
財布だして一万札を数える。補償金もらいしゆえに今は懐も豊かなり。
何も成すこともなく昼間より酒を飲むは楽しきや、しかあらず働くは喜びにあり
ただ毎日昼間より酒飲みて成すことなければ何故に生きるかも知らずなりぬ
そのことの心に重しもただ術もなく酒を飲む一日またすぎゆきぬ。

津浪の被害はなお深き傷跡を残しぬ。門のみ残りて家はなくなりぬ。
誰が住みしとその前にたたずみ不思議に思う。津浪原発事故より不思議に思うこと絶えぬなり。
家ある跡が草茫々となりそちこち沼となりぬ。ただ凄まじき無常の現実として日々見ゆる。

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六号線を一人の若き旅人歩むゆく、原町の方から来るに聞けば川俣から飯館を回りて来れりと千葉県の人てれど今は東京に六号線は原発事故で通じざればなり
その旅人の一人歩きつ今日は相馬市に泊まるという、芒のなびき歩み去り行けり。

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しとと雨ふり木の葉一二枚となりの庭より道に散る。この道も曲がり仮設に住む人も二年半過ぎしばし通り過ぎ行く。川の木の葉散る土手の道も踏みして歩む。
まことに世の無常やその変わりし故郷や我が家の墓地の前には復興住宅のたたむとして工事中なり。その変わりようの思いもかけぬことなり。

小高の人木の葉散りそむ土手の道踏みしめ歩み二年半すぐ


ここに数奇なる運命の人あり。常磐高速道路に土地を売り多額の金が入りしに大熊に牛の牧場をはじめしという。その人の原発事故にあいまた多額の補償金を得ることになりにし。不運なのか幸運なのか損にはあらじ。この辺では常に原発補償金が最大の話題なり。


小高の人の住み慣れし我が家を何と思わむ、月日は過ぎて二年半はたちぬ。月日は何を成すも成さざるもめぐりゆくなり。今金あるはてこれよりあるとは限らず、その金はただ一時的なものなり。土地あれば常に働けば実りあり。金は消失しやすし。さればとて今帰るせならず、津浪に家を消失せし人は帰れず、土地が手に入れずと家も建てられず、空き地に家建てる予定のあれどのびのびになる。働く人でも少なく資材も高騰して不足するとままならぬ。

土地は奪われ家は奪われ金を与えられしもその金を活用ならずば無価値なり、ただ月日は留められず過ぎてゆくなり。

社一つ淋しかな、村人帰るを待ちにしやあり、ここに人の集い祈り祭りある日を思い出すらむ。鹿島神社の欅の大木に蝉鳴く声を聞きし夏はすぎて今は秋の雨ふり時ならぬ台風のまた襲いくるかも。大島にまた大災害のあり。福島より自衛隊の恩返しと勇みい出ゆく、近くに自衛隊の人も住むなり、ここも津浪のあと自衛隊の人の働けり。

小高まで電車は来たらじ、途絶えけり、小高の駅まで津浪は越えて町中に来て泥を運こべば驚きぬるかな。小高神社はふ浮舟城といい、野馬追いの野馬掛けの神事行う神社なり。夏に尋ぬればしきり蝉はしげく鳴くなり。なおまた野には津浪に流されぬ車放置ささあり。家は空屋にていつ人の住みぬらむ。ただその小高区の区役所の天井高くガラス張りにて広々として役所の人の働ける。ボランティアの集まる家もありて復興はすすみしや、それも町中のみなりしや遅々として進まじや、秋も深まりぬ。二年の秋と春はすでに過ぎにい。


井田川の浦尻に仮設に住む人の津浪に家流されしと鹿島に住む。かの家の一週間にたつと暇なれば一日見てをり。土地が得られずに家が建てられでという。広き家に住む人の多く仮設は狭しも。盆栽を飾るはまことに日本の土地はもともと狭く耕す地も狭く海側に土地を求めて干拓せしが徒となれり。その家も狭く盆栽はその狭さ故に生まれぬ。茶室もまたおなじなり。


小高を過ぎて浪江に入るなり。街内のみ入るを許可されぬ。
幾夜橋とは和歌を学んでいた昌胤が師の中院内府通茂にみちもち)卿より贈られし


跡たへしながらもあるを幾世橋いくよ変わらずふり残るらむ


という賀歌によりこの里を泉田から幾世橋(きよはし)に変えぬ。
水増せし請戸川勢い良く流れこの橋を渡りて浪江の街中に入りぬ。

幾世橋久々に渡る秋の暮西行も来ると道は閉ざされぬ

浪江には西行の来るあおいの茎に知られるなり。


陸奥の 高瀬の清水 来て見れば あほいのくきの 下にこそあれ 西行


西行の惜しみて去るを道は通じず悲しかな。またいつの日か浜街道を旅したきを
うらむべしかな。

その請戸川に沿い上りて行けば昔の浜街道ありて一つの碑あり。
浪江に出口一里塚あり。

この付近には大出口、小出口という地名があるが、平山氏の居館と関連のある地名ならむ
地名を探ればこのような一文あり。名のある人の館ありてその出口なるゆえに名づけられしやその故しらじ、一句生まれぬ。出口とはここに館ありて出る所にて名づけらる。その館は古く1600年代よりある。浪江の歴史も古きものなり。


浜街道一里塚あり秋の暮


浜街道は余の森と相馬藩の殿様の名づけしも今は原発事故で閉ざされて通ることもならじ。余の森は夜の森となれり。双葉には昔我が父の酒屋に丁稚として働きあわれかな、日掛けの通い帳の我が家に古りて残れる。双葉の名はその頃はなく長塚駅なり、新山に城ありぬ。その城ありしところを真ん中を電車は通るも今は通らず。我が父は葛尾(かつろう)村の小出谷(こでや)出身なり。遠祖は柏原なり津島に近く江戸時代より住みしものなり。

浪江より浜街道から山を伝いて小高の上浦にいずる。そこの坂を下りてかなた秋の海の見ゆるかな、海は遠くも津浪の奥までおしよせぬ。上浦下浦とある名はかつては浦なり、ここは海より遠しもまた海は近きなり。


再び我が町の鹿島に帰れば淋しかな、十三夜の月は明るく出でて夕べ芒の映えぬ。昨日まで吹く風はやみて穏やかに一三夜の満月は明るく煌々と輝きにけるかも。
一五夜は中国より伝われと十三夜は日本のみのものにて日本の風土になじみて趣き深きものかな。

すでに津浪の災害より二年半過ぎ心も静まりつつありや十三夜の月の心にしみぬ。
ただ常磐線は原町ー相馬間の鹿島と日立木に止まるのみなり。秋の雨にふられてあわれかな。乗る人も少なく虫の音もあわれなり。我は久しくも遠くに出ることなく狭き相馬に閉ざされけるかも。江戸時代に帰りしごとくに思ふ。

相馬駅で鉄道は戸絶え桃内駅の鉄路は草に覆われていつの日や電車は来たらむ。特急スーパーヒタチは原町駅に止まりしままに二年半は過ぎにけるかも

相馬市に行けば六万石の城跡の石垣も一部崩れそのままに淋しきかな、一ひら二ひら木の葉散るらむ。松川浦は復興の気配あり。食堂の何軒か再開して宿にも泊まる人あれや、女性二人の釣りしてありぬ。神奈川より美人なりとからかい老人の旅人去りぬ。
また一人釣り人ありて今は渡り蟹というのもとれると十匹ほど網に入れてありしも。
津浪より二年は相馬市は変わらず田畑を耕作してあり。何かここには変わらぬ平和のもどりしや心なごみぬ。

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表現するとき何かを伝えるにしても写真が今は有効でも写真だけでは伝えられない、心持ちなどがなかなか伝えられない、その場所や事件でも伝えられない、そうした微妙なものを伝えるにはやはり文章が向いているし日本人なら文語が格調高く情緒的になるから明治にはこうした文語調とか漢文調の文が作られた。
今もそういう時代になった。戦争に負けてアメリカ一辺倒の世界から国風文化への回帰がはじまったのである。つまり新しい国風文化の再興が模索されはじまる。
それは物質的繁栄が高度成長が終わり二〇年が衰退期となったことでもわかる。
もう高度成長は日本には起こらないが文化の興隆は起きてくる。高齢化というのも文化の成熟には向いているからすべてが悪いとはならない、日本の成長はもはや経済的復興とかではない、文化的な復興であり精神世界の復興なのである。
だから日本の文化の伝統が新たな命を帯びて復活してくる。明治維新そのものが維新とは古いもの新しく蘇らせる意味だったのである。

2013年11月03日

電車と朝日の写真がうまく撮れた

 

電車と朝日の写真がうまく撮れた

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人がのっていないみたいで淋しいな、高校の通学にはまだ早い


朝日映え電車渡るや秋の川

電車行く鳥の飛翔や秋の朝


撮り鉄というのがあった。鉄道の楽しみ方は人それぞれである。鉄道は文化になったというときそれだけ人間の精神的な面にかかわるようになったからである。
鉄道が人間の出会いとか別れを演出するようになったのである。
鉄道がいいのは自然に映えることなのである。バスとか車が自然に映えるということはない。ただ便利に運ぶ機械に見える。鉄道は今回の朝日でも夕日でも映えるのである。


鉄道専門家写真がいたけどあれほど鉄道に思い込みがあるのがわかる。鉄道には何か人間の汗と涙とか何かそうした人間的なものがしみこんでいるのである。昔の駅舎なんかもそうである。特に鉄道全盛時代がそうだった。道の駅には車には何かそうした人間的なものが感じられないのである。ただ便利に動く機械としか感じられない。

鉄道にあれほどひかれるのはそこに何か人間臭いものがあり今や郷愁となっている。
ただ物流とか輸送の面ではローカル線だと過去のものとなっている。

常磐線は別に仙台までは八両編成であり廃線になるような線ではなかった。
ただイワキまでは便も少なく二両とかでありローカル線としてつなぎとしての線になっていた。それが原発事故で途絶えてしまった。この線が回復するのかどうかは予定がたたない、もしかしたら廃線になってしまうかもしれない、車優先だからそうなりやすいのである。


この写真で肉眼でわからなかったのが鳥が飛ぶところが写っていたのである。
またこんなふうに光がきれいになっているとは思わなかった。
シャッターチャンスは無数にありそれは偶然なのである。
だから意外と同じ写真は撮れないのである。
朝日でも毎日違った朝日になっているからである。


こういう写真は旅ではなかなかとれない、旅だと落ち着かないし一瞬をとることがむずかしいのだ。とにかく動いているものを撮るのはむずかしい。こういう写真にしても鉄道の写真にしても一枚しかないということに価値があるだろう。
別な角度からとればまた違って見えるのが写真なのである。

ただ写真だとこれが秋なのか冬なのかということがわかりにくいのだ。
芒などが写っていればわかりやすいけど意外と太陽だけだったら季節がわからないのである。だから季節がわかるような撮り方が必要になる。

2013年11月04日

近隣の秋の日の写真(老後は家が大事になる-家が尊厳をもたせる)



近隣の秋の日の写真

(老後は家が大事になる-家が尊厳をもたせる)

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老木のなお朽ちざるや冬に入る

土壁に秋の日さして蔵古りぬ


日のさして一輪一輪の野菊かな


栃窪に蛹の一つ秋の陽の山間に没り村の古りにき


ソニーの新しいRX200M2を買ってから写真の魅力を深く感じるようになった。このデジカメは六万くらいでも今まででは一番高い。一回一眼レフのデジカメ買ったが重くて使い物にならなかった。自転車だと重いのは使いない。

このデジカメはやはり写りが違う。光の感じが他とは違っていた。一見同じように見えても違うのである。写真はカメラによって相当影響されることを知った。
いいカメラでとれば平凡な風景が違って見える。

現代はともかく写真の時代である。写真で日記のように日々を記録しているのだ。それもデジカメが安くても高度な写真をとれることにあったのだ。
それが一般向きにしたのである。

土蔵は土壁でありそこにさしている秋の光は何とも言えないものがある。土壁など今はないけど自分の家は土壁だった。もうそのときは職人すらいなくなっていた。
でも昔風の家は土壁でも何か重みがある。現代風の家はみんな建て売りであり組み立てているだけである。だから一週間でもできてしまうのである。まるでプラモデルを組み立てるようにできる。でも何か重厚な家というのはなくなった。

家で意外と大事だなと思ったの天井なのである。なぜなら天井は寝る時いつでも見ているからそこが貧弱だと何かみすぼらしい感じにさせるのである。
家というのは家によって人間が尊厳をもたされるということがあるのだ。
ルネサンスのラファェロのアティイの学堂がそうである。
あのアーチの建築が人間に威厳をもたせていたのである。
それはヨーロッパの駅がアティネィの学堂のような立派なアーチの煉瓦作りのがあり駅でも人間に威厳をもたせているのである。
ただ高層ビルなどは人間に威厳をもたせない、都会の林立するビルはただビジネスの空間であり精神的な人間に威厳をもたせるものがないのである。
だから人間はただ蟻のようにうごめく貧弱なものにされているのだ。

家など自由人には重要じゃないというのもある。
若い時はそうにしても老後は家が大事である。
なぜなら家にいる時間が長くなるからだ。
そして老後から死ぬまでの時間は家で過ごすことが多くなる。
家がくつろぎの場所でありまた創造の場所でもあり回顧する場所にもなっている。
だから貧弱なの家だと何か精神的にも見すぼらしくなる。
もちろんあばら屋でも人間の精神の持ちようで風流はある。

ただ老後は出て歩く時間より家にいる時間がずっと長くなる。家が一つの世界になる。
もし歩けなくなったりしたら余計そうなるだろう。もちろんそうなると家に住めなくなるだろう。誰かの助けがないと生活できないからだ。今まで家というのを自分はそんなに大事だと思っていなかった。

ただ家の主人だった身内の人が死んで自分の家を自覚するようになった。
このところ六年間介護でありそして家との格闘だった。
家を直すことや家の中を整理することがずっと仕事だったのである。
今日も一室の天井を自分で模様紙ではりつけた。
これは簡単だからできた。狭い部屋だからできた。
ともかく家を維持することはもう一人ではできない
家というのは人間にとって実際は今になると大問題だった。
墓はめんどうでも小さいからそれほど手はかからないが
家は大きいから手がかかりすぎるのである。

中心市宣言書(平成21) ー原町区の中心が衰退 「ともにつくる 活力に満ちた 安心で潤いのある南相馬」


中心市宣言書(平成21) ー原町区の中心が衰退   

「ともにつくる 活力に満ちた 安心で潤いのある南相馬」

http://www.city.minamisoma.lg.jp/index.cfm/
8,3260,c,html/3260/sengen.pdf

 
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相馬市から5500人もが南相馬市立病院の診療を受けていた。原発事故前は南相馬市立病院は中核病院だったのである。
飯館村からも4400人で多い。浪江町も11000人で多い。浪江とか双葉、大熊には大きな病院がないから南相馬市立病院が
中核になっていた。実際に大熊から入院した人が同じ病室であった。病院に関しては大熊双葉浪江は不便な場所だった。
おそらく泌尿器科というのはないだろう。ただ南相馬市立病院でも泌尿器科は貧弱だった。専門医が一人いても若いし良くみてもらえいないものだっ。たそれを知らないでそこに長くかかっていて病気を長引かせた。相馬総合病院は泌尿器科は三人体制であり
全国でも優れているとかいわれるのもわかる。院長が泌尿器科の医者であることでもわかる。
現代では病院は本当に大事である。病院を知らないと確実に寿命を縮める。
現代で不便なところは明らかに病院とか医療体制がないところなのである。
限界集落などは医者もいないし何もない、飯館村には歯医者もいないのである。

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これも意外である、相馬市から17000千人も南相馬市地域に特に原町区に通っているのかとなる。
南相馬市が特に原町市が中心地域とっなっていることがこの数字から一目瞭然である。
原町区には丸三製紙とか大きな工場があるとすると相馬市からも通っている人がいるということである。

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買い物動向でも小高区と鹿島区では70パーセントくらいが原町区で買い物している。
ただ食料品は20パーセントだから地元のスーバーなどで買い物していたのである。
電気製品は浪江町と双葉町で50バーセント以上である。
電気製品は原町区に集中しやすいのである。
飯館村は全般的に20パーセントくらい原町区に負っている。
ただ20パーセントなのは川俣の方が近いからそっちの方にも行っているからである。

いづれにしろ相馬地域は浪江とか双葉とか大熊でも旧相馬藩内が一つの経済圏でもあり文化圏でもある。
だから浪江とか双葉や大熊がなくなるということは経済的にも相当な痛手なのである。
それだけの買い物客も喪失するしいろんな面で失うものが多い。
病院にしても南相馬市立病院が旧相馬藩内の中核病院になっていたのである。

ともかく相馬藩の石高から飢饉のことを研究した学者がいたように何か経済の面でも社会の面でも
相馬藩というのは六万石で小藩なのだけど小藩ゆえにかえって見えてくるものがある。
社会が見えやすいということがある。伊達藩などになると大きすぎて社会全体をみることがむずかしくなる。
もちろん東京のように巨大化するともう社会を手にとるようにみることは不可能であり
自分がどんな役割を果たしているかも検討もつかなくなる。

今回の原発事故で相馬地方は様々な課題を持つ地域として全国から注目されたし今もされている。
何か自分でもこうして公務員になったように相馬地域をいろいろな角度から研究すればみえてくるものがある。
そして社会が見えるということが政策にも通じる。
有効な政策は何かということがおのずと出てくるのである。
社会が見えなければ出しようもないのである。

こういう狭い地域だと無益な人間も目立ちやすい、なぜあいつは遊んでいるのかみんな苦労しているのにとかなり安いのだ。
それで仮説に入って補償金でパチンコばかりしているとか昼間から酒飲んでいるとか批判されるようになる。
大都会だったらそうはならない、狭い地域だからこそみんなが協力しないと生きていけないという面があるからそうなる。

それでNHKで青森の4000人くらいの藤里町でニートが百人ほどいるとかその人たちを介護などで働かせる事に成功した放送をしていた。
あれも狭い地域だからそれだけのニートを見つけ働かせるようにできたしそうしてもらわないと働き手が少ないから村自体が町自体が成り立たなくなるから公務員がそういう努力をしたのである。

人数が少ないから何とかしてともかくニートであれなんであれ人を活かす工夫をせざるをえなくなったのである。
ともかく何か有効な策をうちだすにしてもその街自体を知らないとできないのである。

相馬市より南相馬市が今回の原発事故でいかに痛手を負ったか数字からわかる。
相馬地域は原町区が中心区となっていた。それが原発事故でその中心がゆらいだのである。
中心を保てないような状態になっているのだ。
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2013年11月05日

なぜ相馬藩では慶長津浪が記録が皆無に近いのか? (初代の時に津浪の被害があり戦国時代で混乱していたから?)


なぜ相馬藩では慶長津浪が記録が皆無に近いのか?

(初代の時に津浪の被害があり戦国時代で混乱していたから?)

相馬藩初代となる利胤は、天正9年に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれる。
慶長元年(1596年)元服の際に父義胤は石田三成に烏帽子親を頼み、三成の一字を得て三胤と名乗る。
これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、以来三成と昵懇であったためであった。


徳川家康は会津の上杉攻めに向う途中、下野小山で石田三成の挙兵を聞き兵を返す。
慶長5年(1600年)8月関ヶ原本戦で家康が勝利、この報を聞いた義胤は遅ればせながら翌慶長6年正月に上杉領であった安達郡を攻めて失敗している。


慶長7年(1602年)5月24日に関ヶ原不参により義胤は領地を没収される。このとき常陸の佐竹義宣も領地を没収されて、出羽久保田20万石に移封されたが、義胤には佐竹領のうち1万石が分与される予定であったという。

さらに慶長6年(1601年)に正室を亡くしていた密胤は、秀忠の側近土屋忠直の異父妹で旗本岡田元次の二女を正室にこ迎えた。
旗本の二女ではあったが秀忠の養女として嫁ぎ、この婚姻の仲立ちとなった土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めた。また、徳川家と縁戚となったなったことで従四位下、大膳大夫に昇任している。

この間、慶長3年(1598年)に小高城から本拠を牛越城に移しているが、領地没収騒動を不吉として。
慶長8年(1603年)には再び小高城に戻っている。

慶長12年(1607年)江戸城普請の手伝い、慶長16年(1611年)12月には小高城から宇多郡中村城に本拠を移している。以後、ここが相馬藩の城下町となる。
利胤は宇多川の流れを変え、碁盤の目状に街割を行って城下町の形成に意を注いだが、この際に北方の伊達氏を仮想敵として考慮したという。




慶長地震の津浪が起こる前のことからたどると詳しく初代の利胤の記録が残っているのだ。この時注意しなければならないのは戦国動乱の時代であり相馬藩は初代であり安定していない。つまり政治といっても藩主の関心は戦国時代の中でどうして藩を維持するのかということが最大の関心事だった。だから石田三成が主役の時代は三成にとりいることが政治であり名前まで三成からもらっている。野馬追いの旗にも三成の旗印が残っているのもそのためである。鹿島区の田中城にも実際に三成は来ていたのである。
相馬藩の初代が戦国時代でありそこでの関心は民にはない、城も中村城に移る前は何度も移動しいる。一端中村城に移ってからも移動している。それほど安定していない、こういう中で民に気を配ることすらできないだろう。
だから記録としてはそうした戦国時代で領地をどうしたら安堵してもらえるかが政治だったのである。


さらに慶長6年(1601年)に正室を亡くしていた密胤は、秀忠の側近土屋忠直の異父妹で旗本岡田元次の二女を正室にこ迎えた


こういうことまで記録されているのになぜ700人も死んだ津浪のことか全く空白になっているのか?今の時代からすると理解できないが当時の事情からするとそうではない、相馬藩の基盤が安定していない、だから民のことはないがしろにされていた。


文禄二年に(1559)に相馬三郡の検地があった。


文禄に検地があった?とすると新地にあった文禄の碑は検地を記念したものなのか?
検地の時に記念として年号を石碑に刻む傾向はあった。明暦とか元禄とかにも検地があり葛尾村の落合にあった碑にも刻まれていたのである。その時あの辺に検地が施行ささたのかもしれない、検地の記念として年号が刻まれた。ただその時新地は相馬領になっていたのかどうか不明である。


文禄の時代でも慶長津浪の11年前にもそうした記録は正確に残っているのだ。だから慶長津浪の記録が残されないということは民の歴史を藩では行政では無視したということになる。その前に度々戦争があり戦死者150名とかも月夜畑の戦いであった。
そういう方には関心があり津浪の被害とか死者数には関心がなかった。

ただ一方でなぜ民間で津浪のことが伝承されなかったのか?
それも深い謎なのである。伝説にも残らないし都神社か津浪を記念したとしても不明となっていた。津神社がすべて津浪を記念したものとは限らないしその謂われも不明となっていたのだ。


つまり津浪に対して全く相馬藩では記録の空白地帯となっていたのである。
伊達藩では相馬藩より歴史が古く伊達政宗の活躍の時代だから慶長津浪のことは伊達藩から全国に知られるようになったのである。ただ相馬藩の津浪に関しては閑却されていた。
だから歴史の記録は必ずぬけおちるものがある。その事実もわからなくなるものが相当にある。何が事実だったのか特定して証明することが歴史研究だともなる。
ある人が存在したのか存在しなかったのかも証明することが歴史だとなる。

歴史の記録の欠落には重大なことが見逃されているということをかえって証明しているのだ。そういうことを掘り起こすことは容易ではない、柳田国男が民間の人たちから口碑として聞いたものを集めて学問にしたことでもわかる。それは文書で記録されたものに対しての反抗として生れた学問だったのである。
膨大な伝説とか民話とかそうした民間で語られたものの中にも歴史があったということである。そういう歴史は文書に残されないことで忘れられてしまった。それを掘り起こすことが学問になった。
そういう民間の歴史の消失がいかにあとで重要なものとなっていたか、津浪のことでわかったのである。柳田国男か戦争ばかりが歴史ではないというときまさにそうだったのである。ドラマでも面白いから戦争のことばかりドラマにするけど地味な民間の伝承とかは話題になりにくいから忘れられるのである。


その当時でも津浪で700人死んだということは民間人から見れば大事件だった。でも戦争に追われていたものが支配者だったとき戦争で死ぬことの方が大事件になっていた。
こういうことは歴史をふりかえるとき研究する時必ずある。
忘却された記録されない歴史の空白が実は重大なことを語っているということがあるのだ。津浪のことが伝えられない語られないということでこんなひどい被害になったともなるからだ。


ただ伊達藩の記録には名取辺りまでは濃厚に民間の伝承は伝えられていた。ただ相馬藩になると地元の人もほとんど注目していなかっのたである。伊達藩でそれだけの津浪の被害が記録されていれば相馬藩でも注目するべきだったのである。それも郷土史というと一地域の狭い範囲のことに関心が向きやすいということもある。全国的レベルで共通の課題を研究することに欠けている。そういう方法もなかった。インターネットでそういう方法が生れたことは言える。
まず郷土史研究が何か科学のように命にかかわるようなものというより好事的なものであり一般的に暇人がしていくくらいしか思われない、でも歴史の研究は民俗学であれ何か重大なものか命にかかわるものさえあったということである。
もし貞観津浪とか慶長津浪のことをもっと知っていれば海岸に接して人は住まないだろう。最近は科学で証明もされていた。それでも危機感をもちえなかった。
歴史を忘れてしまうことは常にそうした危険がある。戦争のことでもすでに何かわからないものとなっている。300万人以上死んだ戦争すらだんだん霧の中になり忘却されてゆきまた同じような戦争も起こりうるのである。


だから歴史は繰り返す、個人的にも家族的に家系でもカルマは消滅せず繰り返されるのである。カルマが何かというときそのカルマ自体が何か気付かない人が多いのである。だからカルマを繰り返しているということにもなっているからである。あなたにはこういういうカルマがありますよと指摘してもそんなこと意に介さない人が多いのである。そしてどうしてこんなに不幸なことばかり起きるのかとかばかり言っているのだ。仏法なら原因があり結果があるということでありただナムナムナムと唱えて入れは解決するとはならないのである。でもカルマを直視することは厳しいからできないということもある。ナムナムナと唱えれば何でも解決しますよと言うのが楽だから人間は楽な方に目が向いてしまうのである。そのために人間のカルマは一向に解消しないということがあるのだ。歴史もまた一つのカルマを背負っているのである。
そのカルマについて良くしらないと重大なことが見逃されてしまうのである。

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2013年11月06日

近くに烏崎の人が家を建てた (補償金のことで漁業組合の人たちは地元からも批判される)


近くに烏崎の人が家を建てた

(補償金のことで漁業組合の人たちは地元からも批判される)

烏崎の人が近くに家を建てるというので菓子折りをもってきた。直接会わなかったがあとで近所の人に聞いたら若い人たちだという。若いというとこの辺ではめずらしいとも思った。なんかみなん老人のように思えるからだ。
でも老人だと家を建てるのは長く住まないのだから新しく建てるのに金を使う気になれないだろう。家というのは他の買い物とは違っている。
長い期間使うものだし大金を使うから他の買い物とは根本的に違っている。
長期的なものとしての買い物でありそういう買い物は家くらいだろう。
車でも十年とかもつものがあるがたいがいは短期的なものである。
最近ではすぐに新しいものに家電などは買い換えてしまう。
家とは何か長期的ものとして建てる、最近の住宅は30年ももたないとしても30年でも長いのである。だから家をもつことはその土地に根付いて生活するということになる。
家をもつことはその土地に土着することになる。
賃貸住宅だとなにか一時的に住んでいる仮の宿という感じからぬけられないだろう。


南相馬市では一時土地の需要が増えて値段があがったが低下して上がらない。そのた理由が老人が金をもっていても新しく家を建てることに躊躇する。先が短いから大金を家に使いたくないということがある。若い人なら先が長いからローンでも家を建てるということがある。老人は年金暮らしだから先が長い買い物は躊躇する。ここにも高齢化社会の影響がでている。小さな一軒家でも土地代を入れると3000万くらいになるから家は高くつく。
ただこの辺で常に話題になるのは補償金の問題なのである。烏の人だと金もっているだろうなとなる。前は火力発電所ができてその補償金で大金が入り近くの呉服屋では高い着物が売れて豊かになったとかある。今度は漁業組合に入っていればまた金が入っただろうなとなる。浜通りは火力発電所もあるし原発もあったしエネルギーの供給基地だった。
それで金か会津などより入っていたということがある。
金は運だというとき公共事業などの影響で大金が入り得することが多い。
まず自分の近所がそうだった。区画整理でじけ住宅地になったとき長屋のような家に住んでいた人たちが広い土地が与えられて住宅費用も何千万とか与えられて立派な家を建てられたのだ。それは運が良かったということである。


最近聞いた話では常磐高速道路のために土地を売り大金を手に入れた人が今度は大熊で牛を飼う牧場をはじめたという。そしたら原発事故になった。ただその補償金も牧場を経営しているとなると楽か大きくなる。何億ともらったとかの噂もある。これも公共事業がいいにしろ悪いにしろ巨額の金をもたらすということである。

烏とか右田は船主になっている人が多いだろう。それで右田の人が街内に立派な家を建てたときやはり漁業組合に入っていて金があるのだろうとかなる。実際に相馬総合病院に入院していたとき請戸の人がいて特等室に入っていた。そして家を建てるのだと言っていた。でも今になると漁業組合に入っていた人たちは批判される。天罰だとも言われる。それは地元の人たちが言っているのであり自分が言っているのではない、それは漁業組合の人は東電に漁業権を売り渡して巨額の補償金をもらっていたからである。事故が起きたあとも同じように巨額の補償金をもらっている。つまり漁業組合が一番金をもらっているから批判これるようになった。漁業組合が原発に反対すれば原発は建てられなかった。

それだけの権力を与えられていたのである。ヨーロッパには漁業権はないという、漁業権は大きな権利だったのである。でも海の資源を守るならいいが原発事故では海は汚されて漁師自体が海でとれたものを食べられず買って食べているという不満がある。それは田畑で自家生産しない農家の人も同じである。日頃から買って食べている人はその悔しさがわからない。

いづれにしろ漁業権をもっている人たちに対する反発は地元でもあるだろう。それも多額の補償金をもらっているからそうなった。現代は金の多寡で金を持つことに比例して責任が問われているのだ。だから原発事故地域は常に補償金とかか話題の中心になる。
補償金のために心が分断されている。あいつはあんなにもらっているのにこっちはもらえないとかが常に言われるようになる。だからかえって一致協力して復興しようとするようにならない、心がそういうふうに分断されているからだ。


それにしても南相馬市では復興住宅の数がどれほどになるのか?鹿島区だけでも100戸くらいは建つみたいだ。それで300人くらいになるのか?その人数はわからないにしてもやはり新しく家を建てる人は少ないだろう。100軒くらい新しく建っているようでも全体では少ないかもしれない、老人所帯が多いと新しい家を建てるのをためらうのはわかる。
そのことも高齢化が津浪被害地域では復興になってゆかない足かせなのである。

宮城県にしても零細な漁業をしている港などがそうである。高齢化で跡継ぎもないところだったのにあれだけの津浪の被害にあったらもう村自体住めない、若い人も流出して村自体が消失してゆく記紀なのである。
この辺でも時給1200円でも働く若い人がいないのである。金だけでは解決しないのがこの辺の問題なのである。

復興という時長い時間がかかる。でも老人の先は短い、すると若い人は復興に向いているが老人はなるべく自分でもそうだが先が短いのだから苦労はしたくないとなるのだ。

若い人の時間感覚と老人の時間感覚は相当に違っているのだ。
だから老人は新しいことをはじめるより今まであったものを大事にする。そして新しく何かをはじめるというより過去の思い出に生きるのも老人なのである。
それは長い目で復興をしてゆくという感覚ではない、今の時間が貴重であり残りの時間を楽しむというか深く味わうという感覚になるから未来への投資などもてきなくなるのだ。だから過去の思い出に生きるという時故郷に住めなくなった老人が多いのだから辛いと思う。いくら多額の補償金をもらったとしても住み慣れた土地から離れるのは辛いのである。若ければ20代30代ならなんとか新しい場所で再出発できる気持なるのが年になるほどできなくなるのだ。


原発自己周辺であれ宮城県などの零細な漁業している港などでもこの高齢化社会の問題が深刻なのである。現代はいたるところに高齢化の問題が深刻なのである。介護時代というのもそうであり介護離職者がいて自分も同じだから同情した。介護の負担もこれからますます大きくなってくる。だから小さな湊の村は消滅してしまう危機である。

posted by 老鶯 at 10:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

相馬藩が中村城に移転したのは津浪の復興などと何の関係もない (当時の戦国時代の政治的事情で無視された)


相馬藩が中村城に移転したのは津浪の復興などと何の関係もない


(当時の戦国時代の政治的事情で無視された)



1611(慶長16)年12月2日、三陸沖、M8.1

さらに慶長16年(1611年)12月に宇多郡中村城に本拠を移し、ここが相馬藩の城下町となった。
治家記録慶長16年11月30日条に、この津波の到達した場所を推定できる記載がある。海に出ている間に地震発生、津波に流され、舟ごと「千貫松」に流れついた記載。

「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある

400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/04/post_921.html



1611年 (慶長 16年)、相馬利胤は藩境を接する伊達政宗に備えるため相馬藩の本拠地を小高域から 中村城に移し、廃藩置県を迎えるまでの260年余りの間、相馬中村は城下町となりました。


烏帽子親であった石田三成の一字を賜って初名を三胤といったが、これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、それ以来三成と昵懇であったためであった。


三成の旗印が野馬追いに残ったのもそのためだった。


江戸に上る際に三成の偏諱をはばかって密胤と名を改め、その後さらに幕閣の実力者土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めている。


名前も二度も変えているのである。名前は普通は簡単に変えないけどそれだけ上からの圧力が強い時代だった。この戦国時代の時は、まずどれだけ領地を守ること一族を守ることに必死になっていたかわかる。こういうとき中村城に移転したのか慶長津浪から一カ月後なのである。なぜそんな時期にわざわざ難儀な城の移転をしたのか?
それまた問題になった。これも学者が津浪の被害がありその復興のために中村城に移転したという説を出した。

これもその当時ありえないことである。まず公共事業で経済を活発化するなどという現代の感覚などゼロである。中村城移転は何ら津浪とは関係していない、伊達に備えるためだったというのがやはり正解だろう。新地が一時伊達領だったことでもわかる。
この戦国時代には領地の奪い合いなのだから領地を守るとなれば中村城が一番適地になる。それは津浪が起きたこととは何ら関係ない。

そもそも溺死者700名としか相馬藩政記に記されていないことがその証明である。
政治の中心は津浪の被害より領地を守ることに専念されていた。

そして相馬氏一族の安泰を計ることが第一である。たから家来が戦死したとかは藩政記に記されている。でも津浪で死んで被害がどうだこうだとかは全く記されていない、その時の関心は領地を守ることでありそれに必死になっていた。
その時津浪の被害も報告されたがただ溺死者700名としか記されない、もし公共事業のように中村城を移転したならもっと津浪のことについて書いている。
津浪で民が被害にあい苦しんでいる、そのために・・・と何か記しているはずである。
それがまるっきりないのである。だからむしろ津浪の被害者はこの時の政治で無視されたのである。津浪の被害は政治の最重要課題になっていないのである。
だからといって津浪の被害を受けた人たちにとって最大の問題だった。

でもその当時政治の課題は領地を守ることであり津浪の被害があってもそれは無視された。だから三カ月後に今度は徳川家康の冬の陣に大坂城に参戦している。これも津浪の被害の後にそれだけの財力があったのかと思う。今ならもう津浪の被害に政治がかかりきりなるはずだからである。つまり津浪の被害はほとんど無視されたから記録されなかったのである。もちろん津浪のために中村城に移転したということはありえない、ではなぜ津浪の被害にあった人たちの声が残されなかったのか?


これも謎なのだけど津浪の被害にあった民衆にその記録を残す力がなかったとも言える。もしかしたら被害を訴えたかもしれないけど政治の最重要課題は領地を守ることであり津浪の被害に対処できる状態ではなかった。だから無視してその財力も徳川を応援するための参戦するために使われた。つまり津浪の被害者には何ら藩では助力もしなかったともなる。それもできなかったともなる。だからそっけない一行で700人溺死としか記さなかった。その他のこと相馬藩の存続にかかわる跡継ぎ問題などは詳しく記されているからだ。
津浪のことが記されていないことは当時の相馬藩の政治事情のためでありそれで無視されて記録もされず忘れられてしまった。政治は今でも何が第一の課題か問題になる。何を優先するかが問題になる。それは必ずしも民衆をの要望を第一にするとは限らないのだ。
だから津浪で死んだ700人は当時は無視され歴史の闇に消えてしまったのである。
その消えたこと消されたことが実は大きな歴史であり意味あるものとして見直すことが必要だった。


相馬藩は歴史が古いために藩主相馬氏の蔵入地は他藩と比べて極端に少なかった。太閤検地の際の相馬氏の蔵入地は16%に過ぎなかったといわれている。実に8割以上が、藩士や寺社領であった。

このように財政基盤が弱いところに、江戸開幕後の軍役負担、中村城築城などの出費があり、たちまち財政難に陥った。つまり相馬藩は成立時から財政難に苦しめられたのである。

(戦国時代における蔵入地は、戦国大名が自己の所領のうち、家臣へ与える知行地に対して代官を派遣して直接支配を行って年貢・諸役などの徴収にあたった直轄地を指す。)
http://roadsite.road.jp/history/chishi/hanshi/mutsu-soma.html


まずこれだけ財政難なのだからそもそも津浪との被害のための復興としての公共事業などという発想すらできない、藩士や寺社領だったということは自前の財力がない、ただ藩士や寺社の領地が津浪の被害を出したら寺社でも藩士でも損害だからて何らか記録が残ったかもしれない、でも寺社にしても津浪で死んだから供養したなどない、海側が被害にあったのだからそこには自分たちの領地が少なかったのかもしれない、海側は米がとれないから漁業だけだと年貢にならない、検地もしないから記録として残りにくいということがあったかもしれない、様々な事情が重なって津浪の被害は無視されたのである。


実際に今なら津浪の被害者の名前がみんな石碑に刻まれているから忘れられることはありえないのだ。当時は津浪の被害にあった人たちはそうした石碑を残すことさえできなかった。それだけの経済力がなかった。墓を庶民が残せたのは江戸時代の後期だったのである。では伝説などで語り継がれなかったのか、それも謎なのだけどやはり津浪の被害は普通の災害とは違っている。・・・千軒とかが伝説に残されているように一瞬にして村自体が消滅するような災害である。すると村自体が消失したら歴史も記録も消えてしまうことになりかねない。例えば津浪で村自体が消失して他の村や町に移ったときそのことを語っても信じられなとならないか?みんな死んで村がなくなってしまったんだよと語っても信じられないとなり語り継がれることもなくなった。草戸千軒などはそうである。最近になって遺物が発見されてあったとなっているからだ。溺死者700人というのはそれとにて歴史から消失してしまった。しかしそのことか今になって重大なこととして蘇ったのである。その当時の記憶が同じ津浪が呼び起こされたのである。

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2013年11月07日

天皇は新興宗教のカルトだったの? (心に青雲のプログの天皇批判の衝撃)


天皇は新興宗教のカルトだったの?

(心に青雲のプログの天皇批判の衝撃)

●国家神道が日本をゆがめた
 
国家神道は日本古来からの神道から大きく逸脱している。
 古神道は万物の中に神を見る。だが、国家神道は天皇と国家が神の全てだ。
 古神道では仏教との結びつきをみた。だが、国家神道は廃仏毀釈を行った。
 古神道は敵をこそ手厚く祀る。それは無念の気持ちを持って死んでいった者達の祟りを畏れてのこと。
 だが、国家神道においては味方を手厚く祀り、敵の祀り方は非常に等閑なものだ。

 靖国には味方の戦没者しか祀られておらず、敵の戦死者は現地で細々と祀られればマシという程度。
 梅原猛氏が主張するように靖国は古来よりの神道の伝統に反する。

 国家神道は明治の元勲が作り出した新興宗教であり、天皇を現人神かつ絶対神とし、天皇への盲従を強いるカルトといえる。
 ある意味、明治の元勲は日本を短期間で国民国家に作り変えるために「カルト洗脳」を用いたといえよう。
 カルト洗脳は悪だが、短期間の内に人を作り変えるには有効な手段だ。
 国家神道は日本を欧米列強に対抗できる国民国家とするための必要悪だったといえる。
http://www.abysshr.com/san/san_co06.html


こういう批判は誰というのではなく今になると一般的にある。なぜ明治になって突然天皇がもちだされて異常な崇拝の対象になったのか?明治維新が勤皇でありその延長として天皇が錦の御旗であり官軍と賊軍に分けた。靖国神社はその官軍を祭るものであり賊軍は祭っていない。西郷隆盛も西南戦争で賊軍になったから祭られていない、薩摩も一時官軍だったか賊軍となり会津も賊軍となった。明治維新が何だったのかということはこのように敵が味方になり味方が敵となったりしてわかりにくいのである。
明治維新とは武士階級が武士という身分を否定する戦いだったというのも不思議である。だから西郷隆盛は武士階級を残すために今度は国民軍と戦ったのである。その時会津の元藩士も参戦して活躍した。

靖国は古来よりの神道の伝統に反する。国家神道は明治の元勲が作り出した新興宗教であり、天皇を現人神かつ絶対神とし、天皇への盲従を強いるカルトといえる。
国家神道というのもそもそも何なのか?それは古代にさかのぼるものだろう。第一古代とういときそれを西欧の近代化に合わせるのにはそぐわないものだった。つまり自分が常に問題にしている政教分離が西欧の近代でありそれが世界的なものとして現代も問題になっている。エジプトの政治の混乱もイスラム原理主義という宗教が政治に介入して実権まで握ったことにあるのだ。だから政教分離は近代化には欠かせないものとしてあった。


●古代や中世への先祖返りとしての天皇や仏教


 王法と仏法が冥合すること。三大秘法抄に「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して」と述べられているところに由来する。王法とは王の法、すなわち国王の法令・政治のこと。広くは世法の意。仏法とは、末法の今日では日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経をいう。王法が仏法に冥ずるとは、王法が仏法の慈悲の精神、法理などに冥々のうちに基づいていくということ。

日蓮の説く思想と天皇と国家が一体化する思想は似ている。天皇崇拝は古代に返り日蓮主義は中世に帰る、先祖返りである。そこに何か日本の近代化の大きな矛盾があった。
明治維新がそれだけ西欧化するために思想的にもあらゆる面で無理強いすぎたのである。天皇を頂点にした国家作りも日本をまとめるための苦心の策であり国民をまとめるために不可欠なものとして明治天皇自体が血統とは関係なく新たに作られた人だったというのも何かそうした無理した結果なのである。


とにかく明治維新の勤皇派の過激な延長として日本の国作りがあった。それを象徴していたのが廃物稀釈だったのである。仏像を破壊したのは江戸時代は寺が役所のようにされて幕府に優遇され神社が不遇であった。利権が得られなかったとかで神社側が仏像を破壊した。それは勤皇派の過激な思想が行動化してそうなったのだ。これはヨーロッパなどで起きた苛烈なこれはカトリックとプロテスタンとの血で血を争う宗教戦争ともにていた。
その背景にはイングランドはカトリックの国でありプロテスタントが就職でも不遇であり差別されているとかが背景にあった。利権の争いが宗教争いになる。だからそうした宗教争いの不毛から政教分離の法律が生れたのである。近代化にはそうした原則があって近代化が成されのだがそれが明治維新では行われなかった。結果としてそのことが天皇崇拝の太平洋戦争に向かっていった大きな要因だった。
吉田松陰も西郷隆盛も征韓論者であり外交政策では一致していたのである。
大東亜共栄圏というのはすでに明治維新のときにあった思想であった。


天皇と国家が一体化することは日蓮主義と通じるものがある。俗世の法を超越したものとして天皇があり天皇絶対主義が生れる。日蓮主義と天皇主義が一致するものがありなぜ日蓮主義の石原莞爾などの軍人が戦争の思想的背景となったことでもわかる。太平洋戦争の思想的背景として日蓮もナショナリズムとなりやすいものがあったのだ。今でも創価をはじめとしてカルト宗教団体は同じ思想として実践している。それは明らかに政教一致なのである。だから池田大作でもまるで神のように崇拝していることに特徴がある。実際は俗物そのものでもそんなことは関係ない、権力によって祭りあげられる。天皇は古来からの伝統があるから違うにしろやはり神として祭りあげられたからカルトと同じ体質があったのかとなる。


●戦後60年で見直される敗戦のアメリカ支配と天皇の責任


一体誰が戦争を起こしたのか?今は盛んに「心に青雲」のプログ主が天皇に責任があったと昭和天皇を批判している。天皇も責任がまねがれないだろう。天皇が何ら実権がない人形とは違っていたのである。だから戦争遂行に積極的かかわったというのは今になると見えてくる。だから天皇も戦犯として処刑されるところだったがアメリカに命乞いして助かったというのは確かかもしれない、天皇は統帥権とかもっていて実権があったのである。つまり権力を行使できたから権力が与えられていたら責任があったとされる。それは漁業組合が漁業権をもっていてそれを東電に売り渡して原発が建てられた。
実権を権力をもっていれば責任を課せられ批判されるのだ。もし権力もなければ責任も問われないことになる。権力に必ず責任が課せられているのである。
現代では明らかに金を何であれもっている人は責任が課せられているのだ。だから補償金であれ多くもらった人には責任があるとなり今になると批判されるのである。
自分たちの私益のためにだけその権力を使うから批判されているのだ。


天皇は昭和天皇が生きている時はタブーだったから批判しにくかった。昭和天皇は何かジキルとハイドだったのである。戦前は軍神であり戦後はまるで違った平和の使者を自ら演じたのである。国民もそれを受け入れたことが不思議である。なぜなら確かに心の青雲のプログ主のように天皇責任論が全面にでてもおかしくないからだ。では天皇だけがそうしたのかというと国民自体もまるで天皇と同じだったのである。戦争に負けて全くアメリカ一辺倒に変質してアメリカ崇拝になったことなのである。


寒々とした気持ちにさせられるのは、日本人の卑屈なまでの変容性である。昨日まで「鬼畜米英」と叫んでいた人達が、占領下となると、 マッカーサーを父や神のごとく称え、「日本を米国の属領となし下され」と擦り寄る変わり身は驚くばかりである。世界史に例のないほど、一切の抵抗も暴動もなく、正に「よき敗北者」として新たなる権威を受け入れていく体質は、日本を考える上で重要な素材であろう。
http://d.hatena.ne.jp/nakinomacchan/20050623/1161082622


日本国民そのものが信念も何もなく戦争を遂行したことではとないか?天皇はそうした首尾一貫した思想の実践もなにもない国民を象徴していたにすぎないともなる。天皇に実質責任があっても国民もそれに従ったのだから国民にも責任があるとなる。
極端に変わることが信用できなくなるのだ。原発でも前の双葉町長が反原発になったり小泉前首相か原発推進から反原発になるのはなぜだろうとなってしまう。

原発の利権を求めて原発推進だったのでありそれが急に事故後に反原発になるときとまどうことになる。それは戦争でもそういうことが起きた。全国民が戦争に邁進して一億総玉砕として300万人以上が死んだ。それがアメリカに破れるとその戦争を全く否定してしまった。天皇がアメリカに命乞いして助かったというのもそうである。それは国民もアメリカに命乞いしていたのである。だからアメリカ自体が日本人は信用できないというのもわかる。例えば三島由紀夫が天皇は神であるべきだと言って自刀として死んだ。それも一理あったのである。天皇は現人神(あらひとかみ)としてあるべきだったというのは戦前からの一貫性を守るべきだとなればそうなるからだ。そもそも天皇が無責任だというより日本国民が無責任なのである。戦争で負ければ全く白から黒に変わり反省もしていないのだ。原発でも事故前は官僚でもマスコミでも地元でも全員利権のために賛成だったが一旦事故が起きたら反原発になることと同じだったのである。


GHQの支配下になったとき子供がギブミチョコレートになったのもそうである。戦後はこのギブミチョコレートしかなくなっていた。物質的なものを求めて高度成長になりその経済が衰退して現在にいたっている。日本人はこうして変わりやすいのである。変化に強いから適応するから明治維新も成功したともなる。ただ一億総玉砕とか一眼となるがたちまち熱狂も覚めて変節する。それが日本人の特性だともなる。

NHKのクローズアアップ現代で日本人の手紙が戦後、GHQの占領軍によって検閲されていた。それにあたっていたのが中央郵便局の官僚でありそれが検閲管であったのだ。戦争中は特高となり戦後はアメリカのスバイとなり高級とりとなる。その時就職先もないのでしかたなくなったと言っている。その人たち高官となり贅沢をするようになった。官僚はただ利得だけで今も動いているのだ。検閲というとき自分の本でも創価を批判したら図書館に置けないとか検閲されて置けないとか原発の時も反原発は政府によって検閲されていたのである。例えば政府で出す教科書でも原発の安全神話が作られていた。その体質は戦前と何ら変わっていないし権力によって国民は操作されていたのである。

それは政府だけではない巨大権力によって操作されているのは同じである。なぜ創価がこれほど批判もできないタブー化しているのか?それは天皇カルトと同じだったのである。

創価は警察にまでも会員がいてにらみをきかしているとなると政府並の権力をもっているともなるのだ。マスコミも政教新聞を刷らせて支配している。カルト創価と天皇カルトはにていたのである。それは日本が政教分離ということで明治のときから近代化していない、古代とか中世をひきづっているからそうなる。そしてそうした巨大権力に国民は従順であり300万人が今になるとなぜ死んだのか問われる。原発事故も同じである。の責任は天皇にもあったし国民にもあった。だから常に権力に対して疑問をもつことが必要なのである。マスコミも権力をになうものであり巨大権力の手先になり誤った方向に導く、それは戦争でも原発でも同じだった。マスコミに電事連から


十一の電力会社の広告宣伝費は880億、販売促進費は623億、東京電力は広告宣伝費243億、普及啓発費200億


東電だけではない電事連合がこれだけの金をマスコミに払っていたから驚きである。電事連合は民主党でも票田であり核兵器に反対でも原水協では原発には賛成していた。それだけの勢力、権力をもっていた巨大な国家並の権力集団だったのである。これはもう一企業などというものではない国家と同じである。だから財閥の会社の利益のために国家が牛耳られて会社の利益優先で国家が動かされているというのもわかる。こうした巨大会社には一地域とか市町村ではもう対抗できないのである。
だから東電によって一地域が容易にふみにじられてしまう。その莫大な資金でふみにじられてしまったのである。

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冬の鳥来る(今年は秋が短かった)


冬の鳥来る(今年は秋が短かった)

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黄落に午後の日さして老いの友

冬の鳥はや来たれるや家籠もる
故郷に生き継ぐものや冬の蝶
晩菊によりそいさしぬ光かな


時にして一時に散れる木の葉かな老いて多事なり故郷の道

大倉にかすか鳥なきあわれかな秋の夕暮れ人の消えにき

この鳥はジュウビタキだろう。白い斑点がある。前からしか見ていいなし夕方だからぉかりにくい、でも冬の鳥であり渡り鳥である。今年は秋が短く冬になっている。晩秋がぬけ冬になっている。ただ晩秋と冬が一緒になっている感じである。

立冬はすぎたからやはり冬である。故郷に生き継ぐというとき華やかではない冬の蝶である。それは老人かもしれない、そこに深い趣がある。飯館辺りも冬の蝶などがあっていたけど人がすまなくなった。大倉も人が住んでいない、かすかに鳥がないて夕暮れた。
ただまだ人が住んでいるという感覚になっている。家も残っているからだ。
人が本当に住まなくなったら森に帰ってしまうだろう。
飯館村では大倉にしても佐須にしても人がまた住むようになるのだろうか?


ともかく昨日だった、突然風が吹いてぱたぱたと木の葉が一斉に散った。今日も突然雨がふりだして風が吹いた。ここ6年間はそうした突然に桜が散ったり木の葉が散る、自然と人事が一致している。突然に事件が起きて突然に災害が起きて桜が散り木の葉が散る。
そういうふうに変化が激しいしそういう変化にもまれてきたのである。
これは老人にとっては辛いと思う。老人は変化に弱いからだ。
80以上になったりしたら特にこうした変化に適応できず死んだ人もかなりいるみたいだ。

田舎で老後を過ごしたいと思っていた人もいたし現実にそういう人が浜通りにもいた。
浜通りのいいのは気候がいいからその点では老後を過ごすには良かったのである。

とにかくこの辺は神戸の地震と同じように10年くらい落ち着かないのではないだろうか?
そのうち自分にしてもかなり老いてゆくから死んでいるかもしれない、そういう動乱の中で老後を過ごすとなるとは思っていなかったろう。

電車が仙台に通じないと何か遠出しにくいから4月ころから遠くに行っていない、ほとんど近間だけが行動範囲になっている。だから家にいることが多いから家が大事になるのである。