2013年10月31日

柳津の粟饅頭の店が消失(会津は粟饅頭に栃餅がうまい


柳津の粟饅頭の店が消失(会津は粟饅頭に栃餅がうまい)

今から180年ほど前に柳津町を様々な災害が襲い、圓蔵寺では火災が発生しました。その際に、二度と災難に「あわ」ないようにと願いを込めて、粟(あわ)ともち米を使ったまんじゅうを考え、虚空蔵尊に奉納したのが柳津銘菓「あわまんじゅう」のはじまりだと言われています。


柳津に自転車で行ったとき、粟饅頭もらったことを覚えている。あそこが焼けたというのは驚き、四軒も焼けたとなるとショックだったろう。粟饅頭はうまい。
あの辺は栃餅もうまい、その味がいかにも山国の会津の味だった。

なかなか貧乏旅行だと料理はありふれた安いものしか食べなかった。土地の郷土料理だったら三千円くらいかかるだろう。一回だけ新潟の小出で「鮎」の料理を普通の食堂で食べた。いきがいいからうまかった。前を流れている魚野川でとれるからうまい。
浜通りだと松川浦でとれる石鰈がごちそうである。これはとれたてのがうまい。それも原発事故で食べられないのが漁師にとっても悔しいだろ。自分で米が作れなくて買っているのが悔しいという農家の人がいた。やはりこういうところにどんなに補償金もらっても失ったものの大きさがあった。


地元でご馳走するものがないとなると淋しいことである。新潟に避難したこの辺の人が言っていた。新潟では待遇が本当に良かった。温泉にも入れたとか布団は一人一人用意されていたとか食事も良かったとか言っていた。そんなに良かったのか?
バスで避難しろと言われた時不安だった。でも実際はバスに乗っていってもちゃんと待ってくれていた人がいて好待遇だったから旅行気分にすらなっていたのである。


ともかく旅の思い出として料理の思い出がある。でもこれは今はなかなか得られない、郷土料理は特別な店に入らないと出ない、その点、江戸時代の方がその土地のものを食べられたかもしれない、なにしろ江戸時代はその土地のもので自給自足していたからかえって土地のものがうまいということがあった。漬け物でも梅干しでもみんな違っていたのである。

今は確かに全国の食べ物が食べられるけど鮮度が落ちる。でも今日の白ミソというのを味噌汁にしたら東北とは違って薄味だった。東北の味噌は塩分が強い。それで脳梗塞などが多くなっていた。料理とか味噌でもその土地の繁栄である。それでも今は土地の特色を出すことがむずかしい。どうしても一様化してしまうのである。

会津の米がうまいのは水がいいからなのだろう。何か淡白であり水が影響しているのかもしれない、特に白いという感じもする。

料理は必ずその店独自のものを出さないと食べ物は誰でも評価しやすいから繁盛しないだろう。もしそうした独自のものが作れるなら宣伝も入らずに繁盛する。いくら宣伝しても食べ物は中味がすぐわかるから無駄なのである。薬なんかはきくのかどうかわからないから絶えず宣伝していると催眠術のようにきくように思えてくるから不思議である。

テレビの青汁の宣伝でもそうだしスチームの宣伝もそうだった。テレビは何か買い物だけではない、ニュースでも解説されると暗示にかけられているのである。嘘も百回言えば信じるということになる。原発は安全だ安全だと絶えず言っているとその当事者も安全だと思うようになっていたのかもしれない、安全だ安全だと題目を唱えるように念じていたのである。

原町紡績の専用線があった驚き(写真もあった)


原町紡績の専用線があった驚き(写真もあった)

原町森林鉄道・原町紡織専用線 
http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/stop/bab06.htm

      
●比曽川支線 飯舘村   
● 原町紡織専用線 原町市 製糸工場への引き込み線 
● 日本硅砂砿業専用線 原町市 地元では「砂工場」と呼ばれていた


ここに原町紡績(原紡)の工場が出ていた。そこに確かに線路があった。これは相当貴重な写真だろう。原町史にのっていた写真である。最初は製糸工場であり次に紡績になった。肺病に多くなったのは紡績工場だった。これがどっちだったのかまぎらわしい。
ここで自分の母親が十年間働いていた。たいがいここで女性は働いた。今なら福相で女性がほとんど働いた経験があるのににている。
それにしてもここまで線路があったということの驚きである。
それだけ原紡は大きな工場だった。

日本硅砂砿業専用線 原町市 地元では「砂工場」と呼ばれていた


こんな線まで引かれていたのだ。原の町機関区は平機関区の次に重要な駅だった。
それは乗客を運ぶより資源を製品を運ぶことだった。製糸工場にしてもそうである。
鉄道は北海道でもそうだが最初は石炭を運ぶために作られたのである。

荷物を運ぶことが主であり乗客のためではない、第一汽車賃が高いもので簡単に乗れなかったのである。だから自分の姉が葛尾村に行ったというとき歩いて行ったことを何度も語っていた。その間に森林鉄道のことを語っていた。
つまり木材であり砂であり紡績工場の製品であれ石炭であれそうした資源を東京の方に運ぶために鉄道が最初あった。

だから必ず引き込み線がどんな田舎の駅にあった。だから駅前中心の街作りになったのである。鉄道全盛時代、国鉄時代がいかに鉄道が主役だったかそれを忘れているのだ。
縄屋とかあるとするとその縄で梱包するために縄を必要とした。そういう時代であった。鉄道マニアになると線路であれ何であれ異常に愛着を覚える。
もしこういう鉄道があったら面白かったろうと思う。

自分の場合バスとか車はどうしても好きになれないのである。

昔の写真は貴重であり白黒時代の写真はみんな相当に価値がある。写真から過去が見えてくるものがある。ただ高校の時、原町に蒸気機関車のとき通っていたようだがその記憶があまりないのも不思議である。その時、鉄道に関心があまりなかった。ただ子供の時、長い貨物列車が走っていてそれを見送っていたのを覚えている。これも貨物列車が主役の時があったのだろう。また踏み切りがあって踏み切り番がいたことも覚えている。
それも遠い記憶でありなかなか思い出せない。それほど昔になってしまったのである。

国鉄はまた地方の主な働き場所であり待遇も良かった。それで国鉄が民営化するとき退職した人などはかなりの金をもらった。その時高度成長時代だからそういうことができたのである。


この辺では鉄道は原町から仙台は6年後くらいに海側から山側に線路を移して開通するが
原町からイワキの方には開通するかどうかわからない、もともとイワキの方への便数は少なかった。二両とかなっていた。仙台へは八両編成だった。だからますますイワキは遠くなり浪江、双葉などもどうなるのか、鉄道は通らなくても六号線と常磐高速道路が開通すれば回復にむかうだろ。鉄道はそれだけ経済的効果がなくなっていた。でも鉄道が通らないと淋しいのである。


森林鉄道も全国いたるところに通っていた。だから飯館村の比曽にまで通っていたということの驚きである。それはどれだけ森林資源が木材の需要があったかを物語っているのだ。それがなくなったとき山でも地方は活気を失った。そしてふりかえればそうした木材資源でも何でも資源が外国から入ってきたりすると地方も衰退したのだ。
それで地方は原発のようなものが押しつけられたのである。産業廃棄物処理場なんかもそうである。そうしたものとしてしか用途が地方にないとなってしまった。
それはグローバル経済の結果でありそれが地方を破壊してしまった。
だから歴史をふりかえるとそんなにグローバル経済がいいものなのか?
そういう疑問がでてくる。TPPではさらに地方は破壊されて何もなくなってしまうとさえ思う。核の処理場として産業廃棄物の場所とされて破壊されてしまう。


日本国内資源ないわけではない、森林資源など相当にある。国内の資源を利用してたりないところを外国を利用するというのではない、国内の資源を利用しないで安いから海外の資源を利用する。こういうことは社会全体に何か弊害をもたらす、そして原発や産業廃棄物のうよなものだけをおしつけられる不条理がある。そういう社会全体の歪みをもたらしたのがグローバル化でもあったのだ。


汽笛一声新橋を これは文明開化のひびきだった。鉄道が明治以後国を作ってきたのである。江戸時代はそもそも交通が徒歩だからどんなにしても物流でも人の交流でも限られている。鉄道ができたことによってものでも人でも交流が盛んになり日本国民という意識が形成された。日本国民を一つにまとめるために天皇制が作られたけど結局これは無理な押し付けであり戦争で破綻した。天皇は古代のものでありそれが近代社会に適応されることは無理があった。中世の日蓮宗でも念仏集でも現代にすべて適応させるときカルトになったし天皇教もカルトだったのである。


とにかく鉄道が国家なりという時代があった。今は電気が国家になっていたのである。
トヨタも国家なりともなっている。ただ当時と違うのは紡績工場とあっても絹の製糸工場は大量の桑の葉を必要とするから農業と一体化していた。だから農家の二階で蚕を飼っていて兜作りの家がこの辺でも結構残っていた。農業と一体化していたから原材料は地方によっていたから違っていた。今は車の生産でも何でもそれぞれの土地とは関係ないのである。もちろん原発なども土地とは何の関係もないからそこがただ土地の人にとってかかわりのない禁断の地となっていた。確かに原発で働いていた人がいたとしても原発そのもののことはかかわることができなかったのである。


明治20年(1887)に東北本線が開業しました。その建設にあたっては、当初は現在の阿武隈急行ルートが検討されましたが「蒸気機関車の煤煙が桑や繭を汚す」「阿武隈川の水運が寂れる」などの理由で沿線地域の反対にあい、東北本線は現在の経路になったといわれています。
  同じような話は「鉄道忌避伝説」として全国にありますが、実際には、当時の土木技術が現在に比べて低く、橋梁やトンネルをなるべく避けたり、地盤や地形の制約があったりしたため、結果的にその地域を通らないルートが選択されたものも多いとされています。

  例えば、福島〜槻木間で見ると阿武隈急行は福島と丸森で2度阿武隈川を渡り、トンネルも東北本線に比べてかなり多くなっています。昭和40年代以降に建設された鉄道は土木技術の進歩によって長いトンネルや橋梁が多く、一概に比較はできませんが、明治時代に建設が容易だったのは現東北本線ルートであったことは想像に難くありません。


こういうことが言われることはやはりどれだけ養蚕が盛んだったかを示している。阿武隈山地でも養蚕が盛んだった。農業と一体化していた工業だったのである。現代はその土地と遊離した工業が多いから問題が起きてくる。原発に一般的に無関心だというとき無関心にならざるをえない状況があった。関心をもつという時やはり生活に密着していると関心をもつのである。


日本に無数にある鉄の生産に関する地名が残されているのもやはり土地の人がそれだけ関心をもった証拠である。それが原発のようなものになるとそうした関心がもてないのだ。そこが閉鎖された秘密の禁断の地となっていた。鉄の生産に関してもそこは秘密の場所として神秘化されたけど鉄に関する地名が異常に多いということは何らか地元の人と交渉のあった結果なのである。原発など南相馬市でも30キロとか離れていると関係ないと思っていた。でも今はじめて補償金問題で直接東電と交渉しているときその当事者とはじめて関係したという感覚になる。それまでは東電の人となど直接関係できない、東電の社員と地元の人が交わるということは極一部だけであり知り得ないものだった。

posted by 老鶯 at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

秋の太陽が昇る(写真を今撮ってきた)


秋の太陽が昇る(写真を今撮ってきた)

autumnsun11.jpg

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みちのくや春にあらじもかがよいつ秋の真紅の旭昇りぬ
春は曙というとき、それは京都であり東山とか盆地の曙である。しかしこの曙と海に面したところの曙の感覚は相当に違っている。この曙は春ではない、秋でありこんな旭を見たことがない、空気の具合でこんなふうに見えた。

写真では秋なのか春なのか見分けがつかないことがある。太陽でも月でもそうである。

昨日の虹でも失敗したのは芒の繁っているところからとれば秋だとわかったのである。
今電車来るなと思って移動できなかったのである。
一刻一刻シャッターチャンスは消えてゆくのである。

旅しなくても写真になるものはあるが良く見ていないのだ。これは秋の真紅の太陽がふさわしいと思いみちのくにした。みちのくの秋の赤い輝きである。
これもリアルタイムだと臨場感がでてくる。それがインターネットの醍醐味なのである。生放送の魅力なのである。