2013年10月30日

秋の虹(二両の電車と虹の写真がとれた)


秋の虹(二両の電車と虹の写真がとれた)

akinijiii1123.jpg
クリック拡大

今日も行く二両の電車や秋の虹


雨しとと朝しめやかに秋なれや午後に雷鳴り変わりやすきかな


今日一日でも変化あった。朝早く起きたらしとしと雨だった。でんでん虫がゆっくりと道をよぎっていた。今日はこんな天気かと思ってた。
ところが昼間ころまた地震があった。震度3だからそれなりの地震だった。
また最近地震がつづくから不安である。

午後になり2時過ぎて買い物に行ったら雷が鳴った。そして虹がかかった。
その時カメラをもっていたので二両の電車が行くところをとれた。

いい写真をとるにはカメラを常時もっていないととれない。まずカメラのスキルより
いい場面に出会えればいい写真になる。自然というのも絶えず変わっているからだ。
このカメラは光の感じが明るいからよりリアルにとれる。
カメラもいいものでないといい写真にはなれない。
今はいいカメラも安いからいい。


とにかく今年の天気は変わりやすい、これからも台風が来るとか温暖化していることもある。普通これまで秋雨というと9月ころの長雨でしとしとといつまでも降る感じだったが
今年は9月は熱く10月になり雨がつづいたり変則的なのである。

インターネットの面白さはこれまでにないリアルタイムの報告ができることである。
報告する方でも生に近い感じだと何か緊張感がある。
生とあとで編集したりするものは違っている。

それで朝まで生テレビは実際は収録して編集したものだったということで批判になった。地震でわかったのである。
テレビはそういうふうに一見生と見えても録画して編集したりといろいろ操作できるのである。それにだまされるのである。

いづれにしろプログとか他でもインターネットはリアルタイムになるとその面白さがあり効果がでてくるのだ。ただ同時間にみんな見ているわけではない、その日のうちに見ているならその臨場感がでてくる。

だから今回は虹をとれたので出した。
電車も偶然に来てとれたのである。
電車とか動いているものをとるのはむずかしい。
虹というのも簡単にはとれないが二回ほどすでにとっている。
たいがいこの辺では夕方ころに夕日とかによって虹が出やすい、山の方に虹がかかるのはなかなかない、
一回相馬市の病院で夕方山の方にかかった虹を見た。
やっぱり虹は何か縁起がいいものを感じる。

秋の光−鴨 (俳句は写生でも背景を読まないと鑑賞できない)


秋の光−鴨

(俳句は写生でも背景を読まないと鑑賞できない)

鴨数羽秋の光に橋の下


一二羽と大きな庭に秋の蝶舞入りにつつ田舎静けし


毎日買い物で橋を通る、すると必ず橋の下に鴨が数匹浮いている。なんでもない風景だけど人間は自然であれ橋であれ道路であれ一体化してゆく、これも写生俳句そのものである。ただ日々の事実を俳句にしただけである。ただ感じたのは秋の光である。
鴨は冬の季語でも秋から鴨はいるからまぎらわしい。
写生俳句は日常のありのままをそのまま表現ふることである。
ただ写生俳句はその人の日頃の生活とかを読まないと鑑賞できない
この俳句はなにがいいんだと常になるのだ。
あまりにも日常的でありどこに深い意味があるからわからないのだ。

それはこの辺で起きて津浪という大きな異変の後に俳句や短歌にした。
つまりこの辺では津浪という激変を常に考慮しないと俳句でもわからないとなる。
御刀神社にしてもあそこが津浪で残ってということが大きな意味あるものとなった。
今まではあの神社は別にそんなふうには見ていないからだ。
だから写生でもそれだけ違ったものとなったのである。

ところどころ沼になったりまるで変化したことは写生でも驚きの世界となってしまったのである。

ともかく写生という時、奇をてらうようなことはしてはせいけない、空想で作り出してはいけない、そこが詩と違っている。だから何か平凡に見えてこれがどこが芸術なのかとなってうまう。でも橋の下というとき自分は毎日買い物に通う道でありその橋の下にいつも鴨がいるということ鴨と自分がそこで一体化しているのである。
そして秋の光がその鴨にさしている。そこに深いなごみを感じたのである。

雁は秋の季語だけで雁は何か列なして飛んでゆくのをイメージしている。
でも鴨はいつも水に浮いて同じ場所にいる。あまり飛ぶイメージがないのである。
何かいつも仲間と一緒にいて離れないという感じになる。


雪の暮鴫はもどって居るような 蕪村


この句は鴫だけど鴫はあんまり今はみかけない、くちばしが曲がって大きなのを津浪の跡の沼で見た。ただ鴫が沼に浮いているような風景は見なくなっている。
鴫そのものが見えないから鴫はなじみがない。

ただ鴨はなじみ深いのである。鴨は冬の季語でも秋でもいつもいるから秋にもふさわしいのだ。するともどっていそうなというとき何かいつも鴫をそこで見ていたのである。
たとえ飛び去っていまはいなくてももどっているように見えた。

俳句はこういうものでも深く読まない限り鑑賞できない、鴫を人間に例えるとそこにいつも見ていたものだからまたもどっているように思えた。
それはよほどこの鴫を見ていない限りそんなふうには見ないだろう。
相当にその鴫となじんでいたのである。
そういう時間感覚は江戸時代である。江戸時代の俳句でも鑑賞するには江戸時代の時間感覚とかに入らないとできない、江戸時代の時間感覚は今とはかなり違っているからだ。


蕪村が炉端の俳人で一カ所に留まって動かない人だった。そういうときこれもある所に動かないで長くいて鴫を見ているからできた句なのである。
現代はなかなか一カ所にいるというより目まぐるしく人でも何でも変わる。
まず江戸時代は変わらないのが原則なのである。
村でもそうだし江戸の長屋でも一生同じ長屋にいたのである。そこがなかなか理解しにくいのだ。これほど絶えず移動している時代には理解できない、アパートなんか絶えず移っているのが普通だからである。

現代は江戸時代の回帰が望まれているのだ。貧乏な江戸時代は嫌だというのはわかる。
ただそういうことではなく江戸時代的なもの、時間感覚でもスローペースの感覚である。その悠長な時間感覚が高齢化社会にはあっているのだ。