2013年10月26日

飯館村佐須の乳神の碑から現代を考える (牛乳がない時代は乳が頼り)



飯館村佐須の乳神の碑から現代を考える

(牛乳がない時代は乳が頼り)


●乳神の碑の伝説


(耕野の名所・旧跡と伝説より抜粋)

旧丸森西中学校の近くに、石に乳が彫られた「乳神」という石碑があります。
「丸森町史」にも載っていますが詳しい場所まで記されておりません。
http://zuiunzi.net/igu/dousozin/titi.html

「大正年間に建立、県道角田線字羽抜の八雲社内にある。明治大正年間のころ、子供を産んでも乳が不足だったり、出なかったり、又乳房の病気にもなり困っているお母さんたちがいたので、同部落の一條利吉という人が、妻の胸を見ながら刻み乳神を祀った。
http://zuiunzi.net/igu/dousozin/titi.html

老杉の根方に小さな泉があり、堂の中に姥神の石像を安置してある。用明天皇の妃玉依姫が下紐石の上でお産をした時乳の出がわるかったが、神託でこの泉を発見し飲んだところ乳が出たという。乳母神像の乳房を削り取って粉にして御飯に炊き込むと産婦の乳が出て、嬰児も丈夫になるという。お礼参りに奉納する縫いぐるみの乳房が沢山堂にかかる。
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/C0410888-000.shtml

木の根本に上がるはしごが掛けられていますが景観を損ねるだけで必要だったのでしょうか。乳神様(金勢様)は、大きな岩の上に立つウッ コの大木に抱かれるようにしてある。子供が授からなかったり、お乳が出なかったりする女性が、子宝やお乳がた くさん出るよう祈願した。
http://p.tl/GQlv


ひとつ気がかりなのは…
おっぱいが張りにくくなってきたことだ…
このままおっぱいが出にくくなって
断乳、になるのだろうか。
不本意な断乳、悔しい。
昨晩は一応マグマグに母乳をしぼって置いてきたが
娘は飲んでくれたんだろうか。
よく寝ただろうか。


●牛乳のない時代は乳が頼りだった


乳神というと何を語っているのか?もともと人間は乳で育っていた。乳を飲まなければ子供は育てられないのが普通である。乳が出ないということは昔は相当な深刻なことだったろう。でも今は乳が出なくても何にも困らない、牛乳があこり牛乳が余って捨てているのが現実だし米だってあまって減反政策になっている。こういう時代だと乳のありがたみもうすれるしモノのありがたみも薄れる。もったいない・・・というのは戦前から戦後十年の時代感覚だった。今は膨大な食料でも捨てている。古いものは使わない、新しいものと買った方がいい時代になるとモノを大事にしない、そこで人はもはやモノを与えても何を与えてももらっても感謝しない時代になった。もらって当たり前でありそれ以上にたりないたりないと文句ばかり言っている。そしてついに盗んだ方がいいとなる。実際そういう人に犯罪にあった。もちろん現代はあらゆるものに金がかかるから金が欲しい欲しいというのはわかる。格差社会でもありその格差が大きいのも問題である。でも人間があまりにも金、金、金・・となったときモラルが崩壊していたのだ。


このところの自分の問題もあまりにも金ばかり要求してくる。お前は金を出せばいいんだ、あとは用はないとまでなっている。それは現代の風潮であり自分だけに起こったことではない。なぜなら親子の間でも求めるものは金だけになり金のない親は相手にされないとかまでなっている。現代の生活で金を否定はできない、ただその金を求めることが限りなくモラルの荒廃が起きた。原発事故でも原発が金のなる木だから地元でも積極的に誘致したのである。原発に政治家でも官僚でもマスコミでもそこが金になるということで賛成して促進させた。原発事故の原因はいろいろあるにしてもやはり何か根底にはモラルの荒廃も関係していた。津浪でも必ず誰かが悪い人がいてそのひとか津浪の原因だったと伝説で残されている。そういうパターンがあり自分もそういう経験したからそう思った。

人間のモラルが荒廃する時、自然からでも人間からでも災いが生まれてくるという思想は人間の歴史がはじまって以来常にあったのである。

乳神のことだけど飯館村の佐須に行った時、一軒家の畑に小さな「乳神の碑」があった。その家は辺鄙な所の一軒屋だった。それで乳神とは何だろうと思った。キーワードで調べるとそれなりにある。丸森町にあるのは大正時代だから新しい、江戸時代からあったし
乳がでないというこはやはり深刻な問題だった。例えば聞いた話では同じ世代の人が
自分は親戚の人の乳で育ったという、兄弟が多く母親が乳が出なくなったのだろう。
乳が出なければ戦後でもそうなったということである。つまりその頃牛乳がさほど普及していないしモノ不足だったのである。それで自分も牛乳を得るために自分の父親が並んで買っていたという話を聞いた。ともかく戦後十年は焼け野原から出発したのだからモノが何にもない時代だった。小さな飯台が一つあるくらいの質素なものだった。それは一般的に共通した生活だった。だからまさに乳もないという時代だったのである。
乳が出なければ誰かの乳をもらうほかないとなる。そういうことは江戸時代から人間がはじまって以来されていたことである。貴族でも武家でも乳母がいたのはそのためである。ただそれは乳が出ないというのではなく家来との絆を深めるためにあえてまかせていたのである。なぜなら乳を子供にやるということはその子供が自分の子供のように思えてくる、愛情をもつようになる。するとその家に仕える気持か違ってくるのだ。


●飯館村の大倉と佐須


大倉と佐須は山の中の辺鄙な村であり大倉から佐須は結構離れている。不思議なのはなぜ明治になって大倉と佐須は民情が違うから合併しなかったという。おそらく大倉と佐須は江戸時代でもそんなに交流がなかったのだろう。それは日本の村は複雑であり村と村が仲良くしていない、隣り合う村でも利害の対立があり敵対していたという、それは水の配分などでもめたり何か資源をめぐって争いもあった。狭い土地に住むとそういうことが起こりうる。狭いと資源がないと貧乏だと互いに姑息になるということがある。日本人はウチとソトを分けるという時、そうした村の狭い地域での生活が影響していたのである。
それを可能にしたのが狭い地域でも自給自足であり隣の村でも頼らないで生活していたからである。だから佐須のような大倉のような狭い地域で自給自足できたことが今になるとなかなかイメージしにくくなっているのだ。佐須と大倉は山の中であり田んぼなども少しあるだけである。佐須はもともと焼き畑の意味だった。飯館村には草野辺りとか飯樋町・・・辺りだと広い田んぼがあり飯館村は山だけではない全体では広い地域であり米も相当とれていたのである。

飯館村と原発はほとんど関係なかった。までいな生活の村という時、そこは原発の恩恵はない村だった。それか不運にも風の影響で放射能の村になってしまったのである。
飯館村ではその時牛の村にもなっていた。飯館牛は有名だった。牛乳もふんだんにある。ただおそらくその乳神の碑は明治以降か大正以降か昭和の戦前のものだろう。丸森町で乳神の碑を大正時代に建てたということで想像がつく、それから飯館村でも相当に戦後でも開拓に入った人たちがいた。浪江の津島も戦後、復員した人などが開拓に入りそれで協力したから村のつながりが強いというのもわかる。だから飯館村でも意外と辺鄙な所は戦後開拓に入った人たちが結構多いのである。ただ一方で大倉は鎌倉時代から人が住んでいて古い。江戸時代からの歴史かある。飯館村は相馬藩の山中郷になったとき人口も増えていった。相馬藩の郷士が役人として農民として入ってきた。塩の道で二本松に塩を運んでいたから塩を管理する役人が60人とか住んでいた。それも多いと思うけどそれだけ塩の役割が大きかったのである。乳であり塩であれそうした物の大切が失われた時代には昔を偲ぶ事がまた必要なのである。

大倉を越えて佐須かな春の日や行合道に我がい出むかな


残雪の吾妻峰仰ぐ佐須をすぎ行合道に我はい出にき


鹿島より佐須は遠しも何かあれ畑に一つ乳神の碑

真野川の源遠く佐須なりき山津見神社ここに古りにき

真野川の流れに佐須と大倉は結ばれにしや春の日暮れぬ

http://musubu.sblo.jp/article/27979058.html

SASUMURAPP1.jpg

これ建てた人の名前は書いてあるがよくわからない
隣の祠はもっと古いものだろう
そこに新しく碑を建てた



佐須というとむしろ霊山の方が交通としては近いから行合道とは佐須の人たちが名付けたものなのだろうか?それでもあそこは坂が急だからそんなに簡単に出れないし交流もできない、つまり閉ざされた地域だった。山津見神社があるがあれも古い、狼を祭っているということは何かふさわしい。不思議なのは山津見という地名が松川浦の浦に面した所にあった。それが何を意味しているの。山津見神社はやはり海との交流がありそこに祭られたのかなぞである。ただお浜下りというのは春になると行われていた。大倉から車で下ってきたのである。それにしても飯館村とかがなくなるとそうした交流もなくなる。
今の時代、限界集落のような村はなくなった方がいいというけど飯館村がなくなることは相当な損失だろう。その村の価値は経済的効率からだけでは計れない、今になると放射能廃棄物の村とかいいイメージがなくなったのである。その放射能の廃棄物処理場にしてでも除染なとどしないで金でも一億でももらった方がいいというのも現実的な意見だった。
除染など誰のためにしているのか、会社のためにゼネコンのためにしているのか、大成建設が除染していたが放射能測定器の下の土をとって放射線量を低くしていたのである。

佐須では驚いたのは田んぼの畦道の泥がたまった所で20マイクロシーベルトがあるホットスポットがあったので驚いた。やはり高い所があると思った。ただ自分の近くでも南相馬市内でも樋の下は泥がたまりそこは10マイクロシーベルトとか高い。屋根には放射性物質がたまりそれが流されて泥にたまり高くなった。そしてセシウムは泥になって流されると予想して田か実はセシウムの濃度は変わらなかったと科学者が言っている。すると真野川のダムの下の泥には相当なセシウムがたまっている。それば泥とって流れだしていないのである。するとその水を飲むと安全なのかという心配かある。汚染水になっていないかという心配である。こういうことを指摘している人はいない、飲み水はみんな心配しているからである。飯館村は一見南相馬市と関係していないようで密接に関係している。
水の問題でもそうだし放射性廃棄物が埋められてもそれが地下水にしみだしてくるから流れてくることがある。だから果たして放射性廃棄物処理場にしていいのかとなる。
飯館村だけの問題ではない、その観点もぬけているのである。

飯館村暮らしも絶えむ佐須にある乳神の碑思う秋のくれ

ともかく今や人が住んでいないとしたらどうなるのか?そこを思うことすらできなくなる。ただまだ人の住むと違ってくる。
ただそこに江戸時代から人が住んでいたということは簡単にその記憶も消えるとはおもえないのである
posted by 老鶯 at 14:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)