2013年10月22日

文化は多様であっても失われやすい (人間には共通の広範囲な文明も違った文化も必要)



文化は多様であっても失われやすい


(人間には共通の広範囲な文明も違った文化も必要)


●文化と文明の相違


語源はフランス語の culture か、ラテン語の cultura にあり、それは growing や cultivation を意味するとされています。そして、もともとは cultivation of the soilに由来していたが、16世紀の始め頃から cultivation of the mind, faculties, or manners という考え方に発展した、とあります。

人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体


文明:合理的/普遍的/異文明は受け入れやすい
文化:非合理的/地域的/異文化は受け入れがたい

文化という問題は実際は広範囲だし奥深いし定義てきない、文化は小さい地域単位でもあるし国単位でもあるし世界単位でも文化はある。文化の定義として一様ではないものその土地土地でcultivate(耕されたもの)となる。でもそれは一地域でもそうだし国レベルでも文化はある。

言葉を例にとれば国ごとにことばか違っているのは文化の相違である。
これが統一された言葉、エスペラント語になったらそれは文化ではない、英語を共通語とすれば世界の文化は失われる。英語も文化である。その基はゲルマンから発しているからドイツ語が基礎でありドイツのゲルマンの文化が根底にある。
ごたら英語を使うことはやはり文化の影響を必ず受けているのだ。


一方で世界共通なものをルールを人間は求める。そうした国を越えたルールを作ったのが商人だったということでもわかる。交通が発達すれば必然的にそうなるしそれまた必要なものであった。世界で起きている事件を見るとエジプトで問題になったのは政教分離の問題だったのである。イスラム原理主義者の団体が政権をとったことに反発してまた革命か起きた。これはヨーロッバで起きた政教分離の問題がエジプトでも起きたのである。
宗教が政治的権力をもつことはヨーロッバのカトリックの歴史から否定された。
そういうのはグローバルな問題であり世界共通としてルール化が望まれているのだ。
日本でもカルト宗教団体が露骨に政治に介入すればそういうことが起きる。
文化は多種多様な相違を認めることであるが一方で共通のルールが世界一体化するとき必要になる。それは一つの文明というえるかもしれない、文明は•civilizationでありcivilは市民であり世界市民として共通のルールを模索することになる。


とにかく文化は世界を例にとれば無数に多様多岐になっている。まず原始時代ならとなりの部族が犬族だとしたら隣は猿族だとかトーテムムが動物ごとに分かれている。そこですでに文化の相違が生まれ言葉も違ってくる。ポリネシアとかには無数の島があり島ごとに言葉が違いその言葉自体が文化なのである。方言は明らかに文化である。東北弁と京都弁はあまりに違っている。それは文化の相違なのである。単に言葉が違っているというのではない、その底には言葉が作られた歴史があ文化があり言葉が違っている。だから文化が違うとなかなか人間は共同しえないという問題もできてくる。
方言は文化だけど標準語は文化ではない、でも世界的にみれば日本語は文化なのである。

この辺では飯館村て大倉村と佐須村が民情が違うからと合併できなかった時があった。あのような辺鄙な村でもそうたったのである。日本全国に無数の境にまつわる歴史があるのもそのためである。時代がたつにつれて交通が発達すると人の合同性協力関係が広範囲に広がり共通のルールや世界認識をもつようになった。文明とはそうした世界的な共通のルールとか認識とかが広まることだろう。科学はそういう共通性を急速に促進したのである。数学は世界共通の言葉だからである。だから数学は文明ともいえる。科学も文明である。宗教も世界的に共通認識になれば文明となる。だから世界にはキリスト教文明、仏教文明、イスラム文明がある。文明は文化の相違を越えて共通認識が広まることである。犬族や猿族や鷲族などとトーテムで分かれて共通認識がない世界ではない。


●歴史は膨大な人間の営みの記憶が失われること文化が失われることだった


ただ一方で犬族や猿族や鷲族があるのも文化である。そんな原始的なものを遠い昔のことで今は何も問題にする必要がないとはならない、なぜなら猿であれ狼であれ鷲であれ動物を祖先とすることはまさに人間が自然の中で生きていた証拠なのである。狼が生きているということはその回りの環境も原始状態が保存されていて人間もその中に生きていたのである。狼が生きられなくなった時、明らかに自然環境の大きな一部が失われていたのだ。それと同時に人間も自然から切り離されたものとなっていった。その時古来からの文化も失われたのである。そして文化を失うということその意味が人間は良く認識していないのだ。だから文化というものが安易に破壊されやすいのである。


そして最近思うことは柳田国男の書いていた民俗、フォークロアの文化、常民の文化がほとんど失われていたことである。それは貴重な文化だったのである。昔話であさ伝説であれ様々な庶民の文化が失われていた。そこに貴重な文化の宝庫であり単に遊びではなく今にかかわる実用的なものがあった。津浪の伝承などが見直されたのはそのためだった。人間の歴史は常に膨大な忘却の世界である。この辺で400年前の津浪のことがそれを記念した神社でもほとんど語られなかったのもそのためである。歴史とは膨大な忘却の歴史なのである。例えは最近でももう300万以上戦死した戦争のことさえ忘却されてゆく、次々に新しい世代が生まれ新しいことのみ、目前にあることに生きることに現実は追われ過去はただ忘れられゆくものとなるのが人間の歴史だったのである。どれだけ貴重なものが忘却されたか計りしれないのである。


こうして歴史が忘却されてゆくことが人間にとっていかに危険な面があったか、今回の津浪が証明した。400年前に津浪を記念して建てた神社も忘れていた。伝承もされないし危険を言うせのが残っていなかったのである。これは津浪のことだけではない、300万人も死んだ戦争のことさえ本当のことは伝えられず忘れられてゆく。人間は日々忘却と風化との戦いである。人間は死んだらすぐに忘れ去られる。日ごとに忘却されついにはその人が本当にいたのか生きていたのかさえ明確でなくなるから伝説になってしまう。
この世は常に失われてゆく世界たったのである。老人になれば個人的にもそうである。
過去の記憶も定かでなくなり認知症になれば自分の子供のことさえ忘れるのだ。
一方で老人はたた記憶に生きるのである。記憶をたどることが生きることなのである。
だから旅しても記憶として蘇らないと旅したということすら不明になってしまう。


●コンパクトシティは文化を喪失させることに注意が必要


だからコンパクトシティという時、経済的効率的観点のみから追求されると地方の文化が根こそぎ失われる。小さな村には村の歴史があり文化があった。そうした地方都市でも街の中にのみ全部集約化されると地方都市のさらに地域の文化は失われる。つまり文化は一面、経済的効率とは反するものなのである。経済的効率を追求すれば特に現代は無駄なものとなってしまった。都会だとインフラにかかるのが1として地方では極端な過疎地域だと180倍かかるというからその負担は都市民にかかわってくるからコンパクトシティ化した方がいいとなる。でもそれを押し進めるとどうなるのか?それは日本が長い間に作ってきた村の風景が根こそぎ喪失する。その風景はアメリカやオーストラリアのような風景になってしまう。中心に街がありまわりは広大な耕作地となり人家はなくなる。村もなくなる。そういう風景はもう日本ではない、日本が長い間に築いてきた文化のない世界になる。経済的効率を極端におしすすめとゆくとそうなる。そうなると旅しても面白くないとなるだろう。日本の面白さは小さな村や町が多いことにあった。それがあたえたのは貧しくても自然と密接に結びついた自給自足の生活があったからである。


この辺では栃窪村でも下栃窪と上栃窪があり上栃窪にも墓があり秋の蝉が鳴いていると何か感じるのはそこに人が住んでいるからなのである。それも江戸時代の碑がありか古くから人が住んでいるから感じるものも違う。アメリカやオーストラリアの歴史は新しから経済的効率を文化を無視して作り安いのである。グローバル化して広範囲な交流は不可欠であると同時に文化が失われること自体が大きな問題なのである。それは物質的なものに重点を置いているのが経済の効率化たけど精神的な面と深くかかわるのが文化なのである。だからなかなか原発事故で放射能汚染で住めないとしても日本人はその土地から簡単に離れられないのだ。アメリカとかロシアとか広大な土地をもつものなら離れやすい。日本の文化は日本の風土はそういうふうになっていないから簡単に土地を離れられないのである。それは文化的問題が根底にあるからなのだ。