2013年10月20日

2009(平成21)地震洪水パザードマップが南相馬市から出ていた [切迫していると書いてあった)


2009(平成21)地震洪水パザードマップが南相馬市から出ていた


(切迫していると書いてあった)
KOUHOUSOMA1.jpg

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ここで地震だけではない、津浪も警告されていた。

切迫性が指摘されてあり中央防災会議の検討対象として選定した津浪の中で福島県大熊町以北の沿岸では最大の水位と名とされ、
そのマグニチュードは8・2です


このように切迫されていると専門家の間でも予想されていた。
8・2というのは今回9だとしてもそれに近い予想うをしていたのである。
津浪も予想されていた。専門家の予測してすでに警告していた。

それがなぜ東電ではきかなかったのか?
政府ではなぜ危機感をもたなかったのか?

想定外と常に言うけどこれだけ警告されていた
津浪の危険も東電に専門家が政治家でも共産党などが進言していた

東電はそれを聞かなかった。

政府も保安院も何ら対策を打たなかった。
市町村レベルでもこのように切迫したものとして警告していたのである。

そもそも原発は国策だから気象庁でも優秀な地震津浪に関しての優秀な専門家がいた。
それらをなぜ活用できなかったか?

すべてを東電にまかせきりの体制になっていた。

ただ津浪が起きる前に学者を再三警告していたのである。
なぜ手を打たなかったのか
それはやはり東電はまずコストのことを考える
そもそも土台を高くしたのをわざわざ低くしたのはコストのためである。
地下に電源を置いたのもそのためである。
高いと不便になりコストがかかる。
津浪対策でも膨大なコストがかかる
そこでうやむやにして先に延ばしていた

政府も真剣に津浪対策などしない
保安院は何の働きもしない税金食いだった
ただ飾りだったのである
東電のいいなりだったのである。
だから政府にも責任があったというのは一理ある


大島の土砂災害でも津浪とにていたと言われる
それも火山のことは経験しているから火山にばかり注意を払う
土砂崩れは想定外となっていた
人間は二つのことに注意できないのである。
こうつうじこかさけられないのは目が二つあっても
見るのは一方であり必ず死角ができるからである。

一つのことにしか人は集中できない
そして一つのことにかかりきりだと必ず他のことは忘れているのだ

家事でも主婦のように専門的に日常的にししていれば管理しやすい
でも他に仕事をもっている人とか何か創作とか別な仕事に集中している人は
簡単な家事でもいろいろ忘れやすく集中できないのである。


人間の弱点は二つのことに集中できないことである
一方に注意を払えば一方は必ずおろそかになる。
右ばかり注意している左からの危険を見逃すのである


南相馬市でもこれだけ警告していたのだから宮城県ではそれ以上警告していただろう
でもあれだけの広範囲な大惨事となった。

そしてどういうわけか危険な時は悪いことが重なるのである。
ちょうど大島では町長が不在だったとか
代わりの副町長を置かなかったとか不備が必ずある


それは個人的にもそうである
急激に緊急に来ること人間は一番弱いのだ
急に病気になったり異変が起きることに弱い
そこで悪いことが重なりどうにもならなくなる

それをここ6年間の苦しみで自ら経験したのである。
まず備えが人の関係でもまるでなかった
助けを呼ぶ人もいなかった
家族も病気になり自分も病気になった
それで火事場泥棒にあい甚大な被害にあった
こうした備えが自分には全くなかった
信頼すべき人もいなかった


大島でも同じだった。
町長が留守になり信頼して留守をまかす人がいなかったのである
また気象庁や政府との連絡も密に行われていなかった
共産党の市長だからと批判もある
確かに批判は学者のように得意でも実務はまた違っている
そもそも政治家は官僚よた実務にはうとい
選挙で選ばれていつも専門の分野で働いてるわけではないからだ
だから官僚支配になる
政治家は行政について熟知しているとはならない
政治家は一時的に配置されているだけであり実務は官僚しているとなる
そういう行政は危機には弱い


やはり危機に強いのは戦国武将だったろう
いつも危機にあるのだから危機意識が違う
そういうとき信長のようにとっさの判断が生死を決する
そううい人がいないと全滅してしまう恐怖である

津浪も災害もそういうとっさに来る危険だから対応できないのである

専門家が土砂崩れが起きやすい危険だということ察知して連絡はしていた
でもそれを決めるのは市町村の長だというときその判断にすべてをゆだねるのも危険だとなる
だから個々人で危険を判断すべきだということがしきりに言われる
しかしそれまた素人にはむずかしいとなる


南相馬市の広報など津浪避難マップなど真剣に見ていた人もいないだろう
でも切迫しているというのは専門家の見方だったのである

結局津浪で逃げ後れた死んだ人たちはいろひいろ責任を言っても逃げないで死んだ人が悪いとなってしまったし現実にはそうである。
自分の命を救うのは自分しかない、行政でも他人も緊急の場合は助けないということがある

津浪デンデコは他人のことをかまっていたら自分も死ぬということになるから生まれた言葉である 他人のことを心配して引き返して一緒に死んだ人もいる

聖書でゾトムゴムラが神の罰一瞬に滅ぼされるとき、ロトはふりかえって石になって死んだ。
まさに緊急のときはふりかえるとそのまま死んでしまうことを暗示している。
一目散にふりかえらず逃げるほかなかったのである。

ただ緊急の場合はどう判断していいかわからないのが普通である

これも誰が責任かというとなかなか言えない、南相馬市では広報で津浪のことは警告していましたよ、それを真剣に読まない市民が悪いともなる。
今になと南相馬市は津浪に対して警告していたし責任は果たしていたともなるかもしれない、ただ原発に対しては福島県全体で無防備だったのである。


あの地震が起きた時は今まで経験しないものだった。
だから海側の人は津波の危険を察知するべきだった
それももしこの広報を真剣に読んでいたら違っていたかもしれない
頭の中に少しでも危険情報が入っていたら反応することがある
津波はこの辺では400年起きていないのだからとっさに反応するのは難しい
でも広報に書いてあったから津波が来るかもしれないと
反応することはありうる
ただほとんどの人は広報など真剣に読んでいないのである。
ということはやはりこれは個々人の責任になるのかとなる

posted by 老鶯 at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

気仙沼の地図から今回の津浪の被害をよむ (山と海の狭間の地形で土地がなく海側に宅地を広げた)


気仙沼の地図から今回の津浪の被害をよむ

(山と海の狭間の地形で土地がなく海側に宅地を広げた)


気仙沼復興街作り調査
http://web.sfc.keio.ac.jp/~shimnov/kesennuma_reconstruction_research.pdf


まずここを読んでください。
KESENNNNUMA1111.jpg

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(網地島の伝説)


文永3年(1266)建立の神石碑が鈴木寛也氏宅の角にある。この後方の東森山頂上には、部落の人たちが海上安全を祈願した安波大明神が祭ってある。

【安波大杉神社】は関東から東北地方にかけての太平洋側の漁村に信仰されている神様で、女神やお船霊様であるとされている。発祥は茨城県稲敷郡桜川村にある安波大明神である。(安波様は長渡の根組の半島にもあり、春には大漁と海上安全を祈願して祭りが行われる)
寛永18年(1641)頃には寄磯の人口は30人以上になり平和な年月を送っていたが、天保4年(1835)に大飢饉が起ったため部落民は食料を確保するため悪天候の中へでも出漁せざるを得ない状況が続いていた。


そんな危険な綱渡りの様な漁を繰り返していたある日、渡辺平五郎という人が出漁中の時、天候が俄かに悪化し風浪高く荒れ狂い、小船は大破して乗組員全員が絶体絶命の危機に陥った。がしかし一心で安波大明神を念じたところ、辛うじて海岸にたどり着き危機は逃れる事が出来たという事故が起きた。(この渡辺平五郎が遭難した場所は以後平五郎根と呼ばれるようになった)
http://ajisime.web.fc2.com/txt/yoriiso.htm


安波祭( あんばまつり) (浪江町請戸)がありこれは気仙沼にもあり茨城県の太平洋岸から伝わり太平洋岸にそって伝播した。気仙沼に安波山とあるのがまさにそうである。
気仙沼の中心にあるように鎮座する山となる。前にも書いたけど今回の津浪は非常に海を意識させられたのである。津浪の被害にあった茨城から岩手県までその範囲は広範囲でありこの一体はもともと海と密接な関係を保ち生活していた地域だった。だから共通の海の文化があった。その海が忘れられていたのである。確かに漁港があり海が港が中心のように見えても実際の生活は海の幸より工業化して海で暮らす人はみんな魚をとって暮らすわけではなかった。それを象徴していたのが牡鹿半島だった。あそこには小さな港が点々と孤立したようにあった。零細な自給自足の港であり近年はもう漁期業でも跡継ぎがいないとか漁獲高にしろ牡蠣の養殖であれ落ち込んでいたのである。

漁業は衰退産業になっていた。これは日本全国で同じでありそれで女川の原発で働く人が多いというときまさに福島県の浜通りとにていたのである。
ただ漁獲高は10倍とかあり福島県の浜通りとは規模が違っていた。
漁業だけでは生活していけない、農業だけでは生活していけないとなっていて原発に頼るようになり事故が起きたのである。
津浪が来たから漁業が成り立たないのではなくその前に衰退していて津浪の一撃で致命的な打撃を受けたのである。


気仙沼の地図を見るとその成り立ちをたどることができる。つまり海岸沿い海に直接接している所はもともと海であり塩田になっていた。そしてさらにそこを埋め立てたのが新しい町、新浜町だった。その埋め立て地域か一番被害が大きかった。
古町は前の町であり海岸から離れている。そして三日町八日町と市がたつ所があり八日町まで津浪が来ていた。また寺や神社があるところは比較的高い所にあり津浪をまねがれた。それは人が住んだ順序を示していたのである。
人は最初海に接して住んではいない、そこは湿地帯とかであり塩田になった。
こういうことは海岸沿いで同じである。海であった所を湿地帯などを干拓して人が住むようになった。防潮林として松原を作ったのも白砂青松の日本的風景を作っていた。
それは人工的に作られたものだった。それが津浪で根こそぎ破壊されたのである。


なぜこれほど津波の被害が甚大になったのか?それはまさに共通している原因か海であった所を開拓して埋め立てて田にした。それから気仙沼辺りでは街にしたし仙台や多賀城では海に接して街が広がり住宅地となってったのである。それが被害を大きくなった主要な原因だった。もともと気仙沼とかに津波は度々襲ってきている。津波の供養の碑もあった。それても海側を埋め立てて人家をふやしていったのである。ここでも日本の国土の狭さが影響していた。なぜなら土地が狭いから海側に干拓しても埋め立てても広げざるをえないことがあった。気仙沼なとどをみればわかる。後ろ山が迫り土地がないのである。
だから埋め立てて土地を作る他なかったのである。これは日本全国どこでも同じである。海だったところを干拓したり埋め立てて土地を確保して米を作りまた市街地として人家を拡大したのである。仙台は特にそうだった。


津波も一つの自然現象とみるとき、自然に逆らって生活圏を広げたのが日本だった。
その原因かあまりにも土地が限られていることだったのである。日本人が満州に憧れたのは広大な土地があったことなのである。それが戦争の原因にもなった。土地バブルが起きたのも素ためである。日本の地形はどこまでも平坦な土地が少なく海と山の地形である。海と山のはざまにわずかに平坦地がある地形である。特に三陸から岩手県の地域は後ろが山がそびえ住める場所は限られていたのである。そのことは津浪の被害を大きくした根本原因である。


網地島の伝説でもわかるように日本自体が小さな島にも例えられる。そこで生活するには厳しいとなる。飢饉が起きたときやはり島でも食料が米など入らず苦しくなった。
それで海が荒れても漁に危険を犯して出でざるをえなかった。
相馬藩の原釜でも飢饉で死んだ人が結構いた。それはやはり漁業だけでは食料をまかないためだった。魚は定期的にとれるものでないから定期的に収穫がある農業が必要だったとなる。日本だけではもう人口が増えてやっていけないとなり満州や戦後はプラジルとかに移民になった。それも農業するためだったのである。農業には土地が必要だからそうなった。

今回の津浪の教訓は何なのか?それはいろいろあり様々な問題提起の場所になった。

明らかなことは自然に逆らうことは大きな危険がひそんでいたことである。海に接して人家をふやしつづけたのは人間側の事情である。でも自然から見ればそんなことは知ったことではない、自然には自然の営みがあり人間側のいいようにはならない、津浪も別に人間に敵意を抱いて起きたわけではない、津浪は自然現象でありそれは例え400年に一回でも起こるものなのである。だから自然に逆らう人間側に責任があったとなる。
自然は無情だというのも確かだが闇雲に自然は害を及ぼすものとも違う。

人間側で自然と調和する方法はあった。それができないのはまた日本の自然条件があったということがある。やはり自然は何か必ず制限するものがありその制限を越えると危険なものとなり自然から制裁を受ける。

原発事故でもそもそも核を破壊するとかは科学者でも神を畏れぬ不遜てものだったとか謙虚に反省している人もいる。原子力は何か人間の思い上がりの結果生まれた面があった。人間には常に限界がありそれを突破することはできない、神の領域がありそれを越える事がてきない、神のみが全能だからである。それを越えようとするとき今回のような天罰が下るようなことが起きてくる。

ともかく人間はまずその風土に適合して暮らすことを自然から要求されている。いくら土地がないにしろ日本には日本の恵みがある。それを活かし生きる他ない、それを越えて逆らう生活は今回のように大きな災害に見舞われる。日本の土地には土地の宿命がありそれを越えることはできない、原発は地震国の日本には適合しないものだったのである。

津浪がくる前にすでにこわれていたように原発は思った以上ずさんに作られていたのである。ともかくそれぞれの国にはそれぞれの風土がありそれに適合したように住むほかない。日本の国土が狭いにしろそれが美を作っていたし恵みもあった。その中で暮らす他なかったということである。日本の人口は6000千万くらいが適正規模だというとき1億2千万はもう日本の国土では養え切れない人口になっていたし海側に発展しようとしてもそこには無理があったのである。だから人口抑制が自然の働きかけであり少子高齢化も自然の成り行きだったともなるのである。

posted by 老鶯 at 15:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 地震津波関係

仙台までの常磐線の駅を秋に偲びぬ (津浪の後の駅を偲びて短歌十首)


仙台までの常磐線の駅を秋に偲びぬ

(津浪の後の駅を偲びて短歌十首)

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常磐線の亘理から駒ヶ嶺までの津浪の被害状況
http://shi.na.coocan.jp/tohokukantodaijisin-8.html


駒ヶ嶺即過ぎ去りて新地かな伊達と相馬の境なるかな

新地駅海の近きに屋並見え虫の音聞きつしばし止まりぬ
新地駅月影さして明るしやおりたちしばし休む時かな
坂本駅秋の灯ともりここすぎて相馬となるや電車に帰りぬ
磯浜に港のありて知らざりき山元駅の親しきものを
山元駅瀟洒な住宅建ちにしをみな津浪にて流されしかも
仙台に勤めに通う人のあれ山元駅や秋の日暮れぬ
浜吉田浜とあれども海見えず駅まで襲う津浪なるかも
仙台へ亘理る来れば近しかな海の近きは思わざるかな
鳥の海蔵王の見えて船よりぬ阿武隈川もここにそそぎぬ
逢熊駅とまりて鳴きぬ蝉の鳴く声のひびきて新しき駅
仙台に電車に通う常の日や津浪に失ういつの日通ぜむ
仙台へ電車通わず十三夜の月影照らしあわれなるかな


相馬と仙台は密接に結びついていた。それは常磐線があったからである。相馬藩は江戸時代でも伊達藩との結びつきが強い。戦国時代に伊達政宗と争ったにしても強いのである。だからいろいろな江戸時代の碑は伊達藩のものが多いのである。


「地名は知っていた(下)(太宰幸子)で


海蔵寺は江戸後期に開山された寺だそうでその頃から須賀畑周辺に住む人が多くなったのだろうか。

しかし地元の人は「もっと前から住んでいた人がいると思うよ」と話し「何代もつづいた古い家が多いだんよね、秀吉の朝鮮出兵の際、船の漕ぎ手として行ったという家もあるよ」とつづけた。
領主であった伊達成実(しげさね)とともに、文禄の駅(1592-1593)に参戦した方の子孫もいるのだという。


この話で気づいたのは新地の神社に「文禄」と記された碑があったのだ。これは何を意味しているのか?ただ文禄とだけ記されている碑もめずらしい。そもそも相馬では文禄時代の碑など皆無である。元禄辺りからあるし増えているが文禄は古いのである。伊達藩は相馬藩より古いから古いものが保存されている。
新地は一時伊達領だった。境であり争った城もある。伊達政宗の朝鮮出兵は大きな歴史的出来事だった。だからその時朝鮮人を側室にしたとか言われるが真意はわからない、朝鮮の陶工などを強制的に秀吉は唐津などにつれてきたのだからそういうこともないとはいえない。


滴水瓦(てきすいがわら)

 瓦の瓦当面が、雨水が滴るように「雲頭形・倒三角形」に垂れ下がった軒平瓦で、一般に「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。
 仙台城本丸跡では、瓦当中央が花菱文の滴水瓦(3点)や菊花文(10点)が出土しており、仙台城二ノ丸跡・松島瑞巌寺・利府町大沢窯跡などでも出土しています。
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/castle/08.html


相馬市の城跡の大手門の瓦も滴水瓦なのである。この時伊達藩の方から技術が伝わったのかもしれない、新地には伊達藩の侍だった人が住んでいて相馬市との合併を拒んでいたという。その屋敷も津浪で流されたのである。伊達とは敵対しても因縁深いのが相馬藩なのである。そもそも野馬追いも伊達に対抗するための軍事訓練からはじまっていることでもわかる。
ともかくこの話から文禄という碑は文禄の役の記念だったと推測されるのである。
新地はやはり伊達とのつながりが深いのである。
相馬藩の歴史は伊達藩の歴史とクロスしているから伊達藩のことを知らないと相馬藩のこともしりにくいのである。
相馬藩には仙台方面の古い碑が多く仙台の方にお参りしていたことが如実にわかる。
小牛田神や山神などがそうでありこれはどこでもみられるからだ。


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新地の神社にあった

 

常磐線は自分も仙台には通っていた。遊びにしろ仙台は身近だった。第一相馬から通勤していた人もいたから通勤圏でもあった。一カ月に二回とかは行っていた。前は本を買うために行っていた。他に仙台はやはり東北では大都会だから違っていた。
でも駅の名は暗唱するくらい頭に残っていても実は相馬市から亘理まであれほど海が近いということを意識しなかった。海が新地でわずかに見えるだけで見えなかったのである。海に近くても海が見えないと意識されないのである。それで新地駅にしろ山元駅にしろ
あれだけ無残に破壊されたことにはショックだった。線路がぐにゃぐにゃに曲げられ見るも無残な状態になった。そもそも新地はわかるにしても山元駅があんなに海に近いとは思わなかった。磯浜に港があることもわからなかった。ただ山元駅はさらに仙台の通勤圏内に入り駅の回りに瀟洒な家が建っていた住宅街があった。そこにプロ野球を引退した人が住んでいたのである。そも全部津浪で流された。

最も意外だったのは浜吉田駅である。いつも通っても浜とあっても全く浜と意識されなかったのである。それがあそこまで津浪が襲った。あそこもかなり海に近かったのである。写真を見たらあそこの駅前まで津浪で海のようになっていた。あの光景も信じられないものだった。浜吉田の浜はだてについているものではなかったのである。

電車には思い入れが強いから駅が一つの記憶の場所になる。逢熊駅も最近できたから記憶に残る。そこは新しい駅なのである。仙台に近いから新興住宅地ができるから新しい駅ができた。そういう駅でも歴史を知らないと何かただ通りすぎるだけになる。旅をするとそうした歴史を知るのはむずかしい。
坂本駅でもあそこが伊達と相馬の境だなと思って旅する人はまれだろう。そこに旅が失った所以がある。例えば江戸時代なら境に関所があれば否応なく意識されるから違っていたのである。不便でもそこで意識されて記憶されるから違っていた。

亘理駅に来れば仙台は近い、ただここでも海が近いということは意識されない、ただ今度は阿武隈川をわたることは意識する。海は意識されないのだ。ただ一度鳥の浜に行ったとき、蔵王が大きく見えて船が寄っていることは新鮮な風景だった。あの辺から蔵王ははっきりと見える。阿武隈川は福島市から船で米などが運ばれ荒浜から江戸へ運ばれた歴史もあったのである。それなりに交通の要所となっていた。
 

仙台は何か電車が通じないと遠くになった。ここ半年以上めんどうだから行っていない、何か仙台も遠いなとなり十三夜の月影が津浪で襲われ破壊された駅や線路を照らしているのも感慨深い、何かこうして交通がたたれると江戸時代にもどったような気分になるのだ。江戸時代はめったに遠くには行かないからだ。
それは小さな今回津浪に襲われた港でもそうである。牡鹿半島の湊は小さい、そこでも江戸時代から暮らしがあった。そして隣とは山でさえぎられているからあまり行き来がなかったという、船越とは船で越すからであり陸では閉ざされた地域が点々とあった。
でも魚や貝がとれたとしても米はとれないし野菜もそれほどとれないとしたらどうして自給自足できたのだろうかとなる。それもまた海の生活というのがわかりにくくなったためである。牡鹿半島では津浪の時、後ろの清水を飲んでしのいだとあった。あそこには確かに清水が出るから山があり山の木で燃料も補給できたのである。ある程度自給自足できていたのだろう。だから交流がなくても最低限生活できたとなる。

地名というのは自然と密接に結びついている。
 
「岩沼」の地名の由来の一つとして、
「宮城県地名考」に「伊達家の家臣、泉田安芸重光が、この地に築城して「鵜ヶ崎城」と称した。このお城回りの堀が「沼」になっていて、10の沼があった上に、このお城の一角と沼とを併せて「岩沼」と呼んだといわれてい
 

こういう情景が津浪でリアルになった。津浪の後にいたるところに沼ができたからである。でも今までは岩沼は繁華な地であり沼を想像することはできない、いつも見るのは団地だったからである。あそこには千貫松の伝説も残っているから伊達藩には慶長津浪の記録であり伝説が多く残されている。第一相馬藩の武士が慶長津浪の後の六郷に移住した。
そこに吉田とか地名となって残っている。これもわかりにくいのだ。
なぜなら相馬藩でも700人溺死しているとしたらその被害も大きいのにわざわざ伊達藩まで移住して津浪の後にすみついたのかその動機も良くわからないのである。


そもそも相馬藩の慶長津浪の歴史は相馬藩政気に一行だけ700人溺死としか記されていない、これもなぜなのか?津神社も忘れられていた。伝説もごくごくまれにしかない、一方で伊達藩領域には記録も伝説も豊富なのである。その相違は何なのか、一つの歴史の大きな謎であり課題にもなった。記録されない語られない空白はなぜ起きたのか、それを疑問に思ってたずねてきた若い研究者もいた。これの解明はなかなかできないだろう。
伊達藩それだけ歴史が古いし大きい藩だったし今も宮城県の被害が相馬藩より格段に大きいように何かそのことが影響していた。ただこれは相当な謎である。