2013年10月15日

時ならぬ雨に散る秋の薔薇 (計りえない予想し得ないのがこの世のあり人生)


時ならぬ雨に散る秋の薔薇

(計りえない予想し得ないのがこの世のあり人生)


時ならぬ雨に打たれて秋の薔薇残る一輪散りにけるかな

大きな台風が今頃来るのか?駅前の薔薇は一輪咲き残っていたけどこの雨に打たれて散ったろう。時ならもの、それに人は必ず襲われる。自分が30年間何もなかったこと戦後60年間平和だったこと、日本の高度成長も今になれば幸運だったのである。そのう幸運は世界情勢とかいろいろなものが反映してそうなった。別に団塊の世代が豊かにしたとかはならない、条件に恵まれただけなのである。富はとても個人だけの力でもたらされるものではないのだ。


人間には長くもあり短い人生でも必ず時ならぬものが襲ってくる。60年間も生きれば社会も激変することがある。今回の津波はまさに時ならぬもの、予想しえないものだったのである。時ならぬものは自分にも襲いかかった。家族の病気、自分の病気、犯罪、あらゆる不幸が自分に襲いかかった。時ならぬ嵐の6年間だった。これは自分だけではないあらゆる人がそういう嵐に見舞われる。平穏無事に一生を終える人はいない、なぜなら人間はもろいものだからである。


秋の薔薇は五六輪咲いていて月の光に美しかった。それを自分は見ていた。もう残り一輪とかなっていた。それは明るい美しい月の光の中に散ると思っていたのだ。
でも実際は思わぬ時ならぬ台風の雨に打たれて散ったのである。
これは花の運命だったけど人間もどういうふうに死ぬかわからない、ただ死はみんな時ならぬものとしてふいに訪れる。死別もふいに訪れる。人生は予想つかない時ならぬものに襲われる。それは90歳になろうがそうした時ならぬものに襲われるのだ。
90年無事でも91歳に災難にあうことはありうるのだ。実際そうなっているのがこの辺の状態でもある。時ならぬものには人間の力では抗しがたいのである。


いくら貯金していても安全ということは人間にはない、明日のことはわからない、突然紙幣が紙切れになることもある。戦争の時そうなった。自分の母は前の結婚した相手が事故で死んだ。その時補償金として一生暮らせる金をもらったと言われた。でも戦争が終わり貨幣の価値はほとんどゼロになり紙幣が紙切れになったのである。わずかの土地を買ったものだけが残ったのである。

もうこの世に完全な安全などないのだ。どんなに安全を図っても安全はない、だから原発でも学者が確率で百万年に一回しか事故が起こる確率はないと真面目に話していた。
一体どうしてそなん確率が導かれるのか?一体貞観津波とか慶長津波のことが考慮していたのか?科学者の頭に歴史が全くなかったのである。そこに理系の盲点があったのかもしれない、とても数学的確率などでそんな絶対的安全など計れないのである。
この世にどんなに堅牢な建物を建てても崩れないということがあるのだろうか?
そういうことが津波でまざまざとみせつけられたのである。

想定外というときこの世のことが人間の力ですべて知りえないからそうなっているのだ。
自分も実際に時ならぬものによって病気になり死んでいたかもしれない、ガンになっていたら終わりだった。その時悲惨そのものになった。頼るべきものもなち捨てられるように死ぬことになった。死ななかったのは運だったのかまだ神により生かされたのだろう。
人間は生き残るものは生き残るのかもしれない、有為な人も戦争で多く死んだ。
無能なものが多く生き残ったとか言われる。これも人間界の不条理なのか?

不可解なのが人生である。津波で幼くして死んだものもいるし生き残ったものもいる。
それもまた運命なのか?人間はみな先が読めないのだ。もし数学のように数式のように自然界でも人生でも計れるのなら問題がない、そんなことできようがないのだ。

個人個人の人生でもそうである。何が起きるか予想もつかないのが人生なのである。
時ならぬ突然の病で死ぬ人も多いことでもわかる。
運がいいと思ったら運が悪いことだったとか何が運がいいのかもわからないのである。
悪いことは良いことに変化するし悪いことも良いことに変化する。
だからこの辺の災難は悪いことだらけなのだけど一面良い方に変化することもあり得るのだ。それは時間がかかってもそうなる。


原発なんかこりごりだ、家族一緒にロウソクでも暮らせる方がいいと家族バラバラにされた人か言っていたけどそんな気持ちになることはやはり今までのことを身をもって反省するようになる。するとそこから新たなものが生まれる可能性がでてくる。
貧乏でもいいから原発がなくてもなんとか安全に自然とともに暮らせればいいとか真剣に考えるかもしれないのだ。原発の代償はあまりにも大きすぎたのである。
村や町自体がなくなるなど考えも及ばなかったのである。


時ならぬ雨という時、天候すら熱帯化して変化する。千年単位ではどう変化するかわからない。人間の単位は十年とか百年とか短いからである。自然の単位は百年は一年くらいになるしその時間の感覚は根本的に違っているから予想し得ないことが起きてくるのである。人間は百年生きたとして結局自然の時間では一年しか生きたことにはならない、
だから歴史がそこで大事になる。歴史的思考がなくなれば人間はたった一年の思考で物事を決めてしまうことになるからだ。