2013年10月14日

津波がなぜ伝えられなかったのかその不思議 (仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)読む


津波がなぜ伝えられないのかその不思議

(仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)読む


●津波に対する人間の心理(嫌なことに目をそむける)

 寺に葬った時、住職が過去帳を開いて、世にも不思
議なことがあるものかと驚いた。140 年以上前の宝永年
中にも、この家では母と三婦、二女の女六人が死んだこ
とが記録されていたのであった。過去帳にも載っている
程のことなので、この家では、地震の際に船に乗っては
ならないことを申し伝えておけば良いものを、そうしな
かったのであった。災害のことを話せば、悲しくて耐え
られないので、兎に角、言わないようにしていたのであっ
た。そして、100 年以上たって、災害の教訓は多くの人々
に伝えられなかったのである。
 この話は繰り返す災害ということ

。「悲しい出来事は早く忘れたほうが良
い」、「悲しい出来事は言わない方が良い」と考える人々
が多いこと。自分が被災した経験を人に伝える活動を続
けられる人はむしろ少ない。その少数派の体験者が年を
とり、亡くなってしまえば、教訓が伝承されないのであ
る。
 津波災害はめったに起こるも

http://www.rits-dmuch.jp/jp/results/disaster/dl_files/13go/13_3.pdf
 

今回の震災も後世にこんな風に残すなら、どういう方法がいいのでしょうね。電子媒体だとデータが消えたら終わりだし、読み込めなくなっても終わり。文書に残しても破損したり紛失したりしたら終わり。何か絶対に伝わる方法があれば一番いいけど、江戸時代の震災の記録だって残っていたのにダレもそれが近々起きるなんて思ってなかったのだから、こういう記録を残してもやっぱり伝わらないのかな・・・。
http://love.mania.daa.jp/?eid=990003


つらいこと、嫌なこと、こうした災いは、いつのまにか歴史の外においやられ、時間の経過とともに事実を隠し長い長い年月を経ているうちに過去においてこの地に確かに大きな津波を来たにもかからわず遠い昔のことであるためにいつのまにか昔話となってしまうということなのです
(仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)


なぜ津波のことがこれほどの大惨事なのに語り継がれなかったのか?それは人間の心理的なものもあった。あまりにも悲惨なこと自体、人は目をそむける。死人などや無残な病人でも人はそういう場にいたくない、病院でも悲惨な状態だからそういう場に長いはしたくないし病気も重病になると誰もよりつかない、南相馬市立病院に入院していた浪江の人はそうだった。ただ手をやっとあげるだけでありしゃべることもなにすることもできない、ただ妻が手をにぎるときやっとわかるのか手をにぎりあとは何もできないのである。
そうなったとき土地の農業の指導者だったけど誰もよりつかないと奥さんが怒っていた。人間はみんなそうなると寄りつかない、そうした悲惨な姿に目をそむける傾向があるのだ。そもそも汚いもの苦しい姿を見たくないというのが人間の心理である。それは冷たいというものでもなく人間の正直な心理なのである。


それは別に病気でなくても老人はみんなみにくくなるのでその姿自体に嫌悪する。だから医者であれ看護師であれ過酷な仕事だから性格がゆがんでいるきつい性格になるというのはやむをえないことなのである。
でもそうした嫌なこと汚いことに誰かが従事せざるを得ないのも事実なのである。
人間には隠微して隠したいものがある。確かに「八沢浦が元の美しい入江にもどった」と写真だして紹介したとき「お前はここで死んだ泥まみれの子供のことをどう思うんだ」と言われた。自衛隊の人が泥をかき分けて死体を探していたのである。それは水が引いたあとだった。でもそういうものは見えず美しい入江にもどった八沢浦に正直感嘆していたのだ。そこに住んでいた人ならそんなふうにはみない事は確かである。


●ポンペイのように津波で壊滅して語り継ぐものがいなかった


津波伝説の残される地域


(1)津波伝説は津波の空白域といわれる海域周辺に接する地方に多い。
現在の仙台地方の多賀城地方に津波伝説が多いのはこの二地方は貞観津波、慶長津波以来の空白地域にあたるからである

(2)津波浸水の最終到達付近に津波伝説が良く残される
(3)津波伝説は小高い山、高台、高所、丘、と何らか関係をもって作られる
こういうところには津波の生存者がいて、事実を語り継がれている場合が多い
(4)津波浸水の最終到達点へ来る前の通過地域に津波伝説が少ない。


(仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)の本が津波の前に出ていた。津波を郷土史を研究して警告していたのである。今になって注目されたが当時はほんとんど注目されていないのだ。津波にあの辺も無警戒だったのである。科学者も仙台の海側が宅地が広がっている時、昔津波が来ていたと警告したが無視されただけではない、不動産屋が土地の値段が下がるからそんなこと言うなと脅迫さえしてきたのである。人間は原発でも同じだけど現在の利益に頭が一杯になる。過去とか未来とかを考慮することに極端に欠けているのだ。
現在にすべてが身も心も奪われているのが人間である。特に自分の利益にかかわると目の色を変えるからこういうことを平気で言うのである。


自分もそうだがなぜ相馬藩内でも700人が死んだ津波の被害があったのにほとんど語られなかったのだろうという不思議である。新地辺りの地蔵森には津波の伝説が残っていた。それは海岸からかなり奥になる。津波がここでもそうだがこんなところまで津波がきたのかと津波の来た到達地点が問題になる。それで残り谷(残り屋)という地名が残る理由もわかる。この家が良く残ったと感心したのここでも同じである。

そしてなぜ最も被害の大きい海岸に接した所ではかえって津波のことが語られなかったというのも不思議である。一つの理由として海岸に接したところは人家も残らず人もみんな死んで壊滅した。今でも磯部とか烏崎村はそうだった。人家も残らず家族が全部死んだらその地点の伝承も残らない、誰も語るものがいないから津波の伝承も伝説も残らなかったというのも津波の恐ろしさを示している。ポンペイのように一瞬にして火山の爆発で埋もれた街は最近まで二千年近く忘れられていたのである。それは生き残るものがいなかったから伝えられることもなかったためである。そういう恐るべき自然災害が過去にもあったのである。


本村八幡(多賀城市八幡)には上千軒、下千軒といって繁盛していたがいつの頃だったか大津波に流されて砂原と化してしまったという伝説が今でも残っている。


今でもというとき多賀城はあれだけ海に接して人家が密集している。昔もそういう時があって不思議ではない、これだけの家が一瞬にして流されて消える。そのあとに津波の跡のよう茫漠とした原野と化してしまう。そういうことはこの辺りでも目の当たりにしたしそのことを写真入りで度々プログに出してきた。家があったところが何もなくなり沼と化して鴫たつ沢になったということも書いた。津波はまるで夢のようなだと最初から書いてきた。一年くらいは全く夢心地であり現実に思えなかったのである。一瞬にしてこれだけの人家が消えればそれはまるで夢のようだとなりその街自体消失して誰も伝えるものがなく幻の街があったとなるだけである。それは草戸千軒というのもそうなのだろう。何も伝えがない不思議があった。でも最近の考古学の発掘で遺物がでてきてそれが証明されたのである。つまり幻の街ではなかっのである。
人間の街も消える時は一瞬にして消える。徐々に消えるのではない一瞬にしてすべてが消えてしまうのである。それが最後の審判の時である。徐々に消えてゆくのではない、一瞬にしてすべてが消えるのだ。それが人類最後の有り様なのであり津波からそういうことはリアルにシュミレートされるのである。


ただなぜ津波の事が語り継がれなかったのか?


津波伝説は津波の空白域といわれる海域周辺に接する地方に多い


こう言っているけど相馬地方では伝説すら極めてまれでありほとんど伝えられていない、だからこそ津神社が津波の神社でも全く忘れられていた。「本邦祠の研究」の岩崎氏も津神社を津波の神社だと書いていないのである。津波については知り得ようがない状態がこの辺にはあった。多賀城や名取でもあの辺には結構津波の伝説が多い。だからこそ飯沼氏も津波を警告するまでの本を書いていたのである。相馬地方ではそういうことすら書くこともできない状態だった。何も伝えられていないとしたら書くことも警告する事もできない。ただ科学者が松川浦の奥まで津波が押し寄せて残した砂などを発掘してこれば貞観津波のものだと言っていたのでそんなことがあったのかと一回だけ面白がって時事問題の深層に書いたのである。


●一瞬にして幻のように消える街は歴史の事実


相馬地方でも海岸地域に烏崎村でもすでに人が住んでいて壊滅的状態になった。人家もなくなりその惨状を生き残る人もいないから伝えられなくなっていたのかもしれない、なぜならその時もっと人家がまばらであり烏崎に人が集中してもそこだけでありそこが壊滅してしまいば語る人がいなくなるからだ。それほど語る人まで奪ってしまうほど津波は恐ろしいものだったということである。一瞬にして千軒二千軒の家が消失して跡形もなくなり後は原野となってしまう。現実にそういう場面を写真で報告してきた。


歴史を考える時、嫌なこと目をそむけたくなるようなことを人は語り継ぎたくない、そのことはかなり危険なことであることが津波の経験からもわかった。例えば戦争のこともその悲惨なことは実際は隠されている。戦場で人を殺したということなどあからさま今生きている人も語らないのである。語れないのである。実際に戦争に遠くのことが隠されている。それはあからさまにできない悲惨なことであるからだ。ただ事実だから隠し終えないで今になり伝えられる。でもどうしても隠したいということが働くのが人間の心理でありかえって戦争が美化されるのも現実なのである。その美化されることに危険がありまこた戦争になるという危険がある。人間は個人的にもそうである。嫌なことは忘れたいのである。そして何か人生を美化してしまう。何らか罪を犯さない人はいないしそういうことも隠される。でも実際は隠せるものではない、良心の痛みとしてそれは死ぬまでひきづることになる。だから若い時の過ちは実際は軽いものではなく重いものとして老人になってかえって苦しめられることになるから注意すべきなのである。でも若気のいたりというのは誰にでもある。


とにくか相馬地方では伝説すら残らなかった。その理由は明確でないにしろこういう一面があった。人間は悲惨なことを忘れたい隠したいという人間心理が働いた。それと今回のように磯部や烏崎のように村自体が壊滅して消失して伝える人がいなくなっていた。
だからここに千軒二千軒の街があったとか村があったとか幻のようになり伝えられなかったのである。こうして幻のごとく街自体が消えてしまうこともあることなのだ。
人間もそうだが村や街といってもいかに繁華であっても一瞬に消えることがあるという事実なのである。このことこそがまさにこの世の無常だとかしかいいようがないことだったのである。


ポンペイは一瞬にして炎と煙につつまれ消滅した
以来灰と土に埋もれて二千年忘れられていた
抱き合ったまま死んでいた男女死体もあった
誰も語るものもなく埋もれてしまった
その無常は津波の被害とにていた
村や街は一瞬にして津波にのまれ消失した
人々は街を捨てて悲劇を忘れたい
最愛の家族を失ったことは語りたくない
あまりにも無残であったから
ただ平和の日の良き思い出だけを語りたい
思い出したいとなるのが人間の心理
でも災害は災難は常に人間に逃れがたくやってくる
病魔もそうであり自然災害もそうである
幸せを粉々に打ち砕きどん底に陥れる
それが無常の世なのは変わりなかった

posted by 老鶯 at 15:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係