2013年10月13日

北風が吹いた (フェールメールの牛乳を注ぐ女性の不思議)


北風が吹いた


(フェールメールの牛乳を注ぐ女性の不思議)

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青いガーベラ


大輪のガーベラ我が庭に惜しみなく咲きて散りにき悔いもなきかな

北風の路地に吹くかな通る人小高の人や二年半すぐ
風やみて窓辺に月の光るかな奥の座敷に我は寝るかも
我が家にフェールメールの絵飾りにつ日毎に見ゆる牛乳をそそぐ女


このガーベラは大きかった。青いガーベラも何ともいえぬ色だった。フェールメールの牛乳を注ぐ召使の女性の絵を毎日階段を上がって見ている。その絵で不思議だと思ったのは青い色がガーベラの青と同じような色だった。ガーベラにこんな色があるのかと不思議だった。青でもいろいろな青がありこの青がフェールメールでは印象的になる。

そしてなぜこういう平凡な日常生活が絵になったのかということである。今までこういう場面を絵の題材にしていない、それも召使だから余計にしないということがある。
そこには当時のオランダの社会の人間観があった。そもそも極端な階級社会だったら召使に注目するはずがないからだ。召使の家での役割を良くみていたし感じていたからこの絵ができた。


そしてこの絵を見ているとやはり時間の感覚が違う。牛乳を注ぐのがいかにもゆっくりしている感じがする。この家になじみ手慣れている。何かこの絵を見ているとこんな女性がいたら落ち着くだろうなと思った。というのは家事を全部自分でやっているからそうなる。これは極めて家に飾るのに向いている。特に台所に飾ったりしたらいいかもしれない、床の間とかには向いていない、何か時間の感覚がゆっくりしているということゆっくり慎重に牛乳を注いでいる。これもありふれた光景なのだけど心にしみる。

家事の機械化のことを書いたけど便利にしたいのはいいがそこでは何かこうした人間的なものが欠落してくる。ここには人間の存在感をありふれていて感じる不思議さがある。
普通働いている主婦に何か存在感を見いだし得ないだろう。主婦自体が家事などめんどうでやりたくないというのが普通だし自分もそうだった。
でもこれを家に飾って毎日見ていると何かこの召使の女性と家で一緒に暮らしている感覚になる不思議がある。これは家に飾るのに一番向いていたのである。

芸術というのがただ博物館とかで一つ一つの絵を鑑賞するのが芸術ではない、芸術の日常化が必要だったのである。日常の生活の中で活かされて芸術も存在感をもつのである。
ただそもそもこういうふうに召使の平凡な女性そのものに注目して題材にしない、その題材自体の発見がここにはあったのである。

つまり貴族の婦人の絵は良くみかけるけどそれが本当に価値あるものだったのか?
いかに美的に描かれてもそういうものに価値があったのか?むしろこうして下働きの女性に美と価値観を見いだしたからこそ価値あるものとなった。労働者でも主婦でも自らの働いている価値を見いだせない、みんな家事なんか自分をふくめてやりたくないのだ。
労働そのものがみんなそうである。その原因の一つが価値が認められないことなのだ。
ただ時給いくらとか金銭で計られるだけでありその仕事の価値そのものを認められることが少ないのである。


今日は北風がうなり吹いた。まだ秋だけど今日は急激に冬のようになり北風が吹いた。
何か気候の変化は今年は激しい。そして窓から見ているとたいがい通るのは仮設に住んでいる小高の人である。そしてすでに二年半以上過ぎたなと思う。
つまり二年半の歳月の重みが加わったのである。時間の経過の中で何かが心にしみてくる。仮設の経験は仮設に入った人しかわからないだろう。
これも一つの人生経験だった。小高では復興祭をするとあった。そうか、それだけ回復もしたのかと思う。やはりそろそろ帰る人は準備しているのだろう。
帰らない人もいるが帰る人もいる。三年くらいいれば小高の人もここにいたという記憶は残りまた他でも同じ感覚になるだろう。こういう経験はあまりできないことだったのである。


今日は風がやみ窓辺に明るく月が光っていた。その月をみて奥の座敷にねる。
ただまた風呂を掃除したり暇なくしているのが自分である。

 

クルーズトレイン七つ星は贅沢なの? (贅沢は旅でもそうだが時間をかけることにあった)

 

クルーズトレイン七つ星は贅沢なの?

(贅沢は旅でもそうだが時間をかけることにあった)

クルーズトレイン七つ星 in Kyushuu は見るだけでも見ほれてしまう。最近アニメの技術が発達してあれと同じもようなものを見た。それが木の質感がリアルにでていたのである。あの列車の魅力は室内装飾が木であることなのだ。日本の匠の技が存分に活かされている。それからトイレの洗面所の手洗いに有田焼の柿右衛門の赤が使われていることは相当な贅沢である。まさに走る七つ星の最高級のホテルである。窓が大きく走ってゆくレールが見えるのもいい、常磐線の自分の住んでいる所は津波と原発事故で原町駅と相馬駅を二両で走っている。前にも写真出してプログに書いたけど必ず前方が見えたり後方が見えたりする。そして何か二両だと人間的になる。雨がふっても何か人間的であわれだとかなる。二両になった結果、極めて人間的なものとして身近なものになったのである。

クルーズトレイン七つ星は贅沢なものかというと確かに贅を尽くしているから誰もそれに異論はない。誰でも一度は乗ってみたいというのもわかる。でも自分が乗ってみて贅沢とは何かとなると今になると贅沢は別に金でしか買えないものではない、人間一番の贅沢は何か?それが若い人は特に誤解している。贅沢は金でしか買えないものではない、贅沢は実は時間をかけることなのだ。旅でも時間をかけたものなら記憶に残る。でも団体旅行で急ぐ旅行は記憶に残らない。今は何でも早すぎる、電車だって車窓の景色を覚えている人は少ない、見ている間に通りすぎるから景色を覚えられないのである。ただ電車に乗るということは走っているという高揚感を楽しむとなる。鉄道マニアになるといろいろな楽しみ方がある。メカニックに楽しむ人もいる。何か鉄道はレールにさえ愛着を覚える。

まず車とかバスにはそうした愛着を覚えない、ただ車マニアもいるから車好きの人は車に異常に愛着を覚える人もいるのだろう。

自分はほとんどの線を乗った。外国でも結構乗ったから電車の旅は長いから愛着がある。電車に乗ること自転車にのること旅することが人生だったともなる。そんな遊びが人生なのかともなるが結局人間は働くにしろ遊ぶにしろ何に時間を費やしたかが人生なのである。それぞれの時間は限られている。あらゆることなど経験し得ないのである。

会社で働き苦労するのも人生でありそこで得るもの失うものがある。とにかく人間にとって時間ほど貴重なものはないのだ。つまり時間は老人になるとわかるけど金では買えなくなる。いくら何十億の金があっても時間は買えないし若さも戻せないのである。
人間が経験するのは何でも一度でありあとは経験できない、結局馬鹿げた経験も経験だったとなる。なぜなら馬鹿げた経験すら老人になってみると経験できなくなっているからだ。あとはこの世ともお別れだとなるだけである。

学問でもこれも雑学にしても無駄とは言えないのである。なぜなら雑学でも学問は積み重ねだとするとそれだけの時間を費やさねばならない、時間を費やした結果知識の積み重ねができる。それでどんな部門でも詳しくなれる。天才であっても費やす時間が限られているから何でも詳しくなれないスキルも磨けないのだ。生まれつきの才能はあるにしろどれだけ時間を費やすかによってその才能も生きてくる。人間の読書量だって限られている。老人になるとわかるけどどれだけの古典を貴重な本を読み逃していたかわかる。
これしか読めなかったのかとなる。自分にしても俳句とか短歌作ったにしても古典をほとんど丁寧に読んでいなかった。すると古語を十分に駆使できなかったとなる。
今は勉強するものが多すぎる。かえって日本の古語の美しさなどが忘れられていたのである。英語に勉強を費やせば日本の古語など忘れられてしまうだろう。実用的にも英語だとなってしまい日本人の残した文化自体が忘れられていたのだ。
だからこれからはかえって国風文化の時代になる。

よく老人の欲しいものは何かなどキーワードで探しているものがいる。それだけ老人が金を持っているから売りたいということでそうなる。ではそれは何かということでクルーズトレイン七つ星の企画となったとテレビで放送していた。老人が欲しいものの一つの答えとしてあの豪華なトレインとなった。老人の欲しいものは何かといったらもうモノではない、クルーズトレインもそうだが贅沢な時間を味わうことになる。クルーズトレインで実はその内装もそうだがスローに走り景色を楽しむ時間がある。そのことが一番贅沢かもしれない、電車は今は早すぎるからゆっくりでないと景色を楽しむことができないのである。これは別に豪華な列車でもゆっくりと走る電車があったらこれは贅沢だとなる。それは別に金をかける必要もないのだ。つまり一番の贅沢は時間をかけることなのである。
それがスピード時代の現代ではできないのである。だから時間を遅らせることが一番の贅沢だとなる皮肉があるのだ。江戸時代の旅は歩いていたから苦労であっても記憶に残る旅をしていた。自然でも人でも時間をかけて濃密に交わる旅をしていたのである。
だからいちがいに江戸時代は貧乏で苦労ばかり多かったともいえない、その苦労の中に喜びもあった。苦労しないからかえって喜びがなくなったという皮肉もあるのだ。


九州を旅したのは三回くらいであり九州は北海道よりずっと遠くなじみがない、ただ普通車にのったとき地元の高校生が強い九州弁のなまりで話していた。その間乗っている時間が長かった。それで記憶していた。外は一面の菜の花畑の景色がつづいていたのである。
菜の花や普通車に長く訛りかな

豪華列車ではこんな経験はしにくい、土地の人とも交わらない、だから旅は金をかけたからといっていい旅人はならないし記憶に残るた旅ともならない、旅ではどれだけ時間をかけたかで旅の充実感が得られるのだ。一つの山でも朝から晩まで見ていたらその山の姿がここに残る。でも現代はただ早く早く通りすぎてゆくだけだからその山の姿が心に残らないのだ。歩いて旅するならその山を見つつ一日歩くことになるから山も心に残りやすい、電車であれ車であれ通りすぎるだけになると心に残らないのである。


老後はどっちかというとそういう旅より家にいることが長くなると家が大事になる。最近八畳間に寝ているからここが落ち着くのである。天井が低かったりすると圧迫感がある。天井が高く部屋が広いとゆったり眠れるということがある。昔風の家で欄間の作りなども職人が丁寧に作っていた。そして竿縁天井とかありなぜこれが意外と大事かわかった。
寝る時必ず上を見ているからその装飾が大事になる。天井が立派だと何か贅沢な気分にひたれることがわかった。そして日本人はどうしても和風の空間になごみを感じるのだ。
だから古語にもなごみを感じる。それは英語などとまるで違った言語感覚だからである。これからは国風文化が見直されるのでありグローバル化でも日本的なものが世界が求めているのであり欧米化したものを日本には求めていないのである。日本独自の文化があって日本に求めるものが世界から見ればあるとなる。グローバル化で一様化したら別に外国に行く必要もなくなる。これから英語を習うより日本の古典を古語でゆっくり読むというのもいいかもしれない、そういう時代の変化が明治維新から120年とか過ぎてそうなってきている。奈良時代は唐風文化全盛期だったが平安時代になるとかなが生まれ国風文化になった時代とにているのだ。


七つ星トレインはむしろあれだけの和風の内装があるとしたらホテルでゆったりとする時間を過ごした方がいいとなる。和風のホテルで広い和の庭があるホテルがいい、茶室の空間もありそこで何より和の時間を楽しむのである。茶碗でも名器をゆっくりと手にとりなじませる。そもそも茶の湯はそういうゆったりとした時間があって生まれたものである。現代とはまさにこの時間が欠如しているから文化が喪失したのである。

posted by 老鶯 at 14:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層