2013年10月11日

木槿(心疲れる現代人-失われた村を思う)


木槿(心疲れる現代人-失われた村を思う)

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霧雨や白と紫の木槿かな

むつみあう年月長し木槿かな
窓開けて閉め忘れるや月のいず
千輪のひまわり吸い込む光かな
紫と白の木槿や夜のふけぬ
紫と白の木槿の何か言う偽りなきを心休まる
紫と白の木槿の咲きにつつ何をか言わむ心通いぬ


木槿は何か田舎的であり素朴である。花にはそれぞれにふさわしい場があるのだろう。白と紫だと夫婦ににあいだとなる。花は争わないからほっとするのだ。こういうふに争わず咲くありつづけることが人間は奇跡的に近いから余計にそうなる。
家族だってこんなふうにむつみあっている家族は少ないだろう。三分の一が離婚している現代である。父子家庭も悲惨だった。子供おいて男親が一人で育てることは容易ではない、母子家庭の方がある意味でましである。4人の子供を育てる父子家庭がいるのはは驚いた。子供一人は虐待で死んだ。なんかこれは気持ちもわかるしやるせないものを感じた。ともかく介護でもそうだけど人を世話するのは大変なのである。
老人でも子供でも大変なのである。

自分の家庭には木槿のようなむつみあう平和はなかった。この世に戦争だけではない、そもそも人と人が睦み合うことがあるのかとなる。そのことの方が一番むずかしい。
ともかく静かに夜も咲きつつふけてゆく、今日は月ももてていた。

ぬす人に取りのこされし窓の月 良寛


この句を思い出したのは自分の家の窓をしめわすれることがたまたまあるからだ。家が大きいのとその管理が苦労なのである。窓もいくつもあったらあけたりしめたりするのも手間になる。開けたままにしても泥棒が入らないならいい、そしてその閉め忘れた窓に月がでているのは風流である。これは昔のあばら屋だとまず窓などないからしめることもなくそのつまだった。入って盗られるものもない、貧乏で何もないけどそれも幸せだったとなる。現代はありすぎて困っているのだ。買うことも毎日ある。この頃アマゾンで二日に一度買い物している。食料でも一日二千円は使っている。買って手間を省こうとすると金がかかるのだ。金をかけて時間を作っているのである。
現代の生活はどんなことをしても金がすでにかかるようにできているのである。これから逃れるのは簡単にはできない、システム的にそうなっているからだ。

一番問題なのは電気のつけわすれである。これで火事になりかかった。家を一人で管理していて怖いのは火事なのである。留守にしているとそれが怖いのだ。部屋かいくつせあるからどこかでつけわすれている。そして電気の無駄もしているのである。電気は無駄にしやすいものなのである。木を囲炉裏にくべていれば消費していることがわかるが電気はわからないから無駄にしやすいのである。無駄がわからないのである。

自分が金を使うのはまさに時間を作るためにである。時間か今は一番貴重だからである。良寛の五号庵ですら布団を盗まれた。今なら何をくれてもありがたいと思う人はいないしそんなもの盗まない、今盗み怖いのは家の中に入って来る人なのである。

心休まらないという時、この辺では全く変わってしまってどうなっているのか未だにわからない、避難している人も金をもらっても心や休まるとはならないだろう。
やはり自分の故郷に住んでいた方が心は休まったろう。
それで飯館村のことをイメージして短歌を作った。


月照らし通し道の遠きかな隣合う村夜のふけゆきぬ


この通うというとき徒歩や馬で通っていた時代は隣さえ遠かったのである。それが何かなつかしいとなる。その村さえなくなってしまってただ放射能騒ぎだけになってしまった。これも全く平和を乱されたことなのである。前の平和の日はもんいつもどってくるきだろうか?

今日も暑かった。これが秋なのか?ひまわりが今頃一面に咲きだした。田んぼがなくなりひまわり畑になった。ただ今年はそんなに咲いていない、それでもひまわりも見ていると気持ちがいい、光を十分に吸い込んでいる。曇るものはなにもない、花は放射能の影響はなかった。
ともかく現代の生活は疲れる。鬱病にもなる。それは果たして窓を開けっ放しにして暮らしていた昔と比べて幸せだったのかともなる。だから時代時代にはそれなりの幸せがあったともなる。

インターネットで古語を調べると昔の文章がでてくる、それを読んでいると何か気持ちかいい、日本人からどれだけの古語が失われたか?それは言葉を失っただけではない、感覚的なものから情緒的なものからモラル的てものからいすいろ失ってしまったのである。
だから日本の古典で古語だけでも読むと昔の心がよみがえってくる。
つまり前にも書いたけどこれから国風文化の再興の時代になる。
そしてslow aged lifeになる。それは田舎がいろいろな昔のことが見直される時代になる。それは高齢化社会とマッチしていたのである。
もうこうした電気でもせそうだが金のかかりすぎる生活を見直すべき時かきたのだろう。ただ贅沢を覚えたら人間はそれから脱することがむずかしいのである。


とにかく飯館村のような平和な自然につつまれた村が喪失したことは大きな損失だった。都会の人はあまり考えいないが近くだからその喪失は大きい。もちろんそこに住んでいた人も都会で贅沢しても満たされないものを感じることはあるだろう。
川内村では郡山市の便利な生活になれて帰らないというのもわかるがやはり村があるということは別にそこに住んでいなくても心に影響していたのである。
核のゴミの廃棄場になると除染除染だとか何かそういうことを聞くだけでも疲れる。
風評被害でも何かそれだけで疲れてしまう。魚とるにしす農業するにしろすべてそうなるのである。放射能で被害がなくても疲れてしまうのである。

結局この辺はそうした昔も失ったし元にもどらない、ただ毎日放射能のことだけになってしまうのが嫌なのである。まあ、花は咲いているから花にはなぐさめられることは同じであるが何かここに住んでいるだけで疲れるということはある。

自分の家に訪ねてきた若き研究者 (津波のことで相馬藩内のことを詳しく調べていた)


自分の家に訪ねてきた若き研究者

(津波のことで相馬藩内のことを詳しく調べていた)

今日郷土史について聞きたいと若い研究者が自分の家たずねてきた。名刺にハーバード大学の研究所とあり何のことか思った。ハーバードというと凄いと思ったからだ。
そのことはよくわからなかった。
ただ若いにしては相馬の津波に関して相当に研究しているし地元の人より詳しいなと感心した。こんなに詳しく外部の人が研究するものかと思った。
それよりそんなに関心をもって外部の人がかかわれるものかと思った。
もちろんその人はそういう専攻であるから当然にしてもそこまで調べたということが感心したのである。地元の若い人でも老人でも関心をもたない人はもたないし知らない人は知らない。


その人はフィルードワークを一番重んじている。だから直接土地の人に聞いている。それから詳しく神社を実地に訪ねている。それは自分より相馬藩の神社のことを知っていた。神社は多いから未だに訪ねない不明な神社も多い。
その一つが津神社だったのである。津明神でもあった。原町区の雫(しどけ)の近くの島商会へゆく坂の入り口にあった津神社など自分も土地の人さえ全く注目していなかった。
そこに夏たずねたとき木立の影暗くかなりの坂を上った。そしてさらに上に隠されるように津神社が祭られていたのである。ある意味で神秘的だった。


夏の日に木立の暗き参道や久しく隠さる津神社かな

なき跡のしるしとなればそのままに訪はれずとても有りてしもがな

この歌はひさしく忘れられて隠されていた津神社にぴったりだった。なぜなら津波の跡にしるしと建てられたけど誰もその由来も訪ねずわすれられていたけど有りてしもがな・・・あるべきものだったとかなる。この夜には神社でもそうだが由来もわからなくなっても誰も訪ねなくてもありつづけるものがあるし何かを伝えるためにありつづけるのがある。でもなくなるのも多い。それは誰も由来も訪ねないがありつづけていたことは確かなのである。

この辺では相馬藩内では津波の話などほとんど聞かなかった。だけど津波の後に津神社のことがしきりに話題になった。この神社は津(明)神社と名前のつくのは三陸辺りでも津の宮村まであるのだから津波にまつわる大事な神社だったのである。
それがなぜほとんど忘れられてしまったのか?
なぜ言い伝えられなかったのかとかが問われた。


その人が言うには伊達藩内ではそれなりに津波の伝承があるが相馬藩内になるとぱったりとてくなる、ただ聞いてあるいて新地辺りとか松川浦の近くの神社にも津波の言い伝えがあった。ないわけではなかったが非常に少なくほとんどそういう話は聞かされていないのである。第一「本邦小祠の研究」で詳細に相馬藩内の神社祠を調べ尽くした人が津神社が津波を記念した神社だと書いていないのだからあとはおしてしるべきである。
あれだけの専門家がなぜ津波のことについて書いていないのか不可解だった。
それは結局そういう聞き取りもしないし聞くこともできなかったのである。
何か一番重要なものが欠落していたことが津波が来てわかった。

この郷土史の研究は外からも一般にも何か好事的なもの物好きなものが暇人がしているという感覚であり実用には役立たないものとみなされていた。
第一そうした津神社が津波と関係していて津波の警告として東電に注意を喚起する人はいなかった。

最近貞観津波の堆積物が松川浦の奥で発見された。これは最近のことでありそのことで一回だけ注目して時事問題の深層に自分は書いた。こうした科学的研究は最近注目されて大学教授も東電に進言していた。それでも仙台平野の海側が住宅が密集していて土地の値段が下がるからそなこと言うなと不動産屋に脅されていたのである。
ただ神社の研究よりそうした科学の時代には科学的なものを信じる。
すると東電でも科学者技術者の集まりだからそういうものは検討するものだと思った。
ただ金がかかるのであとまわしになっていたのである。


ともかくその若き研究者は人から直接聞いて回っている。相当の人に聞いている。それから実地にその土地の状態や神社もたずねている。それで柚木に「急ぎ坂」という話を聞いたという。そういう地名が昔言い伝えとしてあったのか?それは津波のことだったとしたら重要な言い伝えだった。こうした口碑を聞き歩いたのが柳田国男だった。これはみんなできることではない、そうして聞くことができるのは能力だったのである。民俗学にしろ民衆と接して理解を深める作業が必要である。本ばかり資料ばかり読んでいても具体的に実感としてわからないのである。ともかく学問はまず問題意識を持つことから始まる。
学問とは学び問うことである。はじめに問うことなのである。

自分の一番の関心もなぜ相馬藩内ではほとんど津波について伝えられず語られなかったのかということだった。その問題意識は共通していた。

これまでの歴史は或る特定の事件を取り上げて検証し、
遺跡地の発掘から得た検証 などを構成したものが主流だった。
しかし、全く逆の方向からの研究をおこなった のである。
地方に残された書かれていない歴史叙述、
つまり「空白の歴史」から得る研究である。

http://www.hondainsatsu.co.jp/pg113.html


なぜそこに津波に関する言い伝えなどの伝説などの空白が生じたのか?そのことが自分でも一番不思議なことだった。なぜそのことが問題になるかというと津波のことが伝えられないからこそ被害がこれだけ大きくなったということもあるし警戒しないことにもなっていたからだ。今でもすべてがニュースでも伝えられない、その伝えられないことに重大なものが知らされないということが常に起きている。これだけの情報社会でも何が重要なのかはわからないし自分で注意しないかぎり関心をもたないかぎた重要なものも重要なくなるのだ。知らされないことが命にかかわることもある。知らないということが致命傷になり死ぬこともある。これだけ複雑な社会だと知らないことで飲む必要もない薬を飲んでかえって病気が悪化して早く死んだりしている人もいる。戦争でも日本が負けているなど知らされない、そうしてやはり津波のように甚大な被害が知らされない知らないことで拡大化してゆくのである。


そして今になるとなぜ海岸に接してなぜ集落があったのか、密集して人が住んでいたのかということである。それは津波のことが伝えられなかったからなのか、そのことか今になると重大な問題として浮かび上がってきた。
一つの仮設として磯部でも砂州の所に人が密集した。烏崎でも人が密集した所は海に接していても湿地帯ではなかった。今の港のあるところはあとでできたものであり新しい、
湿地帯には人が家を建てにくいということがあったのではないか?

それで海岸に人が集まり家を建てたのかもしれない、たた漁業をするとなると海岸に接していた方が便利なのだから人が三陸のように集まったのか、その辺のことはよくわからない。それでも海の神様より農業の神様が多く大事になったということは稲作が広まり湿地帯は田んぼに変わった。烏崎の回りも田んぼになっていた。だから水葵がでてきたのである。水葵は田んぼだったところに咲く花なのである。

このことを話しあって問題意識を共有した。それで自分が集めた資料や本を調べ直して
かなり重要な発見があった。


この次はその調べたものを書いてみよう、若い研究者と共同研究的なものになる。
こういう学問もやはり様々な分野の人ととかかわり啓発される必要があるだろう。
その研究範囲が広範囲になっていたからである。

posted by 老鶯 at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係