2013年10月09日

浪江の請戸の地名はやはり請け負う土地だったのか? (漁業権から原発事故を考える)


浪江の請戸の地名はやはり請け負う土地だったのか?


(漁業権から原発事故を考える)


●請山は明確である


請山(うけやま)


寺社を含めた領主所有の山林を支配下の村や家臣・特定の個人などに一定期間貸与したもの。留木と称される領主が利用する有用樹を除いた雑木・下草を採取を認め、大体として銭米や薪炭を徴収したり、有用樹の植栽・保護・管理義務を行わせた。また、有用樹であっても領主の許可を得て一定価格で払い下げられる場合もあった。

入会地である山林を持つ村が、それを持たない村に対して一定の条件(期限・採取量・料金)の下に入会としての利用を認めること。通常、一定の期限が定められた山林を請山と称し、期限を定めないものは卸山(おろしやま)もしくは定請山・永請山と称した。
山の所有者が業者に対して一定の期間とその期間に納めるべき運上額を定めて経営を請負わせること。材木業者の山林伐採や鉱山師の鉱山経営などがその典型例で、請負山・運上山とも称した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8B%E5%B1%B1


労働者の家の回りの畑など私作させた外に、谷の入り岡の陰、川の向こうなどにもわずかある田は監督もむずかしいから人に請負はしめたという例はまれではとなかったろう。
今日でも作何男がのためにシンガイ田またはホリ田などど称して励みに少しづつ小遣いとりの田を作らせる慣習は残っている。
柳田国男全集(16巻-水飲み百姓の増加)


請山というのは請け負わせた山であるから説明のように明確である。ただ請け負わせるというとき山だけではない田とか畑もあった。田の場合は土地の所有者から地主からもらう許可された田などは説明のようになる。あまりいい土地はもらえ胃のか常である。
ホマチなどもホマチとしてわずかの土地か与えられたのである。わずかの土地でもそこは畑にすれば家一軒くらいはまかなえるかもしれない、自給自足だけならわずかの土地でもまにあうのである。自分の家も農家ではないから河原の岸の土地を畑にしていたことがあったのだ。土手の中が畑であったことは今でもあるしわずかの土地でも収穫があるのだ。隣の家でも同じように河原に畑を作っていたのである。町の人はそういう人が多かったのである。つまり戦後でも自給自足だったのである。自給自足だから他からは食料など入ってくるのは極めて少ないのである。現代から考えると膨大な食料でも地球の裏側からも入ってくる時代とはあまりにも違っていたのである。だから津波であれ原発被害地域であれこれだけの被害を受けても田畑も耕さないでも食料はいくらでも入ってくるのだ。金さえあれば困ることは食料については言えるのである。その差があまりにも大きすぎるのである。

請負山とか小請田とかある。請田というのはやはり土地をもっているものが請け負わせた田だろう。京都にある請田神社は出雲だとすると出雲の人が請け負った地なのか?


築城年代は定かではないが保元年間(1156年〜1159年)に標葉四郎隆義によって築かれたと云われる。 標葉氏(しねは)は平国香の二男繁盛の後裔で、海東小太郎成衡の四男隆義が保元年間に標葉一郡を分与され請戸の御館を築いて居城としたことに始まる。


双葉郡に属するが、1896年以前は標葉郡に属していた地域である。元々は新山町(しんざんまち)と長塚村(ながつかむら)であったが、これら2つが1951年に合併して標葉町(しねはまち)となり、その標葉町が1956年に改名して双葉町となった。

請戸の名前がとうしてついたのかは請戸城にしても古い、そしてめずらしいのはこの城が海側にあったことである。海側にある城はめずらしい。今回の津波で請戸が壊滅したように海に近く城はなかった。村山城は海岸に接してあったか縁起が悪いとすぐに移ってしまった。あそこに請戸城があったということはあそこもかなり古いということなのだ。
ただ請戸という地名が請戸城があった時、その地名はすでにあった。とすると請け負わせたというときすでにその土地が有力者の所領になっていた。請戸港は江戸時代にはすでにあり岩手県の宮古から鉄の素材を船で運んで葛尾大臣で有名な葛尾で鉄を精錬して作っていた。その跡が史跡として残っている。

請戸の由来は受戸神社になっている。ただその意味かよくわからない。請戸では安波(あんば)祭りが有名だからこれは茨城県から移ってきたのだから漁師などが請戸に定着して港になっていったのかもしれない、もともと請戸は請け負うからきているから土地と関係していた。つまり請戸は古くから人間の営みを思わせるものであり原野ではなかった。

普通地名は原初の状態を現しているのが多い。烏崎などは鎌倉時代に岩松氏が上陸した地点であり烏崎は神武天皇の故事にしているがその烏とは関係ない、烏とつく地名は空の州なのである。何もない空っぽの州であり海岸だったのである。だから唐津とあってもそれが唐とはならないかもしれない、空っぽだった津を現していたのかもしれない、萱浜(かいはま)でもそこは萱の繁る浜で人は住んでいなかった。越中などの移民が開拓に入った場所だった。あそこは一段と低い場所だったのである。烏崎とか小島田とか右田も低湿地帯だった。そこは津波で一時海になってしまったことでもわかる。

つまり請戸とは漁師とは関係ない、あの辺の土地を請け負うものがいて請戸になった。
ということはよそから入ってきたものがいて請戸になった。それだけ荒れ地でありよそからの開拓する場所が広くあったのかもしれない、ただもう一つ資料がないので調べようがない。浪江はあのような状態になって調べる資料も保存できなくなったろう。


浪江の請戸で思い出したのは南相馬市病院で瀕死の重症の農家の人が請戸の人だった。
その人は15町の田畑をもって指導的立場にあった人だった。賞ももらったというから優秀な農家の人だった。なぜなら娘3人を大学にあげたというからだ。一人は死んだとか言っていた。それでも三人も大学にあげるのはやはりそれだけの収入を15町の田畑から得ていて優秀な農家だったからである。その豊かさは今はイワキだが昔の平市まで野菜を商品として売っていたからそれだけの財を築くことができた。もちろん野菜を作る技術にもたけていた。それだけではなく近くに市場があったということがそれだけの財を残した理由だったのである。浪江から今でもイワキナンバーになっているから浪江からは磐城と関係が深くなっているのだ。

双葉ももちろんそうである。双葉駅は元はなく長塚駅だった。新山は城があったところで有名である。あそこに自分の父親が酒屋の丁稚をしていたのである。その話を姉から何度も聞かされていたので親しみがある。新山というと井田川の陰の方に新山神社があった。あれは新山から移されたのだろう。それがいつの時代なのか?井田川は大正時代に開拓されたのだから新しいものなのだろう。常磐線は原町から磐城までは開通するのか?
かなり先のことであり本当に開通するのかどうかもわからなくなった。仙台まではあと6年とかで開通すると言っていた。


●漁業権というのは鎌倉時代からあった


「竈」は、塩を焼く竈

『竈』の字を持つ集落は、いずれも入り江の奥まったところにあり、近くに川と山がひかえています。落人の人々は、ここで塩焼き竈を築いて製塩業を行い、生計をたてていました。というのも、南伊勢町には『浦』の字が付く漁民の集落があり、落人がこの地に逃れてきたときには『浦方』と呼ばれる漁民たちが海を生活の場にしていたため、海に出ることをあきらめて、塩を作るしかなかったのです。


失われた赤崎竈

かつて、平氏が壇ノ浦で敗れた際、平維盛(たいらのこれもり)の子・行弘(ゆきひろ)は、紀伊山地の奥地に隠れ住み、その三代目の子孫にあたる行盛(ゆきもり)が、一族を引き連れてこの地に移り住んだと云われており、『八ヶ竈』の人々は、その子孫に当たります。

『八ヶ竈』のうち、赤崎竈は、安政元年(1854)の津波で流されて廃村となり、現在は新桑竈(さらくわがま)、棚橋竈(たなはしがま)、栃木竈(とちのきがま)、小方竈(おがたがま)、大方竈(おおがたがま)、道行竈(みちゆくがま)、相賀竈(おおかがま)【現在は相賀浦】の七つになってしまいました。
http://www.town.minamiise.mie.jp/modules/gnavi/index.php?lid=427&cid=15


第一海岸に出て魚をとらない、先住民の古和浦、神前浦、贄浦等の漁民との間に「魚を撮らない」と約束して住まわせてもらったからだ。
8百年前約束を未だに守っているのもかれらの武士魂という。

これらの部落民は古和浦の漁民の子より礼儀正しく成績も良い、悪いことはしないという祖先からの誇りをもっているからだという・・
これらの住民がなぜ竈のつく字を土地に用いたかというとそこで竈を作り塩を焼いたから、漁業権はおさえられ山間地で生きてゆくためには塩水を蒸留して塩をとり売る以外なかった。海の水だけは浦の住民も文句を言わなかった。
地名(土地に刻まれた歴史-丹羽基二)


この話は興味深い、漁業権でもそうだが入山の権利もそうであった。先に住んでいる人が権利をもっていたのである。漁業権の成り立ちはこういうところにあった。歴史的には古いものなのである。魚とらせないというのはやはり魚は限られた資源となるからだろう。ただあれだけ海に近くて魚がとれないということは悔しいというか残念というか差別されたというか苦しいことがわかる。それでも律義にその約束を守ってきたということはどういうことなのか?昔の生活は動物の縄張りのように隣あっても時給自足が基本である時、そこの資源は勝手に犯してはいけないという不文律があったのかもしれない、そうでないと争いになってしまうだろう。資源といってもそんなに大勢の人が分け合うものではない、それぞれの土地でわずかの資源でも自給自足で生活していた。

この話で不思議なのは800年前の約束を守りその伝統が伝えられてきたことである。
それが村の人たちの性格も変わらず作ってきたというのが不思議である

そんなに長い間、そんな性格が気質が保たれものなのだろうか?この辺では400年前の津波のことをまるで忘れていた。800年もそんな伝承が伝えられるだけでなく生きていること自体が不思議である。もしそうならかなり貴重なことになるだろう。

ここで最も興味深いのは津波で流されて消えた町があったと記されていることである。
それは非常に重要な記録だろう。ここでは津神社があってもそうした村単位の記録はなかった。津波は村一つなと簡単に消してしまうことがわかった。もう市でさえ町でさえ消されるほどの恐ろしいものだったのである。


●原発事故では漁業権は不利に働いた


漁業権というのは確かに古い時代からあったことはわかった。でもそれは今の漁業権とは違った性質のものだろう。漁業権は昔からこのように排他的なものとしてあったことは言える。独占的な利権だったともなる。しかし現代の漁業権は何なのか?今回の原発事故では漁業権をたてに莫大な利権を得たとなる。自分たちの権益を守ることは昔からあったにしろそれがただ東電から莫大な利権を獲得するためのものにさえなっていたのだ。
事故後も漁業権は大きな力を持ち続けているのだ。その補償金は船主なら桁違いになる。今でも50万もらっているとか普通は一人十万だから額が違ってくる。


相馬総合病院に入院していた人は請戸の人で漁師なのだろう。特等室に入っていた。
億の金はあるのだろう。請戸には原発御殿が建っていたという、それは相馬双葉漁業組合になっているからこの組合は新地まで入っていて原発からの莫大な補償金が出ていたのである。だから磯部にも立派な家が建っていたという、それが津波で流されたのである。
今でも汚染水が海に流すなというけどそういうふうに東電と交渉するとまた補償金があがってゆく。だから漁業権とは一体何なんなのだろうとなる。


なぜ漁業権をもっているだけでそんなに東電から金がもらえるのかとなる。
だから他の人も海は漁師のもの漁業権だけをもっているものだけのものではないと他ても言っている。確かに今になると海を魚を守るならいいがそのために命を張って東電と戦ったならいいがそんなことはない、ただ巨額な補償金がをとるための漁業権だったとなる。だからこそ海は一体誰のものなの?漁業権者にのみ権利が与えられているのか?
そういう疑問が起きてきたのである。原発事故が起こらないならそんなに問題ないし問うこともなく見逃していたし漁師でないてものはそうしたことがわからないのである。


そもそも農民もそうだが漁業でもそれだけでは現代では生活が成り立たなくなっていた。農民でも政府からの支援があって成り立っていた。それは食料は自国でまかなうことが防衛のために必要だからであった。でも漁業権というのは一般国民にしても関心がなくわかりにくいものだったのである。


日本全国には多くの原発がある。
原発立地場所から30KM以内にある漁業協同組合の漁業権は、
今どんなっているのだろうか。
○○%電力会社で持っていると思う。
原発を新設するときには、
漁業権は漁師から電力会社へ譲渡していて、
原発事故が発生しても漁業の補償はないのだ。
漁師は漁業権補償金を電力から事前にもらっているのだ。
一隻当たり数○○○万円くらい貰っていて
家屋の新築や自動車の購入や新造船などを
作った漁師は震災前に補償金で買っている。
もし事故が起きたからといって補償金の請求は無効力なのだ。

http://blog.goo.ne.jp/296minnade/e/1f653405ab266f2d36d5a644084b824d


漁業権は東電に売り渡しているから消滅しているの?これもわかりにくい、補償金がもらえないというけど魚がとれないのだからその分は過分にいまでももらっている。
30キロ圏内でも30キロ圏外でも南相馬市ならもらえるようになった。
補償金は漁業組合に一番手厚いのである。事故前もそうであた事故後もそうだったのである。


漁民に漁業権が与えられたのは、魚をとるから与えられた権利であって、魚をとらない人間にそのような権利は発生しないはずである。漁民が漁業権を「売った」瞬間に、漁業権はこの世から姿を消してしまう。つまり幻の取り引きが平然とこの世でおこなわれ、漁業が衰退してゆこうとしているのが今日の姿である。
http://blog.livedoor.jp/kikennahanashi/tag/%E6%BC%81%E6%A5%AD%E6%A8%A9


魚をとる漁師が魚をとる権利を東電に売った。その代わりに莫大な補償金を得た。これも奇妙なことである。魚を獲って暮らす人が魚をとる権利を売る。発電所の回りでは釣りができないというのもそのためである。ここのプログでは原発は東京のど真ん中に建てるべきだという。それも理にかなった話であった。
なぜなら確かにそれでこそ東京は大繁栄する!美しい福島県の大地を海を汚さずにすんだというのもわかる。その反動として原発があった地域はかなりの貧乏になる。補償金ももらえないのだ。ただ漁業で魚はとれるし自然は汚されることはなかった。東京は東京で原発で栄えるし事故が起きない限りそうである。田舎は田舎で貧乏でも美しい自然とともに暮らせよと東京の人に言われることになった。今になると原発事故周辺ではそういう覚悟して暮らす人もいた。


電気というのは非常に貴重なものだということがわかったからである。骨身にしみてわかったともなる。だから多少不自由でも自然が汚されない所で貧しくてもやっていこうとなっていたかもしれない、東京は東京で原発は必要であり電気は東京のど真ん中の原発で栄えさせて豊かさを享受するとなっていた。それだと何かわかりやすいことは確かだった。そもそも福島にもってきたことが間違いだったとなる。
あれだけ安全を言っていたのだから当然東京でも安全であり東京に東電が作れば安全の照明てありそれだけの覚悟があったということであったのだ。
今でも新潟の柏崎とか東京から離れた所に作っているのはやはり事故を恐れているから東京に作れないのである。

posted by 老鶯 at 01:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連