2013年10月01日

ボランティアの限界 (相馬藩が飢饉の人口減少を救った越中などの移民)

 

ボランティアの限界

(相馬藩が飢饉の人口減少を救った越中などの移民)

ボランティアが今でもきている。今は小高を中心にボランティアは来ている。鹿島区にも津波で残った家に若者が集まっている。それが不思議なのは自転車旅行している若者なのである。その人は学生というものでもない20歳の労働者だった。ただ自転車旅行の途中に寄ったのである。今回はボランティアというのが被災地では目立った。それがどういう人かというといろいろあってもその中に自転車旅行の途中に寄ってボランティアになったという人が結構多いのである。それはなぜか?と考えると普通自転車旅行は遊んでいる者とみられるから地元の人でもつきあわない、一時的に通りすぎる人間と見ていたのである。旅人だからなかなか受けれることはない、通りすぎてゆくものとして見ている。
そもそも田舎だとよそ者をなかなか受け入れない、だからよそ者が田舎に住み着くことはなかなかむずかしいとなる。でも今回はよそ者を受け入れることが抵抗なかった。
ボランティアを必要としていたからである。無料で働いてくれるから助かるとなる。


でもボランティアは自転車旅行の途中による若者が結構いたように特別の意識をもってボランティアしているのではない、受け入れられるからここでちょっと寄ってボランティアして帰ろうかなというのが多かったろう。ここに住み着いて働こうという人はまれだったろう。それで三陸の方でボランティアに何度もここで本当に働き生活するのだなと何度も土地の人が念を押していた。一時的にボランティアしても帰る人も多いからそうなる。
あれだけ困窮している所に地元の人すら去ってゆく所に住み着いて暮らすことは容易でないからだ。だからここで働き続けるのなら生涯の仲間だめんどうみてやると地元の漁業関係の人が言っていたのである。もちろんスキルがあり大工は土地の女性と結婚したからその人はすみつくことができる。

ただボランティアにはどうしても限界がある。一時的なものとして通りすがりちょっとボランティアしようかというのでは土地の人も信用しないだろう。

それで相馬藩が飢饉で三分の一に人口が減った時、越中などから移民が命懸けで来て働き相馬藩を建て直すことができた。今になるとこの移民が見直されることになった。
この移民は別にボランティアではない、相馬藩を援助するとか助けるという意識もない、第一当時は藩から抜け出すことが命懸けになっていた。そういう苦労が語り継がれてきた。そもそもなぜ相馬藩にそんなにしてまで移民する必要があったのかとなるとボランティアとはまるで違った意識があった。詳しくはわからないにしろそうした移民する側にも命懸けで移民する事情があった。だから別に相馬藩が困窮しているから困っているから助けてやろうとか言う意識は今のようになかったのである。つまり移民も生きるために必死であり土地を求めて相馬藩にある意味で決死の覚悟で移民したとしか思えないのだ。


そもそも人間はもし住みよい所だったら簡単に移住しないのである。移住するということは何か切羽詰まった事情があって移住する。ゲルマン人の大移動とかなるとやはりそれは人口が増大して土地を求めて移住したのが歴史では多い。遊牧民は常時移動しているからそういうことができる。農民はなかなか土地にしがみつき移動しにくい。
特に江戸時代は移住が禁止されていたし藩内から脱出することは命懸けにもなっていた。そういうなかでどうして越中の人たちがそれも飢饉で瀕死の状態にあった相馬藩に移住したのだろうか?それはなボランティアとか援助とかいう次元ではない、越中の人たちも生きる場を求めて相馬藩に移住した。それはもう故郷には越中には帰れないものとして困窮している相馬藩に移住した。なぜなら帰ることができないのは一旦藩を出たらもどれない、罰せられるかもしれないからだ。だから困窮している相馬藩でもそこで生き抜かねばならない、そういうふうに追い詰められていた。


たから荒廃した相馬藩の土地を必死で開墾して豊かにして相馬藩を結果的に建て直すことになった。最初は草分けという農家に入りその下で働いた。そのうち未開の地や飢饉で捨てられた土地を開墾して実りある土地にした。その苦労は並大抵ではなかった。
その逸話として「加賀泣き」という言葉が残っている。この伝えられた言葉の中に移民の苦しさが凝縮されている。泣き泣き苦しみ働いていたのである。もうそれはボランティアなどというものではない、ただ生き抜くために必死でありここで暮らすほかない、死ぬほかないとまでなっていたから苦しくても留まっていた。それが江戸時代だったのである。だからこそ相馬藩を移民によって建て直すことができたのである。


このことをふりかえるとき津波であれ原発被災者であれあまりにも違っているのである。多額の補償金で被災者が東京まで行って競馬で遊んでいるとかバチンコに毎日通っているとか相馬藩の飢饉の時とはあまりにも違っている。食べ物はかえって毎日マグロの刺身を食べているとか贅沢しているのだ。そこに通りがかりのボランティアがきてちょっと働いてみようかとかなる。あまりにも相馬藩の飢饉の時とは深刻さが違いすぎるのである。
かえって地元の人が遊んでいてボランティアが働いているというのも変なのである。
ニートなどはこのまま生活保護が必要だとか言っている。補償金でこれから生活をしようとしている人たちも多いのかもしれない、老人が多いとどうしてもそうなるのだ。

だから相馬藩の飢饉の時のような危機意識はまるでないのである。
それも時代といえば時代なのだが結局広域化社会は江戸時代の閉鎖された社会と違うのだからかえって容易に解体しやすいということもある。土地にしばりつけられることもないのだからここで苦しんで生きぬくんだとか思いこむ人は少ない、若い人は見切りをつけて補償金もらって他で暮らす方がいいとなってしまう。それをとがめることもできないのだ。


ただ越中の移民にしてもそういうふうに追い詰められていたからこそ相馬藩で必死で生き抜こうとした。移民は何か特別の事情があり追い詰められているから住み慣れた土地を離れる。アイルランドでもジャガイモ飢饉があり食えなくなりアメリカに移住したのである。そうした切羽詰まった事情がありイチカバチカでも未知の国に移民したのである。
航海にしても危険でありアメリカといっても何があるかわからない土地だった。それでやはり飢えてインディアンに食料を恵んでもらって生き延びたということも記されている。やはり慣れない土地に移れば勝手がわほからないからそこに住んでいた原住民の助けを借りなければならない、アメリカの場合はその原住民を虐殺して自分たち主人になってしまったのである。


ボランティアというのは悪いものではない、でもそこには自ずから限界がある。
人間が必死になり真剣になるのはやはりそういう場に追い詰められてなる。ボランティアならいつでもやめることかできる、去ることができるがそこに住み着くとなると去ることはできない、そこで死ぬのだとまでなる。ただ現代ではどこに住んでもいいのだからそういう感覚は喪失している。金があれば住みよい場所に移った方がいいとなっている。

だから津波の被災地でも三陸などでも現地の人が去っていっているのに他の人が住み着くことは容易ではないだろう。とてもボランティアの意識では住み着くことができないだろう。現代はそういう点で恵まれているからそういうふうに強いることもできない、第一地元の人が去ってゆくのに働きもしないのに外部の人が働いているというのも奇妙なのである。だからかえって外部の働く人が現地の働かない人を追い出し住み着く権利がでるともなる。


復興するというとき地元の人がまず復興しようとする気にならなければ外部の人も援助する気分になれないだろう。これは尖閣問題でも日本が守ろうとしないならアメリカは助けやしないというのも本当だろう。日本の領土なのだからまず日本が必死で守ろうとしなければ他国も助けないのである。何でもアメリカが助けてくれるという他力本願では日本自体守れないだろう。それと同じで自ら助けようとしないものは他者も助けないのである。その辺が何か津浪の被災地でも原発避難者でも特に原発被災者は多額の補償金でもう復興といってもやる気がなくなっていることがある。特に老人が多いとどうしてもそうなるのである。

加賀泣きと伝えられにし相馬藩飢饉を救う移民を思いぬ
 
posted by 老鶯 at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

秋薔薇 (ソニーのRX100M2はやはり写りが違っている)


秋薔薇

(ソニーのRX100M2はやはり写りが違っている)

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秋薔薇朝一杯に光あぶ
五六輪朝の日あびて秋薔薇
秋薔薇今一時の光かな
隠されて一輪ひそか秋薔薇
秋薔薇石も暮れゆく庭広し
萩しだれ二両の電車通うかな
なお森にひびきて暮れぬ秋の蝉


啄木鳥の虫を探して木をたたくその音しばし田舎の町かな

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hagitrainn11.jpg

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秋薔薇が朝の光にを受けて駅に咲いていた。今度買ったソニーのRX1002は写りが違っている。今までだと光の感じがうまく写っていない、これは朝の光の感じが出ている。
カメラはやはりみんな写りが違っている。カメラは光をどれだけとらえられるかが問題になるのかもしれない、このカメラは夜には強い、だから月の光の中でもきれいに写るだろう。


光という時、光は人間にとっても自然界にとっても喜びなのである。
ゲーテが「もっと光を」と言って死んだというがまさに光が喜びだからである。
フェールメールの絵がいいのはその光をとらえたから不朽の作品となった。
明らかにカメラによって光の感じが違ったようになる。
するとカメラによりけりで芸術性が高められるのである。

20万のソニーのカメラ買おうかと思ったがどうしても自分の場合落としたりするので買わなかった。このカメラでも前よりはきれいにとれているだろう。

近くでシャーターチャンスが結構ある。鳥はとるのがむずかしいけど隣の庭に来たのでとれた。こんなにはっきりととれるのはめずらしい。ぶれたりして動くものはとりにくいのだ。これは近くで定点でとっていたからとれた。コゲラでありこれはこの辺でもときたまみかけるのだ。ただ滅多にみかけないから写真にとるのはむずかしい。
最近は海の方から津波の跡にめずらしい鳥が飛んできた。これもとることができなかった。

啄木鳥という時、北海道は大きな啄木鳥がいてその音が遠くまでひびき木霊する。
冬でもオホーツクの斜里町に行った時、啄木鳥の音がひびいていた。クマゲラとかなると大きいから音がかなり木霊する。クマゲラでなくても啄木鳥と種類が多い。
アカゲラなどは岩手県の小岩井牧場でみかけた。その時も冬でありただ啄木鳥の音が深い森に木霊するだけだった。この啄木鳥は大食漢であり相当の虫を木をつつきとりだして食べている。だから暇なし虫を食べるために木をつついているのだ。
一見のどかなように見えても自然界では餌をとるために毎日活動しているのである。

萩が川子の高台にしだれていた。そこに二両の電車が通る。これもなかなかとれない、電車は定期的に通るからその時間をまっていてとるほかない、この辺はまだ自然があるから遠くに行かなくても写真になるものがある。津波の後に景色が変わったからそれも写真として記録するのにはいい。
写真もやはり芸術なのだろう。ただ自然はとっているけど人間はとっていない、人間をとったものとして50年前とかの写真は貴重だった。今ならフォトブックとか大量の写真が残るから50年たった時思い出すから得である。なかなか思い出せないのが過去になってくるからだ。


写真の魅力はやとりデジカメになってから一般化したのだ。適当にその場で10枚くらいとっていいものを選べばそれなりのものがとれているからだ。プリントでもキタムラショップとかで頼めば前の写真の現像と同じ画質で残せるのである。
そういう点では恵まれた時代である。