2013年10月23日

なぜ相馬藩では慶長津浪が伝えられなかったのか? (伊達藩の政宗が中央政治とかかわり相馬藩は小藩で情報が伝えられなかった)


なぜ相馬藩では慶長津浪が伝えられなかったのか?

(伊達藩の政宗が中央政治とかかわり相馬藩は小藩で情報が伝えられなかった)


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1579年 (13歳)
陸奥国磐城三春城主、田村清顕の娘、愛姫と結婚。

1581年 (15歳)
相馬氏攻めで初陣

●家督相続
1584年 (18歳)
父、伊達輝宗の隠居により、家督を継ぐ。

陸奥国岩代の人取橋の戦で、佐竹、蘆名連合軍に勝利。
●奥州南部平定

1589年 (23歳)
陸奥国岩代の摺上原の戦で蘆名義広を破り、奥州南部を制圧。

その後周辺の諸族を支配下に置き、出羽国羽前南部、陸奥国岩代、陸奥国陸前南部など合計114万石の太守に。
陸奥国岩代の黒川城(会津若松城)に本城を移す。

●秀吉に臣従
1590年 (24歳)
小田原城攻めを行っていた豊臣秀吉に、ギリギリのところで伺候し臣下につく。

1591年 (25歳)
惣無事令違反、領内での一揆(葛西大崎一揆)を煽動した疑いなどから、米沢など約150万石から陸奥国陸前玉造郡など58万石に減封となり、岩出山城(岩手沢城)に入る。

岩手沢城を岩出山城に改名。

1592年 (26歳)
文禄の役(朝鮮出兵)に参戦。
出陣の際の装束が派手で、「伊達者」の語源となった。

●青葉城
1601年 (35歳)
仙台城(青葉城)を築城し居城とし、初代仙台藩主に。(60万石)

1611 慶長津浪
伊達藩の死者-5000名


相馬藩の溺死者700名


一カ月後相馬氏が小高より中村に今の相馬市に城を移す


相馬藩の武士、津浪の跡に開拓に入る


1613年 (47歳)
支倉常長を慶長遣欧使節とし欧州へ派遣。

1614年 (48歳)
大坂冬の陣に
参陣。

相馬氏参戦

1615年 (49歳)
大坂夏の陣で、豊臣方の後藤又兵衛を討つ。



「政宗領所、海涯の人屋、波濤大いに漲り来り、悉く流失、溺死者五千人、
世にこれを津波と曰うと云々
……
時に海面滔天、大浪山の如く来る。肝を消失し魂を失するのところ、こ
の舟彼の波上に浮びて沈まず。しかる後、
波の平らかなるところに至る。こ
の時心を静め眼を開きてこれを見るに、彼の漁人住するところの郷辺、山
上の松の傍なり、
これ所謂千貫の松なり。
すなわち舟を彼の松に撃ぐ。波濤退去
の後、舟松の梢に在り。

政宗これを語る由、後藤少三郎御前に於てこれ
を言上す。」

『駿府記』には伊達政宗に献上する初鱈を獲るため侍2人を遣わし、漁人らは潮色が異常であるとして難色を示したものの、「主命を請けて行かざるは君を誣するなり、止むべきにあらず」とて出漁した漁人らは津波に逢い漁人の生所なる山上の千貫松の傍に流れ着いたが、家は一軒残らず流失したとある[1]。この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%B8%89%

E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87


ビスカイノの三陸沿岸の探索は1611年(慶長十六年)七月七日、徳川家康に対して日本の東沿岸の測量や造船などに関する朱印状交付の為の請願書を提出したことに始まった。・・・・・

伊達政宗との出会い
旧暦五月十四日、ビスカイノ達の暦では六月二十四日だった。(この日は聖ファン(ヨハネ)の日)
彼は隋員と一緒にミサに参加するため聖フランシスコ会の修道院に赴いた。
その時、政宗が多数の士卒と騎乗の士を率いて江戸市街の木戸に着いた時、ビスカイノ一行を見た。
政宗はすぐさま伝言を送り、火縄銃を発射する様子を家臣たちに見せたいと伝えた。
 要望受け射撃が実行され、出し抜けに二回発射されたので、政宗は驚き両耳をふさいだという。
他の者達の馬は大音響に混乱し、主人達を地面に投げ落として逃げ出し、食料などを積んだ馬は転倒し大騒ぎになった。
この出来事をきっかけに両者の交流が始まった。
この日がサンファンの日であることから、サン・ファンバウティスタ号の船名になったという説があるが、定かではありません。




慶長津浪死者数

伊達藩 5000
相馬藩 700

5,000 / 700 = 7.1
...............................

今回の津浪の福島県の死者数


宮城県死者-9537

福島県 1606
9,537 / 1,606 = 5.9


なぜか死者数の割合が同じだという不思議である。相馬藩は磐城は入っていないがほぼ割合的には同じ人数が死んでいる。ただ慶長津浪でも今回でも圧倒的に伊達藩が宮城県の被害が大きいのである。

そしてなぜこれほどに伊達藩では慶長津浪の記録が残された。その原因は当時伊達藩は東北をたばねる一大大名であり秀吉も恐れたし家康も恐れていたのである。全国制覇をもくろむ地位にあった。だから政宗の動向は常に注意が払われていた。
伊達藩で起きたことも中央政府に報告され監視されていた。


津浪が起きた時、隠居中の徳川家康をめぐる政治情勢を記した日記。1611年(慶長16)8月1日から15年(元和1)12月29日までの約4年半に及ぶ駿府記で記録されたように徳川幕府から情報が拡大化した。それはスペインの使節からもヨーロッパに報告されて記録された。
伊達政宗の時代は国際的な時代だった。政宗は仙台にいる日数は少なく絶えず大阪の秀吉の伏見城や京都に滞在していた。そこに愛姫(めごひめ)が人質として住んでいて仙台には帰ることなく住んでいた。だから当時でも国際的視野をもつことかができたのである。

そして津浪の情報も外部との接触がありつたから伝えられ安かった。つまり情報は戦国時代辺りだとどうして伝わったかというとそうした政治の中枢部に影響していないと伝わらない。それは多賀城で奈良や京都の人がかかわりちょうど貞観津浪を京都の官吏も武人も目撃して京都に伝えたのである。それで末の松山がみちのくの歌枕となり残された。
それは京都の人がかかわって全国に知られるようになったのである。

当時だと情報は中央中心にしか伝わらない、地方の情報や事件はほとんど伝わらない、中央政府とかかわったとき伝わり歴史に記録された。そういうシステムになっていた。

みちのくの歌枕もそうした情報の伝え方でありその歌を通じて遠いみちのくをイメージしていたのである。写真もない何もない時代は歌枕が頼りになる。だから短歌は一つの情報伝達の手段でもあった。それが後世に残された。ただ事実を伝えるより短歌の方が興味をひくということがあった。事実の羅列だと無味乾燥になってしまうかちだ。
記録にしても無味乾燥だとただ事実の羅列だと興味をひかないから庶民まで事実自体が残らないということがある。今でもテレビで事件をあくことなく放送しているのは見ている人が興味をもつからである。それが下賤でも興味本位でも一応テレビを通じて全国に伝わるからそういうことがあったという事実を全国で認識する。
短歌はそういう興味をひきつけるものとして情報を後世に伝えた。


相馬藩がなぜ慶長津浪のことが溺死者700名しか記録がないのか?
津浪の記録の空白地帯になっているのか本当に謎である。
その一つの原因が相馬藩が中央に影響を及ぼす力のない小藩だったことにもあった。
相馬藩のことは伊達藩を通じてしか中央に知られなかった。
ただ戦国時代に石田三成が相馬藩内にきている。鹿島の田中城にもきている。それで三成の旗が野馬追いに出ていたのである。ここでは直接かかわっていたのである。

そのあとは家康の徳川時代はかかわっていない、伊達政宗を通じてしか相馬藩のことは知られないということがあった。

だから不思議なのは伊達領の仙台平野の六郷に津浪の後に開拓に入って地名まで残した相馬藩の武士が何人がいた。それは一団だったからどれくらいの数かしらないが50人とかの規模になっていたかもしれない、一族郎党をひきいるとそれなりの数になっているだろう。一方で相馬藩も津浪の被害にあったのにその被害の後のことは語られず地元の郷士などがどうしたのかとか一切不明なのである。伊達藩のこととして相馬藩が語られていて相馬藩独自では津浪のことは記録されていないのである。


それは伊達藩中心の世界があり伊達藩が中央政治とかかわりそれが歴史記録となった。
中央とかかわらないと歴史として記録されない、少数民族の歴史が消失するのとにていたのである。情報は常に中央の権力中枢から発信されている。それは今でもマスコミが情報発信の中枢をになっていたことで同じである。地方から全国に発信するこはむずかしかった。インターネットはそれを打ち破るものとして生まれた。南相馬市の市長がYUTUBEで世界にきけ窮状を訴えて反響があり世界の百人に選ばれたということでもわかる。

インターネットは地方からも一応発信する機会を与えたのである。

それでも中央が中枢となり情報は発信されやすい。情報を発信することも権力をもつことなのである。例えはキーワードでも自分のサイトに来るのをみていると京都 俳句とか
奈良 俳句とか鎌倉 俳句とかか一番多い、仙台 俳句などほとんどないし相馬 俳句や短歌で調べている人がほとんどいないのである。そういう有名な場所に集中しやすいのである。だから京都 俳句とあったらそこからまた東北でも相馬でもリンクをたどれるようになっていると注目されるのである。情報の注目度は今でも中央に偏るのである。
インターネットでも発信する能力があっても注目されなければ知られないということなのである。ただ今回は福島県は相馬でも原発事故で世界まで注目されたのである。
だからフクシマから来たというと誰でもわかる、悪い意味で有名になったのである。

だから自分のサイトもまた500名とか訪問者が増えた。常時リンクが1000とかなっている。ただ福島県とか相馬意外からどれくらいの割合できているか今のサーバーでは分析できない。外部からも相当来ている。
半分以上は外部からのものだろう。それは原発事故がが世界的興味となり注目されたからなのである。


慶長の津浪の被害が当時も甚大だったのにそのあと三年後に大阪冬の陣とかに出陣したり相馬藩でも出陣しているその後ヨーロッパに使節う派遣したりとどうしてそうした大事業ができたのか、それだけの経済力があったのか、今なら被災地はうちのめされて復興にはなっていない、この辺は原発事故だからまた事情が違っていても慶長津浪では大きな被害にもかかわらず大きな事業をしているのは謎である。津浪の被害にあった田は十年くらい塩害で回復しなかったというから余計にそうである。今なら技術が発達しているからそういうことはない。ただ当時は農業中心の社会だから農業に対する熱意が全然違っていた。いくら被害があっても農業でやるほかないということでは一致していたからである。

今の状況とは相当違っている。今は漁業でも農業でも衰退産業であり高齢化でありそういう所に津浪が襲ったので壊滅状態になった。この際やめた方がいいという人が多いのも当時とは事情が違う。

ともかく仙台なら津浪が来ると最近警告の本が出て紹介した。それもそうした記録や民間の伝承が残っているから可能だった。相馬藩ではほとんど残っていないのだからそういう警告すら出せなかったのである。ただ最近科学者が相馬の松川浦の奥深くまで貞観津浪の時の砂が発見されたと報告していたので自分も時事問題の深層に軽い気持ちで面白がり出していたのである。ただそうした情報は専門家の間では重要てものとして新しい発見として注目されていた。他の人はほとんど関心がなかった。


それでも南相馬市の2009年の広報で大きな地震が宮城県沖で来ると警告していた。津浪も警告していた。それも真剣に読む人はほとんどいなかった。東電でもとりあわなかった。女川原発が津浪の被害を辛うじてまねがれたのはやはり仙台には津浪の記録や伝説があり三陸とも近いのだから福島県とは違っていた。福島県は津浪の記録の空白地帯だったのである。だから東京電力となると余計に危機感がなかった。
だから原発は東京に建てるべきだったというのは正論だったのである。
そしたら緊張感で仕事していたし危機にも備えていたのである。
責任の重さの感じ方がまるで違ったものなっていた。
それでも東京にばみんなが反対するから建てられない、それなら建てるべきではなかったとなる。

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2013年10月24日

江戸時代の対比で現代を考える (人口と石高の関係ー土地より人口が労働力が大事だった)


江戸時代の対比で現代を考える

(人口と石高の関係ー土地より人口が労働力が大事だった)

日本史再発見(板倉聖宣)の中の相馬藩の研究を読む

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●人力で人数で生産高をあげる代わりに機械が上げる時代
相馬藩の年貢の石高を人口の対比で調べたものである。これは比例している。土地というのはもともと一定であり増えないものである。でも最初は耕地とささない田とされない土地が広がっている。人口も少ない、だから開発する余地があるから生産高も上昇して人口も上昇してくる。それを江戸時代の変化でとらえた。津浪があった慶長時代(1611)頃はまだ検地もされていないし石高も良くわからない時代である。それは開発する開墾する余地が十分にありまた人口も少ない時代だった。だから津浪が来て今回の津浪と同じような被害があっても人口が増えれば開墾する地は広いのだから津浪自体がそれほど痛手となっていなかった。伊達藩でもそうであり相馬藩でもそうだったのである。相馬藩ではまだ石高とかの記録がされていない記録の空白時代だった。だから津浪のことも溺死700名しか記されていないのだ。


この本での発見は天明の飢饉とかか相馬藩で甚大な影響をした。三分の一の人口が減ったというけどそれがその後の石高が増加しない原因ではなかったという。石高はすでに下降気味でありそういう下降極線が飢饉で促進されただけだったという。すでに開墾する余地が土地になくなっていたことが最大の原因だった。それでも天保の飢饉では餓死者がなかったのはなぜか?天明の飢饉の教訓を活かしたことと人を大事にする政策をとったからだという。
百姓の数が減ったら農地が増えるのだから生活が楽になるかというとならない、いくら土地があってもその土地に応じるだけの百姓がいなければその土地を耕すことができなくなる。」相馬藩の場合も人口が減り荒廃田が増えて年貢が減ったのである。

ところが現代を考えればこのようにはならない、土地が一定であり人口が減っても生産高はあげられる。なぜなら機械がその穴埋めをするからである。中国では手刈りで麦を刈る出稼ぎ者がいたかコンパインはその人力の千倍もの働きをする。つまり人間の労働力はいらないとなる。だから土地が広ければ広いほどいいし狭ければ生産高は上げられない。

それでアメリカとかオーストラリアか中国の広大な土地で機械でやればいくらでも生産高はあげられる。飛行機で種まきなどをやっているからである。こうなるととても日本の狭い土地での農業はたちうちできないのである。現代文明は機械によってう動かされている時代なのである。戦争まですでにロボットが現実にしているのだ。機械を動かすには石油が必要でありそれが原子力になって事故が起きたのである。機械と言っても魔法の力ではなく石油とか石炭とかそれが枯渇するからと原発にてったのである。

家事の機械化にしてもそうである。家事だけで料理から洗濯からしていたら家事すら大労働であり当時の中産階級ですら女中を雇わないとできないものだった。
二人も雇っていた家がそれなりにあった。人力で補う他なかった時代である。
それは江戸時代も同じだったのである。すべて人力で補う時代だった。
だから人口が減ると致命的なものとなっていたのである。


●江戸時代に相馬藩で子供を強制的に産ませていた

 農村では14歳から50歳までの女性を登録させて年に三回づつ妊娠しているものを見届け確実に生ませるように監視する
体制ままで作った


江戸時代と現代を比べるといろんな面で過去も現代も見えてくるものがある。それはいい悪いとか江戸時代に帰るのかという問題ではない、過去が意味するものが現代と対比して見えてくるし現代も見えてくるのである。歴史を学ぶということはそういうことなのである。戦争で若くして死んだ人がいたというときその心中を察すればあまりあるものがある。そんなことで今の若者は悩むこともないから就職ができないくらいで死ぬことはないともなる。過去の貧乏を思いば今は贅沢すぎるとかなる。それは過去を歴史を知らないと具体的にそういう考えも身につかないのである。
現代ばかりに注目しても現代のことがかえってからないのである。

江戸時代は1611-慶長津浪が起きた時は伊達政宗の活躍の時代であり家康の江戸時代からはじまったばかりだったのである。だから相馬藩では石高との記録もない、津浪の記録も一行しかなかった。そういう時代で公的な記録がされなかった。ただ被害が大きかったのだから民間で伝承されてもいいはずだったがされなかった。その理由はよくわからない


江戸時代はグラフで示されたように元禄から宝永の時、最盛期だった。相馬藩でもそうだった。新田の開発でうるおっていたのである。元禄は江戸でも一番華やかな時代であり今のバブルの消費時代だったという。それは都会ではそうなったが田舎てはそうではなかった。宝永時代も新田の開拓が進んで豊かになった時代である。だから鹿島町の御子神社の隣の墓地にあれだけ大きい宝永時代の碑があったのだろうか?あれだけ大きい碑はなかないからである。元禄時代はまた芭蕉が活躍した時代で文化が花開いた時代だったのである。それで葛尾(かつろう)村の落合に元禄の碑があった。明暦とも書いてあり明暦は検地がはじまった年である。でもあんな山の中にあるのか不思議だった。あのうよな山の中も元禄時代は開拓が進み山の中でも繁栄するものがあったのかもしれない。
古い碑を研究すれば見えてくるものがある。新地にある文禄の碑はやはり朝鮮への伊達政宗の出兵が関係していた。文禄とだけ記してあるのはないからである。


江戸時代を参考にするとき、人口の増加が収入を石高を増やすことだった、だから人を大事にせねばならめとして年貢を減らした。それは税金を減らしたことなのである。
子供を生んだ人には奨励金を出したりもした。まず人口を増やすことが奨励されたのである。強制的に子供を三人作れとかの政策もあった。これも現代の少子化とにている。
ただそういう政策が現代には通じない、なぜなら機械化がこれだけ進んでいるのだから労働力の穴埋めが機械でてきる時代だからである。なぜ現代は1億二千万の人口で三分の一が実は働いていない、さらに会社でも働かずにただ会社にいるだけで会社内失業の人も多いという。ではそんなことがなぜ可能なのか?それはやはり機械が仕事の肩代わりをしているからである。江戸時代は人力なのだから労働力は人口によっていたのである。


●人口増加政策だけでは現代は対処できない(労働の質が変化した)


ただこの辺の津浪原発事故を考える時、やはり人口が流出している、労働力が流出していることが問題になっている。それは江戸時代とにている。特に若い働き手か流出していることで衰退してゆく危機になっている。高齢化で老人ばかり残されるうば捨て山になる恐怖がある。医療や福祉の担い手が流出するとそうなる。看護師はいくら募集しても来ないという。他にも人手が不足して時給を1200円にしても人が来ないというのもそのためである。補償金で金があっても若い働き手が流出すればそうした贅沢なサービスは受けられない,金は銀行にも増えているけどその金が使われて産業が起こるわけでもない、その金で昼間から酒飲んだりパチンコしたりする人ばかり増えてもこの辺はやがて衰退してゆくだけである。


双葉や大熊などでは原発交付金で立派な公共施設を作っても繁栄しなかったという。つまり金だけあっても何でもできるわけではない、過疎地域に一億円あるから住んでみようとしても肝心のサービスする人がいなければ医者にもかかれない、そこで死んで行く他ないともなるのだ。だからそんなところで金は何の価値もないとないとなる。
そういう人が来てもなにもならないとなる。土地が一定でも狭くても働き手の人口が増えた時生産高が上がったというときそういうことはこの辺のことにもあてはまる。


今はなぜ都会に人が集中するのか?それは労働の質がまるで変わったからである。
第一次産業は一割にもみたない、あとは工業とか情報産業とか別の労働になっているからである。東京のような全く農業もない世界で一千万人もどうして生きていられるのか不思議に思う。江戸時代は百万都市でも回りは農業の社会であり農民が肥料として人糞を集めていたことでもわかる。回りには田畑が取り囲んでいたのである。
そういう社会とはあまりにも違っているのだ。工業、商業、情報産業が生活の糧であた農業でも漁業でも林業でもないのだ。だからtppが促進されるという時、都会人にとっては別に食料が外国から入ってもかまわないとなる。現実にそういう生活をしているからそうなる。そして都会では様々な仕事があり第一次産業とは関係なく生活しているのである。農業より原発が電力が大事だという時、工業は電気なしで成り立たないからである。

農業すらハウス栽培とか電気とか石油でありやがては都会では工場で野菜などを作るともなっている。だから江戸時代の農業中心の社会をみても現代の問題の解決にはすべてなちないのである。

むしろ別な発想が必要になってくる。花栽培なら放射能の影響がないからやるとか何か別な発想が必要になる。農業だけにだけこだわることもできない、でも農業を新しいものとして活かすことはできる。現代は肉体的人力労働が主流ではない、知能労働が主流になった時代である。機械を作るのは肉体労働じゃないかとか思うが実際はそれも知能労働である。機械の設計は知能労働だからである。事務の効率化も情報処理の効率化もコンピュターが優れている。それがすべてではないにしろコンピューターなしで社会はもう成り立たない時代になった。職人の技もコンピューター化されている時代である。出版にしても活字を一つ一つ拾っていたのは昔話である。新聞も本つくりも一部からオンデマンドで機械化している。この情報化のスピードは早い。自分の家が新聞社とか出版社とかテレビ局とかにさえなりうる時代である。
ただ取材となると人力が必要だがそういう情報化の機械化で飛躍的な情報発信能力が生まれたのである。
最近わかったことは考えるとは書きなから考えていることだった。だから自ら情報発信しない限り書くことは進歩しない、自らが主体的に発信しない限り考えも深まらないし書く能力せ見につかないのだ。
だからインターネット時代はかえって書く能力がましてくる。様々な情報を自ら考えて構築することが要求されているのだ。
そして発信することか要求されている。

少子高齢化時代は果たして人口を増やすだけで解決できるのか?
江戸時代はそうだった。現代でも人口が増えれば活力生まれることは確かである。
でもその労働力を機械で補うとするときその労働は知能の労働に移っている。
すると良質な教育を受けた知能労働者こそか必要となる。
だから現代は教育に金がかかるから子育てが苦しいから少子高齢化に必然的になる。
貧乏人の子だくさんというとき子供も農民では労働力としてみていた。
後進国では今でもそうである。戦前でも親に孝行というとき子供は親に尽くすものとされたのは親も労働には人手が必要だから子供を労働力とみていたからである。
そういう時代の変化をみないと社会は見えないのである。

posted by 老鶯 at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2013年10月25日

人はなぜ御用学者になるのか?」島村英紀を読む (科学者は政治家、企業、マスメデアの力に対抗できない弱い立場?)


「人はなぜ御用学者になるのか?」島村英紀を読む

(科学者は政治家、企業、マスメデアの力に対抗できない弱い立場?)

●科学者のことが素人にはわからない


現代が科学の時代というときそもそも科学というのが素人には近づけないものになっている。専門家しかそこには近づけないし何をしているのかもわかりにくい。科学者も他の専門家が何を研究しているかもわほからないという。それもそうである。それだけ科学にしても多岐に分化している。無数に科学という分野でもパーツ化している。
今回の原発事故では盛んに科学者の責任も問われた。しかし科学者というのはベールにつつまれていた存在であり普通の人は何をしているかもわからない。また問うこともできなくなっている。それはまた危険にも通じていた。錬金術師でありいかがわしいとされた中世とは違いか科学者は社会の重要な責務を与えられたエリートである。
ただこの本では科学者は非力な存在だとしているのは理解できない、科学者でもいろいろあり医者とかとはまた違ったものなのだろう。
科学という時自分は科学音痴であり数学音痴であり高校も落第して卒業できないような状態だった。その原因が数学とか科学が嫌いであり他の勉強も嫌いだった。
受験勉強で強いられてしていただけである。性格がわがままで団体生活になじめなかった。多分に勉強嫌いになったのはそうした自分の責任もあった。

若い時の影響はあとあとまでつづく、三流大学を出ても仕事をしたのはアルバイトでありその時していたのがほとんど流れ作業でありそれ以来仕事したくなくなって今日にいたっている。だから科学アレルギーであり科学について語ることがはばかれるしそういう知識も能力もないのである。ただこの辺がこんな原発事故になったとき否応なく放射能被害にあいみんな放射線量を計ったりして知らないでいられない状態になったのである。

原子核がどうのこうのという次元で素人にはもうついていけないのが科学てある。
でも今はもう科学なしではありえない社会である。科学が宗教になっている時代である。でも科学者というと一体何なのだろうとなり問う術もないのである。

科学でも例えば地震のことなると耐震性を考える時、それは日本の歴史を振り返れば古代から地震に備えて法隆寺の五重塔などが作られていた。それは今でも倒れずに残っているから日本の技術は優れていたと評価される。それでも五重塔どまりであり七重の塔はない、古代に奈良時代にはあったがなくなった。その土台だけが残っている。七重の塔は地震に耐えられなかったのである。城にしても会津の城がもとも七層であった黒川城だったが地震で壊れ今の五層の城になったのである。


日本ではそもそも地震が多いから地震に強い建築が発達するのは風土によっていた。技術も風土が影響する。絶えず風が吹いている所では風を利用するものができてくる。風車はアラビアの方からオランダに伝わったという時、砂漠辺りだと風が絶えず吹いているから風車が向いている。それぞれの国にはその国にマッチした技術が発達する。日本では木の国だから木の建築が多いから木に対する技術が発達する。またトンネルが多いからトンネル技術は優れている。山国だから絶えずトンネルを掘る必要があるからだ。

必要は発明の母になる。大陸ではどこまでも平地がつづく風土でありそこでは見晴らしを重んじる塔がどこでも建っている。それは中国でもそうでありその塔は日本のより何倍も高いのだ。塔の文化は外国にある。それでも地震で一部破壊されることは必ず経験している。ただあれだけ塔が建つのはやはり必要性と風土にマッチしていたのである。
アメリカでは地震が起きる西側には原発を極力作らず東側に作っていた。アメリカの方が地震に警戒して日本では地震国であり津浪国であった。それを科学者が考慮していということはなぜたったのか?なぜ科学者は御用学者になったのか?それをこの本では問うている。

●権力をもつものが責任が課せられていた


科学者も政治の圧力、企業の圧力、マスメデアに圧力に弱い非力なものだという。研究費でもなかなか得られず政治や企業やマスメデアを恐れるのはそのためである。予算が出ないと研究も進められない、予算を握るのは政治家だとすると政治の圧力に屈することになる。つまり政治主導で原発も進められることになっていた。マスメデアも集団で取材に来る時は怖いというのは実感なのだろう。マスメデアはそれだけ権力を実際にもっていて強制できるのである。本当ははマスメデアは私的な会社であり私的な利益を追求しているのだけど電波を独占したから権力をもつようになった。それだけ特権が与えられたのだからまた公的なものとして責任が与えられたのである。今回の原発事故では誰か責任者なのか戦争と同じように問われた。それは権力をもっているものがやはり責任の度合いが重かった。それは何でもそうである。権力には責任が課せられている。権力が悪用されると致命的なものとして被害を受ける。軍隊でも権力でありこれを悪用したら恐ろしいことになる。検察でもそうである。警察が権力を悪用すると恐ろしい木はそのためである。公務員でも権力をもっていているから影響が大きい。戦国時代も様々な権力の相剋であり戦いだった。今でもは様々な利権団体か権力でもって利権を利益を得るために戦っている。


今回の原発事故では漁業組合が天罰だったとか責められるのは一番原発に対して権力を行使する立場にあったからである。漁業組合が拒否すれば原発は建てられなかったからである。それが東電に漁業権を売りわたし巨額の補償金をもらっていた。今でもそうである。そもそもおかしいのは漁業権とは何のためなのか?海の資源を守るためにあるとしたらそういう責任も果たしていなかったのである。つまり権利とかが与えられるのは権力が与えられるのは責任が課せられていたのである。一般的金の時代になると金のもっている人は責任を課せられている。ある金持ちの子供は家庭教師を三人もつけられているが全く効果がないという、こういう人は金持ちとして責任が果たせないからとがめられくだろう。
金持ちでも放蕩したりしたらそれもとがめちれる。金は実際はみんなの共有のものであり役に立たせないと責められるのである。金があるからと勝手に何でも使っていいとはならないのだ。

●権力をもっていたものは科学者ではなかった


原発関係の科学者がほとんど御用学者になったのはそのためだという。理系と文系とか分かれて論議されるが文系が支配しているからこうなったとかとも理系の人は言う。理系と文系が何のかこれまた良くわからないが研究者は理系である。現代のように科学技術社会になれば理系が支配者になるのかと思ったが文系指導になっているのかとも思った。もちろん指導者になるのは理系の人もいる。どういうわけか民主党では首相になった人は鳩山でも管でも優秀な理系だった。でも原発事故ては何の力も発揮しなかった。つまり理系の指導者だから現代の指導に適しているとはならないのだろう。そもそも原発事故が起きてわかったことは原発というのは広範囲な総合的なものとして起こっていたのである。すでに理系が中心でもその原因を探れば社会の人的組織の問題であり狭い原子核だけを研究していることだけては治まりつかないものになっていたのである。


ただ明らかに現代社会の複雑なシステムのなかで起きたものでありその原因は理系の科学者だけのものではなかった。政治問題であり情報にしてもマスメデアの報道も責任かあった。そういう複合的社会全体の問題として原発事故が起きたのである。それは日本の戦争の敗北ともにていただから第二の敗戦とまげ言われたのである。マスメデアの責任というとき津波警報では狼少年になっていたという指摘もそうである。絶えず現代は情報洪水になっている。インターネットでさらに情報が無限大になり何が重要かもからなくなっている。情報を自主的に選択しようにもできない状態、情報のカオスにもなっている。


今までは何が重要かはマスメデアが決めていた。マスメデアに出れば大勢の人にしられるだけであたかも重要人物のようにされる。アナウンサーは本来なにか重要な人物ではないただニュースを伝えるだけのものである。でもアナウサーが主役になっている。それはテレビというメデアが媒体がそうさせてきたのである。朝にテレビのニュースを見るから自ずとアナウサーが全面にでてきてあれやこれやその中心になっている。ただ事実を伝えるだけの違う,必ずなにかにやと批評して色をつけるからその色をつけたものが頭に刷り込まれるのである。そういうことは常にテレビでは行われてきた。ただ大衆は面白いものわかやすいものでないと見ないからその原因は大衆にもあったのである。実際にテレビ局では馬鹿な大衆をいかに操作するかそれが俺たちの仕事だとまで言っている。


●情報洪水社会で情報を的確に処理できなくなったのも原因


だから地震にしても津浪にしても今回その伝え方が問題になった。それ以上にそもそもがマスメデアがもっている問題があった。気象庁でも常に予報を出しているがそうした地震情報とか津浪情報に慣れていてかえって軽く見てしまった。また地震か津浪も来るにしてもそんてものかと避難しなかったのである。それは結局情報時代は常に情報の洪水にあり何が重要なのかどう判断するのかそうした自主性が大衆に欠けているからそうなる。

情報の洪水という時、ある情報が次から次と流れているともう情報の稀少性が喪失する。毎日起きる事件の報道がそうである。事件ばかり報道していると事件の起きることに麻痺してしまい驚くこともない、それが津浪にも波及していた。常に報道されることだからまたかというふうになり軽くみてしまう。情報が多くなりすぎて無関心化しているということもある。情報はいろいろな番組があってもその人自身の興味や経験で深くコンタクトしないと情報の価値がでてこないのである。例えば松本城の紹介で松姫が持ち歩いたという道中お守り筒に興味をもった。なぜか旅が長いから江戸時代の旅に興味がりなるほど江戸時代の旅は苦労が多いからあのようなものをお守りとしてもって旅していたことに共感したのである。あんな大きなものだったということが今のお守りは違って旅するにもいかに苦労が多いからとそれをみれば一目瞭然になる。そういうふうにして昔の残された物から想像力を働かせてゆくことで歴史に興味を覚える。松姫が24歳で死んだのもあわれだともなる。そこには松本城には様々なストーリーが編まれているのだ。松本城もまた耐震性建築では優れていたというのもやはり日本の匠の技がそこにあったのである。


文系でも科学に原発でも何らかタッチする方法があったのかもしれない、ただ安全神話が作られてアンタッチャブルなってしまった。その安全神話を作ったのは御用学者だけではない、戦争の時のように大本営発表の権力構造が作られていてそうなった。だから第二の敗戦と言われたのである。ただ戦争の時のように原発は華々しいものではなく周到に隠されてそうした神話は作られてしまったのである。事故は起こらないは日本は戦争には負けない、神の国だから負けないという傲慢と同じだったのである。それが津浪で打ち砕かれたのである。何より日本が地震国であり津浪国だということすら日本人が自覚していなかった。だからこそ安易に原発を導入したのである。それは科学者の責任でもあったが科学者が非力だったとすると政治や官僚やマスメデアとかそうした社会構造の権力にも由来していた。

そこで見直されたのは実に広範囲なものでありとても科学者だけが責任あったというものでもなかった。社会構造そのものが原発事故を引き起こしたともなる。明らかに原発を誘致した側の地元にもあった。その原因はすべてが利をも求め自らの欲望しか眼中にない、東電から電事連から広告代でも高くむしとりればいいとかマスメデアでなっていた。それは科学技術社会になれば必然的に起こるものだったともなる。
でも科学時代を指導するものはやはりその権力をもった人たちである。権力が独占される暴走することが必ず悲劇を生むのである。科学技術も今や制御できない巨大な権力でありその権力に蹂躙されてしまう。だから人間は科学技術と心中するとまでなってしまう。
原発は外国に売るためにはやめられない、原発と心中するのだとまでなってしまう。


島村英紀氏のホームページ
http://shima3.fc2web.com/

ここでだいたいの要点は読めていた。本だと1500円で高かった。でも本は全体の要点を読むにはいい、ネットはこまぎれになりやすく要旨がとらえにくいのである。
posted by 老鶯 at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

秋雨の情緒(今年の気候は変則的だ)



秋雨の情緒(今年の気候は変則的だ)

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庭広く舞いつつ去りぬ秋の調
二羽舞いぬ小雨にぬれつ秋の蝶
言い残すことなおあれや残る虫
秋雨にぬれて烏や里に住む
秋雨に鴨も雀も吾もぬれる


窓の辺にしばらくあれば一二枚木の葉の散りて雨しととふる

庭広く大きな石の一つかな秋雨しとと心鎮まる
秋の薔薇三輪残り吾が町の駅の淋しく雨しととふる

雨しとと石にふるかも山茶花の白き一輪咲き開くかな

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普通秋雨というと9月だけと今年は梅雨が8月まで長くつづきそのあと秋になったのかと思った。でも一時お盆が過ぎても暑かった。9月も暑い時があった。そして10月まで台風がきた。何か温暖化で今年は今までになく変則的なのである。
だから今は秋雨なのかと思う。そんなに強い雨ではない、しとしとふっているからだ。

烏が一羽電線にとまり雨にぬれながらとまっている。そういう姿はいつもみている。すると烏に人間も共感する。雨にぬれて買い物にゆく途中で見るから余計にそうなる。
人間と同じように烏も同じ里に故郷に住んでいると感じる。
都会ではそういう感覚がなくなる。自然の生き物でもそうは感じない、故郷の同じ一員のようには感じないのである。


石にもいろいろな個性がある。その個性に気付かないのだ。石の形もあり大きさもある。自分がみていたのは隣の大きな石なのである。形が平べったく隠れてある。隣の庭は広いから自分の部屋から見える。するとその石を意識するのである。自分の家の庭でなくてもいつも見ているものは心に深く知らずと記憶されているのだ。

石でも樹でも長く見ていると人間は自然の事物と一体化する。そういうふうに人間も自然の一端にあるのだから自ずとそうなってゆく。ただ自然はどこにでもあり故郷にだけあるのというのではない、ただ長くいるとどこであれ自然と一体化してゆくのである。
啄木があれだけ故郷を思ったのは東京という大都会にいて自然にふられることがなかったからである。もし自然豊かな所にいたらその自然に共感していたのである。

それでもあれだけ故郷を思うということは感性がよほど豊かだったのだろう。
なぜあれだけ感性が豊かだったのか普通では考えられない、感性は実際は長い年月で作られていたのである。あんなに若くてあれだけの感性をもっていたことか不思議なのである。感性というのも訓練であったのが自分だったからである。

今は冬も近くなっている。でも台風が来ているから秋である。確かに晩秋という感じがしない、秋深むという感じもしない、でも木の葉散りはじめている。それでも秋深むという感覚になれないのが今年である。

庭は一つの自然であり金持ちの家でも隣に大きな庭があると自然を感じるのだ。
豪邸には妬みが起きるが自然はかえって恩恵を与える。隣が大邸宅でも森のうよになっていたら都会でもそこが自然になるのだ。それが自然の不思議さである。

2013年10月26日

飯館村佐須の乳神の碑から現代を考える (牛乳がない時代は乳が頼り)



飯館村佐須の乳神の碑から現代を考える

(牛乳がない時代は乳が頼り)


●乳神の碑の伝説


(耕野の名所・旧跡と伝説より抜粋)

旧丸森西中学校の近くに、石に乳が彫られた「乳神」という石碑があります。
「丸森町史」にも載っていますが詳しい場所まで記されておりません。
http://zuiunzi.net/igu/dousozin/titi.html

「大正年間に建立、県道角田線字羽抜の八雲社内にある。明治大正年間のころ、子供を産んでも乳が不足だったり、出なかったり、又乳房の病気にもなり困っているお母さんたちがいたので、同部落の一條利吉という人が、妻の胸を見ながら刻み乳神を祀った。
http://zuiunzi.net/igu/dousozin/titi.html

老杉の根方に小さな泉があり、堂の中に姥神の石像を安置してある。用明天皇の妃玉依姫が下紐石の上でお産をした時乳の出がわるかったが、神託でこの泉を発見し飲んだところ乳が出たという。乳母神像の乳房を削り取って粉にして御飯に炊き込むと産婦の乳が出て、嬰児も丈夫になるという。お礼参りに奉納する縫いぐるみの乳房が沢山堂にかかる。
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/C0410888-000.shtml

木の根本に上がるはしごが掛けられていますが景観を損ねるだけで必要だったのでしょうか。乳神様(金勢様)は、大きな岩の上に立つウッ コの大木に抱かれるようにしてある。子供が授からなかったり、お乳が出なかったりする女性が、子宝やお乳がた くさん出るよう祈願した。
http://p.tl/GQlv


ひとつ気がかりなのは…
おっぱいが張りにくくなってきたことだ…
このままおっぱいが出にくくなって
断乳、になるのだろうか。
不本意な断乳、悔しい。
昨晩は一応マグマグに母乳をしぼって置いてきたが
娘は飲んでくれたんだろうか。
よく寝ただろうか。


●牛乳のない時代は乳が頼りだった


乳神というと何を語っているのか?もともと人間は乳で育っていた。乳を飲まなければ子供は育てられないのが普通である。乳が出ないということは昔は相当な深刻なことだったろう。でも今は乳が出なくても何にも困らない、牛乳があこり牛乳が余って捨てているのが現実だし米だってあまって減反政策になっている。こういう時代だと乳のありがたみもうすれるしモノのありがたみも薄れる。もったいない・・・というのは戦前から戦後十年の時代感覚だった。今は膨大な食料でも捨てている。古いものは使わない、新しいものと買った方がいい時代になるとモノを大事にしない、そこで人はもはやモノを与えても何を与えてももらっても感謝しない時代になった。もらって当たり前でありそれ以上にたりないたりないと文句ばかり言っている。そしてついに盗んだ方がいいとなる。実際そういう人に犯罪にあった。もちろん現代はあらゆるものに金がかかるから金が欲しい欲しいというのはわかる。格差社会でもありその格差が大きいのも問題である。でも人間があまりにも金、金、金・・となったときモラルが崩壊していたのだ。


このところの自分の問題もあまりにも金ばかり要求してくる。お前は金を出せばいいんだ、あとは用はないとまでなっている。それは現代の風潮であり自分だけに起こったことではない。なぜなら親子の間でも求めるものは金だけになり金のない親は相手にされないとかまでなっている。現代の生活で金を否定はできない、ただその金を求めることが限りなくモラルの荒廃が起きた。原発事故でも原発が金のなる木だから地元でも積極的に誘致したのである。原発に政治家でも官僚でもマスコミでもそこが金になるということで賛成して促進させた。原発事故の原因はいろいろあるにしてもやはり何か根底にはモラルの荒廃も関係していた。津浪でも必ず誰かが悪い人がいてそのひとか津浪の原因だったと伝説で残されている。そういうパターンがあり自分もそういう経験したからそう思った。

人間のモラルが荒廃する時、自然からでも人間からでも災いが生まれてくるという思想は人間の歴史がはじまって以来常にあったのである。

乳神のことだけど飯館村の佐須に行った時、一軒家の畑に小さな「乳神の碑」があった。その家は辺鄙な所の一軒屋だった。それで乳神とは何だろうと思った。キーワードで調べるとそれなりにある。丸森町にあるのは大正時代だから新しい、江戸時代からあったし
乳がでないというこはやはり深刻な問題だった。例えば聞いた話では同じ世代の人が
自分は親戚の人の乳で育ったという、兄弟が多く母親が乳が出なくなったのだろう。
乳が出なければ戦後でもそうなったということである。つまりその頃牛乳がさほど普及していないしモノ不足だったのである。それで自分も牛乳を得るために自分の父親が並んで買っていたという話を聞いた。ともかく戦後十年は焼け野原から出発したのだからモノが何にもない時代だった。小さな飯台が一つあるくらいの質素なものだった。それは一般的に共通した生活だった。だからまさに乳もないという時代だったのである。
乳が出なければ誰かの乳をもらうほかないとなる。そういうことは江戸時代から人間がはじまって以来されていたことである。貴族でも武家でも乳母がいたのはそのためである。ただそれは乳が出ないというのではなく家来との絆を深めるためにあえてまかせていたのである。なぜなら乳を子供にやるということはその子供が自分の子供のように思えてくる、愛情をもつようになる。するとその家に仕える気持か違ってくるのだ。


●飯館村の大倉と佐須


大倉と佐須は山の中の辺鄙な村であり大倉から佐須は結構離れている。不思議なのはなぜ明治になって大倉と佐須は民情が違うから合併しなかったという。おそらく大倉と佐須は江戸時代でもそんなに交流がなかったのだろう。それは日本の村は複雑であり村と村が仲良くしていない、隣り合う村でも利害の対立があり敵対していたという、それは水の配分などでもめたり何か資源をめぐって争いもあった。狭い土地に住むとそういうことが起こりうる。狭いと資源がないと貧乏だと互いに姑息になるということがある。日本人はウチとソトを分けるという時、そうした村の狭い地域での生活が影響していたのである。
それを可能にしたのが狭い地域でも自給自足であり隣の村でも頼らないで生活していたからである。だから佐須のような大倉のような狭い地域で自給自足できたことが今になるとなかなかイメージしにくくなっているのだ。佐須と大倉は山の中であり田んぼなども少しあるだけである。佐須はもともと焼き畑の意味だった。飯館村には草野辺りとか飯樋町・・・辺りだと広い田んぼがあり飯館村は山だけではない全体では広い地域であり米も相当とれていたのである。

飯館村と原発はほとんど関係なかった。までいな生活の村という時、そこは原発の恩恵はない村だった。それか不運にも風の影響で放射能の村になってしまったのである。
飯館村ではその時牛の村にもなっていた。飯館牛は有名だった。牛乳もふんだんにある。ただおそらくその乳神の碑は明治以降か大正以降か昭和の戦前のものだろう。丸森町で乳神の碑を大正時代に建てたということで想像がつく、それから飯館村でも相当に戦後でも開拓に入った人たちがいた。浪江の津島も戦後、復員した人などが開拓に入りそれで協力したから村のつながりが強いというのもわかる。だから飯館村でも意外と辺鄙な所は戦後開拓に入った人たちが結構多いのである。ただ一方で大倉は鎌倉時代から人が住んでいて古い。江戸時代からの歴史かある。飯館村は相馬藩の山中郷になったとき人口も増えていった。相馬藩の郷士が役人として農民として入ってきた。塩の道で二本松に塩を運んでいたから塩を管理する役人が60人とか住んでいた。それも多いと思うけどそれだけ塩の役割が大きかったのである。乳であり塩であれそうした物の大切が失われた時代には昔を偲ぶ事がまた必要なのである。

大倉を越えて佐須かな春の日や行合道に我がい出むかな


残雪の吾妻峰仰ぐ佐須をすぎ行合道に我はい出にき


鹿島より佐須は遠しも何かあれ畑に一つ乳神の碑

真野川の源遠く佐須なりき山津見神社ここに古りにき

真野川の流れに佐須と大倉は結ばれにしや春の日暮れぬ

http://musubu.sblo.jp/article/27979058.html

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これ建てた人の名前は書いてあるがよくわからない
隣の祠はもっと古いものだろう
そこに新しく碑を建てた



佐須というとむしろ霊山の方が交通としては近いから行合道とは佐須の人たちが名付けたものなのだろうか?それでもあそこは坂が急だからそんなに簡単に出れないし交流もできない、つまり閉ざされた地域だった。山津見神社があるがあれも古い、狼を祭っているということは何かふさわしい。不思議なのは山津見という地名が松川浦の浦に面した所にあった。それが何を意味しているの。山津見神社はやはり海との交流がありそこに祭られたのかなぞである。ただお浜下りというのは春になると行われていた。大倉から車で下ってきたのである。それにしても飯館村とかがなくなるとそうした交流もなくなる。
今の時代、限界集落のような村はなくなった方がいいというけど飯館村がなくなることは相当な損失だろう。その村の価値は経済的効率からだけでは計れない、今になると放射能廃棄物の村とかいいイメージがなくなったのである。その放射能の廃棄物処理場にしてでも除染なとどしないで金でも一億でももらった方がいいというのも現実的な意見だった。
除染など誰のためにしているのか、会社のためにゼネコンのためにしているのか、大成建設が除染していたが放射能測定器の下の土をとって放射線量を低くしていたのである。

佐須では驚いたのは田んぼの畦道の泥がたまった所で20マイクロシーベルトがあるホットスポットがあったので驚いた。やはり高い所があると思った。ただ自分の近くでも南相馬市内でも樋の下は泥がたまりそこは10マイクロシーベルトとか高い。屋根には放射性物質がたまりそれが流されて泥にたまり高くなった。そしてセシウムは泥になって流されると予想して田か実はセシウムの濃度は変わらなかったと科学者が言っている。すると真野川のダムの下の泥には相当なセシウムがたまっている。それば泥とって流れだしていないのである。するとその水を飲むと安全なのかという心配かある。汚染水になっていないかという心配である。こういうことを指摘している人はいない、飲み水はみんな心配しているからである。飯館村は一見南相馬市と関係していないようで密接に関係している。
水の問題でもそうだし放射性廃棄物が埋められてもそれが地下水にしみだしてくるから流れてくることがある。だから果たして放射性廃棄物処理場にしていいのかとなる。
飯館村だけの問題ではない、その観点もぬけているのである。

飯館村暮らしも絶えむ佐須にある乳神の碑思う秋のくれ

ともかく今や人が住んでいないとしたらどうなるのか?そこを思うことすらできなくなる。ただまだ人の住むと違ってくる。
ただそこに江戸時代から人が住んでいたということは簡単にその記憶も消えるとはおもえないのである
posted by 老鶯 at 14:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2013年10月27日

病気と貧乏の戦いの歴史 (結核で死んだのパリでも同じだった)


病気と貧乏の戦いの歴史

(結核で死んだのパリでも同じだった)

●昔はパリも日本と同じく貧乏だった

E. シュー『パリの秘密』に登場する人物のなかに,ラ・ロレーヌとジ
ャンヌ・デュポールというふたりの若い娘がいる。ラ・ロレーヌは洗濯婦, フサ
ジャンヌはカーテンの総を造る女工だったが,ともに過労と栄養失調など
が因で肺癆を病み,喀血をくり返し,やせ衰え余命いくばくもない。


先生,番号1は今朝4時半に死にました。
―そんなに遅く?驚いたね。昨日の朝,一日はもつまいと思っていたが。遺体を
誰かひきとると云ってきたかね。
―いいえ,先生。
―そりゃよかった。美しい死体だ,誰か解剖する者はいないかな。そうだ,誰か
を喜ばせてあげよう。(そこで医師は後に続いている学生の一人に向かって)
親愛なるデュノワイエくん,ずっと君は遺体を望んでいたね,君が最初に登
録したのだから,この遺体は君にあげよう。
―あぁ,先生,なんというご厚情でしょう。
―私は君の熱心さに何かご褒美をあげようと,いつも考えていたんだ。遺体にき
ちんとマークをつけて,確保しておきなさい。奪い合いになるとずる賢い輩が
多いからね。(と云って医師は別の場所に移動した)。
学生は,医師に云われたように,遺体を確保するために女優の遺体の腕に,メスで
F と D (François Dunoyer) の文字を精密に刻んだ。[Sue, 1843, p814]


19世紀パリの病院は病気の研究と医師養成の機関であり,病人はその
ための素材であった。ことに無料で入院している各種患者は,さまざまな
治療の実験台であり,また死亡すれば病理解剖の素材として医学の進歩に
貢献させられた

フランスにおける結核流行と公衆衛生(大森弘喜)
http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/181/181-oomori.pdf

病院のことを入院して書いたけど病院は次々に死ぬ場所だから死がめずらしい場所でないから今も変わりない、病院は死体処理場のようになっている。これだけ豊かになり設備も整っても病院そのものの体質は変わっていなかった。
病院は人間の死にたいしては無関心なのである。病気を直す治療したりする場であり人間の死を看取る場所ではない、だからもののように死んだら早くかたづけてくださいとなるだけである。家族だったら死をいたむということがあるが病院ではないのである。
病院は何か無機質な場所なのである。


その総死亡に対する割合はパリが12−14%,ロンドンが15−16% で,逆にロンドンの方が数%高い


肺病と肺炎で死んだ人が一番多いのだ。だからパリだというと華やかに見えるが実情は日本の戦前とかの貧乏時代と変わりなかったのである。人間の歴史は世界的に共通していることがかなたある。


ラ・ロレーヌは洗濯婦, フサジャンヌはカーテンの総を造る女工だったが,ともに過労と栄養失調などが因で肺癆を病み,喀血をくり返し,やせ衰え余命いくばくもない。


この洗濯婦はインドだけでなくパリにも多かった。なぜならセーヌ川で洗濯している女性の集団の絵は洗濯婦だったのか?洗濯が大きな仕事をしめていた時代があった。
カーテンの総を造る女工だったというときやはり製糸工場で働いていた戦前の女性と同じだった。洗濯が仕事という時、女中が女性の主な仕事となっていたのも同じである。
自分の母親はこの二つを仕事にしていた。今でもたいがいこの辺では女性が福相に勤めていることでもわかる。これは近代化しても着るものの需要があるから女性の働き場となっている。人間の歴史は貧乏と病気と戦争の悲惨な面が常にどこでもあった。
それは日本だけではない世界の歴史でもあったのだ。ただ歴史だと宮廷の華やかな場面とかばかり出てくるから錯覚しているのだ。パリのベルサイユ宮殿など観光に行くとパリは華やかだったな錯覚しているのだ。現実の世界はまるで違っていたのである。
だからこそフランス革命などが起きたということを実感する。貴族と庶民の生活がかけ離れていたから庶民から革命が起きた。日本では武士といっても貧乏だから庶民とたいして変わらないとなるとそうした階級闘争は起きないのである。


●肺病で死んだ文学者が多すぎる

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病人ばかりでは二階暮らしも不便で、啄木一家は小石川久堅町に移り住む。
移るとまず母が死亡。
重症の身を押して母のなきがらを送り出した失意の啄木は、気力をふるいおこし、未刊の歌稿の出版を土岐哀果に頼み、あとを追うように一ヵ月遅れて、明治四五年四月十三日、永眠した。
二七歳の若さだった。

結核はまるで「死に神」のように啄木の家族に取りつき,彼の母も,妻も発病した。まず1912(明治45)年3月母親が痼疾の肺結核で没し,後を追うように,啄木も翌4月に波乱に富んだ生涯を閉じた。27歳という若さだった。妻節子も翌年同じく肺癆で斃
れた。

肺病というと実家の墓に25歳で死亡という一字だけ刻まれた文字がいつも見るので意識する。肺病で死んだのである。別に啄木でなくてもそれは珍しいものではない、多くの人が肺病で死んだ。特に若い人が死んだし文学者がこれほど死んだことも驚きである。
正岡子規は有名だけど肺病と戦うことが人生だった。若い時肺病になり半分肺をとった人も知っている。


悪くなっているところは狭い間でとおっしゃった。それがだんだひろがって一方の肺破壊してしまい、さらに進んで他の一方の肺を破壊してしまわねば死なれないのでしょう。


森鴎外も若い時肺病にかかってこんな言葉を残していたのである。

その人は一生障害者で終わっている。何であれ病気になることは一番悲惨である。だから創価などでもカルトに入る人は病気の人がかなり多いのである。
今でもガンであれ直らない病気があり病気は一番怖いものなのである。
自分の母親は原紡で十年働いていたけど病気にならなかった。肺病にならなかった。体が細いし体力ないから病気にならないのが不思議に思えた。栄養だって味噌汁とタクワンだけでありまともにとっていなかったからだ。そういう人が戦前には多い。
江戸時代は栄養不足で一割近くが盲人になっていた。これも悲惨だったのである。
戦前は肺病の重圧があり戦争中は戦争の重圧がった。これらは相当な重荷であり呻吟したのである。現代は鬱病の時代でありこれも時代を反映している。でも昔と比べるとどうなのか、やはり戦前の方が過酷だったろう。若死にする人は今はまれであるからだ。
平均的には健康で長生きしているのだ。そこにもいろいろ問題があっても恵まれた時代となる。



せいし 0 【製糸】 - goo 辞書

繭を煮て糸を繰り、数本集めて一本の糸にする工程。
「―業」
→ぼうせき ばう― 0 【紡績】 - goo 辞書

1)短い繊維を平行に並べ、引き伸ばして撚(よ)りをかけ、一本の糸にすること。
「鉱山を開掘し綿毛を―する等…/露団々(露伴)」
(2)「紡績糸」の略。


紡績と製糸工場
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20051029/p2



原町紡績工場というのは紡績だったとするとどうだったのか?糸取り仕事だったというがこれは製糸だったのかな、紡績に勤めていた人が圧倒的に肺病になった女性が多い。
すると製糸の方で働いて肺病にならなかったのかよくわからない、ただ体が弱い方だから肺病にならないのが不思議に思ったのである。

実家では25歳で死んだ人がいたが母にもその他の兄弟にも伝染しなかった。啄木の一家は母も妻も伝染してたとなると悲惨だった。自分も病気になり家族も病気になったりしたら悲惨である。実際を自分もにた経験をこの六年間してきたのだ。自分が病気になり介護しなければならなかった。重い病気ではないにしろ病人が障害者が病人の世話するとなるとその重圧は大きい。健康であればなんとかのりきれるが金があっても健康でないとのりきるのは苦しくなる。それだけ悲惨な状態で短歌を残して死んだのである。

だから文学といってもやはりこれらの文学は病的なのである。病人になったら健康的な文学にはならない、病んで文学である。その病んだ文学の方がもてはやされる。健康でも病んだ方がいいとされたこともあった。文学はそういうものだということはこれだけの人が若くして肺病で死んだことが影響ししていたのである。今はそういうことはないから健康的な文学が生まれてもいいが今も病的なものが文学だとかされている。それを上野霄里氏などが激烈に批判した。今は「心の青雲」のプログの著者が批判している。その人も腎臓の病気になっているのに病んではいないのも不思議である。空手の師範だから病弱な文学者とは違っている。


●病気も貧乏も現代も継続している問題


人間の歴史は明らかに貧乏と病気の戦いの歴史でもあった。それは今でも継続している。貧乏の戦いは戦前と比べればないようなものだがやはり格差社会とか新し貧乏時代になっている。貧乏が格差がなくなることはこの世にはないように思う。それはどんなに豊かになってもみんなが金持ちになることはない、貧乏人は必ずいる。その貧乏人でも昔からしたら食べ物でも贅沢しているのだ。卵も食えない時代のことを書いたが今は誰でも卵くらいは食べているからである。現代の問題はまた別な所にある。
人間は今だけではない必ず歴史的経過をたどって今を考える必要が常にあるのだ。
病気の問題でも過去と対比して現代を考えるのである。

これだけ豊かなのに金が欲しい欲しいと心が歪んだ人がいかに多いか?

一人は犯罪者になり一人は自分を脅迫してきた。それなりに国から保護されて金はもらい補償されているのちたりないたりないと金ばかりを要求してくる。身の丈にあった生活をせず大きな借金をしていた人もいた。確かに金がなければ今の時代にあった生活ができないというのも確かなのである。それだけのものをそろえる金がないと貧乏だとなってしまうのが現代である。高齢化で高齢者の貧乏人が増加の一途なのである。
老人はたんまり金をもっている貯金しているというのも事実だけとそれも数パーセントなのである。貧乏な老人の方が圧倒的に増えているしその人たちはたいして年金ももらえないからそうなっている。それで60歳以上の人の生活保護が増えているのだ。これからもそうした人たちが増加の一途なのである。

ただそうした豊かな中の貧乏で心が歪んでモラルもなくなっているのが現代である。
原発事故だってそういう風潮が関係していたのである。豊かになるためには原発を積極的に地元の人が誘致したのである。

ともかく人間にとって病気ほど恐ろしいものはない、それは死に直結しているし病気になるともう自立できなくなる。家族が肺病で次々に倒れて死んだというのはやはり伝染病だった。肺病の人は蔵に隔離されて看病されたとかある。蔵は今でもあるが蔵は隔離する場所としてはいい場所だったのである。


いづれにしろ大正生まれとか戦前生まれとかはこうした極端な貧乏を経験しているし戦争も経験している。その重圧は今とは比較にならないだろう。今は貧乏でも違った貧乏なのである。贅沢な貧乏ともなる。こういう歴史をふりかえると自分などは相当恵まれていた。体が弱くてもこれまで生きられたのは一重無理をしなかったからである。まず自分は学校でもわがままだから適応できなかったし勤め人にはなれなかった。一日机に座っているのか耐えられないのである。だから旅ばかりしていたのとなる。勤め人になっていたらこんなことはできない。体を無理すると必ず60以降に何らかの影響がでてくる。疲れてもゆっくり休めるなら意外と病気になりにくいのである。

こうして自分は啄木と比べたらまるで才能がなかったのだか今になると啄木のように短歌でもすらすらできるのが我ながら不思議である。凡人でも時間をかけると才能が開花するということがあるのだ。ただ大器晩成というのは嘘である。大器が晩成するのではない、凡人でも長く探求しているものは晩年になると実る開花するということである。

それは雑学類でもそうである。一見雑学なんかなになるのだというが雑学でもやはりそこに何かしらの知識がありそれも哲学的なのもとして深いものとして応用できるものとなるのだ。結局学問とはむずかしい本を読むことではない、哲学など別に庶民が残した諺のなかにもふんだんにある。庶民の残した民俗、昔話や伝説などにもいくらでもあるのだ。
ただ発見されていないだけなのである。老人になるといろんな面で見る目が備わってくるのである。だから何か平凡なものでも意味あるものとして深いものとして見るようになるのである。

人間の歴史はなにかというとそれは犠牲の歴史でもあったとなる。結核は今では直っているけど直らない時代があった。様々な病気でも昔も今も直らない病気がある。それで犠牲になる。戦争で300万死んだというのもその是非はともかく犠牲だった。マルスの神に生贄として捧げられたともなる。それは過ちであってもやはり犠牲にされたのである。カルト宗教団体でも同じである。人生を青春をだいなしにさせられたりするのと同じである。過ちの犠牲になる数も莫大なのである。災害でも犠牲になった人が数限りなくいる。津浪などはその犠牲がいかされなかったのである。今回の大島の土砂崩れでもそうである。犠牲になった人たちがいてまたその予防が検討されることになるのだ
人間の歴史はとにかく無数の犠牲の歴史でもある。そういう犠牲の上に成り立っている自覚が必要である。

何か才能が花開くとしてもそういう犠牲の上に才能も開くのである。
つまり才能てもそれだけの環境が整わないと開花しないのだ。
音楽にしてもピアノでも広い家がないと置けないし防音装置も必要だしとそれなりの家がないととても練習もできない、だからピアノは貧しい家では無理だろう。
電子楽器くらいは楽しめるだろうが本格的なピアノは無理である。

旅行でもそれだけの暇が与えられなけさばできない、旅は遊びではない、旅は旅に集中する必要がある。旅で見るべきものを見ることは相当にむずかしいのだ。団体旅行などでは見るよりも料理を楽しむことになっているわかるのだ。
ただ若くして死に直面したことが若くても深い文学を創造できたことがある。現代はそうしうた死と真剣に向かい合うこと長寿社会で遅くなりすぎたのでかえっていい文学が生まれないということがある。何か緩慢として緊張感がないものとなっているのだ。
ただ今回の津浪原発事故はあたえない無常か現実となったから日々驚きの世界となってしまったのである。

 

2013年10月28日

晩菊(今年は秋が短い)


晩菊(今年は秋が短い)

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晩菊や社の残る津浪跡

山茶花やここになお残るレストラン

日々通る墓地には花のみな枯れぬ我はとりかえぬ秋の朝かな


雨風に残る野菊を道の辺に今日我が摘みて壺に挿すかな


御刀(みと)神社は古代にさかのぼるから相当に古い。神社の問題は位置にあった。それが津浪で証明された。なぜあそこにあのか?あそこまで津浪か来たが辛うじて
その後ろの家は残った。あの林に漂流物がぶつかりさえぎられたかららしい。
それと海老に行く方に坂がありその坂も影響したというのは不思議だった。
海老の方から高い津浪が来たという、平坦の方はそれほど高い津浪ではなかったのか?
津浪の一様の高さで来ていない、複雑に変化していたのである。


あそこから海の方は家がなくなった。あそこは古代は湿地帯か海になっていたのだろう。その位置を問題にすればそうなる。海老村には江戸時代の神社しかないからだ。
神社で問題なのはその位置と年代だった。年代が不明なのが結構多いのである。
この御刀神社は古代にさかのほるから鹿島区では相当に古いことはわかっている。
八龍神社は多いのだけどわかりにくい、神社は謎が多いのだ。


今年は秋が短いというときそうてのだろう。夏が長かった。そして冬がすぐに来るという、これも何か変則的である。晩秋とかの感覚がなくなる。一応晩菊としたが秋が短いから何かあわなくなっている。秋が長ければ秋の終わりで晩菊になる。その季節感が今年はない。

いつも通る自分の墓のある墓地の花はみな枯れていた。その枯れたままになっているのがなんか嫌な感じがするのだ。プログで墓を一カ月一回くらいは掃除して花をさして先祖に感謝するとビジネスもうまくいうくいうことを書いていた人がいた。
確かにあのように花をかれたつまにしているのは良くない、でもなぜそうなっているかというと意外と地元の人ばかりではない、何か遠くに離れた人が墓地の主になっている。
それでお盆にだけしか来ないという人も結構いるたいだ。だから墓も身近にないと手入れしたり花を代えたりできないのである。それ以上に墓の跡継ぎもなくて困っている人もいる。東京に子供が就職したりするとそうなる。墓はもう家族だけでは維持できないのが多くなっている。自分の墓もそうである。となると共同墓の方がいいとなる。
そうすれば誰かが掃除して花も代えてさしてくれる。一カ所に集めるからそういうことができる。家族だけの墓は大家族とかよほど恵まれていないともう維持できない時代になっている。


ただあそこも復興住宅が建つので何か墓地にはふさわしくなくなった。窮屈な感じになった。あそこは住宅地としては向いていないだろう。墓地をいつも前にしているのはいい感じがしないだろう。でも土地がないからどうにもならないのである。

今年の野の花は台風などかなり雨風に打たれた。それでもひっそりと野菊が咲いていたのでそれを壺にさして鑑賞した。生け花の基本は野の花を知ることなのだろう。
ただ外国の花だとそういう感覚はなくなる。雨風に打たれて咲いている花とは感じないのである。最近忙しくフラワアレンジメントのほうもあまりしていない。

結局家事が一仕事でありこれに追われているのが自分なのである。
ただ家事がべつに無駄な仕事ではない、家事から学ぶことはある。
人間はともかく人の世話をしてみないと社会のこともわからないのだ。
介護ということは人の世話をすることである。すると毎日食事を用意して出すことになる。そこに人の労力が加わる。
「自分が苦労して作り出している、なのに感謝もしない、うまいと食べてくれない」
とか何かそういうことになってしまう。食べ物を残したりされると嫌になる。
せっかく作ったのになぜ残すのかとかなる。

つまり介護とか病人の看護には必ず世話する人が必要になるから世話する人から見るとそういう感覚になっているのだ。

それは世話する人与える人は実は自然界でもありそれが神であり神がやはり与えているのになぜ感謝しないのだろうかと神は思っている。食料は人間の労働からだけではもたらされない、光であれ水であれ土の栄養であれもともと神が作り人間に与えたものなのである。それを無駄にしたり感謝しないと神が怒るということもある。

原発事故には多分にそういうことがあった。全く自然に対して感謝の気持がなくなっていたのである。工業化した社会は自然には感謝しない、科学技術の恩恵のみ利益のみになり自然はないがしろにされていたのだ。原発は特別恩恵をもたらすから原発か事故が起きなければ神にもなっていたのである。そのことに神が怒ったともなる。
看護師は患者が感謝していから殺したという事件があった。これも突飛なことにみえるけど現実に看病したり介護しているとなんだこいつは何も感謝しないと怒りになる。
それが極端になると殺人になった。自然は津浪になったとかなる。
与える方からするとそうなってしまうのである。

江戸時代辺りまではそういうことが祭りなどでしてきた。
自然への畏れがあり祭りとなっていた。祈りとなっていた。
それが科学技術の社会になった時、科学技術が実りをもたらすものであり
科学技術が恩恵をもたらすのであり自然ではないとなってしまった。
だからそうした昔の海とか山の神への畏れとか信仰はなくなった。
そんなものは現代的ではないと否定された。
でもそれが古いとしてすべて否定されていいのか?
科学技術万能社会への疑問が前らかあった。
津浪とか原発事故はそういうことも関係していたのである。


この辺は一つのテーマが残るということになった。津波で残った癒えか残り谷(家)となったように
よく残ったなとか故郷から若い人たちが流出してゆくとき残ってくれとか残ることが価値あることになった。
近くのパスタのレストランは自分は一回も入っていない、パスタはほとんど食べないし。
でも山茶花が咲いていてこのレストランは残っているなとなる。
今は外部から入っている人がいるからそれなりに成り立っているのかもしれない、
ただ残って今もやっているなというのをこの辺では当たり前ではないものになってしまった。
残っているだけで見直されるということがあるようになった。
 

2013年10月30日

秋の光−鴨 (俳句は写生でも背景を読まないと鑑賞できない)


秋の光−鴨

(俳句は写生でも背景を読まないと鑑賞できない)

鴨数羽秋の光に橋の下


一二羽と大きな庭に秋の蝶舞入りにつつ田舎静けし


毎日買い物で橋を通る、すると必ず橋の下に鴨が数匹浮いている。なんでもない風景だけど人間は自然であれ橋であれ道路であれ一体化してゆく、これも写生俳句そのものである。ただ日々の事実を俳句にしただけである。ただ感じたのは秋の光である。
鴨は冬の季語でも秋から鴨はいるからまぎらわしい。
写生俳句は日常のありのままをそのまま表現ふることである。
ただ写生俳句はその人の日頃の生活とかを読まないと鑑賞できない
この俳句はなにがいいんだと常になるのだ。
あまりにも日常的でありどこに深い意味があるからわからないのだ。

それはこの辺で起きて津浪という大きな異変の後に俳句や短歌にした。
つまりこの辺では津浪という激変を常に考慮しないと俳句でもわからないとなる。
御刀神社にしてもあそこが津浪で残ってということが大きな意味あるものとなった。
今まではあの神社は別にそんなふうには見ていないからだ。
だから写生でもそれだけ違ったものとなったのである。

ところどころ沼になったりまるで変化したことは写生でも驚きの世界となってしまったのである。

ともかく写生という時、奇をてらうようなことはしてはせいけない、空想で作り出してはいけない、そこが詩と違っている。だから何か平凡に見えてこれがどこが芸術なのかとなってうまう。でも橋の下というとき自分は毎日買い物に通う道でありその橋の下にいつも鴨がいるということ鴨と自分がそこで一体化しているのである。
そして秋の光がその鴨にさしている。そこに深いなごみを感じたのである。

雁は秋の季語だけで雁は何か列なして飛んでゆくのをイメージしている。
でも鴨はいつも水に浮いて同じ場所にいる。あまり飛ぶイメージがないのである。
何かいつも仲間と一緒にいて離れないという感じになる。


雪の暮鴫はもどって居るような 蕪村


この句は鴫だけど鴫はあんまり今はみかけない、くちばしが曲がって大きなのを津浪の跡の沼で見た。ただ鴫が沼に浮いているような風景は見なくなっている。
鴫そのものが見えないから鴫はなじみがない。

ただ鴨はなじみ深いのである。鴨は冬の季語でも秋でもいつもいるから秋にもふさわしいのだ。するともどっていそうなというとき何かいつも鴫をそこで見ていたのである。
たとえ飛び去っていまはいなくてももどっているように見えた。

俳句はこういうものでも深く読まない限り鑑賞できない、鴫を人間に例えるとそこにいつも見ていたものだからまたもどっているように思えた。
それはよほどこの鴫を見ていない限りそんなふうには見ないだろう。
相当にその鴫となじんでいたのである。
そういう時間感覚は江戸時代である。江戸時代の俳句でも鑑賞するには江戸時代の時間感覚とかに入らないとできない、江戸時代の時間感覚は今とはかなり違っているからだ。


蕪村が炉端の俳人で一カ所に留まって動かない人だった。そういうときこれもある所に動かないで長くいて鴫を見ているからできた句なのである。
現代はなかなか一カ所にいるというより目まぐるしく人でも何でも変わる。
まず江戸時代は変わらないのが原則なのである。
村でもそうだし江戸の長屋でも一生同じ長屋にいたのである。そこがなかなか理解しにくいのだ。これほど絶えず移動している時代には理解できない、アパートなんか絶えず移っているのが普通だからである。

現代は江戸時代の回帰が望まれているのだ。貧乏な江戸時代は嫌だというのはわかる。
ただそういうことではなく江戸時代的なもの、時間感覚でもスローペースの感覚である。その悠長な時間感覚が高齢化社会にはあっているのだ。

 

秋の虹(二両の電車と虹の写真がとれた)


秋の虹(二両の電車と虹の写真がとれた)

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今日も行く二両の電車や秋の虹


雨しとと朝しめやかに秋なれや午後に雷鳴り変わりやすきかな


今日一日でも変化あった。朝早く起きたらしとしと雨だった。でんでん虫がゆっくりと道をよぎっていた。今日はこんな天気かと思ってた。
ところが昼間ころまた地震があった。震度3だからそれなりの地震だった。
また最近地震がつづくから不安である。

午後になり2時過ぎて買い物に行ったら雷が鳴った。そして虹がかかった。
その時カメラをもっていたので二両の電車が行くところをとれた。

いい写真をとるにはカメラを常時もっていないととれない。まずカメラのスキルより
いい場面に出会えればいい写真になる。自然というのも絶えず変わっているからだ。
このカメラは光の感じが明るいからよりリアルにとれる。
カメラもいいものでないといい写真にはなれない。
今はいいカメラも安いからいい。


とにかく今年の天気は変わりやすい、これからも台風が来るとか温暖化していることもある。普通これまで秋雨というと9月ころの長雨でしとしとといつまでも降る感じだったが
今年は9月は熱く10月になり雨がつづいたり変則的なのである。

インターネットの面白さはこれまでにないリアルタイムの報告ができることである。
報告する方でも生に近い感じだと何か緊張感がある。
生とあとで編集したりするものは違っている。

それで朝まで生テレビは実際は収録して編集したものだったということで批判になった。地震でわかったのである。
テレビはそういうふうに一見生と見えても録画して編集したりといろいろ操作できるのである。それにだまされるのである。

いづれにしろプログとか他でもインターネットはリアルタイムになるとその面白さがあり効果がでてくるのだ。ただ同時間にみんな見ているわけではない、その日のうちに見ているならその臨場感がでてくる。

だから今回は虹をとれたので出した。
電車も偶然に来てとれたのである。
電車とか動いているものをとるのはむずかしい。
虹というのも簡単にはとれないが二回ほどすでにとっている。
たいがいこの辺では夕方ころに夕日とかによって虹が出やすい、山の方に虹がかかるのはなかなかない、
一回相馬市の病院で夕方山の方にかかった虹を見た。
やっぱり虹は何か縁起がいいものを感じる。

2013年10月31日

秋の太陽が昇る(写真を今撮ってきた)


秋の太陽が昇る(写真を今撮ってきた)

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みちのくや春にあらじもかがよいつ秋の真紅の旭昇りぬ
春は曙というとき、それは京都であり東山とか盆地の曙である。しかしこの曙と海に面したところの曙の感覚は相当に違っている。この曙は春ではない、秋でありこんな旭を見たことがない、空気の具合でこんなふうに見えた。

写真では秋なのか春なのか見分けがつかないことがある。太陽でも月でもそうである。

昨日の虹でも失敗したのは芒の繁っているところからとれば秋だとわかったのである。
今電車来るなと思って移動できなかったのである。
一刻一刻シャッターチャンスは消えてゆくのである。

旅しなくても写真になるものはあるが良く見ていないのだ。これは秋の真紅の太陽がふさわしいと思いみちのくにした。みちのくの秋の赤い輝きである。
これもリアルタイムだと臨場感がでてくる。それがインターネットの醍醐味なのである。生放送の魅力なのである。