2013年10月09日

浪江の請戸の地名はやはり請け負う土地だったのか? (漁業権から原発事故を考える)


浪江の請戸の地名はやはり請け負う土地だったのか?


(漁業権から原発事故を考える)


●請山は明確である


請山(うけやま)


寺社を含めた領主所有の山林を支配下の村や家臣・特定の個人などに一定期間貸与したもの。留木と称される領主が利用する有用樹を除いた雑木・下草を採取を認め、大体として銭米や薪炭を徴収したり、有用樹の植栽・保護・管理義務を行わせた。また、有用樹であっても領主の許可を得て一定価格で払い下げられる場合もあった。

入会地である山林を持つ村が、それを持たない村に対して一定の条件(期限・採取量・料金)の下に入会としての利用を認めること。通常、一定の期限が定められた山林を請山と称し、期限を定めないものは卸山(おろしやま)もしくは定請山・永請山と称した。
山の所有者が業者に対して一定の期間とその期間に納めるべき運上額を定めて経営を請負わせること。材木業者の山林伐採や鉱山師の鉱山経営などがその典型例で、請負山・運上山とも称した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8B%E5%B1%B1


労働者の家の回りの畑など私作させた外に、谷の入り岡の陰、川の向こうなどにもわずかある田は監督もむずかしいから人に請負はしめたという例はまれではとなかったろう。
今日でも作何男がのためにシンガイ田またはホリ田などど称して励みに少しづつ小遣いとりの田を作らせる慣習は残っている。
柳田国男全集(16巻-水飲み百姓の増加)


請山というのは請け負わせた山であるから説明のように明確である。ただ請け負わせるというとき山だけではない田とか畑もあった。田の場合は土地の所有者から地主からもらう許可された田などは説明のようになる。あまりいい土地はもらえ胃のか常である。
ホマチなどもホマチとしてわずかの土地か与えられたのである。わずかの土地でもそこは畑にすれば家一軒くらいはまかなえるかもしれない、自給自足だけならわずかの土地でもまにあうのである。自分の家も農家ではないから河原の岸の土地を畑にしていたことがあったのだ。土手の中が畑であったことは今でもあるしわずかの土地でも収穫があるのだ。隣の家でも同じように河原に畑を作っていたのである。町の人はそういう人が多かったのである。つまり戦後でも自給自足だったのである。自給自足だから他からは食料など入ってくるのは極めて少ないのである。現代から考えると膨大な食料でも地球の裏側からも入ってくる時代とはあまりにも違っていたのである。だから津波であれ原発被害地域であれこれだけの被害を受けても田畑も耕さないでも食料はいくらでも入ってくるのだ。金さえあれば困ることは食料については言えるのである。その差があまりにも大きすぎるのである。

請負山とか小請田とかある。請田というのはやはり土地をもっているものが請け負わせた田だろう。京都にある請田神社は出雲だとすると出雲の人が請け負った地なのか?


築城年代は定かではないが保元年間(1156年〜1159年)に標葉四郎隆義によって築かれたと云われる。 標葉氏(しねは)は平国香の二男繁盛の後裔で、海東小太郎成衡の四男隆義が保元年間に標葉一郡を分与され請戸の御館を築いて居城としたことに始まる。


双葉郡に属するが、1896年以前は標葉郡に属していた地域である。元々は新山町(しんざんまち)と長塚村(ながつかむら)であったが、これら2つが1951年に合併して標葉町(しねはまち)となり、その標葉町が1956年に改名して双葉町となった。

請戸の名前がとうしてついたのかは請戸城にしても古い、そしてめずらしいのはこの城が海側にあったことである。海側にある城はめずらしい。今回の津波で請戸が壊滅したように海に近く城はなかった。村山城は海岸に接してあったか縁起が悪いとすぐに移ってしまった。あそこに請戸城があったということはあそこもかなり古いということなのだ。
ただ請戸という地名が請戸城があった時、その地名はすでにあった。とすると請け負わせたというときすでにその土地が有力者の所領になっていた。請戸港は江戸時代にはすでにあり岩手県の宮古から鉄の素材を船で運んで葛尾大臣で有名な葛尾で鉄を精錬して作っていた。その跡が史跡として残っている。

請戸の由来は受戸神社になっている。ただその意味かよくわからない。請戸では安波(あんば)祭りが有名だからこれは茨城県から移ってきたのだから漁師などが請戸に定着して港になっていったのかもしれない、もともと請戸は請け負うからきているから土地と関係していた。つまり請戸は古くから人間の営みを思わせるものであり原野ではなかった。

普通地名は原初の状態を現しているのが多い。烏崎などは鎌倉時代に岩松氏が上陸した地点であり烏崎は神武天皇の故事にしているがその烏とは関係ない、烏とつく地名は空の州なのである。何もない空っぽの州であり海岸だったのである。だから唐津とあってもそれが唐とはならないかもしれない、空っぽだった津を現していたのかもしれない、萱浜(かいはま)でもそこは萱の繁る浜で人は住んでいなかった。越中などの移民が開拓に入った場所だった。あそこは一段と低い場所だったのである。烏崎とか小島田とか右田も低湿地帯だった。そこは津波で一時海になってしまったことでもわかる。

つまり請戸とは漁師とは関係ない、あの辺の土地を請け負うものがいて請戸になった。
ということはよそから入ってきたものがいて請戸になった。それだけ荒れ地でありよそからの開拓する場所が広くあったのかもしれない、ただもう一つ資料がないので調べようがない。浪江はあのような状態になって調べる資料も保存できなくなったろう。


浪江の請戸で思い出したのは南相馬市病院で瀕死の重症の農家の人が請戸の人だった。
その人は15町の田畑をもって指導的立場にあった人だった。賞ももらったというから優秀な農家の人だった。なぜなら娘3人を大学にあげたというからだ。一人は死んだとか言っていた。それでも三人も大学にあげるのはやはりそれだけの収入を15町の田畑から得ていて優秀な農家だったからである。その豊かさは今はイワキだが昔の平市まで野菜を商品として売っていたからそれだけの財を築くことができた。もちろん野菜を作る技術にもたけていた。それだけではなく近くに市場があったということがそれだけの財を残した理由だったのである。浪江から今でもイワキナンバーになっているから浪江からは磐城と関係が深くなっているのだ。

双葉ももちろんそうである。双葉駅は元はなく長塚駅だった。新山は城があったところで有名である。あそこに自分の父親が酒屋の丁稚をしていたのである。その話を姉から何度も聞かされていたので親しみがある。新山というと井田川の陰の方に新山神社があった。あれは新山から移されたのだろう。それがいつの時代なのか?井田川は大正時代に開拓されたのだから新しいものなのだろう。常磐線は原町から磐城までは開通するのか?
かなり先のことであり本当に開通するのかどうかもわからなくなった。仙台まではあと6年とかで開通すると言っていた。


●漁業権というのは鎌倉時代からあった


「竈」は、塩を焼く竈

『竈』の字を持つ集落は、いずれも入り江の奥まったところにあり、近くに川と山がひかえています。落人の人々は、ここで塩焼き竈を築いて製塩業を行い、生計をたてていました。というのも、南伊勢町には『浦』の字が付く漁民の集落があり、落人がこの地に逃れてきたときには『浦方』と呼ばれる漁民たちが海を生活の場にしていたため、海に出ることをあきらめて、塩を作るしかなかったのです。


失われた赤崎竈

かつて、平氏が壇ノ浦で敗れた際、平維盛(たいらのこれもり)の子・行弘(ゆきひろ)は、紀伊山地の奥地に隠れ住み、その三代目の子孫にあたる行盛(ゆきもり)が、一族を引き連れてこの地に移り住んだと云われており、『八ヶ竈』の人々は、その子孫に当たります。

『八ヶ竈』のうち、赤崎竈は、安政元年(1854)の津波で流されて廃村となり、現在は新桑竈(さらくわがま)、棚橋竈(たなはしがま)、栃木竈(とちのきがま)、小方竈(おがたがま)、大方竈(おおがたがま)、道行竈(みちゆくがま)、相賀竈(おおかがま)【現在は相賀浦】の七つになってしまいました。
http://www.town.minamiise.mie.jp/modules/gnavi/index.php?lid=427&cid=15


第一海岸に出て魚をとらない、先住民の古和浦、神前浦、贄浦等の漁民との間に「魚を撮らない」と約束して住まわせてもらったからだ。
8百年前約束を未だに守っているのもかれらの武士魂という。

これらの部落民は古和浦の漁民の子より礼儀正しく成績も良い、悪いことはしないという祖先からの誇りをもっているからだという・・
これらの住民がなぜ竈のつく字を土地に用いたかというとそこで竈を作り塩を焼いたから、漁業権はおさえられ山間地で生きてゆくためには塩水を蒸留して塩をとり売る以外なかった。海の水だけは浦の住民も文句を言わなかった。
地名(土地に刻まれた歴史-丹羽基二)


この話は興味深い、漁業権でもそうだが入山の権利もそうであった。先に住んでいる人が権利をもっていたのである。漁業権の成り立ちはこういうところにあった。歴史的には古いものなのである。魚とらせないというのはやはり魚は限られた資源となるからだろう。ただあれだけ海に近くて魚がとれないということは悔しいというか残念というか差別されたというか苦しいことがわかる。それでも律義にその約束を守ってきたということはどういうことなのか?昔の生活は動物の縄張りのように隣あっても時給自足が基本である時、そこの資源は勝手に犯してはいけないという不文律があったのかもしれない、そうでないと争いになってしまうだろう。資源といってもそんなに大勢の人が分け合うものではない、それぞれの土地でわずかの資源でも自給自足で生活していた。

この話で不思議なのは800年前の約束を守りその伝統が伝えられてきたことである。
それが村の人たちの性格も変わらず作ってきたというのが不思議である

そんなに長い間、そんな性格が気質が保たれものなのだろうか?この辺では400年前の津波のことをまるで忘れていた。800年もそんな伝承が伝えられるだけでなく生きていること自体が不思議である。もしそうならかなり貴重なことになるだろう。

ここで最も興味深いのは津波で流されて消えた町があったと記されていることである。
それは非常に重要な記録だろう。ここでは津神社があってもそうした村単位の記録はなかった。津波は村一つなと簡単に消してしまうことがわかった。もう市でさえ町でさえ消されるほどの恐ろしいものだったのである。


●原発事故では漁業権は不利に働いた


漁業権というのは確かに古い時代からあったことはわかった。でもそれは今の漁業権とは違った性質のものだろう。漁業権は昔からこのように排他的なものとしてあったことは言える。独占的な利権だったともなる。しかし現代の漁業権は何なのか?今回の原発事故では漁業権をたてに莫大な利権を得たとなる。自分たちの権益を守ることは昔からあったにしろそれがただ東電から莫大な利権を獲得するためのものにさえなっていたのだ。
事故後も漁業権は大きな力を持ち続けているのだ。その補償金は船主なら桁違いになる。今でも50万もらっているとか普通は一人十万だから額が違ってくる。


相馬総合病院に入院していた人は請戸の人で漁師なのだろう。特等室に入っていた。
億の金はあるのだろう。請戸には原発御殿が建っていたという、それは相馬双葉漁業組合になっているからこの組合は新地まで入っていて原発からの莫大な補償金が出ていたのである。だから磯部にも立派な家が建っていたという、それが津波で流されたのである。
今でも汚染水が海に流すなというけどそういうふうに東電と交渉するとまた補償金があがってゆく。だから漁業権とは一体何なんなのだろうとなる。


なぜ漁業権をもっているだけでそんなに東電から金がもらえるのかとなる。
だから他の人も海は漁師のもの漁業権だけをもっているものだけのものではないと他ても言っている。確かに今になると海を魚を守るならいいがそのために命を張って東電と戦ったならいいがそんなことはない、ただ巨額な補償金がをとるための漁業権だったとなる。だからこそ海は一体誰のものなの?漁業権者にのみ権利が与えられているのか?
そういう疑問が起きてきたのである。原発事故が起こらないならそんなに問題ないし問うこともなく見逃していたし漁師でないてものはそうしたことがわからないのである。


そもそも農民もそうだが漁業でもそれだけでは現代では生活が成り立たなくなっていた。農民でも政府からの支援があって成り立っていた。それは食料は自国でまかなうことが防衛のために必要だからであった。でも漁業権というのは一般国民にしても関心がなくわかりにくいものだったのである。


日本全国には多くの原発がある。
原発立地場所から30KM以内にある漁業協同組合の漁業権は、
今どんなっているのだろうか。
○○%電力会社で持っていると思う。
原発を新設するときには、
漁業権は漁師から電力会社へ譲渡していて、
原発事故が発生しても漁業の補償はないのだ。
漁師は漁業権補償金を電力から事前にもらっているのだ。
一隻当たり数○○○万円くらい貰っていて
家屋の新築や自動車の購入や新造船などを
作った漁師は震災前に補償金で買っている。
もし事故が起きたからといって補償金の請求は無効力なのだ。

http://blog.goo.ne.jp/296minnade/e/1f653405ab266f2d36d5a644084b824d


漁業権は東電に売り渡しているから消滅しているの?これもわかりにくい、補償金がもらえないというけど魚がとれないのだからその分は過分にいまでももらっている。
30キロ圏内でも30キロ圏外でも南相馬市ならもらえるようになった。
補償金は漁業組合に一番手厚いのである。事故前もそうであた事故後もそうだったのである。


漁民に漁業権が与えられたのは、魚をとるから与えられた権利であって、魚をとらない人間にそのような権利は発生しないはずである。漁民が漁業権を「売った」瞬間に、漁業権はこの世から姿を消してしまう。つまり幻の取り引きが平然とこの世でおこなわれ、漁業が衰退してゆこうとしているのが今日の姿である。
http://blog.livedoor.jp/kikennahanashi/tag/%E6%BC%81%E6%A5%AD%E6%A8%A9


魚をとる漁師が魚をとる権利を東電に売った。その代わりに莫大な補償金を得た。これも奇妙なことである。魚を獲って暮らす人が魚をとる権利を売る。発電所の回りでは釣りができないというのもそのためである。ここのプログでは原発は東京のど真ん中に建てるべきだという。それも理にかなった話であった。
なぜなら確かにそれでこそ東京は大繁栄する!美しい福島県の大地を海を汚さずにすんだというのもわかる。その反動として原発があった地域はかなりの貧乏になる。補償金ももらえないのだ。ただ漁業で魚はとれるし自然は汚されることはなかった。東京は東京で原発で栄えるし事故が起きない限りそうである。田舎は田舎で貧乏でも美しい自然とともに暮らせよと東京の人に言われることになった。今になると原発事故周辺ではそういう覚悟して暮らす人もいた。


電気というのは非常に貴重なものだということがわかったからである。骨身にしみてわかったともなる。だから多少不自由でも自然が汚されない所で貧しくてもやっていこうとなっていたかもしれない、東京は東京で原発は必要であり電気は東京のど真ん中の原発で栄えさせて豊かさを享受するとなっていた。それだと何かわかりやすいことは確かだった。そもそも福島にもってきたことが間違いだったとなる。
あれだけ安全を言っていたのだから当然東京でも安全であり東京に東電が作れば安全の照明てありそれだけの覚悟があったということであったのだ。
今でも新潟の柏崎とか東京から離れた所に作っているのはやはり事故を恐れているから東京に作れないのである。

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2013年10月10日

漁業権の素朴な疑問(2)(魚の話)



漁業権の素朴な疑問(2)

(魚の話)

●漁業権の本来の目的


漁業権とか入山権とかの権利はそもそも漁業権だったら貝類であれ魚であれ海の産物を育成して守ることが基本になっている。それが犯されると海の幸で生活しているものが生活できなくなるから深刻であった。それで浦安では漁業権を守るために三義人が死んて祭られている。それほどまでに漁業権は大事なものとしてあった。

浦安の歴史
http://members.jcom.home.ne.jp/ums/urayasu.html

原発か建てられた周辺の双葉相馬漁業組合の漁業権の矛盾は原発が建ったら海が汚され魚でも貝でもとれなくなる。その生活の場が失われことは命にかかわる。でも現代は別に金さえもらえば生活はできる。漁業するより十倍ものを金を補償金としてもらえるなら漁業するより金をもらって暮らした方がいいともなる。それだけ払える金か東電にはあった。

そもそも漁業権とは漁業を守るためのものに与えられていたのである。その漁業権を巨額な補償金とともに売り渡すということが矛盾している。理屈にあわないと他の人が言うのは当然である。素人の人が魚をとっていけないというがでは漁業権をもっている人がそれほと漁業のことを大事に思っているかとなるとそうではない、素人の人はただ釣りを楽しむ遊びだが俺たち漁師は命をかけて漁をしているのだ。その言い分もわかる。現実に漁は危険をともなっていて遭難する船が必ずある。松川浦でも最近でもあったし妻は無事を祈り送りだしていた。だから外から見れば漁師はそれだけ危険を犯して魚を獲って与えてくれるからありがたいとなる。前は石鰈を売りに来るのを食べていた。新鮮だからこれが一番うまい、ただ一匹二千円とかなったときもあり高いから地元の人でもあまり買わなかった。

そういう魚を食べられることはありがたいことだったのであり海側に住む人の特権でもあった。そして漁師は新鮮な魚しか食べない、とれたての魚しか食べない、二日もしたら古いとなる。自分でとったものを作ったものを食べる人は新鮮なものが食べられる。農家でも自分の畑からとれたてのものを食べるからうまいとなる。

日本でもサシミでもそうだが旬のものをとれれたてのものを食べることが文化であり健康を保つ所以だった。海の幸は特にそうだった。こうして石鰈を会津の友達に送り会津の身知らず柿が代わり送られてきた。この石鰈は会津の人に喜ばれたことがわかる。新鮮だからうまいとなるし食べられないものだからである。確かにスーパーで売っていたとしても古くなっているからうまくないのである。魚は鮮度が一番問題であるから


●江戸の魚河岸

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人いきれのなかを売り手の怒号のような声が飛び交います。威勢が良いというか、乱暴というか、まるで喧嘩でもしているかのような勢いですが、これが魚河岸流。何といっても魚は鮮度が命、サッと並べてパッと売ってしまうのを身上としましたから、恐ろしいほどの勢いで取引が行われます。魚河岸の威勢の良さは鮮魚の活きの良さと競争するようなものだったわけです。

だから魚河岸といえば江戸っ子の見本のようなものだといわれました
http://www.sakanaya.co.jp/history/03_02.html


江戸っ子の威勢のいい言葉ここから生まれている。日本橋に魚河岸があった。そこでは常にとれたての魚が取引されていた。だから魚を売る人買う人で人が行き交いにぎわっていた。日本橋でも空が明けてゆく江戸の街が描かれている。そこには魚を天秤棒で運ぶ魚屋がいる。大名は国へ日本橋をわたり出立してゆく、あの風景は冬なのだろう。


寒の空明けて大名に魚売り


こんな句が想像で作られる。庶民は目黒のサンマであり大名は鯛とかマグロとかカツオを食っていたのだろう。江戸の風景にはこの魚河岸とか魚売りか欠かせなかったのである。

ゆく春や鳥啼き魚の目はなみだ


芭蕉のこの句も不思議なものの一つである。これが何を意味しているのかいろいろ言われてもわかりにくいのである。魚の目となみだというとき隅田川を魚河岸と身近に暮らしていて魚を常に見ている親しいものだからこうして魚と常に接していたけどこの魚河岸ともお別れだなとという意味なのかもしれない、鳥が鳴くというとき何の鳥なのか?
鶯だと言われるが繁華な所に鳴いていたのか?鳥と魚が何か関係があるのか?
これほど不思議なの句もない、ただ魚の目は涙というときいかに魚を見ていたかだけはわかる。普通魚の目に注意している人はいない、ただ料理する時、魚の目に注意することはある。ともかく江戸の魚河岸の近くに住んでいたからこんな句が生まれたことは確かだろう。


浜通りは海に面しているし魚と関係している。原町区の金沢では前のように浦にってしまって一部が干潟になってしまった。そこにフグの稚魚だと思うが大量に押し寄せて跳ねていた。前にもフグを見たからフグは結構大量にいる。それを手づかみしてとった。子供に帰ったようで興奮した。子供の時とっていたのは川の魚である。海の魚は松川浦のような所に住んでいないとなじみがないのである。福島県の浜通りには海の文化がそれなりにあった。これは中通りや会津にはない。津波も400年前に現実にあり津神社がその時の記念として祭られていた。

いづれにしろ漁師でも自分たちでとったとれたての魚が食べられない、農民でも自分の土地でとれる米でも野菜でも食べられない、いくら補償金でまかてえてもそのことが一番わびしいやるせないことではないか?魚を自分でとることの喜び、そして自ら一番鮮度のいい魚を食べることが海に住むものの幸せだった。それは農民にも言えた。自ら実りを手にするときの喜びは他に変えがたいものがあったはずである。ただ現代は米にしても売るために作っている。米作くたってこの辺じゃ売れないよと言う時、自分で食べる米をすでに考えていない、売ることだけを考えている。それだけ金が必要になっているからそうなってしまったのである。


●漁民も農民も本来の目的をないがしろにしていた


ここでは漁業権のことを問題にしているけど漁業は宮城県の十分の一しか福島県には生産量がなかった。福島県でもそれほどの漁港がなかった。そしてそもそも第一次産業自体が全国で衰退していた。だから江戸時代のように漁業権を守るために死ぬほどのことはしない。かえって原発が建つからそれて多額の補償金の虜になるのもわかる。
ただ漁業権はもともとは海の資源を育て守るために漁業権が与えられているのであり
東電から補償金をもらうために漁業権が与えられているのではなかった。
そこが理屈にあわないし外から見ても納得がいかないのだ。

だから海は誰ものですか、漁業組合のものですかと疑問になった。漁業組合が独占するものですか?海とはみんなのもでありただ漁師に漁業組合に委託されたものではなかったか?それはあくまでも海の資源を守るためであり東電に漁業権を売り渡し多額の補償金をもらうためではなかった。そんなことのために漁業権が与えられてはいなかった。

そもそも自然は誰のもでもない、その土地だって農民のものとは限らない、もちろん農協のものでもない、それはただ委託されたものであり所有できるものでもないのだ。
たた先住民にはそれなりの権利があった。ただその権利が農地でも農業を守り育てるものとは違い企業に売るものとして権利が変わった時漁業権でも農業権でも変わってしまった。

だから歴史的にも漁業権でも農地でも本来の目的のための権利ではない、それが会社や国から補償金を得るための権益と化してしまっていたのである。
漁業権もない農地もない人も別に田舎に住んでいる。その人たちは全く権利がないのか、直接たずさわらない人には全く権利がないのかとなった。
外部のものは何にも言うなとかなるとそれはただ私益のためであり結果的に海は汚染されてしまった。だから漁業権に対して外部のものが何も言えないこと権利ももたされないということが何か理屈にあわないものでもあったのだ。
これは原発に土地を売った人でもそうである。その土地が権益化してその狭い土地を買えば原発が建てられるというのも危険なことだった。ただ直接原発が建つためにはそうした狭い範囲の許可があれば建てられたのである。でも事故が起きて広範囲に被害があり原発はそんな狭い範囲で決めていいものではなかったのである。


ただ原発は何なのか、国自体も安易すぎたのである。最初、読売新聞の正力松太郎がアメリカのエージェントとなり自分の野心のために原発を利用しようとして宣伝した。
マスメデアの国民の洗脳が最初にあり今度はそれにのっかって政府が中曽根首相などが原発導入に政治的に働きかけた。原発というものが何か深く国民的議論や国レベルでも検討していないのである。一番変に思ったのはアメリカでは地震や津波を恐れて西海岸に原発を作らず東側に作っていた。アメリカの方が安全性には注意を払っていた。
日本では地震国であり津波国なのに国の風土を考えず原発を安易に導入した。
第一なぜ読売新聞社の社長が率先して原発導入したかもわかりにくい。
アメリカに古いマーク1を買わされたといっても日本の責任で買ったことになるから日本に責任がないとは言えない、拒否もできた。


結局原発は人間の限りない欲望の象徴と化していたのだ。東電の経済力は3兆円の資産があったとか田舎では想像を越えたものとなっていた。だから金であらゆるものを買収できたのである。官僚自体もそうであり天下り先となっていたし地域でもそうである。
原発の問題の根源には一電力会社では原発は危険だから国で保証してくれないとやれないとなっていた。原発は国策として作られたものであり国の責任も重かったのである。

一地域とかの問題ではなかった。国自体の問題であった。ところが国といっても国ってなんだろうとなる。国も読売新聞社の社長に私物化されたり一東電の会社の意のままにされるとか権力をもっているものに意のままにされる私物化される。現代では国より会社が大きな存在となる時、会社の方が国じゃないかとさえなる。ただ東電でも国のお墨付きが与えられなければ原発は作れなかった。ともかく原発は一地域のレベルの問題ではなかった。国家的な重要問題であったけど国は管理を怠り東電の意のままになっていたのである。
つまり現代は国といってもそれほどの力がなく会社の力が巨大であり会社の意向のままに動く。なぜなら国家の一員というより常に活動しているのは会社の一員として日々活動しているからだ。戦争の時だったらまさに命をかけて国家の一員として活動していたことになる。現代は企業戦士というように国家の力が希薄になっているからかえって問題を起こしたともなる。

higata111.jpg

干潟と化した金沢地域

ここはもともと浦だったのである、その浦にもどったのである。
ただ水門から魚が大量に進入してきた。
ここで魚がぴちぴち跳ねていた。
だから手掴みで5匹とってきた

livefishes111.jpg

この稚魚だけどやはたフグの子なのか?
稚魚でもフグは毒がある書いてあった。
これを野良猫に食わせたら中毒になったかもしれない、
猫は内蔵う食う食うからである。
あそこが干潟になれば様々な海の生物がすみつくようになる
松川浦には干潟はないからだ

posted by 老鶯 at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年10月11日

自分の家に訪ねてきた若き研究者 (津波のことで相馬藩内のことを詳しく調べていた)


自分の家に訪ねてきた若き研究者

(津波のことで相馬藩内のことを詳しく調べていた)

今日郷土史について聞きたいと若い研究者が自分の家たずねてきた。名刺にハーバード大学の研究所とあり何のことか思った。ハーバードというと凄いと思ったからだ。
そのことはよくわからなかった。
ただ若いにしては相馬の津波に関して相当に研究しているし地元の人より詳しいなと感心した。こんなに詳しく外部の人が研究するものかと思った。
それよりそんなに関心をもって外部の人がかかわれるものかと思った。
もちろんその人はそういう専攻であるから当然にしてもそこまで調べたということが感心したのである。地元の若い人でも老人でも関心をもたない人はもたないし知らない人は知らない。


その人はフィルードワークを一番重んじている。だから直接土地の人に聞いている。それから詳しく神社を実地に訪ねている。それは自分より相馬藩の神社のことを知っていた。神社は多いから未だに訪ねない不明な神社も多い。
その一つが津神社だったのである。津明神でもあった。原町区の雫(しどけ)の近くの島商会へゆく坂の入り口にあった津神社など自分も土地の人さえ全く注目していなかった。
そこに夏たずねたとき木立の影暗くかなりの坂を上った。そしてさらに上に隠されるように津神社が祭られていたのである。ある意味で神秘的だった。


夏の日に木立の暗き参道や久しく隠さる津神社かな

なき跡のしるしとなればそのままに訪はれずとても有りてしもがな

この歌はひさしく忘れられて隠されていた津神社にぴったりだった。なぜなら津波の跡にしるしと建てられたけど誰もその由来も訪ねずわすれられていたけど有りてしもがな・・・あるべきものだったとかなる。この夜には神社でもそうだが由来もわからなくなっても誰も訪ねなくてもありつづけるものがあるし何かを伝えるためにありつづけるのがある。でもなくなるのも多い。それは誰も由来も訪ねないがありつづけていたことは確かなのである。

この辺では相馬藩内では津波の話などほとんど聞かなかった。だけど津波の後に津神社のことがしきりに話題になった。この神社は津(明)神社と名前のつくのは三陸辺りでも津の宮村まであるのだから津波にまつわる大事な神社だったのである。
それがなぜほとんど忘れられてしまったのか?
なぜ言い伝えられなかったのかとかが問われた。


その人が言うには伊達藩内ではそれなりに津波の伝承があるが相馬藩内になるとぱったりとてくなる、ただ聞いてあるいて新地辺りとか松川浦の近くの神社にも津波の言い伝えがあった。ないわけではなかったが非常に少なくほとんどそういう話は聞かされていないのである。第一「本邦小祠の研究」で詳細に相馬藩内の神社祠を調べ尽くした人が津神社が津波を記念した神社だと書いていないのだからあとはおしてしるべきである。
あれだけの専門家がなぜ津波のことについて書いていないのか不可解だった。
それは結局そういう聞き取りもしないし聞くこともできなかったのである。
何か一番重要なものが欠落していたことが津波が来てわかった。

この郷土史の研究は外からも一般にも何か好事的なもの物好きなものが暇人がしているという感覚であり実用には役立たないものとみなされていた。
第一そうした津神社が津波と関係していて津波の警告として東電に注意を喚起する人はいなかった。

最近貞観津波の堆積物が松川浦の奥で発見された。これは最近のことでありそのことで一回だけ注目して時事問題の深層に自分は書いた。こうした科学的研究は最近注目されて大学教授も東電に進言していた。それでも仙台平野の海側が住宅が密集していて土地の値段が下がるからそなこと言うなと不動産屋に脅されていたのである。
ただ神社の研究よりそうした科学の時代には科学的なものを信じる。
すると東電でも科学者技術者の集まりだからそういうものは検討するものだと思った。
ただ金がかかるのであとまわしになっていたのである。


ともかくその若き研究者は人から直接聞いて回っている。相当の人に聞いている。それから実地にその土地の状態や神社もたずねている。それで柚木に「急ぎ坂」という話を聞いたという。そういう地名が昔言い伝えとしてあったのか?それは津波のことだったとしたら重要な言い伝えだった。こうした口碑を聞き歩いたのが柳田国男だった。これはみんなできることではない、そうして聞くことができるのは能力だったのである。民俗学にしろ民衆と接して理解を深める作業が必要である。本ばかり資料ばかり読んでいても具体的に実感としてわからないのである。ともかく学問はまず問題意識を持つことから始まる。
学問とは学び問うことである。はじめに問うことなのである。

自分の一番の関心もなぜ相馬藩内ではほとんど津波について伝えられず語られなかったのかということだった。その問題意識は共通していた。

これまでの歴史は或る特定の事件を取り上げて検証し、
遺跡地の発掘から得た検証 などを構成したものが主流だった。
しかし、全く逆の方向からの研究をおこなった のである。
地方に残された書かれていない歴史叙述、
つまり「空白の歴史」から得る研究である。

http://www.hondainsatsu.co.jp/pg113.html


なぜそこに津波に関する言い伝えなどの伝説などの空白が生じたのか?そのことが自分でも一番不思議なことだった。なぜそのことが問題になるかというと津波のことが伝えられないからこそ被害がこれだけ大きくなったということもあるし警戒しないことにもなっていたからだ。今でもすべてがニュースでも伝えられない、その伝えられないことに重大なものが知らされないということが常に起きている。これだけの情報社会でも何が重要なのかはわからないし自分で注意しないかぎり関心をもたないかぎた重要なものも重要なくなるのだ。知らされないことが命にかかわることもある。知らないということが致命傷になり死ぬこともある。これだけ複雑な社会だと知らないことで飲む必要もない薬を飲んでかえって病気が悪化して早く死んだりしている人もいる。戦争でも日本が負けているなど知らされない、そうしてやはり津波のように甚大な被害が知らされない知らないことで拡大化してゆくのである。


そして今になるとなぜ海岸に接してなぜ集落があったのか、密集して人が住んでいたのかということである。それは津波のことが伝えられなかったからなのか、そのことか今になると重大な問題として浮かび上がってきた。
一つの仮設として磯部でも砂州の所に人が密集した。烏崎でも人が密集した所は海に接していても湿地帯ではなかった。今の港のあるところはあとでできたものであり新しい、
湿地帯には人が家を建てにくいということがあったのではないか?

それで海岸に人が集まり家を建てたのかもしれない、たた漁業をするとなると海岸に接していた方が便利なのだから人が三陸のように集まったのか、その辺のことはよくわからない。それでも海の神様より農業の神様が多く大事になったということは稲作が広まり湿地帯は田んぼに変わった。烏崎の回りも田んぼになっていた。だから水葵がでてきたのである。水葵は田んぼだったところに咲く花なのである。

このことを話しあって問題意識を共有した。それで自分が集めた資料や本を調べ直して
かなり重要な発見があった。


この次はその調べたものを書いてみよう、若い研究者と共同研究的なものになる。
こういう学問もやはり様々な分野の人ととかかわり啓発される必要があるだろう。
その研究範囲が広範囲になっていたからである。

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木槿(心疲れる現代人-失われた村を思う)


木槿(心疲れる現代人-失われた村を思う)

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霧雨や白と紫の木槿かな

むつみあう年月長し木槿かな
窓開けて閉め忘れるや月のいず
千輪のひまわり吸い込む光かな
紫と白の木槿や夜のふけぬ
紫と白の木槿の何か言う偽りなきを心休まる
紫と白の木槿の咲きにつつ何をか言わむ心通いぬ


木槿は何か田舎的であり素朴である。花にはそれぞれにふさわしい場があるのだろう。白と紫だと夫婦ににあいだとなる。花は争わないからほっとするのだ。こういうふに争わず咲くありつづけることが人間は奇跡的に近いから余計にそうなる。
家族だってこんなふうにむつみあっている家族は少ないだろう。三分の一が離婚している現代である。父子家庭も悲惨だった。子供おいて男親が一人で育てることは容易ではない、母子家庭の方がある意味でましである。4人の子供を育てる父子家庭がいるのはは驚いた。子供一人は虐待で死んだ。なんかこれは気持ちもわかるしやるせないものを感じた。ともかく介護でもそうだけど人を世話するのは大変なのである。
老人でも子供でも大変なのである。

自分の家庭には木槿のようなむつみあう平和はなかった。この世に戦争だけではない、そもそも人と人が睦み合うことがあるのかとなる。そのことの方が一番むずかしい。
ともかく静かに夜も咲きつつふけてゆく、今日は月ももてていた。

ぬす人に取りのこされし窓の月 良寛


この句を思い出したのは自分の家の窓をしめわすれることがたまたまあるからだ。家が大きいのとその管理が苦労なのである。窓もいくつもあったらあけたりしめたりするのも手間になる。開けたままにしても泥棒が入らないならいい、そしてその閉め忘れた窓に月がでているのは風流である。これは昔のあばら屋だとまず窓などないからしめることもなくそのつまだった。入って盗られるものもない、貧乏で何もないけどそれも幸せだったとなる。現代はありすぎて困っているのだ。買うことも毎日ある。この頃アマゾンで二日に一度買い物している。食料でも一日二千円は使っている。買って手間を省こうとすると金がかかるのだ。金をかけて時間を作っているのである。
現代の生活はどんなことをしても金がすでにかかるようにできているのである。これから逃れるのは簡単にはできない、システム的にそうなっているからだ。

一番問題なのは電気のつけわすれである。これで火事になりかかった。家を一人で管理していて怖いのは火事なのである。留守にしているとそれが怖いのだ。部屋かいくつせあるからどこかでつけわすれている。そして電気の無駄もしているのである。電気は無駄にしやすいものなのである。木を囲炉裏にくべていれば消費していることがわかるが電気はわからないから無駄にしやすいのである。無駄がわからないのである。

自分が金を使うのはまさに時間を作るためにである。時間か今は一番貴重だからである。良寛の五号庵ですら布団を盗まれた。今なら何をくれてもありがたいと思う人はいないしそんなもの盗まない、今盗み怖いのは家の中に入って来る人なのである。

心休まらないという時、この辺では全く変わってしまってどうなっているのか未だにわからない、避難している人も金をもらっても心や休まるとはならないだろう。
やはり自分の故郷に住んでいた方が心は休まったろう。
それで飯館村のことをイメージして短歌を作った。


月照らし通し道の遠きかな隣合う村夜のふけゆきぬ


この通うというとき徒歩や馬で通っていた時代は隣さえ遠かったのである。それが何かなつかしいとなる。その村さえなくなってしまってただ放射能騒ぎだけになってしまった。これも全く平和を乱されたことなのである。前の平和の日はもんいつもどってくるきだろうか?

今日も暑かった。これが秋なのか?ひまわりが今頃一面に咲きだした。田んぼがなくなりひまわり畑になった。ただ今年はそんなに咲いていない、それでもひまわりも見ていると気持ちがいい、光を十分に吸い込んでいる。曇るものはなにもない、花は放射能の影響はなかった。
ともかく現代の生活は疲れる。鬱病にもなる。それは果たして窓を開けっ放しにして暮らしていた昔と比べて幸せだったのかともなる。だから時代時代にはそれなりの幸せがあったともなる。

インターネットで古語を調べると昔の文章がでてくる、それを読んでいると何か気持ちかいい、日本人からどれだけの古語が失われたか?それは言葉を失っただけではない、感覚的なものから情緒的なものからモラル的てものからいすいろ失ってしまったのである。
だから日本の古典で古語だけでも読むと昔の心がよみがえってくる。
つまり前にも書いたけどこれから国風文化の再興の時代になる。
そしてslow aged lifeになる。それは田舎がいろいろな昔のことが見直される時代になる。それは高齢化社会とマッチしていたのである。
もうこうした電気でもせそうだが金のかかりすぎる生活を見直すべき時かきたのだろう。ただ贅沢を覚えたら人間はそれから脱することがむずかしいのである。


とにかく飯館村のような平和な自然につつまれた村が喪失したことは大きな損失だった。都会の人はあまり考えいないが近くだからその喪失は大きい。もちろんそこに住んでいた人も都会で贅沢しても満たされないものを感じることはあるだろう。
川内村では郡山市の便利な生活になれて帰らないというのもわかるがやはり村があるということは別にそこに住んでいなくても心に影響していたのである。
核のゴミの廃棄場になると除染除染だとか何かそういうことを聞くだけでも疲れる。
風評被害でも何かそれだけで疲れてしまう。魚とるにしす農業するにしろすべてそうなるのである。放射能で被害がなくても疲れてしまうのである。

結局この辺はそうした昔も失ったし元にもどらない、ただ毎日放射能のことだけになってしまうのが嫌なのである。まあ、花は咲いているから花にはなぐさめられることは同じであるが何かここに住んでいるだけで疲れるということはある。

2013年10月12日

南相馬市鹿島区烏崎村の八龍神社の謎は深い(一部) (津波をまねがれたその位置に解く鍵が・・)


南相馬市鹿島区烏崎村の八龍神社の謎は深い(一部)


(津波をまねがれたその位置に解く鍵が・・)

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●岩松氏とのかかわりを探る
 


元亭3年(1323)  相馬 重胤建武元年 (1343) 代官岩松本阿弥陀仏と申す者 千倉来住(会津四家考)
建武元年 真野五郎氏康南軍(北畠顕家軍)に味方す
建武2年(1335) 北畠顕家(16歳)父 親房とともに義良親王を奉じて多賀城に入る
建武3年 相馬 重胤(北軍)鎌倉法華堂にて自害
建武3年 五月南軍の顕家軍北軍相馬氏の小高城を攻め落とす
建武4年 顕家軍 多賀城より霊山に移る
暦応元年(1338)真野五郎顕定江垂村中館に居館す

貞和3年(1347) 南軍顕信の拠る霊山城落ちる
この時が宝財踊りの起源となる

貞治5年(1366)桑折五郎元家伊達桑折より横手村に移り真野五郎と改称す
応永13年(1406) 鎌倉公方足利満兼、岩松義政に奥州下向命ず
                 この時善導大師六号名字(船板名号)船鼻に奉じて来る

                この年中目山阿弥陀寺開山と定める
慶長地震津波(1611年)

慶長16年(1611-地震の後一カ月後) 相馬 利胤(一七代)城を小高より中村に移す

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暦応元年(1338)真野五郎顕定江垂村中館に居館す


これは岩松氏が千倉の庄を所領するより早くあった。鎌倉南北朝の頃は混乱しているからわかりにくい。ただ津波を探る場合、岩松氏の時は津波は来ていない、慶長津波から200年間くらいの期間がある。

それで烏崎の地名は最初は烏浜だった。烏は空の州のことでありそこに上陸して名付けられた。後に烏崎と変わったのは地形から見ると烏崎は後ろが小高い山であり台地があり崎としての地形となっていた。最初は浜を意識したのだがあとでここは崎が目立つものとして烏崎になった。あとで地形を良く見て名付けたのだろう。最初は上陸した浜だけを見ていて烏浜と名付けたがあとで地形全体を見て烏崎とした。
岩松氏は烏崎に上陸した時、そこには住み着いていない、住むには適していなかったのだろう。でも人はすでに住んでいたのである。だから大内の方に移った。大内は住みよい場所であることは今でもわかる。烏崎は住みにくいのである。まわりは湿地帯であり辛うじて崎になっている山の前が湿地帯ではなく住む場所に適していたのかもしれない、なぜなら回りは湿地帯であり乾いた土地がないとしたら家も建てられないのである。

そこで問題になるのが津波で辛うじて残った八龍神社がいつ建てられたのか?
その疑問は相当に大きい。大きな問題点は慶長津波の前にあったのか、それとも後に建てられたのかという疑問である。津神社は津波の後に建てられたことは誰でもわかる。
しかし八龍神社はいつの時代のものか特定できない、ただこれは岩松氏が烏浜に上陸したことと深い関係がある。岩松氏は鎌倉から阿弥陀信仰をもってきたし他にもいろいろな神を信仰をもってきたのである。岩松氏が烏浜に上陸してから津波まで約200年が過ぎている。その200年の間に何があったかが問題になる。200年は長い。その間に様々な変化もあったし烏浜には人も住み着くようになったことは確かである。


●烏崎に残された貞低3年(1686)の碑の謎

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「鹿島町の石造遺物」では烏崎に貞低3年(1686) 為月庭妙と記された自然石があった。
これは何を意味しているのか、それなりに古い、慶長津波は1611年だとすると75年後に津波が来ていることになる。この期間に烏崎がどういう状態だったか予想がつかない。岩松氏は上陸してすでに大内村に移っている。大内とは御所になぞらえて岩松氏が名付けたというから岩松氏に由来している。千倉とか御前内もそうである。ではそこに人が住んでいたのかとなる。
そもそもこの文字の意味は何なのか?それが問題である。戸屋の所にあり八龍神社の近辺にあったことは八龍神社も古いものなのだろう。

貞低3年(1686)から二年後に元禄時代になっている。元禄時代に近いのだから人が烏崎にもすみつき寺もできてこの碑が残されたのだろうか、隣の金沢は元禄時代に開拓されていたから古かったのである。狭い地域だから開拓しやすかったのだろう。


ていきんおうらい【庭訓往来】 


往来物の一種。作者不詳。南北朝後期から室町初期の作と推定される。庭訓は,孔子が庭で息子を呼びとめ,詩や礼を学ぶべきことを説いた故事から出た語で,家庭での教訓,父から子への教訓を意味する。手紙文の形式をとり

庭訓とは、孔子の子伯魚が庭を通った時、孔子に呼び止められ、 詩や礼の大切さを 教えられた故事[論語季氏]から、 家庭の教訓、 家庭教育を意味する。また往来は往復 の ...
そもそも「往来」とは、往復の書簡の意で、平安時代後期に編まれた『明衡【めいこう】往来』以来、手紙のやりとりの形態をとって文字を学ばせるためのテキストでした。後には、手紙文以外のものも行われ、特に江戸時代には、教訓、地理・歴史、法政、算学から実業的な内容を含むものまで幅広い広がりを見せました。


http://shakaigaku.exblog.jp/1917083/


さんがつ‐ていきん 〔サングワツ‐〕 【三月庭▽訓】
 
正月から12月までの手紙を集めた「庭訓往来」を手本として字を習う者が、3月あたりでやめてしまうこと。勉強に飽きやすいこと。三日坊主。

そのつき、何のをり、その人の詠みたる歌はいかに』と問ひ聞こえさせ給(たま)ふを」

庭とあるから庭訓のこと教えることなのか、為月(月のため)とあってもこれはお月さまとは限らない、月々の教えかもしれない、庭とあるから庭訓が浮かんだ。これも鹿島御子神社の神宮寺であったのが寺になり寺子屋となり不詩朗謡と記され天保と記された石碑と同じ類のものなのか?戸屋はすでに家があり寺もできたのか?大きな寺ではないにしろ寺のようなもお堂のようなものができていたのか?貞低3年から二年後が元禄であり元禄には隣の金沢浦が開拓されていたのである。あそこは思った以上に古かったのである。

ただ鎌倉文化を岩松氏が持ち込んだとするとそういう場所として最初烏浜があったのか?それは津波の後の60年後とかなるとどういうことになるのから岩松氏とは関係ない。60年という歳月も長いから津波の伝承は忘れられていたかもしれない、寿命が短い時、10歳で津波を経験しても60年過ぎたら70でありその時は死んでいる人が多いからである。ともかく岩松氏が烏浜に上陸してから200年後に慶長の津波が来ている。

その間に八龍神社が建てられたのか、または岩松氏が烏浜に上陸した記念として祭ったのだろうか、無事に航海して到達したということでそのお礼に八龍神社を祭ったのか、
なぜなら八龍神社は海の神でもあり航海の神でもあったからだ。ただ岩松氏は阿弥陀信仰があり船の先に阿弥陀を奉じていた。現実に祭ったのは阿弥陀信仰の仏像であり阿弥陀堂が今でも残っている。八龍神社は岩松氏の伝承ではどこにも語られていない不思議がある。


●烏崎には真野氏系統の有力者がすでに住んでいた


上陸後当地を横領していた田中の城主真野太郎信家との政治折衝が進められこの仲介役を成したのが烏崎の住人遠藤形部と申す人である。(中目山阿弥陀寺史)

岩松氏が烏浜に上陸したときすでに真野氏や相馬氏の勢力があった。そうすると烏浜という名は岩松氏が上陸する前に地名としてあった。有力者も住んでいたのである。


三苫虚空蔵菩薩由来

 桓武天皇御代延暦二十四年四月最澄傳教大師入唐求法帰路六月十三日花鶴濱(古賀濱)に上陸一ヶ月滞在の折巡錫布教の砌り三苫虚空蔵菩薩像を彫刻安置し地区住民の財宝の恩恵を授けるの始で千百八十有余年の歴史を持ち今日まで法統連綿として引継がれ家門隆昌の守護を授けるものなり  俗に空(無一文)から蔵が立つという七福神の一体でもあり三十三忌の守り本尊でもあります
http://www.jinja.sakura.ne.jp/higashiku/no45/no45.htm


これなどは上陸記念として祭られたものである。綿津見神社と八大龍王は一体として祭られている。このうよなことがあると岩松氏が上陸した時もそういうことがあったのか?
ただ阿弥陀信仰は語られても八大龍王については何も語られていないのである。
つまり八大龍王神社について語られることが何もないということが謎なのである。

八龍神社の最大の問題は津波の前に建てられたのか?後に建てられたのか?
前とは後ではずいぶん違ったものになる。なぜなら前だったらどうしてあんな高い所に建てたのか?後たったら津波のことを知っていてあの高い場所に建てたとなるからだ。
その違いは大きいのである。
あれを見ると何か津波のことを知っていてあの高さに建てたと想像する。それはぎりぎりだったからである。ぎりぎりで助かる高さだったのである。

現場を実地に歩めば一番不思議なのはなぜあの位置に八龍神社があったかということである。断面図みたいのを描いたがあそこに岩松氏が上陸したのはあそこしか烏浜では上陸する場所がない、今の港のある所は湿地帯であり上陸できない、あそこは坂になっていて一段高くなっているから湿地帯ではない、それで人もすみついた。坂を下ると湿地帯が広がりそこが江戸時代から干拓されて田になった。だから人家の密集地帯からすぐ近くが沼となり元の自然にもどり水葵が咲きだしたのである。

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●八大龍王神社は南朝の戦いで霊山から落ち延びた武士が真野氏からもたらされた?

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八大龍王総本山龍光寺


 生駒山上にある龍光寺には、楠公(正行)が四條畷へ向かう時(足利家の高軍と戦う前)、龍光寺に宿営し、「八大龍王の神前に額づき『我れ無き後も永へに八大龍王の清水の絶えたる事無きが如く、我が菊水の水も絶える事無し』と祈願せられ、以て八大龍王の本殿に菊水の定紋を残して、至誠の真を表し給ふ。」


八大龍王信仰は鎌倉時代辺りから急速に日本全国に広がった神である。それは水と深く関係していた神である。だから盲点として南朝の北畠顕家が霊山にあり奮闘して真野地域に敗れて落ち延びた人たちがすでに先住民だったのである。八龍神社は海側にあると思っているけど山側や平地にもある。なぜか烏崎辺りに集中しているというけど川子にもある。では川子と烏崎の八龍神社がどっちが古いのかとなる。南朝の北畠家系統から真野の中館に落ち延びた武士が八大龍王神社の信仰をもたらしたとしたらやはり古いものであり津波の前にも建てられたとなる。なぜなら岩松氏が烏浜に上陸した時、遠藤氏など有力者がすでに住んでいたのである。だから遠藤氏などが八龍神社を祭ったことも推測されるのである。ただその時津波が来る前だからなぜあの高い所に祭ったのか、もしかしたら見晴らし台のような役目も果たしていたのかもしれない、あそこで漁したとなると遠くを見晴らす必要も出てくる。神社には信仰だけではなく何か別の役目もあった。実用的なものとしても建てられたことも考えられる。明らかなことは岩松氏関係の伝承には八大龍王信仰の関係のものがないことなのだ。真野氏関係だったら岩松氏より古いとなる。


八龍神社の位置はあそこは坂を上ったゆきどまりでありもともと高い地域でありそしてそのゆきどまりに八龍神社が建てられた。一般的に神社が古く寺があとになるというときすでに戸屋のところに寺ができた時あの八龍神社があったのか、鹿島御子神社のように由来がはっきりしているのはわかりやすいがあの神社はそもそも祠のようなものであり小さいしそこに人が住んでも忘れられていた感じなのである。でも神社だから由来もわからなくても土地の人の信仰が薄れても残っていたのだろう。土地の人が信仰つづけていればその回りに必ず石碑が建っている。あそこには何の石碑もないのである。ただ社だけがある。それは原町の雫(しどけ)の近くの津神社も同じである。ただ烏崎村の牛島の港のあったところに建てられた津神社は大きい、ただその神社にしてももともとは小さかったのだろう。それでも津神社という津波ということの記憶を保存していたのである。

それではなぜあそこに建てられたのか、やはり慶長年間に湿地帯が開拓されて建てられるようになったのか、神社は今でも移動することがある。津波によって神社が破壊されて今回浮州神社が大内に移転したし慶長津波でもそういうふうに移転することがあったのだ。

推測としては八大龍王信仰は岩松氏と関係ないとするとすでに勢力があった真野氏系統のものが烏浜に建てた。遠藤氏という名前も正確に伝わっているとすると津波の前にすでにあり相当に古いものだとなる。それは津波と関係なく建てられたのであり偶然に津波からまねがれたものだとなる。もし津波の後だとするとその解釈はまるで違ったものとなる。

 
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2013年10月13日

クルーズトレイン七つ星は贅沢なの? (贅沢は旅でもそうだが時間をかけることにあった)

 

クルーズトレイン七つ星は贅沢なの?

(贅沢は旅でもそうだが時間をかけることにあった)

クルーズトレイン七つ星 in Kyushuu は見るだけでも見ほれてしまう。最近アニメの技術が発達してあれと同じもようなものを見た。それが木の質感がリアルにでていたのである。あの列車の魅力は室内装飾が木であることなのだ。日本の匠の技が存分に活かされている。それからトイレの洗面所の手洗いに有田焼の柿右衛門の赤が使われていることは相当な贅沢である。まさに走る七つ星の最高級のホテルである。窓が大きく走ってゆくレールが見えるのもいい、常磐線の自分の住んでいる所は津波と原発事故で原町駅と相馬駅を二両で走っている。前にも写真出してプログに書いたけど必ず前方が見えたり後方が見えたりする。そして何か二両だと人間的になる。雨がふっても何か人間的であわれだとかなる。二両になった結果、極めて人間的なものとして身近なものになったのである。

クルーズトレイン七つ星は贅沢なものかというと確かに贅を尽くしているから誰もそれに異論はない。誰でも一度は乗ってみたいというのもわかる。でも自分が乗ってみて贅沢とは何かとなると今になると贅沢は別に金でしか買えないものではない、人間一番の贅沢は何か?それが若い人は特に誤解している。贅沢は金でしか買えないものではない、贅沢は実は時間をかけることなのだ。旅でも時間をかけたものなら記憶に残る。でも団体旅行で急ぐ旅行は記憶に残らない。今は何でも早すぎる、電車だって車窓の景色を覚えている人は少ない、見ている間に通りすぎるから景色を覚えられないのである。ただ電車に乗るということは走っているという高揚感を楽しむとなる。鉄道マニアになるといろいろな楽しみ方がある。メカニックに楽しむ人もいる。何か鉄道はレールにさえ愛着を覚える。

まず車とかバスにはそうした愛着を覚えない、ただ車マニアもいるから車好きの人は車に異常に愛着を覚える人もいるのだろう。

自分はほとんどの線を乗った。外国でも結構乗ったから電車の旅は長いから愛着がある。電車に乗ること自転車にのること旅することが人生だったともなる。そんな遊びが人生なのかともなるが結局人間は働くにしろ遊ぶにしろ何に時間を費やしたかが人生なのである。それぞれの時間は限られている。あらゆることなど経験し得ないのである。

会社で働き苦労するのも人生でありそこで得るもの失うものがある。とにかく人間にとって時間ほど貴重なものはないのだ。つまり時間は老人になるとわかるけど金では買えなくなる。いくら何十億の金があっても時間は買えないし若さも戻せないのである。
人間が経験するのは何でも一度でありあとは経験できない、結局馬鹿げた経験も経験だったとなる。なぜなら馬鹿げた経験すら老人になってみると経験できなくなっているからだ。あとはこの世ともお別れだとなるだけである。

学問でもこれも雑学にしても無駄とは言えないのである。なぜなら雑学でも学問は積み重ねだとするとそれだけの時間を費やさねばならない、時間を費やした結果知識の積み重ねができる。それでどんな部門でも詳しくなれる。天才であっても費やす時間が限られているから何でも詳しくなれないスキルも磨けないのだ。生まれつきの才能はあるにしろどれだけ時間を費やすかによってその才能も生きてくる。人間の読書量だって限られている。老人になるとわかるけどどれだけの古典を貴重な本を読み逃していたかわかる。
これしか読めなかったのかとなる。自分にしても俳句とか短歌作ったにしても古典をほとんど丁寧に読んでいなかった。すると古語を十分に駆使できなかったとなる。
今は勉強するものが多すぎる。かえって日本の古語の美しさなどが忘れられていたのである。英語に勉強を費やせば日本の古語など忘れられてしまうだろう。実用的にも英語だとなってしまい日本人の残した文化自体が忘れられていたのだ。
だからこれからはかえって国風文化の時代になる。

よく老人の欲しいものは何かなどキーワードで探しているものがいる。それだけ老人が金を持っているから売りたいということでそうなる。ではそれは何かということでクルーズトレイン七つ星の企画となったとテレビで放送していた。老人が欲しいものの一つの答えとしてあの豪華なトレインとなった。老人の欲しいものは何かといったらもうモノではない、クルーズトレインもそうだが贅沢な時間を味わうことになる。クルーズトレインで実はその内装もそうだがスローに走り景色を楽しむ時間がある。そのことが一番贅沢かもしれない、電車は今は早すぎるからゆっくりでないと景色を楽しむことができないのである。これは別に豪華な列車でもゆっくりと走る電車があったらこれは贅沢だとなる。それは別に金をかける必要もないのだ。つまり一番の贅沢は時間をかけることなのである。
それがスピード時代の現代ではできないのである。だから時間を遅らせることが一番の贅沢だとなる皮肉があるのだ。江戸時代の旅は歩いていたから苦労であっても記憶に残る旅をしていた。自然でも人でも時間をかけて濃密に交わる旅をしていたのである。
だからいちがいに江戸時代は貧乏で苦労ばかり多かったともいえない、その苦労の中に喜びもあった。苦労しないからかえって喜びがなくなったという皮肉もあるのだ。


九州を旅したのは三回くらいであり九州は北海道よりずっと遠くなじみがない、ただ普通車にのったとき地元の高校生が強い九州弁のなまりで話していた。その間乗っている時間が長かった。それで記憶していた。外は一面の菜の花畑の景色がつづいていたのである。
菜の花や普通車に長く訛りかな

豪華列車ではこんな経験はしにくい、土地の人とも交わらない、だから旅は金をかけたからといっていい旅人はならないし記憶に残るた旅ともならない、旅ではどれだけ時間をかけたかで旅の充実感が得られるのだ。一つの山でも朝から晩まで見ていたらその山の姿がここに残る。でも現代はただ早く早く通りすぎてゆくだけだからその山の姿が心に残らないのだ。歩いて旅するならその山を見つつ一日歩くことになるから山も心に残りやすい、電車であれ車であれ通りすぎるだけになると心に残らないのである。


老後はどっちかというとそういう旅より家にいることが長くなると家が大事になる。最近八畳間に寝ているからここが落ち着くのである。天井が低かったりすると圧迫感がある。天井が高く部屋が広いとゆったり眠れるということがある。昔風の家で欄間の作りなども職人が丁寧に作っていた。そして竿縁天井とかありなぜこれが意外と大事かわかった。
寝る時必ず上を見ているからその装飾が大事になる。天井が立派だと何か贅沢な気分にひたれることがわかった。そして日本人はどうしても和風の空間になごみを感じるのだ。
だから古語にもなごみを感じる。それは英語などとまるで違った言語感覚だからである。これからは国風文化が見直されるのでありグローバル化でも日本的なものが世界が求めているのであり欧米化したものを日本には求めていないのである。日本独自の文化があって日本に求めるものが世界から見ればあるとなる。グローバル化で一様化したら別に外国に行く必要もなくなる。これから英語を習うより日本の古典を古語でゆっくり読むというのもいいかもしれない、そういう時代の変化が明治維新から120年とか過ぎてそうなってきている。奈良時代は唐風文化全盛期だったが平安時代になるとかなが生まれ国風文化になった時代とにているのだ。


七つ星トレインはむしろあれだけの和風の内装があるとしたらホテルでゆったりとする時間を過ごした方がいいとなる。和風のホテルで広い和の庭があるホテルがいい、茶室の空間もありそこで何より和の時間を楽しむのである。茶碗でも名器をゆっくりと手にとりなじませる。そもそも茶の湯はそういうゆったりとした時間があって生まれたものである。現代とはまさにこの時間が欠如しているから文化が喪失したのである。

posted by 老鶯 at 14:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

北風が吹いた (フェールメールの牛乳を注ぐ女性の不思議)


北風が吹いた


(フェールメールの牛乳を注ぐ女性の不思議)

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青いガーベラ


大輪のガーベラ我が庭に惜しみなく咲きて散りにき悔いもなきかな

北風の路地に吹くかな通る人小高の人や二年半すぐ
風やみて窓辺に月の光るかな奥の座敷に我は寝るかも
我が家にフェールメールの絵飾りにつ日毎に見ゆる牛乳をそそぐ女


このガーベラは大きかった。青いガーベラも何ともいえぬ色だった。フェールメールの牛乳を注ぐ召使の女性の絵を毎日階段を上がって見ている。その絵で不思議だと思ったのは青い色がガーベラの青と同じような色だった。ガーベラにこんな色があるのかと不思議だった。青でもいろいろな青がありこの青がフェールメールでは印象的になる。

そしてなぜこういう平凡な日常生活が絵になったのかということである。今までこういう場面を絵の題材にしていない、それも召使だから余計にしないということがある。
そこには当時のオランダの社会の人間観があった。そもそも極端な階級社会だったら召使に注目するはずがないからだ。召使の家での役割を良くみていたし感じていたからこの絵ができた。


そしてこの絵を見ているとやはり時間の感覚が違う。牛乳を注ぐのがいかにもゆっくりしている感じがする。この家になじみ手慣れている。何かこの絵を見ているとこんな女性がいたら落ち着くだろうなと思った。というのは家事を全部自分でやっているからそうなる。これは極めて家に飾るのに向いている。特に台所に飾ったりしたらいいかもしれない、床の間とかには向いていない、何か時間の感覚がゆっくりしているということゆっくり慎重に牛乳を注いでいる。これもありふれた光景なのだけど心にしみる。

家事の機械化のことを書いたけど便利にしたいのはいいがそこでは何かこうした人間的なものが欠落してくる。ここには人間の存在感をありふれていて感じる不思議さがある。
普通働いている主婦に何か存在感を見いだし得ないだろう。主婦自体が家事などめんどうでやりたくないというのが普通だし自分もそうだった。
でもこれを家に飾って毎日見ていると何かこの召使の女性と家で一緒に暮らしている感覚になる不思議がある。これは家に飾るのに一番向いていたのである。

芸術というのがただ博物館とかで一つ一つの絵を鑑賞するのが芸術ではない、芸術の日常化が必要だったのである。日常の生活の中で活かされて芸術も存在感をもつのである。
ただそもそもこういうふうに召使の平凡な女性そのものに注目して題材にしない、その題材自体の発見がここにはあったのである。

つまり貴族の婦人の絵は良くみかけるけどそれが本当に価値あるものだったのか?
いかに美的に描かれてもそういうものに価値があったのか?むしろこうして下働きの女性に美と価値観を見いだしたからこそ価値あるものとなった。労働者でも主婦でも自らの働いている価値を見いだせない、みんな家事なんか自分をふくめてやりたくないのだ。
労働そのものがみんなそうである。その原因の一つが価値が認められないことなのだ。
ただ時給いくらとか金銭で計られるだけでありその仕事の価値そのものを認められることが少ないのである。


今日は北風がうなり吹いた。まだ秋だけど今日は急激に冬のようになり北風が吹いた。
何か気候の変化は今年は激しい。そして窓から見ているとたいがい通るのは仮設に住んでいる小高の人である。そしてすでに二年半以上過ぎたなと思う。
つまり二年半の歳月の重みが加わったのである。時間の経過の中で何かが心にしみてくる。仮設の経験は仮設に入った人しかわからないだろう。
これも一つの人生経験だった。小高では復興祭をするとあった。そうか、それだけ回復もしたのかと思う。やはりそろそろ帰る人は準備しているのだろう。
帰らない人もいるが帰る人もいる。三年くらいいれば小高の人もここにいたという記憶は残りまた他でも同じ感覚になるだろう。こういう経験はあまりできないことだったのである。


今日は風がやみ窓辺に明るく月が光っていた。その月をみて奥の座敷にねる。
ただまた風呂を掃除したり暇なくしているのが自分である。

 

2013年10月14日

津波がなぜ伝えられなかったのかその不思議 (仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)読む


津波がなぜ伝えられないのかその不思議

(仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)読む


●津波に対する人間の心理(嫌なことに目をそむける)

 寺に葬った時、住職が過去帳を開いて、世にも不思
議なことがあるものかと驚いた。140 年以上前の宝永年
中にも、この家では母と三婦、二女の女六人が死んだこ
とが記録されていたのであった。過去帳にも載っている
程のことなので、この家では、地震の際に船に乗っては
ならないことを申し伝えておけば良いものを、そうしな
かったのであった。災害のことを話せば、悲しくて耐え
られないので、兎に角、言わないようにしていたのであっ
た。そして、100 年以上たって、災害の教訓は多くの人々
に伝えられなかったのである。
 この話は繰り返す災害ということ

。「悲しい出来事は早く忘れたほうが良
い」、「悲しい出来事は言わない方が良い」と考える人々
が多いこと。自分が被災した経験を人に伝える活動を続
けられる人はむしろ少ない。その少数派の体験者が年を
とり、亡くなってしまえば、教訓が伝承されないのであ
る。
 津波災害はめったに起こるも

http://www.rits-dmuch.jp/jp/results/disaster/dl_files/13go/13_3.pdf
 

今回の震災も後世にこんな風に残すなら、どういう方法がいいのでしょうね。電子媒体だとデータが消えたら終わりだし、読み込めなくなっても終わり。文書に残しても破損したり紛失したりしたら終わり。何か絶対に伝わる方法があれば一番いいけど、江戸時代の震災の記録だって残っていたのにダレもそれが近々起きるなんて思ってなかったのだから、こういう記録を残してもやっぱり伝わらないのかな・・・。
http://love.mania.daa.jp/?eid=990003


つらいこと、嫌なこと、こうした災いは、いつのまにか歴史の外においやられ、時間の経過とともに事実を隠し長い長い年月を経ているうちに過去においてこの地に確かに大きな津波を来たにもかからわず遠い昔のことであるためにいつのまにか昔話となってしまうということなのです
(仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)


なぜ津波のことがこれほどの大惨事なのに語り継がれなかったのか?それは人間の心理的なものもあった。あまりにも悲惨なこと自体、人は目をそむける。死人などや無残な病人でも人はそういう場にいたくない、病院でも悲惨な状態だからそういう場に長いはしたくないし病気も重病になると誰もよりつかない、南相馬市立病院に入院していた浪江の人はそうだった。ただ手をやっとあげるだけでありしゃべることもなにすることもできない、ただ妻が手をにぎるときやっとわかるのか手をにぎりあとは何もできないのである。
そうなったとき土地の農業の指導者だったけど誰もよりつかないと奥さんが怒っていた。人間はみんなそうなると寄りつかない、そうした悲惨な姿に目をそむける傾向があるのだ。そもそも汚いもの苦しい姿を見たくないというのが人間の心理である。それは冷たいというものでもなく人間の正直な心理なのである。


それは別に病気でなくても老人はみんなみにくくなるのでその姿自体に嫌悪する。だから医者であれ看護師であれ過酷な仕事だから性格がゆがんでいるきつい性格になるというのはやむをえないことなのである。
でもそうした嫌なこと汚いことに誰かが従事せざるを得ないのも事実なのである。
人間には隠微して隠したいものがある。確かに「八沢浦が元の美しい入江にもどった」と写真だして紹介したとき「お前はここで死んだ泥まみれの子供のことをどう思うんだ」と言われた。自衛隊の人が泥をかき分けて死体を探していたのである。それは水が引いたあとだった。でもそういうものは見えず美しい入江にもどった八沢浦に正直感嘆していたのだ。そこに住んでいた人ならそんなふうにはみない事は確かである。


●ポンペイのように津波で壊滅して語り継ぐものがいなかった


津波伝説の残される地域


(1)津波伝説は津波の空白域といわれる海域周辺に接する地方に多い。
現在の仙台地方の多賀城地方に津波伝説が多いのはこの二地方は貞観津波、慶長津波以来の空白地域にあたるからである

(2)津波浸水の最終到達付近に津波伝説が良く残される
(3)津波伝説は小高い山、高台、高所、丘、と何らか関係をもって作られる
こういうところには津波の生存者がいて、事実を語り継がれている場合が多い
(4)津波浸水の最終到達点へ来る前の通過地域に津波伝説が少ない。


(仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)の本が津波の前に出ていた。津波を郷土史を研究して警告していたのである。今になって注目されたが当時はほんとんど注目されていないのだ。津波にあの辺も無警戒だったのである。科学者も仙台の海側が宅地が広がっている時、昔津波が来ていたと警告したが無視されただけではない、不動産屋が土地の値段が下がるからそんなこと言うなと脅迫さえしてきたのである。人間は原発でも同じだけど現在の利益に頭が一杯になる。過去とか未来とかを考慮することに極端に欠けているのだ。
現在にすべてが身も心も奪われているのが人間である。特に自分の利益にかかわると目の色を変えるからこういうことを平気で言うのである。


自分もそうだがなぜ相馬藩内でも700人が死んだ津波の被害があったのにほとんど語られなかったのだろうという不思議である。新地辺りの地蔵森には津波の伝説が残っていた。それは海岸からかなり奥になる。津波がここでもそうだがこんなところまで津波がきたのかと津波の来た到達地点が問題になる。それで残り谷(残り屋)という地名が残る理由もわかる。この家が良く残ったと感心したのここでも同じである。

そしてなぜ最も被害の大きい海岸に接した所ではかえって津波のことが語られなかったというのも不思議である。一つの理由として海岸に接したところは人家も残らず人もみんな死んで壊滅した。今でも磯部とか烏崎村はそうだった。人家も残らず家族が全部死んだらその地点の伝承も残らない、誰も語るものがいないから津波の伝承も伝説も残らなかったというのも津波の恐ろしさを示している。ポンペイのように一瞬にして火山の爆発で埋もれた街は最近まで二千年近く忘れられていたのである。それは生き残るものがいなかったから伝えられることもなかったためである。そういう恐るべき自然災害が過去にもあったのである。


本村八幡(多賀城市八幡)には上千軒、下千軒といって繁盛していたがいつの頃だったか大津波に流されて砂原と化してしまったという伝説が今でも残っている。


今でもというとき多賀城はあれだけ海に接して人家が密集している。昔もそういう時があって不思議ではない、これだけの家が一瞬にして流されて消える。そのあとに津波の跡のよう茫漠とした原野と化してしまう。そういうことはこの辺りでも目の当たりにしたしそのことを写真入りで度々プログに出してきた。家があったところが何もなくなり沼と化して鴫たつ沢になったということも書いた。津波はまるで夢のようなだと最初から書いてきた。一年くらいは全く夢心地であり現実に思えなかったのである。一瞬にしてこれだけの人家が消えればそれはまるで夢のようだとなりその街自体消失して誰も伝えるものがなく幻の街があったとなるだけである。それは草戸千軒というのもそうなのだろう。何も伝えがない不思議があった。でも最近の考古学の発掘で遺物がでてきてそれが証明されたのである。つまり幻の街ではなかっのである。
人間の街も消える時は一瞬にして消える。徐々に消えるのではない一瞬にしてすべてが消えてしまうのである。それが最後の審判の時である。徐々に消えてゆくのではない、一瞬にしてすべてが消えるのだ。それが人類最後の有り様なのであり津波からそういうことはリアルにシュミレートされるのである。


ただなぜ津波の事が語り継がれなかったのか?


津波伝説は津波の空白域といわれる海域周辺に接する地方に多い


こう言っているけど相馬地方では伝説すら極めてまれでありほとんど伝えられていない、だからこそ津神社が津波の神社でも全く忘れられていた。「本邦祠の研究」の岩崎氏も津神社を津波の神社だと書いていないのである。津波については知り得ようがない状態がこの辺にはあった。多賀城や名取でもあの辺には結構津波の伝説が多い。だからこそ飯沼氏も津波を警告するまでの本を書いていたのである。相馬地方ではそういうことすら書くこともできない状態だった。何も伝えられていないとしたら書くことも警告する事もできない。ただ科学者が松川浦の奥まで津波が押し寄せて残した砂などを発掘してこれば貞観津波のものだと言っていたのでそんなことがあったのかと一回だけ面白がって時事問題の深層に書いたのである。


●一瞬にして幻のように消える街は歴史の事実


相馬地方でも海岸地域に烏崎村でもすでに人が住んでいて壊滅的状態になった。人家もなくなりその惨状を生き残る人もいないから伝えられなくなっていたのかもしれない、なぜならその時もっと人家がまばらであり烏崎に人が集中してもそこだけでありそこが壊滅してしまいば語る人がいなくなるからだ。それほど語る人まで奪ってしまうほど津波は恐ろしいものだったということである。一瞬にして千軒二千軒の家が消失して跡形もなくなり後は原野となってしまう。現実にそういう場面を写真で報告してきた。


歴史を考える時、嫌なこと目をそむけたくなるようなことを人は語り継ぎたくない、そのことはかなり危険なことであることが津波の経験からもわかった。例えば戦争のこともその悲惨なことは実際は隠されている。戦場で人を殺したということなどあからさま今生きている人も語らないのである。語れないのである。実際に戦争に遠くのことが隠されている。それはあからさまにできない悲惨なことであるからだ。ただ事実だから隠し終えないで今になり伝えられる。でもどうしても隠したいということが働くのが人間の心理でありかえって戦争が美化されるのも現実なのである。その美化されることに危険がありまこた戦争になるという危険がある。人間は個人的にもそうである。嫌なことは忘れたいのである。そして何か人生を美化してしまう。何らか罪を犯さない人はいないしそういうことも隠される。でも実際は隠せるものではない、良心の痛みとしてそれは死ぬまでひきづることになる。だから若い時の過ちは実際は軽いものではなく重いものとして老人になってかえって苦しめられることになるから注意すべきなのである。でも若気のいたりというのは誰にでもある。


とにくか相馬地方では伝説すら残らなかった。その理由は明確でないにしろこういう一面があった。人間は悲惨なことを忘れたい隠したいという人間心理が働いた。それと今回のように磯部や烏崎のように村自体が壊滅して消失して伝える人がいなくなっていた。
だからここに千軒二千軒の街があったとか村があったとか幻のようになり伝えられなかったのである。こうして幻のごとく街自体が消えてしまうこともあることなのだ。
人間もそうだが村や街といってもいかに繁華であっても一瞬に消えることがあるという事実なのである。このことこそがまさにこの世の無常だとかしかいいようがないことだったのである。


ポンペイは一瞬にして炎と煙につつまれ消滅した
以来灰と土に埋もれて二千年忘れられていた
抱き合ったまま死んでいた男女死体もあった
誰も語るものもなく埋もれてしまった
その無常は津波の被害とにていた
村や街は一瞬にして津波にのまれ消失した
人々は街を捨てて悲劇を忘れたい
最愛の家族を失ったことは語りたくない
あまりにも無残であったから
ただ平和の日の良き思い出だけを語りたい
思い出したいとなるのが人間の心理
でも災害は災難は常に人間に逃れがたくやってくる
病魔もそうであり自然災害もそうである
幸せを粉々に打ち砕きどん底に陥れる
それが無常の世なのは変わりなかった

posted by 老鶯 at 15:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年10月15日

時ならぬ雨に散る秋の薔薇 (計りえない予想し得ないのがこの世のあり人生)


時ならぬ雨に散る秋の薔薇

(計りえない予想し得ないのがこの世のあり人生)


時ならぬ雨に打たれて秋の薔薇残る一輪散りにけるかな

大きな台風が今頃来るのか?駅前の薔薇は一輪咲き残っていたけどこの雨に打たれて散ったろう。時ならもの、それに人は必ず襲われる。自分が30年間何もなかったこと戦後60年間平和だったこと、日本の高度成長も今になれば幸運だったのである。そのう幸運は世界情勢とかいろいろなものが反映してそうなった。別に団塊の世代が豊かにしたとかはならない、条件に恵まれただけなのである。富はとても個人だけの力でもたらされるものではないのだ。


人間には長くもあり短い人生でも必ず時ならぬものが襲ってくる。60年間も生きれば社会も激変することがある。今回の津波はまさに時ならぬもの、予想しえないものだったのである。時ならぬものは自分にも襲いかかった。家族の病気、自分の病気、犯罪、あらゆる不幸が自分に襲いかかった。時ならぬ嵐の6年間だった。これは自分だけではないあらゆる人がそういう嵐に見舞われる。平穏無事に一生を終える人はいない、なぜなら人間はもろいものだからである。


秋の薔薇は五六輪咲いていて月の光に美しかった。それを自分は見ていた。もう残り一輪とかなっていた。それは明るい美しい月の光の中に散ると思っていたのだ。
でも実際は思わぬ時ならぬ台風の雨に打たれて散ったのである。
これは花の運命だったけど人間もどういうふうに死ぬかわからない、ただ死はみんな時ならぬものとしてふいに訪れる。死別もふいに訪れる。人生は予想つかない時ならぬものに襲われる。それは90歳になろうがそうした時ならぬものに襲われるのだ。
90年無事でも91歳に災難にあうことはありうるのだ。実際そうなっているのがこの辺の状態でもある。時ならぬものには人間の力では抗しがたいのである。


いくら貯金していても安全ということは人間にはない、明日のことはわからない、突然紙幣が紙切れになることもある。戦争の時そうなった。自分の母は前の結婚した相手が事故で死んだ。その時補償金として一生暮らせる金をもらったと言われた。でも戦争が終わり貨幣の価値はほとんどゼロになり紙幣が紙切れになったのである。わずかの土地を買ったものだけが残ったのである。

もうこの世に完全な安全などないのだ。どんなに安全を図っても安全はない、だから原発でも学者が確率で百万年に一回しか事故が起こる確率はないと真面目に話していた。
一体どうしてそなん確率が導かれるのか?一体貞観津波とか慶長津波のことが考慮していたのか?科学者の頭に歴史が全くなかったのである。そこに理系の盲点があったのかもしれない、とても数学的確率などでそんな絶対的安全など計れないのである。
この世にどんなに堅牢な建物を建てても崩れないということがあるのだろうか?
そういうことが津波でまざまざとみせつけられたのである。

想定外というときこの世のことが人間の力ですべて知りえないからそうなっているのだ。
自分も実際に時ならぬものによって病気になり死んでいたかもしれない、ガンになっていたら終わりだった。その時悲惨そのものになった。頼るべきものもなち捨てられるように死ぬことになった。死ななかったのは運だったのかまだ神により生かされたのだろう。
人間は生き残るものは生き残るのかもしれない、有為な人も戦争で多く死んだ。
無能なものが多く生き残ったとか言われる。これも人間界の不条理なのか?

不可解なのが人生である。津波で幼くして死んだものもいるし生き残ったものもいる。
それもまた運命なのか?人間はみな先が読めないのだ。もし数学のように数式のように自然界でも人生でも計れるのなら問題がない、そんなことできようがないのだ。

個人個人の人生でもそうである。何が起きるか予想もつかないのが人生なのである。
時ならぬ突然の病で死ぬ人も多いことでもわかる。
運がいいと思ったら運が悪いことだったとか何が運がいいのかもわからないのである。
悪いことは良いことに変化するし悪いことも良いことに変化する。
だからこの辺の災難は悪いことだらけなのだけど一面良い方に変化することもあり得るのだ。それは時間がかかってもそうなる。


原発なんかこりごりだ、家族一緒にロウソクでも暮らせる方がいいと家族バラバラにされた人か言っていたけどそんな気持ちになることはやはり今までのことを身をもって反省するようになる。するとそこから新たなものが生まれる可能性がでてくる。
貧乏でもいいから原発がなくてもなんとか安全に自然とともに暮らせればいいとか真剣に考えるかもしれないのだ。原発の代償はあまりにも大きすぎたのである。
村や町自体がなくなるなど考えも及ばなかったのである。


時ならぬ雨という時、天候すら熱帯化して変化する。千年単位ではどう変化するかわからない。人間の単位は十年とか百年とか短いからである。自然の単位は百年は一年くらいになるしその時間の感覚は根本的に違っているから予想し得ないことが起きてくるのである。人間は百年生きたとして結局自然の時間では一年しか生きたことにはならない、
だから歴史がそこで大事になる。歴史的思考がなくなれば人間はたった一年の思考で物事を決めてしまうことになるからだ。

 
 

2013年10月16日

地名は知っていた(上)太宰幸子を読んで (なぜ奥松島から野蒜から鳴瀬町の旅行のことが読まれているのか)


地名は知っていた(上)太宰幸子を読んで

(なぜ奥松島から野蒜から鳴瀬町の旅行のことが読まれているのか)

奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)
http://musubu2.sblo.jp/article/29414836.html


地名から津波の被害地域を回って書いた本だが地名の深い考察はここにはなかった。津波の被害地域を回ってその状態を報告したという本である。地名はもっと字地名とかの分析が必要になる。この本にはほとんどなかった。
それでも今回の津波は東北の海岸地帯が一つに結ばれていることを意識させられたのである。津波の被害ということで意識させられた。これまでは津波は宮城県の三陸などでは度々襲われているから語られてきた。でも宮城県でも松島とか多賀城から名取などはあまり語られていない、それでも福島県の浜通りよりは伝説が残されていた。

だからある程度津波については知られていた。しかしやはり危機感が不足していた。
被害を大きくしたのは仙台の市街地が海岸沿いに無制限に広がったことである。
だから多賀城などでは家が密集して海が全く意識されなくなっていた。
でも砂押川に津波が押し寄せてきりぎりで土手でとめたという。意外と海は近かったのである。末ノ松山も多賀城駅からすぐ近くだったのである。
貞観津波では古代の多賀城近辺までおしよせたのでその恐怖を書き記して都であった京都に伝えたのである。


一衣带水


一本の帯のように狭い川や海またはそれによって隔てられること、たとえ隔たってもそのことが互いの往来を妨げないこと


この意味とも違うが東北の海岸地帯は海で共通の文化が意識された。大陸は大河で結ばれるけど日本は回りが海なのだから海で結ばれることが古代からあった。ヤマトタケルの東の国への遠征が舟て行われたというのもそのためである。それはどの辺まで来たのかめいかくではないにしろ多賀城も視野に入る東北の長い沿岸であった。


市がたつような場所はどちらかというと城下から少し離れた川沿いや浜沿いが多かった。古い時代には八幡川の名彼と海岸に近い場所だったと想定できる。川や海が運んでくる大量の土砂が退席していつか土地が安定してくると人々はそこに集まり家が建つようになり埋め立てが行われる。
(志津川-十日町)


これは確かにそうである。磯部の家密集していた所は砂州だったけども田として開拓した地より地盤が安定していた。砂州だからそんなことはないように見えても当時は湿地帯が広かったのだから湿地でないところに家を建てた。それは烏崎でもにている。

浜市から離れて牛綱村というのがある。牛綱村は昔は吾妻街道であったが漁師は漁をするために海辺まで綱を牛によって運んだので牛綱村となったという。
綱で牛をひいて浜市まで来た、浜市には牛で運べるものが魚でもとれたので売っていたので運んだということなのか?牛綱村と浜市には人の行き来があった。もともとは牛綱村に人が住むのが先であったが浜市が市場になり人がそこに移動した。そういう関係が烏崎村にもあった。ここの津浪の被害も大きかった。


白萩はシラはシロは「まっさらになること」ハギは「表土や土地がはがされること」を意味することが多い


あそこがこんな状態になったのか?相当に家が集まっていて街のようになっていた。たた道が細く松の枝がおおいかぶさるように伸びていた。あの写真などが消えたので注目されているのか?白萩とは一面に萩が咲いている所とはまるで違った意味だった。

ともかく東名とか野蒜とか鳴瀬川一帯、白萩、牛綱などはいい場所だった。それが根こそぎ津波で破壊された。そこはもう仙石線は通らないという。津波の被害地域には通さないから高台に移動する。すると廃線後としてプログで紹介していたサイトがあった。
あの辺は家が密集していたから被害も大きかった。でも仙台の郊外であり別に職を失うわけではないから人口はそんなに減っていないという。残る人が結構多い。石巻などや牡鹿半島でも零細な港は漁業が牡蠣などが生業だったが野蒜は仙台の延長として通勤圏としてあったから違っていた。

東名とかまでは海に接して仙石線が走っていた。真近に島も見えて写真をとっていた。あういうふうに海に接して走ることがなくなるとその経験は貴重だったとなる。だからあの辺を津波の後どうなっているか訪ねてみたい、でもあの辺は交通が遮断されているしめんどうである。車がないからなかなか行きにくいし自分の事情もある。

ただ津波の被害で東北の海岸がつながっていたことは意識された。例えば津神社は海岸にしかない、その津神社は慶長津波の記念だったとすると前にも東北の海岸地帯は同じような被害があった。ただこの津神社は津波の神社として一連のものとして意識されなかったのである。もし津波神社とみんな名前になっていたら意識したのである。津神社というのがあいまいにして津波を明確に意識させなかったのである。八龍神社は海側だけではない、山側にもある水の神である。津神社は明らかに津波の記念だとすると海岸に接した所にしかないのである。たたあとで綿津見神社とかなり稲作の神となり内陸部に広がった。
そもそも綿津見神社が内陸部に広がることがわかりにくい、海の豊漁を願うなら海岸にあるべきだが内陸になると稲作の実りを祈る神となるからだ。オコゼを山の神にささげたというとき海と山との交流があったことは確かである。それは魚を山に住んでいる人も食べたいのだから歓迎されることは今でもわかる。


ただ海の歴史は消失しやすいのだ。海は大地のように何かモノでも記憶させない、海に船が沈んだら記憶から消える。港も一時的に栄えても船が来なくなり衰退すると船が一杯きて物を運んできたとか言っても時間がたつにつれそれが伝説の港になってしまう。船の交流は記録として残りにくいから小高に港があって船が入ってきて栄えていたといっても遺跡も遺物もないから想像もできなくなる。古墳などはいつまでも形を留めて残っているからそこから歴史をたどりやすいが海の交流は記録が残らないからそこに誤解が生まれているのである。津波の記憶すら明確に残されないのもそのためである。なぜなら町ごと村ごと津波で全部流されたら何も残らないとてる。神社すら流されてしまい消えたからである。

posted by 老鶯 at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係