2013年10月01日

秋薔薇 (ソニーのRX100M2はやはり写りが違っている)


秋薔薇

(ソニーのRX100M2はやはり写りが違っている)

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秋薔薇朝一杯に光あぶ
五六輪朝の日あびて秋薔薇
秋薔薇今一時の光かな
隠されて一輪ひそか秋薔薇
秋薔薇石も暮れゆく庭広し
萩しだれ二両の電車通うかな
なお森にひびきて暮れぬ秋の蝉


啄木鳥の虫を探して木をたたくその音しばし田舎の町かな

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秋薔薇が朝の光にを受けて駅に咲いていた。今度買ったソニーのRX1002は写りが違っている。今までだと光の感じがうまく写っていない、これは朝の光の感じが出ている。
カメラはやはりみんな写りが違っている。カメラは光をどれだけとらえられるかが問題になるのかもしれない、このカメラは夜には強い、だから月の光の中でもきれいに写るだろう。


光という時、光は人間にとっても自然界にとっても喜びなのである。
ゲーテが「もっと光を」と言って死んだというがまさに光が喜びだからである。
フェールメールの絵がいいのはその光をとらえたから不朽の作品となった。
明らかにカメラによって光の感じが違ったようになる。
するとカメラによりけりで芸術性が高められるのである。

20万のソニーのカメラ買おうかと思ったがどうしても自分の場合落としたりするので買わなかった。このカメラでも前よりはきれいにとれているだろう。

近くでシャーターチャンスが結構ある。鳥はとるのがむずかしいけど隣の庭に来たのでとれた。こんなにはっきりととれるのはめずらしい。ぶれたりして動くものはとりにくいのだ。これは近くで定点でとっていたからとれた。コゲラでありこれはこの辺でもときたまみかけるのだ。ただ滅多にみかけないから写真にとるのはむずかしい。
最近は海の方から津波の跡にめずらしい鳥が飛んできた。これもとることができなかった。

啄木鳥という時、北海道は大きな啄木鳥がいてその音が遠くまでひびき木霊する。
冬でもオホーツクの斜里町に行った時、啄木鳥の音がひびいていた。クマゲラとかなると大きいから音がかなり木霊する。クマゲラでなくても啄木鳥と種類が多い。
アカゲラなどは岩手県の小岩井牧場でみかけた。その時も冬でありただ啄木鳥の音が深い森に木霊するだけだった。この啄木鳥は大食漢であり相当の虫を木をつつきとりだして食べている。だから暇なし虫を食べるために木をつついているのだ。
一見のどかなように見えても自然界では餌をとるために毎日活動しているのである。

萩が川子の高台にしだれていた。そこに二両の電車が通る。これもなかなかとれない、電車は定期的に通るからその時間をまっていてとるほかない、この辺はまだ自然があるから遠くに行かなくても写真になるものがある。津波の後に景色が変わったからそれも写真として記録するのにはいい。
写真もやはり芸術なのだろう。ただ自然はとっているけど人間はとっていない、人間をとったものとして50年前とかの写真は貴重だった。今ならフォトブックとか大量の写真が残るから50年たった時思い出すから得である。なかなか思い出せないのが過去になってくるからだ。


写真の魅力はやとりデジカメになってから一般化したのだ。適当にその場で10枚くらいとっていいものを選べばそれなりのものがとれているからだ。プリントでもキタムラショップとかで頼めば前の写真の現像と同じ画質で残せるのである。
そういう点では恵まれた時代である。

ボランティアの限界 (相馬藩が飢饉の人口減少を救った越中などの移民)

 

ボランティアの限界

(相馬藩が飢饉の人口減少を救った越中などの移民)

ボランティアが今でもきている。今は小高を中心にボランティアは来ている。鹿島区にも津波で残った家に若者が集まっている。それが不思議なのは自転車旅行している若者なのである。その人は学生というものでもない20歳の労働者だった。ただ自転車旅行の途中に寄ったのである。今回はボランティアというのが被災地では目立った。それがどういう人かというといろいろあってもその中に自転車旅行の途中に寄ってボランティアになったという人が結構多いのである。それはなぜか?と考えると普通自転車旅行は遊んでいる者とみられるから地元の人でもつきあわない、一時的に通りすぎる人間と見ていたのである。旅人だからなかなか受けれることはない、通りすぎてゆくものとして見ている。
そもそも田舎だとよそ者をなかなか受け入れない、だからよそ者が田舎に住み着くことはなかなかむずかしいとなる。でも今回はよそ者を受け入れることが抵抗なかった。
ボランティアを必要としていたからである。無料で働いてくれるから助かるとなる。


でもボランティアは自転車旅行の途中による若者が結構いたように特別の意識をもってボランティアしているのではない、受け入れられるからここでちょっと寄ってボランティアして帰ろうかなというのが多かったろう。ここに住み着いて働こうという人はまれだったろう。それで三陸の方でボランティアに何度もここで本当に働き生活するのだなと何度も土地の人が念を押していた。一時的にボランティアしても帰る人も多いからそうなる。
あれだけ困窮している所に地元の人すら去ってゆく所に住み着いて暮らすことは容易でないからだ。だからここで働き続けるのなら生涯の仲間だめんどうみてやると地元の漁業関係の人が言っていたのである。もちろんスキルがあり大工は土地の女性と結婚したからその人はすみつくことができる。

ただボランティアにはどうしても限界がある。一時的なものとして通りすがりちょっとボランティアしようかというのでは土地の人も信用しないだろう。

それで相馬藩が飢饉で三分の一に人口が減った時、越中などから移民が命懸けで来て働き相馬藩を建て直すことができた。今になるとこの移民が見直されることになった。
この移民は別にボランティアではない、相馬藩を援助するとか助けるという意識もない、第一当時は藩から抜け出すことが命懸けになっていた。そういう苦労が語り継がれてきた。そもそもなぜ相馬藩にそんなにしてまで移民する必要があったのかとなるとボランティアとはまるで違った意識があった。詳しくはわからないにしろそうした移民する側にも命懸けで移民する事情があった。だから別に相馬藩が困窮しているから困っているから助けてやろうとか言う意識は今のようになかったのである。つまり移民も生きるために必死であり土地を求めて相馬藩にある意味で決死の覚悟で移民したとしか思えないのだ。


そもそも人間はもし住みよい所だったら簡単に移住しないのである。移住するということは何か切羽詰まった事情があって移住する。ゲルマン人の大移動とかなるとやはりそれは人口が増大して土地を求めて移住したのが歴史では多い。遊牧民は常時移動しているからそういうことができる。農民はなかなか土地にしがみつき移動しにくい。
特に江戸時代は移住が禁止されていたし藩内から脱出することは命懸けにもなっていた。そういうなかでどうして越中の人たちがそれも飢饉で瀕死の状態にあった相馬藩に移住したのだろうか?それはなボランティアとか援助とかいう次元ではない、越中の人たちも生きる場を求めて相馬藩に移住した。それはもう故郷には越中には帰れないものとして困窮している相馬藩に移住した。なぜなら帰ることができないのは一旦藩を出たらもどれない、罰せられるかもしれないからだ。だから困窮している相馬藩でもそこで生き抜かねばならない、そういうふうに追い詰められていた。


たから荒廃した相馬藩の土地を必死で開墾して豊かにして相馬藩を結果的に建て直すことになった。最初は草分けという農家に入りその下で働いた。そのうち未開の地や飢饉で捨てられた土地を開墾して実りある土地にした。その苦労は並大抵ではなかった。
その逸話として「加賀泣き」という言葉が残っている。この伝えられた言葉の中に移民の苦しさが凝縮されている。泣き泣き苦しみ働いていたのである。もうそれはボランティアなどというものではない、ただ生き抜くために必死でありここで暮らすほかない、死ぬほかないとまでなっていたから苦しくても留まっていた。それが江戸時代だったのである。だからこそ相馬藩を移民によって建て直すことができたのである。


このことをふりかえるとき津波であれ原発被災者であれあまりにも違っているのである。多額の補償金で被災者が東京まで行って競馬で遊んでいるとかバチンコに毎日通っているとか相馬藩の飢饉の時とはあまりにも違っている。食べ物はかえって毎日マグロの刺身を食べているとか贅沢しているのだ。そこに通りがかりのボランティアがきてちょっと働いてみようかとかなる。あまりにも相馬藩の飢饉の時とは深刻さが違いすぎるのである。
かえって地元の人が遊んでいてボランティアが働いているというのも変なのである。
ニートなどはこのまま生活保護が必要だとか言っている。補償金でこれから生活をしようとしている人たちも多いのかもしれない、老人が多いとどうしてもそうなるのだ。

だから相馬藩の飢饉の時のような危機意識はまるでないのである。
それも時代といえば時代なのだが結局広域化社会は江戸時代の閉鎖された社会と違うのだからかえって容易に解体しやすいということもある。土地にしばりつけられることもないのだからここで苦しんで生きぬくんだとか思いこむ人は少ない、若い人は見切りをつけて補償金もらって他で暮らす方がいいとなってしまう。それをとがめることもできないのだ。


ただ越中の移民にしてもそういうふうに追い詰められていたからこそ相馬藩で必死で生き抜こうとした。移民は何か特別の事情があり追い詰められているから住み慣れた土地を離れる。アイルランドでもジャガイモ飢饉があり食えなくなりアメリカに移住したのである。そうした切羽詰まった事情がありイチカバチカでも未知の国に移民したのである。
航海にしても危険でありアメリカといっても何があるかわからない土地だった。それでやはり飢えてインディアンに食料を恵んでもらって生き延びたということも記されている。やはり慣れない土地に移れば勝手がわほからないからそこに住んでいた原住民の助けを借りなければならない、アメリカの場合はその原住民を虐殺して自分たち主人になってしまったのである。


ボランティアというのは悪いものではない、でもそこには自ずから限界がある。
人間が必死になり真剣になるのはやはりそういう場に追い詰められてなる。ボランティアならいつでもやめることかできる、去ることができるがそこに住み着くとなると去ることはできない、そこで死ぬのだとまでなる。ただ現代ではどこに住んでもいいのだからそういう感覚は喪失している。金があれば住みよい場所に移った方がいいとなっている。

だから津波の被災地でも三陸などでも現地の人が去っていっているのに他の人が住み着くことは容易ではないだろう。とてもボランティアの意識では住み着くことができないだろう。現代はそういう点で恵まれているからそういうふうに強いることもできない、第一地元の人が去ってゆくのに働きもしないのに外部の人が働いているというのも奇妙なのである。だからかえって外部の働く人が現地の働かない人を追い出し住み着く権利がでるともなる。


復興するというとき地元の人がまず復興しようとする気にならなければ外部の人も援助する気分になれないだろう。これは尖閣問題でも日本が守ろうとしないならアメリカは助けやしないというのも本当だろう。日本の領土なのだからまず日本が必死で守ろうとしなければ他国も助けないのである。何でもアメリカが助けてくれるという他力本願では日本自体守れないだろう。それと同じで自ら助けようとしないものは他者も助けないのである。その辺が何か津浪の被災地でも原発避難者でも特に原発被災者は多額の補償金でもう復興といってもやる気がなくなっていることがある。特に老人が多いとどうしてもそうなるのである。

加賀泣きと伝えられにし相馬藩飢饉を救う移民を思いぬ
 
posted by 老鶯 at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年10月02日

南相馬市の鹿島区の東電の賠償額


南相馬市の鹿島区の東電の賠償額

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前に確かに鹿島区では一所帯百万もらっていた。追加して二十万ももらっていた。それは市の財政から出たとか思っていたがこれも東電から出ていた。
そこが勘違いしていた。鹿島区では小高の人からみると不公平だということで騒いでもらうことになった。それが市の財政からだと思っていた。

すでに一所帯120万はもらっている。今度の精神的損害として一人70万もらえる。

原町区ではすでにもらっていたのでそれも不満で訴えてもらえるようになった。
原町区はすでに7カ月分以上もらっているのだろう。
これもそれなりに大きい金かもしれない、家族が多いと5人いたら350万とかなる。
そのほかもし就業できなくなったらその分を請求すればもらえる。
ただそうなると書類が多くてめんどうになる。


自分は生命的身体的損害は自己当時混乱して南相馬市立病院にかかっていたがそれによって大きな支障があったともいえないのでそれは要求しないことにした。
医者が認めない限り払われない、医者が認めることはまれだというのを病院から聞いたのめんどうだから請求しないことにした。


結局鹿島区ではそれぞれ要求は違うが精神的損害として7カ月分一人10万はもらえる。
農家の人とかは土地に対してもらえる。漁業関係者はもっともらえる。漁業権がありその権利が大きすぎるのである。だからといって漁業権で海を守ったわけでもなかった。
ただ原発から巨額の利権を得たとなる。だから海の資源を守るために漁業権があるとしたらそういうものでもなかった。海は放射能で今もよごされつづけている。
漁業権というのは辻褄の合わないものだったのである。

それでも南相馬市までは一応補償金がそれなりにもらえる。隣の相馬市は何にももらえないから不満になるだろう。放射能の被害ではたいして変わりないから不満が出る。

ただ鹿島区は屋内退避であり一時混乱した。
半分は避難した。介護していたから自分は避難できなかった。
あの時は何になったのかわからなかった。それで放射能が一番高かった時外を出歩いていたのである。そういう影響がこれからどうでるのか?子供には出やすいだろうが老人はあまり出ないだろう。


結局自分の場合は補償金問題はこれで終わりである。書類がめんどうで嫌になる人がいるだろう。東電の方でも審査に相当な手間がかかる。
これからも生命的身体的損害は受けられない、5年後に病気になってもそれが放射能とどう因果関係があるのか説明できない、医者が決めるとしても放射能と因果関係があるのか立証するのは困難である。するとあいまいになり補償されない。
放射能の被害はごまかしやすいのである。

 
posted by 老鶯 at 15:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

宮城県人と福島県人の違いは何なの? (宮城県人は東北人ではない?)


宮城県人と福島県人の違いは何なの?

(宮城県人は東北人ではない?)

宮城県人は、東北人でいて東北人ではない。福島県より東京には遠いのだが、100万都市・仙台はもちろん、そうでなくても、かなり都会っぽいのである。なにせ、「仙台の如きは当時繁昌の地なる故、風儀上国に習へり」(『新人国記』)とあるように、江戸時代初期からすでに、上国(京都に近い畿内の国々)に似たところだったのだ。気質も、淡白でさっぱりしている。
http://www.k2.dion.ne.jp/~nipoon1/miyagi.htm


県民性は明治維新から作られたものだから歴史が浅い、江戸時代だったらその気質もその土地に密着しているから相当に違っていた。飯館村とかが明治以降合併したとき佐須村と大倉村は民情が一致しないから合併しないと村誌に書いてあった。なに、大倉と佐須はすぐ近くだ、民情が一致しないとは何なのだろうか?
詳しいことはわからないが人間が何かしら違っていた。それにしても同じ山の村でありなぜそうなったのだろうか?それだけ隣り合う村でも交流がないから違和感を感じていたし
付き合うということもしなかったのかもしれない、つまり江戸時代はいかにそれぞれの村が小単位で自給自足していたかである。今の時代にはそこが理解できなくなっている。
そんな狭い村でどうして生活できたのか?それが理解できないのである。


ただ最近南相馬市では小高区の人がどうのこうの鹿島区の人がどうのこうのとか言うのは原発避難民が押し寄せてきたために目立つからそう言われるようになった。双葉町の人はあつかましいとか批判されたりするのもそのためである。別に原発事故がなかったらそんなこと言われなかったろう。ただ原発で金が入ってくるのでうらやましがられただけなのである。それが今になるとただ金に汚い奴らだとか批判されるだけになったのである。
小高の人は人がいい人が多いとか鹿島の人は人が悪いとか言われるのもそのためだった。全然気質が違うという。そんなこと考えもしなかったが何かそういうことがあったのかもしれない、今でも隣り合っても民情が違うことがありうる。
でもそもそもそうした民情とか気質とかはわかりにくい、ただそういうことは常に話題になる。


福島県では特に浜通りでは相馬地方では仙台のつながりが強いから宮城県人とかかわる人の数が多いのである。結婚する人も宮城県の人が多いのである。それで面白いのは新地に伊達氏の家系の武士出身の人がいて相馬市との合併を頑固に反対していたという。
なぜ新地が相馬市と合併してもいいようでもそうなっていないわけがこんなところにもある。新地は伊達藩と相馬藩の境目だから特殊なのである。あそこに文禄の碑があったことでも伊達藩は相馬藩より古いのである。その碑はやはり伊達政宗の朝鮮出兵と関係して記念に建てられたのかもしれない、なぜなら新地は伊達領にもなっていたからである。
わざわざ文禄の碑とか記念に残すのはそのためだったかもしれないのだ。

伊達政宗は本当に東北人とはそもそも思えないのだ。それはやはり仙台がすでに繁華な都会でありそこでそうした気質が養われたとなる。本当に宮城県は東北ではないというときその気質がそうなのである。東北人は鈍重で真面目であり融通がきかいなとかず-ず-弁で世渡りが下手だとかが常にイメージされる。宮城県人にはそういうことがないのである。伊達政宗は現代に現れてもたいして違和感がない人間だったのである。
ただそうした都会人的気質が福島県人からすると嫌われるということがある。
それはなぜか?福島県人はまだ宮城県人より素朴なものが残っているためだという。
そんなことあるのかと思うがそういうことは類型的にある。宮城県人は仙台を中心にして拡散した都会なのである。岩沼や亘理あたりまでも仙台の延長なのである。だから仙台中心の県なのである。工業都市であり商業都市であり東北の中心の交通の要である。
それが江戸時代よりそうだったのである。仙台平野の米は石巻から船で江戸に送られていた。そういう商業都市として江戸時代からあったことが違っていた。
商業的だということは人と渡り合うことに優れている。それは関西と似た気質を形成する。


人間は不思議に国の訛りでおさとが知れるというのは変わっていないところがある。
なぜか、宮城県に住んだり宮城県人とかかわった人が・・だっちゃ・・だっちゃと語尾になる。この言葉でまずこの人は宮城県人だとわかる。相馬ではんだ、んだでありだっちゃは異質なのである。それで丸森になるとんだちゃになっていた。これも丸森が一時期相馬藩になっていたから相馬とかかわりが深いからそうなった。んだ-ちゃと宮城県と福島県の方言が一緒になってしまったのである。方言は山形でも青森でも相当に違っている。
訛りが強いと聞き取れないことがある。秋田弁でも山形弁でもなまりが違うのである。
雪国の方言はなまりは何か内にこもるような鈍重な声になっているみたいだ。

宮城県のだっちゃは何か明るい感じがしたのである。方言はまず何か地域で育った人間を感じさせるのである。江戸っ子になればあれだけの都会で生きるのだからぐずぐずしては生きられないからはっきり物言う言葉になる。それは都会だから仙台と宮城県人とにているのだ。んだんだ・・というのは何か鈍重で機敏性がないのである。
京都弁だと言い方やけにやんわりしているのである。女性的でありなるほど京都なら常に人ととかかわるからそうなったし大阪だともうかりまっかとかが挨拶になる。それは商業都市だからそうなる。京都弁は政治都市だから本音と建前を分けた言葉となる。
本音を簡単に出したら権力者に抹殺されるという恐怖があったのだろう。


結局言葉にも常にその地域性が現れていたのである。京都ではどうしても権力者の天皇も住んでいた都市だからそうなった。上のものに気づかうためにあのようなやんわりとした言葉になっていた。そのやんわりとした言葉は表向きで実際は刺があり本当の心は表に出さないのが京都人だとなる。権力者と絶えず接していればそうなってしまいそういう気質と言葉が生まれたともなる。
福島県というとき広いから一様化できない、会津はまた山国であり別個の世界である。でも山国であり強情だとか融通性がないというのも地理的歴史的に培われて気質が育てられたのである。福島県は宮城県と比べると素朴なところがまだ残っている。それは保守的な気質にもなっている。ただ浜通りとか会津ではまた違っている。


祖先につながりを感じる(全国統計)
http://i.imgur.com/MahLH.jpg

これでみると宮城県だけがあまり感じていない、福島県は一番祖先とのつながりを感じている。島根県とか宮崎県もそうである。結婚は当たり前とかいうのも東北では多く宮城県だけがここは違っている。どうしても跡継ぎなどを重視すると結婚は当たり前という風土になる。つまり宮城県は東北ではとないということがこの地図からもわかるのだ。福島県は保守的な県である。これは会津があるから統計的に余計にそうなる。一般化すると会津の影響でそうなる。ただ先祖を重んじるという時相馬藩でもそういう傾向がある。なぜなら野馬追いがあるからそれは先祖の祭りでもあるからだ。それでなかなか原発事故でも他所に移りにくいということもある。福島県はまだ素朴で土着的傾向が維持されている。ただ浜通りはまた違っている。イワキになるとここは東京の湘南だとか言われ東京と通勤電車も直結しているからここの風土も人間も浜通りでも相当違ったものとなっているのだ。

2013年10月03日

飯館村佐須の歴史と伝承から飢饉の考察 (比曽もやはり焼畑地名だった)

 



飯館村佐須の歴史と伝承から飢饉の考察

(比曽もやはり焼畑地名だった)

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●相馬藩の天明の大飢饉

八戸藩の収穫[編集]
1782年(天明2)7,243石(表高2万石)
1783年(天明3)19,236石
1784年(天明4)16,457石(耕作しない)


天明2年(1782)に奥羽地方で冷害が起こり死者11万人の被害が出た。天明3年(1783)には浅間山の噴火が起こり噴煙が日光をさえぎり、東北と関東での凶作になった。噴灰が川底に堆積することで洪水を起こし被害を与えた。天明年間(1781から1789年)は浅間山の噴火の影響により日本全体が平年よりも気温が低い寒冷期であった。

 


天明には相馬藩内の餓死者はすでに8,500人を越えていた。その後16,000千人死者及び行方不明者を出した。相馬藩はなんの備えもなくその飢饉と荒廃ぶりはとりわけ深刻だった。
さらに山中郷は一番深刻だった。


栗、柿、楢、樫の実、椚の実を食べた


椚(くぬぎ)の実
http://ameblo.jp/eizo-blanding/entry-10352996544.html


原釜村にては38人、尾浜村にては17軒死絶え・・


越後など役人を派遣して女子を買い入れこれを領内の困窮者で妻のない者にめとらして子を産ませ援助した。


天保7年の凶作では内高10万石をこえる相馬藩の収納高はわずか457石にすぎず江戸商人からの借金、大阪、秋田からの米の調達、領内の富民からの献納米、さらには材木の伐採、売却で今回は相馬藩内に餓死者はでなかった。

天明の飢饉は一番悲惨であった。これは全国で起きたし関東東北が被害が大きかった。浅間山の噴火で日がささず低温になったという。これは江戸時代の初期であり飢饉による備えがなかった。その後の天保7年の凶作では対策をして餓死者は出ていないのである。
つまり流通とか備蓄とかしていれば飢饉も餓死者がでままでにはならない、そういう深刻な経験を積んで餓死者をなくしていった。


栗、柿、楢、樫の実、椚の実を食べた。


ここに栃の実がない、栃餅とかは会津の方でとれる。これはうまいのである。椚(くぬぎ)の実はどんぐりとは違う、でもやはり実であり食べられた。こういうものに今は関心がない、そもそも人間は食料でも日頃食べていなければ関心がなくなる。それでたいがい木でも地名化したの実用に役立てたものであった。それは染料でもいろいろありそれか地名化した。なぜか椚平(くぬぎたいら)とかの地名が一時放射能で話題になった。初めて聞く名なので椚とは何なのだうと思った。それはやはり椚の実が食べられるということがあった。それて椚が他にも実用的側面から椚平と地名がついたとき名づけられたのだろう。
椚の木がたくさんあるということもあった。でもそもそも椚の木に今なら誰も注目しないだろう。


それからなぜ原釜村にては38人、尾浜村にては17軒死絶え・・・とかあるだすう。山だけではない、海側でも餓死者がでた。海だったら魚もとれる買いもとれる。それでなんとか飢えをしのぐことができるだろう。でもその時は魚も不漁だったとなる。漁師の逃散はあまり聞かないけどやはり不漁になれば農民と同じく餓死者まででる。


天明の飢饉の頃は魚も不漁だったところが多いようです。カネに困ると借金したり持ち船を売ったりして、とりあえず食料を確保し、それも出来なくなれば、夜逃げで他の地域に逃げ活路を求めようとし、逃げていった先で死ぬことも増えます
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7759251.html


いつれにしろ天明の飢饉は全国に及んだし全体に波及していたのである。そういう中でも江戸には米が集まったから江戸では餓死者はでていないというのも不思議である。普通だったら飢饉になれば自分たちが食べる米を第一にするから他の藩に売らないとかなるし農家でも食料となるものを売らないと思う。でもかえって米の価値が上がって飢饉の時も米を高く売りつけていた。飢饉に対して藩が有効な対策をとっていなかった。そさだけ江戸初期でありまだ人々の生活は安定していなかったのである。

興味深いのは

越後など役人を派遣して女子を買い入れこれを領内の困窮者で妻のない者にめとらして子を産ませ援助した

こんなことして人を集めていた場合もあった。結局これほど困窮していたということでてある。このことは相馬藩の戸籍を記録したものがあり
その出身が越後や越中とかの人がいる。そういう人は強制的に連れてこられたのか?
津島では中国人の嫁が鉈で夫を襲った。こんな山中ではなく都会に出たいと襲ったのである。
時代が変わっても同じようなことがあるのだ。この天明の基金では親族までその肉を食べたというから悲惨を究めたのである。

●比曽も焼畑地名だった

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地名に興味があると津島に行く椚平とかに下冷田とかいう地名がある。これか何か寒冷地を示す地名で心に残っている。ただ地名といってもなかなかわかりにくい。佐須は明確に焼き畑の地名でありこれは全国にあり地形的にも真野川の源流地域であり隔絶された場所だった。


蚊野の名は火野から生まれた。(地名語源辞典)火野とは山林を焼き払って種をまく焼畑農業が行なわれた土地のことである。


津南町では反里(そり)、そして反里口(そりぐち)があります。
いずれも『ソリ』は古語で、焼畑を作った所です。


関連情報として「反田」姓や「ソリ」という地名については、「反田とは傾斜地にある田」(『日本名字家系大事典』)「反田は傾斜地の田や焼畑を意味する」(『角川日本姓氏歴史人物大辞典 19 山梨県』)という記述や、「ソリ、ソレとは、(焼畑を)毎年連続耕作しないで、数年ごとにソラシ、ハズシて休閑させるという意味の語か」(『地名語源辞典』)という記述をあわせて紹介する。


比曽とは比曽原という地名などありこれは佐須と同じく焼き畑地名である。火は焼畑であり焼くからそうなる。ソはソルであり焼畑からてた言葉である。火とソルが合体してヒソとなったのである。あの辺は草野からさらに奥地だから佐須と同じく焼畑の地名にはふさわしい場所である。ただその後あの辺でその明治以降でも戦後でも開拓に入っている人たちかいる。津島はそうだった。だから地名自体が古く江戸時代から歴史があっても昭和からの開拓者もいるのだからまぎらわしくなるのだ。


●飢饉の原因


○幕藩制の欠陥


 幕府は天明6年(1786)に2分の1に、翌年には3分の1に酒造制限を強化し、酒の原料である米を食糧として流通させた。しかし、幕府は米に余裕がある藩に対し飢饉で苦しむ地域へ強制的に余剰分を送るように命じるという権限はなく、そのような命令を出す考えがなかった。

 例えば、天明6年(1786)は例年の三割程度の収穫減だが例年通りの収穫があった地域もある。幕府の命令で、強制的に余剰米を流通させればこれだけの餓死者は発生しなかったはずである。 


飢饉の原因
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271634


それでは、凶作の年はどのような物を食べたのでしょうか。作物の生育期間の低温や日照不足によって不作となる凶作年は、米だけが不作となるのではなく、麦や稗などの他の穀物も不作となることが多くありました。こうした場合に備えて、家毎に蕎麦そばや稗ひえ、干し大根などを井楼いろう(大箱)や梁上りょうじょう(まげ、焚き火の上)に貯蔵し、凶作時の備えをしていました。


この頃の天候では簡単に不作にもなるので、飢饉対策・万一の食料確保でサツマイモやその他の方法も工夫されて行きます。
 千葉県の幕張でも、天明(1783〜88まで続く)・天保(1833〜39まで続く)の大飢饉にも、このあたりで餓死するものは皆無だったそうです。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nakanisi/rekisi.html


ここから抜粋
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7759251.html


沖縄に伝わったサツマイモはその後九州に伝えられた。導入に貢献した人物は薩摩指宿の浦人(海辺に住む人:漁師)
 利右衛門(後に前田)である。利右衛門は宝永2年(1705)水夫として琉球に渡ったが、その折に持ち帰ったといわれている。 この結果同地における「享保の大飢饉」を救ったと考えられている。利右衛門は現在同地で「甘藷翁(からいもおんじょ)」と呼ばれ、 利右衛門ゆかりの地に徳光神社が、またこれ以外の2箇所に頌徳碑が建てられている他、
 大隈半島など県内の各地に供養塔が建てられ崇敬されている。余談ではあるが、 このイモから搾った「利右衛門」は、今や鹿児島産の銘柄の一つとして、左党の間では知る人ぞ知る逸品でもある。
http://www.nodai.ac.jp/journal/research/suzki_s/0805.html


天明年間の少し前に、南部藩に対して幕府から多額の上納金の要請があり、そのときは支払ったが、二度目はなにがなんでも断る口実をつくるために、関東で浅間山の噴火によってやや凶作があったのを幸いに、南部藩でも大変な飢饉があったことを演出した。大量の餓死者があったことにして、表の帳面には大量の人口減があったことにし、実際は別の数字を書いた裏帳簿があったことが確認されている。人が減れば年貢収入も減ったことになり、あらゆる帳面をとりつくろうことになる。
http://nire.main.jp/sb/log/eid218.html


飢饉は防げるものであったことがこれらの引用でもわかる。ただまだ江戸初期でしりそれだけの備えをする力かなかっただけなのである。日本には自然災害が多いけど自分の住む場所も街て一番低い土地なので二回も洪水にあって被害を受けた。でも堤防を強化してからは洪水はなくなった。自然災害も飢饉も備えがあれば防げる。天保7年の凶作では餓死者が出ていないことでもわかるのだ。

日本は飢饉があるのはと米の不作になることが主要な要因である。それで沖縄でとれていたサツマイモを薩摩藩の漁師が取り入れて飢饉に備えた話は面白い。沖縄は南国だからサツマイモ栽培に向いていた。紫のサツマイモが沖縄ではとれる。焼酎にもなる。
もともとサツマイモは南国産である。例えばベトナムでは地下壕に入りアメリカ軍と戦った。その食料がサツマイモだったのである。このサツマイモは南国産だから育つのが早い。

高温性植物で強光と日照りで良く育ちます。食糧不足の際でも育つ野菜として知られており、肥料なしでも育ちます。

サツマイモはやせ地でも育って、収穫量も多いので初心者でも育てやすい野菜の一つ!たくさん採れ過ぎても貯蔵しておけるので便利です


これはベトナム辺りだと日差しも強いか早く育つのである。だから食料があるから戦いたともなる。こういうふうに飢饉の備えができてきたからもう日本でも飢饉はなくなった。
ただ今度の放射能問題は備えがなかった。あのような奥地まで放射能が関係するとは思わなかった。放射能にはどう対処していいかわからないのである。やはり土とか水とか空気でも基本的な生活のベースになるものが汚されると生活そのものが破壊される。
飯館村にしても原発のことなどあまり考えなかった。そこが現代の盲点だった。



あとがき



赤字木(あこうぎ)に住む人から前にメールがあった

比曽(ひそ)に住む人からコメントがあって今回この文を書いた

アグリの店長からコメントがあった

浪江で東京に避難している人からのコメントがあって浪江の橋について書いた


飯館村にしろて浪江にしろ避難しているのだから帰れないのだから深刻である。
天明の飢饉よりはいいと言ってもそれはあまりにも異常な悲惨なことだったから
比べることはできない、ただ江戸時代からの歴史が比曽(ひそ)でもあるということが見逃されているのだ。
今回はなにか津波でもそうだが400年前の歴史がどうだったかそれが命にかかわっていたのである。
今は歴史はそんなに重んじられていない、でも土地の歴史を知ることが命にかかわっていたということを知ったのである。
山中郷も相馬藩ないであったのであり歴史が江戸時代から記されていた。
そこに住む人の思いがそうした歴史とともにあるというのも見逃せないのである。
たからなかなか簡単に移住するというのもできないということはあるだろう。
ただそこにはいすいろな複雑なものがありいろいろ迷いる、逡巡しているというのが現実だろう。

posted by 老鶯 at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2013年10月04日

南相馬市屋内退避地区の賠償 (鹿島区などの賠償は二冊あった)

 
南相馬市屋内退避地区の賠償

(鹿島区などの賠償は二冊あった)
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表紙が同じだからわりにくくかった

本賠償
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追加賠償一人4万

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この二冊が全く同じだから混乱した。他に精神的生命的損害を請求すると十冊くらいの冊子になるからめんどうである。
たた本賠償と追加賠償は決められているから簡単である。
それでも18歳未満の子供さらにもらえるし妊婦ももらえる。
そうした区分けがあるのでめんどうになる。


病院にかかったけどめんどうだから精神的生命的損害の請求はしない
これはよほど明確にならないと医者の許可がないと認定されないというので出さない
その書類を書いたり許可をもらうだけで大変な手間である。

東電で一律に屋内退避地域に住んでいたというだけでもらえるのは簡単である。
ただいろいろな書類が来たので混乱したのである。


精神的損害は一人10万で7カ月分で70万である。
追加賠償は一人⒋万で8カ月分で32万となる。

これは一人約100万である。
18歳以下の子供がいるとさらにもらえる

例えば5人家族だと500万だけどさらに就業している人はもらえるし
子供がいるともらえる。その額はかなり大きくなる。
だから小高区この倍以上とかもらっていたのだからその額は大きくなっていた。

ただ仕事がないということは収入がないのだからそれだけ苦しいとなっていた。

これからも仕事がどうなるのか、できない人もいる。
避難している人は避難していればもらえるが屋内退避地域はこれで終わりである。
それでもかなり得したと思っている人も多いだろう。


相馬市などは全然もらえないから損だとなる。
ただ相馬市と南相馬市は様相が違っている。
田畑が南相馬市は荒れ地化している。相馬市は全体か普通なのである。
ただ放射能の被害はそれほど変わらないだろう。

ただ南相馬市での賠償金の不公平感はこれでかなり解消したかもしれない
あまり文句も言う人もいなくなるだろう。


ただ恐怖はあと10年後くらいなのだ。もう5年後くらいから工事関係者がへって
何か急激にさびれた市になるかもしれない、補償金もいつまでももらえないし
援助や予算も削られる、するとやがて夕張のようになる恐怖があるのだ。


原発でも働き場所としてかなりのひとか勤めていた。それもなくなる。廃炉や除染はつづのかもしさないがそれも産業とはなりにくいだろう。一次産業は木材さえ売ることができない、すると何が産業になるのか?ソーラー発電事業ももうかるどうか未知である。
ソーラー発電は風致を乱すから自分はあまり歓迎しないし農家の人も反対していた。
ソーラー発電は広い土地が必要だから中国のような所にあっていた。
日本はそれだけの土地がなのである。


結局補償金バブルもいつか終わりあとに何が残るのか?
どうしてもこの辺の将来はいいものが見いだせないとなる。
ただ老人はもうあきらめてここで死ぬほかないとなる。


放射能は花などには影響しなかった。だから花の市にするというのもいい、川内村ではそうしようとした。ただそれが経済的効果になるのかは未知である。
自分は花を探求してきたから以前として自然に花が映えているということは救いだった。放射能は別に見た限りてはどこが汚染されているのかわからない
むしろ中国のような大気汚染の方が深刻に見えてしまうのである。
放射能で皮膚がただれたみたくなれば怖さを感じるかその怖さが感じられないのだ。
その怖さを感じられないことが本当は一番怖いのかもしれない

なぜなら津波で全く400年前のことは忘れ怖さを感じなくなっていたからだ。
怖さを感じないということも実際人間にとって怖いことたったのである。

津波の恐怖が伝えられていればあんな海岸に接して家があんなに密集して建てない、
人間は恐怖を感じないことも怖いことなのだ。

戦争にしてもだんだん忘れられてゆき戦争の怖さわすれられてゆきまた戦争にもなる。

ともかく補償金て今は潤っていてもそのツケはまだあとでやってくる。
今がいいことでも後で悪いことになったり今か悪いことでも後で良くなったりと
人間のことは左記かよめないのである。でも確実にこの辺はあと十年後とかは
かなりさびれて衰退することが見えるだろう。
金は一時的でありそれだけでは資産にはならないのである。

 
posted by 老鶯 at 13:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

秋夕焼 (空間の体験より時間の体験が記憶に残る)


秋夕焼

(空間の体験より時間の体験が記憶に残る)

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秋夕焼残れる色やなおにじむ
ともしさや街の灯あわれ秋夕焼
虫の音や梅干しにご飯食終えぬ


今日は秋夕焼けか美しかった。徐々に赤い色が消えてゆくがなお残り消えるまで見ている。こういうふうに時間の移りの中で自然をとらえるとき自然がわかる。
テレビにしろ写真一枚みてもあまり感動しないというとき時間で刻々変わる風景を体験できないからである。テレビなどでも外国の旅行でも感動しない。
それは時間の変化の中て見れない、空間は一分間に百キロくらい移動している。
でもその中て写されるのは二三秒とかになっていたらとても感動できない。
自然でも何でも見るには時間が必要なのである。

その時間がないのが現代なのである。

だから空間の移動は一日で地球の裏側まで飛行機で行けるとしても何の感動もないのである。時間というのはいかに貴重なものか老人になったらいやがおうでもわからせられる。人間には空間の体験と時間の体験がある。
時間の体験ができるのは意外と限られているのだ。

時間が一番体験できるのは長く住んだ所であり旅行では時間の体験は限られているのだ。ある場所に一つの場所に一日いればそれなりの時間を体験でできる。

しかしそういう旅行はみんなしていない、次から次と移りゆくから体験の質が浅薄になり記憶に残らない、江戸時代だったら歩いているのだから時間と空間を体験する密度が違っていたのである。

現代は時間の体験が希薄なのである。空間の体験は千倍になっても時間の体験が希薄だから何か精神も浅薄になっている。例えば何度も詩にした石をわかるのには相当な時間がないとできないのだ。だから老人になった時石というものが何かわかる。それは空間的体験ではない、極めて時間的体験から理解できなるものなのである。


母はご飯と梅干し一つではも満足である。なぜならもともとそういう生活を若い時していた。卵も食べないしたくわん、味噌汁、梅干しの食生活だった。製糸工場で10年働いていた時ずっとそうだった。だから今は確かに食べられないからそうなのだがもともとそういう生活だったのである。その当時はそういう人が多かったのである。
醤油さら満足に使えないという時代があった。
田舎だと秋夕焼とかが心に沁みる。

ただ最近家事など忙しいからゆっくりもていられないのだ。
今までならほとんど時間を気にしたことがなかった。今は時間に追われるのである。

夕食の支度をした。夕食を終えた、今プログを書いた。
次は風呂を洗ったからこれから風呂に入る。電気の自動風呂だから容易は簡単である。
それだても次々に仕事があるのだ。特に自分の書いたものも整理しきれなくなっていて
これの整理も大変なのである。新しいパソコンもなれるのに時間がかかったとか
この知的作業の整理も相当に時間のかかるものなのである。

 

2013年10月05日

カルト宗教が簡単に消えない理由 (人間の弱み、不安が消えないから)

 


カルト宗教が簡単に消えない理由

(人間の弱み、不安が消えないから)

●「悲しむのは幸いである」と思っている人はいない


カルト宗教というといろいろある。なぜカルトがこれほど世の中に跋扈して消えないのか?そこには深い人間の不安と恐怖に根ざしているからである。カルトという時、あらゆるのがカルトになりうる。カルト宗教団体だけがカルトではない。宗教団体になると権力を持つカルトだから悪質になる。宗教が権力を持つと最悪になるのだ。
宗教はそもそも権力否定がありあらゆる宗教でも根本にある。


心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである


聖書にこう書いてあるのは誰でも知っている。しかしこの意味が何なのか知っている人は非常に少ない。なぜなら世の中の一般の人が求めているのはこの正反対のことである。
心の貧しいものにはなりたくない、心の豊かな人になりたい、それより物質的に豊かになりたい、とにかく金が欲しい、それが先決だとして毎日必死で働いている。
貧しいとはここでは心の問題になっているけど物質的にも貧しくなりたくないためにどこの国でも必死に経済成長を計る。人間か貧しさ肯定して生きてきたことは歴史上ないのだ。ただ様々な事情で豊かになれないだけだったのである。

悲しむ人は幸いである・・・

これもまた何なのか?人間はなぜ悲しむことが幸いなのか?これも全く世の中の常識とはあまりにも違っている。この世の中で悲しむことが多ければ多いほど幸いである。
ええ、そんなことがありうるのか?これほど理解できないものはないのである。

この世の中まず金かない、貧乏だと悲しむことが多い、いろいろと不自由になるし金がないということて悲しい思いをすることが多いし馬鹿にされたり相手にされないこともあるからみんな必死で金持ちになろうと毎日あくせく働いているのだ。
こういう教えをまともに受ける人はこの世ではほとんどいないのである。

人間は貧しいもの弱いもの悲しむものがまた多数いる。だからこそ宗教が生まれた。
宗教はそうした根本的には解決できない弱さから生まれている。なぜならあらゆる人が絶対的に強者にはなれない、そう願ってもなれない、ニーチェは狂気になって死んだ。
ただ人間は病人のようになるようにあのように自然の中で健康に生きたいと思うのは自然なのである。だから自分も上野里氏などにあこがれたしそういうことは人間にとって別に変わったことではない、人間は強く健康に生きたいと思うのが普通なのである。
ところが現実にはそういうふうに生きられないから宗教が生まれた。

 
●誰も社会的弱者にはなりたくない


カルト宗教団体に入る人はいろいろ理由はあっても社会的弱者の人が多いわけである。
生活保護者が多いというのもそのためである。そういう人は弱者なるが故に「悲しむものは幸い」だなどと心理的に精神的に肯定などしない、この悲しみは何なのだ、なぜ自分かこんなにしこんなに社会的に貧しく損ばかりしているのか、金にもならずは底辺で働かせられているのか?一方で上を見れば楽して悠々暮らしている人たちがいる。あぜあの人たちはあんなに社会的に得しているのか?そういう不満がものすごく渦巻いている。
その不満がカルト宗教団体に入る動機になる。


例えば就職するにも保証人が必要でありそれて苦しんでいる人たちもいる。この保証人問題も実は社会的弱者であることの証明なのである。保証人もいない人は社会的弱者と認定されまともな会社に就職することもできないことになる。自分もその一人になってわかった。就職するにも保証人が必要だということは社会の有力者だったらコネ入社とか他にも公務員の親戚がいたり大企業の親類がいたりとか何か社会的ステータスのある人が保証人になってくれれば社会もその人を信用して就職もスムーズにいくことがある。そういう面でも社会は必ず差別してくるから悲しい思いをすることか弱者は多くなるのだ。そういうことて「悲しむの幸い」だなと納得するものはいないのである。
なぜこんなに弱者は損するのだと憤りになるのだ。だから保証人問題でも弱者いじめなことがわかった。


ではこうした弱者でなくなるためにはどうするのかとなるときそういう不満の捌け口がない、そこでカルト宗教団体がありそこに入ると創価でもそうだがあれだけの大きな団体になると弱者も強者になれだろうと思ってしまう。つまり弱者でも助けてくれるだろうと思う。現実にそういう面は確かにあるのだ。何か現代は親密な村のようなコミニュティすら家族の紐帯も弱くなる時、そういう団体に頼り安いのである。コミニュティの中心に神社があたというときその神社も明治以降は激減したことでもわかる。明治以降は社会が激変した。明治以降からやはりカルト宗教団体というものが増えていた。自分の考えではカルトとは宗教でも団体化した者かカルトである。団体化することは権力化することなのである。社会では一人は相手にしない、二人以上になれば団体であり二人で訴えれば何かしら社会ではとりあげる。だからこそ何か不満があれば団体化して訴えるのが民主主義でもある。要するにただ悲しむものは幸いなり・・そんなことより悲しまないように団体化して社会に抗議しして自分たちの不満をはらすことだとなる。


個人的にはオームの浅原も池田大作もものすごい劣等感の塊だったということを書いた。ヒットラーも芸術家になりたかったがなれないのて政治家になりあのような独裁者になった。そこに歪んだ性格が形成された。それで仏教に学んだがそれは社会に宗教で団体化して復讐するためだった。見ろ、自分には800万の仲間かいる。この人たちを俺の一声で動かすことができる。見ろ、金は一兆円もある。銀行に積んであるから銀行の幹部が頭を下げる。銀行も金を持っている人は優遇する。自分もたいした金でないにしろ投資信託などは申し込んだら歓迎される。あれも今や銀行の収入源になっているのだ。
警察も官僚もそうだが銀行も権力的な場所になっている。だから創価ではそうした権力的な場所をおさえようとしている。警察にもにらみをきかしている。警察も怖いからそうした団体にはあまりかかわらないようになる。それはまさに東電ともにていたのである。
あそこも資産が三兆円とかあるとなっていたから驚きである。


実際に現実社会は権力で動いている。だから現実的になればこの世の権力的場所をおさえることだとなる。池田大作を批判するもの世から抹殺するほどの権力をもったのである。マスコミも政治家も官僚も銀行も彼の前にひれふす、巨大な権力集団の前にひれふすようになったのである。
ともかくカルト宗教団体に入っている人はそういう社会に不満があり恨みをもっている人が多い。それを晴らすために権力を得たいがために運動することになる。権力さえ得ればこんなに悲しい目にあわずにすむとなって運動している。怨念の宗教でありそこに何かに感謝している人など一人もいないのである。


確かにこの世で弱いものは相手にされない、金のないものも相手にされない、みじめな思いをするからこそ金を得るために必死になる。例えば保証人問題でもそうだが警察も権力集団だから権力あるものにはこびる。社会的有力者なら事件でも動く、ところが社会的弱者は犯罪にあっても警察は捜査しないということもあるのだ。現実になぜ東電の会長であれ幹部であれ何の罰も受けないのかわからない、外国の東電の会社に以前として留まり暮らしている。これも以前として東電の幹部は大企業の幹部であり社会的強者になっているからだ。検察も実際は東電の天下り先であるからグルでもあったともなる。官僚とか大企業の幹部はいい思いだけをする。あれだけの犯罪を犯しても罰せられることもないのだ。一方で百円盗んでも刑務所に入れられ人もいる。そういう不公平が公然とまかり通っているのがこの世の中である。


だからこそみんなカルト宗教団体だけではない、社会的強者になりたい、権力を持つ側になりたいとなる。それでカルト宗教団体はすべてそういう人々の欲望を知っているからこそ今は底辺の生活でみじめでも創価が社会の枢軸をおさえて支配するようになる時、権力を行使する側になりいい暮らしができるようになると説いて毎日票集めに必死になっているのだ。それは多分に共産党もそうした底辺層を相手にしているから同じ傾向がある。中国でも不満分子が相当いるからそういう人たちを宗教で集めた。カルト宗教団体というのはすでにそれだけ古いし人間そのものがやはり変わらないから形を変えて似たものが生まれてくるのでてある。


死の病から人を救う宗教団体は、圧政に苦しむ庶民の不満と結合して、黄巾賊と呼ばれる一揆集団へと発展していく。張宝(ちょ一つほう)張梁(ちょうりよう)張角の弟たち。彼らの死後も、漢朝の政治に不満を持っ民衆は、黄色い布で髮を結い、度々、蜂起した。


人間の最大の弱点は今でも病気である。医者でも直らない病気があり以前として宗教に頼る。創価に入る人の動機も最初はそういう人が多かった。不治の病になったら直るとなればどんなものでも信じるようになるのが人間の心理なのである。これだけ科学が宗教のようになってもやはり直らない病気が多いからそうなる。それたけカルト宗教団体が跋扈するのは古い歴史がある。というよりは人間の根本的問題として人間の弱さや社会的差別や不満が解消しないからそうなる。創価は武力革命さえ一時は目指していたからにたものだったのである。
結局権力を目指すものは宗教であれ社会主義のようなイデオロギーであれ何であれみんな同じである。まさに黄巾賊であり三色旗とかもシンボルにしてるからにているのだ。

信長に反抗した念仏宗の真宗の集団もそうだった。大坂城の前進はその寺院の跡に建てられたことでもわかる。宗教的集団は政治的集団と化しやすいのである。カトリックも権力をもったから政治的集団と化して腐敗した。

ともかくカルト宗教団体を否定してもこうした人間の根本的問題がある時、いくら否定してもまた形を変えて社会を席巻する。これも人間社会のカルマだったとなる。歴史を繰り返すとは団体でも社会全体でもそうであり個人的にもカルマは解消されず延々とつづいているのだ。人間の最後は罪の最後の審判であり滅亡に定められているのだ。その滅亡はノアの洪水の再来かもしれないし核戦争かも知れないし今回の放射能汚染で水も空気も汚されいつのまにか人類は死滅していたとなるかもしれないがこの世はいつか必ず滅亡するのである。ただその時期はわからない、おそかれ早かれそれは神が成すことであり必ず人類滅亡の日は来る。


●人間はみんな最後は弱者になる


自分が経験した身内のことでもあれだけ健康で優秀そのものだった女性が最後は認知症になり本当に馬鹿になってしまったということを書いてきた。これも信じられないことであり人間かいくら優秀だと言ってもいかにもろいものか?一転して百の評価だったものかゼロになり人生の落第生になってしまった。これも人間というものはいくら強く健康に生きたいと思っても最後はみんな老いて体もだめになり頭もだめになり人間そのものが崩壊してしまう恐怖がある。だから三島由紀夫も老いることの恐怖でボディビルダーのような体を作り自殺のようにして死んだ。老いることは男性でも女性でも恐怖なのである。
それはこれまでもっていたものをすべて失うことに通じているのだ。

その恐怖から誰も逃れることができないのである。老人になるとなぜかえって権力や金に執着するのか?なぜ老人は金を持っているのに使わないのかとかいろいろ若い世代に責められている。でも一体誰が今老人を敬う人がいますか?金がない老人は死ねと叫んでいる。そういう時当然老人は若さもないのだから権力や金に執着するようになる。その権力も金もない人間は死ねといわれれば当然そうなるのではないか?金がなくなったり何の価値もないとなれば金は使わないし執着する。金意外の価値は何も認めないということになっているからだ。でももし若い世代が決起すれば老人など弱者だから金など奪うことができるのだ。若い者の方が老人より実際は力があるからだ。ただ本気でそうしないだけなのである。


前にも書いたけどカルトは別に団体化したものにだけあるのではない、個々人がカルト的体質をもっていたのである。自分が身内に障害者をかかえたときや自分が病気になったとき明らかに自分も弱者になり個人的に脅されたときほど恐怖を感じたことはない。
結局自分のこの六年間の苦難でいかに弱者が悲惨なことになるか身をもって経験した。
あらゆることで弱者化していたのである。これは金があっても病気になったりしたら誰でもどうにもならない、弱者化するのである。そのとき例えばカルト宗教が入りこんでくる。先祖がどうのこうのとか何が悪いのとかどうかと言われる時信じやすくなるのだ。
それは権力をもった団体だけではない、個人でも弱者を恐怖におとしいれる。


親戚の人はもともと弱者だった。それで創価など一時入っていた。その人間が実は弱者をいじめるカルトになっていたのである。自分が病気になったことをいいことに入院している時も脅してきた。借金しているからいろいろと金が欲しくて脅迫のようなことをしてきたのである。借金している人は普通に殺人まで追い詰められるから怖いのだ。自分を苦しめた人間も実は弱者だったのである。一人は病気の時、火事場泥棒をしたがその人も金に困っていて弱者でありおいつめられていた。だからこそ自分が弱者になったとことをいいことにそういうことをした。津波の被害の時もそういうことがあった。そういうことをするのは金に困っているからそういうことをするのである。金に困らない人はそんなことをしないのである。弱者は弱者を助けるのではない、弱者化するときそこをついてきて襲ってくる、それか戦国時代でもあった。それが人間の真相でもあった。


結局人間は弱者に甘んじる人は一人もいない、悲しむ人は幸いである・・などと満足している人はいないのである。そうして弱者としてひどいめにあった人は余計にそうである。まさに自分の経験したのは食うか食われるかの世界だった。食わねばこっちが食われるという極限の状態になれば人間はみんなそうなる。そういう弱者になる体験をしない人は人間はみんないい人だとか思っている。現実の厳しさに直面すればそんな甘い考えは吹っ飛んでしまう。この世はまさに修羅場だとなる。


カルト宗教団体がなくならないというときまさに人間の根本的問題として社会的弱者が常に存在するしその弱みを解決できないからそうなる。絶対的強者になれないからこそ悲劇になる。いくら優秀でも認知症になり本当に馬鹿になって死んだということも信じられない、人間は確かに権力を求めて地位と金と名声とかあらゆるものを手に入れてもやはり弱者としての人間からはまねかれない、王様もやっぱり最後は病気になりあえなく死んでゆく。人間は結局どんな人でも最後は弱者として死んでゆく、権力が求めて得たとしても同じである。この世の矛盾はこの世では解決しない、いら努力しても解決しないのである。
だから天に望みがありこの世には望みがないのである。常にキリストか説いたのは天のことでありこの世のことではない、この世のことは絶対に解決しないのだ。


悲しむ者は幸いなりとは・・・そもそもこの世の中は悲しまないで生きられないところなのである。悲しむことに人間の真実がありより多く悲しむものは実は人間として何か重大なものを知るとなる。何にも悲しまないものはかえって人間としては何か重大なものに気づかない浅薄なものとしてこの世を終わる。悲しむ人は純粋なのである。涙は真珠のように尊いのである。神はそのために泣くことができるようにしたのである。悲しみ泣いているときカルタシスになる。何か心が清められたような気分にならないか?涙にはそういう効用があることは確かである。シェークスピアが悲劇がテーマだったということは人間はそもそも悲劇的存在だったということである。ドラマでもハッピエンドで終わればつまらないとなる。悲劇的なことに人間存在の重みがある。キリストも十字架で死んだからこそ影響力があった。人間はなぜこんなに苦しみ悲しむのだというとき、実際は恵まれて悲しみもしない人よりより人間として生きているのかもしれない、まずあまりにも恵まれて幸福だったら文学も生まれない、それは浅薄な一生になってしまうだろう。それでも人間あえてそんな苦しみや悲しみを受けたくないのである。

実際に人間は一方で求めているのは快である。人間の求める快楽がどれだけ強いか?その快を求めるからこそこれだけの文明社会になった。性のような本能的快楽も個人差が大きいにしろ死ぬまで消えない人も多いのである。その欲望故に人間も継続できたともなる。人間はあえて苦しみなど求めない、快楽を求めるのが普通である。たた強制されてそうなるだけなのである。図らずもみんなそうされてしまうことなのだ。

ともかくそうした悲しみや社会的弱者化するときどうしても涙を流して来るべき天を望むようなことよた現世で権力を得たいということになるのが人間だったのである。そのこ
とはカルマは変わることがない、たから人間の問題はそうした根本的なことが変わらないから歴史もカルマであり個人的にカルマを繰り返すだけであり世の中は何か変わったようでも何も変わっていなかったとなるのだ。

 

2013年10月06日

秋の俳句(金閣と銀閣)



秋の俳句(金閣と銀閣)

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金閣に紅葉と松や写す池

金閣や紅葉と紅葉映えにけり
金閣に燃ゆる紅葉や鮮烈に

金閣に朝日夕日や紅葉映ゆ
秋の日の金閣にさし松の影
金閣や一面に赤き散紅葉


銀閣の砂に月影窓に見ゆ

銀閣に黄紅葉映えて日の暮れぬ
銀閣に秋の日差しや歩む廊
銀閣に深まる秋や書院かな
銀閣に紅葉や幾時京にあり


これはインターネットの画像で検索してそれを見て俳句を作った。他人の写真ではイメージできにくい、写真は写生そのものだと書いてきたけどその現場のすべて写真では現せない、ただ京都に何度か行っても時間の経過で見れないからなかなか京都でもわかりにくいのだ。一カ所に長くいても一時間だと朝日がさして夕日がさす感覚がわからない、つまり旅の問題は時間軸で体験できないのである。空間的には移動して体験しても時間の移り変わりの中でどう変化するか感じるかが浅薄になる。
だから意外と京都のことでも今や思い出そうとしても思い出せないのだ。
現代は写真が豊富だからその写真からイメージした。
勝手に拝借したがこれは一つの新しい芸術の例としてみてもらいたい。
明らかに著作違反が写真の無断使用であった。指摘されればとりのぞく。

それまでこういうふうにもきりはりして一つの創作物ができるということで出した。
こういうことは前から自分はしてきた。
そういうことがしやすいのがインターネットだったのである。
自分で背景とか何やら作るとソフトがあってもめんどうになるのである。

だから金閣と銀閣という画像検索できりはりして作ったのである。
俳句が写生という時、想像するときはいいものができない、でもとをにもならない、
時間軸では旅して見れないのか多すぎるのだ。
空間の移動も早いからまた記憶に残らないことが多すぎるのだ。


京都という時、やはり前にも書いたが金閣と銀閣という対象で見れる。それは文化の豊かさを示されている。平泉は金閣だけになるからだ。金閣と銀閣のイメージは秀吉の黄金の茶室と利休のわびさびの茶室との対象でもある。西にはそれだけ対象化される美が作られた。金閣は青春の若さなのか、あまりにもまばゆい。銀閣は何かわびさびであり老いの感覚である。二つが対象的に見れるから美と思索も深まってくる。


いつづれにしろ京都も遠くなってしまった。それでも四季を通じて行っているから自分は恵まれていた。ただ京都を理解することはかなりむずかしい。見るものが多すぎてわかりにくいのである。
ただ自分は今は思い出す旅をしている。今になるといかに思い出すかであり思い出すことによって創作ができる。日本の場合はしやすいが外国はなかなか思い出せなくなる。
写真を見たりその他解説でそういう場所だったのだとか知る。
まず旅ではいろいろなものが一時にくるから理解できないのである。
あとからゆっくりとその場所をイメージしてゆくとあそこはそういう場所だったのかとわかるのだ。

本当は一日でもいいから金閣でも銀閣でもいれば中の書院にでもいればわかる。
それができないから浅薄なものとして一時的なものとして記憶に残らないのである。


秋の京都がいい、紅葉の時がいいとしても遠くなるとまずその時期に行くのがむずかしくなる。でも確かに紅葉の時に二回くらい行っているのだ。
今はまず仙台までも行かなくなった。半年以上行っていない、意外と旅する時間もたちまちすぎる。自分のように旅に明け暮れてもその時間もたちまちすぎた。
もう旅ができないとまでなっている。
ただ人間のそうした経験の収穫は60以上になってやってくる。
それは例えば雑学のようなものでもそうなのである。
人間はくだらないと言われても必ず何かを蓄えているのである。
その総決算が60以降にやってくるのだ。

だから老人の仕事は体験を話すことなのである。

70歳の人はトラック運転手だった。その人が覚えていたのは道路の標識のように大きく書いてある文字だった。だから特に東京まで通っていたら築地市場などに行っていたからそのことを語っていた。車からみると靖国通りとか大きな文字が大事になる。
それで方向がわかるから常にそういう案内の文字に注意しているからそれが記憶になり語っていた。その他は通りすぎるからあまり覚えていないのだ。
人間は一番注意しているものを覚えている。その他は忘れやすいのである。

そのトラック運転手の話を聞いていたら自分もトラック運転手のような気分になったのは不思議である。老人は何かしら体験しているからその話を聞くと面白いのだ。
ただその人はボケかかっているのか、病院に行っているとか、孫がいて年金もらうときだけにこにこ近づいてくるとか何か言うことかあやふやになっている。
家では用なくなっている。そうなるとボケるかもしれない、なんか酔生夢死とはよく言ったものである。トラック運転手の話はまるで夢の中で話しているような感覚なのである。人生はトラック運転手でも終わって見れば夢だったとなるのだ。
それはみんな同じである。終わって見ればみんな夢の中の事になってしまう。

自分の場合も旅の記憶をひきだしては書いている。それも夢の様だったとなる。

2013年10月08日

秋薔薇 (写真のつづき-二駅で終点の二両の電車)


秋薔薇

(写真のつづき-二駅で終点の二両の電車)

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路地入りて曲がれる松や秋薔薇

我が街に民宿一軒秋薔薇
空席や二両の電車に秋薔薇
まもなくに闇のおおわむ秋薔薇
二三輪散りなお残る秋薔薇
散り残る花片や夕べ秋薔薇
二駅に終点となる秋薔薇


デジカメで見えないものが見える。民宿の庭に秋薔薇が咲いていた。となりの曲がった松には注意していなかった。というよりは見えなかったのである。人間の目はバラだったらバラに注目するから回りが見えなくなるのだ。この場合はとなりの松が見えなかった。
こういう点でデジカメは人間の見えないものを映し出すのである。

駅前の薔薇も何輪か散ったがまだ残っている。でもいかにも秋の薔薇らしく散った薔薇が花片を残している。これは時間の経過で見るとやはり味わい深いものとなる。

二両の電車は走るのはかなり贅沢であり採算などあわないだろう。ローカル線ではそういうのが結構ある。でも電車が走っている所と走らないところはかなりの差がある。
ローカル線でも客は少なくても走っていれば何か違っている。
自分の場合は電車に思い入れが強いから電車が走らない所に住みたくない、この二両の電車が走っているだけでもいい、この電車は二駅しか止まらない、あとは終点になってしまう。こういう電車もげせいたくだろう。原町駅でも相馬駅でも終点だからあわてる必要が全くない、ゆっくり乗っていられるのである。通りすぎることは絶対にないからである。前だと八両あり相馬駅でも下りねばならないと落ち着かないことがあった。

これはそういうふうにあわてる必要が全くないのである。
こういうのは老人向きだとつくづく思った。

まず東京のような所で満員電車にのるのは老いてからは特に嫌になるだろう。どうしても都会は老人向きてはない、ただ人が多いからいろいろなサービスが生まれる。老人向きの施設でもそうである。田舎では人が少ないからサービスが限られてしまう。


いつれにしろ老人になればスロー社会がいいのである。ゆっくりと自然の変化でも見てゆく、忙しいとゆっくりも見ていられない、ただ自分は今は忙しい。それでも暇を見ては花を見ている。意外と忙しいと花見る時間さえなくなるのだ。フラワーアレンジメントだって結構時間がかかるからそんなにできないということがある。


ともかくこの秋薔薇は前の夜撮った秋薔薇のつづきである。時間の経過で鑑賞するものである。

今日は暑かった。秋という感じではなかった。これも季節的には変である。今頃は秋が深まってゆくころだろう。むしむし暑いのも変なのである。