2013年09月24日

津波で消失した右田の松原を回想する写真と短歌


津波で消失した右田の松原を回想する写真と短歌

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常磐木の松の緑のうるわしく浪に揺られし船今日も見ゆ

粛々と松風鳴りぬ秋の日や船もいでたつ漁もありしも
松と松健やかにあれ長き日や実りを豊かに里を育む
松と松よりて松原ありにしを津波に消えて秋となるかな
津波にて妻の死せしとあわれかな家の跡にし菊を献げぬ
松林野路菊あまた夕日さし綿のごとしも実り刈り終ゆ
残りたる庭の大石松二本烏崎村にまた秋の来ぬ
海を見て量にいでざる漁師かな恨みも深く秋となるかな
寥々と松風鳴りて右田浜冬の海にも漁船いでしも


右田の松原は松川浦の松原とは違っていた。松川浦の松林は木が細いしあれは松原というものではなかった。その違いは右田の松原は防潮林として稲作を米を塩害から守るために作られたのだ。松川浦の松林はそういう用途で目的で作られていない、環境的に景色を良くするためにだけ作られていたのである。

右田の松原は田んぼに米の実りがあり質実な松と調和していた。稲と松と海が調和して景観を作っていたのである。青松白砂の風景は松原の風景は稲作と密接に関係して作られていたのだ。松原から確かに海が見えるが一方で松原からは田んぼが広がり秋には豊かな黄金の実りとなり松原と調和していたのである。

そして浜通りで右田の松原のように整った松原はなかった。右田の松原は松風は気持ち良かったのである。松原らしい松原だった。

そういう風景になじんでいたしそれか消失することなど想像すらできなかった。
全く風景が変わってしまった。たた松原がないから広々と海が望めるようになった。
これも新しい景色というよりもともとは松原がなかったのだから海が広々と見えたのである。それはそれなりに気持ちがいいということを経験した。

常磐線からは海が見えないから海を意識しなかったのである。それは松原とか家にさえぎられていたから見えなかったのである。浜吉田駅でもあそこがあんなに海が近いと思わなかった。それは海か見えないからそうなっていた。多賀城辺りでも都市化して建物が密集して海が近いということを意識されなくなっていたのである。

いづれにしろ右田の松原は消失してただ思いだすだけになった。一つの作られた景観だったけどやはり自然景観の消失だった。それはもう再現できない、ただ思い出すだけのものとなってしまった。でも松原や田んぼの景観はいつの時代からかわからないが百年以上とか長いだろう。江戸時代からも作られていた。三〇〇年くらいで作られた松原の風景が根こそぎ消失することは今でも信じられないことたった。
だから松原の松の供養もしないといけなかったのかもしれない、松もまた生き物だからである。松がまだ枯れそうになって何本か残っているのも凄まじい光景である。
一つの執念なのかもしれな、それはなんとか生き残ろうとする人間の執念にも見えるのである。

 
 
 
 
 
 
 
posted by 老鶯 at 17:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係