2013年09月21日

九月二一日は姉の命日 (弔いの短歌ー死ぬまで戦争のことを忘れなかった)

 

九月二一日は姉の命日

(弔いの短歌ー死ぬまで戦争のことを忘れなかった)

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小林カツ

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白と黄と紫の菊交じり合い姉の命日我が墓に挿す

姉死してはや五年過ぎにけるかな世の変わりのめまぐるしかも
我一人姉の命日知りにしや墓に参りて秋の蝉鳴く
戦争を忘れられじも最後まで語りて死にぬ引きずる傷かも
死ぬまでも戦争のことひきずりつ姉は死ににき五年のすぎぬ
病院に勤めし女性紙に書き送るというを何度も語りぬ
戦友と交わせし文の我が家に束なし残り古りにけるかな
若き日の従軍看護婦その姿りりしきかも誇りなるかな
学校を一番なりと誇らしき姉の姿を思い出すかな
認知症になりて悲しき死ぬ間際我優秀なりと虫の息に言ふ
人はみな最後はあわれ弱きもの過去を誇るも虚しくなりぬ
自転車に野菜を運び店支え我が家の栄姉もたらしぬ
ふるさとを隅々歩む自転車にその足太く健やかなる女(ひと)
葛尾よりもらい子なりし我が姉の父の恩義を忘れざるかも
若くして戦地に行きしその心苦悶に満ちし歌の残りぬ
肺病に二五歳に死す人のその無念墓に記して我に訴ふ


春のお彼岸の頃は牡丹の花が咲くから「ぼたもち」、秋のお彼岸は萩の花が咲くから「おはぎ」と呼ばれるだけの違いである

こんな意味があったのは面白い。春のお彼岸は三月ころだとすると牡丹はもっと後に咲くからそうなのか?萩は確かに今頃咲く、こういうの仏教とは関係ない日本の死者を供養する文化なのである。供養するたびに寺に僧侶に金を払うのはまさにそうした日本の習俗を利用して金をもらう商売になったのである。死者に関係することは仏教とは関係ない、そもそもホトケとは仏教で言うお釈迦様のことではない、ホトキが語源であり日本の習俗が仏教化したのである。宗教では死者をそんなに重んじないのである。
ただ死者をふりかえるというとき供養するというのはどこにでもあった。
人間は死ぬとその人のことを客観的に見れるようになる。特に家族だとなかなか客観的に見れないのである。姉の死んだのは二一日であり秋彼岸の頃だった。
実際は昨日であり今日ではなかった。昨日も花をさしたから一応お参りしたことになる。なかなか命日を覚えている人は少ないだろう。人間で大事なのは誕生日と命日である。
死んだら命日が大事になる。たた命日を覚えて墓参りする人は特に親しい家族だけになるだろう。


姉が死ぬ間際まで語っていたことは戦争のことだった。認知症になってからも戦争のことは忘れなかった。それで千回も聞かされていやになった。同じことを千回も聞いたら嫌になる。でも二人だけだから聞かざるをえなかった。シンガポールに従軍看護婦として四年もいたから忘れられなかったのである。その頃かなり優秀でないと看護婦にはなれなかった。資格とるために東京の方まで学びに行った。地元では田舎では資格もとれなかったことになる。姉は特に優秀だからそういうことができた。学校も一番だったといつも自慢していた。体は太っていて健康そのものだった。そして積極的な前向きの性格であり少女の時期からしっかりしていたのである。太っているのだけで体が機敏に動くのである。
だから自分は体も頭も性格的にもだめだから感心していつも見ていたのである。

看護婦はただ姉のようにきつい性格でないと今もつつかないらしい、それだけ過酷な現場だからそうなる。戦争だったら戦場でありどれだけ過酷だったか、今の病院とはあまりにも違うのである。人がばたばた傷ついて死んでゆく、信じられない修羅場の中で青春時代を過ごした。だからそのことは忘れられないのである。最後に日本が負けてジャングルに戦友と逃げたことがまた辛酸をなめたから忘れられなかった。
青春の四年間は長い、だから戦争の是非はともかく戦争を経験した人は八〇歳になっても九〇歳になっても死ぬまで忘れられない、傷もひきづっているのだ。戦争はそういう人たちにとって終わっていないのである。

紙に書くとか紙に出すというのはシンガポールの向かいのマレーシアのジョホールバルというイギリスの病院があったところに勤めていた。赤十字社から招集されて勤務した。紙に書くとか紙に出すというのはマレーシアの女性が一緒に働いていて手紙をだすということだった。
結構親しくなったからそんなこと言っていたのだろう。

その姿を見るとなんともりりしいし誇らしいものがあった。姉は体育系の女性だからまずいろんな理屈はない、ただ御国のために尽くすという単純思考しかない、その戦争がいい悪いとかそういうことは考えない、一途な性格でもあった。もの凄く勝気な性格でもあった。でも戦争で従軍看護婦の時、青春の真っ只中だから戦争か青春だったから忘れられないのだ。そのたりりしい姿はやはり訴えるものがある。戦争を今は否定するがその時は誇らしいものとして送りだされたのである。ではその誇りを全部を否定することはできない、否定したらその生の肝心なものを否定することになってしまうからである。ただ戦争を経験した人はまだ生きているのだから戦争自体まだ歴史なったとは言えないのかもしれない、本当のことが語られていないということがある。従軍看護婦は人を殺したりしてはいないから自責の念はなかった。
だから船倉か終わってもなそうした自責の念はなかったのである。


姉についてはいろいろ語ることがある。戦争のあとに役所に勤め保健婦だった。その時自転車で一軒一軒回っていたのである。その頃の自転車は頑丈なのだか重かったし今のとは違っていた。自転車で回るということ自体かなり体力が必要だった。車がない時代だったから大変だった。ただ姉は足が太く体力があったからできたのである。
店もやっていて野菜は近くから自転車で買ってきていた。その野菜も大きな箱に入れて運ぶから力がないとできないのである。普通の人は簡単にできない仕事だった。
そういうふうにはたらいて我が家に尽くしたのである。

その生い立ちが特殊でありもらい子だったことも我が家に特別尽くした原因になっていた。

ただ最後は認知症になり悲惨を究めた。なぜならあれだけ優秀だと自負していたのが本当に馬鹿になったということが今でも信じられないのである。でも最後まで自分は優秀だと言って死んでいったのである。自分などは常に優秀なところがないと本当に思っているし実際にそうだった。何ら才能ある人間にみられないのが当然だったのである。だからそんなに自分が優秀だということを死ぬまで言っていることか理解しがたいのである。
そこにはやはり奢りがあり最後は悲惨な結果になった。


人間は死んでも何か残す、母の実家の墓にはただ一行亭年25才で死んだ人の名前かが刻まれている。この人は肺病で死んだのである。そのことを聞いているからいつもその一行だけが訴えてくるのである。何かやはりその無念をその一行で訴え続けているのだ。
そういうことが人間には常にある。戦争で若くして死んだ人は生きられなかったからその無念も大きいし恨みも深くなる。だから学徒出陣の学生が残した歌にはありありとその苦悶がにじみでている。人間は簡単にいくら御国のためだとはいえ割り切れるものではなかったのである。ただ姉の場合は性格から割りきっていたのである。

姉が死んでから五年も過ぎたと思わなかった。その間は自分の病気で入院とかいろいろ書いてきたけど信じられない激動の日々だった。まだその激動はつづいている。

自分の墓地の前が復興住宅の建設地になった。この辺はあらゆるものか変わり過ぎたのである。姉が死んでたちまち五年もすきたということもそのためである。ゆっくりふりかえる余裕もなかったのである。姉のことは姉の一生としてフォトブックに写真入りで残せばいいかもしれない、ただフォトブックは簡単に安く残せるけど文章が少ししか入れられないので問題である。余裕ができればそういう方法で記録として残したい。
戦友が集まって残した文章もあり一番の戦友だった人は短歌なども残した文学少女だったのである。その人とは手紙のやりとりがあったが認知症になってからはわからなくなった。ただ束なしてその手紙が残っているのでそういうものも利用したいがその戦友が今生きているかどうかもわからなくなった。もう九〇歳くらいになっているからそうなるとみんな音信不通になってしまうのである。ただこれも歴史としてふりかえり後世に伝える義務が自分にはあったとなる。