2013年09月12日

なぜ原発事故は起きたか? (企業社会に対抗できるものはいなかった)


なぜ原発事故は起きたか?

(企業社会に対抗できるものはいなかった)

●会社が国も地方も支配して原発事故が起きた


原発事故の原因は一つにはならない、様々な要因がありその解明は技術的問題もあったが現代の社会的問題でもあった。今の社会の仕組みの問題が根底にあった。現代とは会社社会であり会社や企業中心の社会である。
東電は巨大化してすでに国家の中の国家になっていた。現代のテクノクラートであり支配層は企業であり官僚でも政治でもない、保安員というのがいかに無力だったか事故で証明された。東電を監視するものではなく単なる東電の飾りであり何の力も持っていなかった。保安員の院長の西山とかいう人は法学部出であり技術的なものは知らない、だから何も監視も助言もできない、官僚はそううい人たちでありこれは原発だけではない、ディバインでも薬会社の社員がデーターを大学の研究所に入って改竄していたように官僚は医療関係でも監視できない、なぜなら会社の方が現実社会に効力を発する実践している。官僚よりも当然技術力も格段に上でありとてもたちうちできない、要するに原子力発電のようなことは何もわからなかったのである。とても法学部では監視できない、ただ東電から天下り先として東電の言いなりになっていただけである。東電が重大な安全上の問題があってもそもそも見逃すというよりわからないのである。何が問題かも指摘もできないのである。

企業が国の官僚より強力であり実際は技術力もあり仕事できる。官僚はただ予算を組んで適当に配分するだけであり企業の言いなりになっている。ただ自分たちの利権利益の天下り先を確保するのが仕事だとなってしまう。その最大の要因が官僚にはそれだけの知識力も経験も技術力も何もないからである。
そういう実際の仕事の蓄積は企業が積み重ねているからとてもたちうちできない、ただ金を出す予算を組む力が官僚にはある。その金も無駄に費やされるのが多いのは官僚には民間のような実際の現場で培う知識も技術力もノウハウも何もないからである。法律の知識だけではとても対応できないからである。


ただ今になると土木工事でなぜ最初は高くしていたのにわざわざ低くしたのか?→危険


緊急時の電源を地下に置いたのか?→危険


この二つは知識がなくても官僚でもわかったかもしれない、ただそれも事故のあとでそれが明確になったのであり事故の前は官僚は適当であり安全が何かも官僚はわからないから東電の言うなりになっていた。土木工事関係者も東電の発注で工事したとなると清水社長がコストカッタ-として知られて社長になったのだからその意向に従ったとなるのか?わざわざ低くしたのこれは相当な危険なことであり責任問題だった。
地下に緊急時の電源を置いたのも津波対策を全くしていない危険なものだった。

現代の社会とは企業(会社)>官僚>政治家の力関係にあるのだ。政治家は官僚より力がないのはこれまた官僚は会社と企業と同じく予算を組む専門家であり選挙の度に変わらず仕事しているから専門家だからとても選挙で一時的に当選しても官僚にはかなわないとなる。政治が機能しないのはそもそも現代社会は会社社会であり東電が国家の中の国家でありそれを制御するものはないのである。除染もゼネコンのように利権化して官僚の天下り先となるのか?二本松では地元の工事関係者で元請けとして地元のために国の予算を地元の会社に回してやっている。ゼネコンになるとその利益は大半もっていかれるからである。官僚はそういうことは面白くないかもしれない、なぜなら自分たちの利権と権限がそこなわれるからである。


そもそも歴史でも侍が力を持ったことは理解できる。現実社会で武力で実効性があるから支配者になった。武力のない官僚はその時支配者にはなれないのだ。江戸時代になると平和になり官僚化してきた。そして明治維新になるとこの時も侍が武力が前面に出てきた。武力でないと解決できないからだ。それで武士の出の人が力をもつようになっていた。警察官になったのは侍出身者が多いことでもわかる。軍隊関係もそうである。その時まだ侍がいたから指導力があったからのちの軍部とは違っていたという。侍というのが日本から喪失して多分に軍部でも官僚的になっていたのである。だから強力な指導者が喪失してただ犠牲だけ強いられる無駄な戦争にもなっいいった。


●グローバル経済という怪物


会社とか企業とかが国家になるとき社会はどうなるのか?トヨタでも自動車が売れることが国家の目的になる。社会はトヨタの企業下に組み入れられ全国が部品工場と化してゆく、つまり自動車が売れなければ国家の命運も終わりだともなる。飯の食い上げだなりトヨタの会社の意向が何より優先される。例えそれが原発のように他の会社のように公害をもたらしても会社の意向が優先されるのだ。つまり現代は国家の一員というよりはみんな会社の一員なのである。会社は給料を与えるし日々仕事する場だから人生をそこで日々生きる場所だから会社に命まで捧げるともなり会社からリストラされたらアイディティティを失って自殺したドラマがあった。
まさに会社が人生だからそうなってしまっている。高度成長時代は企業戦士と言われたのもそのためである。
誰も太平洋戦争の時のように国家の戦士とはならない、国家への意識は希薄化しているのだ。

みんな会社に所属して所属意識は会社にある。江戸時代のように封建時代のように土地に所属して藩に城に所属するという感覚はない、会社が現実の所属する仕事する場所なのである。だから仕事は土着的であるべきといっても郷土愛も希薄となり今回の原発事故のように避難を強いられて町も村も解体されてゆくのかもしれない、戦前だったらまだ第一次産業が八割とか郷土に根付いて仕事していた。養蚕にしても兜作りの立派な家がまだ残っているように地元中心に生産活動が全国で行われていたのである。奇妙なことは東京などで失業しても田舎の実家に帰ると一応田畠があり食うことかできた。そういう避難所としても田舎は実家は機能していた。
今はそんなことはない、東京で失業したからと田舎に帰る人はいない、田舎では食うことさえできなくなっている。そういう社会の変化の中で原発事故は起きたのである。


会社は・・・莫大な財源と多様な利害と優秀な専門家を武器に今では堂々と政治的支配を目標にかかげるようになった。民主主義が崩壊するのはまさにこの新し現実のためである。会社が目指すのは利潤の最大化であり社会全体の利益ではないからだ。会社を動かすのは少数幹部の意見であり社会全体の意見は反映されない
ウィリアム、グライダー(グローバル経済という怪物-デビットコーテン著の引用)

東電の幹部はこういう人たちだったのか?7決して責任はとらないし会社を支配しているのだから今でもこういうことができる。


 清水正孝社長  (現在、家族と共に海外在住)
  →関連会社・富士石油の社外取締役に天下り
・ 武井優副社長  (現在、家族と共に海外在住)
  →関連会社・アラビア石油の社外監査役に天下り
・ 宮本史昭常務  (現在、家族と共に海外在住)
  →関連会社・日本フィールドエンジニアリングの社長に天下り
・ 木村滋取締役  (現在、家族と共に海外在住)
  →関連会社・電気事業連合会の副会長に再任
・ 藤原万喜夫監査役  (現在、家族と共に海外在住)
  →関連会社・関電工の社外監査役に再任


現代はグロバ―ル化しているからこいうことができる。日本国の制限を受けないのだ。これだけの会社だからまさに日本国より会社に属しているのだ。国が守っているのではない以前としてこ会社が守ってくれているのだ。これは国籍が会社にもなっているのだ。会社が治外法権化して守っているともなる。なぜ国でも糾弾しないのか?


あなたのような会社に興味をもっていただけるように・・・・私たちは山をならしジャングルをきりひらき沼を埋立て水路を動かし町を移動させました。あなたの会社が操業しやすくするためです
(フオーチューン誌に載せられたフィリッピン政府の広告)


まさにこの辺では 町を移動させました 町自体が住民が移動させられたのである。
ヨーロッパの貴族は村を移動させて自分用の土地として使った。広大な庭園を作るためだった。この権力が一番大きい権力かもしれない。容易に人は長年住んでいた所は動かないからである。


それとは対照的に地域に根付いた自給経済にもとずくシステムは政治部経済文化への参加を通じて民衆が自分たちの希望や歴史文化を、生態系を尊重しながらそれぞれの未来に向かってゆくことができる。


ここで生態系ということに重点を置いていることに注意する必要がある。現代の文明は生態系から離れている社会である。一千万人の東京は生態系などと関係していない、そういう意識もない、田舎だとどうしても生態系を感じぜずには生きられないのだ。田んぼでも畑でもそれは生態系の一部としてあった。戦前から戦後十年くらいまでは貧乏でもその土地の生態系の発展として利用として地域の経済は成り立っていた。生態系というとき精神的にも生態系より人間の心も形成される。このことは無視されているが自分は石や樹や花を詩にしたときそれは生態系に依存して書いている。石が岩が示すのは人間の精神でもある。人間の精神を象徴化したものとして石があり岩がある。人間の精神も生態系から作られてゆくのだ。東京のようなところではもう生態系がないのだからその精神はどこから作られのか?巨大グローバル会社の利益優先から精神が作られてゆく・・・そこに世界的な歪みと心の荒廃が起きてくるのだ。


●会社中心の社会で失われたモラル


そもそも国家とは何かというとそれも明確ではなくなっている。心の青雲ではしきりに官僚を批判しているのもわかる。なぜなら会社に勤めていたから官僚の理不尽を直接感じたからである。だからそれはすでに感情的になっている。官僚にいじめられたからその恨みが深くなっている。それで日本が優れた国として愛国心を高揚させる。それはやはり会社企業社会の利益優先の目的ではない、国家としての歴史に培われた日本への所属をこむすることになる。それは利益優先社会の会社とは違う、国への誇り忠誠心ともなるのか?そういう愛国心は現代では現実問題として希薄化している。それだけ大局的に長い時間の歴史的にも見れない時代である。
ただ目先の利益や利権のみに追われる。官僚も国を背負っているというような気概はなくなった。
明治の侍のようなエリートではない、サラリーマンになったということである。受験戦争を勝ち抜き東大を出て利権にありつくことが目的であり日本国家がどうのこうのなどなくなっていた。だから当然官僚になれば天下り先が一番大事になる。もちろん自ら犠牲になるようなことはありえない。損することはしない。
現代はかつてのエリートは存在しない、官僚でも政治家でも教育者でもみんなそうである。
ただ利益を得るものが金を多く得るものが偉いのでありみんなそのために働き生きている


これはどこでも同じである。カルト宗教団体でも創価でも共産党でも実質は同じである。権力を得て利権を得ることが目的で活動している。政治家になれば権力が得られる、やがては社会の支配的階級になる。共産党一党独裁になれば中国のように巨額の利権を得られと活動している。仏教も共産主義もにたようなものなのである。
仏教民主主義とか仏教社会主義とか勝手に言葉など作れる。内容などなくてもいいのである。実質は権力を手中にすることなのである。でも現代社会の実質の権力は会社が握っている。現代では病院でもそうであり医者が実質の支配者であり宗教は実際の力をもちえないのである。宗教が政治化するとき実効力をもちたいから政治に進出する。いくら拝んでもいても何の効力もなければいづれは離れてゆくからである。それは上から下からみんなそうであり原発事故も金がばらまかれて今避難している双葉町や大熊町でも数千万もらったとかは今の補償金を考えたらそれも嘘ではない、誇張でもない、それだけの金が入るのが原発だったからこそ率先して誘致したのである。


結局資本主義も最初は修道院からはじまった宗教的なものから発していたから利益だけを追求するものではなかった。共産主義でもそれなりの理想はあった。仏教にもそれなりの理想はあった。民主主義すら宗教的なものから発していたというのもそうである。ピューリタニズムが発祥だという。理想主義があってもそれが堕落するのは結局人間の欲がそうしたイデオロギーを曲げてしまうのである。馬は目の前にぶら下げられたにんじんしかみえなくなっている。人間も同じである目の前にぶら下げられた金しかみえなくなる。今はみんな補償金だけになっているのと同じである。それは自分にもあるし否定できない、そもそも宗教は金で得られないもの権力で得られないものを目指していたのだから本末転倒の世界になっているのだ。宗教も権力化したきヨーロッバでも日本でも堕落した。権力の魅力の方が大きいからもともと天使だったものがサタンにも変貌したのである。それがこの世の有り様でありそういうことは変わらなかったのである。

kaibutuu11.jpg]

kannryou1.jpg
posted by 老鶯 at 04:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連