2013年09月26日

秋空にノスリの飛行の写真

 

秋空にノスリの飛行の写真

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草原に秋風さやかノスリかな

爽やかにノスリの飛行や秋の空
精悍に草原にいつくノスリかな
墓に死者虫の音聞くやひそまりぬ
鶏頭の稠密に精緻赤さかな


鶏頭の炎のごとく燃え咲きぬ今日もここに五六本かな

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これって人間の脳味噌ににている


草原にノスリがいて一瞬こちらを見ていた。シャッターチャンスと思いカメラを取り出して撮ったが飛び立つところがとれていた。なかなか鳥は逃げるので撮れない、でも飛行しているノスリがとれた。ノスリは鳶と間違いやすいが鳶とはかなり違った鳥である。
よりコンパクトであり精悍な体つき目も鋭いのである。だからノスリにはひかれるものがあった。それはこの辺が草原化した結果、ノスリが常にみかけるようになってその魅力に気づいたのである。野生の魅力というときなかなかじかに接しられないから現代ではわかりにくい、野生の動物でも身近に接することができないからわからないのである。

写真家でも野生の動物を撮ろうとする時、気づかれないようにするために一日テントの中にいたりとか大変な労力が強いられるのがわかる。ただそれは写真を売るということもあるが野生の動物に魅了されるということもあるのだろう。自分は確かにこのノスリには魅了されたのである。飛び方も鳶とは違う、大空を自在に飛ぶ姿なのである。


現代はともかく写真の時代である。写真で常に記憶してふりかえる時代になった。
鶏頭というのも写真で見るとこんなふうだったのかと感心する。これは一つ一つの細胞を見る感覚になる。まさに写生が写真なのである。俳句はそれに添えるものにすぎなくなる。


今日は台風の風がふいて秋らしくなった。昨日あたりまで暑かった。これからかなり秋めいてくるだろう。今墓で死者が聞いているのは微かな虫の音だけである。そしてひそまっている。

認知症になる人には我強い人が多いというのは本当かもしれない、姉はものすごく勝気であり我が強かった。だからこそいい面としては何でもできるということだった。
だから認知症になってから何もできなくなるのだから悲惨を究めた。
優秀な人が認知症になると悲惨を究める。あれだけいろいろなことができた頭のいい人がなぜこんな本当に馬鹿になってしまったのかと唖然とするだけになる。
本人もそのことにうすうす気づいて自分に腹ただしくなり怒り相手に不満をぶつけて暴力になったりしていたのかもしれない、そういう激しい感情の人だったから認知症になって悲惨を究めた。

一方母は自分と同じくおとなしい目立たない人だった。内向きであり波風のたたない人だった。感情的にも穏やかなのである。だから認知症になったとしても別にそんなに感情的になり興奮したりしない、おとなしく穏やかなのである。ただちょっと入れ歯をなくしたときあわてたことがあるから認知症である。でも感情的になって怒ったりしないから扱いやすいのである。


この辺は草原化して小島田辺りにも沢瀉と水葵がまた咲きだしていた。それも水葵も数が多い、沢瀉も多いから一面に咲くということがある。津波の後に水葵と沢瀉はセットで咲きだした。水葵は田んぼの時は咲かない、その底に種が埋もれていたということも不思議である。
いづれにしろこの草原化した景色というのはもうすでに二年半見ているがこれまた田んぼとはまるで違った自然景観だったのである。それはモンゴルの草原とも多少にていたのである。いながらにして北海道にいる感じになってしまったのである。

今日は列なして雁がわたるのも見た。秋らしく気持ちいい日だった。台風は海の方を去って行った。


鶏頭が咲くという時、燃えるように炎のように咲くという時それは定着してもそういうことがある。その土地に燃えるように熱情的に咲く、定着してその土地に心が燃えるように勤めるということもすばらしいことかもしれない、土着的になることもやはり一つの情熱であるかもしれない、移動することが主であったが今はすでにここ半年も仙台に行っていないしどこにも近くし行っていないのである。

2013年09月27日

秋風吹く八沢浦から磯部、松川浦、相馬市へ (津波から二年半すぎてめぐる)


秋風吹く八沢浦から磯部、松川浦、相馬市へ

(津波から二年半すぎてめぐる)

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これは水葵とも違うのではないか?
こんなふうに咲くのか、何の花なのだろうか?
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渡り蟹
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夏菊や海の展けて沖に船

秋日和釣りの男女や松川浦
釣り人は女性二人や秋日和
秋日さす下がり松に我がよりぬ
幽遠にここに古りゆく秋柳


八沢浦秋の日晴れて風そよぎ蔵王大きく迫り見ゆかも

八沢浦磯部よりしも大いなる蔵王の見ゆる秋のさやけく
津波後沼の五六や八沢浦葦に薄の風になびきぬ
秋風の沼にそよぎてさわやかに嘴(くちばし)鋭し鴫飛びたちぬ
ここに人住みしを知るや秋風に葦のなびきて時のすぎゆく
人の住む跡は沼ともなりにけり秋風そよぎ葦の覆いぬ
松川浦その浦浪の宇多川に秋風そよぐよせにけるかな
宇多川の河口によせる浦風や秋風さやか百間橋行く
宇多川の岸に残れる木の音かな津波の形見ここを離れじ
渡り蟹十匹ほどや松川浦秋の日さして釣り人と話す
梅田川岸辺に畑秋日さし村も古りぬる橋をわたりぬ

街道ははや稲刈られぬあわれかなまちばばしに陽のかげるかも

八沢浦の風景で思い出したのがこの歌だった。実際にくちばしが鋭く曲がった鴫が飛び立つのを見た。それは田鴫かもしれない、磯鴫とも違うだろう。ただくちばしが鋭く曲がっているから印象的であり鴫だった。


心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行


歌われた場所の候補としては花水川の河口部の葦原が考えられます。
鴫立庵から1`ほど東側に位置します。

http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45097304.html


この歌も実際わかりにくい、鴫が飛び立って行ってしまった。あとにはただ沢が残っている。これはどこが名歌なのだろうか?心なき身にも哀れは知られけり・・・これだって何か理屈っぽいからいちいちこんなことを出すのも名歌のように思えない、でも古来これが名歌だとされている。それがなぜわからなかったのか?つまり鴫立つ沢の秋の夕暮れの景色が喪失してしまっていたからである。今回津波の跡の八沢浦を回ったら本当にくちばしが尖った曲がった大きな鴫がまさに飛び立ったのである。そこには家が何軒かあったが
今はそこに人が住んだ気配さい感じない、というのは八沢浦は人家が密集してなかった。あそこにも家があった何軒かしかなかった。だから自然の中に埋もれてしまった。
そして鴫が飛び立ったときまさにこの光景だった。


鴫が飛び立つとは常住旅人の西行のことなのだろうか?鴫が飛び立った後に寂漠として沢の野原しかなかった。それよりも不思議なのは津波で死んだ人がいるのだから鴫のように飛び立って帰ってこないともなる。後に残ったのは寂漠とした野原と沼になってしまった。鴫が飛び立ってどこかに行ったように後に残っているのは原っぱと沼だったともなる。それも秋の夕暮れであり一段と寂寥感が身に沁みる。一人旅だとそういう寂しい余韻を残す、大勢の旅は旅人にならないのだ。つまり旅人になることは特殊なことなのである。


八沢浦からあんなに大きな蔵王が今日は見えた。不思議なのは確かに八沢浦から見えるのだがこうして大きく見たのははじめてのような気がする。前にも見たにしろこんなに大きく見えたのかと思う。磯部から大きな蔵王が見えた。蔵王は八沢浦が本当に浦になっているときあれだけ大きく見えるのだから浦にその影を写していたのである。


 高瀬さす八沢が浦の夕波に色をみだせる雪の遠山


雪の遠山は蔵王のことである。雪の蔵王はいつも見える風景である。阿武隈山脈はあまり雪がふらないから雪の遠山とはならない。八沢浦は明らかに蔵王と風景が一体化していた。色を乱せるというのもその浦の水面が常に蔵王を写していたからなのである。
今回は一部そうした沼にその浦がイメージされたのである。


次に宇多川から百間橋をわたり和田に出て沼があった。広い沼だからゆったりと鴨が泳いでいる。いつも見ている沼は小さすぎたと思った。そこから松川浦の岩の子に出たら釣りしている人がいた。蟹を十匹くらいとっていた。これはあとでわかったが渡り蟹という名の蟹だった。それは若い女性が二人釣りをしていてその女性が知っていたのである。


標準和名はガザミだが、「ワタリガニ」の呼び名の方がよく知られている。ボートの櫂のような第5脚を巧みに操って泳ぎ、遠くへ移動することからの命名。

また、このカニは月夜に群れをなして泳ぐことから「月夜ガニ」とも呼ばれたり、形から「菱ガニ」と呼ばれたりもする。
「ガザミ」とはカニのハサミの略語で、ハサミを意味するカサメの転訛とも云われてる。『本朝食鑑』には、「一つのハサミは大きく、一つのハサミは小さいので、いつも大きいほうのハサミで闘い、小さい方で物を食べる」とある。
ワタリガニを食用としたのは弥生時代にさかのぼるとのことから、それだけ手に入りやすいところに生息していたことが想像される。


季節的な鉛直移動を行い、夏季は沿岸や水深40m以浅の湾内の海底に棲息し、冬季には沖合や湾外の深場に移動する。水温が14〜15℃に低下すると摂餌活動を停止して砂の中に潜り、水温が10℃前後に上昇するまで冬眠する。
http://www.maruha-shinko.co.jp/uodas/syun/58-watarigani.html


渡り蟹だから渡り歩くと思ったがそんなには遠くには行かないみたいだ。ただそもそも蟹にしてもその生態は人間にはわかりにくいのだ。動物自体もやはり本当はよくわからない神秘的なものなのだろう。冬眠するというのも不思議である。冬眠は仮死状態でありそれでも生きられる不思議である。熊は知っているが蟹もそうなのかと不思議である。
自然界のことでも人間がみんな知り尽くしているわけではない、だから今回のような津波でも驚いたのである。自然界のことを知ったと思っていても想定外のことが起こる。
自然界のことが実際は全部などわかりようがないからなのだ。

梅田川は埋めた川であり確かに半分が埋められている。ということは古い川なのである。あの辺は古い村なのである。
そういう歴史がわからないとただの川として見てしまう。ただこうした歴史はなかなか近くでないと旅してはわかりにくいのである。
新田とあってもあの辺は元禄の碑があったように古い村だったのである。
梅田ということに古さがあったのである。


相馬市の小泉川の柳はいい柳である。いかにも秋柳という感じたった。そこから浜街道の松並木を通り日立木のまちばばしを渡り帰ってきた。まちばばし・・あそこは何度も書いているけど情緒ある場所なのである。ただあの橋に気づいている人はまれだろう。
人間は意外と近くのことを見ていないのである。近くのことを知らないというのも人間の盲点なのである。灯台下暗しなのである。別に自然だけではない、一体近くでも人間の暮らしがどうなっているのかわからないことがあるのだ。人間はどんなところに住んでいてもせいぜい身近に接する人間は限られている。数人くらいになってしまうだろう。
するとあとは直接は接することができないからわからないとなるのだ。
漁師のことだって確かに話を直接聞いたことがあったがなかなかわかりにくいのだ。

今日も相馬市の駅前の花屋によった。なぜあそこに寄るかというとフラワーアレンジメントがわからないからなのだ。あそこで花を選んでフラワーアレンジメントしてもらうとそういうものがあるのかと理解する。花屋は花のことを知っている。人間は本当にわからないことが死ぬまで多いのである。


この辺の景色を確かにフォトブックにして案内するといいかもしれない、その作り方は会得した。パソコンを利用して自分流にいくらでも作れる。本になると販売もできるからいいのである。本とかは今は簡単に作れる時代になった。本屋でカラーの写真だとかなり高くなる。でも自分でも一五〇〇円くらいで15ページ作れるとなると安いと思う。
現代は何かそうして自分で地域でも個人でも情報を発信しないと商売でも繁盛しないだろう。ただ花屋にしてもそういうことにあまり関心ないみたいだ。
若い人より今は花屋を利用しているのは年取っているせいがあるかもしれない、みんな本を出すということは一生の夢だったという時代があった。
本自体は今は簡単に作れる。ただそれを流通させることは至難である。
近くの本屋すら売れなければ置かない、だからインターネットを通じて売る時代になる。個人が発信して出版社になる時代である。
それだけのことがインターネットでできる時代なのである。

2013年09月29日

街作りを城下町の相馬市から考える (文化は多様性だから一極集中は文化の喪失になる)

 

街作りを城下町の相馬市から考える

(文化は多様性だから一極集中は文化の喪失になる)

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●文化は資本や金だけからも生まれない


街作りを考えるとき街自体には実際はいろいろな要素が複雑にからみあっている。おおまかに分けると自然と歴史と経済性、便利性とかが街作りの基本になる。現代は巨大スーパーでもコンビニでもそうだけで利便性と安さとか効率を極限まで追求した時代である。
だから商店街は消失した。スーパーは利便性ではダントツに優れているから集中した。
しかしそこには精神的文化的なものはない、胃袋を満たすということのみになってしまう。人間は豊かになればどうしても胃袋だけではない文化的な要望も大きくなる。
でも文化的なものはイオンのスーパーのように巨大資本でも金だけでも作れないのである。もちろん金も資本も文化的なものに投入すれば文化的な想像も興隆する。
それがフィレンツなどで起こったルネサンスだった。しかし薬で財を成したメディチ家がパトロンとなり芸術家を育てた。それでも金があったから資本があったからあれだけのルネサンスができたのではない、総合的な歴史の集積としてあれだけのものが生まれた。
それはギリシャ文明から発してローマの建築文明がありキリスト教文明がありイスラム文明と融合して一大壮観な全体的総合的なものとして芸術が結晶化したのである。


金があり資本があるからといって文化が興隆するわけでもない、確かに豊かさがなければ毎日奴隷のよう仕事に追われていたら文化は生まれない、基本的には暇がないと文化は生まれない゛スコーレがありスクールがあった。文化とはそうした余裕かあって生まれる。文化とは必ずしも実用的なもの商業主義的なものからだけでも生まれない、文化の定義はむずかしいにしろ現代がこれほど経済的には豊かでも文化が衰退して荒廃しているのはなぜなのか?アメリカがあれほど豊かなのに文化が生まれない、それはのようなヨーロッパのような歴史がないことに基因しているのだ。文化一朝一夕にはならない、二千年とかの歴史の集積して生まれてくるのである。経済は一時的に興隆する。スペインは泥棒国家と言われるようにインカなどから黄金を略奪して金ぴかの聖堂を作ったとしてもそれは本当の価値ある芸術とはならなかった。

これはグローバルにみた文化論であるが文化というのは日本などでも狭い地域でもあるのだ。原町市と相馬市がなぜこれほど違うのだろうか?そのことを度々プログで書いてきた。それはその市の成り立ちにあったのだ。原町市はいち早く近代化して駅が機関区になり常磐線で森林の木材などが運ばれた。交通の基点となり東洋一の無線塔も作られた。

もともと原町は野馬追いのために作られた馬を放す広大な牧であった。要するに原っぱだったのである。だから原町村というのがあったがそれは非常に小さな村だったのである。雲雀が原に戦後でも開拓者が入ったというのもそのためである。原町村は宿場町であり
原っぱだったのである。でも近代化して駅通り中心の街作りになり発展した。
明治維新以後は駅を中心に街作りが行われていたのである。それは全国でそうだった。駅を中心に街並が形成された。鉄道は今の車と同じ役割を果たしていたのである。
駅中心の街だというとき駅前旅館とか駅前に鉄道から荷物を下ろす引き込み線があったから駅前が拠点となる。駅前にあると何でも便利になった。それがかえって今ではイオンのように郊外に一つの街ができて駅前どおりはシャーター通りになってしまった。
ただ相馬市は城下町で古いから駅前通りがそのまま残ったのである。


●駅前の花屋から街作りを考える


今でも駅前通りはそのつまでありプラタナスの通りを作っている。秋風がその広葉にそよぎ気持ちがいい。それで駅前の花屋を中心にしてこれまで相馬市について語ってきた。花屋というのも注目されていない、ただ駅前の店というときあそこの店しかなにか目立たないのである。駅前花屋とはまさフラワーステーションになっていた。店とは見せるであり見せることがまず商売の始まりなのである。それで気づいたことが花屋の特徴はただ花見るだけでもそれで満足できるということである。あそこには外国から珍しい花が結構置いてある。大きなガーベラがあったのには驚いた。放射能で巨大化したのかとも思うように大きいのである。花も品種改良しているから膨大なものが生まれている。バラだけでもその数は増えすぎている。ただ青いバラができないというだけになっいる。

園芸というのはオランダでチューリップバブルが起きたように豊かになると園芸が盛んになる。イギリスが世界から植物を集めたようにイギリス庭園ができたようになる。

現代では一地方でも外国から花が入ってくるからいろいろな花に接することができる。
こんな花があったのかと覚えきれないくらい花が入ってきている。現代が物質の繁栄から文化の繁栄に移る時、園芸も盛んになる。江戸時代も園芸が盛んになった、趣味も多彩になり盆栽などが生まれた。庶民レベルでもそうなった。現代も一方で経済的に困窮している人が多くなっていてもやはり高度成長のような時代は終わり文化の時代に移行しつつある。その一つがやはり花の価値が高まってくることである。

ただ花といっても現代の花もグローバル化しているしデジカメ写真の時代であるから写真やパソコンのとの連携が必須となっているのだ。こうしたグローバル化とITに適合しないとあらゆるものが成功しないだろう。自分はパソコンでインターネットでキタムラでフォトブックが簡単にインターネットから注文して作れた。こんな簡単に写真の本が作れるのかと驚いた。花でもデジカメと一体化して楽しむ。なぜなら花は食べるものではない見るものだからこれはデジカメが必須になってくるのだ。そういうふうに現代の最先端の技術と融合してまた新たな文化が生まれてくる。ただその技術に追いつけないと取り残されるのがいつの時代でもあった。なかなか地方では老人が多いと若者向きにはならない、でもキタムラショップでは若い人が操作してプリントしている。プリントもデジカメ時代になり全く変わってしまったのである。それであんな商売が生まれたのだと思った。


●文化は多様性だから限界集落なくなれば文化の消滅を意味する


相馬市の魅力は歴史的遺産がある、一応城跡があり城下町だということがある。ただ外からきた人にはただ堀とわずかの石垣しかないから城下町と気づかない人がいるかもしれない、でも街割りは城下町特有のものであり碁盤の目のようになっていて細い路地が多いのだ。それでその路地に秋風が吹いてきたとき何か城下町の情緒を感じたのである。

秋風の路地に吹くかな城下町


相馬市には高いビルなどがないからそういう雰囲気をまだ感じられる。小泉川の柳を写真にとったがあれもあっているし何かいつもしんみりとするのが相馬市なのである。そしてそれなりに相馬市が規模が小さくても文化都市であることがわかった。店でも茶を売っている店でいい陶芸の壺などを売っていた。ガラス製品も売っていた。それは高いにしてもフラワーアレンジメントには必要なので何個か買った。それから高級家具店もあった。
高いものは注文しなかったがあそこでも買った。そういう店があってフラワーアレンジメントができる。フラワーアレンジメントはかりてり贅沢なものである。

ただ現代にデジカメとかそれを加工するものとかフォトブックにして記念に残すとかが必要になっている。印刷とか本にてするとか技術の進歩で安くなっている。それは出版社とか印刷会社でできるものが個人レベルでできる時代である。ただ書店には置けない、なぜなら書店は出版社の出先機関であり取次とかが流通を支配しているからである。それでも時代が変わったという時、書店だけがそうした情報の窓口になることは終わっている。情報の窓口は今やインターネットにも移行している。情報の窓口はマスコミから離れ非常に多様化しているのだ。多様化することは本当は文化にとって不可欠だった。みんな銀座通りとか東京のまねでは文化にならない、東京には実際は本当の文化は生まれないだろう。技術は生まれても文化は生まれない、なぜなら文化とは自然があり長い歴史があって生まれるものだからである。生け花にしてもこの辺では京都とと違うから伝統がないからどうしても理解できないものがあった。でも自然はあるから野の花を挿しても池花なのである。生け花は自然の花を摘んで挿したことから始まっているからだ。大都会になるとそうした自然がなくなるから文化も消失しているのだ。


医療や介護で便利にするにはコンパクトシティになるといいと書いたけど文化の面からするとそうではない、文化が多様性だというとき小さな町でも海岸側に住んでいる人と山側に住んでいる人は違う、原町の大原や鹿島区の橲原(じさばら)は山里であり山に夕日が沈むときなんとも落ち着いた気分になるのである。それは海側では感じられないものである。海側では海から太陽が昇るとき一番海側に住むことを感じる。人間は狭い地域でも住む場所によって心持ちが変わるのである。
例えば鹿島区の栃窪村にも下栃窪と上栃窪があり地域的に差がある。上栃窪まで行ってそこに墓あり秋の蝉が鳴くとまた違った感じになる。


墓静か上栃窪や秋の蝉
秋の蝉朝鳴きひびく古磯部


何か一段としんみりと秋の蝉の声がひびく、磯部でも海岸に集中していて津波で全滅した所は新しい、古磯部とあるようにもともとはあそこに最初に人は住んでいない、高台の方に住んでいた。するとそこに鳴く蝉の声は違ったものとして感じる。


これは梅田川でもそうだった。梅田とは埋めた川で実際そうなっている。そこに村の古さがあったのである。そうした狭い地域でも村の色合いは違っている。それはその土地から歴史から長い時間のなかで作られてきた。それが東京だけに人があれだけ集中して過密地獄にてっているのは人間の国土のあり方としては間違っている。でも限界集落は負担だからつぶせとかなっている。そうなると日本の地域地域の個性が失われ一様化して文化が失われる。旅してもどこも同じだなとなってしまう。グローバル化でも世界が一様化するとそうなってしまうのである。ただ文化論から歴史論から国作りを考える人は少ない、経済的合理性効率論でしか普通は考えないのである。ただ地域にしても昔なら自給自足社会だから別に都会に頼らなくてもインフラがなくても不便でも生活していたからとやせかく言われることもなかったのである。でも文化が消失するということは精神的なものも消失してゆく。確かに経済的基礎がなければ文化など語れないということもある。食うや食わずではそうなる。ただ現代のような豊かな社会ではまた違っている。街作りというとき津波とか原発事故の市町村はこれからどうして街作りしていいのだろうとなる。その課題はあまりにも大きいものとなってしまった。

ただ相馬市などは歴史地区、医療地区、文教地区として個性が保てる。文教地区というときもともと相馬女学校があったし今では相馬総合病院の近くに看護学校もあるからそうなる。これも渡辺病院が新地にできると相馬総合病院の患者が減るとなり問題が起きている。ただ相馬市は相馬市の街作りがしやすいのである。


●文化は総合的なものとして生まれる


今回なぜこれだけのものが作れたのか?たいしたことがないように見えても個人でこれだけやれるのは今までならできない、それはまず確かに技術の進歩があった。ただそれだけでもルネサンスが生まれないよう生まれない、様々なものが融合した結果生まれたのである。それは最初は自分のテーマは生け花でもフラワーアレンジメントでもなかった。
自然の花を見てきたのであり花をテーマにして詩も書いてきた。そこで病気になり相馬総合病院に通い帰りに駅前の花屋に寄った。それは車がないから電車を利用していたからである。そして自分は電車の旅も長い、だから電車に相当に愛着が生まれた。鉄道マニアにもいろいろあるが自分の場合は車両とかでもない、鉄道に乗ること自体が興奮するのである。バスにのることは興奮しない、何か今でも嫌な感じになる。だからバスでしか仙台に行けないから遠くに行くのがめんどうになり半年も仙台に行っていないのだ。

鉄道というときここは原町駅から相馬市までしか走っていない、それでもこの二両の電車もいいなとつくづく思う。二両になった結果何か前よりヒューマンサイズになり人間的になった。二両の電車があわれだとか感じるのはより人間的になっているからである。
そして二両になった結果必ず運転席の前になる。それで今回その運転席に運転手の業務用のカバンが置いてあった。それがなんとも律儀な感じでそれが古くなっていたので何か年期を感じたのである。外の景色は稲が実っている。一部がすでに刈られている。車窓から見える景色には常に情緒がある。相馬市になると原野ではなく普通の景色になっている。
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業務用の黒き鞄も古りしかな外は実りの景色となりしも


鉄道マニアになるとあらゆるものに愛着関心を覚えるのである。ただ今回は二両の電車になった結果、業務用のカバンに注目できた。何か鉄道マンの生活感覚がここに現れていたのである。二両の電車は極めて人間的になっているからこういうものに注目できた。長い電車だとそうはならないのだ。技術でも今は巨大化すると人間から離れてしまい人間的なものを感じなくなるのだ。飛行機などには感じない、今は機械と人間は離れてしまっている。二両の電車は人間が走っているようにも思えるからそうなった。


ともかく街作りを考えるときその価値は歴史から作られ自然から作られ場所からも作られる。商売でも場所の力が意外と大きい、駅前商店街が前に繁栄したのは鉄道主体の交通からだった。何か繁栄するというときとても一人の人だけでは繁栄できない、様々な複合的な総合的なものが合体して繁栄する。駅前の花屋が今は人が来ないというと来そうだった。車社会になれば駅前でも注目されないのである。ただ店屋が繁盛するというときも一つの店だけではいくらその人が優秀でがんばっても繁栄しない、その時代にあわないと繁栄しない、ただ時代といっても過去からの遺産もあり歴史は街を作っている。城下町はやはり城下町として作られたものがありそこを基礎にして街作りがある。郊外の巨大スーパーにはそれがないのだ。だから駅前の花屋によって街作りを考えるとき駅前通りがあり城下町がありと全体を視野に入れて全体の街に参画するのである。街にはそうした全体の視点があったのである。今はそういう街でも全体の視点をもつことができない、でも人間は何らか繁栄するとしたら個々ではいくら優秀でもがんばっても繁栄しない、全体が繁栄しないかぎり全体的総合的作用を受けない限り繁栄しないのである。だから一商店だけが繁栄することはむずかしいのだ。


今回もまずパソコンをしていたからキタムラショップであんなふうに簡単にきれいにプリントできることをしりフォトブックも簡単に作れることを知った。それは現代がもたらした新しい技術でありそれが花屋と結びついたのである。街全体とも結びついたのである。茶を売っている店に器を買ってフラワーアレンジしてもらったことで花についての知識も広まった。花屋は極めて文化的なものとしてあることがわかった。そして花とデジカメは密接に結びついている。なぜなら料理なら食べない限りうまいかどうかわからない、花は見ただけでそれだけでも楽しめる、まさに店屋として見せる機能が一番顕著な店だったのである。

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このフォトブックはすでに40年前に作られていた!


これは40年前に出版されたものであり定価は500円になっている。今の値段にするといくらになるのか?
当時でもカラー写真だと高くなるだろう。
ただ別に出版は常に行われていたからそういうことはプロではできた
本でもプロは別に作っていた。
でも個人レベルではとても作れないものだった。
その相違も大きいのである。
なぜなら本作りとか報道とか個人レベルでできることは出版社とかマスコミに頼まなくても文化が作れるのである。
出版社マスコミ頼みだったら独自なものはつくりにくいからだ
書店も売れなければ置かないと地元から発信できないとかで文化の発信地にはなりにくいのだ。
書店の役割は相当に今はなくなった。
つまり何かを創造できて発信しないかぎり文化の創造はありえないのである。
すでに40年でも本の場合は残る。
インターネットの弱点はそんなにもたない、消えることが弱点なのである。
だから本に残すことはまだ記録するものとして必要なのである。