2013年09月14日

秋になり夏になり秋になり・・・ (今年の天候は何か変だ)


秋になり夏になり秋になり・・・

(今年の天候は何か変だ)

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旧街道稲田広がり松並木
かまきりの道をさえぐや旧街道
坂越えむ今ひとしきり蝉の鳴く
母なおも歩きひとしきり蝉の鳴く
秋の灯や近くに知る人親しかな
廊下長く夜風涼しく月光る
鴨三羽照らさ見ゆる月夜かな
我が部屋に光を求め枯蟷螂


前より色づく稲田松並木通りて相馬の城下に来しも

小泉川に橋の一つやそよゆれぬ柳の垂れて秋の日の暮る


今日は相馬市に行った。稲田が広がり前より色づいている。これが普通の光景なのである。何か鹿島から相馬に来る平常の景色があり元にもどったという感覚になる。相馬市は前と何も変わらない感じがする。ただ津波の被害地域は松川浦や磯部は街内とは違う、磯部には一軒の家もなくなったからだ。街道というとき浜街道は日立木から相馬市の城下町まで一番昔を感じる。昔を感じるには道が大事なのである。六号線を通って昔を感じる人はいないからだ。そこが歴史の重みなのである。

その歴史の重みは教えられなくてもあの街道を行くとき自ずから感じる。歴史は体で感じるものなのである。知識だけから感じられないことがある。かまきりが道をさえぎっているのも細い道だから道をさえぎっているともなる。奥の細道だから昆虫でも道をさえぎることができる。かまきりというと人間もかまきりのような人がいるだろう。動物も人間を象徴しているのだ。蛇のように執念深いとか言うのもそのためである。

かまきりはまだ青い、枯蟷螂になっているのを部屋で見た。蟷螂は確かに不気味である。かまきりでも光を求めてやってくる。蛾もやってくる。
今年は8月初旬まで梅雨だったしそのまま秋になるかと思ったら急に暑くなりそしてまた涼しくなりまた暑くなり涼しくなり今日は台風が来ているので夏なみに暑かった。なんか今年の天候は変だ。
今日はだから蝉が鳴いても夏である。夏と秋が交互に来ているのだ。
月というと秋の季語である。川に浮かぶ泳ぐ鴨を月が照らしている。確かに三羽見える。それがなんなのだともなる。でもこれが写生俳句なのである。月は三羽の鴨を自ら照らして知っている見ているともなる。


相馬市の小泉川の上に橋がかかっていて柳がたれていた。それは秋の柳で風情があった。そよそよとわずかにゆれている。相馬市は城下町にふさわしくいつも静まりかえっているのがいい。
小泉川も川なのは川なのだけど堀の感じもする。気持ちよく流れるのが見えないのだ。
それでも川なのは川だから川端柳として日本的風情がある。江戸の風景でもあった。時代劇では必ず橋があり柳がたれているからだ。

イオンのキタムラ写真では簡単にフォトブックが作れる。あれは便利だと思った。それも15ペ-ジでもネット注文だと1200円というのは安い、昔は本に写真をいれたら十万とかかかると言っていた。
本自体作るのが百万以上かかっていた。今は写真入りでもこれだけ安く作れる。本も一冊だけでもオンデマンドで機械的作れる。電子化したから安く作れるのである。
なぜそれに注目したかというとどうしても電子化するだけでは記録は消えるのが不安なのである。
あのように写真でも簡単に本にできると記録として残すのにはいい、50年前の白黒の貴重な写真が残っていた。写真は50年残るし本でも残る。電子では十年も残るのか記録するものが信用できないのである。


あれだと写真入りの俳句とか短歌を残すのにはいいのに向いている。ただテキストファイルはできないので本を作るというわけにはいかないが俳句短歌は作れる。ネットから注文してイオンのキタムラで受け取れるのは便利である。デジタル化でも写真の現像的なものが商売になっている。デジタル写真をきれいに印刷したりはパソコンではむずかしいのだ。だからネット化して全国を相手の商売が生まれたのである。電子化してもプリント屋として残ることができたのである。電子化してもみんながみんなだめになるということでもない、新しいビジネイチャンスも生まれたのである。それを活かしたから全国ネットで商売が成り立ったということである。

 

最近親しい人ができた。その人がすぐ近くに住んでいた。住宅だけど秋の灯がともっている。ともかく東京など遠くなると親子だろうが疎遠になるし何かあっても助けてもらえない、それが原町でも同じだった。車で来るとなるとめんどうになる。
介護とか病気とか何か緊急のときでも本当に町内とか近くでないとできない、だから遠くの人に金を使うのが馬鹿らしいからつきあわない、近くの人に親切にしたりすれば助けてもらえることもある。
ただ今は金だけでは助けてもらえない、その人は困っていたのでちょっと助けたから金だけの関係でないものができたからいいかもしれない、人は悪くない、素朴なのである。
つくづく人間の関係は変わる、これも無常である。この辺は特にそうだった。故郷の人がみんなばらばらになってしまった。
それだけ激変したのである。その中で避難中ち病気を悪化して死んでいる人もかなりいるのだ。
この変化はあまりにも大きすぎたのである。だからいろいなことでどう対処していいかわからなくなっているのだ。

2013年09月16日

月光に照らされた鴨(写生が俳句の基本は変わらない)




月光に照らされた鴨

(写生が俳句の基本は変わらない)]

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月光に照らされ浮きぬ鴨三羽


月光や闇にも泳ぐ鴨三羽


これはいかにも写生俳句らしい。季語としては月は秋であり鴨は冬だけど秋の鴨とした。深い田舎の闇の中に川の水面に鴨が月光に照らされて明らかに三羽見えた。
三羽にこだわるのはまさに「鶏頭の一四五本もありぬべし 子規」の写生俳句の問題となった俳句があるからだ。月光に照らされて鴨が明らかに見える。それは電気の光ではない、月光という月の光に鴨が明らかに浮かんでいる。電気の光がてくても鴨はまた月の光に照らされてスイスイ泳いでいる。夜も意外と動くものだと思った。
しかしこの夜の鴨を注意して見ているものもいない、月だけが光をさして明らかに見ていたともなる。


現代は電気の光が氾濫している。だから闇の世界のことがわからなくなった。都会では一日中そうであり電気の光は消えることがない、江戸時代は蝋燭とか行灯き光だから全く違っていた。真っ暗闇の世界である。ぬばたま・・は闇にかかる枕詞だがぬばとはなちなのか?ねばねばしたとか何かそうした語感があるのか?深い闇の世界を感覚的に現した言葉なのだろう。


ぬばたまのその夜の月夜今日までに我れは忘れず間なくし思へば

ぬばたまの夜渡る月のさやけくはよく見てましを君が姿を
ぬばたまの夜渡る月にあらませば家なる妹に逢ひて来ましを
ぬばたまの夜は更けぬらし玉櫛笥二上山に月かたぶきぬ


万葉集の世界は江戸時代よりさらに闇が深い、それは想像し得ない闇の世界である。だから鴨が月光に照らされていると同じく人間も月光に照らされて見える。その姿が印象に残るのである。現代の電気の光が氾濫した世界とはあまりにも違うのである。
現代はだから月の光でもそうだが自然のものに無感覚になっている。五感が衰退している。セミの声でも芭蕉のように聞いていない、音も車の騒音などが氾濫しているからだ。

そういう騒音の世界で人間の感覚は衰退して感じなくなっているのだ。メデアでもそうである。激動的な刺激的な映像が音とともに氾濫するとき耳の感覚も目の感覚も鈍感になってしまうのである。だから現代は自然きものを良く見ていないのだ。感じてもいないのだ。

あらゆるものが機械化するとき機械を通して感じるというきも感覚を一面衰退させている。ただ何度もデジカメは新しい感覚を人間に作り出したことは確かである。でも一方で自然の中で感じるものを衰退させたのである。それは芸術的な面だけではない、人間生活全般がそうてっている。機械が感覚になったとき機械でとらえられないものは見逃される。今回の地震の感覚でも人間の方がこれは大きな地震だと直感した。機械の方ばかり見ていると機械にばかり頼っているとあやまることもある。あらゆるものが機械に取り囲まれているとき機械なしでありえないとき人間は危機に弱くなっている。機械は緊急の場合壊れたり使えなくなったりする。するとどうなるのか?万事休すにもなってしまうのである。

沈黙、闇の深さなどは自然を感じるためにはなくてはならないものだった。万葉集はそうした人間が原自然で感じていたものが残されていたから貴重なのである。

季語でも春の闇とか夏の闇とかあるがやはり闇の世界が元からあったから季語になった。現代に作られた季語もあるが季語はもともと江戸時代に作られた。万葉集も基になっている。闇が深ければ光もまた映える。特に月光は闇が深いと映える。だから月の光に導かれて万葉時代は女性のももとに通った。そして日本人の女性に対する感覚はその闇に浮かぶ白い肌だったというのもわかる。白い肌のみうが浮かび顔などは定かでなかったというきも本当なのだろう。一方西洋では女性でも彫刻的であり形や姿勢を見ていた。そういう感覚的相違は世界的にある。日本人き感覚も独特なのである。たとえば肌ざわりとかあるがこれも触って感じる感覚がある。これも和紙などはそうである。肌触りの感覚である。

まず肌触りという言葉自体日本的なものなのだろう。

大都会ではこうした自然の中での感覚はもてなくなっている。機械に頼る生活もそうである。車に乗っていれば風を感じなくなる。すると旅にはならない、それでは歩いて旅するとかなるとその労力は今では背負い切れない重圧を感じる。自転車でもそうである。自転車は風とか坂に弱いのである。だから自転車旅行は遊びとも違う、旅を演出して自然ととけこむ労働なのである。旅は見たこともない景色に出会うのだからかなりの集中力が必要になる。気が散るとそうした新しい景色に接しても記憶できない、感動もしない。
あの女性が美人だななどと見ほれていると雄大な山に感動することもできなくなる。
だから旅は禅僧のように禁欲でするものなのである。温泉でどんちゃん騒ぎするのは旅ではない、憂さ晴らしなのである。現代は旅行に泊まるにしても保養であり旅ではない、現代で旅することは容易ではない、だから旅することは余計に価値あることになっている。一見旅があまりにも容易になったけど旅は喪失した。ただの機械による移動になってしまったからだ。


「小主観のムードよりも物の実体を把握しなければいけないと思っているうちに俳句のいさぎよい直截さに魅力を感じるようになった。


「昨今の俳句界では写生を古くさい、忌むべきものとする傾向が一般的なようだが、とんでもない話で、今ほど写生が見直されなければならない時期はない」

http://72463743.at.webry.info/201001/article_19.html


写生はやはり絵画である。絵画の基本は写生だからである。それで子規は蕪村を見習ったのである。ただ絵画でもどうしても主観が入るから絵画でも純粋な写生とは違う。
写真がまさに写生そのものなのである。写真は主観が入らないからだ。写真も実際は主観的なものが入る。構図とかがあるが一番大事なのは自然の多様な瞬間をとらえることである。絵画のように一つの場面をじっくりと見て描いているのとも違う。特に生き物とかをとらえる場合にはそうなる。そもそも自然は生々発展しているのもであり瞬間瞬間命の変化があり美がある。それをとらえるのが写真なのである。生け花でもフラワーアレンジメントでも花が一輪二輪と咲いてゆく変化がある。造花をさしているのとは違う。
そして自然界の生き物は二度と同じ表情を見せない場合がある。自然界の生き物は植物でも刻々変化しているのである。だから写生といっても死んだものを写生しているのではない、生きた物を写生しているのだから写真でもその一枚限りの生き物の姿を写し取る。
それはまさに写生なのである。ただ写真ですべてがとらえられるわけではない、闇といってもそれが春夏秋冬があるからいつの闇かわからない場合がある。風も匂いも感じられないのも写真である。写真にも瞬時を全部とらえることはできないのである。




あとがき


月光となるとやはり秋の季語なのか?月はそうにしても月光は春でもあるし季語もわかりにくい。ただ秋だとすると秋の鴨としたが月光が秋の季語だとする秋を入れる必要はない、鴨は冬の季語である。雁は秋の季語である。冬の雁となるのもそのためである。
あとから直した「鴨浮きぬ」としたのが良かった。あたかも月光に浮かぶ感じがでた。
ただこの写真は闇が深いのでとれなかった。こうした瞬時を写真でとらえるのはむずかしい。毎日買い物で橋を通るので鴨を見るから前にも鴨のことを俳句にした。
俳句も鴨だったら鴨の連作になると一つの作品として読みごたえがあるようになる。
一句だけだと俳句は短いから何か言い表せないものがある。

俳句はその人の読み方によって価値が決まるものだというのも本当だろう。
読みを深くすればいい俳句だとされるだろう。そうでないと何が価値あるかわからないのが俳句なのである。だから無数の膨大な駄句のオンパレードが俳句芸術の現実なのである。結局何が価値ある俳句なのか決めにくいからそうなるのだ。

2013年09月18日

津波より二年半過ぎた小高浪江を訪ねる (秋の日の俳句短歌)



津波より二年半過ぎた小高浪江を訪ねる

秋の日の俳句短歌)

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かなりの坂を登る

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北原の津神社
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小高の村上のパノラマ写真

浦になった景色

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この松は枯れていない
緑がある


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津波で沼になった

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請戸川

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桃内駅


自転車に海にいでけり夏の蝶

海展け朝花に舞う夏の蝶
朝の海白波よせて夏の蝶
露草や御影石の墓海望む
秋の海望み萱浜(かいはま)墓残る
津波跡残れる松や秋燕
敢然とノスリの姿秋の風
秋日さし相馬双葉の境松
街道の一里塚や秋の暮
松により浜街道や秋の海
上浦の坂に望むや秋の海
大杉にしみ入る秋の蝉の声
磨崖仏千歳の杉や木下闇
陽をさえぐ千歳の杉の木下闇
十五夜の月まんまるに平和なれ


秋の日や津波に流さる碑のあわれ萱浜に刻む死者の名前を

津神社参道苔むし隠されて残る社や秋の日さしぬ
津波跡浦となりしや雁群れて水面の光る朝の光りに
秋風の薄なびかせ浦に吹く雁の群れつつ水面光りぬ
二年半線路を覆う桃内駅虫鳴く声や秋の日暮れぬ
訪ねけり小高の城の跡を踏む秋の日さして昔偲びぬ
なおしきり秋の蝉なく小高城その跡たずね我が帰りけり
幾世橋(きよはし)をわたりて浪江秋日さし浜街道のつづきありしを
請戸川流れの早み浪江にそ二つの川や秋風さやけし


今日は秋晴れになったので二年半過ぎた小高や浪江に行った。浪江は町まで入れる。町から二三キロのところで通行がとめられる。それにしても浪江に入れたのは意外だった。原町区の北原から島商会のある所へ登る道に「津神社」があった。これは不思議だった。ええ、こんなところにあったのと気づかなかった。鳥居のあるずっと奥に本当に隠されるようにあったのだ。かなりの坂を登る。あそこまで高いなら津波から逃れられた。あの高さはやはり四〇〇年前の慶長津波の記憶があって津波をさける所に神社を建てたのである。ただ地元の人でもきづいていないのである。

小高に入ると村山の貴船神社があったところ一時期相馬の城が移動される予定地だったが縁起が悪いと原町区の牛越城に移った。確かに縁起が悪い場所だった。津波に襲われたからだ。近くは堀があり浦となっていた。そこに雁が群れて浮かんでいた。鴨もいたが雁が多かった。そして不思議なのはノスリが敢然と津波をまともにうけた枯木に止まっている。ノスリは敢然としている。ノスリは津波の跡に草原化してノネズミが増えたので住み着くようになった。その光景も不思議である。

それから村上を去ってまた坂をのぽると綿津見神社があった。あれも高いところにあり津波からまねがれた。高いところが沼になっているのは津波が残した沼である。
そこから高台をゆくとあの辺は東北電力が原子力発電所を建てる予定地になっていた。あそこは高いから津波から逃げて助かった。つまり原発はあそこに建っていれば高いから津波の被害からまねがれたのだ。東北電力は女川でも高い所に建ててかろうじて助かった。ぎりぎりだったけど助かった。それは東北では津波のことが頭にあったからだった。それはおそらく副社長だけの一存というものでもない、津波に対して危機意識をもっていた。東電はもっていなかったのである。

そこから浪江の方に行くと相馬と双葉の境の松というのがあった。こんなところにあったのと初めてしった。まだまだはじめて知ることが近くでもかなりあるのだ。

浪江からは双葉郡であり車のナンバーも「いわき」になっているのだ。この相違は大きい。海岸沿いを浪江まできて六号線の方に出た。浪江の町まで入れた。今回はすぐひきかえした。途中瓦を直している家があったからやはり浪江には住む人がいるみたいだ。請戸川が台風のためる水がでて勢い良く流れていた。浪江は二つの川があるし高瀬川渓谷は景勝の地だった。そこに行けないことが残念だったが町まで入れたのは意外だった。

帰りは浜街道を帰ってきた。その前に小高で上浦というところにでた。井田川を回りでてきた。井田川は大正時代に開拓された地である。ずいぶん広いと思った。八沢浦とにていたが広かった。あれだけ広ければ相当な米の収穫があり相馬藩は経済力が拡大したことを実感した。ただあそこは八沢浦のように注目していなかった。

井田川もあれだけ広く海だったとすると都の人も注目していたはずだが歌は残されていない、八沢浦は残されていたので注目した。でも津波で広い海になったとき見に行けばよかったが混乱していて行けなかったのが失敗だった。もう二度と見れないから失敗だった。ともかく山の方が上浦となっているのだからやはりあの辺まで浦だったのかそれだけ海が進入していたのだろう。

それから小高によってみて小高の城の跡に登った。浮舟城などとなぜついたのか?おそらくやはり回りが海が進入していて湿地帯がせまっていたからかもしれない、小高駅をこえて津波が来たのには驚いたからだ。

まあ、津波で人が子供まで無残に死んだのだから俳句とか短歌とか絵とかまでそんなことを芸術などでなぐさめられないと批判された。でも自分はそうは思わないのだ。
今回でもこうして人が小高でも浪江でも踏み入れば生きたものとして蘇ってくる。
小高の城跡でも人が入りその地を踏むことで歴史が活きてくるのだ。誰も人が入らなくなったら俳句にも短歌にしないし絵にもならないしまさにゴーストタウンとなってしまうのだ。人が入ってくることで過去も活きてくる。人が入らなければあらゆるものが死んでしまうのである。


陸前浜街道は浪江双葉まで相馬藩でありイワキに通じて江戸まで通じるとき活きていたのだ。それが寸断されたとき道も死んでしまう。ただ浪江に出口一里塚というのがあり何か浜街道を旅した気分になった。今日は秋晴れであり風も気持ちよくサイクリングには向いていたのである。ともかく浪江は高瀬川まで行かないと行った気がしないのだ。ただ町まで入れたので浪江まで行った気がして良かった。次はもっと中に入ってゆきたい、ただ警護の人がいるので町内まではは入れがさらに中には入れない、ただ仙台からきていた人も入っていた。その人まで放射線を計る機械をもっていた。それほど関心をもたせたのがこの辺だったのである。町中は0.4くらいなので低いから人が住めるのかもしれない、幾世橋がありこれも今までは関心をもっていなかった。幾世橋の名前は幾代もつづく橋としての願いがあり相馬の隠居した殿様が名付けたのである。今まで注意しないものを津波や原発事故の後に関心をもつようになった。
津波や原発事故はいろいろな面で意識を変えたのである。何が大切なものか?そういうものが見直された。


帰りによっ大悲山のまがい仏でもあの千年の大杉は迫力があった。だからなお秋の蝉が盛んに鳴きその声はその大杉にしみいる。それがまさに「静けさや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉」になっていたのだ。ともかく道を直していたが道が活きればそれなりに復興もありうる。まず道が大事だということがあった。道がイワキまで通じれば復興したなと感じるだろう。鉄道でもそうである。それだけ広域社会だから道が大事になっているのだ。いづれにしろ双葉辺りは余の森であり相馬藩の殿様の余の森として領地とされていた。それと同じように今はイワキまで通じない森と化してしまったのである。
交通が遮断されると通じなくなると江戸時代にもどったような気分になる。
現実はバスと仙台まで通じるがバスは何か疲れるし遠くに行きたくなくなった。
電車はやはり遠くに行くには欠かせないのである。ただこの辺は電車が通るのは六年先とか原発事故のあった双葉を通るのはいつに名のかわからないのである。


今日は十五夜のまんまるの月がでていた。何か平和を感じた。これは自分の一身上のことでも辛いことばかりだった。今はなんか余裕ができた。それでも家事でも何でも一人でやっているからまるで小間使いであり駒ネズミのように動いているのだ。
とにかく今日は浜街道をまた旅したようで気持ちよかった。風も涼しく疲れなかったから良かった。やはり秋はサイクリングニは一番向いている。

2013年09月19日

秋薔薇 (ソニーのRX1002で夜撮った写真くに感激)

 

秋薔薇

(ソニーのRX100M2で夜撮った写真くに感激)

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色深め散るばかりなり秋薔薇

秋薔薇五六輪かな陽は落ちぬ
五六輪一輪散らむ秋薔薇
秋薔薇一輪ここに散るを知る
秋薔薇夜の光に五六輪
街の灯のともしや駅に秋薔薇
鶏頭の赤に誰をか触れえべし


見えぬほ子蜘蛛巣を張る休みなくその営みや虫の鳴くかな

津波より二年半過ぎ十五夜や輝きまして平和なれこそ

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今度買ったソニーのRX1002はやはり違う、一眼レフ的なものになっているのかもしれない、高級感があり今までのデジカメでは一番優れていた。六万でこれだけのものが買える。デジカメだけはずっと画素数でもセンサーでも進歩し続けてきたのである。
感度がどんどん良くなっていった。これも何か写った感じがかなり違っている。
このカメラには高級感があるのだ。今までデジカメは二万くらいのしか使っていない、
大きいデジカメは自転車だと大きくて持ち歩きできなかった。
これは多少重いがそれだけに高級感がある。

今日は確かに十五夜であり満月がこうこうと輝いていた。その月もはっきりと写していた。このカメラは夜に強いのだ。夜の薔薇も独特の感じで写していた。街灯の光の方に照らされて浮かび上がった秋薔薇である。

ここで五六輪にこだわるのはやはり写生に忠実だからである。まさにこのカメラでは写生は本領を発揮している。現代は写真の時代である。デジカメになってから特にそうである。写真で日記を残す時代でもある。刻々とした変化をデジカメで残しているのだ。
最近はスマホとかでも写真を絶えずとっている時代である。写真は日常の記録としてメモのようにも残せる時代である。ただ芸術性を追求するとどうしてもカメラはいいものでないとだめである。これまではそれほどいいカメラではなかった。
ただ安いカメラでも画質はどんどん良くなっている。デジカメの分野では進歩しつづけていたのである。今のところはソニーが頭を出た感じがした。

このカメラはレンズ交換もできるから一眼レフ的なカメラだからそういうふうに被写体を深みのあるものとしてとらえやすいみたいだ。特に室内でも何か写りが違うのである。


ともかく今日の十五夜の月の輝きはまぶしい、非常に澄んで輝いている。もう津波からも二年半過ぎた。この辺では当分は災害はないだろう。原発事故は別にして自然災害はないように思う。ただ東京とか関西とかに大きな災害が津波が起きるかかもしれない、東北の方はもうないのではないか?この辺ではまた四〇〇年くらい津波は来ないかもしれない、それだけあまりにも大きな災害だったのである。


鶏頭の赤も独特である。それは触れ得ないような赤である。一点の濁りもない赤である。神道で言う赤心になる。今日はまだ日ざしが暑い、でも風は涼しいから運動には向いている。自分は今相当に運動できるようになったかもしれない、だから山にも登りたいと思った。ここ十年くらい健康で活動できれば有終の美を飾れるかもしれない、それも一重に健康にかかっているのだ。いかに六〇代以降が健康が大事か身をもって知った。健康を損なったらすべて崩れてしまう。金があってもどうにもなちらない、徳田氏のようになったらいくら最高の看病されても悲惨である。


今日の十五夜の満月のように健やかであれば老後も生きる価値があるものとなる。健康は六十代以降は大事である。もちろん確かに金がなければ困ることはある。でも金を使わない気だったら老後は使わないようにできる。旅をしないとそんなに金はかからないだろう。それでもこの年になって金をはじめて自由に使えた。これまで余裕もって金を使えなかった。ただいくら金があっても時代が良くないと金も有効にはならない、技術の発展の恩恵には時代が違いば受けられないのである。デジカメでも今になってこれだけ進歩したがこれまで画質はまだまだであったからだ。

 
 

2013年09月20日

民間の津波の伝承の語るもの (津波はやはり天罰だったのか?)


民間の津波の伝承の語るもの


(津波はやはり天罰だったのか?)

●柳田国男の全集より-津波の伝承


故佐藤喜真興英君の集めた南島説話の中に中頭郡美里村大字古謝の出来事として、次のような口碑が採録されている。昔この村に一人の塩焼男がいて海水を汲みにでて一尾の魚をとりそれを籠に入れて我が家の軒につるしていた。

その籠の中から「一波寄するか二波寄するか三波寄するか」という声がする。不思議に思って覗いてみると魚よりほかに何もない、こんな魚は放す方がよいと思って家にでると途中に知り合いの無頼漢に出会った。放すより私にくれといって、もっていって料理して食べようとしていると、ちょうどその時に大海嘯がやってきて近隣の人畜ことごとく押し流してしまったというのである。


ものを言う霊魚を害しようとした者が大津波によって罰せられたとういことは同時に一方のこれを放そうとした者の助命を意味しこの塩焼き男が生き残った故に恐ろしい話は後に伝わったのである。

南の島々で古くからの災害としていわゆる、シガリナミ(海嘯)の記憶の最も印象強く残っているのは自然である。これがただ一尾の魚を尊敬するかせぬかによってさういう恐ろしい結果を生じたざとつ伝えるのは考えて見れば不思議なことである。
(柳田国男全集-五巻-もの言う魚)


今回の津波ほど不思議なことはなかった。どうしてこんなことが起きたのか?それいろいろ書いてきた。しかしその疑問は解けないだろう。そこには想定外であり人事越えたものが働いたとなるからだ。ただ過去にも日本では津波がまれにしても全国であったのだからその伝承が残されている。その一つがこの話である。これはまさに今回の津波をどう解釈するのかを考えるときかなり参考になるし示唆的である。

「一波寄するか二波寄するか三波寄するか」津波は一波二波三波と寄せる度に大きくなってゆく、最初の一波で逃げた人は助かっている。一波は低い波だったのである。


一人の無頼漢がそのもの言う魚を食べようとした。この無頼漢とは何なのか?これは前にも書いたがこの辺では萱浜(かいはま)の松林で女高生が殺され犯人が首つって死んだのである。それは津波が来る何日前だったのである。だから津波が来てあとで女高生の死体も見つかった。これは津波が来たからこのことも関連あるものとして見るようになったのである。それは他の人もインタ-ネットに書いていた。そういう伝承は津波によってただの犯罪ではない、津波と関連づけられるようになる。自分もこの六年間の苦難を書きつづけてきた。津波の半年前に酷い犯罪にあった。そして津波が来るまでその犯罪者を激しく呪いつづけたのである。その人は別に警察に逮捕されていない、しかし警察に逮捕されない事件など山ほどあるのだ。ただこれもこれだけの津波が起きたから津波との因果関係を考えるようになった。他の人もいろいろ津波の後に考えているかもしれない、無頼漢とは自分の経験では犯罪者だった。田舎でもみんな素朴ではない、特に現代は広域社会だから昔の素朴な村社会とはまるで違う。

 

田舎の素朴さがう失われたというときそれが今回の相馬双葉漁業組合のことを度々とりあげた。原発事故では漁業権者が一番恩恵を受けていたのである。その補償金で億の金をもらったとかは船主なら嘘ではないだろう。原発事故以後も漁業権者には手厚い補償金が支給されているのだ。だから相馬総合病院に入院したとき請戸の人が特別室に入り家を建てると言っていたとき船主なのか?やはり漁業権者でありそれだけの金が入るのが原発だったのである。富岡町長の五億円の津波に流された金庫が話題にのぼったのもそれだけ原発から生まれ金は巨額だったのである。今でもこんなに補償金がでること自体驚きであった。右田の人が町内に立派な家を建てられたのもやはり漁業関係者だからだろうとなる。
ただ金をもっていても土地がないと家は建てられないから地元だから土地が手に入ったから建てられたと推測される。

 
●一尾の魚が意味しているもの
 
この伝承が意味しているものは何なのか?


これがただ一尾の魚を尊敬するかせぬかによってさういう恐ろしい結果を生じたざとつ伝えるのは考えて見れば不思議なことである。

漁業者が一尾の魚を尊敬するなど今は全くないだろう。一尾ばかりとったってなになるのだ。大量にとらなければ商売にならないとか常になっている。そして漁業では金にならない、だから跡継ぎもできない、これは農業でもそうである。一粒の米に感謝していた昔とは大違いである。常にどれだけの金になるのかが問題になる。それもやはり買うものが増えすぎたからそうなる。家もほしい車も欲しい電気製品も欲しい子供は大学まで出すのが普通だとなると常に金がかかるのが現代の生活だからである。
ただそこに大きな落とし穴があった。何か大事なものが見逃されていたのだ。

それは一尾の魚でも神からの贈り物であり一尾の魚をありがたく食べさせてもらう感謝の気持ちが喪失していた。このもの言う魚は神の使いであり危険を告知するものだったともとれる。自然からの何らかの警告として生き物もみるべきものがある。漁業権者にももらろん自分のような魚を食う方にもそうした意識は皆無になった。ただ金を出せば何でも食えるし必要なものは手に入るという感覚になってしまった。そこに人間の奢りが生まれていた。一尾の魚に一粒の米に感謝する心はない、ただ足りない足りないという嘆くだけだったのである。

今回の津波でどこでも漁業にたずさわる人々が村や町自体が消滅するほどの被害にあった。それでみなん天罰だというときそれは確かに一理あるのだ。それは松川浦の近くの磯部辺りでも立派な家が建っていたという人がいたから福島県の浜通りはそれだけ原発の恩恵が大きかったのである。なぜなら漁業権者の許可がないと原発はまず建てられないからだ。今でも汚染水の問題があり漁業権者と相談しているがそこでも交渉すればさらに補償金が上積みされるともなる。だから漁業権者の権利が一番大きいものだったのである。
それで天罰があたったというと言うの地元の人たちでもあった。


現代は科学が信仰にまでなている時代だから何か郷土研究など好事家のすることであり真剣なものではない社会に役立つものではないと見られていた。しかし津波のことで郷土研究でも実際は大事な学問であることを認識した。それは東北電力の副社長が岩沼に住んでいて山の方まで舟がながされてきたという伝承を聞いていたから危機意識があり10メートルの所をもう15メートルにしろと主張して今回は女川の原発はぎりぎりでひ助かった。
ただこれは近くの三陸でも明治に大津波で一万人と死んでいるのだから危機意識が違っていたのである。東電は最近になり津波のことを科学者によって指摘して危ないと何度も警告されていた。自分も時事問題で相馬のかなり奥まで津波が来た痕跡が砂の採取でわかっていて報告されていたのでそのことだけ注目した。それは貞観津波のものだった。
でも慶長津波は400年前のことだったのである。


●科学万能時代の警告が津波だった


人間は今や科学で何でも解明されている。そういうふうにみんなが思うようになってしまった。ところが科学で解明されないことがまだまだある。でも科学でやがて解明されると思うようになった。それで原発を推進していた科学者が確率的には一万年に一回しか事故は起こらないとまじめな顔で言っていたしみんなも信用していたのである。でも400年に一回くらいは大津波が来るのだからそれは全く歴史を無視したものだったのである。
つまり津波の盲点は人間の歴史が軽視されていたことなのである。歴史というとき災害の記録も歴史であり戦争のようなものだけが歴史ではなかった。人間は歴史を無視するとこういう恐ろしい結果になるということが証明されたのである。現実に松川浦にも津神社があり今回訪ねた原町の北原にも高い所に隠されるように津神社があった。それが何なのか地元の人も注目しないし忘れられていたのである。津神社の下には普通だったら津波のことが記憶されていれば家を建てない、これより下に家を建てるなという津波の伝承が残っている地域もある。だからどうしてそういう危険な場所に家が密集してしまったのか?
それは津波の伝承が失われてしまったためなのか?その辺はこれからの研究が必要である。


人間はすべてを科学で解明できない、例えは浪江の標葉郷はシメハはシメノであり禁断の地の地名だった。だから地元の人が郷土史家がここは禁断の地だから原発を建てるべきではないと言ったら笑われるがそれも馬鹿にできないものだったことが津波の後に判明したのである。科学的なことでこの世のことがすべて解明できないから縁起が悪いとかなどが今でも生きているのである。人生にしたってそうである。どこかに神の働き関与がありそれは科学的にはすべて解明できないのである。例えば放射能にしてもこれはどこまで体に影響するものなのか?これも実際は経験しないことだからわからないのである。そういう資料もないからわからない。本当に住めないのか?その判断は何によって決めるのか?
ただ科学的なものだけで決められるのか、現実問題として老人なら放射能と関係なく愛着ある家にもどり暮らしたいという要望がある。そういうのも無視はできない、だからチェルノブエリでは老人は帰って野菜を作り生活していた。それはもう放射能の線量だけでは判定できない、人間としての切実な要求を無視できるのかとなる。別に老人なら多少の放射能を気にしないからである。


今回の津波では一尾の魚にも恵みとして感謝してきた、何か最近自分の一身上ではただ自分から金だけをむしりとりむさぼり感謝もしない、ただ金さえとればいいんだとして自分の財をむさぼりくらおうとする人ばかりと接していやになった。何かしてくるならいいが何もしない、お前は金だけをよこせばいいんだとそれは強盗に近いものとなっていたのである。現実に強盗が入ってきたのである。そういう社会風潮になっているのも何か今回の津波と関係しているかもしれない、どういう因果関係があるのか?ただ科学的に規則的津波は起こるだけでは納得できないだろう。ただそういう伝承は科学の時代には軽視されてきた。現代は一般の人でなくても科学者であれ官僚であれ東電の幹部でも政治家でももの言う魚を奪った無頼漢となっているのかもしれない、あの人たちは事故前は紳士とみられていた。エリートであった。でも津波以後は科学に奢り金持ちとなっていた強欲な人たちだとなり罰せられるべきだとなった。それは地元の人たちにも言えるし自分にも言える。

つまり一尾の魚も尊重し資源として食べ物として貴重なものとすることが現代社会からなくなった。あらゆるものが足りない足りないという人が多すぎる。魚でも食べ物でもただむさぼり食らうだけであり食べ物に感謝している人などいない、農民でもなぜ米が高く売れないのだと商品として見ているのが今の社会である。実りそのものに感謝する人はいないのである。自分もただ金を要求されるむさぼられる対象でしかないと同じだった。感謝も何もない、金をもらえばあんたなんか何の用もない、死んでしまいとまでなっているのだ。それは親子でもそんな風潮でありモラルの頽廃が末世症状を呈しているのだ。
こうした末世にはやはり大きな自然災害が起きてくる。そういう考えるのもやはり科学的なことだけで人間の起きる事象が解明できないからである。

 
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2013年09月21日

九月二一日は姉の命日 (弔いの短歌ー死ぬまで戦争のことを忘れなかった)

 

九月二一日は姉の命日

(弔いの短歌ー死ぬまで戦争のことを忘れなかった)

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小林カツ

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白と黄と紫の菊交じり合い姉の命日我が墓に挿す

姉死してはや五年過ぎにけるかな世の変わりのめまぐるしかも
我一人姉の命日知りにしや墓に参りて秋の蝉鳴く
戦争を忘れられじも最後まで語りて死にぬ引きずる傷かも
死ぬまでも戦争のことひきずりつ姉は死ににき五年のすぎぬ
病院に勤めし女性紙に書き送るというを何度も語りぬ
戦友と交わせし文の我が家に束なし残り古りにけるかな
若き日の従軍看護婦その姿りりしきかも誇りなるかな
学校を一番なりと誇らしき姉の姿を思い出すかな
認知症になりて悲しき死ぬ間際我優秀なりと虫の息に言ふ
人はみな最後はあわれ弱きもの過去を誇るも虚しくなりぬ
自転車に野菜を運び店支え我が家の栄姉もたらしぬ
ふるさとを隅々歩む自転車にその足太く健やかなる女(ひと)
葛尾よりもらい子なりし我が姉の父の恩義を忘れざるかも
若くして戦地に行きしその心苦悶に満ちし歌の残りぬ
肺病に二五歳に死す人のその無念墓に記して我に訴ふ


春のお彼岸の頃は牡丹の花が咲くから「ぼたもち」、秋のお彼岸は萩の花が咲くから「おはぎ」と呼ばれるだけの違いである

こんな意味があったのは面白い。春のお彼岸は三月ころだとすると牡丹はもっと後に咲くからそうなのか?萩は確かに今頃咲く、こういうの仏教とは関係ない日本の死者を供養する文化なのである。供養するたびに寺に僧侶に金を払うのはまさにそうした日本の習俗を利用して金をもらう商売になったのである。死者に関係することは仏教とは関係ない、そもそもホトケとは仏教で言うお釈迦様のことではない、ホトキが語源であり日本の習俗が仏教化したのである。宗教では死者をそんなに重んじないのである。
ただ死者をふりかえるというとき供養するというのはどこにでもあった。
人間は死ぬとその人のことを客観的に見れるようになる。特に家族だとなかなか客観的に見れないのである。姉の死んだのは二一日であり秋彼岸の頃だった。
実際は昨日であり今日ではなかった。昨日も花をさしたから一応お参りしたことになる。なかなか命日を覚えている人は少ないだろう。人間で大事なのは誕生日と命日である。
死んだら命日が大事になる。たた命日を覚えて墓参りする人は特に親しい家族だけになるだろう。


姉が死ぬ間際まで語っていたことは戦争のことだった。認知症になってからも戦争のことは忘れなかった。それで千回も聞かされていやになった。同じことを千回も聞いたら嫌になる。でも二人だけだから聞かざるをえなかった。シンガポールに従軍看護婦として四年もいたから忘れられなかったのである。その頃かなり優秀でないと看護婦にはなれなかった。資格とるために東京の方まで学びに行った。地元では田舎では資格もとれなかったことになる。姉は特に優秀だからそういうことができた。学校も一番だったといつも自慢していた。体は太っていて健康そのものだった。そして積極的な前向きの性格であり少女の時期からしっかりしていたのである。太っているのだけで体が機敏に動くのである。
だから自分は体も頭も性格的にもだめだから感心していつも見ていたのである。

看護婦はただ姉のようにきつい性格でないと今もつつかないらしい、それだけ過酷な現場だからそうなる。戦争だったら戦場でありどれだけ過酷だったか、今の病院とはあまりにも違うのである。人がばたばた傷ついて死んでゆく、信じられない修羅場の中で青春時代を過ごした。だからそのことは忘れられないのである。最後に日本が負けてジャングルに戦友と逃げたことがまた辛酸をなめたから忘れられなかった。
青春の四年間は長い、だから戦争の是非はともかく戦争を経験した人は八〇歳になっても九〇歳になっても死ぬまで忘れられない、傷もひきづっているのだ。戦争はそういう人たちにとって終わっていないのである。

紙に書くとか紙に出すというのはシンガポールの向かいのマレーシアのジョホールバルというイギリスの病院があったところに勤めていた。赤十字社から招集されて勤務した。紙に書くとか紙に出すというのはマレーシアの女性が一緒に働いていて手紙をだすということだった。
結構親しくなったからそんなこと言っていたのだろう。

その姿を見るとなんともりりしいし誇らしいものがあった。姉は体育系の女性だからまずいろんな理屈はない、ただ御国のために尽くすという単純思考しかない、その戦争がいい悪いとかそういうことは考えない、一途な性格でもあった。もの凄く勝気な性格でもあった。でも戦争で従軍看護婦の時、青春の真っ只中だから戦争か青春だったから忘れられないのだ。そのたりりしい姿はやはり訴えるものがある。戦争を今は否定するがその時は誇らしいものとして送りだされたのである。ではその誇りを全部を否定することはできない、否定したらその生の肝心なものを否定することになってしまうからである。ただ戦争を経験した人はまだ生きているのだから戦争自体まだ歴史なったとは言えないのかもしれない、本当のことが語られていないということがある。従軍看護婦は人を殺したりしてはいないから自責の念はなかった。
だから船倉か終わってもなそうした自責の念はなかったのである。


姉についてはいろいろ語ることがある。戦争のあとに役所に勤め保健婦だった。その時自転車で一軒一軒回っていたのである。その頃の自転車は頑丈なのだか重かったし今のとは違っていた。自転車で回るということ自体かなり体力が必要だった。車がない時代だったから大変だった。ただ姉は足が太く体力があったからできたのである。
店もやっていて野菜は近くから自転車で買ってきていた。その野菜も大きな箱に入れて運ぶから力がないとできないのである。普通の人は簡単にできない仕事だった。
そういうふうにはたらいて我が家に尽くしたのである。

その生い立ちが特殊でありもらい子だったことも我が家に特別尽くした原因になっていた。

ただ最後は認知症になり悲惨を究めた。なぜならあれだけ優秀だと自負していたのが本当に馬鹿になったということが今でも信じられないのである。でも最後まで自分は優秀だと言って死んでいったのである。自分などは常に優秀なところがないと本当に思っているし実際にそうだった。何ら才能ある人間にみられないのが当然だったのである。だからそんなに自分が優秀だということを死ぬまで言っていることか理解しがたいのである。
そこにはやはり奢りがあり最後は悲惨な結果になった。


人間は死んでも何か残す、母の実家の墓にはただ一行亭年25才で死んだ人の名前かが刻まれている。この人は肺病で死んだのである。そのことを聞いているからいつもその一行だけが訴えてくるのである。何かやはりその無念をその一行で訴え続けているのだ。
そういうことが人間には常にある。戦争で若くして死んだ人は生きられなかったからその無念も大きいし恨みも深くなる。だから学徒出陣の学生が残した歌にはありありとその苦悶がにじみでている。人間は簡単にいくら御国のためだとはいえ割り切れるものではなかったのである。ただ姉の場合は性格から割りきっていたのである。

姉が死んでから五年も過ぎたと思わなかった。その間は自分の病気で入院とかいろいろ書いてきたけど信じられない激動の日々だった。まだその激動はつづいている。

自分の墓地の前が復興住宅の建設地になった。この辺はあらゆるものか変わり過ぎたのである。姉が死んでたちまち五年もすきたということもそのためである。ゆっくりふりかえる余裕もなかったのである。姉のことは姉の一生としてフォトブックに写真入りで残せばいいかもしれない、ただフォトブックは簡単に安く残せるけど文章が少ししか入れられないので問題である。余裕ができればそういう方法で記録として残したい。
戦友が集まって残した文章もあり一番の戦友だった人は短歌なども残した文学少女だったのである。その人とは手紙のやりとりがあったが認知症になってからはわからなくなった。ただ束なしてその手紙が残っているのでそういうものも利用したいがその戦友が今生きているかどうかもわからなくなった。もう九〇歳くらいになっているからそうなるとみんな音信不通になってしまうのである。ただこれも歴史としてふりかえり後世に伝える義務が自分にはあったとなる。

2013年09月23日

津神社の謎 (烏崎村の津神社は高台にあったのを移動したのか?)


津神社の謎
(烏崎村の津神社は高台にあったのを移動したのか?)

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《流された神社は11社ほどありました。8社は南相馬市鹿島区に集中しています。その8社のうち、いくつかの由来については市史・町史に記述が残っていました。それによると、例えば、津神社(番組に出た相馬市の津神社とは別)は、番組にも登場した八龍神社(もともとは港の神)が、船の大型化による港の移転の際に、年代は不明ですが、低地へ分社して成立したことになっています。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20110830


鹿島区の8社の神社が流されたというのはなぜか?その場所が新しい場所だった。江戸時代にしても南海老村でも北海老村が先にあり海の方に人家が増えて新しい村が形成された。もちろん八沢浦は明治時代に干拓されたのだから新しい、その一つの神社も流されたし南海老村の神社もいくつか流された。

そして烏崎村に津神社があったがこれがなぜ今の港の近くにあったのか?これはもともと
平地にあったのではない、つまりここで指摘されているようにもともとは家が密集していた浜町という所の高台にあったものが移されたのかもしれない、あそこにあった八竜神社は高台にあり急な石段でありなぜあんな高い所に建てたのか不思議である。

そもそも神社は一般的に高い所に建てる、古い神社はだから一般的には高い所に建てる。ただ今回井田川を回って下浦では新山神社がありあれがなぜあんなに高い所にあるのかも不思議だった。あんな高い所まで津波が来たとか思えないし新山神社と双葉に新山という城があった所がありそこから移住した人が祭ったのだろう。それは江戸時代になるのかそれ以後なのか?ともかく新しい神社でありでもあんなに高い所に祭ったのである。

これは津波とは関係ない神社である。別に高い所にあるからといってすべてが津波と関係しているわけではない、ただ不思議なのは相馬市の松川浦の津(つのみや)神社や烏崎村の八竜神社は津波からぎりぎりでまねがれて社が残ったのである。北原の島商会にゆく坂の入り口の津神社も明らかに津波の記憶からあれだけ高い所に祭ったことは確かである。

津波は道とか斜面を押し登ってくるからかなり高い所まで津波が来るのだ。島商会に行く坂の入り口にある津神社があれだけ高いのはそうした津波が実際は登ってくるからあんなに高い所に建てた。また烏崎の八龍神社も急峻な石段になっている。

小高の綿津見神社もぎりぎりで残ったのだろう。前は崖だったけど津波の勢いが崖では強くなっていた。だから双葉の原発がある所の崖に津波が押し寄せて勢い良く大波がぶつかり砕ける様は恐ろしいものだった。その衝撃がものすごいものだったのだ。
だから海岸線の村は一瞬にして木っ端みじんになった。家が吹き上げられたようになって流された。津波がいかに海岸に接している所で恐ろしいものかまざまざと見せられた。
だから津波の経験があれば絶対にあんな危険な場所に家は建てないのである。またあんなに密集して家を建てない、そういう危険があるのになぜあれだけ家が密集するようになったのか?時間がたつにつれて津波のことが忘れられたのだろう。


古い神社は一般的には高い所にあった、平地にあったのは新しいものだったというとき
相馬藩ではそうだった。烏崎村でも牛島は今の港があったところは家が密集して八龍神社があった所より新しい、なぜならそこは湿地帯でありその後ろに袋村があったが消えたことを考察したが牛島でも牛とつくのは湿地帯でありそこに人が住んだのは新しい時代である。そもそもあそこの港ができたのはいつなのか?明治になってからなのかもしれない、
江戸時代にはなかった。新しい港でありそこに津神社があったけどそれは浜町とか家が密集したところから移された神社だった。もともとは高い所にあった。

烏崎村は烏浜であり岩松氏が鎌倉時代に船で上陸した地点であり烏浜はその伝説に基づいてなづけられた。だから烏崎村は古いのである。牛島にある港はずっとあとにできたのであり明治以降なのかもしれない、ともかく津神社は牛島にはなかった。家が密集していた高台にあったのが移されたのである。そしていつしか津神社が津波を記念したものだということを忘れてしまった。鯨を祭るようになってしまっていたのだ。だから神社の裏側には鯨の碑や金比羅の碑があったのである。


いづれにしろみんなが津波のあとに一番疑問に思っていることはあんな危険な場所に人が密集して住んだのかということである。三陸辺りではここより下に家を建てるなという言い伝えがあった。ならば相馬市の松川浦の津神社(つのみや)の下には家建てるなとなる。なぜなら津神社の下は原釜であり一段と低くなり海岸に接して家が密集していた。

原釜には塩田があった。それは江戸時代である。だからすでにその時から海岸に接して家があった。でもあれだけ家が密集するようになったのは明治以降であり昭和であり最近なのかもしれない、ただそこでも津神社のいわれも明確ではないし無視されていたのである。島商会に行く坂を登る津神社は本当に隠されるようにしてあった。あの神社は本当に不思議である。まさに隠されたまま注目されず何の由来かも知らずひっそりと四〇〇年間存続していたのだろう。神社は由来がわからないのが結構多い、その由来がわからないということはいくら神社があってもその由来が村の人によって伝えられていなかったということなのだ。それが大きな被害となったのである。


結局神社の名前にも問題があった。もし津波神社となっていたらわかりやすかった。なぜ津神社としてまぎらわしいものにしたのか?浪分神社があったが名前から分かり安い、津神社だけでは津波のことをイメージしにくいのである。ただ津波は四〇〇年前の慶長津波から生まれた名前でありそれで津の一字になった。津というのが何なのか?つはつづらとかつづくとかのつであり津の意味はもともとそういう意味だとすると津波に由来していた。なぜ津波になったのか?つづく、つづら、とか地がつづいていて浪がつづき押し寄せることの意味だった。そういうふうに津波を見るようになったから津波に名前が変わった。それまでは海嘯とか全く別な名前だったのである。浪がつづき押し寄せるから津波になった。ただつくづく人間は名前に左右される。津神社と津波神社ではまるで違ったものとなっていたのである。地名でも常にその名前からその土地をイメージする。それが実際の地形とか由来とは違ったものでも名前から人間はイメージする。だから名前がいかに大事なものなのかわかる。津波神社となっていれば誰でも津波なのかと即座に思うからである。ただ津神社では何なのだろうとなって津波を意識されなかったのである。

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島商会へ行く坂の登る入り口の津神社は一番不思議である。
雫(しどけ)とかの村があるけどこれは古いのか?
萱浜(かいはま)はここよりかなり低い地域にあり被害が大きかった。
ここは越中からの移民が主に開拓したところだった。
ここでも村の新旧が問題になる。
津神社のある場所は古いのだろう。萱浜に移民が住んだのは江戸時代である。
津神社が建てられた後に住んだ。では高台の方はそれより前に人が住んでいた。
萱浜の人たちには津波のことが伝えられなかったのか?
移民した人が多くなり津神社のこと津波のことは忘れられたのだろうか?
あの辺の歴史はわかりにくい、どこが古いのかわからないのである。

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小高から浪江にゆく坂の「綿津見神社」もかろうじて残った
これは海岸に接していたからかなり高くないと流された。
これも不思議の一つである。
これだけ高いから流されなかった。
これも古いから津波を警戒して建てられたのか謎である

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この神社の下は津波の水で沼になっていた。
その下は崖になっている。


南相馬市鹿島区の袋村が消えた謎
http://musubu2.sblo.jp/article/61811783.html

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2013年09月24日

津波で消失した右田の松原を回想する写真と短歌


津波で消失した右田の松原を回想する写真と短歌

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常磐木の松の緑のうるわしく浪に揺られし船今日も見ゆ

粛々と松風鳴りぬ秋の日や船もいでたつ漁もありしも
松と松健やかにあれ長き日や実りを豊かに里を育む
松と松よりて松原ありにしを津波に消えて秋となるかな
津波にて妻の死せしとあわれかな家の跡にし菊を献げぬ
松林野路菊あまた夕日さし綿のごとしも実り刈り終ゆ
残りたる庭の大石松二本烏崎村にまた秋の来ぬ
海を見て量にいでざる漁師かな恨みも深く秋となるかな
寥々と松風鳴りて右田浜冬の海にも漁船いでしも


右田の松原は松川浦の松原とは違っていた。松川浦の松林は木が細いしあれは松原というものではなかった。その違いは右田の松原は防潮林として稲作を米を塩害から守るために作られたのだ。松川浦の松林はそういう用途で目的で作られていない、環境的に景色を良くするためにだけ作られていたのである。

右田の松原は田んぼに米の実りがあり質実な松と調和していた。稲と松と海が調和して景観を作っていたのである。青松白砂の風景は松原の風景は稲作と密接に関係して作られていたのだ。松原から確かに海が見えるが一方で松原からは田んぼが広がり秋には豊かな黄金の実りとなり松原と調和していたのである。

そして浜通りで右田の松原のように整った松原はなかった。右田の松原は松風は気持ち良かったのである。松原らしい松原だった。

そういう風景になじんでいたしそれか消失することなど想像すらできなかった。
全く風景が変わってしまった。たた松原がないから広々と海が望めるようになった。
これも新しい景色というよりもともとは松原がなかったのだから海が広々と見えたのである。それはそれなりに気持ちがいいということを経験した。

常磐線からは海が見えないから海を意識しなかったのである。それは松原とか家にさえぎられていたから見えなかったのである。浜吉田駅でもあそこがあんなに海が近いと思わなかった。それは海か見えないからそうなっていた。多賀城辺りでも都市化して建物が密集して海が近いということを意識されなくなっていたのである。

いづれにしろ右田の松原は消失してただ思いだすだけになった。一つの作られた景観だったけどやはり自然景観の消失だった。それはもう再現できない、ただ思い出すだけのものとなってしまった。でも松原や田んぼの景観はいつの時代からかわからないが百年以上とか長いだろう。江戸時代からも作られていた。三〇〇年くらいで作られた松原の風景が根こそぎ消失することは今でも信じられないことたった。
だから松原の松の供養もしないといけなかったのかもしれない、松もまた生き物だからである。松がまだ枯れそうになって何本か残っているのも凄まじい光景である。
一つの執念なのかもしれな、それはなんとか生き残ろうとする人間の執念にも見えるのである。

 
 
 
 
 
 
 
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2013年09月25日

JR北海道の一連の事故は「過疎化し衰退する地方」の一里塚--やまもといちろう

 


JR北海道の一連の事故は「過疎化し衰退する地方」の一里塚
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-やまもといちろう 

2chより


●第一次産業主体の時代


鉄道にかぎらずインフラ関連は人口減少を見込んで、地方をある程度切り捨てないと
 パンクするのは必至。使用率の低い線路、電線、道路、公共施設を維持するコストに
日本が潰される。地方の町村が滅ぶのを情緒的な理由で反対する声もあるだろうが、
どんなとこだって人間が住み始めるまでは、野っ原だったんだ。元に戻るだけのこと。


人間が住み始めるまでは、野っ原だったんだ。元に戻るだけのこと。

もともと野っ原たったというけど津波や原発事故の被害地域は本当にそうなってしまった。 海岸地域の村が消滅して街に人口が集中してきた。コンバクトシティ化してきた。
そもそもなぜ日本は拡散して住んだのか?それは農業が主体だからそうなった。農業には土地が必要であり土地を求めて奥の山間地まで住む領域が広がった。それは千年くらい前から常に土地を求めて人は日本全国に拡散したのである。特に稲作が主体になったとき
山間の不便な地域でも棚田や段々畑を作って耕作してきた。それは農業が主体だからそうなった。戦前は養蚕だったがこれも農業だったのである。ただ農業から工業化したから街に工場ができて働く場となった。ても基本は農業の延長としてあった。桑を生産するから土地が必要だったのである。つまり日本人は土地を求めて不便な山間地でも移住してきたのが歴史である。なぜ満州で戦争になったか?それは日本ではもう開拓する土地がなくなっていたのである。そういう例はこの辺でもあった。ブラジルやアメリカへ戦後にも移民があったのは農民だった。農業するために移住したのである。


それも土地を求めてそうなった。栃窪の上萱とかのような不便な地域に住むこと自体今になるとどうしてだったのかとなるがそれだけ土地がない日本だからそうなった。そして生活の主体は農業だったから土地がなくてはできない、そして農業だとどういう辺鄙なところでも田と畑を作れば最低限自給自足できるという考えがあった。だからどんな辺鄙な場所にも農業できれば人が住んだのである。北海道でもやはり明治維新後に武士が開拓に入った。それも農業するためだった。広大な土地があるから農業の新天地として移住したのである。
戦後にしても戦争の引揚者が全国に開拓に入った。この辺でも小池に引揚者が開拓に入った人を知っているしあの浪江の津島もそうだった。苦労して団結して土地を開いたから愛着があるというのがわかる。飯館辺りでも開拓者が入った地が多いのである。


●鉄道は石炭や木材など資源を運ぶために最初作られた


北海道に十回くらい行っているから思い入れがある。梅雨の時期にいつも仙台からフェリーで苫小牧まで行っていた。苫小牧に下りると何か空気がまで違うと感じるのが北海道だった。大陸的な感覚になる。北海道の鉄道もほとんど乗った。鉄道はもともと人より物を運ぶことから開かれた。小樽までは石炭を運ぶことであり石炭が今の石油と同じなのだからエネルギー源なのだから生命線となる。常磐線も東京に常磐炭鉱の石炭を運ぶものとして最初は作られた経緯がある。原町機関区にしても森林鉄道が葛尾村の落合とかあれだけ遠くまで通っていたことに驚く。全国に森林鉄道があり鉄道で木材などが東京に運ばれていたのである。要するに資源は戦後まもなくは日本国内でまかなっていたのである。

石油を買うにしてもまだその金もないし発展していないからエネルギーの主体は石炭だったのである。暖房も燃料も戦後十年は炭であり次に石炭だったのである。炭だったら近くの山から作れるのだから燃料は自給自足になっていたのだ。人間の生活は戦後十年までたいして江戸時代からの連続であり変わっていない所があった。高度成長時代を経て急速に変化してしまったのである。

農業とか漁業でも生活ができないとか常に言われてきたのは買うものが多くなりすぎたためである。自給自足だったら水もただであり電気も使わないから電気代も払う必要がない、石油も使わないから石油がとれなくても心配ないとなっていたのだ。ある意味で貧乏でも自給自足だと他国に頼る必要がないのだから心配事も少なくなる。石油が中東紛争で入らなくなるとか大騒ぎする必要もないのだ。ましてや原発がないともう電気がなくなり

生活もできなくなるなど脅されることもないだろう。江戸時代の三〇〇年の平和そうして作られた。鎖国できたのは自国ですべてまかなうことであり貧乏でも他国に頼らないのだから自国で平和が保たれたのである。もちろん極端な貧乏があり目の悪い人が一割近くいたというのは暗黒面だった。それでも戦争がなかったのだから平和を三〇〇年満喫した時代だった。明治維新後は戦争の時代でもあった。三回も大戦争があり太平洋戦争では三百万人以上が死んだのである。グローバル化は国同士の資源とか覇権の争いが熾烈化する。それが戦争に発展する。自国でまかなう鎖国時代だったらそういうことはないのだ。


過疎地を切り捨てるという感覚は農業主体の感覚から大きく変化してしまった。工業であり情報化であれ農業主体でものを農民自体も考えていない、原発事故で農民に話を聞くと米を作っても売れないから農業はもうだめだという。売るためにみんな米でも野菜でも果物でも作っているのが現代なのである。なぜなら買うものが多くなりすぎたからそうなる。昔のように自分たちがまず食べるものがあればそれでいいということはないからだ。
浜通りでは現実に第一次産業の生産高は一割にも満たない、あとは原発や火力発電所の割合が三割とかなっているのだ。だから第一次産業は重く見られない、現実に生活しているのは原発に働いてできていたともなるから原発の方が第一次産業より重要になる。


●東京一極集中と過疎化の矛盾


北海道の問題は農業が今なお主体でありそこで取り残されてしまったのである。ただ観光的には原自然が残っているから魅力があり簡単に廃線にできないという。北海道は外国にも人気がありリゾート地にもなっていることでもわかる。つまり北海道は日本ではない、大陸的でありそこに魅力があった。沖縄もそうである。だからどちらも本州を内地と呼んでいる。外国に行った気分が味わえるのが沖縄であり北海道だったのである。


過疎化とか限界集落というとき突然ここは津波と原発事故でもそれとにた状態になった。もとの野っ原に現実にもどった。そして交通が遮断されて不便になり江戸時代のようになってしまった。でも昔のように自給自足社会ではないから他から物が入らないと生活もできないから違っている。それで六号線でも常磐高速道路でも開通すれば復興に大きく寄与するというのはそのためである。そうでないと陸の孤島になってしまう。一時はそうなってしまった。原発自己周辺では南相馬市の小高ではまだインフラが水道などが整備されていない、これも相当な時間がかかる。ただもう住まないという人々が多いというときそうしてインフラ整備に金をかけても効果があるのかという問題がある。津波原発事故周辺は今回はもう復興できないというときインフラ整備するだけでも莫大な金がかかりそれよ見合ったものがみんな住むかといえば会社がなくなり生活ができないとか市長村が消滅してゆくことなのである。そのインフラにかかる金が膨大になるから都会の人はそんな無駄なものに税金を払うのはいやだとなる。つまり自給自足社会だったら都会の人にそんな文句を言われる必要がなかったのである。そこが昔と根本的な相違であった。


一方で東京であれ大都会に異常に人間が集中するのもいびつなのである。結局時代の変化がありそれに簡単には対応できない、それでも工業化というけどこれも安定しているわけではない、いつ衰退するかもしれない、農業は一応土地があれば食料は得られるという安心感があり農民は土地は簡単に手放さない、いくらグローバル化だ、TPPだと言っても食料は自前でないと不安だから各国で保護しているのだ。国造りはこういうことも含めて総合的に見ることが必要になる。それが時代の変化でできていないのだ。ただ便利な生活をするには医療でも介護でもコンバクトシティ化するのがいい、田舎だと一軒一軒回るだけで手間なのである。街に人口が集中すれば楽になる。過疎地では十分な医療を受けられないというとき介護も受けられないというときそれは今の時代では贅沢だから街に集中して住んだ方が楽だとなるのだ。いろいろな贅沢をするには街の方がいいとなる。だから川内村では一旦郡山などで補償金で生活していたら帰りたくないとなってしまったのである。そこに住んでいるときそういうものだと思っていても一旦贅沢な便利な生活をしたら川内村に帰らないということになってしまったのである。


ある程度過疎地は切り捨てて、都市部に集住させるべきではある
 だけど、東京一極集中はいかん
既に限界を超えて肥大化したため、出生率が最低に落ち込んでいる
 そんな都市圏が全国から若者を吸い上げるので、国全体の少子化が加速している
 あと災害や戦争で東京が壊滅したら、現状では国が終わってしまう
複数の都市圏に分けて集中させる、分極集中が必要


これが妥当な意見なのだろう。浜通りは別に過疎地ではなかった。鉄道も通っていたし
都市もあった。限界集落というものもなかった。東京に近いということもあり会津などとは違っていたのである。北海道は内地ではない外地だという距離が問題を生んだのである。

 
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2013年09月26日

避難民の仮設に住む人たちが負担になっている (優先的に施設に入居できるのは仮設の人)

 

避難民の仮設に住む人たちが負担になっている


(優先的に施設に入居できるのは仮設の小高の人)

今日ケアマネか言っていたけど仮設の人は優先的に特養に入れるという、仮設は部屋が狭いし在宅で介護できる状態ではない、だからどうししても仮設の人が優先的に特養に入れる。他の人は順番待ちになるのだがもう何百人待ちになるから入れるのは困難を究めている。近くの人は障害者と母親の二人を兄弟で介護している。一人は首が頸椎が悪いとか言って特養に入れないんだとなげていた。今は普通の状態でも特養に入ることはむずかしくなっていた。それで津波原発事故でこの辺は混乱して仮設の人が増えた。

そこでイワキ辺りでも避難民だけがなぜ優遇されるのだと問題が起きた。

避難民は介護する人をかかえたら仮設ではできない、だから優遇されるというのはここでも同じだった。そういう不満がイワキにもあったし南相馬市だと鹿島区にもあり補償金をもらえないから鹿島区ももらえるべきだとしてもらったのである。それは東電からではない市長の判断で市の財政から出したのである。今度は東電から補償金が同じようにもらえるらしい。精神的損害として一人十万がもらえる。とすると前にもらった一所帯百万は市の財政から出したのだからそれまでする必要はなかったともなる。


ただ結局南相馬市の混乱は小高と原町と鹿島が合併して長くはない、そこにも混乱する原因があった。利害調整でも不公平だったのである。小高の区役所はモダンで立派だった。鹿島区は前の役場を利用しているだけだった。小高は合併後にあのガラス張りの区役所を建てた。なぜ小高は鹿島より優遇されているのだろうとなる。小高には高校もあり鹿島にはないから鹿島には前からも何ら施設もないとなげていたのである。


津波原発以後は小高は苦境にたたされた。町が消滅するのではないかまでになった。そして原町区であれ鹿島区であれ仮設に大勢が住むようになった。しかし二年半すぎて何か小高の人たちが南相馬市では重荷になってしまったのである。その顕著なものとして仮設に入っているために介護できない、もともと自分の家に住んでいたら在宅でできたかもしれないけどできない、それで特養に優先的に入れる。そうなると他の人は近くの人のように入れないで困っている。小高の人が重荷であり負担になっているからそうなったのである。いくら補償金をもらっていてもそれだけで金だけでいま状態は解決できない、小高の人の問題は第一住む場を失ったのだからどこに永住的な住まいを求めるかというとそれが小高に土地と家があってもできない人が多くなれば原町区とか鹿島区に求める。でも土地が得られないから家が建てられないともなる。津波で家を失った人はもう小高には建てないだろう。そういう負担が南相馬市全体にかかるようになったのである。
だから市では小高に住んでくださいと言っても小高の人は鉄道も通らないなど嫌だとなる。ではあなたたちはどこに住むのですかとなると小高以外の地域になるがそれだけの用地を確保できない、復興住宅は鹿島区に三カ所工事している。


小高の人もどうしたらいいのか?帰るべき帰らざるべきとか思案しているだろう。これは他の避難民でもそうである。どうしていいのかわかりにくいのは放射能の影響が明確にわからないからである。ほとんど影響がないのだと言う人もいるし非常に危険だと言う人もいてわからないのである。それを各自で判断することもむずかしいのである。
とくに子供をもつ母親や若い女性は流出している。そうすると残されるのは老人になるがその老人では復興はできない、老人に金があっても労働力がないのだから復興できない、相馬藩の飢饉の時は相馬藩に別に荒れた土地しかないのに越中の移民が来て建て直した。越中の移民は別に金もないし着の身着のままで移民してきた人たちである。

それでも復興できたのは移民は何もなくても労働力として荒れた土地を開墾したりして住んだから復興できたのである。今は補償金とかあっても若い労働力がないのだから復興できないのである。だから復興は必ずしも金だけではできないのである。
荒れた土地でも必死に働きそこに住もうという人たちがいたから相馬藩の飢饉のときは立ち直った。今は放射能が怖い、インフラがない、鉄道が通らない、働く会社がない、なにかやにやと便利な生活ができないからもう住まないとなる。それでもう復興はできない。

そしておかしなのは避難民は毎日パチンコで遊んでいる。現実に東京まで競馬に行っていた若い人がいた。一方で医療や介護の負担で苦しんでいる人たちがいる。要するにイワキでもそうだが避難民は市全体では確かに財政収入になっても負担になる、重荷となってしまう。だから生産活動をして下さいと市長が言った。でも避難民にすれば簡単にそんな仕事ができるスキルをもっている人は少ないのである。それと六〇以上とか若くて五〇以上とかが多いから仕事したくない仕事に就けないということもある。農業だったら慣れているからできるにしてもそういう土地もないのだからできないのである。

要するにどうしも避難民は負担であり重荷でありやっかいものとなってしまい嫌われる。
ただ沖縄のように政府から賠償金を要求するだけのものとなってしまう。それで今嫌われているのが東京都民の次に福島県民になってしまったのである。
浜通りでもそうしたツケが回ってきたのかもしれない、原発では恩恵を受けていたのである。前の知事の佐藤栄佐久氏の娘が東電に就職していたというのは本当なのか?「心に青雲」のプログに今日書いてあった。佐藤栄佐久氏は東電にプルサーマルでしつこく嘘つくなと問いただしていた。それで嫌がられ渡辺恒三一派に失脚されたと書いてきた。
でも佐藤栄佐久氏もそうした東電から甘い汁を吸っていたのかとなる。東電にはそうして縁故就職した人たちがかなりいるらしい。そうしていろいろな権力をもつものをとりこむのが東電だったのである。権力とは常にそういうものである。


いづれにしろ小高には合併する前に東北電力の原発が建つことが決まっていたのである。それですでにその交付金が小高には下りていたのだろう。その後合併して南相馬市にもその交付金がおりたが反対してもらわないようになり原発は中止するようになった。
その敷地が残っている。その土地の利権だけでも大きかったろう。それで大工さんが小高には原発が建つから景気よくなるよと言っていた。みんな利益になることしか考えない、原発は人間の欲望の象徴だったのである。科学もそうである。人間のあらゆる欲望がかなえられるものとして科学技術が信仰になったのである。それはカルト宗教団体でもあらゆる欲望がかなえられるとして毎日題目あげているのと同じである。
そうした人間の限りない欲望が原発事故に結びついていたのである。

 
posted by 老鶯 at 13:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連