2013年09月01日

津波の前に起きた南相馬市などの事件 (モラルの荒廃が津波を呼び起こした?-インターネットで発見した自分と同じ感想)


津波の前に起きた南相馬市などの事件

(モラルの荒廃が津波を呼び起こした?-インターネットで発見した自分と同じ感想)




東仙坊、その事件のことを知らなければ、福島県南相馬市なる地域に関し、全く想像する術もなかった。
しかも、その事件が公開捜査になったのは、3月11日の地震発生のちょうど1週間前の3月3日。
やはり、どこかその事件が今回の大震災、そして大震災後の卑怯で卑劣な犯行ともコネクトしている気がするのだが…。
きっとこのままでは、天の怒りを抑えられないと思うが、どうだろう?


2月19日の午後6時ごろ、福島県南相馬市原町区桜井町に住む、福島県立相馬農業高校3年女子生徒(18歳)が、「男友だちと会う」と家族に伝え外出。
その後、家族に携帯電話のメールで「これから家に帰る」と連絡があったが(?)、いまだに帰宅せず、携帯電話はつながらない状態。
2月21日(??)、家族が福島県警南相馬署に「娘が帰らない」と捜索願。
失踪女子高生は、身長約160cm、中肉で面長、髪は黒の直毛で肩まで伸びていて、外出時の服装はカーキ色のフード付きジャンパー、灰色のスエットズボン、サンダル履き(??)。

そこで、親が知っていたのか(?)、会いに行ったはずの20代男友だちに、警察が任意で事情聴取。
そのオトコは、「女子高生とつき合っていた(?)。2月19日夜に数時間会って別れ話をした後(?)、市内で車から降ろし別れた」とその日に会ったことを認めたが、その後、自宅近くで自殺しているのが見つかったというから、???
また、南相馬市内の海岸で、オトコの車が焼けた状態で発見。
さらに、女子高生の所持品も見つかっていない。


この「福島県南相馬市女性歯科技工士失踪事件」の被害女性の車の状況と、「茨城県北茨城市女性殺人事件」の被害女性の状況は、極めて酷似していると思わないか?
そして、こんな卑怯で卑劣な犯行が簡単に行われてしまう風潮に、天が怒っていると思うのだが…。
実際、昨日からメチャクチャ群発している地震の震源地である「福島県浜通り」って、福島県南相馬市付近では?
も、も、もしかして、今回の大震災で、この「福島県南相馬市女性歯科技工士失踪事件」の被害女性(?)、「福島県南相馬市女子高校生失踪事件」の被害女子高生(?)の亡霊(??)が出てきたりしたら、そのうえ、そのドラムスコの店や家族が、自殺したオトコの家族が改めて被災していたら、ますますそう思えてこないか?


これだけ日本中が、襟を正し、極めて真摯な気持ちで、それこそ燃えるキャンドルの炎を見つめながら、命の大切さ、命の儚さを再認識しているときに、こともあろうにその被災地で、略奪だけはさすがにないものの、窃盗、空き巣、強姦、そして、卑怯で卑劣な殺人を犯す人非人が現れ、メチャクチャ暗澹たる気持ちにさせられているのは、東仙坊だけではあるまい。

(この機会に、経済復興よりも、モラル再生を優先すべき)!
http://tohsenboh.blog41.fc2.com/blog-entry-1206.html





津波の一週間前に萱浜(かいはま)で女高生が行方不明になり男が松林で自殺した。これは津波が来る直前のできごとだった。その後行方不明の女高生は死体で発見された。そして一週間後に津波がきて萱浜(かいはま)は悲惨な状態になった。このことが津波と何の関係があるのか?つまりこういう事件と津波を関連づけて考えている人はまれである。津波は自然の法則のように起こるものであり人間のこうした事件と関係ないと思っている。
でも自分も最初から人間の怨念が悪い念がたまりにたまってその悪い念を一掃するために津波が起きたと前に書いた。ただ個々の事件と津波を結びつける人はまれである。それでもこうしたことを考える人がいることはインターネットならではのものなのだ。なぜなら常にキーワードで探しているから同類のものを探すことになるからだ。これはやはり自分と同じようなことを考えていたなというものにあたる。

日本の災害をモラルの荒廃のためだとしたことは新しい考えではない、古くからあったのである。
それはノアの洪水からはじまっているから新しい考えではない、なぜこんな巨大な災害が起きたのか?
それが明らかに人間側にあり人間の罪が積み重なってもう自然界から神からみたとき許せないとなり巨大な自然災害が起きてくる。台風のような災害と今回の津波のような災害は違っている。
津波はノアの洪水とにていたというとき本当にそういう恐怖を味わった。原発事故も一緒になり本当に人類の最後が来たのかと恐怖した。人類滅亡の恐怖でもあったのだ。


天変地異が人間の責任として道徳的に理解されていたように衣食住の恵みも福祉も点の恵みあるいは神仏の恩寵として理解させられていた。(日本倫理思想史-和辻哲郎)


古来こういう思想は世界的にあった。天皇とは本来は天地の神に祈りをささげ災いをもたらさないように祈る司祭だった。だから天皇は権力者ではない、司祭だから精神的シンボルとなりえた。神道でもあかき心というときすなおな心というときその心が正すことにより神に仕える。そうしたあかき心とかなおき心とかが喪失するとき災いが起きてくる。天皇が災害地を巡るのは日本の国土の平安を神に祈るためなのである。具体的な復興事業は政治がするものだが災害をまねがれるためにはそれだけではできない、どんなに防波堤を高くしても津波は越えてきた。人間の技術には限界がある。原発にしても科学という人間の奢りが災いをまねいたのである。

現代のモラルの荒廃は極点に達していた。単なる技術の問題ではない、モラルの荒廃、人間の欲とか科学者の奢りでもそうしたモラルの荒廃があり津波が天罰のごとくもたらされた。今は科学の時代だからそんなことがあるのかと否定するがやはりあかき心やなおき心の人が多ければ多いほど自然と和み平和が増進される。
それが江戸時代だったのである。もちろん盲目の人が栄養失調で一割いたとか暗黒面はあった。ただ比較的大災害が少なかった。だから江戸時代は戦争もない、大災害もない平和がつづいた。その前は戦国時代であり南北朝騒乱の時代でありその時も慶長津波のように大災害があった。そして明治維新以後は関東大震災とか大きな災害もあり戦争でも3百万人以上が死ぬという災難の時代だったのである。西欧文明が入り物質的には豊かになっても技術的には進歩しても人心は乱れる荒廃する時代だったのである。もちろん日本人のモラルとなったあ
あかき心とかなおき心などはない、ただ利だけを追求する心しかなくなった。きたなき心しかなくなったのである。
戦後でもアメリカ化一辺倒になったこともアメリカの物質至上主義と金だけが価値観となりただ人は金をもうけるものが偉いとなり何もモラルが喪失したのである。明治維新後日本人の人心の荒廃は極点に達していたとき今回の大津波が起こったのである。そういう時代的には末世になっていたからこそそうした天変地異も起こるし外国からの驚異もましてくるのである。

人間に災いが起きるのは「人間の力で恵みがもたらされた、ゆえに栄光は人間にある」こう思うとき人間に天罰が下る。ネブカドネザルが正気を失う直前に自慢して,「この大いなるバビロンは,わたしが自分の偉力の強さをもって王家のために,またわたしの威光の尊厳のために築いたものではないか」と語った

こう思ったときこの王は正気を失い牛になったのである。バベルの塔も神の怒りにふれて崩れた。今回の原発事故も神の怒りにふれたのである。そこには科学者からあらゆる原発を推進した人たちが裁かれた。国にも大きな責任があったしその恩恵をこうむった地元の人にもあり官僚にもあり政治家にもありあらゆる人にあったのである。いかに人間にとって奢りが危険なものになるかである。神のような力をもつ・・・科学者はそういう奢りになっていた。それが無惨に打ち砕かれたのである


自分の個人的ことに関してもふりかえると信じられないことの連続だった。それは身内の一人が認知症になったことからはじまったのである。認知症自体も本当に不可解な病気であり未だに訳のわからない病気だった。しかしこれにもモラル的なものがあったのかもしれない、自分の身内のの場合は確かに冷静にみればあった。身内だからなかなか客観的には見れないがモラル的に問題があった面はある。ただ功罪があり身内だから客観的に評価するのはむずかしい。いい面と悪い面があったからだ。
個々の犯罪のことをとりあげたが自分もむごい犯罪にあった。今までは人間はみんないい人だとのんきに楽観的に見ていた。今はそうみない、これほど人間はひどいのかとここ六年間の経験で変わってしまった。

だから犯罪にあってから毎日その犯罪者をのろい憎みつづけた。それは自分でも激しいものだった。やはり金の恨みは一番大きくなる。それは具体的だからそうなるのだ。津波が起こるまで呪い憎みつづけた。そうしているうちに津波が来たことに驚いたのである。だから南相馬市の萱浜(かいはま)で津波の直前に起きたことが津波を誘発したというのも自分の体験と共通していたのである。何か現代は凶悪な犯罪が続発していないか?
それは人間のモラルが喪失して人間が欲望の野獣化していて歯止めがなくなっている。一人一人が他人は狼だともなっていないか?そういう野獣化したモラルもなにもない社会への罰として警告として津波が起こったというのも当然だとも思うようになる。ただこういうことを指摘する人はまれである。実際に津波や原発事故以後も
東電の幹部はみんな外国の東電関係の会社に入り安泰であり誰も責任をとらないのである。補償金問題でも欲むきだしになり地元でももめているようにその後もやはりモラル的なものは荒廃している。
そしてこの後モラルが改めることもないとき、どうなるのか?さらなる巨大な津波か、災害が日本を襲ってくる。世界にも襲ってくるのではないか?なぜなら別に一向にモラルは改まらないしかえってまた補償金でもめているように南相馬市はまた津波の前の事件があったようにそういう状態に戻っているからである。

posted by 老鶯 at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年09月03日

南相馬市で起きている小高、原町、鹿島区の対立 (住民エゴが復興をはばんでいる)


南相馬市で起きている小高、原町、鹿島区の対立

(住民エゴが復興をはばんでいる)


●住民エゴのキーワード


本当に「自分さえ良ければ・・・」「自分の為には、他人が譲歩すべきだ・・・」みたいな、自己中心的な思考回路の連中が多くて息苦しい時代になってきましたね。
http://damasareruna.blog65.fc2.com/blog-entry-980.html


本音を云えば、基地を撤去せよなんて地元の人々は思っちゃいない。わざわざ基地の隣に住んで庭に鉄塔を建て、ひたすら戦闘機の離着陸を邪魔する連中だって、騒ぎを起こして補償金をせしめようと企むだけで、基地がなくなると逆に困る。かって基地周辺の学校を移転させようと県が決定したら、住民から俄かに反対運動が起こったと云う
http://yohkan.iza.ne.jp/blog/entry/2491564/


原発をこの地に誘致した旧浜岡町時代の元町長は桜ヶ池のある池宮神社の境内で銅像となってその功績を称えられ、その次の町長は浜岡原発が5号機まで建設されたことに対する大功労者として、中部電力から毎月30万円という慰労金が支払われている。この金は、生涯受け取ることができるのだという。このように、この地では原発の功労者は篤く報われ、原発に異論を唱えるものはアカではないかと後ろ指を差され、ひどい場合には村八分にされたのだった。
http://www.janjanblog.com/archives/29147


住民は、「お金をもらえればよい」「補助金をもらえればよい」と思っているだけかもしれないが、そういう風潮が蔓延したならば、政治家が、自分が当選するためだけのバラマキ政策をやり続けることになり、国全体としては赤字体質になってしまう
http://blogs.yahoo.co.jp/tosimitu1962/14138330.html

いつまでも地域エゴを許容し、ガレキの処理もできないようでは、
日本という国は立ち直れない
http://kunimatu.seesaa.net/article/253241479.html


住民エゴのキーワードで調べるといろいろでている。一番出ているのは沖縄である。沖縄は常に基地問題で政府から援助されている。基地のあるところに住んでいた人は東京で贅沢な暮らしをしているといわれるのも基地に土地があった人の補償金は大きいのである。だから表面的に反対しても実際は基地があってほしいとなる。
その補償金が大きいので原発地域でも同じようになっている。原発が建つ前に利権があり建ってからも利権があり事故後も利権があった。その一番の利権を得たのは浜通りの漁業組合だった。請戸に原発御殿が建ったとかいわれるのもそうでありそれが相馬市の磯部でもそういう人がいた。漁業組合に入っている人は船主だったらその利権は大きかったのである。そして今では海は汚染され漁業は壊滅的打撃を受けた。


漁師の人が「自分がどうしてこの浜にいるのかわからない」とテレビで言っていたが漁師なのに魚をとらないとしたら自分はなんなんだという疑問が生まれた。でも手厚い補償金がでているから別に生活には困らないのである。補償金で暮らせるけど魚をとらない漁師は漁師なのか、ただ毎日海をながめて何もしない、それはもう漁師ではないだろう。農家でも補償金がもらって働かなくてもいいにしても毎日暇だからパチンコばかりしていたら農民なのかとなる。働くということが単に金を得るという行為ではない、自然界の中で働くことは第一次産業は自然と直接かかわるものでありその仕事自体が他の仕事と違っていたのではないか?何かそうした根源的なことが問われたのが津波であり原発事故だった。


●鹿島区が一所帯百万もらえたのも住民エゴだった


鹿島区の人たちが小高区の人が仮説に入ったとき、土地を貸しているのだから小高区の人と同じように補償金をもらえるべきだと訴えて桜井市長が市の財政から鹿島区の人たちに一所帯百万払った。これも批判された。
これも鹿島区の住民エゴだったのである。最初は義援金とかで払われるのかと思った。でも最近精神的損害として鹿島区にも一人十万七カ月分はらわれることになった。これは原町区ではすでにもらっていたのである。
その不満が鹿島区にもあったから訴えて東電でも政府でも補償するようになった。この補償金と政府や東電からの補償金が性質がまるで違っていた。南相馬市の財政からでたというときそれは南相馬市全体のために使うべきものだった。そのことにより南相馬市全体で不利益をこうむったのである。それは鹿島区の住民エゴであった。でも自分も得したからいいと思っていた。それでも今になると別に一カ月十万を七カ月補償されるとなるとこの金は大きいと思った。すると鹿島区の人たちの住民エゴは間違ったものだと思った。

なぜなら実際は南相馬市全体のサービスに使うべきものであり鹿島区の住民のためだけに使うべきものではない、市の財政からは出すべきものではなかったのである。それは鹿島区の住民さえ得したようで損したのである。なぜなら南相馬市全体のサービスに使われるものが鹿島区の住民にも使われなくなるからだ。

ここまで深く考えが及ばなかったのか、議論がたりなかったのか?
今回はいろいろ混乱していて事情がのみこめない人がかなりいると思う。
もっと情報を伝えて議論すべきだった。それは議員レベルだけではない、南相馬市全体が一つの家族のようになり家族会議を開き喧々諤々になっても議論してみればどういうことなのか理解できたのである。
つまり今南相馬市の問題は直接民主主義のようなことが必要でありもう議員や市長や役人だけでは解決つかないのである。市長は鹿島区の住民エゴに応じるべきではなかった。

それだけの財政支出をどうするのか,家族会議のようなものを開けばそう簡単にそんな巨額の金を鹿島区の住民のために使えなかったかもしれない、何を優先順位にして使うべきかが今や問題になっている。

つまり一番困っている人を優先順位にしなければならないし仕事にしても医療が第一ならそこに金を使ったりするべきなのである。津波で家をなくした人なども優先順位として高いからそこにこそ予算を組み金を有効に使うべきだったのである。何でも平等というのは結果的に不平等になっているのが民主主義になってしまった。
みんな一様にするのが平等だということではない、実際に一番困っている人が優先的に援助を受けられるべきだからである。結果的に鹿島区の住民エゴで鹿島区の人が得したようで損もしたのである。
なぜなら南相馬市全体としての財政が減ったのだからそれだけ他のサービスが受けられなくなる。老人だったら介護関係とかそうした施設の建設にも金が回らなくなるから南相馬市に住むことは老人にとって損だとなる。


結局南相馬市は本当に小高区-原町区-鹿島区に分断されてそれぞれの思惑が入り乱れてエゴがむきだしになっているのだ。だから合併したのは損だったと鹿島と小高では言っている。小高は小高の事情があり鹿島には鹿島の事情が生まれたからである。ならば小高は小高町としてしまとまり国でも主張すればわかりやすい、ところが小高、原町,゛鹿島は事情が違うのに南相馬市として一つのものとして考えるからわかりにくくなったのである。そして原町区だけが得しているというのはそもそも南相馬市は原町区中心にあるのだから当然そうなったのである。


●やっかいなお荷物となった小高区


南相馬市で一番の問題は小高区である。ここは人は住んでいないしこれからも住めるかどうか見えてこない、帰らないという人も多いし、帰るところではないというし自ら帰らないのだというのもある。住むことをあきらめている人もかなりいる。小高区は小高区全体が一時人が住まなかったし今も住んでいない、会社もなくなり働く場所もないし病院もないしと鉄道も通らないからそんなところに住めるかと言うのもわかる。
一方で家や田んぼ土地がある人はが多いから帰ってもう一度住みたいという人もいる。

津波の被害にあった浦尻の人などはもう住む場所もないから鹿島区で土地を探し家を建てたいと言っていた。
あの家は一週間で建ったんだよとかうらやましそうに言っていた。暇だから家を建つの見ていた。
土地がなくて土地が売ってくれる人がなくて家が建てられないとしきりに言っていた。
鹿島区ではすでに百軒くらい新築になったように見える。だから鹿島区は活気がでている。人口も外部からの人もあわせると三割以上増えたかもしれない、浪江の人も来ているし大熊の人も家を建てたとか言っている。
一軒は旧式だけど立派な家だった。あとは最近の組立式の家だった。


小高区の人たちは南相馬市民としては今ややっかいなお荷物となっているのだ。ただ補償金が多くもらえるとかやっかみの対象にもなりそれで鹿島区の人たちも訴えて補償金がもらえるようになった。
小高区の人にすれば鹿島区にいても原町区にいても肩身が狭い、これは原発避難民はみんなそうなる。
仮設住宅から外に出ないという人もテレビで放送していた。仕事もせずぶらぶらしていると何をしているのかと見られるからそうなる。一方ではパチンコ屋通いや飲み屋で札びらを切ったとか批判される。
普通だったらそんなことをひかえるのだが何もすることがないからそうならざるをえない事情もある。補償金をもらっても仕事がないということもこの辺では問題になっているのだ。


漁師が一体自分はこの浜で何でいるのかわからないということがそうである。魚をとることがないなら補償金で暮らしていても自分は何なのだとなる。それは農業関係者にも言える。
自分の仕事がなんだったのかも問われている。普通だったらそんなことか考えない、むずかしいことなど考えない、でも「魚をとらないならこの浜にいる自分は何なのだ」と問うときそれは哲学的問題になっているのだ。
仕事の根源的意味を問うているからだ。仕事は金だけではない、人間の根源的な問題として今までもあった。
金を得るというだけのものではない、ただ普通はそんなことを問うことはない、魚がとれれば喜びとれなければがっかりすくというだけであった。それがそもそも魚をとることもないで日がな海をながめてるだけなら自分は何なのだと問うようになったのである。

南相馬市民として合併したのは日が浅いから小高ー原町ー鹿島と言っても一体感がまだ作られていない、それも影響しているのかもしれない、でも同じ南相馬市民となったときそういう連帯を作るのはこれからであり歴史を作るのはこれからだとも見れる。それもあっても小高区はやっかいであり切り捨てた方がいいとかにもなる。

小高区の住民をみんなかかえこむことは原町でも小高でも重荷になる。土地の問題にそれが一番現れている。
土地は限られているから小高に帰って住んでもらいたいと市の方で言うのもわかるのである。
小高の住民は小高に住むようそれぞれみんなで努力してほしいとなる。小高の人たちが小高を放棄すれば土地がもったいなとなる。南相馬市全体でもかなりの経済的損失になる。だから小高の人たちは確かに多額な補償金をもらっても自らの住む基盤を失いもてないとすると苦境にたたされている。それもまたそこに住む人の宿命だったのだろうか?原発事故に距離に比例してその苦難を負わされたのである。


●原発が作られたのも住民エゴだった


原発そのものが住民エゴから作られていたのだ。原発が作られれば町が豊かになる。その一点で町は団結できる。小高町は合併する前に小高町の住民エゴで東北電力の原発が建てられることになっていた。南相馬市に合併してからそれはすでに小高町の時に決められていたから引き継いだ。しかしこのことがもし合併後に問題になったら簡単に決められなかったかもしれない、なぜなら原町区が入るとそこは5万とかの人口がありそれなりに反対勢力もでてくるからである。そうした知識人もいたし勢力もある。小高区になると狭い地域だから反対派は村八分になりつぶされてしまう。でも原町区が入るとそうはならない、原発が住民エゴで決められていたことがそもそも間違いだった。漁業組合にしても一つの団体エゴだった。全体のことを考えてはいない、自分たちだけが得すればいいというだけである。漁業組合の会合で原発事故以後も汚染水問題でもめていて海に流すことを反対していた人がいたがその人も少数派であり全体の意向としては海に流すのもしかたがないとなっていた。

それも東電の補償金がからんでいるのかもしれない、まず原発事故以後も漁業組合には莫大な補償金が流れているからだ。

結局こうした団体組織のエゴがあることはやむを得ない、地域エゴもすべてが悪いとはならない、ただ民主主義が機能していない、そのエゴを主張するなら漁業者だけが住んでいるわけではない、その漁業者は実際はわずかな一部なのである。第一現代は地方でも第一次産業は漁業でも農業でも木材業でもこの辺でも全体の生産の一割にもみたない、そうだからこそ常に漁業だけでやっていけないとか、農業だけでやっていけないとか、跡継ぎもできないとか言われてきた。それだけの収入が得られないからそう言われてきた。その一割にも満たない、漁業組合の人達が原発では大きな利権を得ていたのである。ではあとの9割の人たちはどういう人たちなのか?
それは大方会社員であり直接漁業組合の人たちのように原発の利権にあづかることは少なかったろう。


結果的には事故になり一番打撃を受けたのは第一次産業の人たちだった。魚もとることもできない、米も作ることができない、森林も汚染されたから木材も売れないとか第一次産業が一番打撃を受けたのである。
でも現代は第一次産業主体の経済ではないからそれで致命的打撃とはならない、会社が存続すればまだ成り立つ、米とか外部から仕入れても安いからそれほど打撃を受けていないのである。六号線とか常磐線が寸断されたことが一番打撃だったのはそうした広域経済圏の中に組み入れられているからそうなったのである。

いづれにしろ本当は南相馬市は膝つきあわせてそれぞれの問題を話しあうことが大事なのかもしれない、ただそれぞれのエゴをむきだしにしても今の問題は解決しない、自分の得ばかり考えても解決しない、そういうことは自分にも言える。どうしても自分のエゴが優先される。でもお互いに話し合いないことには相手のことを見えてこないからそうもなる。
ともかくこの津波原発事故以後この辺が様々なテーマをもつ地域になった。民主主義がどうのこうのというのもそうした話し合ってこそ見えるものがあるからそうなる。それはあまりにも様々な深刻な問題をかかえる地域になったからである。

 
posted by 老鶯 at 20:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年09月04日

地方政治の堕落が原発事故にも結びついていた (議員も生業化して利権追求のみとなった)


地方政治の堕落が原発事故にも結びついていた

(議員も生業化して利権追求のみとなった)


どこの党も避けて通る現代日本が抱える3大問題B ・・・地方議員の生業化の残念さ
http://damasareruna.blog65.fc2.com/blog-entry-1073.html


※日本の地方政治が腐っている根本原因 → 「議員の家業化・生業化」
 
日本の地方政治のレベルが異常に低いのは、議員が専業化し、家業・生業となっているからに他なりません。
大して決めることもないのに(諸外国なら無報酬ボランティアでできる程度の仕事)、昼日中から、大の大人が何十人も集まって、ミミッチイ公金の使い先を考えてるだけ・・・

こんなモチベーションの上がらない仕事を生業にする人間の資質など、たかが知れているので、・・・

→ 地方議員の人的レベルは、非常に低い。 
→ ロクなことが出来ない、ロクなことをしない。
  (そもそも地方議会など大してやることないのに、専業議員なので、研修という名の観光旅行や談合で時間つぶし・・・)
→ 家業・生業化しているので、政治信条・主張などよりゼニ・カネ(生活)優先
→ 与野党もなく、利害共通 オール与党。全く牽制効きません。
→ 政・財・官も癒着、腐敗しまくり、公金ムダ使いし放題
→ 二世議員や役人出身の天下り議員が再生産され、永久機関のように悪循環!



このサイトの指摘は盲点をついていた。「住民エゴ」のキーワードからリンクして見つけた。
なぜ原発事故が起きたのか?原発が作られたのか?
その原因を追求してゆくと様々あるにしろ地方政治の問題もあった。
それがすでに地方政治が地方議員などが何の役にも立たない、政治として機能していない問題があった。
その主要な原因が実は生業化した給料も安定して年金までもらえる利権としての職業となっていたことだという。議員は昔のように土地の有力者が金持ちがボランティアとしてやるものではない、明確に職業として給料を得るためでありその給料も今では大きいから議員を目指すという人が主流となった。
一見それはプロ化していいことではないか?
ところがかえって給料が報酬が確実にもらえるから議員になりたいという人が主流になったとき、その報酬の方に目が奪われて議員に立候補する。そこに議員になる動機が不純なものとなっていた。


人間は働くというとき前にもベーシックインカムについて書いた時、そのことを指摘した。
ベーシックインカムとは働く明確な動機がないなら働かなくてもいい社会である。
それは昔、議員が名誉職として自腹をきって金持ちの人が故郷に尽くしたいという動機でしていたのとにているのだ。給料を得る必要がないのだから純粋にその動機のために仕事することになる。
だからボランティアという働き方はその動機にかなった働き方にもなる。
被災地の何らか役に立ちたいというときその動機は金を得るためではないからだ。
働くというとき本当はその動機が重要であり動機が不純だと結局、利権が自分の利益だけを追求するようになる。

地方政治が堕落して機能しなくなったというとき議員もそうだし住民エゴでもそうだったようにエゴの利益、利権だけの追求になる。政治は今や利益、利権の追求が目的であり議員も議員になれば名誉も得られる金も得られる権力がもてるとなりなる人が多数である。その原因がボランティアではなれない、それだけの経済的余裕がないからそうなっているのだ。だから民主党の鳩山由紀夫が財閥で金を出して民主党を作ったときそれはボランティアであり自分の利益を得るためではないからかえってそれが悪いものとはならない、小沢氏がいつも悪者として批判されたのは鳩山由紀夫のように政治資金をもてないからいかがわしい献金でもとらねばならないからそうなっていた。ボランティアにもいろいろ批判があるけど自分の利益を求めないのだから動機が純粋だとなる。


そして地方政治は左翼系に蹂躙されて支配されているとか言われるのも地方政治がある一部の団体の利権の場としてただ利権を利益を得る場としてのみあるようになったからそうなる。公明党でもカルトの創価がバックにあって利権追求になっている。共産党でもやはり自らの団体の利権追求の場として地方の政治を蹂躙する。もともと江戸時代は寺は役所化していて利権を一人じめしていた。僧侶が俺は宗教の専門家だというときこれも利権化していた。宗教の専門家が堕落の原因だった。京都辺りではやはり観光利権として寺があり僧侶がある。
これもすべ利権化した職業化したからそうなったのである。戒名利権もそうである。宗教自体職業化することが間違いだった。それはカトリックの歴史が語っている。
全く宗教が政治化して利権化していたからである。土地所有などでも教会が利権をにぎったとかこれは仏教の僧侶組織が利権化したために
権力掌握を目指す信長と争うことになったのである。
要するに政治は権力追求であるからしかたないにしても共産主義政権も中国では露骨に賄賂政治になったようにそれが政治だからとめようがないというのもわかる。
そうした地方政治の行き着く先はただ利益を得ればいい、利権獲得だけが問題になる。もしボランティアの金持ちなどが議員だったらそうはならない、金持ち喧嘩せずというように自らの利益を得ることではない、余裕をもって政治に参加できるし主張もできる。もちろん政治には利権利得から離れられないにしても別に議員やめても経済的に困ることはないのだから主張は通すことができる。


これはマスコミでも同じである。スポンサ-が会社でありカルト宗教団体でありそうしたものの宣伝であり宣伝機関になっているから東電のような巨大スポンサーは批判できない、新聞を出すには金はかかりすぎるし本だって流通させるとなるとそうなる。マスコミが何らフクシマの原発について批判できなかったのはよって立つ基盤の経済力がないからである。それはすべてのマスコミに言える。新聞やテレビは金がかかりすぎるから巨額の金を必要とするから大会社やカルト宗教団体や組織、団体の応援がないとできないからそうなる。
インターネットだと問題はあるにし無料でも報道できるからしているのである。そこには利益を得る給料をもらえるからということはない、かえって自ら支出してもそれも無料と同じだからみんなしているのである。
だから意外とインターネットの報道には真実をつくものがある場合がある。
今回のサイトでもそうだった。これは誰も指摘していないというときそうなのかと納得したからである。


なぜフクシマ原発が作られ事故が起きたかというとこういう政治の構造があった。すべてが漁業組合でもそうだし地方の議員でもそうだしただ利権、利益の獲得を第一として政治があることにあった。それで富岡町長の5億円の金庫が津波で流されて拾ってくることを頼まれたとかの噂になったのである。
相馬市の議員にも義援金が200万円支払われたとか市長が殴られたというかのもそうである。
議員も利権、利得追求しかないからそうなる。ボランティアの金持ちだったらそんなものいらないよと拒否できるがそれぞれが議員が生業であり家族を養わねばならないとなるとそういう利権のみに敏感になり公の目的はないがしろにされるのである。

ともかく原発の利権は莫大なものでありそこに地方政治はもう利権が利得が第一としてのみこまれしてしまったのである。住民ももちろん利益を求めるからそうなる。それに逆らうものは村八分にされてその町に住めなくなっていた。こういうすべてが利権構造と利益を求める結果として原発が作られ事故にもなった。
東電でもコストカットを第一として安全を計らなかったし政府も官僚も安全を計らなかった。東電では金がかかるから安全対策は後手後手になっていた。官僚も監督しないで東電への天下り先として見逃していた。
すべてが利権利得として追求するから必然的に大事故になったともいえる。
だからそうした人間の限りない欲に対して自然が神が怒ったのかもしれない、原子力発電は魔法のようだけどきわめて極めて危険なものだということを専門家でも知っていても知らせなかったのである。

エネルギーとは簡単に手に入るものではない、それは江戸時代からロウソクがどれだけ貴重だったとか書いてきた。明かりをともすことは相当な贅沢なことだった。それが電気の時代になったときあまりにも簡単にエネルギーが得られるので忘れてしまったのである。

家事をやっていてジャガイモはなかなか煮えない、するとIHヒーターでもガスでもかなりのエネルギーを消費するなと思った。一人分とか二人分だとジャガイモ一個二個をにるのにもったいなとかなる。現代のエネルギーの浪費は個々の家庭でエネルギーを消費するからそうなっているということにも気づいた。ジャガイモをたくさんにて大勢で食べた方がエネルギーを浪費しない、風呂でも銭湯屋があったらみんなで入るからエネルギーを浪費しない、一軒一軒になるとそのエネルギーの消費がどのくらいに拡大化したか想像がつかない、それだけエネルギーを浪費する贅沢な時代になっていた。電気は便利だからそうした経済感覚がつきにくいのである。


ともかく南相馬市などでももう市長とか議員レベルだけではもう解決できない、様々な問題が生まれた。
もともと地方政治は住民のために機能しなくなっていた。それが議員の問題でもそうであり要するにただ利権利得の追求が最優先されるだけものでありそれが原発事故に通じていたのである。

ベ-シックインカムの悪い例が原発事故周辺の市町村
(補償金で誰も働かず市町村は衰退、荒廃、消滅?)

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2013年09月06日

芸術は何からはじまったのか? (芸術は日常の生活からはじまり建築と一体化して発展した)

 

芸術は何からはじまったのか?

(芸術は日常の生活からはじまり建築と一体化して発展した)

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いけばなの始まりは室町時代中頃。床の間の原型 「押板(おしいた)」 が誕生し、そこを飾る1つとして挿花(そうか)が生まれたことが、今に続く生け花の始まりだと言われています。
 

人間は最初は食料を得ること食べることで必死だったから果たして花を見てかんどうしていたかどうかわからない、縄文土器などは実用であり花を活けることはしなかったし花の絵模様なども見かけない、芸術の起源は実用でありそれ意外になにものもない、何か実用でないものから出発しないものはない、壺でも水を入れるとか実用が第一でありそのあとに壺に装飾性が加えられた。時間が経つにつれ装飾性にこるものができるのは理解できる。


日本で生け花が生まれたのは室町時代であり京都から生まれたのもわかる。奈良時代は万葉集の時代は主に野の花を歌ったものであり日本人的原始的心性が歌われていた。つまり京都になると文化の時代になったのである。そして生け花というのはまず生け花自体だけをとりあげて存在しない、最近家の整理や自分で修理していたりしてわかったことがあった。床の間というのが家に生まれたとき付随して生け花も生まれたのである。山水画も床の間に飾るようになった。絵というのは額縁にはめて孤立してあったものではない、必ず屏風絵とか襖絵とか建築に付随して絵があった。それは外国でも同じであり教会に付随して建築を装飾するものとして絵があったし

音楽も教会音楽から出発している。日本でも仏様に花を供えるということで生け花の起源がある。
額縁に入れた絵だけ鑑賞するということはなかったのである。音楽でも教会音楽だから聖堂の中で聞いていた、祈りながら聞いていたのである。そもそも芸術というのは全体的なものであり孤立したものではない、社会組織の中で生まれたものであり生活が基本にある。俳句だって座から生まれたということがそのことを示している。交際が洗練化して文化化した。あいさつでも日本では必ず気候の変化が激しいから最初は農民でも天気のことがあいさつになる。それが洗練化して文化化して季語となり俳句という芸術に発展した。

芸術はもともと生活から遊離して生まれたものではない、そもそも専門家の芸術家など存在しなかった。
宗教のはじめでも専門の僧侶やら牧師など存在しない、みんな農民であり漁師であり職人だった。
貧乏だったからそんな芸術の専門家を養うことができないから存在しえないのである。
俳句でも豊かな町人が生まれてそれがパトロンとなり俳句の専門家が生まれたが俳句で飯など食うのは容易でないから一茶のように極端な貧乏人しかいなかった。

そもそも現代はあらゆるものが職業でもパーツ化しているけど百姓は百の仕事をもっていたというように広範囲な現場の実用的知識をもっていた。時代をさかのぼればのぼるほど専門家は少なくなり全人間的なものとして人間はあった。たから芸術も絵だけが分離してあるのではなく建築と一体化して発展してきたことでもわかる。
建築と一体化して絵も生きてくるし彫刻も活きてくる。欄間なども彫刻であり職人が芸術化してできたものである。絵を絵だけ鑑賞していることは近代に起こったことでありそれは百年も満たないくらいの歴史しかない、また絵だけを買い絵だけを鑑賞するということも近代の商業主義から起きたことである。

オランダで商業で豊かになり豊かな商人が肖像画を注文したりして写実主義が発展したことでもわかる。
商人は極めて現実を写実的にとらえるからオランダの写実的な絵画が生まれたとなる。空想的にはならないから現実的な写実的絵画となった。

フェルメールの絵で最近気づいたことがある。フェルメールの絵は家の付属品、調度品として飾るのに一番向いていたのである。ただそれを単品として鑑賞してもその絵が映えないのである。自分が古い家の一角に飾ってそれを否応なく毎日見ていてわかった。この絵では家政婦が水を汲んだり壺に入れたり極めて日常的なものとしてある。でもこれを毎日見ているとまさにこの家政婦が家と一体となりリアルに存在している。この家政婦の女性は太っている方が存在感がありにあっている。何か頼もしいという感覚になる。手伝いさんを一時雇っていたからこういう女性がいたら自分の家もいいなと思った。家政婦とか女中とか手伝いさんはオランダの商人でも豊かになった家には不可欠ものだったのである。この絵を飾っているとこの家政婦が本当に家と一体化して存在しているように見えるから不思議なのである。これを博物館とか単品で見ているとそんな感覚はあまりでてこないのだ。だから絵とか彫刻でも博物館とかで鑑賞するものではない、それはもともと寺の伽藍であり教会であれ貴族の館であれ家と一体化して飾られていたものなのである。部分化したとき貧弱なものとなりその価値は減退したのである。現代はあらゆるものが全体から分離してパーツ化しているから本来の芸術の意味が失われたのである。イタリアのルネサンスは個々の芸術家の才能ではない、ギリシャからローマからイスラムから歴史的総合的なものとしてルネサンスが起こったのである。全体の中で活かされたから壮観なものとなった。


テレビで装花として世界的活躍する人を紹介していた。それができたのも大阪という国際都市があってこそであった。なぜなら大使館などで飾り付けを頼まれたことにより世界的活躍する場所が生まれた。地方では大使館などないのだからそういう人も生まれないのである。そしてこの人がなぜ花の芸術家になえたか,花栽培している農家に生まれたということも影響している。花屋も兼業していたことも有利だったのである。
正直都会からだけ現代のような大都会から花の芸術が生まれということはありえない、花はそもそもいろいろあっても深山幽谷に咲く花にこそ花が映えるということがあるからだ。茶の湯のわび、さびの心は都会人の心ではない、でも商人が勃興して豊かになって堺の商人出身の千利休によって芸術にされた。つまり文化が生まれ素地というのはもともと田舎にあった。土を離れて大地との生活と遊離して芸術もありえないのてある。

そして田舎だけでも生まれないのだ。堺であれ京都であれ都が都市があって文化が養成される。
それも巨大都市ではない、奈良も京都も今の10万規模くらいの地方都市の規模だったのである。
そこにはまだ土の匂いがあり自然に咲く花の心も理解できるところである。
花の心は本当は都会人には理解しにくい、自然に咲く花は自然と調和したものだから森があり川があり山があり草原があり海があり湖があって映えるものだから人工物だけの大都会からは自然そのものを理解できないのである。天才が生まれるのは地方都市であり大都会から生まれないというのはそうした素地がないのだから当然そうなっているのだ。人間は生れた育った環境に影響されるからそうなる。毎日高層ビルを見上げていても自然のことはわからないから当然そうなるのである。

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チューリップの花瓶は航空で買った
なかなか外国では荷物になるからお土産買えなかった。
階段を上り二階にゆくとき必ずこの絵を見ている

これも家が広いから飾る場所でまた違ったものとなる。
家というものがそもそも活きた博物館にもなっているのだ。
生活の中で芸術が活かされてこそ芸術も活きてくる。
だから廊下の壁に飾るものは広いから大きな絵が必要になってくる
コピーの絵をはめると絵が日常の生活の中で活きてくるようになる

自分の家はすでに40年以上立っているから壁が古くなっている
それがまたにあうのである。
古い家には40年でも歴史が生れるから新しい家と違ってくるのである。
外国では古い家が残るから歴史的感性が養われるのである。

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2013年09月08日

秋の短歌10首(粛殺の秋風)

 
秋の短歌10首(粛殺の秋風)


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目覚めれば蝉の鳴くかな朝静か母なお生きむ98越えて
我が一人部屋にしあれば秋の雲徐々に移りて流れゆくかな
津波跡沼の生まれて沢瀉の咲きて眠れるトウスミトンボ
縁二つ今年は切れて秋風のさやかに吹きぬ石の黙しぬ
縁二つ切れて秋風静粛に戯言聞かず石は黙しぬ
東京は遠きにあれや我知らず石の心に我は生きなむ
沈黙の石の重さよそは知れな語るも無益秋風の吹く
一時の華やぎ過ぎし青春や新宿に死す歌手のあわれも
釘打ちの木製のバチンコ屋虚しくも費やされにし青春の時
でで虫の休むたき時休むなれまるまり一つ秋の雨ふる


 杜甫87
    北征            北征              (中]T十句)

  昊天積霜露     昊天(こうてん)  霜露(そうろ)積(つ)み
  正気有粛殺     正気(せいき)  粛殺(しゅくさつ)たる有り
  禍転亡胡歳     禍いは転ぜん  胡(こ)を亡ぼさん歳(とし)
  勢成擒胡月     勢いは成らん  胡を擒(とりこ)にせん月
  胡命其能久     胡の命(めい)  其れ能(よ)く久しからんや
  皇綱未宜絶     皇綱(こうこう)  未だ宜(よろ)しく絶ゆべからず
  憶昨狼狽初     憶う昨(さく)  狼狽(ろうばい)の初め
  事与古先別     事は古先(こせん)と別なり
  姦臣竟?醢     姦臣  竟(つい)に?醢(そかい)せられ
  同悪随蕩析     同悪  随って蕩析(とうせき)す

  ⊂訳⊃
          いまや天空に 霜や露が積み重なり
          正義の気は  ひしひしと漲っている
          蕃族を亡ぼす年は  禍を福に転じ
          蕃族を虜にする月は 形勢ととのう
          蕃族の命運はつづくはずがなく
          綱紀は断絶してはならないのだ
          思えば去年 慌ただしい事件のはじめ
          ご処置は   これまでと違っていた
          姦臣はついに処刑され
          仲間の悪人もいっしょに滅ぼされた


「正気有粛殺」自分の短歌とこれは同意である。秋風はまさに粛殺の風なのである。親戚といっても遠い親戚になるけど今年は縁を二つ切った。何か縁というのもいい縁ならばいいが悪い縁は持続できないし悪い影響を受ける。そして意外と遠い親戚でも縁を切るというのは相当な覚悟が必要だったりなかなか腐れ縁でも切れない、縁を切ることは一大事になることがある。だから結婚すると深い縁になるからなかなか切れない、そしてストカーで殺人まで起きる。殺されるか殺すかそこまで縁を切ることは覚悟が必要になってくる。縁切り寺があるのもわかる。いくら言っても道理もなにもわからない人がこの世には多い、そういう人にいくら語っても無益である。語らない方がかえって真実を示すことになる。結局何か人に教える諭すということが徒労なのである。その道が間違っていても人は聞かない、カルマでも自分で悟ることができないからだ。自分がどう行動したらいいのかわからない、そしてカルマを積み重ねてゆく、またカルマを脱することは相当なエネルギーが必要であり人は楽な方に傾き安い、だからいくら諭しても悪い方でも我が道をゆくとなる。


なんか離婚騒動があり巻き込まれた。裁判になるとかいかに縁を切るということが困難なのか?
意外と縁結ぶのは安易である。恋愛関係に陥るのもそうである。人間は縁を結ぶときはその重大さに気づいていないのだろう。しかし一旦縁を結ぶと腐れ縁であれ何であれ簡単には切れないのである。因縁を断つというのは相当な覚悟が必要になる。縁を切られない限り延々とまとわりつきゆすられ
る。そのために殺人まで起きるのはストカー事件などで起きている。逃げても逃げられないという恐怖であるまさに因縁をつけられて角田のような恐いことになる。あれは親戚関係から因縁をつけられてあれほどの犯罪になった恐怖である。親戚関係というのも恐いものなのである。
まともな親戚も少ないし金がからんでくると恐い、いくら理不尽でも相手はかまわない、なんとか金をとろうとするから殺人までになるのだ。まあ、今回は遠いから縁を切れやすかった。遠いということはすでに縁が何であれ遠のいているのだ。年とったら遠くの親戚より近くの他人でありもう親子でも遠くはあてにならないのである。


秋風は粛殺の風である。最近は雨ばかりふっているから秋雨になっている。
小さなでんでん虫が一つまるまり動かない、秋の雨がしとしとふっている。でんでん虫のように休みたいときには休みたい、自分はそういう生活をしてきた。二日くらいどういうわけか眠りつづけた。時々疲れるのか眠りつづけるのが自分である。自分はずっとそういう生活をしてきた。だから体が弱くてもこれまで生きてこられたのか?会社が過酷だったら過労死になっていた。
そういうふうに恵まれたのはどういうわけか家族の一人がそれを許したことによるのだ。
ただ六年間はその自由な生活のツケが回り塗炭の苦しみを受け続けてきた。
これも自分のカルマだった。そんなに恵まれたままには終わらなかったのである。
人間は必ずカルマを負わされ返還を要求される。母を介護しているのもそうである。
これもカルマの返還を要求されてそうなっているのだ。
ただ六年の苦難をすぎて何か楽になりつつある、運命が転換しつつあるのかもしれない、そんなに悪いことは人間はつづかないみたいだ。悪いことばかりつづいてら生きるのも嫌になるだろう。

運がどこで転じてくるか人間はわからないのだ。運命の転換は必ずしも一人ではできない、思わぬ人との出会いとか何か新たな縁が生まれて運が転換することがある。
その前に悪い縁を切ることが新たな運を作ることになるのだ。その悪い縁を切ることが一大事なのである。
 原発事故周辺の変転はすさまじい。それぞれの運命がどうなってしまうのかと思う。

バソコンを新しいのを買った。自分の場合どういうわけか富士通をずっと買い続けてきた。
親指シフトで文章を書いていたからそうなったともいえる。ローマ字だと遅くなるし疲れるからパソコンが嫌になっていただろう。文章をスムーズに書けないとパソコンでも使えないのだ。
windows8はやはり今日セットアップしたばかりだか使い安い、インタ-ネットも前よりずっと見やすく音もいいので英語のニュースを英語で聞いていると音になれるみたいだ。
画面をきれいでワイドだから見やすいのである。
技術は日新月歩だからいつまでも古いのこだわると損する。金をけちっても損する。
なぜならもう老人は金より時間か大事だからである。金をけちっていたら貴重な時間が消失してゆくからだ。パソコンもすでに13年とかたっている。
それでもパソコンはわからないのが多いのである。それだ多機能になってしまった。
通信の面ではまた格段と進歩している。でも自分は今はほとんど遠くに外出しないできないからスマホなど必要ないのだ。動画までパソコンに送り即座にプログなどでアップできるにしても自分は外出しないから必要ないのである。今は家の整理に毎日追われていた。物の整理だけではない、人も整理した。そして整理の仕事は延々と終わらないのである。これまでの情報の整理もあるから整理しきれないのである。

 
 

2013年09月09日

秋の俳句十句(秋雨から秋が早足に・・・)

 

秋の俳句十句(秋雨から秋が早足に・・・)

ひまわりの一日十分に光浴ぶ

介護して遠くに出られじ秋の蝉
墓あれや上栃窪に秋の蝉
金毘羅の碑も淋しきや秋の風
秋日さしここに落ち着く岩二つ
古き碑に秋風しみぬ我が老いぬ
隣り合う仮設にあわれ秋の風
三年目仮設住まいや秋の風
虫の音や隣り合いつつ三年目
パソコンにもの書く我や秋の風


我が家に夏の名残や蝉一つ思い切りなき耳にひびきぬ
我が作る味噌汁をだしあたたかき母の介護や秋となるかな
飯館の石に座りて我が一人聞き入りてあり秋の蝉の声

飯館の道行く人のまれにして石によりつつ竜胆の咲く


今日は久し振りで晴れた。何かかなり秋が早足に来ているようだ。


秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる


これは8月8日ころの立秋の時でありもうそれから一か月過ぎているから今の時期でない、もう明らかに秋風である。
まだ夏の蝉らしいのがないていた。今頃になりひまわりが咲きだした。ひまわりを放射能の影響で一杯植えているから今年も一部咲きだしたが一面に咲く光景は見ない、枯れてしまったのが多いのかもしれない、ただこれから咲き始めるのか?となると季節外れである。ひまわりは十分に光を受ける必要がある。それでこそひまわりの本分を発揮するのだが夏がすぎて秋になってしまった。


今日は遠くの方でかすかに一匹くらいしんみりと鳴くのが聞こえる。ここ半年は相馬市と原町は用事で行って行っていたけど今年は本当に遠くに行っていない、家事が結構な仕事なのである。食事の用意、洗物、掃除、買い物がありゴミの始末も一仕事なのである。介護もありおにぎり一つ作るのも手間になる。

何か飯館あたりに自転車で行くのも億劫になった。上栃窪というと奥でありそこに金毘羅の碑が固まってある、あれはいつでもみていた。栃窪には古い碑が多いのだ。あれは金毘羅参りした旅の記念である。
自分もも相当旅したから旅を思い出しふりかえるのが思い出すのが今や旅することになった。ただ今やそれも遠くなり今はまた秋風が身に染みる。


野ざらしを心に風のしむ身かな 芭蕉


秋風にしても場所により年により感じ方が違ってくる、心境の変化は常にあり年だけではない病気や苦難があったりするとまた変わるのだ。この六年間の自分の苦難は心境を変えた。津波原発事故でもこの辺はみんなそうである。
もう仮設住宅にしても三年目なのである。秋風がそれなりに身に染みる。
仮設は長屋なのであるただ贅沢している長屋である。補償金は大きいからだ。
しかしこの辺はあと十年くらいすると秋風が本当にしみるようになる。

補償金も三年で打ち切りとなるとかになり産業も育たつ工事関係者も去ってしまうと急激に寂れてしまうかもしれない、病院の看護婦長が募集しても看護師は来ない、帰ってくるのは病人であり介護される方でありそういう老人ばかり増えてくるのだ。あと十年たったらこの辺では老人はふえても介護する人もいなくなるかもしれない、そういう恐怖がこの辺にはある。補償金をいくたもらってもこの辺はもう豊かになること栄えることはないように見える。補償金はバブルに過ぎないのである。

この辺からは有益な働き手が去ってゆき夕張のような限界集落のようになるかもしれない、ただ鹿島区は人口がふえて家が次々に建っている。最近は復興住宅が増えている。町内に人口が集中してきたのである。
 
 


 

2013年09月10日

廃村になり人が住まなくなるとどうなる (原発事故で人が住めなくなった町村ーそこは幽鬼の住まいとなるのか?)


廃村になり人が住まなくなるとどうなる

(原発事故で人が住めなくなった町村ーそこは幽鬼の住まいとなるのか?)

村一つ消えにけるかな廃屋に祖母の写真や何を語らむ


祖母ありてこの家の歴史幾代や人は消えにし秋風の吹く


●廃屋に残された一枚のおばあちゃんの写真


 2009年2〜7月の大規模地滑りで、最終的に7戸32人が移転し廃村状態になった鶴岡市大網の
七五三(しめ)掛(かけ)集落でこの春、「再生の桜」が初めて咲いた。集落の中心部にあった渡部大吉さんの
所有地に今もある樹齢50年ほどのしだれ桜「大吉桜(通称)」の苗木だ。
豪雪と酷寒の冬を乗り切って咲いた再生の桜は集落に住んだ人たちの希望になっている。【佐藤伸】


廃村に残されたおばあちゃんの写真
http://fesoku.net/archives/6595298.html


どこの家でもその家の祖母とか祖父でも死んだ人の写真が飾ってある。自分の家にも50年前に死んだから余りにも遠くなってしまった。それでも写真が飾ってあり人が住んでいればその人は生きているのだ。最近はつくづくと父の写真とかを見ている。早く死んだので自分がまだ中学二年くらいだったので思い残すことがかなりあったみたいだった。「上の学校にあげてくれ」というのが遺言だったみたいだ。酒屋の丁稚奉公で苦労したから上の学校へ行けばいい暮らしができると思ったからそういったのかもしれない、明治生まれの人でその出自は葛尾(かつろう)村であり双葉の新山の酒屋で丁稚として働いていた。通帳を書いていたから字は書けていた。どうもまともに尋常小学校も出ていなかったのかもしれない、どうして筆で字を書けたのか不思議である。葛尾(かつろう)村のような所ではそもそも学校などその頃なかったろう。自分の父の印象としてはよく筆で字を書いていたということである。だから将棋盤や他のものにも自分の名前を筆で書いていた。


酒屋の通い帳も残っていてその字が残っている。明治生まれでは字を書けない人がまだいたのだ。その人は人に書いてもらっていたのでそのことで気を使っていた。江戸時代になるとさらに字を書けない人、読めない人はいたのである。日本人は幕末でも字を読み書ける人が多かったと外人が驚いてもそうでない人もそれなりにいた。その割合はわからないにしても遊女でも客の誘いの代筆してもらったりとかそういうことがあったから農村出となるとそういう人はいた。字をどこで習ったのか、葛尾(かつろう)村に寺子屋のようなものがあったのだろうか?寺子屋は古くからあった。鹿島区の町中の鹿島神社の脇の墓地はもともと神社であり次に寺になりそこが寺子屋の役割もしていた。そこに天保という字が刻まれてあり気づいていない、その碑の文字には暗誦するようにと書いてあるみたいだ。その頃の学習は暗誦することだったのである。今でも若いときは暗誦すること暗記が主になるから今とにている。


●時間軸で積み重ねられた歴史の消失


なぜこの廃村の廃屋の一枚の写真が印象に残ったかというとそこにはまだ生きた時の人間のぬくもりを感じた。これは写真のよう地も見えない、絵なのだろうか?何か人間的なあたたかみを感じる。
写真は何か冷たいものを感じるからだ。祖父とか祖母はその家の重みをになっている場合がある。
それが今は大家族でないからそうした縦のつながりが薄れてしまう。祖父とか祖母は今の家族ではかえってそれぞれ別に暮らしているのが多い。家族形態や住居形態が変わってしまったからだ。
これも封建的だとか批判されるがそもそも人間の歴史をふりかえれば近代化の百年はかえって異常なことが多い。異常を異常と気づかないのである。人類始まって以来からある習慣やモラルを伝統を否定することがどうなるのか真剣に考える人はいないだろう。でもそんなことを考えないにしても結果として事実として社会を変えてしまう人間を変えてしまうから恐いのである。民主主義なども全く利己主義であり何でも自分のためにだけ自分の欲望を前面解放して追求することになった。
民主主義が実はピュ-リタニズムから宗教から発していたという考察もあり資本主義も宗教から修道院から発していた。全く違ったものとして解釈してモラルの荒廃が起きたのである。

ここで考察するのは限界集落とか廃村とか廃屋が全国的に増えている。東京のような都会のなかでも廃屋が増えている。少子高齢化は深刻な問題なのである。村が維持できなくなる、村が消えるということが何を意味しているのか?それがまだよくわかっていないのだ。人間のいなくなった村が何なのか?それが今や現実問題として過疎化の限界集落で現実化しつつある。村の歴史でも鉱山とかのためにできた村は歴史が短いから鉱山がなくなるとともに消えるのもわかる。炭坑の村などもそうである。でも何か災害などで消えた村は違っている。そこには江戸時代からの歴史もあるかもしれないし一般的に日本の村の歴史は長い、そういう長い歴史をももつ村が消えることはその長い間で代々住んで来た歴史も消失する。東京の人たちはそんな限界集落は税金の負担だけだから消えた方がいいとか原発事故の周辺は住めないのだからもうあきらめて補償金もらって他に住めばいいとか簡単に言うがそういうものなのだろうか?人間は一代で考えればそうなる。ところが時間軸で考えるとき歴史になりそれは国の歴史でなくても家や家族は歴史である。家は歴史が必ずあり歴史に興味を覚えるのはその家の系譜であり先祖をたどることなのである。だから代々つづく家からは歴史家が出やすいかもしれない、自分の家は葛尾(かつろう)村の柏原から出たということが原戸籍簿を調べてわかった。名前も嘉永生まれの人で清吉とのっている。江戸時代までさかのぼれたのである。普通由緒ある家でなくても江戸時代まではさかのぼれるのである。


●人間は一代では作れない


家系の因縁のことも書いたが人間はそもそも一代では作れない、代々積み重ねて人間や地域も作られてきたのである。その家系にどうしてそれなりの人物が出たかをたどれば家系をみるとそういう人物が出たことがたどれる。家系的に良い家は何か良くなるように努力を積み重ねた家のなのである。
悪い家はどうしてもその家系に放蕩したものとか犯罪者とか交じり家系が乱れているからかもしれない、女性についても不埒なものがいたからかもしれない、これは数式のようには解明できないにしろ良い家系と悪い家系があり良縁とは良い家系につくことなのである。その人物だけではなかなか判定できないものがある。女性は特にその家の影響を強く受けるかもしれないからだ。

家族は横の関係でも兄弟姉妹がいて一つの社会である。一人っ子はそうでないから何か性格的に社会性が作られない、自分などがそうである。その横の関係もあるがなかなか理解しにくいのが時間軸の縦の関係なのである。両親から祖父母からその先祖のことはわかりにくいのである。これはかえって60代以降になると意識するようになる。意識せざるをえなくなる。なぜなら両親も祖父母もはんな死んで墓参りするだけに名てしまうから死んだ人のことを考えるようになるからだ。そうすると死んだ人が自分にどういう働きをしたのか考えるのである。

結局廃村や廃屋化するとこうした家の歴史も理解しにくくなる。古い家はその土地とともに作られてきたからである。一つの家がなくなる廃屋化するのと村全体が廃墟化する消失するのとことはまた相当に違っている。一つの家が消失しても村が残っていればそれほど深刻ではなかった。村全体が消失すればその影響は計り知れない、一つの家も全体の中に村という全体の中にあって存在しえたからである。その村自体が消失したらすべてが喪失する。時間軸で何百年と積み重ねた歴史が消失する。

歴史で積み重ねで作られてきたものが消失することはまた新しい土地で一代からはじめることはやりなおすことは容易ではない、何十代とつづいた農家などは余計にそうなる。野馬追いなどはそうした歴史を伝える祭りである。村が失われたらそういうものもなくなってしまう。するとそこに住むアイディンティティもなくなってしまう。人間が生きるということは時間軸で縦の関係で培われてきたのである。代々伝えられるものがありそれを継承することが生きることでもあった。それがなくなるときどうなるのか?現代のモラルの荒廃はそうした伝えられべきものが消失したということにもあった。新しいモラルが民主主義がモラルだというときそれもただ別の解釈になり個々人の自由な欲望の追求になったように新しいものはモラルは簡単に作れないことを実証しているのだ。


●廃墟のなかを幽鬼が彷徨う


短歌でも書いたけど一つの古い碑が道端にあるとするとそれに秋風が吹いて自分も老いたというときその碑と一体化している。ということはその場にある長い時間あるものと一体化する。それは人間が住んでいればこそなのである。人間が住まなくなったらその碑も見捨てられ誰もかえりみないし放置される。ただの石くれになってしまう。意味のないものとされてしまうのである。そういうものを博物館に飾っても活きてこないのである。その土地と一体化して長い間存在してきたからである。

村が消失したときそうしたものが見捨てられどうなるのか?幽鬼が彷徨う異様な光景となる。それは無数にある廃墟の写真をみればわかる。人がいなくなった村がいかに異様なものか?そこにはやはり人の匂いがまだあり人は離れがたくあり幽鬼となり彷徨っているのだ。地蔵であれ社であれ古い碑であれ人に見捨てられたことで幽鬼化しているようである。誰もお参りしない社や御堂や地蔵は逆に人間への呪いと化すのかもしれない、人間が住んでこそそうした歴史的に残されたものも生き続ける。廃屋に残された祖母の笑っている写真がそうであった。その写真一枚でもまだそこには人のぬくもりがあり人が住んでいた往事を偲んでいるのだ。

なぜこんなことを書いたかと言うと津波や原発事故で村が消失したり住めなくなったりもう町自体が消失する住めないということが何を意味しているのか考えざるをえなくなっんたからでてある。

山形の村のように十軒くらいではない浪江町のよう2万とかの町が消失することは何を意味しているのか?これだけ大規模に町自体が消失することは過去にあったのか?災害で草戸千軒とか流されてなくなったらしいが津波ではそういうことが起きた。でも原発事故の避難の規模は大きいのである。
2万くらいの町が消失したらどうなるのか?そんなことがありえるのか?そうした疑問が次々に出てくるのがこの辺のなのである。

桜は人がいなくなっても咲く、花も咲く、樹々も芽吹く自然は廃墟の中でも生きてゆく、それは上萱でも人が住まなくなっても桜は咲いていた。その桜は人となじんだ桜だから自然の桜と違っていたのである。山桜ならいいが染井吉野だから人間の手で植えられたものだから
人間が住まないとその花も映えない、それはペット化した犬や猫と同じである。それも人間化した動物だから野生の動物とは違っているからそうなる。一旦人間の情を感じた野生の動物は人間化したものだから違っている。
だから野良猫になるとあわれだとなるのである。花見もしない染井吉野桜は何か淋しいのである。
それは栃窪の廃村となった上萱の桜に感じたのである。

 
 
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2013年09月12日

なぜ原発事故は起きたか? (企業社会に対抗できるものはいなかった)


なぜ原発事故は起きたか?

(企業社会に対抗できるものはいなかった)

●会社が国も地方も支配して原発事故が起きた


原発事故の原因は一つにはならない、様々な要因がありその解明は技術的問題もあったが現代の社会的問題でもあった。今の社会の仕組みの問題が根底にあった。現代とは会社社会であり会社や企業中心の社会である。
東電は巨大化してすでに国家の中の国家になっていた。現代のテクノクラートであり支配層は企業であり官僚でも政治でもない、保安員というのがいかに無力だったか事故で証明された。東電を監視するものではなく単なる東電の飾りであり何の力も持っていなかった。保安員の院長の西山とかいう人は法学部出であり技術的なものは知らない、だから何も監視も助言もできない、官僚はそううい人たちでありこれは原発だけではない、ディバインでも薬会社の社員がデーターを大学の研究所に入って改竄していたように官僚は医療関係でも監視できない、なぜなら会社の方が現実社会に効力を発する実践している。官僚よりも当然技術力も格段に上でありとてもたちうちできない、要するに原子力発電のようなことは何もわからなかったのである。とても法学部では監視できない、ただ東電から天下り先として東電の言いなりになっていただけである。東電が重大な安全上の問題があってもそもそも見逃すというよりわからないのである。何が問題かも指摘もできないのである。

企業が国の官僚より強力であり実際は技術力もあり仕事できる。官僚はただ予算を組んで適当に配分するだけであり企業の言いなりになっている。ただ自分たちの利権利益の天下り先を確保するのが仕事だとなってしまう。その最大の要因が官僚にはそれだけの知識力も経験も技術力も何もないからである。
そういう実際の仕事の蓄積は企業が積み重ねているからとてもたちうちできない、ただ金を出す予算を組む力が官僚にはある。その金も無駄に費やされるのが多いのは官僚には民間のような実際の現場で培う知識も技術力もノウハウも何もないからである。法律の知識だけではとても対応できないからである。


ただ今になると土木工事でなぜ最初は高くしていたのにわざわざ低くしたのか?→危険


緊急時の電源を地下に置いたのか?→危険


この二つは知識がなくても官僚でもわかったかもしれない、ただそれも事故のあとでそれが明確になったのであり事故の前は官僚は適当であり安全が何かも官僚はわからないから東電の言うなりになっていた。土木工事関係者も東電の発注で工事したとなると清水社長がコストカッタ-として知られて社長になったのだからその意向に従ったとなるのか?わざわざ低くしたのこれは相当な危険なことであり責任問題だった。
地下に緊急時の電源を置いたのも津波対策を全くしていない危険なものだった。

現代の社会とは企業(会社)>官僚>政治家の力関係にあるのだ。政治家は官僚より力がないのはこれまた官僚は会社と企業と同じく予算を組む専門家であり選挙の度に変わらず仕事しているから専門家だからとても選挙で一時的に当選しても官僚にはかなわないとなる。政治が機能しないのはそもそも現代社会は会社社会であり東電が国家の中の国家でありそれを制御するものはないのである。除染もゼネコンのように利権化して官僚の天下り先となるのか?二本松では地元の工事関係者で元請けとして地元のために国の予算を地元の会社に回してやっている。ゼネコンになるとその利益は大半もっていかれるからである。官僚はそういうことは面白くないかもしれない、なぜなら自分たちの利権と権限がそこなわれるからである。


そもそも歴史でも侍が力を持ったことは理解できる。現実社会で武力で実効性があるから支配者になった。武力のない官僚はその時支配者にはなれないのだ。江戸時代になると平和になり官僚化してきた。そして明治維新になるとこの時も侍が武力が前面に出てきた。武力でないと解決できないからだ。それで武士の出の人が力をもつようになっていた。警察官になったのは侍出身者が多いことでもわかる。軍隊関係もそうである。その時まだ侍がいたから指導力があったからのちの軍部とは違っていたという。侍というのが日本から喪失して多分に軍部でも官僚的になっていたのである。だから強力な指導者が喪失してただ犠牲だけ強いられる無駄な戦争にもなっいいった。


●グローバル経済という怪物


会社とか企業とかが国家になるとき社会はどうなるのか?トヨタでも自動車が売れることが国家の目的になる。社会はトヨタの企業下に組み入れられ全国が部品工場と化してゆく、つまり自動車が売れなければ国家の命運も終わりだともなる。飯の食い上げだなりトヨタの会社の意向が何より優先される。例えそれが原発のように他の会社のように公害をもたらしても会社の意向が優先されるのだ。つまり現代は国家の一員というよりはみんな会社の一員なのである。会社は給料を与えるし日々仕事する場だから人生をそこで日々生きる場所だから会社に命まで捧げるともなり会社からリストラされたらアイディティティを失って自殺したドラマがあった。
まさに会社が人生だからそうなってしまっている。高度成長時代は企業戦士と言われたのもそのためである。
誰も太平洋戦争の時のように国家の戦士とはならない、国家への意識は希薄化しているのだ。

みんな会社に所属して所属意識は会社にある。江戸時代のように封建時代のように土地に所属して藩に城に所属するという感覚はない、会社が現実の所属する仕事する場所なのである。だから仕事は土着的であるべきといっても郷土愛も希薄となり今回の原発事故のように避難を強いられて町も村も解体されてゆくのかもしれない、戦前だったらまだ第一次産業が八割とか郷土に根付いて仕事していた。養蚕にしても兜作りの立派な家がまだ残っているように地元中心に生産活動が全国で行われていたのである。奇妙なことは東京などで失業しても田舎の実家に帰ると一応田畠があり食うことかできた。そういう避難所としても田舎は実家は機能していた。
今はそんなことはない、東京で失業したからと田舎に帰る人はいない、田舎では食うことさえできなくなっている。そういう社会の変化の中で原発事故は起きたのである。


会社は・・・莫大な財源と多様な利害と優秀な専門家を武器に今では堂々と政治的支配を目標にかかげるようになった。民主主義が崩壊するのはまさにこの新し現実のためである。会社が目指すのは利潤の最大化であり社会全体の利益ではないからだ。会社を動かすのは少数幹部の意見であり社会全体の意見は反映されない
ウィリアム、グライダー(グローバル経済という怪物-デビットコーテン著の引用)

東電の幹部はこういう人たちだったのか?7決して責任はとらないし会社を支配しているのだから今でもこういうことができる。


 清水正孝社長  (現在、家族と共に海外在住)
  →関連会社・富士石油の社外取締役に天下り
・ 武井優副社長  (現在、家族と共に海外在住)
  →関連会社・アラビア石油の社外監査役に天下り
・ 宮本史昭常務  (現在、家族と共に海外在住)
  →関連会社・日本フィールドエンジニアリングの社長に天下り
・ 木村滋取締役  (現在、家族と共に海外在住)
  →関連会社・電気事業連合会の副会長に再任
・ 藤原万喜夫監査役  (現在、家族と共に海外在住)
  →関連会社・関電工の社外監査役に再任


現代はグロバ―ル化しているからこいうことができる。日本国の制限を受けないのだ。これだけの会社だからまさに日本国より会社に属しているのだ。国が守っているのではない以前としてこ会社が守ってくれているのだ。これは国籍が会社にもなっているのだ。会社が治外法権化して守っているともなる。なぜ国でも糾弾しないのか?


あなたのような会社に興味をもっていただけるように・・・・私たちは山をならしジャングルをきりひらき沼を埋立て水路を動かし町を移動させました。あなたの会社が操業しやすくするためです
(フオーチューン誌に載せられたフィリッピン政府の広告)


まさにこの辺では 町を移動させました 町自体が住民が移動させられたのである。
ヨーロッパの貴族は村を移動させて自分用の土地として使った。広大な庭園を作るためだった。この権力が一番大きい権力かもしれない。容易に人は長年住んでいた所は動かないからである。


それとは対照的に地域に根付いた自給経済にもとずくシステムは政治部経済文化への参加を通じて民衆が自分たちの希望や歴史文化を、生態系を尊重しながらそれぞれの未来に向かってゆくことができる。


ここで生態系ということに重点を置いていることに注意する必要がある。現代の文明は生態系から離れている社会である。一千万人の東京は生態系などと関係していない、そういう意識もない、田舎だとどうしても生態系を感じぜずには生きられないのだ。田んぼでも畑でもそれは生態系の一部としてあった。戦前から戦後十年くらいまでは貧乏でもその土地の生態系の発展として利用として地域の経済は成り立っていた。生態系というとき精神的にも生態系より人間の心も形成される。このことは無視されているが自分は石や樹や花を詩にしたときそれは生態系に依存して書いている。石が岩が示すのは人間の精神でもある。人間の精神を象徴化したものとして石があり岩がある。人間の精神も生態系から作られてゆくのだ。東京のようなところではもう生態系がないのだからその精神はどこから作られのか?巨大グローバル会社の利益優先から精神が作られてゆく・・・そこに世界的な歪みと心の荒廃が起きてくるのだ。


●会社中心の社会で失われたモラル


そもそも国家とは何かというとそれも明確ではなくなっている。心の青雲ではしきりに官僚を批判しているのもわかる。なぜなら会社に勤めていたから官僚の理不尽を直接感じたからである。だからそれはすでに感情的になっている。官僚にいじめられたからその恨みが深くなっている。それで日本が優れた国として愛国心を高揚させる。それはやはり会社企業社会の利益優先の目的ではない、国家としての歴史に培われた日本への所属をこむすることになる。それは利益優先社会の会社とは違う、国への誇り忠誠心ともなるのか?そういう愛国心は現代では現実問題として希薄化している。それだけ大局的に長い時間の歴史的にも見れない時代である。
ただ目先の利益や利権のみに追われる。官僚も国を背負っているというような気概はなくなった。
明治の侍のようなエリートではない、サラリーマンになったということである。受験戦争を勝ち抜き東大を出て利権にありつくことが目的であり日本国家がどうのこうのなどなくなっていた。だから当然官僚になれば天下り先が一番大事になる。もちろん自ら犠牲になるようなことはありえない。損することはしない。
現代はかつてのエリートは存在しない、官僚でも政治家でも教育者でもみんなそうである。
ただ利益を得るものが金を多く得るものが偉いのでありみんなそのために働き生きている


これはどこでも同じである。カルト宗教団体でも創価でも共産党でも実質は同じである。権力を得て利権を得ることが目的で活動している。政治家になれば権力が得られる、やがては社会の支配的階級になる。共産党一党独裁になれば中国のように巨額の利権を得られと活動している。仏教も共産主義もにたようなものなのである。
仏教民主主義とか仏教社会主義とか勝手に言葉など作れる。内容などなくてもいいのである。実質は権力を手中にすることなのである。でも現代社会の実質の権力は会社が握っている。現代では病院でもそうであり医者が実質の支配者であり宗教は実際の力をもちえないのである。宗教が政治化するとき実効力をもちたいから政治に進出する。いくら拝んでもいても何の効力もなければいづれは離れてゆくからである。それは上から下からみんなそうであり原発事故も金がばらまかれて今避難している双葉町や大熊町でも数千万もらったとかは今の補償金を考えたらそれも嘘ではない、誇張でもない、それだけの金が入るのが原発だったからこそ率先して誘致したのである。


結局資本主義も最初は修道院からはじまった宗教的なものから発していたから利益だけを追求するものではなかった。共産主義でもそれなりの理想はあった。仏教にもそれなりの理想はあった。民主主義すら宗教的なものから発していたというのもそうである。ピューリタニズムが発祥だという。理想主義があってもそれが堕落するのは結局人間の欲がそうしたイデオロギーを曲げてしまうのである。馬は目の前にぶら下げられたにんじんしかみえなくなっている。人間も同じである目の前にぶら下げられた金しかみえなくなる。今はみんな補償金だけになっているのと同じである。それは自分にもあるし否定できない、そもそも宗教は金で得られないもの権力で得られないものを目指していたのだから本末転倒の世界になっているのだ。宗教も権力化したきヨーロッバでも日本でも堕落した。権力の魅力の方が大きいからもともと天使だったものがサタンにも変貌したのである。それがこの世の有り様でありそういうことは変わらなかったのである。

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2013年09月13日

windows 8は使いやすい (あらゆる整理が自分の仕事になった)

 

windows 8は使いやすい

(あらゆる整理が自分の仕事になった)

windows 8は使いやすい、今回も富士通のパソコンだった。ブルーレイもできるしテレビ機能も優れている。これはまさにマクチメディアに対応した。
ニュースも横にスクロールできるので便利である。ワイドだから一覧しやすい。
ビスタだったがこれもさほど変わらないものだった。
バソコンは今や脳と直結しているからバソコンを通じて脳を働かせるから使い安いことが大事である。

自分の場合はワープロの時代から親指シフトを使っていたことがバソコンに親しむ結果となった。
まず文章がすらすら打てないと嫌になるからだ。やはりパソコンでも文章が基本なのである。

もう一つがどうしてもたまりすぎた情報を自分を含め本なども整理することが仕事になっている。まず整理というのはあらゆるものの整理がここ3年間くらいそうだった。
津波や原発事故以後の二年間くらいは家のかたづけもできなかった。
今失敗したのは貯金を定期預金にしておけば一年間でそさなりの利子がついていた。
これもただ忙しくて考える暇もなく放置していた。
家事でも介護から何からやると一人だと時間に追われている。

その中でプログを毎日書けたのはこれだけ便利だから3時間ほどあればアップできるからである。実際は書く内容があるから5時間くらいはかかるだろう。


整理というとき人間関係の親戚関係の整理も一仕事になった。還暦すぎると一生の整理が仕事になるのだ。これまでしたことのいろいろなものの整理なのである。
まず本の整理は一番むずかしい、自炊して本を捨てるにもこれもめんどうである。
本は何か整理しにくいのである。長い文章だからそうなる。
でも本というのは一部分を記憶して利用することが多々ある
ただその一部分は本全体と関連しているから捨てるわけにもいかず残される。
何でも着るものでも捨てることはむずかしい、また利用するのじゃないかと思うからである。

知的作業は本と密接にかかわっていた。知識人は本を持っている人だった。本に蓄積している知識は天文学的でありインタ-ネットはここ十年の歴史しかないのだからまだまだ本の知識を頼る。本はすでに2000年とかの歴史があるからだ。


脳というのは整理されていないとうまく働かない、自分が知識だけに集中していたときは良かった。今度は台所仕事もするとなるとこれも冷蔵庫などが整理されていないとうまくいかない、台所仕事は意外と整理が問題になるのだ。自分なりに整理しておくと使いやすい。だから他人が台所に入ると整理したものがまた別な所に置かれたり使いにくくなるのだ。

結局自分のやることが一人であり多くなりすぎたのである。知識も整理でありwindows8は知識が整理しやすいみたいだ。これが親指シフトを使えたから助かった。
クラウドなどもあるからさらに整理しやすいのかもしれない、パソコン上の記録は一瞬にして消えるがレンタルサ-バ-とかに記録しておくとかえって消えにくいのである。
専門の人が管理しているからだ。安全策もとっているからだ。

ただレンタルサーバーのさくらが一回プログの記録が消えたときはショックだったが回復したのである。バックアップしているから回復できたのである。プロの方が安全なのである。さくらは月額百円とか安い、メールは設定しにくいからレンタルサーバーのメールボックスを利用すると安全でありわかりやすい、ここなら確実に送受信できるのである。

バソコンが不具合になるとメールも使いなくなる。メールが意外とめんどうだった。
バソコンは今や自分のバソコンだけではうまく使えない、だからレンタルサ-バ-とかクラウドとか外部と連結することが必要になった。でもクラウドって何なのだということもわかりにくい、勝手に自分の顔の写真がクラウドにのっていた。これも設定していないのにわからないことだった。パソコンについているカメラでとったものがクラウドに自動で送信されていたのだろう。バソコンはいろいろな不思議がある。
遠隔操作でプロバイダーを移ったのも不思議だった。
バソコンはなかなか秘密を保つことがむずかしい、もう自分の情報がつつぬけになってしまう。どこかにつながり一括収拾されてアメリカのグ-グルなどが分析している。
メールだって一旦メールボックスに入るのだから他人にも見られるのである。
どうしても秘密がたもてないのがインタ-ネットなのである。


今度は整理のためにこれも富士通のSV600という最新式のスキャナーを買おうかと思っている。これはただ置くだけで上からスキャンしてくれる。これも整理には役立つと思った。ただ厚い本はできないので困った。結構厚い本があるからだ。ただ厚い本になると全部は読めないしただ飾ってあるのが多い、古典全集などがそうだった。それで全集とかは捨てた。どうせ読まないからだ。本にはただ飾ってあるものが多いが捨てられないのである。時々読み返してみると新たに発見するものが本にはあるのだ。

ともかく新しいバソコンも慣れるのに時間がかかる。ただwindows 8は二三日でも使って使いやすい、整理しやすいようだ。文章でも写真でも整理しやすいようになっているので買って良かったと思う。アプリを簡単に消せるのもいい、バソコンはいろんなものがたまりすぎるのである。


自分はこれまでしたことを整理することが大仕事である。旅したことも思い出して創作して整理しているのだ。旅でもどこまで記憶を蘇らせることができるからである。
なぜなら旅しても記憶がよみがえらないとものは書けないからである。
鉄道でも外国でも日本でもテレビで報道しても何かつまらない、必ず料理がでてくるがこれも面白くない。おそらく細部が放送されず専門的になっていないからだろう。

旅はやはり内面化して自分なりに消化したものになれば一つの創作となる。
芭蕉は見事に消化した。内面化して奥の細道が後世に残ったのである。
誰だって旅ができる時代だけど何かテレビでも何でもその報告が平凡なのはそれぞれの個性で内面化していないからである。内面化は深くコンタクトしないと印象深い旅をしないとできない。芭蕉は歩いた旅だったからあとから思い出すことができたのである。

 

秋の川べり(秋もそろそろ深まってゆく...)


秋の川べり(秋もそろそろ深まってゆく...)

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大東建宅はこの様式に統一されている
外面は違っても形はみな同じなのである。
統一されているから型にはまっているから
全国で組み立てるように建てられる

 


里の川波紋静かに秋の鴨
押し車座りし老婦月見草
夕月の雲に陰りて月見草
誰か来る今年も駅に秋薔薇
秋の灯の新居にともり誰か住む

秋なれや一日一日のものの声

この辺の変化は激しかった。だから鴨が数羽いて波紋のみが静かに広がっているのは心がなごむ。自然の生き物は見事に全体に環境に調和していることである。鴨というのはまさに水と一体になっているのだ。鳥は空と一体になっている。最近津波の跡の草原によくノスリをみかける。この鳥の飛ぶ姿が格好いいのである。鳶とは飛び方が違う、高くは飛ばず比較的低空飛行である。やはり餌になるネズミを探しているのだろう。だからノスリとは野をするように飛ぶことからその名がついた。鳥はみんな飛び方が違っている。
尾長などは何か平行に飛んでいる。あれも飛び方が気持ちいい。もちろん燕もそうである。

この辺で河原の土手の道で押し車に座っている老婦がいるとすると仮設に住んでいる小高の人だと思う。前はなんなふうにしているのをみかけないからだ。復興住宅も自分の墓の前に建設中だしレンガ風の大東建宅のアパートにもすでに人が入り満室である。
あういう新築の家はやはりいいと感じる。外見がいいし落ち着くのである。
ただ中はどうなっているかわからない。


一軒昔風の大きな家が建って気になっていたがあれは右田の人が建てたという、あれは土地込みでいくらになるのか?軽く5千万はかかっているかもしれない、それだけの外見の家である。あとはみんな建て売りの組立式の家である。だから2千万くらいだと思う。
で土地込みになると3千万とかになるだろう。その土地がなくて建てられない、あれは外部から来た人が建てたのかと思った。右田だと船主なのかもしれない、船主は原発補償が大きいから金をもっている。原発前もそうであり原発後もそうである。

相馬総合病院で特別室に入っていた請戸の人も船主かもしれない、家を建てるといっていたからだ。一億はもっているだろう。漁業関係者が原発の恩恵を一番受けていたのである。あれだけ津波で被害にあっても補償が大きいからそれほど痛手ともいえないかもしれない、ただ魚がとりたいというとき今やいくら補償されても仕事がないということが
生きがいもないとなっているのだ。
漁師だからやはり魚をとってみたい、魚をとることの喜びをもう一度味わいたいとなる。
それはもはや金の問題ではないのだろう。農家の人が米の実りを手にするときの喜びも同じだろう。現代はそうして自然の恵みでも交換するために商品化するために売るということが目的になるが本来は収穫そのものを魚がとれることを喜んでいたのだろう。


今年も二両の電車が行き来しているが相馬市−原町間であり淋しい、秋の薔薇の色はなんともいえない色をしている。夏の薔薇とは明らかに違うのだ。ものさびたピンクになっている。中年婦人の色なのかもしれない、中年婦人の魅力は母の魅力が備わることだろう。
何か娘時代とは違いあたたかみがでてくる。子供を育てるとそうした魅力がそなわる。
女性にもその年なりの魅力が備われば老いることも自然になるかもしれない、でも女性の場合はやはり若さの価値が大きすぎる。男性だったら技を磨くとか一芸に秀でるとか年月を重ねれば才能なくてもそうなるのだ。自分は20代頃から俳句を作っていたけど全く
いいのができない、俳句は老年向きの面があったのかもしれない、だから何の才能もないと見られていた。短歌はこれもただ文字を五七五とならべただけだったがわずかに認められるものがあった。アララギとかの結社に入っていたからだ。


俳句とか短歌はそもそも才能など必要ないかもしれない、長年やっていると上達するもきのようにみえる。感性も時間の中で作られるというとき、季語を覚えるだけでもそれだけの時間がかかるからそうなるのだ。花の名前を覚えるのでも時間がかかる。
ただ最近始めた生け花、フラワーアレジメントでも誰かに手ほどきししてもらうとか
もっと早くそういう世界があることを気づくべきだった。
結局人間は才能ではない、常に潜在している能力が開発されないだけなのだ。
それは仕事に追われるとかいろんな障害でそうなるのだ。

自分のようにこれだけ恵まれても才能を開発されなかったのだから勤める人などはなかなか自分の才能を開発できないのである。旅だってちょっと旅するにも最低一週間とかかる。旅は相当な労力である。一日泊まって保養するのではない、旅は本当は相当に難儀なものである。自分は旅したけどこれは遊びではない、集中力も必要であり旅のときなど
恋愛なとできないし享楽もできない、外国で買春などあるが本当に旅する人は歴史的遺産でも見ることに集中しなければならないからそんな暇がないのである。
旅がみんな成功していないのは団体旅行だと気が散ることなのである。気が散ると自然でも歴史的遺産でも印象に残らなくなるのだ。お前は旅ばかりして遊んでいただけじゃないかと外から思うが実際旅というのはそういうふうな遊びではない、一つの仕事だったと思う。金にはならないが仕事だったのである。だから旅した経験を今書いていてそれも実りとして評価されるべきなのである。そんなもの無駄だとか言うことはできない、つまり勤め人で金をもらったとしてもそれが人生のすべての評価とはならないのだ。
人生の価値の評価は金では図れないものもあるからだ。


最近は本当に行動範囲が狭い、小さな町を行ったり来たりしているだけである。ただ確かに秋が徐々に深まってゆくみたいだ。
一日一日そうかもしれない、今年は落ち着いた秋になってきているかもしれない、そろそろ津波から二年半だから正常化してもいいだろう。いつまでも被災者面しているのもよくないだろう。ただ補償金のためにもう働く意欲もなくしているのも多いかもしれない、
でもそうした同情される期間はすぎて厳しい現実に直面してゆくほかないかもしれない、
それでも若い生活保護者と関係してわかったことは一旦楽を知ると楽な方に人間はながされやすい、他者いくら言っても無駄である。

その人は普通でないから全然生活保護を恥じていないし威張っていたのである。普通の人ではないにしろほとんど普通の社会人の常識もなにもない人だった。ただそうした生活保護から脱することは容易ではない、一生生活保護になっているようにも思う。なぜ威張っているかというと「お前になは何にも言われたくない、お前はなんなんだ・・・」とか威張れるのは結局「俺様は生活保護でお前なんかに世話にならなくても金をもらわなくてもやっていけるんだよ・・・」生活保護者はこういう感覚になっているのだ。それも一理あるが親戚の人が援助するにもいろいろ言われるから拒否する。生活保護の方がいいとなる。もしそうでないならそんなに威張っていられないだろう。必死になって助けてくれというし働くからとなる。でもそうはならないのはまさに生活保護であり食うにも困らないしそれなりの援助を受けているから口うるさい親戚のことなど拒絶できるのである。こうしてその人は一生生活保護から脱せられないしそもそも脱する気持ちがないのだからそうなってしまう。


何か借金でも何でも問題ある人は他人の諭すことや言うことなど聞かないのである。
だから何か言うことも無駄だとなる。ただもし窮迫していたらそんな余裕がなくなる。
なんとか助けてくれとなるからだ。だからあまりにも補償されることも問題なのである。
原発避難者が生活保護ともにているが違うことは以前として東電や国の被害者だ主張できることなのである。

 

2013年09月14日

秋になり夏になり秋になり・・・ (今年の天候は何か変だ)


秋になり夏になり秋になり・・・

(今年の天候は何か変だ)

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旧街道稲田広がり松並木
かまきりの道をさえぐや旧街道
坂越えむ今ひとしきり蝉の鳴く
母なおも歩きひとしきり蝉の鳴く
秋の灯や近くに知る人親しかな
廊下長く夜風涼しく月光る
鴨三羽照らさ見ゆる月夜かな
我が部屋に光を求め枯蟷螂


前より色づく稲田松並木通りて相馬の城下に来しも

小泉川に橋の一つやそよゆれぬ柳の垂れて秋の日の暮る


今日は相馬市に行った。稲田が広がり前より色づいている。これが普通の光景なのである。何か鹿島から相馬に来る平常の景色があり元にもどったという感覚になる。相馬市は前と何も変わらない感じがする。ただ津波の被害地域は松川浦や磯部は街内とは違う、磯部には一軒の家もなくなったからだ。街道というとき浜街道は日立木から相馬市の城下町まで一番昔を感じる。昔を感じるには道が大事なのである。六号線を通って昔を感じる人はいないからだ。そこが歴史の重みなのである。

その歴史の重みは教えられなくてもあの街道を行くとき自ずから感じる。歴史は体で感じるものなのである。知識だけから感じられないことがある。かまきりが道をさえぎっているのも細い道だから道をさえぎっているともなる。奥の細道だから昆虫でも道をさえぎることができる。かまきりというと人間もかまきりのような人がいるだろう。動物も人間を象徴しているのだ。蛇のように執念深いとか言うのもそのためである。

かまきりはまだ青い、枯蟷螂になっているのを部屋で見た。蟷螂は確かに不気味である。かまきりでも光を求めてやってくる。蛾もやってくる。
今年は8月初旬まで梅雨だったしそのまま秋になるかと思ったら急に暑くなりそしてまた涼しくなりまた暑くなり涼しくなり今日は台風が来ているので夏なみに暑かった。なんか今年の天候は変だ。
今日はだから蝉が鳴いても夏である。夏と秋が交互に来ているのだ。
月というと秋の季語である。川に浮かぶ泳ぐ鴨を月が照らしている。確かに三羽見える。それがなんなのだともなる。でもこれが写生俳句なのである。月は三羽の鴨を自ら照らして知っている見ているともなる。


相馬市の小泉川の上に橋がかかっていて柳がたれていた。それは秋の柳で風情があった。そよそよとわずかにゆれている。相馬市は城下町にふさわしくいつも静まりかえっているのがいい。
小泉川も川なのは川なのだけど堀の感じもする。気持ちよく流れるのが見えないのだ。
それでも川なのは川だから川端柳として日本的風情がある。江戸の風景でもあった。時代劇では必ず橋があり柳がたれているからだ。

イオンのキタムラ写真では簡単にフォトブックが作れる。あれは便利だと思った。それも15ペ-ジでもネット注文だと1200円というのは安い、昔は本に写真をいれたら十万とかかかると言っていた。
本自体作るのが百万以上かかっていた。今は写真入りでもこれだけ安く作れる。本も一冊だけでもオンデマンドで機械的作れる。電子化したから安く作れるのである。
なぜそれに注目したかというとどうしても電子化するだけでは記録は消えるのが不安なのである。
あのように写真でも簡単に本にできると記録として残すのにはいい、50年前の白黒の貴重な写真が残っていた。写真は50年残るし本でも残る。電子では十年も残るのか記録するものが信用できないのである。


あれだと写真入りの俳句とか短歌を残すのにはいいのに向いている。ただテキストファイルはできないので本を作るというわけにはいかないが俳句短歌は作れる。ネットから注文してイオンのキタムラで受け取れるのは便利である。デジタル化でも写真の現像的なものが商売になっている。デジタル写真をきれいに印刷したりはパソコンではむずかしいのだ。だからネット化して全国を相手の商売が生まれたのである。電子化してもプリント屋として残ることができたのである。電子化してもみんながみんなだめになるということでもない、新しいビジネイチャンスも生まれたのである。それを活かしたから全国ネットで商売が成り立ったということである。

 

最近親しい人ができた。その人がすぐ近くに住んでいた。住宅だけど秋の灯がともっている。ともかく東京など遠くなると親子だろうが疎遠になるし何かあっても助けてもらえない、それが原町でも同じだった。車で来るとなるとめんどうになる。
介護とか病気とか何か緊急のときでも本当に町内とか近くでないとできない、だから遠くの人に金を使うのが馬鹿らしいからつきあわない、近くの人に親切にしたりすれば助けてもらえることもある。
ただ今は金だけでは助けてもらえない、その人は困っていたのでちょっと助けたから金だけの関係でないものができたからいいかもしれない、人は悪くない、素朴なのである。
つくづく人間の関係は変わる、これも無常である。この辺は特にそうだった。故郷の人がみんなばらばらになってしまった。
それだけ激変したのである。その中で避難中ち病気を悪化して死んでいる人もかなりいるのだ。
この変化はあまりにも大きすぎたのである。だからいろいなことでどう対処していいかわからなくなっているのだ。

2013年09月16日

月光に照らされた鴨(写生が俳句の基本は変わらない)




月光に照らされた鴨

(写生が俳句の基本は変わらない)]

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月光に照らされ浮きぬ鴨三羽


月光や闇にも泳ぐ鴨三羽


これはいかにも写生俳句らしい。季語としては月は秋であり鴨は冬だけど秋の鴨とした。深い田舎の闇の中に川の水面に鴨が月光に照らされて明らかに三羽見えた。
三羽にこだわるのはまさに「鶏頭の一四五本もありぬべし 子規」の写生俳句の問題となった俳句があるからだ。月光に照らされて鴨が明らかに見える。それは電気の光ではない、月光という月の光に鴨が明らかに浮かんでいる。電気の光がてくても鴨はまた月の光に照らされてスイスイ泳いでいる。夜も意外と動くものだと思った。
しかしこの夜の鴨を注意して見ているものもいない、月だけが光をさして明らかに見ていたともなる。


現代は電気の光が氾濫している。だから闇の世界のことがわからなくなった。都会では一日中そうであり電気の光は消えることがない、江戸時代は蝋燭とか行灯き光だから全く違っていた。真っ暗闇の世界である。ぬばたま・・は闇にかかる枕詞だがぬばとはなちなのか?ねばねばしたとか何かそうした語感があるのか?深い闇の世界を感覚的に現した言葉なのだろう。


ぬばたまのその夜の月夜今日までに我れは忘れず間なくし思へば

ぬばたまの夜渡る月のさやけくはよく見てましを君が姿を
ぬばたまの夜渡る月にあらませば家なる妹に逢ひて来ましを
ぬばたまの夜は更けぬらし玉櫛笥二上山に月かたぶきぬ


万葉集の世界は江戸時代よりさらに闇が深い、それは想像し得ない闇の世界である。だから鴨が月光に照らされていると同じく人間も月光に照らされて見える。その姿が印象に残るのである。現代の電気の光が氾濫した世界とはあまりにも違うのである。
現代はだから月の光でもそうだが自然のものに無感覚になっている。五感が衰退している。セミの声でも芭蕉のように聞いていない、音も車の騒音などが氾濫しているからだ。

そういう騒音の世界で人間の感覚は衰退して感じなくなっているのだ。メデアでもそうである。激動的な刺激的な映像が音とともに氾濫するとき耳の感覚も目の感覚も鈍感になってしまうのである。だから現代は自然きものを良く見ていないのだ。感じてもいないのだ。

あらゆるものが機械化するとき機械を通して感じるというきも感覚を一面衰退させている。ただ何度もデジカメは新しい感覚を人間に作り出したことは確かである。でも一方で自然の中で感じるものを衰退させたのである。それは芸術的な面だけではない、人間生活全般がそうてっている。機械が感覚になったとき機械でとらえられないものは見逃される。今回の地震の感覚でも人間の方がこれは大きな地震だと直感した。機械の方ばかり見ていると機械にばかり頼っているとあやまることもある。あらゆるものが機械に取り囲まれているとき機械なしでありえないとき人間は危機に弱くなっている。機械は緊急の場合壊れたり使えなくなったりする。するとどうなるのか?万事休すにもなってしまうのである。

沈黙、闇の深さなどは自然を感じるためにはなくてはならないものだった。万葉集はそうした人間が原自然で感じていたものが残されていたから貴重なのである。

季語でも春の闇とか夏の闇とかあるがやはり闇の世界が元からあったから季語になった。現代に作られた季語もあるが季語はもともと江戸時代に作られた。万葉集も基になっている。闇が深ければ光もまた映える。特に月光は闇が深いと映える。だから月の光に導かれて万葉時代は女性のももとに通った。そして日本人の女性に対する感覚はその闇に浮かぶ白い肌だったというのもわかる。白い肌のみうが浮かび顔などは定かでなかったというきも本当なのだろう。一方西洋では女性でも彫刻的であり形や姿勢を見ていた。そういう感覚的相違は世界的にある。日本人き感覚も独特なのである。たとえば肌ざわりとかあるがこれも触って感じる感覚がある。これも和紙などはそうである。肌触りの感覚である。

まず肌触りという言葉自体日本的なものなのだろう。

大都会ではこうした自然の中での感覚はもてなくなっている。機械に頼る生活もそうである。車に乗っていれば風を感じなくなる。すると旅にはならない、それでは歩いて旅するとかなるとその労力は今では背負い切れない重圧を感じる。自転車でもそうである。自転車は風とか坂に弱いのである。だから自転車旅行は遊びとも違う、旅を演出して自然ととけこむ労働なのである。旅は見たこともない景色に出会うのだからかなりの集中力が必要になる。気が散るとそうした新しい景色に接しても記憶できない、感動もしない。
あの女性が美人だななどと見ほれていると雄大な山に感動することもできなくなる。
だから旅は禅僧のように禁欲でするものなのである。温泉でどんちゃん騒ぎするのは旅ではない、憂さ晴らしなのである。現代は旅行に泊まるにしても保養であり旅ではない、現代で旅することは容易ではない、だから旅することは余計に価値あることになっている。一見旅があまりにも容易になったけど旅は喪失した。ただの機械による移動になってしまったからだ。


「小主観のムードよりも物の実体を把握しなければいけないと思っているうちに俳句のいさぎよい直截さに魅力を感じるようになった。


「昨今の俳句界では写生を古くさい、忌むべきものとする傾向が一般的なようだが、とんでもない話で、今ほど写生が見直されなければならない時期はない」

http://72463743.at.webry.info/201001/article_19.html


写生はやはり絵画である。絵画の基本は写生だからである。それで子規は蕪村を見習ったのである。ただ絵画でもどうしても主観が入るから絵画でも純粋な写生とは違う。
写真がまさに写生そのものなのである。写真は主観が入らないからだ。写真も実際は主観的なものが入る。構図とかがあるが一番大事なのは自然の多様な瞬間をとらえることである。絵画のように一つの場面をじっくりと見て描いているのとも違う。特に生き物とかをとらえる場合にはそうなる。そもそも自然は生々発展しているのもであり瞬間瞬間命の変化があり美がある。それをとらえるのが写真なのである。生け花でもフラワーアレンジメントでも花が一輪二輪と咲いてゆく変化がある。造花をさしているのとは違う。
そして自然界の生き物は二度と同じ表情を見せない場合がある。自然界の生き物は植物でも刻々変化しているのである。だから写生といっても死んだものを写生しているのではない、生きた物を写生しているのだから写真でもその一枚限りの生き物の姿を写し取る。
それはまさに写生なのである。ただ写真ですべてがとらえられるわけではない、闇といってもそれが春夏秋冬があるからいつの闇かわからない場合がある。風も匂いも感じられないのも写真である。写真にも瞬時を全部とらえることはできないのである。




あとがき


月光となるとやはり秋の季語なのか?月はそうにしても月光は春でもあるし季語もわかりにくい。ただ秋だとすると秋の鴨としたが月光が秋の季語だとする秋を入れる必要はない、鴨は冬の季語である。雁は秋の季語である。冬の雁となるのもそのためである。
あとから直した「鴨浮きぬ」としたのが良かった。あたかも月光に浮かぶ感じがでた。
ただこの写真は闇が深いのでとれなかった。こうした瞬時を写真でとらえるのはむずかしい。毎日買い物で橋を通るので鴨を見るから前にも鴨のことを俳句にした。
俳句も鴨だったら鴨の連作になると一つの作品として読みごたえがあるようになる。
一句だけだと俳句は短いから何か言い表せないものがある。

俳句はその人の読み方によって価値が決まるものだというのも本当だろう。
読みを深くすればいい俳句だとされるだろう。そうでないと何が価値あるかわからないのが俳句なのである。だから無数の膨大な駄句のオンパレードが俳句芸術の現実なのである。結局何が価値ある俳句なのか決めにくいからそうなるのだ。

2013年09月18日

津波より二年半過ぎた小高浪江を訪ねる (秋の日の俳句短歌)



津波より二年半過ぎた小高浪江を訪ねる

秋の日の俳句短歌)

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かなりの坂を登る

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北原の津神社
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小高の村上のパノラマ写真

浦になった景色

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この松は枯れていない
緑がある


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津波で沼になった

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請戸川

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桃内駅


自転車に海にいでけり夏の蝶

海展け朝花に舞う夏の蝶
朝の海白波よせて夏の蝶
露草や御影石の墓海望む
秋の海望み萱浜(かいはま)墓残る
津波跡残れる松や秋燕
敢然とノスリの姿秋の風
秋日さし相馬双葉の境松
街道の一里塚や秋の暮
松により浜街道や秋の海
上浦の坂に望むや秋の海
大杉にしみ入る秋の蝉の声
磨崖仏千歳の杉や木下闇
陽をさえぐ千歳の杉の木下闇
十五夜の月まんまるに平和なれ


秋の日や津波に流さる碑のあわれ萱浜に刻む死者の名前を

津神社参道苔むし隠されて残る社や秋の日さしぬ
津波跡浦となりしや雁群れて水面の光る朝の光りに
秋風の薄なびかせ浦に吹く雁の群れつつ水面光りぬ
二年半線路を覆う桃内駅虫鳴く声や秋の日暮れぬ
訪ねけり小高の城の跡を踏む秋の日さして昔偲びぬ
なおしきり秋の蝉なく小高城その跡たずね我が帰りけり
幾世橋(きよはし)をわたりて浪江秋日さし浜街道のつづきありしを
請戸川流れの早み浪江にそ二つの川や秋風さやけし


今日は秋晴れになったので二年半過ぎた小高や浪江に行った。浪江は町まで入れる。町から二三キロのところで通行がとめられる。それにしても浪江に入れたのは意外だった。原町区の北原から島商会のある所へ登る道に「津神社」があった。これは不思議だった。ええ、こんなところにあったのと気づかなかった。鳥居のあるずっと奥に本当に隠されるようにあったのだ。かなりの坂を登る。あそこまで高いなら津波から逃れられた。あの高さはやはり四〇〇年前の慶長津波の記憶があって津波をさける所に神社を建てたのである。ただ地元の人でもきづいていないのである。

小高に入ると村山の貴船神社があったところ一時期相馬の城が移動される予定地だったが縁起が悪いと原町区の牛越城に移った。確かに縁起が悪い場所だった。津波に襲われたからだ。近くは堀があり浦となっていた。そこに雁が群れて浮かんでいた。鴨もいたが雁が多かった。そして不思議なのはノスリが敢然と津波をまともにうけた枯木に止まっている。ノスリは敢然としている。ノスリは津波の跡に草原化してノネズミが増えたので住み着くようになった。その光景も不思議である。

それから村上を去ってまた坂をのぽると綿津見神社があった。あれも高いところにあり津波からまねがれた。高いところが沼になっているのは津波が残した沼である。
そこから高台をゆくとあの辺は東北電力が原子力発電所を建てる予定地になっていた。あそこは高いから津波から逃げて助かった。つまり原発はあそこに建っていれば高いから津波の被害からまねがれたのだ。東北電力は女川でも高い所に建ててかろうじて助かった。ぎりぎりだったけど助かった。それは東北では津波のことが頭にあったからだった。それはおそらく副社長だけの一存というものでもない、津波に対して危機意識をもっていた。東電はもっていなかったのである。

そこから浪江の方に行くと相馬と双葉の境の松というのがあった。こんなところにあったのと初めてしった。まだまだはじめて知ることが近くでもかなりあるのだ。

浪江からは双葉郡であり車のナンバーも「いわき」になっているのだ。この相違は大きい。海岸沿いを浪江まできて六号線の方に出た。浪江の町まで入れた。今回はすぐひきかえした。途中瓦を直している家があったからやはり浪江には住む人がいるみたいだ。請戸川が台風のためる水がでて勢い良く流れていた。浪江は二つの川があるし高瀬川渓谷は景勝の地だった。そこに行けないことが残念だったが町まで入れたのは意外だった。

帰りは浜街道を帰ってきた。その前に小高で上浦というところにでた。井田川を回りでてきた。井田川は大正時代に開拓された地である。ずいぶん広いと思った。八沢浦とにていたが広かった。あれだけ広ければ相当な米の収穫があり相馬藩は経済力が拡大したことを実感した。ただあそこは八沢浦のように注目していなかった。

井田川もあれだけ広く海だったとすると都の人も注目していたはずだが歌は残されていない、八沢浦は残されていたので注目した。でも津波で広い海になったとき見に行けばよかったが混乱していて行けなかったのが失敗だった。もう二度と見れないから失敗だった。ともかく山の方が上浦となっているのだからやはりあの辺まで浦だったのかそれだけ海が進入していたのだろう。

それから小高によってみて小高の城の跡に登った。浮舟城などとなぜついたのか?おそらくやはり回りが海が進入していて湿地帯がせまっていたからかもしれない、小高駅をこえて津波が来たのには驚いたからだ。

まあ、津波で人が子供まで無残に死んだのだから俳句とか短歌とか絵とかまでそんなことを芸術などでなぐさめられないと批判された。でも自分はそうは思わないのだ。
今回でもこうして人が小高でも浪江でも踏み入れば生きたものとして蘇ってくる。
小高の城跡でも人が入りその地を踏むことで歴史が活きてくるのだ。誰も人が入らなくなったら俳句にも短歌にしないし絵にもならないしまさにゴーストタウンとなってしまうのだ。人が入ってくることで過去も活きてくる。人が入らなければあらゆるものが死んでしまうのである。


陸前浜街道は浪江双葉まで相馬藩でありイワキに通じて江戸まで通じるとき活きていたのだ。それが寸断されたとき道も死んでしまう。ただ浪江に出口一里塚というのがあり何か浜街道を旅した気分になった。今日は秋晴れであり風も気持ちよくサイクリングには向いていたのである。ともかく浪江は高瀬川まで行かないと行った気がしないのだ。ただ町まで入れたので浪江まで行った気がして良かった。次はもっと中に入ってゆきたい、ただ警護の人がいるので町内まではは入れがさらに中には入れない、ただ仙台からきていた人も入っていた。その人まで放射線を計る機械をもっていた。それほど関心をもたせたのがこの辺だったのである。町中は0.4くらいなので低いから人が住めるのかもしれない、幾世橋がありこれも今までは関心をもっていなかった。幾世橋の名前は幾代もつづく橋としての願いがあり相馬の隠居した殿様が名付けたのである。今まで注意しないものを津波や原発事故の後に関心をもつようになった。
津波や原発事故はいろいろな面で意識を変えたのである。何が大切なものか?そういうものが見直された。


帰りによっ大悲山のまがい仏でもあの千年の大杉は迫力があった。だからなお秋の蝉が盛んに鳴きその声はその大杉にしみいる。それがまさに「静けさや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉」になっていたのだ。ともかく道を直していたが道が活きればそれなりに復興もありうる。まず道が大事だということがあった。道がイワキまで通じれば復興したなと感じるだろう。鉄道でもそうである。それだけ広域社会だから道が大事になっているのだ。いづれにしろ双葉辺りは余の森であり相馬藩の殿様の余の森として領地とされていた。それと同じように今はイワキまで通じない森と化してしまったのである。
交通が遮断されると通じなくなると江戸時代にもどったような気分になる。
現実はバスと仙台まで通じるがバスは何か疲れるし遠くに行きたくなくなった。
電車はやはり遠くに行くには欠かせないのである。ただこの辺は電車が通るのは六年先とか原発事故のあった双葉を通るのはいつに名のかわからないのである。


今日は十五夜のまんまるの月がでていた。何か平和を感じた。これは自分の一身上のことでも辛いことばかりだった。今はなんか余裕ができた。それでも家事でも何でも一人でやっているからまるで小間使いであり駒ネズミのように動いているのだ。
とにかく今日は浜街道をまた旅したようで気持ちよかった。風も涼しく疲れなかったから良かった。やはり秋はサイクリングニは一番向いている。

2013年09月19日

秋薔薇 (ソニーのRX1002で夜撮った写真くに感激)

 

秋薔薇

(ソニーのRX100M2で夜撮った写真くに感激)

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色深め散るばかりなり秋薔薇

秋薔薇五六輪かな陽は落ちぬ
五六輪一輪散らむ秋薔薇
秋薔薇一輪ここに散るを知る
秋薔薇夜の光に五六輪
街の灯のともしや駅に秋薔薇
鶏頭の赤に誰をか触れえべし


見えぬほ子蜘蛛巣を張る休みなくその営みや虫の鳴くかな

津波より二年半過ぎ十五夜や輝きまして平和なれこそ

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今度買ったソニーのRX1002はやはり違う、一眼レフ的なものになっているのかもしれない、高級感があり今までのデジカメでは一番優れていた。六万でこれだけのものが買える。デジカメだけはずっと画素数でもセンサーでも進歩し続けてきたのである。
感度がどんどん良くなっていった。これも何か写った感じがかなり違っている。
このカメラには高級感があるのだ。今までデジカメは二万くらいのしか使っていない、
大きいデジカメは自転車だと大きくて持ち歩きできなかった。
これは多少重いがそれだけに高級感がある。

今日は確かに十五夜であり満月がこうこうと輝いていた。その月もはっきりと写していた。このカメラは夜に強いのだ。夜の薔薇も独特の感じで写していた。街灯の光の方に照らされて浮かび上がった秋薔薇である。

ここで五六輪にこだわるのはやはり写生に忠実だからである。まさにこのカメラでは写生は本領を発揮している。現代は写真の時代である。デジカメになってから特にそうである。写真で日記を残す時代でもある。刻々とした変化をデジカメで残しているのだ。
最近はスマホとかでも写真を絶えずとっている時代である。写真は日常の記録としてメモのようにも残せる時代である。ただ芸術性を追求するとどうしてもカメラはいいものでないとだめである。これまではそれほどいいカメラではなかった。
ただ安いカメラでも画質はどんどん良くなっている。デジカメの分野では進歩しつづけていたのである。今のところはソニーが頭を出た感じがした。

このカメラはレンズ交換もできるから一眼レフ的なカメラだからそういうふうに被写体を深みのあるものとしてとらえやすいみたいだ。特に室内でも何か写りが違うのである。


ともかく今日の十五夜の月の輝きはまぶしい、非常に澄んで輝いている。もう津波からも二年半過ぎた。この辺では当分は災害はないだろう。原発事故は別にして自然災害はないように思う。ただ東京とか関西とかに大きな災害が津波が起きるかかもしれない、東北の方はもうないのではないか?この辺ではまた四〇〇年くらい津波は来ないかもしれない、それだけあまりにも大きな災害だったのである。


鶏頭の赤も独特である。それは触れ得ないような赤である。一点の濁りもない赤である。神道で言う赤心になる。今日はまだ日ざしが暑い、でも風は涼しいから運動には向いている。自分は今相当に運動できるようになったかもしれない、だから山にも登りたいと思った。ここ十年くらい健康で活動できれば有終の美を飾れるかもしれない、それも一重に健康にかかっているのだ。いかに六〇代以降が健康が大事か身をもって知った。健康を損なったらすべて崩れてしまう。金があってもどうにもなちらない、徳田氏のようになったらいくら最高の看病されても悲惨である。


今日の十五夜の満月のように健やかであれば老後も生きる価値があるものとなる。健康は六十代以降は大事である。もちろん確かに金がなければ困ることはある。でも金を使わない気だったら老後は使わないようにできる。旅をしないとそんなに金はかからないだろう。それでもこの年になって金をはじめて自由に使えた。これまで余裕もって金を使えなかった。ただいくら金があっても時代が良くないと金も有効にはならない、技術の発展の恩恵には時代が違いば受けられないのである。デジカメでも今になってこれだけ進歩したがこれまで画質はまだまだであったからだ。

 
 

2013年09月20日

民間の津波の伝承の語るもの (津波はやはり天罰だったのか?)


民間の津波の伝承の語るもの


(津波はやはり天罰だったのか?)

●柳田国男の全集より-津波の伝承


故佐藤喜真興英君の集めた南島説話の中に中頭郡美里村大字古謝の出来事として、次のような口碑が採録されている。昔この村に一人の塩焼男がいて海水を汲みにでて一尾の魚をとりそれを籠に入れて我が家の軒につるしていた。

その籠の中から「一波寄するか二波寄するか三波寄するか」という声がする。不思議に思って覗いてみると魚よりほかに何もない、こんな魚は放す方がよいと思って家にでると途中に知り合いの無頼漢に出会った。放すより私にくれといって、もっていって料理して食べようとしていると、ちょうどその時に大海嘯がやってきて近隣の人畜ことごとく押し流してしまったというのである。


ものを言う霊魚を害しようとした者が大津波によって罰せられたとういことは同時に一方のこれを放そうとした者の助命を意味しこの塩焼き男が生き残った故に恐ろしい話は後に伝わったのである。

南の島々で古くからの災害としていわゆる、シガリナミ(海嘯)の記憶の最も印象強く残っているのは自然である。これがただ一尾の魚を尊敬するかせぬかによってさういう恐ろしい結果を生じたざとつ伝えるのは考えて見れば不思議なことである。
(柳田国男全集-五巻-もの言う魚)


今回の津波ほど不思議なことはなかった。どうしてこんなことが起きたのか?それいろいろ書いてきた。しかしその疑問は解けないだろう。そこには想定外であり人事越えたものが働いたとなるからだ。ただ過去にも日本では津波がまれにしても全国であったのだからその伝承が残されている。その一つがこの話である。これはまさに今回の津波をどう解釈するのかを考えるときかなり参考になるし示唆的である。

「一波寄するか二波寄するか三波寄するか」津波は一波二波三波と寄せる度に大きくなってゆく、最初の一波で逃げた人は助かっている。一波は低い波だったのである。


一人の無頼漢がそのもの言う魚を食べようとした。この無頼漢とは何なのか?これは前にも書いたがこの辺では萱浜(かいはま)の松林で女高生が殺され犯人が首つって死んだのである。それは津波が来る何日前だったのである。だから津波が来てあとで女高生の死体も見つかった。これは津波が来たからこのことも関連あるものとして見るようになったのである。それは他の人もインタ-ネットに書いていた。そういう伝承は津波によってただの犯罪ではない、津波と関連づけられるようになる。自分もこの六年間の苦難を書きつづけてきた。津波の半年前に酷い犯罪にあった。そして津波が来るまでその犯罪者を激しく呪いつづけたのである。その人は別に警察に逮捕されていない、しかし警察に逮捕されない事件など山ほどあるのだ。ただこれもこれだけの津波が起きたから津波との因果関係を考えるようになった。他の人もいろいろ津波の後に考えているかもしれない、無頼漢とは自分の経験では犯罪者だった。田舎でもみんな素朴ではない、特に現代は広域社会だから昔の素朴な村社会とはまるで違う。

 

田舎の素朴さがう失われたというときそれが今回の相馬双葉漁業組合のことを度々とりあげた。原発事故では漁業権者が一番恩恵を受けていたのである。その補償金で億の金をもらったとかは船主なら嘘ではないだろう。原発事故以後も漁業権者には手厚い補償金が支給されているのだ。だから相馬総合病院に入院したとき請戸の人が特別室に入り家を建てると言っていたとき船主なのか?やはり漁業権者でありそれだけの金が入るのが原発だったのである。富岡町長の五億円の津波に流された金庫が話題にのぼったのもそれだけ原発から生まれ金は巨額だったのである。今でもこんなに補償金がでること自体驚きであった。右田の人が町内に立派な家を建てられたのもやはり漁業関係者だからだろうとなる。
ただ金をもっていても土地がないと家は建てられないから地元だから土地が手に入ったから建てられたと推測される。

 
●一尾の魚が意味しているもの
 
この伝承が意味しているものは何なのか?


これがただ一尾の魚を尊敬するかせぬかによってさういう恐ろしい結果を生じたざとつ伝えるのは考えて見れば不思議なことである。

漁業者が一尾の魚を尊敬するなど今は全くないだろう。一尾ばかりとったってなになるのだ。大量にとらなければ商売にならないとか常になっている。そして漁業では金にならない、だから跡継ぎもできない、これは農業でもそうである。一粒の米に感謝していた昔とは大違いである。常にどれだけの金になるのかが問題になる。それもやはり買うものが増えすぎたからそうなる。家もほしい車も欲しい電気製品も欲しい子供は大学まで出すのが普通だとなると常に金がかかるのが現代の生活だからである。
ただそこに大きな落とし穴があった。何か大事なものが見逃されていたのだ。

それは一尾の魚でも神からの贈り物であり一尾の魚をありがたく食べさせてもらう感謝の気持ちが喪失していた。このもの言う魚は神の使いであり危険を告知するものだったともとれる。自然からの何らかの警告として生き物もみるべきものがある。漁業権者にももらろん自分のような魚を食う方にもそうした意識は皆無になった。ただ金を出せば何でも食えるし必要なものは手に入るという感覚になってしまった。そこに人間の奢りが生まれていた。一尾の魚に一粒の米に感謝する心はない、ただ足りない足りないという嘆くだけだったのである。

今回の津波でどこでも漁業にたずさわる人々が村や町自体が消滅するほどの被害にあった。それでみなん天罰だというときそれは確かに一理あるのだ。それは松川浦の近くの磯部辺りでも立派な家が建っていたという人がいたから福島県の浜通りはそれだけ原発の恩恵が大きかったのである。なぜなら漁業権者の許可がないと原発はまず建てられないからだ。今でも汚染水の問題があり漁業権者と相談しているがそこでも交渉すればさらに補償金が上積みされるともなる。だから漁業権者の権利が一番大きいものだったのである。
それで天罰があたったというと言うの地元の人たちでもあった。


現代は科学が信仰にまでなている時代だから何か郷土研究など好事家のすることであり真剣なものではない社会に役立つものではないと見られていた。しかし津波のことで郷土研究でも実際は大事な学問であることを認識した。それは東北電力の副社長が岩沼に住んでいて山の方まで舟がながされてきたという伝承を聞いていたから危機意識があり10メートルの所をもう15メートルにしろと主張して今回は女川の原発はぎりぎりでひ助かった。
ただこれは近くの三陸でも明治に大津波で一万人と死んでいるのだから危機意識が違っていたのである。東電は最近になり津波のことを科学者によって指摘して危ないと何度も警告されていた。自分も時事問題で相馬のかなり奥まで津波が来た痕跡が砂の採取でわかっていて報告されていたのでそのことだけ注目した。それは貞観津波のものだった。
でも慶長津波は400年前のことだったのである。


●科学万能時代の警告が津波だった


人間は今や科学で何でも解明されている。そういうふうにみんなが思うようになってしまった。ところが科学で解明されないことがまだまだある。でも科学でやがて解明されると思うようになった。それで原発を推進していた科学者が確率的には一万年に一回しか事故は起こらないとまじめな顔で言っていたしみんなも信用していたのである。でも400年に一回くらいは大津波が来るのだからそれは全く歴史を無視したものだったのである。
つまり津波の盲点は人間の歴史が軽視されていたことなのである。歴史というとき災害の記録も歴史であり戦争のようなものだけが歴史ではなかった。人間は歴史を無視するとこういう恐ろしい結果になるということが証明されたのである。現実に松川浦にも津神社があり今回訪ねた原町の北原にも高い所に隠されるように津神社があった。それが何なのか地元の人も注目しないし忘れられていたのである。津神社の下には普通だったら津波のことが記憶されていれば家を建てない、これより下に家を建てるなという津波の伝承が残っている地域もある。だからどうしてそういう危険な場所に家が密集してしまったのか?
それは津波の伝承が失われてしまったためなのか?その辺はこれからの研究が必要である。


人間はすべてを科学で解明できない、例えは浪江の標葉郷はシメハはシメノであり禁断の地の地名だった。だから地元の人が郷土史家がここは禁断の地だから原発を建てるべきではないと言ったら笑われるがそれも馬鹿にできないものだったことが津波の後に判明したのである。科学的なことでこの世のことがすべて解明できないから縁起が悪いとかなどが今でも生きているのである。人生にしたってそうである。どこかに神の働き関与がありそれは科学的にはすべて解明できないのである。例えば放射能にしてもこれはどこまで体に影響するものなのか?これも実際は経験しないことだからわからないのである。そういう資料もないからわからない。本当に住めないのか?その判断は何によって決めるのか?
ただ科学的なものだけで決められるのか、現実問題として老人なら放射能と関係なく愛着ある家にもどり暮らしたいという要望がある。そういうのも無視はできない、だからチェルノブエリでは老人は帰って野菜を作り生活していた。それはもう放射能の線量だけでは判定できない、人間としての切実な要求を無視できるのかとなる。別に老人なら多少の放射能を気にしないからである。


今回の津波では一尾の魚にも恵みとして感謝してきた、何か最近自分の一身上ではただ自分から金だけをむしりとりむさぼり感謝もしない、ただ金さえとればいいんだとして自分の財をむさぼりくらおうとする人ばかりと接していやになった。何かしてくるならいいが何もしない、お前は金だけをよこせばいいんだとそれは強盗に近いものとなっていたのである。現実に強盗が入ってきたのである。そういう社会風潮になっているのも何か今回の津波と関係しているかもしれない、どういう因果関係があるのか?ただ科学的に規則的津波は起こるだけでは納得できないだろう。ただそういう伝承は科学の時代には軽視されてきた。現代は一般の人でなくても科学者であれ官僚であれ東電の幹部でも政治家でももの言う魚を奪った無頼漢となっているのかもしれない、あの人たちは事故前は紳士とみられていた。エリートであった。でも津波以後は科学に奢り金持ちとなっていた強欲な人たちだとなり罰せられるべきだとなった。それは地元の人たちにも言えるし自分にも言える。

つまり一尾の魚も尊重し資源として食べ物として貴重なものとすることが現代社会からなくなった。あらゆるものが足りない足りないという人が多すぎる。魚でも食べ物でもただむさぼり食らうだけであり食べ物に感謝している人などいない、農民でもなぜ米が高く売れないのだと商品として見ているのが今の社会である。実りそのものに感謝する人はいないのである。自分もただ金を要求されるむさぼられる対象でしかないと同じだった。感謝も何もない、金をもらえばあんたなんか何の用もない、死んでしまいとまでなっているのだ。それは親子でもそんな風潮でありモラルの頽廃が末世症状を呈しているのだ。
こうした末世にはやはり大きな自然災害が起きてくる。そういう考えるのもやはり科学的なことだけで人間の起きる事象が解明できないからである。

 
posted by 老鶯 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年09月21日

九月二一日は姉の命日 (弔いの短歌ー死ぬまで戦争のことを忘れなかった)

 

九月二一日は姉の命日

(弔いの短歌ー死ぬまで戦争のことを忘れなかった)

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小林カツ

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白と黄と紫の菊交じり合い姉の命日我が墓に挿す

姉死してはや五年過ぎにけるかな世の変わりのめまぐるしかも
我一人姉の命日知りにしや墓に参りて秋の蝉鳴く
戦争を忘れられじも最後まで語りて死にぬ引きずる傷かも
死ぬまでも戦争のことひきずりつ姉は死ににき五年のすぎぬ
病院に勤めし女性紙に書き送るというを何度も語りぬ
戦友と交わせし文の我が家に束なし残り古りにけるかな
若き日の従軍看護婦その姿りりしきかも誇りなるかな
学校を一番なりと誇らしき姉の姿を思い出すかな
認知症になりて悲しき死ぬ間際我優秀なりと虫の息に言ふ
人はみな最後はあわれ弱きもの過去を誇るも虚しくなりぬ
自転車に野菜を運び店支え我が家の栄姉もたらしぬ
ふるさとを隅々歩む自転車にその足太く健やかなる女(ひと)
葛尾よりもらい子なりし我が姉の父の恩義を忘れざるかも
若くして戦地に行きしその心苦悶に満ちし歌の残りぬ
肺病に二五歳に死す人のその無念墓に記して我に訴ふ


春のお彼岸の頃は牡丹の花が咲くから「ぼたもち」、秋のお彼岸は萩の花が咲くから「おはぎ」と呼ばれるだけの違いである

こんな意味があったのは面白い。春のお彼岸は三月ころだとすると牡丹はもっと後に咲くからそうなのか?萩は確かに今頃咲く、こういうの仏教とは関係ない日本の死者を供養する文化なのである。供養するたびに寺に僧侶に金を払うのはまさにそうした日本の習俗を利用して金をもらう商売になったのである。死者に関係することは仏教とは関係ない、そもそもホトケとは仏教で言うお釈迦様のことではない、ホトキが語源であり日本の習俗が仏教化したのである。宗教では死者をそんなに重んじないのである。
ただ死者をふりかえるというとき供養するというのはどこにでもあった。
人間は死ぬとその人のことを客観的に見れるようになる。特に家族だとなかなか客観的に見れないのである。姉の死んだのは二一日であり秋彼岸の頃だった。
実際は昨日であり今日ではなかった。昨日も花をさしたから一応お参りしたことになる。なかなか命日を覚えている人は少ないだろう。人間で大事なのは誕生日と命日である。
死んだら命日が大事になる。たた命日を覚えて墓参りする人は特に親しい家族だけになるだろう。


姉が死ぬ間際まで語っていたことは戦争のことだった。認知症になってからも戦争のことは忘れなかった。それで千回も聞かされていやになった。同じことを千回も聞いたら嫌になる。でも二人だけだから聞かざるをえなかった。シンガポールに従軍看護婦として四年もいたから忘れられなかったのである。その頃かなり優秀でないと看護婦にはなれなかった。資格とるために東京の方まで学びに行った。地元では田舎では資格もとれなかったことになる。姉は特に優秀だからそういうことができた。学校も一番だったといつも自慢していた。体は太っていて健康そのものだった。そして積極的な前向きの性格であり少女の時期からしっかりしていたのである。太っているのだけで体が機敏に動くのである。
だから自分は体も頭も性格的にもだめだから感心していつも見ていたのである。

看護婦はただ姉のようにきつい性格でないと今もつつかないらしい、それだけ過酷な現場だからそうなる。戦争だったら戦場でありどれだけ過酷だったか、今の病院とはあまりにも違うのである。人がばたばた傷ついて死んでゆく、信じられない修羅場の中で青春時代を過ごした。だからそのことは忘れられないのである。最後に日本が負けてジャングルに戦友と逃げたことがまた辛酸をなめたから忘れられなかった。
青春の四年間は長い、だから戦争の是非はともかく戦争を経験した人は八〇歳になっても九〇歳になっても死ぬまで忘れられない、傷もひきづっているのだ。戦争はそういう人たちにとって終わっていないのである。

紙に書くとか紙に出すというのはシンガポールの向かいのマレーシアのジョホールバルというイギリスの病院があったところに勤めていた。赤十字社から招集されて勤務した。紙に書くとか紙に出すというのはマレーシアの女性が一緒に働いていて手紙をだすということだった。
結構親しくなったからそんなこと言っていたのだろう。

その姿を見るとなんともりりしいし誇らしいものがあった。姉は体育系の女性だからまずいろんな理屈はない、ただ御国のために尽くすという単純思考しかない、その戦争がいい悪いとかそういうことは考えない、一途な性格でもあった。もの凄く勝気な性格でもあった。でも戦争で従軍看護婦の時、青春の真っ只中だから戦争か青春だったから忘れられないのだ。そのたりりしい姿はやはり訴えるものがある。戦争を今は否定するがその時は誇らしいものとして送りだされたのである。ではその誇りを全部を否定することはできない、否定したらその生の肝心なものを否定することになってしまうからである。ただ戦争を経験した人はまだ生きているのだから戦争自体まだ歴史なったとは言えないのかもしれない、本当のことが語られていないということがある。従軍看護婦は人を殺したりしてはいないから自責の念はなかった。
だから船倉か終わってもなそうした自責の念はなかったのである。


姉についてはいろいろ語ることがある。戦争のあとに役所に勤め保健婦だった。その時自転車で一軒一軒回っていたのである。その頃の自転車は頑丈なのだか重かったし今のとは違っていた。自転車で回るということ自体かなり体力が必要だった。車がない時代だったから大変だった。ただ姉は足が太く体力があったからできたのである。
店もやっていて野菜は近くから自転車で買ってきていた。その野菜も大きな箱に入れて運ぶから力がないとできないのである。普通の人は簡単にできない仕事だった。
そういうふうにはたらいて我が家に尽くしたのである。

その生い立ちが特殊でありもらい子だったことも我が家に特別尽くした原因になっていた。

ただ最後は認知症になり悲惨を究めた。なぜならあれだけ優秀だと自負していたのが本当に馬鹿になったということが今でも信じられないのである。でも最後まで自分は優秀だと言って死んでいったのである。自分などは常に優秀なところがないと本当に思っているし実際にそうだった。何ら才能ある人間にみられないのが当然だったのである。だからそんなに自分が優秀だということを死ぬまで言っていることか理解しがたいのである。
そこにはやはり奢りがあり最後は悲惨な結果になった。


人間は死んでも何か残す、母の実家の墓にはただ一行亭年25才で死んだ人の名前かが刻まれている。この人は肺病で死んだのである。そのことを聞いているからいつもその一行だけが訴えてくるのである。何かやはりその無念をその一行で訴え続けているのだ。
そういうことが人間には常にある。戦争で若くして死んだ人は生きられなかったからその無念も大きいし恨みも深くなる。だから学徒出陣の学生が残した歌にはありありとその苦悶がにじみでている。人間は簡単にいくら御国のためだとはいえ割り切れるものではなかったのである。ただ姉の場合は性格から割りきっていたのである。

姉が死んでから五年も過ぎたと思わなかった。その間は自分の病気で入院とかいろいろ書いてきたけど信じられない激動の日々だった。まだその激動はつづいている。

自分の墓地の前が復興住宅の建設地になった。この辺はあらゆるものか変わり過ぎたのである。姉が死んでたちまち五年もすきたということもそのためである。ゆっくりふりかえる余裕もなかったのである。姉のことは姉の一生としてフォトブックに写真入りで残せばいいかもしれない、ただフォトブックは簡単に安く残せるけど文章が少ししか入れられないので問題である。余裕ができればそういう方法で記録として残したい。
戦友が集まって残した文章もあり一番の戦友だった人は短歌なども残した文学少女だったのである。その人とは手紙のやりとりがあったが認知症になってからはわからなくなった。ただ束なしてその手紙が残っているのでそういうものも利用したいがその戦友が今生きているかどうかもわからなくなった。もう九〇歳くらいになっているからそうなるとみんな音信不通になってしまうのである。ただこれも歴史としてふりかえり後世に伝える義務が自分にはあったとなる。

2013年09月23日

津神社の謎 (烏崎村の津神社は高台にあったのを移動したのか?)


津神社の謎
(烏崎村の津神社は高台にあったのを移動したのか?)

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《流された神社は11社ほどありました。8社は南相馬市鹿島区に集中しています。その8社のうち、いくつかの由来については市史・町史に記述が残っていました。それによると、例えば、津神社(番組に出た相馬市の津神社とは別)は、番組にも登場した八龍神社(もともとは港の神)が、船の大型化による港の移転の際に、年代は不明ですが、低地へ分社して成立したことになっています。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20110830


鹿島区の8社の神社が流されたというのはなぜか?その場所が新しい場所だった。江戸時代にしても南海老村でも北海老村が先にあり海の方に人家が増えて新しい村が形成された。もちろん八沢浦は明治時代に干拓されたのだから新しい、その一つの神社も流されたし南海老村の神社もいくつか流された。

そして烏崎村に津神社があったがこれがなぜ今の港の近くにあったのか?これはもともと
平地にあったのではない、つまりここで指摘されているようにもともとは家が密集していた浜町という所の高台にあったものが移されたのかもしれない、あそこにあった八竜神社は高台にあり急な石段でありなぜあんな高い所に建てたのか不思議である。

そもそも神社は一般的に高い所に建てる、古い神社はだから一般的には高い所に建てる。ただ今回井田川を回って下浦では新山神社がありあれがなぜあんなに高い所にあるのかも不思議だった。あんな高い所まで津波が来たとか思えないし新山神社と双葉に新山という城があった所がありそこから移住した人が祭ったのだろう。それは江戸時代になるのかそれ以後なのか?ともかく新しい神社でありでもあんなに高い所に祭ったのである。

これは津波とは関係ない神社である。別に高い所にあるからといってすべてが津波と関係しているわけではない、ただ不思議なのは相馬市の松川浦の津(つのみや)神社や烏崎村の八竜神社は津波からぎりぎりでまねがれて社が残ったのである。北原の島商会にゆく坂の入り口の津神社も明らかに津波の記憶からあれだけ高い所に祭ったことは確かである。

津波は道とか斜面を押し登ってくるからかなり高い所まで津波が来るのだ。島商会に行く坂の入り口にある津神社があれだけ高いのはそうした津波が実際は登ってくるからあんなに高い所に建てた。また烏崎の八龍神社も急峻な石段になっている。

小高の綿津見神社もぎりぎりで残ったのだろう。前は崖だったけど津波の勢いが崖では強くなっていた。だから双葉の原発がある所の崖に津波が押し寄せて勢い良く大波がぶつかり砕ける様は恐ろしいものだった。その衝撃がものすごいものだったのだ。
だから海岸線の村は一瞬にして木っ端みじんになった。家が吹き上げられたようになって流された。津波がいかに海岸に接している所で恐ろしいものかまざまざと見せられた。
だから津波の経験があれば絶対にあんな危険な場所に家は建てないのである。またあんなに密集して家を建てない、そういう危険があるのになぜあれだけ家が密集するようになったのか?時間がたつにつれて津波のことが忘れられたのだろう。


古い神社は一般的には高い所にあった、平地にあったのは新しいものだったというとき
相馬藩ではそうだった。烏崎村でも牛島は今の港があったところは家が密集して八龍神社があった所より新しい、なぜならそこは湿地帯でありその後ろに袋村があったが消えたことを考察したが牛島でも牛とつくのは湿地帯でありそこに人が住んだのは新しい時代である。そもそもあそこの港ができたのはいつなのか?明治になってからなのかもしれない、
江戸時代にはなかった。新しい港でありそこに津神社があったけどそれは浜町とか家が密集したところから移された神社だった。もともとは高い所にあった。

烏崎村は烏浜であり岩松氏が鎌倉時代に船で上陸した地点であり烏浜はその伝説に基づいてなづけられた。だから烏崎村は古いのである。牛島にある港はずっとあとにできたのであり明治以降なのかもしれない、ともかく津神社は牛島にはなかった。家が密集していた高台にあったのが移されたのである。そしていつしか津神社が津波を記念したものだということを忘れてしまった。鯨を祭るようになってしまっていたのだ。だから神社の裏側には鯨の碑や金比羅の碑があったのである。


いづれにしろみんなが津波のあとに一番疑問に思っていることはあんな危険な場所に人が密集して住んだのかということである。三陸辺りではここより下に家を建てるなという言い伝えがあった。ならば相馬市の松川浦の津神社(つのみや)の下には家建てるなとなる。なぜなら津神社の下は原釜であり一段と低くなり海岸に接して家が密集していた。

原釜には塩田があった。それは江戸時代である。だからすでにその時から海岸に接して家があった。でもあれだけ家が密集するようになったのは明治以降であり昭和であり最近なのかもしれない、ただそこでも津神社のいわれも明確ではないし無視されていたのである。島商会に行く坂を登る津神社は本当に隠されるようにしてあった。あの神社は本当に不思議である。まさに隠されたまま注目されず何の由来かも知らずひっそりと四〇〇年間存続していたのだろう。神社は由来がわからないのが結構多い、その由来がわからないということはいくら神社があってもその由来が村の人によって伝えられていなかったということなのだ。それが大きな被害となったのである。


結局神社の名前にも問題があった。もし津波神社となっていたらわかりやすかった。なぜ津神社としてまぎらわしいものにしたのか?浪分神社があったが名前から分かり安い、津神社だけでは津波のことをイメージしにくいのである。ただ津波は四〇〇年前の慶長津波から生まれた名前でありそれで津の一字になった。津というのが何なのか?つはつづらとかつづくとかのつであり津の意味はもともとそういう意味だとすると津波に由来していた。なぜ津波になったのか?つづく、つづら、とか地がつづいていて浪がつづき押し寄せることの意味だった。そういうふうに津波を見るようになったから津波に名前が変わった。それまでは海嘯とか全く別な名前だったのである。浪がつづき押し寄せるから津波になった。ただつくづく人間は名前に左右される。津神社と津波神社ではまるで違ったものとなっていたのである。地名でも常にその名前からその土地をイメージする。それが実際の地形とか由来とは違ったものでも名前から人間はイメージする。だから名前がいかに大事なものなのかわかる。津波神社となっていれば誰でも津波なのかと即座に思うからである。ただ津神社では何なのだろうとなって津波を意識されなかったのである。

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島商会へ行く坂の登る入り口の津神社は一番不思議である。
雫(しどけ)とかの村があるけどこれは古いのか?
萱浜(かいはま)はここよりかなり低い地域にあり被害が大きかった。
ここは越中からの移民が主に開拓したところだった。
ここでも村の新旧が問題になる。
津神社のある場所は古いのだろう。萱浜に移民が住んだのは江戸時代である。
津神社が建てられた後に住んだ。では高台の方はそれより前に人が住んでいた。
萱浜の人たちには津波のことが伝えられなかったのか?
移民した人が多くなり津神社のこと津波のことは忘れられたのだろうか?
あの辺の歴史はわかりにくい、どこが古いのかわからないのである。

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小高から浪江にゆく坂の「綿津見神社」もかろうじて残った
これは海岸に接していたからかなり高くないと流された。
これも不思議の一つである。
これだけ高いから流されなかった。
これも古いから津波を警戒して建てられたのか謎である

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この神社の下は津波の水で沼になっていた。
その下は崖になっている。


南相馬市鹿島区の袋村が消えた謎
http://musubu2.sblo.jp/article/61811783.html

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2013年09月24日

津波で消失した右田の松原を回想する写真と短歌


津波で消失した右田の松原を回想する写真と短歌

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常磐木の松の緑のうるわしく浪に揺られし船今日も見ゆ

粛々と松風鳴りぬ秋の日や船もいでたつ漁もありしも
松と松健やかにあれ長き日や実りを豊かに里を育む
松と松よりて松原ありにしを津波に消えて秋となるかな
津波にて妻の死せしとあわれかな家の跡にし菊を献げぬ
松林野路菊あまた夕日さし綿のごとしも実り刈り終ゆ
残りたる庭の大石松二本烏崎村にまた秋の来ぬ
海を見て量にいでざる漁師かな恨みも深く秋となるかな
寥々と松風鳴りて右田浜冬の海にも漁船いでしも


右田の松原は松川浦の松原とは違っていた。松川浦の松林は木が細いしあれは松原というものではなかった。その違いは右田の松原は防潮林として稲作を米を塩害から守るために作られたのだ。松川浦の松林はそういう用途で目的で作られていない、環境的に景色を良くするためにだけ作られていたのである。

右田の松原は田んぼに米の実りがあり質実な松と調和していた。稲と松と海が調和して景観を作っていたのである。青松白砂の風景は松原の風景は稲作と密接に関係して作られていたのだ。松原から確かに海が見えるが一方で松原からは田んぼが広がり秋には豊かな黄金の実りとなり松原と調和していたのである。

そして浜通りで右田の松原のように整った松原はなかった。右田の松原は松風は気持ち良かったのである。松原らしい松原だった。

そういう風景になじんでいたしそれか消失することなど想像すらできなかった。
全く風景が変わってしまった。たた松原がないから広々と海が望めるようになった。
これも新しい景色というよりもともとは松原がなかったのだから海が広々と見えたのである。それはそれなりに気持ちがいいということを経験した。

常磐線からは海が見えないから海を意識しなかったのである。それは松原とか家にさえぎられていたから見えなかったのである。浜吉田駅でもあそこがあんなに海が近いと思わなかった。それは海か見えないからそうなっていた。多賀城辺りでも都市化して建物が密集して海が近いということを意識されなくなっていたのである。

いづれにしろ右田の松原は消失してただ思いだすだけになった。一つの作られた景観だったけどやはり自然景観の消失だった。それはもう再現できない、ただ思い出すだけのものとなってしまった。でも松原や田んぼの景観はいつの時代からかわからないが百年以上とか長いだろう。江戸時代からも作られていた。三〇〇年くらいで作られた松原の風景が根こそぎ消失することは今でも信じられないことたった。
だから松原の松の供養もしないといけなかったのかもしれない、松もまた生き物だからである。松がまだ枯れそうになって何本か残っているのも凄まじい光景である。
一つの執念なのかもしれな、それはなんとか生き残ろうとする人間の執念にも見えるのである。

 
 
 
 
 
 
 
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2013年09月25日

JR北海道の一連の事故は「過疎化し衰退する地方」の一里塚--やまもといちろう

 


JR北海道の一連の事故は「過疎化し衰退する地方」の一里塚
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-やまもといちろう 

2chより


●第一次産業主体の時代


鉄道にかぎらずインフラ関連は人口減少を見込んで、地方をある程度切り捨てないと
 パンクするのは必至。使用率の低い線路、電線、道路、公共施設を維持するコストに
日本が潰される。地方の町村が滅ぶのを情緒的な理由で反対する声もあるだろうが、
どんなとこだって人間が住み始めるまでは、野っ原だったんだ。元に戻るだけのこと。


人間が住み始めるまでは、野っ原だったんだ。元に戻るだけのこと。

もともと野っ原たったというけど津波や原発事故の被害地域は本当にそうなってしまった。 海岸地域の村が消滅して街に人口が集中してきた。コンバクトシティ化してきた。
そもそもなぜ日本は拡散して住んだのか?それは農業が主体だからそうなった。農業には土地が必要であり土地を求めて奥の山間地まで住む領域が広がった。それは千年くらい前から常に土地を求めて人は日本全国に拡散したのである。特に稲作が主体になったとき
山間の不便な地域でも棚田や段々畑を作って耕作してきた。それは農業が主体だからそうなった。戦前は養蚕だったがこれも農業だったのである。ただ農業から工業化したから街に工場ができて働く場となった。ても基本は農業の延長としてあった。桑を生産するから土地が必要だったのである。つまり日本人は土地を求めて不便な山間地でも移住してきたのが歴史である。なぜ満州で戦争になったか?それは日本ではもう開拓する土地がなくなっていたのである。そういう例はこの辺でもあった。ブラジルやアメリカへ戦後にも移民があったのは農民だった。農業するために移住したのである。


それも土地を求めてそうなった。栃窪の上萱とかのような不便な地域に住むこと自体今になるとどうしてだったのかとなるがそれだけ土地がない日本だからそうなった。そして生活の主体は農業だったから土地がなくてはできない、そして農業だとどういう辺鄙なところでも田と畑を作れば最低限自給自足できるという考えがあった。だからどんな辺鄙な場所にも農業できれば人が住んだのである。北海道でもやはり明治維新後に武士が開拓に入った。それも農業するためだった。広大な土地があるから農業の新天地として移住したのである。
戦後にしても戦争の引揚者が全国に開拓に入った。この辺でも小池に引揚者が開拓に入った人を知っているしあの浪江の津島もそうだった。苦労して団結して土地を開いたから愛着があるというのがわかる。飯館辺りでも開拓者が入った地が多いのである。


●鉄道は石炭や木材など資源を運ぶために最初作られた


北海道に十回くらい行っているから思い入れがある。梅雨の時期にいつも仙台からフェリーで苫小牧まで行っていた。苫小牧に下りると何か空気がまで違うと感じるのが北海道だった。大陸的な感覚になる。北海道の鉄道もほとんど乗った。鉄道はもともと人より物を運ぶことから開かれた。小樽までは石炭を運ぶことであり石炭が今の石油と同じなのだからエネルギー源なのだから生命線となる。常磐線も東京に常磐炭鉱の石炭を運ぶものとして最初は作られた経緯がある。原町機関区にしても森林鉄道が葛尾村の落合とかあれだけ遠くまで通っていたことに驚く。全国に森林鉄道があり鉄道で木材などが東京に運ばれていたのである。要するに資源は戦後まもなくは日本国内でまかなっていたのである。

石油を買うにしてもまだその金もないし発展していないからエネルギーの主体は石炭だったのである。暖房も燃料も戦後十年は炭であり次に石炭だったのである。炭だったら近くの山から作れるのだから燃料は自給自足になっていたのだ。人間の生活は戦後十年までたいして江戸時代からの連続であり変わっていない所があった。高度成長時代を経て急速に変化してしまったのである。

農業とか漁業でも生活ができないとか常に言われてきたのは買うものが多くなりすぎたためである。自給自足だったら水もただであり電気も使わないから電気代も払う必要がない、石油も使わないから石油がとれなくても心配ないとなっていたのだ。ある意味で貧乏でも自給自足だと他国に頼る必要がないのだから心配事も少なくなる。石油が中東紛争で入らなくなるとか大騒ぎする必要もないのだ。ましてや原発がないともう電気がなくなり

生活もできなくなるなど脅されることもないだろう。江戸時代の三〇〇年の平和そうして作られた。鎖国できたのは自国ですべてまかなうことであり貧乏でも他国に頼らないのだから自国で平和が保たれたのである。もちろん極端な貧乏があり目の悪い人が一割近くいたというのは暗黒面だった。それでも戦争がなかったのだから平和を三〇〇年満喫した時代だった。明治維新後は戦争の時代でもあった。三回も大戦争があり太平洋戦争では三百万人以上が死んだのである。グローバル化は国同士の資源とか覇権の争いが熾烈化する。それが戦争に発展する。自国でまかなう鎖国時代だったらそういうことはないのだ。


過疎地を切り捨てるという感覚は農業主体の感覚から大きく変化してしまった。工業であり情報化であれ農業主体でものを農民自体も考えていない、原発事故で農民に話を聞くと米を作っても売れないから農業はもうだめだという。売るためにみんな米でも野菜でも果物でも作っているのが現代なのである。なぜなら買うものが多くなりすぎたからそうなる。昔のように自分たちがまず食べるものがあればそれでいいということはないからだ。
浜通りでは現実に第一次産業の生産高は一割にも満たない、あとは原発や火力発電所の割合が三割とかなっているのだ。だから第一次産業は重く見られない、現実に生活しているのは原発に働いてできていたともなるから原発の方が第一次産業より重要になる。


●東京一極集中と過疎化の矛盾


北海道の問題は農業が今なお主体でありそこで取り残されてしまったのである。ただ観光的には原自然が残っているから魅力があり簡単に廃線にできないという。北海道は外国にも人気がありリゾート地にもなっていることでもわかる。つまり北海道は日本ではない、大陸的でありそこに魅力があった。沖縄もそうである。だからどちらも本州を内地と呼んでいる。外国に行った気分が味わえるのが沖縄であり北海道だったのである。


過疎化とか限界集落というとき突然ここは津波と原発事故でもそれとにた状態になった。もとの野っ原に現実にもどった。そして交通が遮断されて不便になり江戸時代のようになってしまった。でも昔のように自給自足社会ではないから他から物が入らないと生活もできないから違っている。それで六号線でも常磐高速道路でも開通すれば復興に大きく寄与するというのはそのためである。そうでないと陸の孤島になってしまう。一時はそうなってしまった。原発自己周辺では南相馬市の小高ではまだインフラが水道などが整備されていない、これも相当な時間がかかる。ただもう住まないという人々が多いというときそうしてインフラ整備に金をかけても効果があるのかという問題がある。津波原発事故周辺は今回はもう復興できないというときインフラ整備するだけでも莫大な金がかかりそれよ見合ったものがみんな住むかといえば会社がなくなり生活ができないとか市長村が消滅してゆくことなのである。そのインフラにかかる金が膨大になるから都会の人はそんな無駄なものに税金を払うのはいやだとなる。つまり自給自足社会だったら都会の人にそんな文句を言われる必要がなかったのである。そこが昔と根本的な相違であった。


一方で東京であれ大都会に異常に人間が集中するのもいびつなのである。結局時代の変化がありそれに簡単には対応できない、それでも工業化というけどこれも安定しているわけではない、いつ衰退するかもしれない、農業は一応土地があれば食料は得られるという安心感があり農民は土地は簡単に手放さない、いくらグローバル化だ、TPPだと言っても食料は自前でないと不安だから各国で保護しているのだ。国造りはこういうことも含めて総合的に見ることが必要になる。それが時代の変化でできていないのだ。ただ便利な生活をするには医療でも介護でもコンバクトシティ化するのがいい、田舎だと一軒一軒回るだけで手間なのである。街に人口が集中すれば楽になる。過疎地では十分な医療を受けられないというとき介護も受けられないというときそれは今の時代では贅沢だから街に集中して住んだ方が楽だとなるのだ。いろいろな贅沢をするには街の方がいいとなる。だから川内村では一旦郡山などで補償金で生活していたら帰りたくないとなってしまったのである。そこに住んでいるときそういうものだと思っていても一旦贅沢な便利な生活をしたら川内村に帰らないということになってしまったのである。


ある程度過疎地は切り捨てて、都市部に集住させるべきではある
 だけど、東京一極集中はいかん
既に限界を超えて肥大化したため、出生率が最低に落ち込んでいる
 そんな都市圏が全国から若者を吸い上げるので、国全体の少子化が加速している
 あと災害や戦争で東京が壊滅したら、現状では国が終わってしまう
複数の都市圏に分けて集中させる、分極集中が必要


これが妥当な意見なのだろう。浜通りは別に過疎地ではなかった。鉄道も通っていたし
都市もあった。限界集落というものもなかった。東京に近いということもあり会津などとは違っていたのである。北海道は内地ではない外地だという距離が問題を生んだのである。

 
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2013年09月26日

避難民の仮設に住む人たちが負担になっている (優先的に施設に入居できるのは仮設の人)

 

避難民の仮設に住む人たちが負担になっている


(優先的に施設に入居できるのは仮設の小高の人)

今日ケアマネか言っていたけど仮設の人は優先的に特養に入れるという、仮設は部屋が狭いし在宅で介護できる状態ではない、だからどうししても仮設の人が優先的に特養に入れる。他の人は順番待ちになるのだがもう何百人待ちになるから入れるのは困難を究めている。近くの人は障害者と母親の二人を兄弟で介護している。一人は首が頸椎が悪いとか言って特養に入れないんだとなげていた。今は普通の状態でも特養に入ることはむずかしくなっていた。それで津波原発事故でこの辺は混乱して仮設の人が増えた。

そこでイワキ辺りでも避難民だけがなぜ優遇されるのだと問題が起きた。

避難民は介護する人をかかえたら仮設ではできない、だから優遇されるというのはここでも同じだった。そういう不満がイワキにもあったし南相馬市だと鹿島区にもあり補償金をもらえないから鹿島区ももらえるべきだとしてもらったのである。それは東電からではない市長の判断で市の財政から出したのである。今度は東電から補償金が同じようにもらえるらしい。精神的損害として一人十万がもらえる。とすると前にもらった一所帯百万は市の財政から出したのだからそれまでする必要はなかったともなる。


ただ結局南相馬市の混乱は小高と原町と鹿島が合併して長くはない、そこにも混乱する原因があった。利害調整でも不公平だったのである。小高の区役所はモダンで立派だった。鹿島区は前の役場を利用しているだけだった。小高は合併後にあのガラス張りの区役所を建てた。なぜ小高は鹿島より優遇されているのだろうとなる。小高には高校もあり鹿島にはないから鹿島には前からも何ら施設もないとなげていたのである。


津波原発以後は小高は苦境にたたされた。町が消滅するのではないかまでになった。そして原町区であれ鹿島区であれ仮設に大勢が住むようになった。しかし二年半すぎて何か小高の人たちが南相馬市では重荷になってしまったのである。その顕著なものとして仮設に入っているために介護できない、もともと自分の家に住んでいたら在宅でできたかもしれないけどできない、それで特養に優先的に入れる。そうなると他の人は近くの人のように入れないで困っている。小高の人が重荷であり負担になっているからそうなったのである。いくら補償金をもらっていてもそれだけで金だけでいま状態は解決できない、小高の人の問題は第一住む場を失ったのだからどこに永住的な住まいを求めるかというとそれが小高に土地と家があってもできない人が多くなれば原町区とか鹿島区に求める。でも土地が得られないから家が建てられないともなる。津波で家を失った人はもう小高には建てないだろう。そういう負担が南相馬市全体にかかるようになったのである。
だから市では小高に住んでくださいと言っても小高の人は鉄道も通らないなど嫌だとなる。ではあなたたちはどこに住むのですかとなると小高以外の地域になるがそれだけの用地を確保できない、復興住宅は鹿島区に三カ所工事している。


小高の人もどうしたらいいのか?帰るべき帰らざるべきとか思案しているだろう。これは他の避難民でもそうである。どうしていいのかわかりにくいのは放射能の影響が明確にわからないからである。ほとんど影響がないのだと言う人もいるし非常に危険だと言う人もいてわからないのである。それを各自で判断することもむずかしいのである。
とくに子供をもつ母親や若い女性は流出している。そうすると残されるのは老人になるがその老人では復興はできない、老人に金があっても労働力がないのだから復興できない、相馬藩の飢饉の時は相馬藩に別に荒れた土地しかないのに越中の移民が来て建て直した。越中の移民は別に金もないし着の身着のままで移民してきた人たちである。

それでも復興できたのは移民は何もなくても労働力として荒れた土地を開墾したりして住んだから復興できたのである。今は補償金とかあっても若い労働力がないのだから復興できないのである。だから復興は必ずしも金だけではできないのである。
荒れた土地でも必死に働きそこに住もうという人たちがいたから相馬藩の飢饉のときは立ち直った。今は放射能が怖い、インフラがない、鉄道が通らない、働く会社がない、なにかやにやと便利な生活ができないからもう住まないとなる。それでもう復興はできない。

そしておかしなのは避難民は毎日パチンコで遊んでいる。現実に東京まで競馬に行っていた若い人がいた。一方で医療や介護の負担で苦しんでいる人たちがいる。要するにイワキでもそうだが避難民は市全体では確かに財政収入になっても負担になる、重荷となってしまう。だから生産活動をして下さいと市長が言った。でも避難民にすれば簡単にそんな仕事ができるスキルをもっている人は少ないのである。それと六〇以上とか若くて五〇以上とかが多いから仕事したくない仕事に就けないということもある。農業だったら慣れているからできるにしてもそういう土地もないのだからできないのである。

要するにどうしも避難民は負担であり重荷でありやっかいものとなってしまい嫌われる。
ただ沖縄のように政府から賠償金を要求するだけのものとなってしまう。それで今嫌われているのが東京都民の次に福島県民になってしまったのである。
浜通りでもそうしたツケが回ってきたのかもしれない、原発では恩恵を受けていたのである。前の知事の佐藤栄佐久氏の娘が東電に就職していたというのは本当なのか?「心に青雲」のプログに今日書いてあった。佐藤栄佐久氏は東電にプルサーマルでしつこく嘘つくなと問いただしていた。それで嫌がられ渡辺恒三一派に失脚されたと書いてきた。
でも佐藤栄佐久氏もそうした東電から甘い汁を吸っていたのかとなる。東電にはそうして縁故就職した人たちがかなりいるらしい。そうしていろいろな権力をもつものをとりこむのが東電だったのである。権力とは常にそういうものである。


いづれにしろ小高には合併する前に東北電力の原発が建つことが決まっていたのである。それですでにその交付金が小高には下りていたのだろう。その後合併して南相馬市にもその交付金がおりたが反対してもらわないようになり原発は中止するようになった。
その敷地が残っている。その土地の利権だけでも大きかったろう。それで大工さんが小高には原発が建つから景気よくなるよと言っていた。みんな利益になることしか考えない、原発は人間の欲望の象徴だったのである。科学もそうである。人間のあらゆる欲望がかなえられるものとして科学技術が信仰になったのである。それはカルト宗教団体でもあらゆる欲望がかなえられるとして毎日題目あげているのと同じである。
そうした人間の限りない欲望が原発事故に結びついていたのである。

 
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