2013年08月19日

カルマとはそもそも何なのか? (カルマは借りであり必ず返すことを要求される)

 

カルマとはそもそも何なのか?

(カルマは借りであり必ず返すことを要求される)


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●借りは金銭だけではない、必ず返すことを要求される


貸し借りをしたということがハッキリとは分からないこと、「まさか!そんなことが貸し借りになってしまうの?!」

誰にいくらの借り(負債)があるのかということが、生きている時に顕在意識ではあなたには分からないというところです。


「あなたにはいつこれだけの貸しがあったよね。今それを○○の方法で返してね」とどこかの誰かに言われてしまう可能性が大きいということを意味します。


AさんはBさんに1億エネルギーの借りがあったので、Bさんに借金のかたにあなたへの1億エネルギーの貸しを渡す。

世の中には偶然もなければラッキーもアンラッキーもない。

必ず貸し借りは精算されるようになっている。

貸しはいつか必ず返ってきます。あなたが返してねと求めなくても返ってきます。なぜならそういう法則が存在するから。
http://www.circulation.co.jp/bhs/column/column37.html


ここのサイトは不思議である。人間の借りは必ず返さねばならない、借りとはカルマなのだ。親子の間では別に子が親に借りがないというけど実際はある。自分の親は子供のときだけではない大人になってからもさらに六〇頃まで食事の用意をしてくれた。それを自分は当たり前だと思っていた。

そういう人は今の時代にはニートとか結構いる。子供のときはやむをえないとしてもそれからいい大人になっても食事の用意とかをしてくれるとなると相当な借りができていたのである。だからその借り(カルマ)は返すことを要求される。今や介護に追われているのもそのためである。毎日食事を作って出している。自分がゆっくり食事できないこともある。食事は運ぶだけで結構手間なのである。
食堂がなく台所と食事するところは離れていることで運ぶことが手間になっているのだ。
自分の場合は明らかに借りを返すことを要求されてそれをしている。そのカルマの借りの自覚がこの年だからわかってやっている。普通はこの人の言うように何か借りなのかわからないのだ。

どこでそんな借りを作りましたか?借りが何か自覚できないのである。でもいづれその借りをカルマを否応なく自覚させられるときがくる。それが60以降から明確に現れてくる。否応なく自覚させられるのである。六〇代の人を見ればわかる。人生の総決算のようなことが現実として結果としてカルマでも課せられて拒否することができなくなる。ただ自分に何の借りがあるのか自覚できないのである。それが否応なく六〇代になれば自覚させられるのが恐いのである。その前に手をうっておけばこんなふうにはならなかったと後悔しても遅いのである。


●大きすぎる借り(カルマ)はもう返せない


まず生活保護の人などは一見今や恵まれている。この貧乏時代になり生活保護の方が恵まれているのが批判されるようになった。でも実際本当にそうなのだろうか?生活保護って一切が借りになっていないか?国民から膨大な借り(カルマ)を作っている。でも生活保護者にはそうした意識がないのである。当然の特権だと思ってい人もいる。でも生涯生活保護になると一億円以上の金が国民から使われることになる。一億円借りたらもう返せないのだ。もうカルマは借りは返せないのだ。そしたら結果的にどうなるのか?かえって一億円得したではないかと思っているが実際は返せないために人生が破綻する人が多いのではないか?あまりにも借金が借りが大きくなると返せなくなる。積もり積もって返せなくなる。そういう人がいてその借りを自分にも要求してきた。だから自分が病気で苦しんでいることも借金の要求するにはチャンスとまでなって迫ってきたのである。借りを返せなくなると逸れか犯罪者に近くなってくる。そして人生が最後に破綻してくる。生活保護者の子供の四割がまた生活保護者になっているということでもわかる。借りが大きすぎるからもう子供でも返せないのである。せいぜい一割から二割くらいの特別優秀な人しか返せないように思う。

生活保護がすべて悪いとはいえない。老人の生活保護は違っているし障害者も違っている。老人は別に一律に一〇万とか年金を支給した方がいいようにも思う。ただ生活保護が長びくと借りが大きくなりすぎるから人生そのものが破綻する人が増えてくるのではないか?そういうふうに自覚している人も少ないのである。
借りそのものカルマが自覚できないからまたカルマが輪廻してゆく、その借りとはどんなものなのか自覚できないのである。カルマは図のようにBがAにカルマを負っていたとしても返せば逆にBがAにカルマを負う夜討ちなっていても気づかずにカルマを要求してくることがある。いつもカルマは一方的な関係ではない、変化しているが変化していることにもカルマはきづきにくい。だからそこで理不尽に思う。こっちがこんなに尽くしているのに相手は何もしてくれないとかなる。そういうことは人間関係では日常的に起きているのだ。


例えば変な話だけど自分は旅ばかりしていた。すると「お前はどれだけ旅館やホテルに泊まり世話されたか?それがお前のカルマだ、借りだ」とまでなる。だからお前は今度は旅人をもてなすことで借りを返さねばならないとかなるかもしれない、まだ生きる時間が長いとするとそうなるかもしれない、実際に世界を旅して世話になったからとボランティアで一室を世界の旅人に提供している人がいた。旅でも借りを作っていたのである。あまりにも病弱で医者や看護師に世話になったりするとその借りも相当に大きくなっているかもしれない、そしてその借りを返すことを要求されるかもしれない、医者になった人が看護師でも前世では医者や看護師の世話になることが多かったから今自分は恩返し借りを返すために医者や看護師をしているという人もいた。人間は借りをもたない、カルマをもたない人はいないのである。そのカルマが借りが大きくなりすぎるともう担いきれないのである。
莫大な借金をしているともう担いきれないから人生が破綻する。回りにも多大な迷惑をかけて破綻する。生活保護者はそういう危険があるけど自覚している人は少ない、もし自覚したら必死でそんな借りのカルマの生活をしようとはしないだろう。カルマは借りが自覚できなくても必ず最後は自覚させられる、借りを返すことを要求される。


●金銭的な貸し借りも神の帳簿に記されてごまかすことができない?


金銭的にも何か不思議なのだけどそこには神がかかわっている感覚がある。自分が経験したことではそうである。大金を盗まれて失ったのもやはり自分の借りがあったからかもしれない、ただ盗んだ方からすると大きな借りを作りカルマを作ったからその借りを自分はしなくても誰かから厳しく請求される。その金額にみあった額が厳しく請求される。でも生活保護者のようにその借りが自覚できないのである。一億円盗んだら誰も絶対に返せないからその借りは払うこともできずに残る。それは地獄までその借りをもってゆくことが恐いことなになる。10万だったら返せるだろう。でも一億円となると誰も返せないから、その借りをカルマを担い死んでゆくからまた生まれて輪廻してそのカルマを返す生を送るとなる過酷なことになる。この借りは例えば知らず担っている人もいるのだ。多額の収入を得ている人もそうである。そもそもそんな一人でそんな多額の収入を得ることは不可能だからである。みんなの協力があってもうけることができるからだ。その収入が身に余るものとなるときそれはその国だけではない全世界へのカルマに借りになっているのだ。だからすでに大金持ちは世界を支配するサタンと化しているともなる。

常に言われるロックフェラーやロスチャイルドがユダヤが金融を支配して世界を牛耳っているとかなる。要するにその操作する金がすでに天文学のような数字になっているからであある。何か巨大な権力化するところ金の集まるところはサタン的になっていないか?
カルト宗教団体でもそうであり政府でもそうであり官僚でもそうであり東電のような大会社でもそうであった。その巨額な金が借りなにっていて返せなくなっているからそういわれるのである。金がありすぎても借りになっている。借りは返せねばならなくなっている。


この借りを返さねばならないというときこれは自然界でもあるかもしれない、なぜ津波でこれほどの被害が犠牲があったのか?やはり海の恵みがあり恩恵お大きかった。人間は自然にも大きな借りがあった。その借りを返すことを自然界からも要求される。自然に何を返すのだとなるがそれは海の恵みに対して感謝の気持ちをもつことだった。常に海の恵みなど農業と同じ様に足りない足りないとばかりになっていた。もう漁師とか農民になる人はいない、後継者はいない、もちろん自然界に恵みを感謝するような人もいなくなった。ただ足りない足りないというだけであった。それで原発を誘致した方がいいとなりその原発が津波で破壊された。それは自然界からの罰だったかもしれないのだ。

借りをカルマを返さないものには恐ろしい罰が与えられる。卑近なところでも金銭の貸し借りでもそれもごまかすことができないように借りは返さねばならない、変な話だけど大金を盗まれたとしても別な方からもどってくることもある。盗んだ本人は返さないとしても他の人から厳しく取り立てられたりする。その盗んだ分が他から補てんされたりもする。金銭の貸し借りも公正でありごまかせないところがある。貸し借りでは金銭が具体的でわかりやすいのである。金銭のやりとりのなかに神が関与しているのではないか?何かそういうことを自分の経験で感じたのである。


●神話も人間への借りへのカルマとしての罰を伝えていた


シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。


これもまたカルマだったのである。何か人生で有意義なことをしないものは借りができてカルマとなりそれが罰となり無意味なことを延々とさせられる。有意義なことをしなかった罰としてそうなっているのだ。人生何も苦労しないで遊んで暮らせればいいというのもある。ただ働くことだけが有意義なことではとない、働きすぎた人はただ蟻のようよ働くばかりで花にも自然の美に感じることがなかった。これも異常なことだったのである。だからただ働くことだけが意義あることではない、働く意義は他人に押しつけられるものではなく自分が見いだしてゆくものである。それが自由社会では特にそうなる。そのために働かない時間も与えられるのが自由社会であり豊かな社会なのである。でも結果的にその自由が遂に何も働かずに働くことを見いださずに終わるということもある。なぜならなかなか自分で働く意義を見いだすことがむずかしいからである。働く現場にあって働いていると働く意義も見いだしやすいのである。家事でも働く意義がありそれは働いてみないとわからないのである。労働の意味は自分で働いてみないとわからないことが問題だったのである。


ともかくカルマというとき人間は何かしら必ず借りがある。すでに生まれたら親の世話になるし地域の世話になるし国の世話にもる。すると国のカルマも借りも背負うことにもなる。そういう大きなカルマの借りの自覚をもつ人はよほど優れた人だろう。普通は狭い身近なカルマしか意識しないからである。大きな国となるとそれぞれカルマを背負うことになる。戦争でもいろいろ言うがアメリカの原爆はもうぬぐいされない大きなカルマを借りを日本に作ってしまったのである。それは日本だけではない世界にそんな世界を破滅させるほどの武器を作ったことでカルマを作ったのである。だからアメリカはこのことで未来永劫このカルマから逃れることはできない、だから日本を守ることはこのカルマの故に要求できるのである。どんな言い訳してもこんな大きなカルマをのがれることはできないのだ。だから日本の戦争が悪いものとして中国や韓国にアメリカの正当性を主張させているのも矛盾なのである。アメリカは原爆を落としたことで日本は必ず復讐するとして恐れたという今も恐れているというのは本当だろう。それは良心の恐れでもある。その恐れから呪縛からは逃れることができないのである。それだけ原爆の罪は大きかったのである。