2013年08月12日

墓とは死者とは何なのか(続編)

 
墓とは死者とは何なのか(続編)
墓のことで考察してきたけど墓がなにのかは死者が何なのかになるからわからないのである。


〇骨(屍-姓(かばね)が死者である

〇名前が死者である(戒名をふくめ)
〇死者はその土地の土と化す(土地のものとなる)
〇物語が死者の存在を示す
〇生者が死者があるとすれば死者もある


●骨は屍は姓となり特権利益財産と結びついていた


お盆だけど墓か何かがわかりにくいのは死者が何かなのかわからないからである。死者は骨だというときそれも昔から言われてきた。骨が屍-姓(かばねね)の起源であり意外といかなる姓に属するかが重要になる。苗字が違うと一族の関係にならないということもある。この骨が屍が姓が重要視されるのはその姓を引き継ぐことは武士だったら家名を引き継ぐことでありそれには俸祿が与えられ特権が付与されていた。骨を大事にして一つの姓に属することは古代から何かしらの利権、特権が付与されていたためである。だから骨から生じた姓でももし何かしらの特権が付与されたものでないのなら引き継いでも何も利益が得られないということで引き継ぐこともしないだろう。平家源氏を名乗るのは平家一門であり源氏一門であるという身分を得ることだったのである。


それは自分の家で実の兄ではないが20数年前に交通事故で死んだ。その墓が実家にあり名前も刻まれている。でも兄には娘がいるからその娘が骨をもってゆくという、それが筋だからというのもわかる。でもその娘は自活していないし問題があり金もない、交通事故のとき保険金がおりたがそれももうない、20数年すぎて何もなくなっていたのである。残ったのは骨と実家もない墓だけだったのである。そこから得るものは骨しかなくなっていた。でも交通費もいつも自分の家で払っていたし業者に頼んで墓の中をみてもらう金すらないのだ。そこには何ら財産権も特権もない、骨と消失した実家の墓だけがある。そういうものを引き継いでも何ら得がない、特権も利益もない、そしてその骨を東京にもってゆくにしてもその金すらないのである。となるとそういう骨が父親の骨でも何の利益もないならかえって金がかかりかかわらないという人もでてくる。息子でも娘でも同じである。みんながそうでないにしろ故人が財産と結びつくときなお故人も重要視されることがありそれは財産のためである。その人自身を供養するのとはまた違っている。


現実に兄が交通事故で死んだとき大きな保険金がおりることでもめた。それは死者を思うということよりその金のためにもめたのである。死者もまた金のために利用されるだけだとなる。心から供養するということとは違ったものとなるのだ。財産が関与するともう死者の供養とかどうでもよくなる。それが欲で争うこの世の実体でもある。


●死者の問題は実は生者の問題だった


名前が死者であるというとき最後に残るのは墓石と名前だけだとなる。墓石が消失しても名前だけが残っているのはいくらでもある。それは歴史的な人物だから残っている。そして墓に骨が入っていても名前がないものがあった。それは名前を刻むのに六万とかかかるからその金がないので刻まない、ただそれ以上に名前を刻み供養する心もないともいえる。

今回の津波でまだ行方不明の人が2000人以上いる。死体が見つからない、骨がない、それで骨がない墓がある。まだ死んだと確定されないから墓があっても虚しいとか言っていた。骨が入らない墓が墓なのかとなる。でももう死体は見つからないのだから死んだものとして骨は入らなくても名前だけ刻んで死んだものとして供養することになるだろう。


結局墓とは何のなのか死者とは何なのかなのである。骨に死者があるのか?名前に死者があるのか?
田舎だと死者は土に帰り故郷の土となる。死者は祖霊となり山に葬られ山に眠り村の守り神になる。そういうのも死者とは何かを伝える日本独特の文化である。死んだら千の風となるというのも死者が一体何なのかわからないからそうなっているのだ。骨に本当に死者が宿りつづけるのかというのも疑問である。骨だっていつかは消えてしまう、灰となり土となり消える運命にある。


結局死者とは何かというときそれは死者の問題ではない生者の問題である。死者は何かできるのか?何もできない、確かに祟りがあるということが言われるけど現実としてそれもわからない。死者は永遠に沈黙しているのだ。死者は何も主張できない、主張するのは生きている人間である。死者をめぐっても争うとき生者が争っているのであり死者はどちらの味方でもない、味方につけないのである。例えば靖国参拝でもめるのは死者に対しての生者の態度が別れているからである。戦争で死んだ人は国の御霊になるということで祀られている。一方で左翼は戦争で死んだ人でもあたかも犯罪者のようるな扱いになると両極端でもめることになる。生者の都合でも死者の行方も決まるのである。死者は何も主張できないし権力もないからである。


●死者は生者がそこにいると思えばいる


そして奇妙なのは死者がそこにいると思えば死者がそこにいる。生者がそこにいると思えば死者はいる。実際なぜ墓参りするのか?そこに死者がいると思っているから墓参りしている。当たり前の事実だけど墓にすでに骨はなく土になっているのも多い。だから本当に墓に死者がいるのかとなるとわかないのである。ただ死者がいると思っているから墓参りしている。生者でも死者がいると思えばそこにいることになるのだ。だから津波の被害で死んだ人でも骨がなくても名前を刻み死者いるとして墓参りすれば死者はいることになるのだ。現実に骨をもってゆくからと言われたとき骨をもってったら死者も墓からいなくなるのかというとそれもわからないのである。骨に死者がいると思っているからそうなるのであり別に生者がまだ死者はそこにいると思えば死者はいるのである。


生者の思いによって死者がいるかどうか決められているのだ。いつまでも死者を忘れない人がいるとすれば死者は常にその人ともにいることになるのだ。でも実の親でも迷惑ばかりかけたとか問題があれば親でも供養しない人だっている。だからいつまでも死者でも思われる人は生きているのである。
現実に死者がみんないて欲しいと思うわけではない、肉親でもそうでさんざん迷惑をかけた親ならいてもらえたくないとなる。その人は死んでもいてもらいたくないとなるから実質は死者はいなくなる。夫婦でもすでに一緒の墓に入りたくないとなればそうである。どちらかが死んでもいてもらいたくないとなるし供養もしないとなれば死者はいないのである。


だから死者は物体化したものではない、墓でもない、骨でもない、名前でもない、生きている人がそこにいると思うとき死者はいるのだ。靖国でも死者がいると思えばいるしいないと思えばいない、ただ無数の名前だげがあるのであり骨とかそうしたものはすでにない、ただ国の御霊として国民かあるとすればあるないとすればないのである。国民の心が二つに分かれているからあるともないともいえないのである。そのことを誰が決めるのかというと生きている今の国民なのである。死者がいくら靖国で会おう靖国で祀られようと言って死んでも生者がそうみなければそうはならない、死者にはすでに主張できない、権力もないからである。