2013年07月31日

放火と1人殺害容疑、集落の男を逮捕 山口5人殺害事件の深層 (家族の解体現象が少子高齢化が大きな原因では)


放火と1人殺害容疑、集落の男を逮捕 山口5人殺害事件の深層

(家族の解体現象が少子高齢化が大きな原因では)


●妻もいない、子供いない、家族がいない単身者の危険


高齢者犯罪増加の原因としてまず挙げられるのは、社会的孤立である。現在、高齢者世帯の過半数が「単独」もしくは「夫婦のみ」の世帯である。このような場合においては、社会的つながりが希薄化し、身体的にも従来のように活発な活動ができないため、地域社会から孤立した暮らしになりがちであり、困った時に頼れる存在が少ない
http://www2.osipp.osaka-u.ac.jp/~yamauchi/gakubu_hp/2012/paper/5.pdf


10代後半に川崎市へ移り、左官の修業を積んだ。約20年前に故郷に戻った


周囲との関係が変わり始めたのは、両親をみとった後の、ここ数年だった。近所の男性は「声を掛けても答えない。

 保見容疑者に興味をもったのは同世代であり金の卵として山村を出て川崎で働いていた。そういう人はこの当時かなりいた。左官としていい腕をしていたのかもしれない、それが親の介護で故郷に帰ってきた。この介護は60代では共通した課題となっているのだ。いかに介護している人が多いか、これも自分の体験と共通している。二人の親を介護して看取ったということもわかる。二人の親のめんどうをみなければならなくなっているのだ。だから二人の親を介護していたのだからそんなに悪い人とは思えないのだ。その経歴でも左官をしていたのであり普通の社会人の夜討ちも思える。


ただここで致命的な問題はこの人には妻がない、子供もいない、単身者だったことなのである。これが高齢者を犯罪に導く大きな要因になっているのだ。現代は家族のつながりが希薄化している。特に妻もなかった。他の人はまだ妻がいたから良かったのである。そしてここが限界集落であり老人しかいない10数人の閉鎖された山間深い村となっていた。この状況は人間のコミニュティとしては偏ったものとなっていた。例えば保見容疑者に妻がいて家族いればこんな事件を起こさないのだ。家族に迷惑をかけるしそれがブレ-キとなる。単身者はそうししたブレ-キがなくなるから凶悪犯罪に暴走することがありうる。そして家族もない単身者がこれから増大するから凶悪犯罪も増えてくるかもしれない、そういう一人の犠牲者として自分も経験している。63才でも今は男性でも女性でも実は45から55くらいの感覚なのである。欲望がそれだけまだ消えないし強いのである。枯れた老人は今は90くらいにならないと枯れたとならないかもしれない、それくらい長寿社会なのである。昔の老人とは余りにも違ったものなのである。そして一番の老人の居場所がなくなっている。家族の中でおじぃちゃんとかおばあちゃんとして居場所がなくなっいる人が多いのである。


家族が夫婦単位と単身者が多くなっている。自分もそうだから共感することがある。こういう所帯は精神的に不安定になりさらに金銭的に困ると不安定度がまして犯罪に走りやすいのである。老人は軽犯罪が多いというが凶悪犯罪も増えてくる。特に単身者はそうありやすい、追いつめられやすいのである。単身者とか身寄りがないものが回りのものが感じないけど追いつめられるのである。今は近隣の関係も希薄であり余計にそうした単身者や身寄りのないものは社会は非情になる。特に金もなければ救いようがなくなるのだ。今30代であれ40代であれ60代の子供でも全く老人に尊敬がない、ただ金を求めるだけのものになってしまった。老人に求めるのは金であり確かに金をもっていて若者が搾取されているということは現実にある。でもなんら老人の価値が認められないとしたら老人も金に固執することになるのだ。実際に自分も驚いた。自分に求めたのは金しかなかった。このじじい金をだして死んでいけ・・・もうその口の聞きようからなにから今の30代で40代でもその価値観しかもっていないのだ。老人は金があるから価値があるのでありなければ無価値になる。その金をふんだくればいいんだという考えしかないのだ。自分が接した人は親戚でも特殊な環境の人だからそうなってもやはり一般的にもそうなのである。その口の聞き方も敬語など使わない、目上の人としての敬語も何もなくなっているのだ。もう年がとっているだけでは何の価値もないのである。

●老人だけの村に未来がない


この事件の深層は確かに昔もそうした津山事件のように30人村人を殺したとかある。それは若者が閉鎖された環境で起こした事件であった。今度は老人が起こした事件だから違っている。これは老人問題なのである。もちろん閉鎖された村の環境もあるが一番の原因は老人問題として起こったのである。そこは老人だけのコミニュティになっていたからだ。つまりそこにはもう未来がない村となっていたのだ。そういう村が全国で増えてきているのだ。この辺でも津波原発事故で若者が流出して同じような問題が生まれてきている。ただ隣が四、五万の人口は維持しているから違っている。そこは空家が五〇軒近くあったとか本当に村には空家が増えてきる。都会にも空家が増大している。子供がいなくなっている。学校も子供がいなくなり消失している。そういう小子高齢化問題は全国共通の問題なのである。村に子供がいないということは村を維持するものがいなくなる。また産業がないから若者は流出するのもそうである。そして最後に残された老人が老人同士のバトルとなり限界集落が消滅してゆく。そういう村が増えてくる。もちろん昔から村には村の生きにくさがあった。ただ一方で村には村の良さもあったがその悪い面だけが限界集落では増大してゆくのかもしれない、老人だけの村はそれだけ暗いものとなってしまうだろう。


特に村は昔から他人の不幸が楽しみだということもある。他人の苦しみを楽しそうにながめている残酷さが村にはあった。今でもある。自分もそういう経験をこの六年間してきた。他人の不幸は甘い蜜というとき田舎では特にそうなりやすい、人間の劣悪な面も田舎では顕著になる。都会の人間の方が優しいというときそれは日頃顔を付き合わせて接していないからである。人間毎日顔をつきあわせて接しているとどうしてもその悪い面も顕著にでてくる。そして田舎では何か楽しみがないから人の不幸をドラマのように楽しんでいるのだ。自分もそういう一人になっていた。そういう残酷さが田舎にはある。田舎の人間が情が厚いということは必ずしもない、特に現代では田舎のいい点は失われているのだ。すると悪い店だけが目立つようになるのである。


ともかくなぜそれほどのにくしみ抱いたのか?なぜそれだけのだいそれた事件起こしたのか?犯罪は基本的に人間が追いつめられるとき誰でも犯罪者になる傾向がある。たいがいは金に追いつめられて借金などで犯罪者になる。借金している人は本当に恐い、それを身をもって味わった。相手が病気だろうがなんだろうがかまわない、借金のためには殺人もいとわなくなる。それだけ追いつめられているからだ。この人はでは何でこれほど追いつめられていたのか?金に困っていたのではないとすると何なのだろうか?村八分にされいじめられていた。このことで殺傷事件もあった。それが尾をひいて恨みとなっていった。もう老人だから都会にも出れないということもあった。老人の問題はもう簡単に住んでいるところから離れられないことにもある。保見容疑者も終の棲家として故郷に帰ってきたが故郷は荒廃して老人だけの村になりいじめられて深い恨みとなった。でもなかなか一〇代のように都会に出ることもできない、帰ることもできなかったのである。


●故郷を憎み死んだ人たち


故郷は必ずしもいいところではない、


「古郷は 寄るもさわるも 茨(ばら)の花」(一茶)
 
 「茨の花」というのは、田舎に行けばどこにでもあるような白くて可愛らしい花です。茨の花はかわいいくても触れれば刺がある。ただ見ているだけならいい、ふれてみたら刺だった。人間でもただ花を見ているならいい、でも触れてみたら刺があったとなる。


「ふるさとは はえまで人を さしにけり」(一茶)


故郷はみんないいところではない、蠅はそもそも人を刺さない,しかし蠅までさすというのは不幸のとき見せ物となりみんなが蠅のように楽しみさしてくるのだ。賢治もそのことを童話で書いた。賢治は一面都会的であるから目立ちのけものにされていたのだ。田舎では何か目立つと目立ちすぎるからそうなる。出る杭は許されない、みんなどんぐりの背比べでないと生きていけせないのである。キリストも故郷で崖から突き落とされ殺されかかった。故郷で求めたのは奇跡であり手品のように奇跡を見せてみろしかなかった。才能だったらどうしてもルネサンスが生まれたのがフィレンツの中都市だったように田舎があったにしろルネサンスなど起こりようがないのだ。本当に住みやすい土地は十万くらいの都市なのである。そこでは自然もあるし文化もあるし経済的豊かさもあるからだ。仙台でも盛岡でも東京とは相当に違っている。それなりに回りには自然はある。だから自然の感性が磨かれないということはないのである。この人も何か変わったオブジェを飾っていたりそういう目立つ人だったのである。そういう人は田舎では嫌う、都会で暮らしたからそうなったとか嫌う。でも今の時代は都会化しているからそういう人も増えてきている。あまりに小さい限界集落だから目立ったのだろう。要するにそこは山に閉ざされたもう出口のない限界集落でありその最後がこんな凶悪な事件にもなった。若いときのように都会に脱出することもできない、逃げるのは山の中しかなくなった。なぜなら終の棲家となっていたからである。自分の場合もなぜ旅ばかりしていいたかというとこういう閉鎖された田舎から脱するためだったのである。

おそらくこれからもこうした老人の凶悪事件が増えてくるかもしれない、老人の居場所がないのだから最後はこういう始末のつけ方になるのかもしれない、老人の意識としてもう終わりだどうせ死ぬんだということが常にある。終の棲家を求め死に場所を求めているのだ。それが最後に凶悪な犯罪となる人も増えてくる。要するに最後にどうせ地獄にゆくなら道連れにしてやれやりたことをして死ねば本望だとかなる。それが凶悪な犯罪でもそうなりやすい。老人にはそういう恐さがあり前にもそういうことを書いた。どうせ死ぬんだやりたいことをやる。これをとめられなくなるのだ。そうでなければこれだけの犯罪を犯せないだろう。歯止めがないからこそこれだけの犯罪になった。若い人にはどうしても老人の気持ちがわかりにくいのである。老人にとって人生を終わったものとして見る。
その感覚がわかりにくいのである。人生の最後からみると人生はわかりやいのである。老人はそれぞれ人生の結果でありそれを否応なく示した存在なのである。
 

posted by 老鶯 at 18:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層