2013年07月23日

墓とは何かは死者とは何かである (骨なのか、名前なのか、物語なのか、何なのか?)

 

墓とは何かは死者とは何かである

 (骨なのか、名前なのか、物語なのか、何なのか?)


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自分には親戚というものはなかった。ただそれでも遠い親戚でもあり東京にいてそれでまだ切れていなかった。その人はいろいろ問題かかえている人だからかかわりたくないしかかわるのをやめた。
ただ墓の問題で変なのは死んだときかかわり実家の墓に骨壺を入れた人はもうみんな死んでしまった。そして骨壺にしても一つだけではない三つあるかもしれない、そしたらどれがもってゆく骨壺かもわからないかもしれない、これも困ったものだと思った。

前にも書いたけど墓に名前がない人がいても骨が埋まっている人がいて困った。その人は世話になった人だから自分の墓の脇に石を置いて名前を刻み供養している。なぜその世話になった人の墓に名前がないかというと墓に名前を刻むだけで六万とかかかる。その金がないからしないのである。
自分の場合もいつも家に来てもらうには親の代からこちらで交通費を払っていた。子供の代になってもそうである。それで骨をもってゆくといっても業者に頼まなければできない、すると金がかかる。だから自分の金でもっていってくれと言った。


ここで問題なのは骨が死者なのかということである。骨をもっていけば墓にはもう死者はいないのか?ただ名前と戒名が刻まれている。死者とは名前なのか骨なのか一体何なのかとなる。屍(かばね)は姓のことだとすると屍(骨)から先祖が決まり一族としてのル-ツが決まる。でも骨がでは死者なのかとなるとそれもわからないのだ。ただ戦争で死んだ人の骨を拾いにゆくというとき骨が死者として最後にこだわるものになっているからそうなる。そして変なのは骨をもってゆくというとき墓にはまた死者はいないという感じになる。骨は東京にもっていったら東京に死者はいることになるのかともなる。

確かに骨はもう墓から出されもっていったのだから骨はないのだから死者もいないと思うのも不思議である。ただ名前は以前として墓に刻まれているのだ。だから死者自体本当に不可解なものである。ただ地元に墓があって墓参りしていれば死者はそこにいるとなる。骨がなくなったのだから死者がいなくなり墓参りもしないとなると死者ももういないとなる。それでも死者とはすでに目に見えないのだからどこにいるかなどわからないのだ。千の風になってというとき自然葬にすると死者は風になったのかとなりその人特有の歴史は消失するだろう。個々の歴史を語っているのが墓でもあるだ。


死者は土地と一体化してあるという思想もある。死んだ人は山の神になるというとき田んぼと深く関係していた。先祖は山に眠り神となり田んぼを見守り子孫を見守るという思想は信仰は土地は密着して生まれたのだ。つまり墓は土地と深く関係してある。でも都会のようなロッカ-型の墓もありもう都会では墓自体作ることは金がかかりすぎるからそうなる。そうなると土地とのつながりもないのである。もともと都会は東京のような所では土地とのつながりはない、だから墓も土地とのつながりはないのである。


墓でも原町の橋本町の墓地は広く実家の墓も直したので広いから墓参りして気持ちいいとなる。墓は一般的に狭いのが多いからだ。だから都会のロッカ-型の墓に墓参りするというのは何か窮屈に感じてしまうだろう。でも供養は大事だというときそれでも墓として機能している。
とにかく人間の結びつきは血縁だけではない、意外と土地との結びつきは深い。日本人の姓がそもそも土地の地名に由来していたのはそのためである。そして土地は一代で終わることなどない、延々とつつぎ土地は消えない、人間は次々に消えてゆくのだから土地の方が永続性があり土地と一体となり人間の歴史は伝えられてゆく、古墳にしても墓でありそれが今も意味あるものとして伝えられている。土地と一体だから消えなかったのである。


ともかく墓とは何かというとき答えがないのは死者が何かということがわからないからだ。死者は生者の都合によっても決められる。戦死者でも今でももめていることがわかる。それも両極端になっている。死者についてはその評価も別れる。ただ生前のことが死者にも影響している。まともに生きなかったものはまともに死んでから扱われない、死んでもかえって迷惑にすらなる。だから夫婦でも同じ墓に入りたくないとかもめている。家族墓というのも問題なのである。家族としてまともであり一体感があるのはいいがみんなそうとは限らない、最近は家族でも昔とは違っている。核家族化して細分化しているのからだ。また家族墓は小子化で維持できなくなっているのだ。跡継ぎがいないということが多くなってくる。家族が細分化るというときまた墓を作ると墓ばかりふえてくるのだ。


いづれにしろ生前に人間関係も分裂していると死んでからもそうなる。生前のことが確実に死者になっても影響する。でたらめな人生を送った人はやはりあとあとまで影響するし死者になっても大事にされない、死んだからといってその人が特別なものになるとは思えないのだ。ろくでもない人間が死んで突然立派な人になることなどないのだ。そして確実にまたそういう悪い人やろくでもない人生を送った人は子孫に影響しているから恐いのである。自分だけのことではない、あとあとまで死んでもその悪いことが影響して与えているのだ。逆に立派な人生を送った人は後々の人に影響して良きものを与えてくれるのである。だから突然死者になったから偉くなったとはならないのだ。そういう人は供養さえしたくないだろうし家族だってそうなのである。死者はいいにしろ悪いにしろ必ず一つの物語を残す、それもまた死者である。だから歴史がストリ-であり物語でもある。最後には骨も名前も残らなくても物語が残る。それが無数の民話として残されている。それは偉人ばかりを語るのではなく庶民が語り教訓を伝えているのだ。


ただどうしても死者が普通の人でも生前に言った言葉とか遺言でもそれはかなりの重みがある。死んだら何もできないというがその生前に言っていたことが死んで重いものとなる。だからそれを無視すると祟りがあるとか死者を恐れるのはやはり死者がなお生きて存在しているから恐れるのである。
それは不思議には人間の良心を死者が見ているともなるかもしれない、だから死者に対しては偽りはできないと言われる。生者に対してはいろいろ偽りがあっても死者にはできないとなる。
だから死者を供養するにしても偽りの心ではできないとなる。