2013年07月10日

浪江の皺石(詩) (一つの石の存在感についての考察)

 

浪江の皺石(詩)

(一つの石の存在感についての考察)

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その石は存在し続けようとしている
その場その空間に定められて深く
その石は風を感じる
春の日に山の奥へ遠くへ道は通じている
春の風、夏に影なし涼しい風、秋の風、冬の風
あたたかな春の光、秋の光、冬の光を感じる
その風の色合いはそれぞれ違う
雨も雪もその石にふり動かざる
その石は苔むし皺が刻まれている
その深い皺は老人のようにも見える
その石はそこに存在しようとする意志
その場、その空間に歳月を経て深化させる
石はそこに重しのように意味をもつものとなる


この石を見たのは春の日であり一回しかない、浪江辺りは実際は良く見ていない、相馬藩内でも地形が複雑であり海あり山ありで見れないのである。だからこの道を通ったのは一回だけであった。今は警戒区域になり通れなくなった。この石に注目している人も名前をつけている人もいない。でもすでにこの石はここにあったのは長い。この石はまだ人間によってアイデインティティ化されていない、人間化されていない石だった。歴史が長いにしろまだまだ人間化されていない自然がある。
それだけ自然は長い時間の中でしか意識されないのである。石はある場所と空間で長い時間の中で存在感をもつ。その石の存在感はその石を抽出した石だけで存在感はもてない、その場と空間があって存在感をもち人に記憶されるのである。石の個性はアイデインティティはその場所と空間があってこそ成り立つ、それは歴史的なものでもそうであり博物館に納めて陳列したときそのもともとあった場所と空間から切り離されるから存在感を失うのである。

人間はなぜ今抽象化されて数字のようになり存在感を失っているのか?それは場所と空間をもたないからである。場所と空間をもたないからまた記憶もされない、次々に変化して今日あったことは明日は全く忘れられてゆく、すべてが一過性であり持続しない、そこにただ消失感だけが残る。
この「皺石」のように持続して存続することができない、他の石でもそこに動かないことによって存在感をもっている。現代ほど変わりやすい社会はない、人間も常に変わり記録されない、人間はただ群集となって流れさる流砂のようになっている。人間はこの石一つのような存在感をもてない。

記憶はある場所と空間をもっていると記憶しやすい、それで奇妙なのは認知症でも狭い一部屋だとものをなくしてもすぐ見つけられるから安心だとなる。部屋がいくつもあるともう記憶しにくい、記憶しやすいのは一定の変わらない場所と空間をもっていると記憶しやすいのである。現代は千とか万とか部屋がありすぎるから記憶しにくいのである。必ず迷路となってそうした無数に分化された迷路化した部屋を巡り回っている。記憶はその空間と場所の作用で持続されやすい。現代は都会化してその生活範囲が無限大に広がったというとき一定の固定した場所と空間をもたないから記憶も消失されやすいのである。墓というのは問題が多いにしても一つの記憶の固定化なのである。エジブト文明もピラミッドも記憶するということに執念を燃やしていた。記憶が消えれば人間の存在も失われるからだ。歴史そのものが基本的には記録である。記録がなければ過去も探り得ようがないからだ。


ベルグソンの『哲学的直観』のなかの時間論を好む。少し抽出してみよう。


時間とは、区切られた一定の空間に群らがるありとあらゆる事物と事象を交通整理して、その空間に収まる分だけの事物を、少しずつ小出しにその空間へ流してゆく力に外ならない。


これはあるプログで紹介されていた一文である。これは自分の詩を哲学化して言ったものである。
一定の区切られた空間がありその中に置かれた事物が時間の中で存在感をもつ、人間によるアイデインティティ化(自己同一化)が計られる。


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つまり人間の記憶は図で示すと次のようになる。一つの区切られ空間の中で時間を経て記憶が定着してゆくのである。そのわかりやすい例が石なのである。だから石を知るにはアイデインティティ化するにはその石の置かれた空間があり時間を経てできることである。現代のめまぐるしく変わる世界はあらゆることが記憶されなないことにあるのだ。そこに存在感もないしただ消失感だけが残る。

現代の情報空間は膨大なもの無限大になっても記憶されものが極めて少ないのである。テレビでも次から次へと現れては消えてゆくだけの情報空間である。一回切りしかテレビに出ない人がいる。でもその人がこの世から消えているわけではない、やはり存在し続けているがテレビ空間から消えるときそれは存在しないと同じであり死なのである。テレビというのは記憶するメデアではなくただ次から次と現れては消えてゆく情報空間である。生きているものはそんな簡単に一回限りで消えるものではないのだ。そこには区切られた空間と場所がないからそうなっている。故郷とはそうした区切られた場所と空間で記憶されたものがありその継続として生きる場なのである。なぜならこの辺では原発事故で警戒区域は故郷から離れるときその記憶も失われてゆく、新たに移り生活するにしても一からまたはじめなければならないとしたら容易ではないからだ。だから老人は過去の記憶に生きるというとき故郷を離れにくいのである。


there is the fixed stone
on the solid place
deeply rooted one


現代は継続されるもの、記憶が保存される場所と空間が欠如しているのだ。それで存在感ももてないしただ消失感だけが大きくなっているのだ。皺石であれ一つの石はそこの区切られた空間で時間とともに存在感をまして成長さえしているのかもしれない、そこに動かないことで充足感をましている。そこで感じるものを凝縮している。風でも光でもその回りの自然と同調して存在している。
その場所と空間に存在しようとしている意志をもってきいるというとき実はまだその場所と空間に存在しているのは存在が発見されたのは最近だともなる。そういう石も自然の事物も多いのである。
自分がこの石を見たのは最近であり一回だけでありその後は見れなくなったからである。