2013年07月02日

トラさんの物語 (原町の実家の墓の悲しい物語)

 

 トラさんの物語 (原町の実家の墓の悲しい物語)
 
 私の母の98才になる実家は原町にあった。父は警察所長でありもともとは金持ちだった。それで幼いときは広い庭で遊んでいたという。もしそのままゆけばお嬢さんとして育ったかもしれない,その運命の歯車が狂ったのは父が事業に手を出したことだったことだったのだ。当時は製糸工場がどこにもできて農家はみんな養蚕をしていた。そういう時代だから機織りの工場の経営に手を出して失敗したのだ。その失敗の原因はそもそも警察所長などは会社経営などに向いていない、経験的にも向いていない。事業経営で成功するのは余程才能に恵まれているか時代の波にのらないと成功しない。
 前親戚だった人も技術者であり頭がいいのだけど失敗していた。この人も技術者としては優秀でも事業経営には向いていなかった。一般的に東北人は商売に経営者などに向いていない、こつこつと地道に仕事している職人的技術者に向いているのだ。のるかそるかなどの大勝負をする大阪のような商売には向いていいないのだ。その人もサラリ-マンとして技術職として地道にやっていれば事業に手を出さなければ失敗はしなかった。人間はやはり向いていないものには手を出すべきではない。
人間の失敗には必ず教訓がある。その失敗を手本に次代の若い人も学ぶということがある。
 
ともかく母の父はその工場で働いていた女性をメカケにした。それがトラさんだったのである。メカケといっても確かに妻がいたけど脳梗塞で寝たきりなのだからそれで家のことをしてもらうこともあった。父親は警察所長でいつも威張っていたというと妻の看病も家事もできな、ただ威張るだけの人だったのだろう。おそらくこの父のふがいなさが実家の悲劇を作り出した元だったのである。母の母は5年間くらい寝たきりであり看病したのはメカケとして後妻に実家に入ったトラさんだったのである。だから母の母の看病もした。小便をとってもらうことなど嫌がっていたという。それもそうだろう。その話を聞くと何かこれも悲惨なのである。トラさんに抱かれて運ばれたりもしたとか悲惨すぎたのである。藁で下のものを始末したとかも悲惨だった。そういう貧乏な時代であり介護用品などない時代だったのである。養老院というのは一部あったかもしれないがほとんどは家で面をとみる他なかったのだろう。


その時母は原町紡績(原紡)で働いていた。この時女性の働き口は製糸工場と女中がほとんどだった。ほとんどの人が製糸工場で働いている。女中も需要が大きかった。その頃電化製品などないのだから家事は一仕事だったからである。洗濯にしてもごしごしと洗濯板で手で洗っていたのである。洗濯も一仕事だったのである。パリでもセ-ヌ川で大勢の女性が洗濯する絵が残っていた。パリなどというと今はそんなイメ-ジがないがやはり事情は同じだったのである。家事は一仕事であることが長い間つづいた。だからどうしても人手が必要であり貴族でも召使が必要になった。日本でも金持ちは女中を必要とした。二人とか雇う家もあった。後に母は東京に出て女中になった。東京では女中の需要が大きいからそうなった。

このトラさんはものすごく気性が激しい人だった。まさに名前と通りの人だった。その時実家には子供が五人くらいいた。姉もいてトラさんが家に入ってきて飛び出して東京に出て帰らなかった。もう一人の長男にあたる人は事情があって家から追い出された。もう一人の弟と母が家には残った。
実際は本当の長男にあたる人は27才で結核で死んだ。その看病をしたのも気丈夫なトラさんだった。結核は感染するから恐いし簡単にはできない看病だった。結局誰もその家でそうしたことをできるものがいないのだからまかせられたのである。メカケといっても家のためにそうして勤めた女性でもあった。その功罪はあったがすべて悪いひどい人ともいえない面があった。ただ母にとって継母であり辛い思いをした。

子供の頃弁当作ってもらったのだがそれを残してもってきたら
「俺の作ったものを食えねえのか」とその弁当を母の前で投げたという。
これはひどい話しだと思った。
その時母は実の母だったらこんなことしないのになと泣いたという。

この話は自分も聞いてひどい女性だなとつくづく思った。その後も何かと母はいじめられていたのである。継母にいじめられる話は昔からあったからこれもその一つともなるがやはりひどいと思った。
実家には弟がいてその人は丸三製紙に勤めていた。これも原町では大きな勤め口であり今も工場があり煙突から煙をだして街中にある。課長までなったからそれなりに生活はできる人となっていた。
ただ最初に嫁に来た人はトラさんが気に食わないと追い出した。ただ追い出すには事情があったらしい。新興宗教にこっているとか何か追い出される女性にも悪いところがあった。次に来た嫁とも喧嘩して別れして遂には養老院に自ら入った。そして実家は家がなくなった。

しかしトラさんの最後はあわれだった。最初元気な内は四人部屋でそういう性格だから番長のようになっていた。でも字が書けない読めないということやハンディがあった。そして最後は眼が見えなくなった。そこで何か異常な状態に一時なった。認知症になったわけではなかった。

最後まで正気だった。なぜなら母が呼び出されて介抱していたとき
「すまねえない、忙しいのにな」と言っていたという。
母はその時まだ店屋をやっていてそれでそう言ったのである。この時相当弱気になっていた。もう死ぬ一年か二年前だった。人間はどんな強気の人でも体がだめになり弱くなってしまう。これが人間のさけられぬ運命であった。

この実家の墓に父親違いの兄が葬られることになった。原町で中学まで過ごして集団就職で埼玉の方に行きそれから静岡の方に行きそこで交通事故で42才で死んだのである。なぜ実家の墓に入ったかというとそこも複雑であるがこの実家の墓にはそうした人たちが入っているということである。


つまり墓が何かというと今は家族の墓だからその家族の物語が必ずあるのだ。墓が家族は墓だとすると家族の物語として墓があることになる。もし個人墓になれば個人の物語だけになる。兄の骨が娘にひきとられて供養されればそうなる。つまり現代の墓は明治以降、家族の墓になった。これは新しい墓の形態であり百年もすぎて時代にあわなくなったのだろう。江戸時代は個人墓であり庶民でも農民でも金がある人が墓を建てた。それは個人墓であり家族墓ではない、自分も金があるから墓を建てようとなり建てたのである。それまでは武士には墓があっても庶民にはなかったのである。経済力がついて墓を建てるようになったのである。それが明治以降に家族墓になったのはやはり経済力がついたことによるのだろう。墓を建てること今でも金がかかるからだ。それで墓がもう増えすぎて限界状態になったのだ。家族墓はもう時代にあわなくなった。でも墓をどうしていいかというのは死者の問題がからんでくるからむずかしすぎるのである。つまりその方法が文化が破壊されたから見いだしようがないのである。それでいろいろと個人で模索しているけど個人では死者をどうするかなどどうしていいかわからない重い問題なので困っているのだ。死者をどう処置するかはその国の文化とも関係しているからだ。


いづれにしろ最後は家を出された長男の人が「墓を守ってくれ」と言って弟の娘に3百万を残して死んだ。それで墓が崩れかかっていたので自分が70万で直した。おそらく今回の地震であのままだったら崩れた。ともかく兄も入っているので複雑になっているのだ。ただ同じ姓になっていたので入れやすいということがあった。兄はトラさんの養子になっていたのである。そこにも事情があったが同じ姓でないとこれまためんどうになる。姓が同じだったら籍に入っているから入れやすい、ただ墓も姑にいじめられたりすると一緒に入りたくないとかもめている人が多いのである。だから墓も何かややこしすぎるのだ。


そして家族の墓は別に郷土史とかとして注目する人がそんなにいないだろう。またそうした歴史的価値があるのかわからない、家族墓は多すぎるからだ。ただこの辺では越中などからの飢饉のときの移民があり真宗系統の墓が三分の一ほどありそれは墓から必ずわかるから墓にも歴史的価値がある。ただ一般的にこうした家族墓より共同体の祭りの古い碑などの方が歴史的価値がある。それはプログで紹介してきた。それは共同体のシンボルとしてもあったからである。個々の墓にはそうした歴史的に価値あるものはそれほどないのである。だからこうしたものは歴史的に価値があるから共同体として残すが今のような家族墓は無縁墓になり無意味化してゆくのが多いだろう。

ただ家族墓というのも個人墓ではない、家族の墓だから最小の共同体であるからそこに家族としての物語が残る。それも一つの郷土史だとはなる。それぞれの家族から郷土史の一端を知ることができるのである。

いづれにしろ実家の物語は警察所長でもあった父親の影も薄いしまして病気になった母の母も影が薄い、ただそこには専横的にふるまったトラさんが主役となっているのだ。一方でトラさんに蹂躙された家族でもあったとなる。要するにいい悪い別にしてトラさんの物語になっているのだ。墓もなくなってもこうした物語は後世に語られることもあるだろう。そういうものは無数にあり民話となっていった。そこに何かしら教訓をよみとり人間の普遍的問題が必ずある。継母でも別に子供に愛情をそそげば親切にしていれば最後の悲惨はなかった。手厚く看護されたかもしれないのだ。血縁でも子供は親を見ていて最後に手厚く看護するとは限らない、たいがい金持ちの人は施設にあづけられるのでありそれも時代である。


トラさんは最後は養老院に世話になったから解剖してくれというのが遺言であった。それで解剖された骨は一旦我が家に来て実家の墓に納めた。


その墓から嘆きと苦しみと
やるせない悲しみの声が聞こえてくる
喜びの声は聞こえてこない
圧迫されて閉ざされている
ただ一人の気性の荒い
トラさんの声だけがひびきわたる
その声に子供たちはおびえる
しかし最後は眼が見えず悲しく死んだ
「すまねえな」と弱気になって死んだ
この墓の一つの物語であった
 

posted by 老鶯 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)