2013年07月01日

人の住まない警戒区域が縄文時代にもどる (ネズミやイノシシがふえ荒らされてもどれない状態)

 

人の住まない警戒区域が縄文時代にもどる

(ネズミやイノシシがふえ荒らされてもどれない状態)


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老夫婦が釣りにきていた


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海水が入り込んだところ
フグが何十匹か死んでいた,これは生きていたフグ


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破壊された防潮堤


ことに東日本は、豊かな木の実や山芋などのほかに、サケ、マスなどの川魚にも恵まれていた。カツオ、マダイ、スズキといった海の幸。イノシシ、シカ、マガモ、キジといった山の幸。それに豊かな貝類。このように比較的、食料に恵まれていたので、日本列島の住人は、すぐには大規模な農耕を開始する必要がなかった。

 大型獣にかわって、中型獣(熊、鹿、猪)、小型獣(狸、狐、兎)、さらなる小型獣(ムササビ、リス、ネズミ)、鳥類(キジ、カモ、アホウドリ)などが登場し、弓矢を中心とした縄文型狩猟がおこなわれた。

草原は安定しない環境だ。高校の理科の教科書を引っ張ってくるまでもなく、草原はやがて陽樹の林となり、陰樹の森となる。つまり、ずっと草原である場所というのは長いスパンで見たら存在しない、はずだ。人間の力なしでは。つまり、人間が火入れをするとか、草刈りをするとか、放牧をするとかして、初めて草原は草原としてそこに存続できる。
http://d.hatena.ne.jp/ast15/20120511/p1


この辺が草原化したり湿地化したりした驚きを書いた。湿地化して沼ができて水葵が咲きだしたことも写真と共に紹介した。海岸沿いは津浪で湿地帯化して沼が生まれ大きなトンボが飛んでいることにも驚いた。トンボをドラゴンフライというけど巨大な太古の恐竜時代にもどったような感覚にさえなった。海にススギフタバリュウでもよみがえるような錯覚さえ起きた。小高の井田川の開拓地が縄文の海にもどったというのもそうだった。八沢浦もあんなに奥まで水が入り込んで浦になったことは信じられない光景だった。まさに縄文時代がもどったのである。原発事故で田畑が放置されそこが草原化したことも驚きでありそのことを書いてきた。


でもNHKの東北クロ-ズアップで浪江などの人の住まなくなった地帯がネズミやらイノシシやらなどが増えて家が荒らされて帰れるような状態ではないという。もう帰りたいと思ったが帰ることをあきらめたと婦人は言っていた。何か不思議なのは人間はもう縄文時代のことをリアルに知り得ない、それは田舎に住んでいてもそうである。知識で知るのと実感として知るのとは余りにも違うのである。
だから歴史でも過去をたどるとき必ず現代の便利な生活から想像するから過ちがうまれる。

縄文時代はとても想像できない時代である。でも津浪や原発事故で縄文時代にこの辺はタイムスリップしたのである。

まず草原というのは何か自分は想像できなかった。湿地帯は北海道などで見ていたからある程度想像できた。日本では草原は見れない、北海道は牧草地であり草原とも違う。この辺が草原化したというとき草原は一時期であり湿地帯に生える柳などが生え森になってゆくという。柳は乾燥地帯ではなく湿地帯向きだった。ヨ-ロッパでも柳細工が発達しているから湿地帯が多かった。どこも原初の状態は湿地帯が多い。湿地帯が多いということはそこは虫や蛇や細菌が繁殖して住みにくい場所だから人類が最初に住んだのは高台だったということは共通している。最初に住んだ場所は高台であり低地ではない、だから海岸に接して低地に集落ができたのはかなり後の時代である。例え海に近いにしろ高台に住んでいたのである。磯部のような海岸の砂州のような地域には住まない、そういう場所は今回の津浪で壊滅した。もちろん縄文時代は誰も住まない場所だった。


そして不思議なのは警戒区域となり人の住まない地域は草原から森になってゆき、森に生きる動物が増えてくるという。日本では草原は自然の状態ではないという、森が自然の状態である。草原という感覚はない、草地というとき草原とも違う、一部草が生えている感覚である。野はもともと草原ではない、傾斜地であったり森もふくまれている。日本にはモンゴルのような草原はない、平坦な地域は湿地帯になる。モンゴルの起源が祖先が狼をト-テムとするとき森の民から狩猟の民から牧畜の民になった。人間の起源が森に住み草原で立って歩くようになったという説はそこからでてきている。

日本でも縄文人は森の民なのである。ただ浪江などで草原化したところにイノシシや雉が増えた。

縄文時代は鹿も多かった。これらは食糧として十分に豊かなものである。イノシシにしても鹿にしても雉だって大きいから食いごたいがあり豊かな食糧だった。それに海に接しいてると貝類もとれたし魚もとれた。縄文時代は津浪でわかったように奥まで水が入り込んでいたから魚も入ってきたのである。それで魚が海岸に大量に打ち上げられてそれを食べたということもあった。労せずして海の幸を得たこともあった。今回の津浪で海岸の防潮堤が壊されてフグが数十匹打ち上げられいた。一匹は生きていた。フグだから毒にあたって死んだ人もいたかもしれない、このように魚は縄文時代は豊富だから労せずしてとれたこともあったろう。もちろん栗とかの山の幸もあり縄文時代はそれなりに豊かな食生活があったのだ。川魚もあったから余計にそうである。要するに常に過去は今から考えるから間違ってイメ-ジしているのだ。縄文時代は山の幸海の幸に今よりずっと恵まれていた。それもとれたてのを食べるから新鮮でありうまいし体にも良かったのである。


ともかく草原化してイノシシが増えたとかキジが増えたというとき何かそれが常にこの辺では想像ではない、リアルな現実として感じるから違っているのだ。まるで猿の惑星をみている感じにすらなる。イノシシを駆逐するために檻を作った人が人間が入るようだと言ったときまさにそうだった。
人間は消え駆逐され猿が支配者になっていた。ニュ-ヨ-クは核戦争で滅びてしまいその廃墟が野生化して猿の惑星になっていたのだ。


いづれにしろ浪江は帰れないというとき生態系が変わってしまったということも深刻だった。それは隣の小高にも影響している。ネズミとか増えれば浪江から小高に侵入する。それをさえぎることはできない、だから小高に帰るのが嫌だというのもわかる。隣があんなになっていればそうなる。
ただ六号線が通行証もらえるとイワキまで行けるというのは復興を進めるのに大きな力になる。
六号線は今ではそれだけ大きな役割をになっていたのである。

posted by 老鶯 at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年07月02日

トラさんの物語 (原町の実家の墓の悲しい物語)

 

 トラさんの物語 (原町の実家の墓の悲しい物語)
 
 私の母の98才になる実家は原町にあった。父は警察所長でありもともとは金持ちだった。それで幼いときは広い庭で遊んでいたという。もしそのままゆけばお嬢さんとして育ったかもしれない,その運命の歯車が狂ったのは父が事業に手を出したことだったことだったのだ。当時は製糸工場がどこにもできて農家はみんな養蚕をしていた。そういう時代だから機織りの工場の経営に手を出して失敗したのだ。その失敗の原因はそもそも警察所長などは会社経営などに向いていない、経験的にも向いていない。事業経営で成功するのは余程才能に恵まれているか時代の波にのらないと成功しない。
 前親戚だった人も技術者であり頭がいいのだけど失敗していた。この人も技術者としては優秀でも事業経営には向いていなかった。一般的に東北人は商売に経営者などに向いていない、こつこつと地道に仕事している職人的技術者に向いているのだ。のるかそるかなどの大勝負をする大阪のような商売には向いていいないのだ。その人もサラリ-マンとして技術職として地道にやっていれば事業に手を出さなければ失敗はしなかった。人間はやはり向いていないものには手を出すべきではない。
人間の失敗には必ず教訓がある。その失敗を手本に次代の若い人も学ぶということがある。
 
ともかく母の父はその工場で働いていた女性をメカケにした。それがトラさんだったのである。メカケといっても確かに妻がいたけど脳梗塞で寝たきりなのだからそれで家のことをしてもらうこともあった。父親は警察所長でいつも威張っていたというと妻の看病も家事もできな、ただ威張るだけの人だったのだろう。おそらくこの父のふがいなさが実家の悲劇を作り出した元だったのである。母の母は5年間くらい寝たきりであり看病したのはメカケとして後妻に実家に入ったトラさんだったのである。だから母の母の看病もした。小便をとってもらうことなど嫌がっていたという。それもそうだろう。その話を聞くと何かこれも悲惨なのである。トラさんに抱かれて運ばれたりもしたとか悲惨すぎたのである。藁で下のものを始末したとかも悲惨だった。そういう貧乏な時代であり介護用品などない時代だったのである。養老院というのは一部あったかもしれないがほとんどは家で面をとみる他なかったのだろう。


その時母は原町紡績(原紡)で働いていた。この時女性の働き口は製糸工場と女中がほとんどだった。ほとんどの人が製糸工場で働いている。女中も需要が大きかった。その頃電化製品などないのだから家事は一仕事だったからである。洗濯にしてもごしごしと洗濯板で手で洗っていたのである。洗濯も一仕事だったのである。パリでもセ-ヌ川で大勢の女性が洗濯する絵が残っていた。パリなどというと今はそんなイメ-ジがないがやはり事情は同じだったのである。家事は一仕事であることが長い間つづいた。だからどうしても人手が必要であり貴族でも召使が必要になった。日本でも金持ちは女中を必要とした。二人とか雇う家もあった。後に母は東京に出て女中になった。東京では女中の需要が大きいからそうなった。

このトラさんはものすごく気性が激しい人だった。まさに名前と通りの人だった。その時実家には子供が五人くらいいた。姉もいてトラさんが家に入ってきて飛び出して東京に出て帰らなかった。もう一人の長男にあたる人は事情があって家から追い出された。もう一人の弟と母が家には残った。
実際は本当の長男にあたる人は27才で結核で死んだ。その看病をしたのも気丈夫なトラさんだった。結核は感染するから恐いし簡単にはできない看病だった。結局誰もその家でそうしたことをできるものがいないのだからまかせられたのである。メカケといっても家のためにそうして勤めた女性でもあった。その功罪はあったがすべて悪いひどい人ともいえない面があった。ただ母にとって継母であり辛い思いをした。

子供の頃弁当作ってもらったのだがそれを残してもってきたら
「俺の作ったものを食えねえのか」とその弁当を母の前で投げたという。
これはひどい話しだと思った。
その時母は実の母だったらこんなことしないのになと泣いたという。

この話は自分も聞いてひどい女性だなとつくづく思った。その後も何かと母はいじめられていたのである。継母にいじめられる話は昔からあったからこれもその一つともなるがやはりひどいと思った。
実家には弟がいてその人は丸三製紙に勤めていた。これも原町では大きな勤め口であり今も工場があり煙突から煙をだして街中にある。課長までなったからそれなりに生活はできる人となっていた。
ただ最初に嫁に来た人はトラさんが気に食わないと追い出した。ただ追い出すには事情があったらしい。新興宗教にこっているとか何か追い出される女性にも悪いところがあった。次に来た嫁とも喧嘩して別れして遂には養老院に自ら入った。そして実家は家がなくなった。

しかしトラさんの最後はあわれだった。最初元気な内は四人部屋でそういう性格だから番長のようになっていた。でも字が書けない読めないということやハンディがあった。そして最後は眼が見えなくなった。そこで何か異常な状態に一時なった。認知症になったわけではなかった。

最後まで正気だった。なぜなら母が呼び出されて介抱していたとき
「すまねえない、忙しいのにな」と言っていたという。
母はその時まだ店屋をやっていてそれでそう言ったのである。この時相当弱気になっていた。もう死ぬ一年か二年前だった。人間はどんな強気の人でも体がだめになり弱くなってしまう。これが人間のさけられぬ運命であった。

この実家の墓に父親違いの兄が葬られることになった。原町で中学まで過ごして集団就職で埼玉の方に行きそれから静岡の方に行きそこで交通事故で42才で死んだのである。なぜ実家の墓に入ったかというとそこも複雑であるがこの実家の墓にはそうした人たちが入っているということである。


つまり墓が何かというと今は家族の墓だからその家族の物語が必ずあるのだ。墓が家族は墓だとすると家族の物語として墓があることになる。もし個人墓になれば個人の物語だけになる。兄の骨が娘にひきとられて供養されればそうなる。つまり現代の墓は明治以降、家族の墓になった。これは新しい墓の形態であり百年もすぎて時代にあわなくなったのだろう。江戸時代は個人墓であり庶民でも農民でも金がある人が墓を建てた。それは個人墓であり家族墓ではない、自分も金があるから墓を建てようとなり建てたのである。それまでは武士には墓があっても庶民にはなかったのである。経済力がついて墓を建てるようになったのである。それが明治以降に家族墓になったのはやはり経済力がついたことによるのだろう。墓を建てること今でも金がかかるからだ。それで墓がもう増えすぎて限界状態になったのだ。家族墓はもう時代にあわなくなった。でも墓をどうしていいかというのは死者の問題がからんでくるからむずかしすぎるのである。つまりその方法が文化が破壊されたから見いだしようがないのである。それでいろいろと個人で模索しているけど個人では死者をどうするかなどどうしていいかわからない重い問題なので困っているのだ。死者をどう処置するかはその国の文化とも関係しているからだ。


いづれにしろ最後は家を出された長男の人が「墓を守ってくれ」と言って弟の娘に3百万を残して死んだ。それで墓が崩れかかっていたので自分が70万で直した。おそらく今回の地震であのままだったら崩れた。ともかく兄も入っているので複雑になっているのだ。ただ同じ姓になっていたので入れやすいということがあった。兄はトラさんの養子になっていたのである。そこにも事情があったが同じ姓でないとこれまためんどうになる。姓が同じだったら籍に入っているから入れやすい、ただ墓も姑にいじめられたりすると一緒に入りたくないとかもめている人が多いのである。だから墓も何かややこしすぎるのだ。


そして家族の墓は別に郷土史とかとして注目する人がそんなにいないだろう。またそうした歴史的価値があるのかわからない、家族墓は多すぎるからだ。ただこの辺では越中などからの飢饉のときの移民があり真宗系統の墓が三分の一ほどありそれは墓から必ずわかるから墓にも歴史的価値がある。ただ一般的にこうした家族墓より共同体の祭りの古い碑などの方が歴史的価値がある。それはプログで紹介してきた。それは共同体のシンボルとしてもあったからである。個々の墓にはそうした歴史的に価値あるものはそれほどないのである。だからこうしたものは歴史的に価値があるから共同体として残すが今のような家族墓は無縁墓になり無意味化してゆくのが多いだろう。

ただ家族墓というのも個人墓ではない、家族の墓だから最小の共同体であるからそこに家族としての物語が残る。それも一つの郷土史だとはなる。それぞれの家族から郷土史の一端を知ることができるのである。

いづれにしろ実家の物語は警察所長でもあった父親の影も薄いしまして病気になった母の母も影が薄い、ただそこには専横的にふるまったトラさんが主役となっているのだ。一方でトラさんに蹂躙された家族でもあったとなる。要するにいい悪い別にしてトラさんの物語になっているのだ。墓もなくなってもこうした物語は後世に語られることもあるだろう。そういうものは無数にあり民話となっていった。そこに何かしら教訓をよみとり人間の普遍的問題が必ずある。継母でも別に子供に愛情をそそげば親切にしていれば最後の悲惨はなかった。手厚く看護されたかもしれないのだ。血縁でも子供は親を見ていて最後に手厚く看護するとは限らない、たいがい金持ちの人は施設にあづけられるのでありそれも時代である。


トラさんは最後は養老院に世話になったから解剖してくれというのが遺言であった。それで解剖された骨は一旦我が家に来て実家の墓に納めた。


その墓から嘆きと苦しみと
やるせない悲しみの声が聞こえてくる
喜びの声は聞こえてこない
圧迫されて閉ざされている
ただ一人の気性の荒い
トラさんの声だけがひびきわたる
その声に子供たちはおびえる
しかし最後は眼が見えず悲しく死んだ
「すまねえな」と弱気になって死んだ
この墓の一つの物語であった
 

posted by 老鶯 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2013年07月03日

津浪や原発事故で起きた草原化の考察 (草原や原は人為的に作られたものだった-原町はその象徴だった)

 

津浪や原発事故で起きた草原化の考察

(草原や原は人為的に作られたものだった-原町はその象徴だった)

浪江が警戒区域になり家はネズミに荒らされて原野化して草茫々になっていた。そこで研究に入ってきた学者が原野化するとそこは湿地帯に生える柳などが増え森になってゆくという。
草原は日本ではほとんどみかけないように日本では森になってゆく、木が繁殖して森になってゆく。草原という風景はもともと日本では原生環境の自然ではない、人為的に作られた自然だったのである。そもそも日本の原生環境は森でおおわれていたということである。木が繁殖しやすい風土だった。そして錯覚していたのは草原とか原とつく名がそこは原野であり原生の自然環境だと思っていたが違っていたのだ。日本の原は原野は森になりやてすい、放っておくと森になるのだ。


このことを地名から考察すると木の地名が相馬藩内でも結構ある。その木の地名でもなぜ木の地名がついつたかというとそれはただそこに木があったからというのではない、人間が木と深くかかわるとき木の地名がついたのである。地名はただそこの原始状態からは名づけられたのではない、人間の生活に深くかかわったとき地名がついた。だから地名は人為的なものであり人間的なものである。

人間は全く自然そのものが何なのか知り得ないし自然に接するにもすでに人為的に人間生活で深くかかわった自然なのである。だから何かそこで誤解が生じているのだ。原とあればそれが原始状態の原だと思っていた。原とつく地名は多い。そこは人間の手の入らない原だと思っていた。ところが草原は日本では人間が手の入れた人工的なものでありそうしないと維持されなかった。原は日本では森になってゆくからである。森は鎮守の森というように日本ではいたるところが森であり大都会に鎮守の森があるのはそこももともと森だったからである。

だから津浪や原発で草原化したとき原始の状態にもどったのかと思った。でも実際は草原が原始の状態ではなく草原から森になってゆく。

この辺でも橲原(じさばら)とあるときこのジサは


「山萵苣(やまぢさ)の白露しげみうらぶれし 心に深くわが恋止(や)まず」。
万葉集にでてくるこの「やまぢさ」はエゴノキのことだという。


 木材は緻密で粘り気が強く、各種の木工細工 に適しているため、「ろくろ木」とも呼ばれてい ます。 薪炭にも使用される。
http://www.wood.co.jp/wood/m053.htm


そもそも人間はなぜこうしたここの木に注目したのか?何か目的があった。ジサの木は木工細工に適しているからそのことで注目された。他にも真弓-檀(まゆみ)という地名が新地にある。


陸奥の安達太良真弓弦はけて引かばか人の我を言なさむ

陸奥の安達太良真弓はじき置きて反らしめきなば弦はかめかも


マユミ(檀、真弓、檀弓)というのは弓にするのに適した木として注目されてそこが地名化された。

柏原というのも地名としては全国に多い。これも柏(かしわ)の木は


印南野の 赤ら柏は 時はあれど 君を我(あ)が思(も)ふ 時はさねなし(巻20−4301)

(意味)

印南野の赤ら柏の照りはえる時節は、決まっていますが、私の天皇を思う心は、変わることなどは決してありません。

*さね・・・決して、ちっとも
この歌の「君」は孝謙天皇を指します。


柏の葉は大きく、葉肉が厚いので古くは食物を盛るのに使われ、祭式用としても用いられていました。
ことに播磨から献上される柏は有名で、宮中において祭りなどに用いられるのが慣わしになっていました。

http://azaleapines.blog.ocn.ne.jp/hirokazu/2010/06/post_99f7.html

これも実用的なものとして慣習化して柏といえば何の目的で使用されるかみんな指摘するまでもなく日常的に知っていたのである。柏餅の柏は江戸時代になって使われた。柏原の地名はすでに古く万葉時代からのものである。葛尾(かつろう)村に柏原というところがある。戸籍をたどったらここが自分の父の父のまた父の住んでいた場所らしい。江戸時代の人の名前が記されてあった。戸籍は江戸時代までたどれるのだ。ここも柏の木が繁っていたところとして地名が生まれた。ただいつこの地名ができたか?江戸時代以前なのか?そこは森をぬけて平らになっている地帯だから人が住み着いたことは確かである。だからそれなりに古い地域なのだろう。真弓という万葉集時代からとすると新地の方が古くなるのだろう。ただ柏原という地名の方が全国的に普通に見られるのである。


ともかく錯覚していたのは原とつく地名は原始の状態のことではない、原は人為的に残さないと残らないのである。そこは森になってゆくからだ。その原の効用として草が繁るからその草は馬や牛の餌になる。森だとなりにくい、餌場として原が人為的に必要だったのである。だから原は野焼きしたりいろいろと人が手が食えわて残されていたのだ。日本から草原が消失したのはそうして人間の手が加わらなくなったからだというのも意外だった。原はまた馬が中国や朝鮮から入ってきたとき馬を放牧する地として人為的に維持されたのである。東北にはその牧草地として牧が多い。馬の産地だからそうなった。秣をとるためにも原が必要だったのである。それは葛尾(かつろう)村にも多かった。葛尾(かつろう)村は秣(まぐさ)の供給地だった。


そして最も原が象徴していたのは原町だったのである。原町は広大な原でありそこはただの原っぱではなく野馬追いのために馬を放牧するためにも人為的に作れていた原だったのである。今の街があるところはほとんど野馬追いのための放牧地だったのである。原とつくと何もない原野だと思っていたがそうではない、原は人間によって手を加え維持された土地だったのである。日本の自然は放っておけば森になるからだ。


いづれにしろ今回の津浪原発事故は様々なテ-マを生んだ。縄文時代にもどったというのもそうだった。草茫々になって森になってゆく、そのことも実際にそれを見たとき驚きだったのである。
ただこのことでわかったように人間が接しいてるのは全くの原始の状態の自然ではなかった。
縄文時代でもすでに人為化した文明化した自然だったのである。人間が住み始めたときから自然は長い間に人為化されていたのである。だから人間は全くの原始の状態の自然を知らないのである。
全く人間の手の入らない自然は地球上でほとんどなくなっている。何らか人間の手が入っていて草原とか原となるともうすでに人間の手が入らないと維持できないものになっていたのだ。

 
 
 
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2013年07月04日

仮設の食堂で話す(人の出入りが激しい南相馬市)


仮設の食堂で話す(人の出入りが激しい南相馬市)


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十輪ほど外に華やか夏の花
六号線増えて飛び交う夏燕
雨しとと紫陽花濡れて介護かな


夏の鳥高き電線にとまりなき新しき家またここに建つ

わが町に人の出入りの激しきや燕とび交う夏の夕暮
わが町に花屋の開くとりどりの花見つ暮れぬ変わる街かも
蟻に虫蚊の襲いくる台所仕事に追われ介護するかな
野良猫の二匹の住める界隈や時にえさやりそれも忙し
自転車に買い物すれば襲いくる烏にあれや魚の惜しも
時に花雨に打たれて梅雨なりき外に飾れる花を思いぬ


鹿島はもともと寂れた町だった。通りに店屋などほとんどなくなっていた。それが震災以後小高の人が仮設に住んでおそらく3000人くらい増えたのかもしれない、だからやたら小高の人のみが目立つのである。街がにぎわうにはやはりつくづく人口だと思った。3000人増えると街に活気が出て消費がふえるのだ。サ-ビスする種類も増えてくる。だから都会ではかえって人口が多いから各種のサ-ビスが受けられるのである。また競争が激しいから新しいものが生まれやすいのだ。

まず人の出入りがこの辺は激しい。まだ外部からも工事関係で入ってきている。今日仮設の食堂にいたら菓子折りをもってきて挨拶に来た人がいた。仮設で花屋をやっていたところに整体師が入るので挨拶に来た。その人は岩手県なのだけど妻が原町の人で仕事をはじめることにした。出てゆく人もいるが入ってくる人もいる。かえって鹿島区は入ってくる人が多くなったのである。

だからこぎれいなモダンなアパ-トがかなた建った。百人も収容できる感じである。新しい家も次々に建っている。津浪で家を流された人や大熊の人も建てたという時、家を建てることが多くなった。だから相当な変化でありこんなことになるとは思ってもいなかった。

花屋は二人も人を雇っている夜討ち大きいしペットの病院もできた。3000人増えるとそうした需要が増えてくる。ただ小高は元のようにはもどらないだろう。鹿島に移る人もかなりいるだろう。その変化も大きい。小高でも鹿島でも合併して今になると損したとなるのは小高には小高の事情ができて鹿島には鹿島の事情ができた。だからなにか要求するのにも統一してできないのである。
そして原町だけが復興の中心になり得をしているというのは本当だろう。どうしてもそうなりやすいのだ。それから原町の市長も評判が悪い、左翼系統で反対する運動では力を発揮するが実際の政治の能力はなかったのである。相馬市の方、自分の専門の病院ばかりに力を入れていると評判が悪い。

こういうときはやはり私益を優先すると批判されるだろう。結局相馬はどちらも指導者がいないから混乱して復興が前に進まないということがある。こういうときはやはり強力な指導者がでないとまかせないと実際に物事が進まない、あれやこれや言っていても実行力が大事になる。それが欠けているから復興は進まない。でも民主主義はそういう指導者を作ること自体むずかしい仕組みなのである。
ともかく自分もずっとこの六年間家のことで追われている。家事一人で介護まですると手一杯になる。そこで今は蟻とか蚊とか虫が湧いて悩まされる。烏に後ろの荷台に積んでいた魚をとられた。

烏はじっとしているようでも餌をねらっていたのである。動物も鳥でも何でも生きるに必死だとなる。

兄の墓の問題はなんとか東京の親戚が来れば一応かたづくだろう。この墓の問題もめんどうなのである。結局墓にこだわるより供養が大事である。供養しないとそれが災いになるから恐いのである。

墓があるなしではない、供養が大事なのである。鹿島区に107才の女性が生きているというのも時代である。100才も十人くらいはいるだろう。90以上になると百人はいるだろう。そういう超高齢化時代であるが107才となるとさすがに話題になる価値がある。

2013年07月06日

津浪に残った二本の樹(詩) (原町区で津浪の被害者の取材で殴られた?)


津浪に残った二本の樹(詩)

(原町区で津浪の被害者の取材で殴られた?)

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津浪に残った二本の樹

二本の庭の樹の二年過ぎて
枯れんとして枯れず残りぬ
その樹の離れがたく
あたかも老夫婦の如く
津浪の跡の荒野に残りぬ
津浪の傷痕深く
数多の人の命奪いゆぬ
涙はここに流れ嘆きは尽きじ
木の根っこのように
江戸時代の社の残り壊滅したる村よ
なお人のここに生きむとするや
凄まじき津浪の猛威を語りつ
二本の樹は離れがたくここに残りぬ
(我が子の津浪に死すと悲しかな海をながめつ年は巡りぬ)



元朝日新聞記者の烏賀陽弘道さん、福島の被災地に取材で暴行を受けたとツイートするも当事者に反論される
http://togetter.com/li/524179?page=2

他から来た新聞社の記者が原町区の津浪被害者になぐられたという。何があったのか?やはり被害者の心証を害すようなことがあったのか?新聞社も人の被害者や事件起こしたとか災害地域でも土足で家にあがりこんでくるようなことをする。まるで特権者のように横柄に振る舞うことがある。
何かここて泣いて下さいとか場面を作りをする。だからそうしてテレビ局や新聞社に作られた映像が流される。お涙頂戴のどうぞ同情してくださいとかの映像は今回は嫌というほど流された。
そこには被害者の本音とは違ったものともなっていた。
テレビとかテレビ局で作られた映像が流される。涙流さないと絵にならないんだよとかなる。
そもそもそういうところに取材にゆくことが自体はばかれるものであった。
家も流され家族も死んだとなるとそういうところに行って声かけるのもはばかれるということがある。

自分も美しい八沢浦がよみがえったと写真を出してプログで書いたらコメントとしてお前はあそこで死んだ人のことをどうおもっているのだ。子供の死体まで泥から掘り出した人のことを考えてみろとコメントがあった。確かにそういう反感を買うのも当然だったかもしれない、家族が死んだ人いたらそうなるのが当然かもしれない、ただ自分が言い訳するとそもそも自分は郷土史を研究していた。
そして美も探求してきた。だから八沢浦が入江だったらどんなに美しいだろうと何度も想像していたしそうした合成写真も出していた。それから湿地帯であり低地だったとしたところは今回は予想通り海水にひたり海になってしまったことに驚いた。津浪が証明してくれたのである。

海老とか烏崎や磯部などは家が多く壊滅したからそこが美しいとはならなかった。しかし八沢浦は確かに死んだ人もいたが海水が入り込んだところには家は数軒しかなかった。回りにはあったがほとんど田んぼの所が海水につかった。だからガレキの山のようにはならなかったのである。

確かに崖の所で一家三人とか死んだ家があった。それは八沢浦の田んぼではなかった。
お前は人が死んだのに喜んで写真をとっていたのかとかなるが自分としては驚嘆すべきことだから写真にとった。その時自分は病気であり管を体に入れていたのだから自転車に乗ることが苦しかったのである。ただどうしても見ておきたいと一度だけ見て写真をとったのである。
今思うと津浪の写真でも刻々状況は変化しているからその時写真をとらないと記録としてはわからなくなる。記録として残すことも郷土史からも必要だった。
今では右田の松原の写真などがただ写真だけでしかみれなくなったから貴重である。
そしてプログをこうして毎日書くのも家事から介護しているのだから大変なのである。

正直その後も湿地帯化してそこに沼ができたり水葵が咲いたり今でも大きな沼が生まれてトンボが飛んでいたりと自然と原初の状態にもどったことに驚いた。明かにトンボは増えている。原初の状態にもどれば自然の生物も増えてゆく。ただ蝶は増えていない、減ったように思う。
津浪の跡に蝶が異常に増えたことがあった。そういう現象は今は起きていない。


ともかく津浪や原発事故でこの辺はまるで映画が現実化したような世界になっている。その変化には未だに驚くべきものである。海老でも家がなくなりそこにクロ-バ-がおおい黄色の花が一面にまぶしく咲いていたときはきれいだと思った。それは北海道で見た風景だったのである。
例えば防波堤が破壊されて白い波がうち飛沫き砂浜と化した所によせる、何かその時原始の力を感じた。自然は何か歓喜しているように感じた。野生の力をとりもどして歓喜しているように思えたのである。そこでかなりの人が死んでいるからまた不謹慎だとなるが自分には自然が本来の野生を取り戻して歓喜しているように見えたのである。


この辺ではいろんな変化が激しすぎたのである。それになかなか対応できない、避難している人だってそうだし津浪や原発被害地域はみんなそうである。混乱状態が未だにつづいているのだ。それだけどう対処していいかもわからなくなっている。ただその時々を記録として残していればそれが後の資料的価値がでてくるかもしれない、そんなこと不謹慎だといわれてもそれが正直な気持ちだからどうにもならない。ただ被害にあった人は家族を失った人は海の見方が変わったことはいえる。
海がこんなに酷いことをするのかと海をながめているだろう。
その傷痕はあまりにも深すぎたのである。

 
 
 
 
 
 
 
 


 

posted by 老鶯 at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年07月07日

虹(草地に木が伸びていた)


虹(草地に木が伸びていた)

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大虹や復興願う供にして

虹たちて燕飛び交う夕べかな
海の方夕べ虹たつ浜通り
暑き日や草地に伸びる若き樹々
寝ころびて畳に風の涼しかな


ますますに草深くなり鶯の鳴きつつ暮れぬ歩む人かな

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虹だけだと夏である。今回は大きな虹だった。夏らしい虹だった。虹を見たのは9月のとき相馬市の病院に入院していたときだった。その虹は山の方にかかっていた。9月だから秋の虹だった。でも外は相当に暑かったろう。浜通りの虹は海の方にかかりやすい、今日も山に陽が没るとき海の方に虹がかかった。虹を見るときは何か幸運を感じるし何か吉兆を感じるのは自分だけではないだろう。
この虹は大きかったから特にそうである。ただ消えるのも早かった。


旅では虹を見たら相当に幸運である。旅で虹を見るのはむずかしい。平泉で春の虹を見たことがある。「春の虹切れ端残る平泉」とか句を作った。これだけ旅しても虹は見れない。虹は一カ所に定着していないと見れない、今回は二階で畳に座り大きな窓から虹が見えたのでとっさにカメラをもって外に出て写真をとった。ものを書くにしても外が見える所がいい、なぜなら外の空気にふれる景色の変化をみるだけで気分転換になる。何も見えない部屋でパソコンばかり見ているのは良くない、前は一室はそうだった。今は三つの部屋を行き来しているから外の景色を見ていることも多い。

その景色ももっと視界が開けていればもっとよい。その点都会はいくら豪邸に住んでも外の景色はビルだけなのだからつまらないとなる。今になるとなぜあんなところに人が密集して住んでいるのか理解できない、貧乏なくせに都会がいいと言う。貧乏だったら都会は欲しいものも買いないとしたらつまらないと思うけどその心理がわからない。金持ちならそれなりに都会を楽しめるだろうが食うのがやっとではいくら都会でも楽しめないからだ。

今日も蒸し暑いから嫌である。日本はこの蒸し暑さがいやなのだ。だから畳に寝ころぶのが気持ちいい、畳は湿気に向いていた日本の文化なのである。一部草原化したところに二年すぎて木が生えて伸びている。やはり草原は放っておけば日本ではみんな森になるのだ。そういう風景が見れることが不思議である。自然の変化があり一面この辺が実験場みたくなっているのだ。草原をほうっておけば森になる。人が何も手を加えなければ森になる。人が手を加えれば草原のままだという。森にしているとやはり田んぼでも畑でも何かしらの影響を受けるので草原にした草地にした方がいいということで人手がはいり草地が残されるという。そういうこは予想もつかないし考えもしなかった。
すでにそういうことを考えていた人は専門家にはいたが素人では考えもつかなかった。
人間は自然を知るにしても本だけでは実感としてしりえないのである。もちろんテレビなどみてもそうである。原初の状態がどうだったか海岸地帯は湿地帯だと書いてきた。でも現実にそうなったときそれはまた違っていたのだ。現実は常に想像を越えたものなのである。津浪だってそうである。

鶯は今は俳句では夏鶯や老鶯になる。ただ俳句は短いので作れないときがある。でも歩いている人がいるいうことが今では詩になっているのだ。車しか通らない時代は歩くことが絵になり詩になっている不思議である。そのことは何度も書いてきた。歩くということは自然と一体化することだからそうなっているのである。車は自然とは一体化しないのである。

こんな事を誰も想像もできなかった。自然の大きさをまだ人はつかめない、ただ机上の学問でもつかめない、そこに落とし穴があったのである。これからも想像もできないことが起きる。だからこそ原発は危険である。その想像を超えたものに備えることができないからだ。

この蒸し暑い梅雨の時期はいつも北海道に行っていた。その時は恵まれていた。自分ほど恵まれていたのはいなかった。でも全くそれが逆になってしまったのである。その恵まれた結果として6年間の苦しみがあったし今も拘束された奴隷のようになっている。自由がないのである。
簡単に行けそうでも行けない、今は明かに自分は結構自由に旅できる体になっている。登山すらできる。体的には問題がないができないのである。


2013年07月08日

朝も虹がたった(草原の虹となった景色)


朝も虹がたった(草原の虹となった景色)

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燕飛び草原に虹朝明けぬ

草原の雨濡る朝や虹たちぬ
早朝や切れ目なき虹我が望む
老夫婦消えゆく虹の名残かな
大望や鳥の翔けゆく朝の虹
朝早みでで虫歩む雨にぬれ


長々と虹のかかりて消えざるや歩みの遅しでて虫一つ

朝夕に虹たつ見れば幸いの重なりゆくと心はずみぬ
朝早み草原に鳥ゆうゆうと翼を広げ餌を見つけぬ


5時ころ朝また虹がたった。今度の虹は完全に弧を描きかかっていた。こういう虹を見るのもめずらしい。たいがいどうしても切れている虹が多いのだ。こんなに完全に虹を見たのは最近なかった。特に朝には虹が見にくい、浜通りは夕方に見やすい、何か自分は苦しみの六年間がすぎていい方向に向かっているのかもしれない、虹は契約の虹であり願いがかなう約束の虹だからである。
自分のかかわった人間は本当に異常な人たちだった。それが不幸であり苦しみをましたのである。もう一人またそうした人と会わねばならない、ただそれも今回でけりがつくかもしれない、因縁はやはり簡単には切れないのである。悪因縁は長くつづくのである。

虹を見ることは何かの吉兆である。たまたま起きていたから見れたのも偶然とも言えない。
自然はやはり注意して見ていなと美を見逃してしまうのだ。シャッタ-チャンスを見逃してしまう。
やはり何事集中しないといいものはとれないしいいことはやってこない、みんないろいろな雑事や様々な欲にかられて自然の美が見えなくなっているのだ。


この辺の景色は田んぼが草原化していることで今までは違った景色となっている。草原はモンゴルの草原が有名だけどそれと少しはにている風景である。モンゴルとは比べようがないにしても草原の景色なのである。写真に写った家にしても草原の家に他の人は見てしまうだろう。
モンゴルの草原でこのくらいの虹を見たら感動するだろう。モンゴルではなかなかこうした虹は見れないだろう。


自然は刻々変わっている。時間単位でも変わっているし千年単位でも五百年単位でも大きな変化がある。今回の津浪がそうだった。5百年千年とかなると大きな変化が自然にはあるのだ。それを思い知らされたのが津浪だったのである。その5百年とか千年の大きな変化に人間は対応できないから原発は危険だったのである。それでもこりずに原発をつづけるのはなぜなのか?もう電力会社が原発なしではなりたたない、収入がなくなる、その恐怖の方がまさっている。現時点ではそうなってしまう。一旦便利なものを使い始めると人間はとめられないのだ。それは何でもそうである。電気もとめるわけにはいかないし車も使わないで暮らせなくなっていると同じなのである。だからこういうものは初めに使わないようにしないといけなかった。それが誤ったのである。あまりにも安易に日本のような地震国にとりいれてしまったのである。

 

抽象画(四季の街)

 
 
抽象画(四季の街)


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春の街


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夏の街



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秋の街

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冬の街


抽象画はバソコンで簡単に同じ原画を変化させられることである。
だからいくらでもできるということがある。
まあ、こんなものがどこが絵画なのだとわからない人も多いだろう。
ただやはり色が美しいなと思うことは確かである。

これが街といえば街になる。他にも何か題がつけられるだろう。
ここに四季を感じる、秋は秋らしい色である。その他は春みたいだが夏だとなるとわかりにくい、冬の街はなかったのか?

2013年07月09日

今なぜ抽象画がなのか? (社会と人間が抽象化しているから)

 

今なぜ抽象画がなのか?

(社会と人間が抽象化しているから)


picasooooo111.jpgピカソ泣く女

●時代が芸術を作る


抽象画というのはやはり時代の背景があった。何でもそうだけど芸術も時代が作り出すものである。これから逃れることはできない。ルネンサンスが時代の枠を破ったのは中世の時代を終わりにしたのは瞠目すべきことだった。そのルネンサンスが現代の基を作ってきたともいえる。
自然の見方がまるで変わってしまったからだ。それまでは宗教画であり風景画すらなかったからである。それは写実的な科学の時代のはじまりでもありレオナルドダビィンチに象徴されていたのだ。
ただこの時は人間が主役であり人間がかえってクロ-ズアップされた時代である。人間の肉体にあれほどの美を見いだしたのも中世ではありえない、肉体は否定されていたからである。
それはギリシャの時代にもどったわけである。


抽象画はルネサンスとかとは根本的にに違っている。ルネサンスは人間の復活がテ-マであり極めて人間が前面に出た時代である。それが近代化、工業化、大衆社会になった現代とは余りにも違っているのだ。現代を象徴する絵画がピカソであるいうときまさに象徴的である。人間がもはや人間の原型を保てなくなった時代である。そこに人間の悲痛がアイロニ-とともに表現されている。それは人間が人間足り得ないものとして表現されている。それはとりもなおさず現実社会の反映なのである。


●現代は職業も無数にパ-ツ化される


現代はすべてが抽象化されている。人間はそもそももはや一個の個性ある全人間ではありえない、極端化すれば数字になっている。番号で呼ばれて怒った人がいるが現実は人間は数字であり番号化しているのだ。統計学がもてはやされるのもそうである。人間とは統計的数字でしかない、宗教でもカルト宗教団体になればただ数だけが問題にされる。それが一票になり権力志向となる。数は権力だというとき権力を志向するものは数を志向する。権力とは金と数(票数)だというのもわかりやすい。
権力を目指すみんなそうなってしまう。


人間は現代社会で生きるというとき必然的にパ-ツ化される。職業自体が無数のパ-ツ化したものである。だからとんなに職業についても部分化したものとしてしか意識されない。ただ奇妙なのは福祉関係などは何か人間と直接向き合うから相手を数字として意識できないから人間的な仕事なのだけどあまり社会では重要視されないしやむをえない無駄としての職業とされる。でも職業をみていると人間が自動販売機と同じ様に見えてしまう。高度成長時代の自営業の店屋や町工場でも家族経営だとするとなにか人間的なものがあった。家族で経営していたから人間臭いものがあった。農家でも茅葺きの家などは生活感がどっしりとあった。それがコンビニとかス-パ-になると何かそこで働く人はロボットのように見えるしレジなどでも働く人はロボットのように見えてしまう。現実にス-パ-のレジはお客さんが自動的に金を払うシステムができていることでもわかる。何かあらゆるものが機械化自動化オ-トメ-ション化されるのである。ますますそこに人間的なものは消失してしまう。


●昔は職業に人間臭いものがあった


昔だったら職業でも人間臭いものがあった。江戸時代だったらなおさらその人は何をしている人か一目見てわかる。農民は農民、職人は職人、商人は商人である侍は侍である。それぞれが果たす役割がはっきりしていたわかりやすい社会だったのである。だから人間的だったのである。それは封建的閉鎖社会だとか批判があるけど別に歴史は現代を知るためにはかえって過去を知らなければならない、過去の時代によって現代が相対化されて現代をしりうるのである。現代は現代だけから知り得ようがないのだ。だからお前は電気のない江戸時代に帰れとかいうのはではない、歴史を知るということは現代を知るためでありその社会がいいとか悪いとかを言うためではないのである。そもそも歴史の総体などわかりえようがないからだ。


田舎はまだ社会として人間的なものが自然とともに残されている。でも原発事故でもわかったようにこれもまたやはり現代社会を象徴として起こったものなのである。なぜなら原発という建物があってもその回りの人はかかわることもできない、そこで何がされているのか皆目わからないものだったのである。そこに立ち入ることもできない巨大な非人間的機械としてあるだけだった。確かに東電の人が働いていてもそこに人間が働いているということも意識されにくいのである。そしてその中で働いていた人も外部を意識していない、人がいるということも意識していない、だから事故が起きたとき住民が危険だからと避難させなかった。原子炉だけを心配していたのである。東電の人もそこの住民のことを意識していなかったのである。最近賠償問題で東電の人と直接かかわり東電にも人間がいたとか認識するようになっているのだ。現代はこのようにどこでも人間の存在が希薄化された時代なのである。機械が存在して人間が存在しない時代ともなる。


●生活感覚がない現代の社会


人間がともかく抽象的な存在、数字のようになっているとき芸術もそうなりやすい、だから抽象画が盛んになるのもわかる。パソコンができて余計にそうなった。都会自体が田舎と違って極めて抽象的なのでありそこに一個の人間を意識するということがない。だから四季の街で表現したような一つの抽象画となってしまう。人間はどこでも何か生活感がなくなっいる。ただ農家とか漁師とか地元の職人とかはまだ生活感をもっていた。その話を聞いてフログに書いた。まず会社員とかなると生活感覚がなくなる。一つの細胞みたくなってしまう。農家に嫁いだ女性がいたけどその話を聞いても何らそこに農家の生活感覚がないのも不思議だった。身なりも制服を着ているからそうなるが全く農家だということを思わせるものもない、ほとんど土いじりもしていないみたいだ。とてもその人が農家に嫁いだ人とは思えないサラリ-マン家庭の主婦である。昔だったら農家に嫁いだら農家の嫁というのでその生活感覚がにじみでていたろう。それが全くない不思議なのである。農家もそれだけ変わってしまったのだろう。農家らしい農家すらなくなっているのかもしれない、みんな背広を着たサラリ-マンになったのが現代なのである。


共産党では党員を細胞としているのもわかる。それはカルト宗教団体でもそうだしみんなそうなっているのだ。みんな細胞でありパ-ツ化しているのだ。
そうなちらないとするとアウトサイダ-になってしまう。ニ-トなどが生まれたのもそうした社会の要因があった。時々個人が社会でクロ-ズアップされるのは犯罪のときである。それも無差別殺人とかはとくにそうである。その時のみ個人の経歴がどうだとかこの人はどう育てられたのとか親のことを問題にしたりする。犯罪を犯さないから社会の一労働者ロボットでありその個人のことなどなんら関係しないのである。
職業自体もパ-ツ化している。最近この辺で住宅が建ったとしても地元の大工が建てているのとはちがう。大手の住宅会社が部品を組み立てるようにしてアパ-トでも一個建てでも建てている。プラモデルのように組み立てる作業でありこれも昔の大工の感覚ではないのである。


前にも書いたけど石一つとっても無数の個性ある石がある。しかし現代では抽象化して a stoneになってしまう。the+形容詞+stoneとはならないのである。人間も様々な個性があってもそうである。一つの抽象的数字でしかないのである。だから個性を主張する人は天才などは耐えられないからニ-チェや上野霄里氏のようにアウトサイダ-化するのである。どうしても大自然と調和してリズム化するとなると無数に部分化した社会ではありえないからだ。 

2013年07月10日

浪江の皺石(詩) (一つの石の存在感についての考察)

 

浪江の皺石(詩)

(一つの石の存在感についての考察)

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その石は存在し続けようとしている
その場その空間に定められて深く
その石は風を感じる
春の日に山の奥へ遠くへ道は通じている
春の風、夏に影なし涼しい風、秋の風、冬の風
あたたかな春の光、秋の光、冬の光を感じる
その風の色合いはそれぞれ違う
雨も雪もその石にふり動かざる
その石は苔むし皺が刻まれている
その深い皺は老人のようにも見える
その石はそこに存在しようとする意志
その場、その空間に歳月を経て深化させる
石はそこに重しのように意味をもつものとなる


この石を見たのは春の日であり一回しかない、浪江辺りは実際は良く見ていない、相馬藩内でも地形が複雑であり海あり山ありで見れないのである。だからこの道を通ったのは一回だけであった。今は警戒区域になり通れなくなった。この石に注目している人も名前をつけている人もいない。でもすでにこの石はここにあったのは長い。この石はまだ人間によってアイデインティティ化されていない、人間化されていない石だった。歴史が長いにしろまだまだ人間化されていない自然がある。
それだけ自然は長い時間の中でしか意識されないのである。石はある場所と空間で長い時間の中で存在感をもつ。その石の存在感はその石を抽出した石だけで存在感はもてない、その場と空間があって存在感をもち人に記憶されるのである。石の個性はアイデインティティはその場所と空間があってこそ成り立つ、それは歴史的なものでもそうであり博物館に納めて陳列したときそのもともとあった場所と空間から切り離されるから存在感を失うのである。

人間はなぜ今抽象化されて数字のようになり存在感を失っているのか?それは場所と空間をもたないからである。場所と空間をもたないからまた記憶もされない、次々に変化して今日あったことは明日は全く忘れられてゆく、すべてが一過性であり持続しない、そこにただ消失感だけが残る。
この「皺石」のように持続して存続することができない、他の石でもそこに動かないことによって存在感をもっている。現代ほど変わりやすい社会はない、人間も常に変わり記録されない、人間はただ群集となって流れさる流砂のようになっている。人間はこの石一つのような存在感をもてない。

記憶はある場所と空間をもっていると記憶しやすい、それで奇妙なのは認知症でも狭い一部屋だとものをなくしてもすぐ見つけられるから安心だとなる。部屋がいくつもあるともう記憶しにくい、記憶しやすいのは一定の変わらない場所と空間をもっていると記憶しやすいのである。現代は千とか万とか部屋がありすぎるから記憶しにくいのである。必ず迷路となってそうした無数に分化された迷路化した部屋を巡り回っている。記憶はその空間と場所の作用で持続されやすい。現代は都会化してその生活範囲が無限大に広がったというとき一定の固定した場所と空間をもたないから記憶も消失されやすいのである。墓というのは問題が多いにしても一つの記憶の固定化なのである。エジブト文明もピラミッドも記憶するということに執念を燃やしていた。記憶が消えれば人間の存在も失われるからだ。歴史そのものが基本的には記録である。記録がなければ過去も探り得ようがないからだ。


ベルグソンの『哲学的直観』のなかの時間論を好む。少し抽出してみよう。


時間とは、区切られた一定の空間に群らがるありとあらゆる事物と事象を交通整理して、その空間に収まる分だけの事物を、少しずつ小出しにその空間へ流してゆく力に外ならない。


これはあるプログで紹介されていた一文である。これは自分の詩を哲学化して言ったものである。
一定の区切られた空間がありその中に置かれた事物が時間の中で存在感をもつ、人間によるアイデインティティ化(自己同一化)が計られる。


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つまり人間の記憶は図で示すと次のようになる。一つの区切られ空間の中で時間を経て記憶が定着してゆくのである。そのわかりやすい例が石なのである。だから石を知るにはアイデインティティ化するにはその石の置かれた空間があり時間を経てできることである。現代のめまぐるしく変わる世界はあらゆることが記憶されなないことにあるのだ。そこに存在感もないしただ消失感だけが残る。

現代の情報空間は膨大なもの無限大になっても記憶されものが極めて少ないのである。テレビでも次から次へと現れては消えてゆくだけの情報空間である。一回切りしかテレビに出ない人がいる。でもその人がこの世から消えているわけではない、やはり存在し続けているがテレビ空間から消えるときそれは存在しないと同じであり死なのである。テレビというのは記憶するメデアではなくただ次から次と現れては消えてゆく情報空間である。生きているものはそんな簡単に一回限りで消えるものではないのだ。そこには区切られた空間と場所がないからそうなっている。故郷とはそうした区切られた場所と空間で記憶されたものがありその継続として生きる場なのである。なぜならこの辺では原発事故で警戒区域は故郷から離れるときその記憶も失われてゆく、新たに移り生活するにしても一からまたはじめなければならないとしたら容易ではないからだ。だから老人は過去の記憶に生きるというとき故郷を離れにくいのである。


there is the fixed stone
on the solid place
deeply rooted one


現代は継続されるもの、記憶が保存される場所と空間が欠如しているのだ。それで存在感ももてないしただ消失感だけが大きくなっているのだ。皺石であれ一つの石はそこの区切られた空間で時間とともに存在感をまして成長さえしているのかもしれない、そこに動かないことで充足感をましている。そこで感じるものを凝縮している。風でも光でもその回りの自然と同調して存在している。
その場所と空間に存在しようとしている意志をもってきいるというとき実はまだその場所と空間に存在しているのは存在が発見されたのは最近だともなる。そういう石も自然の事物も多いのである。
自分がこの石を見たのは最近であり一回だけでありその後は見れなくなったからである。