2013年07月01日

人の住まない警戒区域が縄文時代にもどる (ネズミやイノシシがふえ荒らされてもどれない状態)

 

人の住まない警戒区域が縄文時代にもどる

(ネズミやイノシシがふえ荒らされてもどれない状態)


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老夫婦が釣りにきていた


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海水が入り込んだところ
フグが何十匹か死んでいた,これは生きていたフグ


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破壊された防潮堤


ことに東日本は、豊かな木の実や山芋などのほかに、サケ、マスなどの川魚にも恵まれていた。カツオ、マダイ、スズキといった海の幸。イノシシ、シカ、マガモ、キジといった山の幸。それに豊かな貝類。このように比較的、食料に恵まれていたので、日本列島の住人は、すぐには大規模な農耕を開始する必要がなかった。

 大型獣にかわって、中型獣(熊、鹿、猪)、小型獣(狸、狐、兎)、さらなる小型獣(ムササビ、リス、ネズミ)、鳥類(キジ、カモ、アホウドリ)などが登場し、弓矢を中心とした縄文型狩猟がおこなわれた。

草原は安定しない環境だ。高校の理科の教科書を引っ張ってくるまでもなく、草原はやがて陽樹の林となり、陰樹の森となる。つまり、ずっと草原である場所というのは長いスパンで見たら存在しない、はずだ。人間の力なしでは。つまり、人間が火入れをするとか、草刈りをするとか、放牧をするとかして、初めて草原は草原としてそこに存続できる。
http://d.hatena.ne.jp/ast15/20120511/p1


この辺が草原化したり湿地化したりした驚きを書いた。湿地化して沼ができて水葵が咲きだしたことも写真と共に紹介した。海岸沿いは津浪で湿地帯化して沼が生まれ大きなトンボが飛んでいることにも驚いた。トンボをドラゴンフライというけど巨大な太古の恐竜時代にもどったような感覚にさえなった。海にススギフタバリュウでもよみがえるような錯覚さえ起きた。小高の井田川の開拓地が縄文の海にもどったというのもそうだった。八沢浦もあんなに奥まで水が入り込んで浦になったことは信じられない光景だった。まさに縄文時代がもどったのである。原発事故で田畑が放置されそこが草原化したことも驚きでありそのことを書いてきた。


でもNHKの東北クロ-ズアップで浪江などの人の住まなくなった地帯がネズミやらイノシシやらなどが増えて家が荒らされて帰れるような状態ではないという。もう帰りたいと思ったが帰ることをあきらめたと婦人は言っていた。何か不思議なのは人間はもう縄文時代のことをリアルに知り得ない、それは田舎に住んでいてもそうである。知識で知るのと実感として知るのとは余りにも違うのである。
だから歴史でも過去をたどるとき必ず現代の便利な生活から想像するから過ちがうまれる。

縄文時代はとても想像できない時代である。でも津浪や原発事故で縄文時代にこの辺はタイムスリップしたのである。

まず草原というのは何か自分は想像できなかった。湿地帯は北海道などで見ていたからある程度想像できた。日本では草原は見れない、北海道は牧草地であり草原とも違う。この辺が草原化したというとき草原は一時期であり湿地帯に生える柳などが生え森になってゆくという。柳は乾燥地帯ではなく湿地帯向きだった。ヨ-ロッパでも柳細工が発達しているから湿地帯が多かった。どこも原初の状態は湿地帯が多い。湿地帯が多いということはそこは虫や蛇や細菌が繁殖して住みにくい場所だから人類が最初に住んだのは高台だったということは共通している。最初に住んだ場所は高台であり低地ではない、だから海岸に接して低地に集落ができたのはかなり後の時代である。例え海に近いにしろ高台に住んでいたのである。磯部のような海岸の砂州のような地域には住まない、そういう場所は今回の津浪で壊滅した。もちろん縄文時代は誰も住まない場所だった。


そして不思議なのは警戒区域となり人の住まない地域は草原から森になってゆき、森に生きる動物が増えてくるという。日本では草原は自然の状態ではないという、森が自然の状態である。草原という感覚はない、草地というとき草原とも違う、一部草が生えている感覚である。野はもともと草原ではない、傾斜地であったり森もふくまれている。日本にはモンゴルのような草原はない、平坦な地域は湿地帯になる。モンゴルの起源が祖先が狼をト-テムとするとき森の民から狩猟の民から牧畜の民になった。人間の起源が森に住み草原で立って歩くようになったという説はそこからでてきている。

日本でも縄文人は森の民なのである。ただ浪江などで草原化したところにイノシシや雉が増えた。

縄文時代は鹿も多かった。これらは食糧として十分に豊かなものである。イノシシにしても鹿にしても雉だって大きいから食いごたいがあり豊かな食糧だった。それに海に接しいてると貝類もとれたし魚もとれた。縄文時代は津浪でわかったように奥まで水が入り込んでいたから魚も入ってきたのである。それで魚が海岸に大量に打ち上げられてそれを食べたということもあった。労せずして海の幸を得たこともあった。今回の津浪で海岸の防潮堤が壊されてフグが数十匹打ち上げられいた。一匹は生きていた。フグだから毒にあたって死んだ人もいたかもしれない、このように魚は縄文時代は豊富だから労せずしてとれたこともあったろう。もちろん栗とかの山の幸もあり縄文時代はそれなりに豊かな食生活があったのだ。川魚もあったから余計にそうである。要するに常に過去は今から考えるから間違ってイメ-ジしているのだ。縄文時代は山の幸海の幸に今よりずっと恵まれていた。それもとれたてのを食べるから新鮮でありうまいし体にも良かったのである。


ともかく草原化してイノシシが増えたとかキジが増えたというとき何かそれが常にこの辺では想像ではない、リアルな現実として感じるから違っているのだ。まるで猿の惑星をみている感じにすらなる。イノシシを駆逐するために檻を作った人が人間が入るようだと言ったときまさにそうだった。
人間は消え駆逐され猿が支配者になっていた。ニュ-ヨ-クは核戦争で滅びてしまいその廃墟が野生化して猿の惑星になっていたのだ。


いづれにしろ浪江は帰れないというとき生態系が変わってしまったということも深刻だった。それは隣の小高にも影響している。ネズミとか増えれば浪江から小高に侵入する。それをさえぎることはできない、だから小高に帰るのが嫌だというのもわかる。隣があんなになっていればそうなる。
ただ六号線が通行証もらえるとイワキまで行けるというのは復興を進めるのに大きな力になる。
六号線は今ではそれだけ大きな役割をになっていたのである。

posted by 老鶯 at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年07月02日

トラさんの物語 (原町の実家の墓の悲しい物語)

 

 トラさんの物語 (原町の実家の墓の悲しい物語)
 
 私の母の98才になる実家は原町にあった。父は警察所長でありもともとは金持ちだった。それで幼いときは広い庭で遊んでいたという。もしそのままゆけばお嬢さんとして育ったかもしれない,その運命の歯車が狂ったのは父が事業に手を出したことだったことだったのだ。当時は製糸工場がどこにもできて農家はみんな養蚕をしていた。そういう時代だから機織りの工場の経営に手を出して失敗したのだ。その失敗の原因はそもそも警察所長などは会社経営などに向いていない、経験的にも向いていない。事業経営で成功するのは余程才能に恵まれているか時代の波にのらないと成功しない。
 前親戚だった人も技術者であり頭がいいのだけど失敗していた。この人も技術者としては優秀でも事業経営には向いていなかった。一般的に東北人は商売に経営者などに向いていない、こつこつと地道に仕事している職人的技術者に向いているのだ。のるかそるかなどの大勝負をする大阪のような商売には向いていいないのだ。その人もサラリ-マンとして技術職として地道にやっていれば事業に手を出さなければ失敗はしなかった。人間はやはり向いていないものには手を出すべきではない。
人間の失敗には必ず教訓がある。その失敗を手本に次代の若い人も学ぶということがある。
 
ともかく母の父はその工場で働いていた女性をメカケにした。それがトラさんだったのである。メカケといっても確かに妻がいたけど脳梗塞で寝たきりなのだからそれで家のことをしてもらうこともあった。父親は警察所長でいつも威張っていたというと妻の看病も家事もできな、ただ威張るだけの人だったのだろう。おそらくこの父のふがいなさが実家の悲劇を作り出した元だったのである。母の母は5年間くらい寝たきりであり看病したのはメカケとして後妻に実家に入ったトラさんだったのである。だから母の母の看病もした。小便をとってもらうことなど嫌がっていたという。それもそうだろう。その話を聞くと何かこれも悲惨なのである。トラさんに抱かれて運ばれたりもしたとか悲惨すぎたのである。藁で下のものを始末したとかも悲惨だった。そういう貧乏な時代であり介護用品などない時代だったのである。養老院というのは一部あったかもしれないがほとんどは家で面をとみる他なかったのだろう。


その時母は原町紡績(原紡)で働いていた。この時女性の働き口は製糸工場と女中がほとんどだった。ほとんどの人が製糸工場で働いている。女中も需要が大きかった。その頃電化製品などないのだから家事は一仕事だったからである。洗濯にしてもごしごしと洗濯板で手で洗っていたのである。洗濯も一仕事だったのである。パリでもセ-ヌ川で大勢の女性が洗濯する絵が残っていた。パリなどというと今はそんなイメ-ジがないがやはり事情は同じだったのである。家事は一仕事であることが長い間つづいた。だからどうしても人手が必要であり貴族でも召使が必要になった。日本でも金持ちは女中を必要とした。二人とか雇う家もあった。後に母は東京に出て女中になった。東京では女中の需要が大きいからそうなった。

このトラさんはものすごく気性が激しい人だった。まさに名前と通りの人だった。その時実家には子供が五人くらいいた。姉もいてトラさんが家に入ってきて飛び出して東京に出て帰らなかった。もう一人の長男にあたる人は事情があって家から追い出された。もう一人の弟と母が家には残った。
実際は本当の長男にあたる人は27才で結核で死んだ。その看病をしたのも気丈夫なトラさんだった。結核は感染するから恐いし簡単にはできない看病だった。結局誰もその家でそうしたことをできるものがいないのだからまかせられたのである。メカケといっても家のためにそうして勤めた女性でもあった。その功罪はあったがすべて悪いひどい人ともいえない面があった。ただ母にとって継母であり辛い思いをした。

子供の頃弁当作ってもらったのだがそれを残してもってきたら
「俺の作ったものを食えねえのか」とその弁当を母の前で投げたという。
これはひどい話しだと思った。
その時母は実の母だったらこんなことしないのになと泣いたという。

この話は自分も聞いてひどい女性だなとつくづく思った。その後も何かと母はいじめられていたのである。継母にいじめられる話は昔からあったからこれもその一つともなるがやはりひどいと思った。
実家には弟がいてその人は丸三製紙に勤めていた。これも原町では大きな勤め口であり今も工場があり煙突から煙をだして街中にある。課長までなったからそれなりに生活はできる人となっていた。
ただ最初に嫁に来た人はトラさんが気に食わないと追い出した。ただ追い出すには事情があったらしい。新興宗教にこっているとか何か追い出される女性にも悪いところがあった。次に来た嫁とも喧嘩して別れして遂には養老院に自ら入った。そして実家は家がなくなった。

しかしトラさんの最後はあわれだった。最初元気な内は四人部屋でそういう性格だから番長のようになっていた。でも字が書けない読めないということやハンディがあった。そして最後は眼が見えなくなった。そこで何か異常な状態に一時なった。認知症になったわけではなかった。

最後まで正気だった。なぜなら母が呼び出されて介抱していたとき
「すまねえない、忙しいのにな」と言っていたという。
母はその時まだ店屋をやっていてそれでそう言ったのである。この時相当弱気になっていた。もう死ぬ一年か二年前だった。人間はどんな強気の人でも体がだめになり弱くなってしまう。これが人間のさけられぬ運命であった。

この実家の墓に父親違いの兄が葬られることになった。原町で中学まで過ごして集団就職で埼玉の方に行きそれから静岡の方に行きそこで交通事故で42才で死んだのである。なぜ実家の墓に入ったかというとそこも複雑であるがこの実家の墓にはそうした人たちが入っているということである。


つまり墓が何かというと今は家族の墓だからその家族の物語が必ずあるのだ。墓が家族は墓だとすると家族の物語として墓があることになる。もし個人墓になれば個人の物語だけになる。兄の骨が娘にひきとられて供養されればそうなる。つまり現代の墓は明治以降、家族の墓になった。これは新しい墓の形態であり百年もすぎて時代にあわなくなったのだろう。江戸時代は個人墓であり庶民でも農民でも金がある人が墓を建てた。それは個人墓であり家族墓ではない、自分も金があるから墓を建てようとなり建てたのである。それまでは武士には墓があっても庶民にはなかったのである。経済力がついて墓を建てるようになったのである。それが明治以降に家族墓になったのはやはり経済力がついたことによるのだろう。墓を建てること今でも金がかかるからだ。それで墓がもう増えすぎて限界状態になったのだ。家族墓はもう時代にあわなくなった。でも墓をどうしていいかというのは死者の問題がからんでくるからむずかしすぎるのである。つまりその方法が文化が破壊されたから見いだしようがないのである。それでいろいろと個人で模索しているけど個人では死者をどうするかなどどうしていいかわからない重い問題なので困っているのだ。死者をどう処置するかはその国の文化とも関係しているからだ。


いづれにしろ最後は家を出された長男の人が「墓を守ってくれ」と言って弟の娘に3百万を残して死んだ。それで墓が崩れかかっていたので自分が70万で直した。おそらく今回の地震であのままだったら崩れた。ともかく兄も入っているので複雑になっているのだ。ただ同じ姓になっていたので入れやすいということがあった。兄はトラさんの養子になっていたのである。そこにも事情があったが同じ姓でないとこれまためんどうになる。姓が同じだったら籍に入っているから入れやすい、ただ墓も姑にいじめられたりすると一緒に入りたくないとかもめている人が多いのである。だから墓も何かややこしすぎるのだ。


そして家族の墓は別に郷土史とかとして注目する人がそんなにいないだろう。またそうした歴史的価値があるのかわからない、家族墓は多すぎるからだ。ただこの辺では越中などからの飢饉のときの移民があり真宗系統の墓が三分の一ほどありそれは墓から必ずわかるから墓にも歴史的価値がある。ただ一般的にこうした家族墓より共同体の祭りの古い碑などの方が歴史的価値がある。それはプログで紹介してきた。それは共同体のシンボルとしてもあったからである。個々の墓にはそうした歴史的に価値あるものはそれほどないのである。だからこうしたものは歴史的に価値があるから共同体として残すが今のような家族墓は無縁墓になり無意味化してゆくのが多いだろう。

ただ家族墓というのも個人墓ではない、家族の墓だから最小の共同体であるからそこに家族としての物語が残る。それも一つの郷土史だとはなる。それぞれの家族から郷土史の一端を知ることができるのである。

いづれにしろ実家の物語は警察所長でもあった父親の影も薄いしまして病気になった母の母も影が薄い、ただそこには専横的にふるまったトラさんが主役となっているのだ。一方でトラさんに蹂躙された家族でもあったとなる。要するにいい悪い別にしてトラさんの物語になっているのだ。墓もなくなってもこうした物語は後世に語られることもあるだろう。そういうものは無数にあり民話となっていった。そこに何かしら教訓をよみとり人間の普遍的問題が必ずある。継母でも別に子供に愛情をそそげば親切にしていれば最後の悲惨はなかった。手厚く看護されたかもしれないのだ。血縁でも子供は親を見ていて最後に手厚く看護するとは限らない、たいがい金持ちの人は施設にあづけられるのでありそれも時代である。


トラさんは最後は養老院に世話になったから解剖してくれというのが遺言であった。それで解剖された骨は一旦我が家に来て実家の墓に納めた。


その墓から嘆きと苦しみと
やるせない悲しみの声が聞こえてくる
喜びの声は聞こえてこない
圧迫されて閉ざされている
ただ一人の気性の荒い
トラさんの声だけがひびきわたる
その声に子供たちはおびえる
しかし最後は眼が見えず悲しく死んだ
「すまねえな」と弱気になって死んだ
この墓の一つの物語であった
 

posted by 老鶯 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2013年07月03日

津浪や原発事故で起きた草原化の考察 (草原や原は人為的に作られたものだった-原町はその象徴だった)

 

津浪や原発事故で起きた草原化の考察

(草原や原は人為的に作られたものだった-原町はその象徴だった)

浪江が警戒区域になり家はネズミに荒らされて原野化して草茫々になっていた。そこで研究に入ってきた学者が原野化するとそこは湿地帯に生える柳などが増え森になってゆくという。
草原は日本ではほとんどみかけないように日本では森になってゆく、木が繁殖して森になってゆく。草原という風景はもともと日本では原生環境の自然ではない、人為的に作られた自然だったのである。そもそも日本の原生環境は森でおおわれていたということである。木が繁殖しやすい風土だった。そして錯覚していたのは草原とか原とつく名がそこは原野であり原生の自然環境だと思っていたが違っていたのだ。日本の原は原野は森になりやてすい、放っておくと森になるのだ。


このことを地名から考察すると木の地名が相馬藩内でも結構ある。その木の地名でもなぜ木の地名がついつたかというとそれはただそこに木があったからというのではない、人間が木と深くかかわるとき木の地名がついたのである。地名はただそこの原始状態からは名づけられたのではない、人間の生活に深くかかわったとき地名がついた。だから地名は人為的なものであり人間的なものである。

人間は全く自然そのものが何なのか知り得ないし自然に接するにもすでに人為的に人間生活で深くかかわった自然なのである。だから何かそこで誤解が生じているのだ。原とあればそれが原始状態の原だと思っていた。原とつく地名は多い。そこは人間の手の入らない原だと思っていた。ところが草原は日本では人間が手の入れた人工的なものでありそうしないと維持されなかった。原は日本では森になってゆくからである。森は鎮守の森というように日本ではいたるところが森であり大都会に鎮守の森があるのはそこももともと森だったからである。

だから津浪や原発で草原化したとき原始の状態にもどったのかと思った。でも実際は草原が原始の状態ではなく草原から森になってゆく。

この辺でも橲原(じさばら)とあるときこのジサは


「山萵苣(やまぢさ)の白露しげみうらぶれし 心に深くわが恋止(や)まず」。
万葉集にでてくるこの「やまぢさ」はエゴノキのことだという。


 木材は緻密で粘り気が強く、各種の木工細工 に適しているため、「ろくろ木」とも呼ばれてい ます。 薪炭にも使用される。
http://www.wood.co.jp/wood/m053.htm


そもそも人間はなぜこうしたここの木に注目したのか?何か目的があった。ジサの木は木工細工に適しているからそのことで注目された。他にも真弓-檀(まゆみ)という地名が新地にある。


陸奥の安達太良真弓弦はけて引かばか人の我を言なさむ

陸奥の安達太良真弓はじき置きて反らしめきなば弦はかめかも


マユミ(檀、真弓、檀弓)というのは弓にするのに適した木として注目されてそこが地名化された。

柏原というのも地名としては全国に多い。これも柏(かしわ)の木は


印南野の 赤ら柏は 時はあれど 君を我(あ)が思(も)ふ 時はさねなし(巻20−4301)

(意味)

印南野の赤ら柏の照りはえる時節は、決まっていますが、私の天皇を思う心は、変わることなどは決してありません。

*さね・・・決して、ちっとも
この歌の「君」は孝謙天皇を指します。


柏の葉は大きく、葉肉が厚いので古くは食物を盛るのに使われ、祭式用としても用いられていました。
ことに播磨から献上される柏は有名で、宮中において祭りなどに用いられるのが慣わしになっていました。

http://azaleapines.blog.ocn.ne.jp/hirokazu/2010/06/post_99f7.html

これも実用的なものとして慣習化して柏といえば何の目的で使用されるかみんな指摘するまでもなく日常的に知っていたのである。柏餅の柏は江戸時代になって使われた。柏原の地名はすでに古く万葉時代からのものである。葛尾(かつろう)村に柏原というところがある。戸籍をたどったらここが自分の父の父のまた父の住んでいた場所らしい。江戸時代の人の名前が記されてあった。戸籍は江戸時代までたどれるのだ。ここも柏の木が繁っていたところとして地名が生まれた。ただいつこの地名ができたか?江戸時代以前なのか?そこは森をぬけて平らになっている地帯だから人が住み着いたことは確かである。だからそれなりに古い地域なのだろう。真弓という万葉集時代からとすると新地の方が古くなるのだろう。ただ柏原という地名の方が全国的に普通に見られるのである。


ともかく錯覚していたのは原とつく地名は原始の状態のことではない、原は人為的に残さないと残らないのである。そこは森になってゆくからだ。その原の効用として草が繁るからその草は馬や牛の餌になる。森だとなりにくい、餌場として原が人為的に必要だったのである。だから原は野焼きしたりいろいろと人が手が食えわて残されていたのだ。日本から草原が消失したのはそうして人間の手が加わらなくなったからだというのも意外だった。原はまた馬が中国や朝鮮から入ってきたとき馬を放牧する地として人為的に維持されたのである。東北にはその牧草地として牧が多い。馬の産地だからそうなった。秣をとるためにも原が必要だったのである。それは葛尾(かつろう)村にも多かった。葛尾(かつろう)村は秣(まぐさ)の供給地だった。


そして最も原が象徴していたのは原町だったのである。原町は広大な原でありそこはただの原っぱではなく野馬追いのために馬を放牧するためにも人為的に作れていた原だったのである。今の街があるところはほとんど野馬追いのための放牧地だったのである。原とつくと何もない原野だと思っていたがそうではない、原は人間によって手を加え維持された土地だったのである。日本の自然は放っておけば森になるからだ。


いづれにしろ今回の津浪原発事故は様々なテ-マを生んだ。縄文時代にもどったというのもそうだった。草茫々になって森になってゆく、そのことも実際にそれを見たとき驚きだったのである。
ただこのことでわかったように人間が接しいてるのは全くの原始の状態の自然ではなかった。
縄文時代でもすでに人為化した文明化した自然だったのである。人間が住み始めたときから自然は長い間に人為化されていたのである。だから人間は全くの原始の状態の自然を知らないのである。
全く人間の手の入らない自然は地球上でほとんどなくなっている。何らか人間の手が入っていて草原とか原となるともうすでに人間の手が入らないと維持できないものになっていたのだ。

 
 
 
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2013年07月04日

仮設の食堂で話す(人の出入りが激しい南相馬市)


仮設の食堂で話す(人の出入りが激しい南相馬市)


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十輪ほど外に華やか夏の花
六号線増えて飛び交う夏燕
雨しとと紫陽花濡れて介護かな


夏の鳥高き電線にとまりなき新しき家またここに建つ

わが町に人の出入りの激しきや燕とび交う夏の夕暮
わが町に花屋の開くとりどりの花見つ暮れぬ変わる街かも
蟻に虫蚊の襲いくる台所仕事に追われ介護するかな
野良猫の二匹の住める界隈や時にえさやりそれも忙し
自転車に買い物すれば襲いくる烏にあれや魚の惜しも
時に花雨に打たれて梅雨なりき外に飾れる花を思いぬ


鹿島はもともと寂れた町だった。通りに店屋などほとんどなくなっていた。それが震災以後小高の人が仮設に住んでおそらく3000人くらい増えたのかもしれない、だからやたら小高の人のみが目立つのである。街がにぎわうにはやはりつくづく人口だと思った。3000人増えると街に活気が出て消費がふえるのだ。サ-ビスする種類も増えてくる。だから都会ではかえって人口が多いから各種のサ-ビスが受けられるのである。また競争が激しいから新しいものが生まれやすいのだ。

まず人の出入りがこの辺は激しい。まだ外部からも工事関係で入ってきている。今日仮設の食堂にいたら菓子折りをもってきて挨拶に来た人がいた。仮設で花屋をやっていたところに整体師が入るので挨拶に来た。その人は岩手県なのだけど妻が原町の人で仕事をはじめることにした。出てゆく人もいるが入ってくる人もいる。かえって鹿島区は入ってくる人が多くなったのである。

だからこぎれいなモダンなアパ-トがかなた建った。百人も収容できる感じである。新しい家も次々に建っている。津浪で家を流された人や大熊の人も建てたという時、家を建てることが多くなった。だから相当な変化でありこんなことになるとは思ってもいなかった。

花屋は二人も人を雇っている夜討ち大きいしペットの病院もできた。3000人増えるとそうした需要が増えてくる。ただ小高は元のようにはもどらないだろう。鹿島に移る人もかなりいるだろう。その変化も大きい。小高でも鹿島でも合併して今になると損したとなるのは小高には小高の事情ができて鹿島には鹿島の事情ができた。だからなにか要求するのにも統一してできないのである。
そして原町だけが復興の中心になり得をしているというのは本当だろう。どうしてもそうなりやすいのだ。それから原町の市長も評判が悪い、左翼系統で反対する運動では力を発揮するが実際の政治の能力はなかったのである。相馬市の方、自分の専門の病院ばかりに力を入れていると評判が悪い。

こういうときはやはり私益を優先すると批判されるだろう。結局相馬はどちらも指導者がいないから混乱して復興が前に進まないということがある。こういうときはやはり強力な指導者がでないとまかせないと実際に物事が進まない、あれやこれや言っていても実行力が大事になる。それが欠けているから復興は進まない。でも民主主義はそういう指導者を作ること自体むずかしい仕組みなのである。
ともかく自分もずっとこの六年間家のことで追われている。家事一人で介護まですると手一杯になる。そこで今は蟻とか蚊とか虫が湧いて悩まされる。烏に後ろの荷台に積んでいた魚をとられた。

烏はじっとしているようでも餌をねらっていたのである。動物も鳥でも何でも生きるに必死だとなる。

兄の墓の問題はなんとか東京の親戚が来れば一応かたづくだろう。この墓の問題もめんどうなのである。結局墓にこだわるより供養が大事である。供養しないとそれが災いになるから恐いのである。

墓があるなしではない、供養が大事なのである。鹿島区に107才の女性が生きているというのも時代である。100才も十人くらいはいるだろう。90以上になると百人はいるだろう。そういう超高齢化時代であるが107才となるとさすがに話題になる価値がある。

2013年07月06日

津浪に残った二本の樹(詩) (原町区で津浪の被害者の取材で殴られた?)


津浪に残った二本の樹(詩)

(原町区で津浪の被害者の取材で殴られた?)

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津浪に残った二本の樹

二本の庭の樹の二年過ぎて
枯れんとして枯れず残りぬ
その樹の離れがたく
あたかも老夫婦の如く
津浪の跡の荒野に残りぬ
津浪の傷痕深く
数多の人の命奪いゆぬ
涙はここに流れ嘆きは尽きじ
木の根っこのように
江戸時代の社の残り壊滅したる村よ
なお人のここに生きむとするや
凄まじき津浪の猛威を語りつ
二本の樹は離れがたくここに残りぬ
(我が子の津浪に死すと悲しかな海をながめつ年は巡りぬ)



元朝日新聞記者の烏賀陽弘道さん、福島の被災地に取材で暴行を受けたとツイートするも当事者に反論される
http://togetter.com/li/524179?page=2

他から来た新聞社の記者が原町区の津浪被害者になぐられたという。何があったのか?やはり被害者の心証を害すようなことがあったのか?新聞社も人の被害者や事件起こしたとか災害地域でも土足で家にあがりこんでくるようなことをする。まるで特権者のように横柄に振る舞うことがある。
何かここて泣いて下さいとか場面を作りをする。だからそうしてテレビ局や新聞社に作られた映像が流される。お涙頂戴のどうぞ同情してくださいとかの映像は今回は嫌というほど流された。
そこには被害者の本音とは違ったものともなっていた。
テレビとかテレビ局で作られた映像が流される。涙流さないと絵にならないんだよとかなる。
そもそもそういうところに取材にゆくことが自体はばかれるものであった。
家も流され家族も死んだとなるとそういうところに行って声かけるのもはばかれるということがある。

自分も美しい八沢浦がよみがえったと写真を出してプログで書いたらコメントとしてお前はあそこで死んだ人のことをどうおもっているのだ。子供の死体まで泥から掘り出した人のことを考えてみろとコメントがあった。確かにそういう反感を買うのも当然だったかもしれない、家族が死んだ人いたらそうなるのが当然かもしれない、ただ自分が言い訳するとそもそも自分は郷土史を研究していた。
そして美も探求してきた。だから八沢浦が入江だったらどんなに美しいだろうと何度も想像していたしそうした合成写真も出していた。それから湿地帯であり低地だったとしたところは今回は予想通り海水にひたり海になってしまったことに驚いた。津浪が証明してくれたのである。

海老とか烏崎や磯部などは家が多く壊滅したからそこが美しいとはならなかった。しかし八沢浦は確かに死んだ人もいたが海水が入り込んだところには家は数軒しかなかった。回りにはあったがほとんど田んぼの所が海水につかった。だからガレキの山のようにはならなかったのである。

確かに崖の所で一家三人とか死んだ家があった。それは八沢浦の田んぼではなかった。
お前は人が死んだのに喜んで写真をとっていたのかとかなるが自分としては驚嘆すべきことだから写真にとった。その時自分は病気であり管を体に入れていたのだから自転車に乗ることが苦しかったのである。ただどうしても見ておきたいと一度だけ見て写真をとったのである。
今思うと津浪の写真でも刻々状況は変化しているからその時写真をとらないと記録としてはわからなくなる。記録として残すことも郷土史からも必要だった。
今では右田の松原の写真などがただ写真だけでしかみれなくなったから貴重である。
そしてプログをこうして毎日書くのも家事から介護しているのだから大変なのである。

正直その後も湿地帯化してそこに沼ができたり水葵が咲いたり今でも大きな沼が生まれてトンボが飛んでいたりと自然と原初の状態にもどったことに驚いた。明かにトンボは増えている。原初の状態にもどれば自然の生物も増えてゆく。ただ蝶は増えていない、減ったように思う。
津浪の跡に蝶が異常に増えたことがあった。そういう現象は今は起きていない。


ともかく津浪や原発事故でこの辺はまるで映画が現実化したような世界になっている。その変化には未だに驚くべきものである。海老でも家がなくなりそこにクロ-バ-がおおい黄色の花が一面にまぶしく咲いていたときはきれいだと思った。それは北海道で見た風景だったのである。
例えば防波堤が破壊されて白い波がうち飛沫き砂浜と化した所によせる、何かその時原始の力を感じた。自然は何か歓喜しているように感じた。野生の力をとりもどして歓喜しているように思えたのである。そこでかなりの人が死んでいるからまた不謹慎だとなるが自分には自然が本来の野生を取り戻して歓喜しているように見えたのである。


この辺ではいろんな変化が激しすぎたのである。それになかなか対応できない、避難している人だってそうだし津浪や原発被害地域はみんなそうである。混乱状態が未だにつづいているのだ。それだけどう対処していいかもわからなくなっている。ただその時々を記録として残していればそれが後の資料的価値がでてくるかもしれない、そんなこと不謹慎だといわれてもそれが正直な気持ちだからどうにもならない。ただ被害にあった人は家族を失った人は海の見方が変わったことはいえる。
海がこんなに酷いことをするのかと海をながめているだろう。
その傷痕はあまりにも深すぎたのである。

 
 
 
 
 
 
 
 


 

posted by 老鶯 at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年07月07日

虹(草地に木が伸びていた)


虹(草地に木が伸びていた)

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大虹や復興願う供にして

虹たちて燕飛び交う夕べかな
海の方夕べ虹たつ浜通り
暑き日や草地に伸びる若き樹々
寝ころびて畳に風の涼しかな


ますますに草深くなり鶯の鳴きつつ暮れぬ歩む人かな

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虹だけだと夏である。今回は大きな虹だった。夏らしい虹だった。虹を見たのは9月のとき相馬市の病院に入院していたときだった。その虹は山の方にかかっていた。9月だから秋の虹だった。でも外は相当に暑かったろう。浜通りの虹は海の方にかかりやすい、今日も山に陽が没るとき海の方に虹がかかった。虹を見るときは何か幸運を感じるし何か吉兆を感じるのは自分だけではないだろう。
この虹は大きかったから特にそうである。ただ消えるのも早かった。


旅では虹を見たら相当に幸運である。旅で虹を見るのはむずかしい。平泉で春の虹を見たことがある。「春の虹切れ端残る平泉」とか句を作った。これだけ旅しても虹は見れない。虹は一カ所に定着していないと見れない、今回は二階で畳に座り大きな窓から虹が見えたのでとっさにカメラをもって外に出て写真をとった。ものを書くにしても外が見える所がいい、なぜなら外の空気にふれる景色の変化をみるだけで気分転換になる。何も見えない部屋でパソコンばかり見ているのは良くない、前は一室はそうだった。今は三つの部屋を行き来しているから外の景色を見ていることも多い。

その景色ももっと視界が開けていればもっとよい。その点都会はいくら豪邸に住んでも外の景色はビルだけなのだからつまらないとなる。今になるとなぜあんなところに人が密集して住んでいるのか理解できない、貧乏なくせに都会がいいと言う。貧乏だったら都会は欲しいものも買いないとしたらつまらないと思うけどその心理がわからない。金持ちならそれなりに都会を楽しめるだろうが食うのがやっとではいくら都会でも楽しめないからだ。

今日も蒸し暑いから嫌である。日本はこの蒸し暑さがいやなのだ。だから畳に寝ころぶのが気持ちいい、畳は湿気に向いていた日本の文化なのである。一部草原化したところに二年すぎて木が生えて伸びている。やはり草原は放っておけば日本ではみんな森になるのだ。そういう風景が見れることが不思議である。自然の変化があり一面この辺が実験場みたくなっているのだ。草原をほうっておけば森になる。人が何も手を加えなければ森になる。人が手を加えれば草原のままだという。森にしているとやはり田んぼでも畑でも何かしらの影響を受けるので草原にした草地にした方がいいということで人手がはいり草地が残されるという。そういうこは予想もつかないし考えもしなかった。
すでにそういうことを考えていた人は専門家にはいたが素人では考えもつかなかった。
人間は自然を知るにしても本だけでは実感としてしりえないのである。もちろんテレビなどみてもそうである。原初の状態がどうだったか海岸地帯は湿地帯だと書いてきた。でも現実にそうなったときそれはまた違っていたのだ。現実は常に想像を越えたものなのである。津浪だってそうである。

鶯は今は俳句では夏鶯や老鶯になる。ただ俳句は短いので作れないときがある。でも歩いている人がいるいうことが今では詩になっているのだ。車しか通らない時代は歩くことが絵になり詩になっている不思議である。そのことは何度も書いてきた。歩くということは自然と一体化することだからそうなっているのである。車は自然とは一体化しないのである。

こんな事を誰も想像もできなかった。自然の大きさをまだ人はつかめない、ただ机上の学問でもつかめない、そこに落とし穴があったのである。これからも想像もできないことが起きる。だからこそ原発は危険である。その想像を超えたものに備えることができないからだ。

この蒸し暑い梅雨の時期はいつも北海道に行っていた。その時は恵まれていた。自分ほど恵まれていたのはいなかった。でも全くそれが逆になってしまったのである。その恵まれた結果として6年間の苦しみがあったし今も拘束された奴隷のようになっている。自由がないのである。
簡単に行けそうでも行けない、今は明かに自分は結構自由に旅できる体になっている。登山すらできる。体的には問題がないができないのである。


2013年07月08日

朝も虹がたった(草原の虹となった景色)


朝も虹がたった(草原の虹となった景色)

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燕飛び草原に虹朝明けぬ

草原の雨濡る朝や虹たちぬ
早朝や切れ目なき虹我が望む
老夫婦消えゆく虹の名残かな
大望や鳥の翔けゆく朝の虹
朝早みでで虫歩む雨にぬれ


長々と虹のかかりて消えざるや歩みの遅しでて虫一つ

朝夕に虹たつ見れば幸いの重なりゆくと心はずみぬ
朝早み草原に鳥ゆうゆうと翼を広げ餌を見つけぬ


5時ころ朝また虹がたった。今度の虹は完全に弧を描きかかっていた。こういう虹を見るのもめずらしい。たいがいどうしても切れている虹が多いのだ。こんなに完全に虹を見たのは最近なかった。特に朝には虹が見にくい、浜通りは夕方に見やすい、何か自分は苦しみの六年間がすぎていい方向に向かっているのかもしれない、虹は契約の虹であり願いがかなう約束の虹だからである。
自分のかかわった人間は本当に異常な人たちだった。それが不幸であり苦しみをましたのである。もう一人またそうした人と会わねばならない、ただそれも今回でけりがつくかもしれない、因縁はやはり簡単には切れないのである。悪因縁は長くつづくのである。

虹を見ることは何かの吉兆である。たまたま起きていたから見れたのも偶然とも言えない。
自然はやはり注意して見ていなと美を見逃してしまうのだ。シャッタ-チャンスを見逃してしまう。
やはり何事集中しないといいものはとれないしいいことはやってこない、みんないろいろな雑事や様々な欲にかられて自然の美が見えなくなっているのだ。


この辺の景色は田んぼが草原化していることで今までは違った景色となっている。草原はモンゴルの草原が有名だけどそれと少しはにている風景である。モンゴルとは比べようがないにしても草原の景色なのである。写真に写った家にしても草原の家に他の人は見てしまうだろう。
モンゴルの草原でこのくらいの虹を見たら感動するだろう。モンゴルではなかなかこうした虹は見れないだろう。


自然は刻々変わっている。時間単位でも変わっているし千年単位でも五百年単位でも大きな変化がある。今回の津浪がそうだった。5百年千年とかなると大きな変化が自然にはあるのだ。それを思い知らされたのが津浪だったのである。その5百年とか千年の大きな変化に人間は対応できないから原発は危険だったのである。それでもこりずに原発をつづけるのはなぜなのか?もう電力会社が原発なしではなりたたない、収入がなくなる、その恐怖の方がまさっている。現時点ではそうなってしまう。一旦便利なものを使い始めると人間はとめられないのだ。それは何でもそうである。電気もとめるわけにはいかないし車も使わないで暮らせなくなっていると同じなのである。だからこういうものは初めに使わないようにしないといけなかった。それが誤ったのである。あまりにも安易に日本のような地震国にとりいれてしまったのである。

 

抽象画(四季の街)

 
 
抽象画(四季の街)


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春の街


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夏の街



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秋の街

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冬の街


抽象画はバソコンで簡単に同じ原画を変化させられることである。
だからいくらでもできるということがある。
まあ、こんなものがどこが絵画なのだとわからない人も多いだろう。
ただやはり色が美しいなと思うことは確かである。

これが街といえば街になる。他にも何か題がつけられるだろう。
ここに四季を感じる、秋は秋らしい色である。その他は春みたいだが夏だとなるとわかりにくい、冬の街はなかったのか?

2013年07月09日

今なぜ抽象画がなのか? (社会と人間が抽象化しているから)

 

今なぜ抽象画がなのか?

(社会と人間が抽象化しているから)


picasooooo111.jpgピカソ泣く女

●時代が芸術を作る


抽象画というのはやはり時代の背景があった。何でもそうだけど芸術も時代が作り出すものである。これから逃れることはできない。ルネンサンスが時代の枠を破ったのは中世の時代を終わりにしたのは瞠目すべきことだった。そのルネンサンスが現代の基を作ってきたともいえる。
自然の見方がまるで変わってしまったからだ。それまでは宗教画であり風景画すらなかったからである。それは写実的な科学の時代のはじまりでもありレオナルドダビィンチに象徴されていたのだ。
ただこの時は人間が主役であり人間がかえってクロ-ズアップされた時代である。人間の肉体にあれほどの美を見いだしたのも中世ではありえない、肉体は否定されていたからである。
それはギリシャの時代にもどったわけである。


抽象画はルネサンスとかとは根本的にに違っている。ルネサンスは人間の復活がテ-マであり極めて人間が前面に出た時代である。それが近代化、工業化、大衆社会になった現代とは余りにも違っているのだ。現代を象徴する絵画がピカソであるいうときまさに象徴的である。人間がもはや人間の原型を保てなくなった時代である。そこに人間の悲痛がアイロニ-とともに表現されている。それは人間が人間足り得ないものとして表現されている。それはとりもなおさず現実社会の反映なのである。


●現代は職業も無数にパ-ツ化される


現代はすべてが抽象化されている。人間はそもそももはや一個の個性ある全人間ではありえない、極端化すれば数字になっている。番号で呼ばれて怒った人がいるが現実は人間は数字であり番号化しているのだ。統計学がもてはやされるのもそうである。人間とは統計的数字でしかない、宗教でもカルト宗教団体になればただ数だけが問題にされる。それが一票になり権力志向となる。数は権力だというとき権力を志向するものは数を志向する。権力とは金と数(票数)だというのもわかりやすい。
権力を目指すみんなそうなってしまう。


人間は現代社会で生きるというとき必然的にパ-ツ化される。職業自体が無数のパ-ツ化したものである。だからとんなに職業についても部分化したものとしてしか意識されない。ただ奇妙なのは福祉関係などは何か人間と直接向き合うから相手を数字として意識できないから人間的な仕事なのだけどあまり社会では重要視されないしやむをえない無駄としての職業とされる。でも職業をみていると人間が自動販売機と同じ様に見えてしまう。高度成長時代の自営業の店屋や町工場でも家族経営だとするとなにか人間的なものがあった。家族で経営していたから人間臭いものがあった。農家でも茅葺きの家などは生活感がどっしりとあった。それがコンビニとかス-パ-になると何かそこで働く人はロボットのように見えるしレジなどでも働く人はロボットのように見えてしまう。現実にス-パ-のレジはお客さんが自動的に金を払うシステムができていることでもわかる。何かあらゆるものが機械化自動化オ-トメ-ション化されるのである。ますますそこに人間的なものは消失してしまう。


●昔は職業に人間臭いものがあった


昔だったら職業でも人間臭いものがあった。江戸時代だったらなおさらその人は何をしている人か一目見てわかる。農民は農民、職人は職人、商人は商人である侍は侍である。それぞれが果たす役割がはっきりしていたわかりやすい社会だったのである。だから人間的だったのである。それは封建的閉鎖社会だとか批判があるけど別に歴史は現代を知るためにはかえって過去を知らなければならない、過去の時代によって現代が相対化されて現代をしりうるのである。現代は現代だけから知り得ようがないのだ。だからお前は電気のない江戸時代に帰れとかいうのはではない、歴史を知るということは現代を知るためでありその社会がいいとか悪いとかを言うためではないのである。そもそも歴史の総体などわかりえようがないからだ。


田舎はまだ社会として人間的なものが自然とともに残されている。でも原発事故でもわかったようにこれもまたやはり現代社会を象徴として起こったものなのである。なぜなら原発という建物があってもその回りの人はかかわることもできない、そこで何がされているのか皆目わからないものだったのである。そこに立ち入ることもできない巨大な非人間的機械としてあるだけだった。確かに東電の人が働いていてもそこに人間が働いているということも意識されにくいのである。そしてその中で働いていた人も外部を意識していない、人がいるということも意識していない、だから事故が起きたとき住民が危険だからと避難させなかった。原子炉だけを心配していたのである。東電の人もそこの住民のことを意識していなかったのである。最近賠償問題で東電の人と直接かかわり東電にも人間がいたとか認識するようになっているのだ。現代はこのようにどこでも人間の存在が希薄化された時代なのである。機械が存在して人間が存在しない時代ともなる。


●生活感覚がない現代の社会


人間がともかく抽象的な存在、数字のようになっているとき芸術もそうなりやすい、だから抽象画が盛んになるのもわかる。パソコンができて余計にそうなった。都会自体が田舎と違って極めて抽象的なのでありそこに一個の人間を意識するということがない。だから四季の街で表現したような一つの抽象画となってしまう。人間はどこでも何か生活感がなくなっいる。ただ農家とか漁師とか地元の職人とかはまだ生活感をもっていた。その話を聞いてフログに書いた。まず会社員とかなると生活感覚がなくなる。一つの細胞みたくなってしまう。農家に嫁いだ女性がいたけどその話を聞いても何らそこに農家の生活感覚がないのも不思議だった。身なりも制服を着ているからそうなるが全く農家だということを思わせるものもない、ほとんど土いじりもしていないみたいだ。とてもその人が農家に嫁いだ人とは思えないサラリ-マン家庭の主婦である。昔だったら農家に嫁いだら農家の嫁というのでその生活感覚がにじみでていたろう。それが全くない不思議なのである。農家もそれだけ変わってしまったのだろう。農家らしい農家すらなくなっているのかもしれない、みんな背広を着たサラリ-マンになったのが現代なのである。


共産党では党員を細胞としているのもわかる。それはカルト宗教団体でもそうだしみんなそうなっているのだ。みんな細胞でありパ-ツ化しているのだ。
そうなちらないとするとアウトサイダ-になってしまう。ニ-トなどが生まれたのもそうした社会の要因があった。時々個人が社会でクロ-ズアップされるのは犯罪のときである。それも無差別殺人とかはとくにそうである。その時のみ個人の経歴がどうだとかこの人はどう育てられたのとか親のことを問題にしたりする。犯罪を犯さないから社会の一労働者ロボットでありその個人のことなどなんら関係しないのである。
職業自体もパ-ツ化している。最近この辺で住宅が建ったとしても地元の大工が建てているのとはちがう。大手の住宅会社が部品を組み立てるようにしてアパ-トでも一個建てでも建てている。プラモデルのように組み立てる作業でありこれも昔の大工の感覚ではないのである。


前にも書いたけど石一つとっても無数の個性ある石がある。しかし現代では抽象化して a stoneになってしまう。the+形容詞+stoneとはならないのである。人間も様々な個性があってもそうである。一つの抽象的数字でしかないのである。だから個性を主張する人は天才などは耐えられないからニ-チェや上野霄里氏のようにアウトサイダ-化するのである。どうしても大自然と調和してリズム化するとなると無数に部分化した社会ではありえないからだ。 

2013年07月10日

浪江の皺石(詩) (一つの石の存在感についての考察)

 

浪江の皺石(詩)

(一つの石の存在感についての考察)

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その石は存在し続けようとしている
その場その空間に定められて深く
その石は風を感じる
春の日に山の奥へ遠くへ道は通じている
春の風、夏に影なし涼しい風、秋の風、冬の風
あたたかな春の光、秋の光、冬の光を感じる
その風の色合いはそれぞれ違う
雨も雪もその石にふり動かざる
その石は苔むし皺が刻まれている
その深い皺は老人のようにも見える
その石はそこに存在しようとする意志
その場、その空間に歳月を経て深化させる
石はそこに重しのように意味をもつものとなる


この石を見たのは春の日であり一回しかない、浪江辺りは実際は良く見ていない、相馬藩内でも地形が複雑であり海あり山ありで見れないのである。だからこの道を通ったのは一回だけであった。今は警戒区域になり通れなくなった。この石に注目している人も名前をつけている人もいない。でもすでにこの石はここにあったのは長い。この石はまだ人間によってアイデインティティ化されていない、人間化されていない石だった。歴史が長いにしろまだまだ人間化されていない自然がある。
それだけ自然は長い時間の中でしか意識されないのである。石はある場所と空間で長い時間の中で存在感をもつ。その石の存在感はその石を抽出した石だけで存在感はもてない、その場と空間があって存在感をもち人に記憶されるのである。石の個性はアイデインティティはその場所と空間があってこそ成り立つ、それは歴史的なものでもそうであり博物館に納めて陳列したときそのもともとあった場所と空間から切り離されるから存在感を失うのである。

人間はなぜ今抽象化されて数字のようになり存在感を失っているのか?それは場所と空間をもたないからである。場所と空間をもたないからまた記憶もされない、次々に変化して今日あったことは明日は全く忘れられてゆく、すべてが一過性であり持続しない、そこにただ消失感だけが残る。
この「皺石」のように持続して存続することができない、他の石でもそこに動かないことによって存在感をもっている。現代ほど変わりやすい社会はない、人間も常に変わり記録されない、人間はただ群集となって流れさる流砂のようになっている。人間はこの石一つのような存在感をもてない。

記憶はある場所と空間をもっていると記憶しやすい、それで奇妙なのは認知症でも狭い一部屋だとものをなくしてもすぐ見つけられるから安心だとなる。部屋がいくつもあるともう記憶しにくい、記憶しやすいのは一定の変わらない場所と空間をもっていると記憶しやすいのである。現代は千とか万とか部屋がありすぎるから記憶しにくいのである。必ず迷路となってそうした無数に分化された迷路化した部屋を巡り回っている。記憶はその空間と場所の作用で持続されやすい。現代は都会化してその生活範囲が無限大に広がったというとき一定の固定した場所と空間をもたないから記憶も消失されやすいのである。墓というのは問題が多いにしても一つの記憶の固定化なのである。エジブト文明もピラミッドも記憶するということに執念を燃やしていた。記憶が消えれば人間の存在も失われるからだ。歴史そのものが基本的には記録である。記録がなければ過去も探り得ようがないからだ。


ベルグソンの『哲学的直観』のなかの時間論を好む。少し抽出してみよう。


時間とは、区切られた一定の空間に群らがるありとあらゆる事物と事象を交通整理して、その空間に収まる分だけの事物を、少しずつ小出しにその空間へ流してゆく力に外ならない。


これはあるプログで紹介されていた一文である。これは自分の詩を哲学化して言ったものである。
一定の区切られた空間がありその中に置かれた事物が時間の中で存在感をもつ、人間によるアイデインティティ化(自己同一化)が計られる。


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つまり人間の記憶は図で示すと次のようになる。一つの区切られ空間の中で時間を経て記憶が定着してゆくのである。そのわかりやすい例が石なのである。だから石を知るにはアイデインティティ化するにはその石の置かれた空間があり時間を経てできることである。現代のめまぐるしく変わる世界はあらゆることが記憶されなないことにあるのだ。そこに存在感もないしただ消失感だけが残る。

現代の情報空間は膨大なもの無限大になっても記憶されものが極めて少ないのである。テレビでも次から次へと現れては消えてゆくだけの情報空間である。一回切りしかテレビに出ない人がいる。でもその人がこの世から消えているわけではない、やはり存在し続けているがテレビ空間から消えるときそれは存在しないと同じであり死なのである。テレビというのは記憶するメデアではなくただ次から次と現れては消えてゆく情報空間である。生きているものはそんな簡単に一回限りで消えるものではないのだ。そこには区切られた空間と場所がないからそうなっている。故郷とはそうした区切られた場所と空間で記憶されたものがありその継続として生きる場なのである。なぜならこの辺では原発事故で警戒区域は故郷から離れるときその記憶も失われてゆく、新たに移り生活するにしても一からまたはじめなければならないとしたら容易ではないからだ。だから老人は過去の記憶に生きるというとき故郷を離れにくいのである。


there is the fixed stone
on the solid place
deeply rooted one


現代は継続されるもの、記憶が保存される場所と空間が欠如しているのだ。それで存在感ももてないしただ消失感だけが大きくなっているのだ。皺石であれ一つの石はそこの区切られた空間で時間とともに存在感をまして成長さえしているのかもしれない、そこに動かないことで充足感をましている。そこで感じるものを凝縮している。風でも光でもその回りの自然と同調して存在している。
その場所と空間に存在しようとしている意志をもってきいるというとき実はまだその場所と空間に存在しているのは存在が発見されたのは最近だともなる。そういう石も自然の事物も多いのである。
自分がこの石を見たのは最近であり一回だけでありその後は見れなくなったからである。

2013年07月11日

夏富士二十句 (見る場所によって山はまるで違って見える)


夏富士二十句

(見る場所によって山はまるで違って見える)


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青富士_クリック拡大


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北斎-赤富士

夏富士や青春の意気登山かな
富士登山崩れては湧く雲の峰
夕日さし富士の斜面や雲の峰
雲の峰富士の斜面や人の列
夏富士の大斜面かな雲の湧く
晴れ渡り夏富士高し天までも
夏富士の乱れざるかな仰ぎけり
麓より天を衝く夏の富士仰ぐ
夏富士や裾野の広く優美かな
ひまわりに映えるは富士の峰にあれ
影富士の夏の日ざしに伸びにけり
夕富士の染まりて赤き夏の月
七色に夕焼け変化富士の峰
夏富士や北斎の筆特に冴ゆ
涼しさや河口湖畔に浮かぶ富士
下山して姫百合咲きぬ富士麓
下山して河口湖畔の青田かな
夏の夕優美に暮れぬ富士の峰
登り来て富士の山頂夏の星


富士山には一回だけ上ったけどなかなか思い出せなくなった。その時雲の峰を
富士山頂で仰いでいた。それも30年前とかなると思い出せなくなる。
ここに出した俳句は写生ではない、他の人の写真を参考にしたからいいとはならない。
そもそも富士山は見る場所によってみんな違ってくる。山はたいがいそうである。見る場所によって見え方がまるで違ったものとなるのだ。富士山はいろんなところから見えるから特にそうである。
自分は一回感動して見たのは河口湖畔から見た夏の富士だった。青富士だった。やはり山は大きく見えるとき映える。だから見る場所に左右される。ヒマラヤでも3000メ-トル級まで上ると天まで達するように高く見える。山は登る山と見る山は違っている。見る山は場所に左右される。
その場所にゆくのが大変になる。写真をとるために半年くらいテント張って暮らしていた人が紹介されていた。あれくらいしないと富士山を見ることにはならないだろう。山の姿は刻々と変わってゆくからだ。富士山は特にそうである。

今になると旅行することは相当な贅沢だった。なぜならまず富士を見るにしてもちょっと出かけるにしても一週間くらい最低必要になる。すると勤めていてはできないのである。富士山見るだけだってそれだけ時間がかかるのだ。新幹線から富士山見ても感動しない、富士を見るということはそれなりの努力をしないと見れない、それには相当な時間が必要なのである。ただ富士を見える場所に暮らしている人は恵まれているなとつくづく思う。ただそれも日常化すると平凡なものになってしまうこととある。

富士は夏なら青富士とか赤富士とかいろいろある。しかしそれを見るのは離れていれば結構手間になる。富士山はすでに日本人の心だとすると日本人の心として見ることにもなる。ただやはり山は何度も見ていないと感動が薄れる。その迫真力はやはりまじかで見ていないとやがて記憶は薄れてゆく。
確かに影富士も見たし下山したとき林がでてきてその中に姫百合が咲いていたのを記憶している。
やっと麓に下りてきたなと安心したとき姫百合が咲いていたのである。河口湖畔から見る夏富士は青々として雄大だった。もう一回見てみたいけどなかなかできない、まず山は天候に左右されやすい、夏は見えにくい、ヒマラヤではがっかりした。春だったから雲に隠れて見えなかったのである。
外国まで行って山かみえなかったら何もならない、10月ころは山が見えやすいからその季節に行くのがいい。

山に魅せられるて60代の女性が二人ヒマラヤで死んだ。あれほど過酷な登山をその年でできたことに感心する。ただ山はそれだけ魅力があるのだ。クロ-ズアップ現代で放送していたのは50代半ばから登山をはじめたというから驚きである。女性でもやはり家事だけではない生きがいも求める時代なのである。家事にしても子育てにしても40くらいで終わりやすいけどそれからの人生が女性でも長くなるからなんらか生きがいを見つけることが必要になってきた時代である。つまり人生が長いということはまた様々な可能性も開けるという見本だった。これだけのことをやれる女性はやはり能力的にも人格的にも優れている、しっかりしている、一人は管理職でありもう一人は医者だったのである。社会的にも有能だからそれだけのことができたのである。みんながとてもできるとは思えないのだ。
ともかく世間の日常の小さな悩みが山に登ると吹っ飛んでしまうのがいいというのはわかる。あまりにも小さなことに汲々としているのが人間の日常だからである。

富士山が世界遺産に登録されたのは当然だろう。日本に来て一番感動するのは富士山を見たときだというのは共通しているからだ。あれだけの形の独立峰は世界にもない、その形の美しさがぬきんでているからだ。ただ山にはそれぞれみんな個性がある。岩手山はすごく筋肉質なのである。筋肉隆々とした感じになる。富士山は優美なのである。形がいいからそうなる。ただ山というのはなかなかその姿をとらえることがむずかしい。詩にしようとしてもなかなかできない、それだけ奥深いし雄大な美だからそうなる。
写真から加工していたら富士の切り絵のようなものができた。写真家ら結構加工できる。でもその元の写真のことはイメ-ジもできなくなる。だからそれが著作権違反とはならないだろう。一部なるものがあるかもしれない、でも明かに加工しても創作という面が大きいのである。これは構図的には写真によっていた。でもその後の加工は創作なのである。

2013年07月12日

気配りとか精神的なもが大事になる時代 (ス-パ-やチェ-ン店、コンビニにはない店の対応)


気配りとか精神的なもが大事になる時代

(ス-パ-やチェ-ン店、コンビニにはない店の対応)

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●気配りでもてなす例



お勘定を済ませ店をあとにしようとすると、女将さんらしき女性の方が入り口をでるところまでずっとお見送りをしてくださいました。
こういう気配りはとても気持ちがいいものです。
http://tabelog.com/yamanashi/A1901/A190101/19003303/dtlrvwlst/2762602/


目を見て、笑顔で、きちんと話せれば、十分小さな感動ものです。
その上、お客様のことを覚えていれば、完璧です。必ずうれしくなってまた来てくれます。
ちょっとした気配り、気づきでお客さまに感激、感動していただく。
マニュアル化できないとは、そのとおりですね。
だから、感性を磨かなければならない。
http://mikan-no-kokoro.blogspot.jp/2013/05/2013530.html


私の周囲の人間も、「カスミは店員の態度がわるいからネ〜、でも安いからね。」
と言っている、
私も実際、安いので利用しているが、それでいいのだろうか。
http://toridestory.at.webry.info/200805/article_14.html


まちづくりや観光客誘致に関連して、『もてなし』という言葉がよくいわれる。これは、簡潔にいうと来訪者を受け入れるときの「迎え方」といえるのではないでしょうか。

 地方を旅していて、「佐倉から来ました」というと、「良い所に住んでいますね」といわれたり、たまたま立ち寄った店での接客態度や、途中で道を聞いた時の住民との触れ合いが、楽しい思い出として心に刻まれ、そのようなまちは再度訪れてみようという気持ちになります。
http://p.tl/hBAahttp://p.tl/hBAahttp://p.tl/hBAa


相手を和ませることができるような人になれば、素敵だと思いませんか。



●自転車旅行でももてなされた例


自分は旅行ばっかりしていたから旅館に泊まればいい接客をしてくれる普通は旅館が印象に残ったとかあるだろう。ところが自分にとって旅館は安ければいいのでありもてなしはかえって必要なかった。ただ泊まって寝れる場所があれば良かった。だから本当は木賃宿のようなものが一番自分にはあっていたのだ。ホテルなどは旅にはあっていない、旅が長くなると一番金がかかるのは宿泊代なのだから安い方が一番いい。日本ではその安い旅館を探すのが一苦労だったし実際はなかった。最低でも5千円とかになってしまう。素泊まりで泊まってもそうである。日本では長い旅行をしにくい。外国だと安い泊まるだけのホテルが多い。ユ-スホステルだって多く年配の人も普通に利用している。スイスなんかホテルが高いけどユ-スホステルに泊まれば千円とかで泊まれるのだ。だから長い旅行ができるのだ。

そもそも日本を旅行してもてなされた記録は二回しかない、一回は阿武隈高原を自転車で走っていてどこかわからなくなったが石川町辺りの山の中で昔の万屋があった。そこで食糧を買ったら味噌汁までごちそうしてくれた。今どきこんなことまでしてくれる人はいない、今は何かよそ者に対して冷たい社会である。疑り深くもなっている。昔の人情を田舎で期待するのはもうありえないのだ。むしろ人情とかもてなしは都会の方があったりする。もてなしが商売として洗練されたりしているからだ。江戸時代あたりだとかえってこうした人と人が人情的に接することが多いからもてなしががあった。わが町から江戸時代にお伊勢参りとかに行った人が旅籠でとまった三人の女性の名前を覚えていた。接待してくれた女中だった。三人もの名前を今ホテルとか旅館に泊まって覚えている人はいないだろう。それだけ現代は忙しいからあう人も多いから人の名前とか顔を覚えていないのだ。

要するに一人一人に注意が払われない時代なのである。そういう余裕もないスピ-ド時代である。

もう一回はこれも山形県で山の中に自転車で迷い込んだのである。どこに泊まっていいかわからずホテルがあったのでそこに入った。そしたらそこでただで泊めてくれたのである。そもそもそこは自転車で旅するような人を泊める場所ではなかった。普通は断られる。自転車旅行の人は普通はホテルなとどで泊めない、汚い面もあり嫌われる。第一ホテルが向いていないからテントを持って歩いているのだ。そこではそういう自分の状態をみて空いている部屋にただで泊めてくれたのである。結構大きなホテルであり団体客用のホテルだった。そこは相当にもてなしがいいホテルだったのである。

ただ個人客の自転車旅行者まで同じ様に接客するようなことはありえないのだ。
自分はたいがい身なりなどをみて一番悪い部屋に泊まらせられたし別な部屋に移されることも多かった。それでも自分は安ければいいしそれでいちいち怒ったりもしない、要するに安ければ待遇などはどうでもよかったのである。それで外国旅行まで安宿探しだった。バリの東駅で安宿探しているとは思わなかった。今になると旅でも人に親切にしてくれた所は覚えていたとなる。今は本当にそういうことはまれになった。


●モノを売るだけでない精神的サ-ビスを求める時代


最近思うことはこれからはモノを売るだけの商売が変わってくるように思う。老人が欲しいものはなにか?老人が喜ぶものは何か?そんなことをキ-ワ-ドで探している人は結構いる。老人相手の商売が増えているからだ。老人への接客はまさにただモノが安いからでは喜こんでもらえないのである。
老人はモノより精神的なものがあるゆる点で重視される。親切な言葉の一言でも喜ばれる。例え多少高くてもそうなる可能性が強い。すると現代の店屋というのはそうした精神的サ-ビスは欠落している。ただス-パ-やチェーン店でも安ければいいとなっていた。だからそういうところではいちいち人をもてなすなどという心はまるでいなのである。第一そこに雇われている人も時給でありただ一時間いくらで雇われているという感覚しかないからそうなる。ただ売ればいいというだけの人なのである。そこに働くことの現代の問題が生まれている。コンビニであれス-パ-であれあらゆる所で雇われているのは時給の人でありただ雇われてモノを売ればいいというだけの人である。その人はその店に愛着もないのである。時給いくらであり他の店が高いとなれば簡単に移る。だからロボットのように自動販売機のようにも人が見えると前に書いてきた。

ところが高度成長時代が始まったころは店屋はみんな自営業であり自分の店であり家族経営であったから今のコンビニやス-パ-とは違っていた。ただ売っているというだけではない、家族経営だとその店に愛着をもつ、時給で雇われているのとはちがう。それが今でも自営の店だとそうなっている。
何か同じ様で自営で店を運営しているのと時給で雇われる人は違うのである。

その例として相馬市駅前の花屋のことを度々とりあげて書いてきた。あそこの女の経営者はただ売っているのとは違うことに気づいた。客への気配りがあるのだ。一人一人に気を使っている。一見気がつかないが確かに時給で雇われている人とは違う。何か自分で経営しているから店に対して思い入れが強い。なんとか小さい店でも維持していかねばならないという責任感みたいなものがある。時給の人にはここでやめても別にかまわない、他に移ればいいとなるから客に気配りなどしないし客も求めていない、安く便利に買えればいいというだけである。だから何年も通っても客がお得意さんとして覚えられることがないのだ。まずお得意さんという言葉自体廃れた。そして通りはすべてシャッタ-通りになった。でも高齢化社会はまた逆にそうしたもてなしとかモノを買うだけではない、それプラス精神的な付加価値を求める時代になる。小さな個人経営の店で大事なことは常連客を作ることである。もう一度そこにゆき買ってみたい、その人とあってみたいとかが大事になるのだ。だから客一人一人の気配りが大事になる。特に品揃えが少ないとかなると余計にそうなのである。モノを買うだけならス-パ-の方がいいとなってしまう。意外とこうした時代の移り変わりに気づいていない人かいるかもしれない、モノなど安く便利に買えればいいとかなっていたがそれも変わってくるということもある。


明かにこれからはの時代はモノだけではない、精神的なものを求める時代になる。その精神的なものは何かというときそもそももてなしに気配りがマニュアル化できないし時給の人にそれを求めることは無理である。それは天性の感性でもありみんなができることでもないだろう。その価値はいくらいくらだと金で計算することもできないものなのである。ただそうした金で明確に計算できないものの価値が大きくなってくる時代になるかもしれない、そのことに気づいていないかもしれない、その付加価値的要素が大きくなる。でもそれはみんな簡単にできないのである。そういう人は得難い人だとなる時代がきてそこは貴重なものとして見られるようになるかもしれない、それは明かにコンビニとかス-パ-とかチェーン店では養われないのである。そういうところにいくら勤めていてもそういう心は養われないのである。だから時給で勤めている人は相馬市の駅前の花屋のような感覚はない、ただモノを売るロボットのように見えてしまうのである。


●土着的なものに回帰する時代


自転車旅行も旅行そのものもできなくなったからそんなことに注意を払うようになった。もてなしのいい旅館でホテルでゆっくり休みたいとなる。多少金がかかってもそういう所に泊まり癒されたいともなる。ただそれ自体ができなくなった。地域自体でもそうしたよそからの客のもてなしがあればもう一度来てみたいとなるだろう。それはモノを売ることではない精神的なものだからなかなか気づいてもらえないし目に見えて金でも計れない価値なのである。ただそういうものがこれから大事になってくる。価値があるものとなってくる時代になる。前にも書いたけどそういうものは土着的なことである。コンビニとかス-パ-やチェーン店は土着的ではない、そもそも時給で働くこと自体土着的ではないのだ。これからモノを売るだけではない土着的精神が大事になる。土着的なことが文化だからである。店屋でも自営業はその土地に根を下ろすということで土着的だったのである。何事土着的でないと仕事もうまくいかない、仕事も成就できないということがある。仕事も一カ所で技を磨かないと上達しない、芸術も石のことを詩にしたけど土着的でないと深いものが作れないのである。


だからこの辺は放射能汚染で故郷に住めないということはもう土着的な志向すらできないから深刻なのである。水も食糧も土着的に供給できないことは致命的だからである。まずそういう所には他からは来たくないとなってしまう。ただ津浪の跡とか原発で田んぼが草原になってしまったとか変わっているから他より面白いとかにもなる。現実にそういうことをプログで書いてきた。それでここで死んだ人がいるんだぞとしかられもした。その辺はまたむずかしい面がある。

自分は花が好きだし花を見てきたから放射能と関係ない、花の栽培地域にするのもいいかなと思うがなかなかそういうことも簡単にはできない、そうしたノウハウは簡単に生まれないだろう。
でも自分が郷土のことを紹介しているけど全国の人呼んでいて何か宣伝になり興味をもつ人もある。そういう効果はどこのプログにもある。その土地の魅力はそこに住んでいる人しかわかりにくいことがあるのだ。自分は自然的なものとしては相馬辺りはいいと思っていた。気候も暑くもなく寒くもない所で良かった。人に関してはあまりいいとはいえない、東北人はかえってもてなしの心などないのである。

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2013年07月13日

草いきれの田舎駅 (二両の電車がまだ通っているからいい、草原化してネズミが増えていないか?)


草いきれの田舎駅

(二両の電車がまだ通っているからいい、草原化してネズミが増えていないか?)

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田舎駅乗る人少なく草いきれ
合歓の花風にそよぎて電車待つ
夏草や遠くより電車ここに来ぬ


駅前の花屋によりて花を買い電車を待ちぬゆとりのありぬ

藪甘草鉄路に咲きつぎ熱きかな我が旅せし時のよみがえる


電車も二両であり乗る人も少ない、停まる駅は二つしかない、常磐線が遮断された影響が大きかった。まず何か遠くへ行くのがめんどうになる。バスと電車はかなり違ったものである。電車の旅が長いから電車には自分は相当な思い入れがある。鉄道によせる思いはいろいろある。最初二十年くらいは鉄道の旅だった。それで変だったのは北海道辺りを鉄道で旅してその車窓から自転車で旅する人を見ていて自分にはあんなことできないと先入観で思っていたのである。だから自転車の旅をしたのは40以降だったのである。もともと体力がないからできないと思っていた。自転車の旅は若い人がするものだと思っていた。でも鉄道の旅に飽きて自転車の旅になった。


でも電車に乗るとバスではあまりにも違いすぎる。電車に乗ると心がはずむ、熱いもがこみあげてくる。電車の音にすら何か心高鳴るものを感じる。鉄道によせる思いも様々だがどうしても文系になると外の景色とか自分の場合は駅名が心に残った。その辺から地名に興味をもったりした。鉄道の旅も駅名しか心に残らないことがある。それはなぜかというと駅に電車が停まることで駅名を記憶するのである。駅名だけがアナウンスされて心に駅名だけが記憶として残ることがある。

それから電車の旅では駅で待つ時間も旅の内に入る。田舎の鉄道では待つ時間が必ずありそれがまた鉄道の旅になる。東京みたいだとまず待つ時間すらない忙しさである。あれではもう旅にも何にもならない、ただ機械的に移動するだけであり人間的時間がもてないのである。

でも今この辺は寂れてしまった。鉄路に夏草が生えて何か淋しい、遠くから電車が来ないのも淋しい、だから鉄道が遮断されたこと六号線も東京と通じないことが思った以上に影響が大きかった。

なんだか夏草に埋もれる市町村になった。現実に夏草が茂り草原化している。草原に木が伸びて一部森のようになっている。自然が原初の状態にもどってゆく不思議があった。浪江辺りは警戒区域で人が入らないので家がネズミに荒らされて帰れなくなったという、そしてネズミが増えてネズミの天敵のハクビシンが増えたという、ネズミは何か恐い、おそらく草原化したところにはネズミが増えているのかもしれない、自分の家にもネズミがでてきた。台所まで出てきたので嫌だった。ネズミはやっかいなものでありバイ菌を運んだりするから危険でもある。だからネズミの被害は深刻なのである。虫も台所にでてきて毎日虫殺しスプレ-をしている。夏になるとそうした害虫に悩まされる。
農家の人でも昔から虫送りとか害虫との戦いだった。万葉時代がらイノシシの害にも苦しめられてきた。つまり人間はもともと生きるとは自然との戦いだったのである。津浪だってやはり自然でありその猛威に驚いた。


ただ自然からすれば自然の生態系からすればネズミも必要なのである。ネズミを食べて生きる動物が結構いる。ヘビだって雉や猛禽類が食べたりと必要なのである。そういうものがいて自然が維持されていたのだ。草原にネズミが増えたからノスリなどが住み着いたのかもしれない、ネズミはチェルノブエリでも増えた。放射能など関係なく影響もなかったのである。ネズミの繁殖力が凄い、原発は科学の最先端をゆくものだったけど事故後は自然の猛威にさらされているというのも奇妙なのである。

二両の電車でも鉄道が通っているから鉄道にのると心が高鳴る。だから鉄道がない所に住むとさらに淋しい感覚になるだろう。でも電車が通らない所が結構ある。そういうところはどうしうても不便に感じるし過疎地域だとさらに淋しいものとなってしまう。
駅前の花屋で花を買い電車を待っている。前は駅前にス-パ-などがあってにぎあっていた。駅前通りがあったがそれも廃れた。でもなんとか電車が原町と相馬市の間で走っているからいいとなる。


草いきれというとき確かに夏草だけが伸びてむんむんしている。前は駅のホームでこんな感じをしなかった。それだけ荒れて寂れてしまっているのだ。常磐線が回復するのは五年後とかかなり先である。当分は二両の電車なのである。




ネズミの被害が拡大…草原267万ヘクタール以上に=内モンゴル


http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0423&f=national_0423_163.shtml

草原はネズミが住みやすいのだ、キツネやネコを放ってネズミを駆逐しているという。

三陸町の波伝谷は津浪の伝承を伝える名前 (古代史は真野の草原の歌から石巻からさらに三陸まで結ばれていた)


三陸町の波伝谷は津浪の伝承を伝える名前

(古代史は真野の草原の歌から石巻からさらに三陸まで結ばれていた)

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三陸の伝統文化を伝える波伝谷(はでんや)は、戸倉神社を残しすべて、津波に流された。
神社が丘に打上げられ、神社を信奉したという伝説と同じ歴史が繰り返された。

●渡来人がかかわっていた船の伝承


三陸の伝統文化を伝える波伝谷(はでんや)は、戸倉神社を残しすべて、津波に流された。
神社が丘に打上げられ、神社を信奉したという伝説と同じ歴史が繰り返された。


常陸国で造船された大型船が海底の隆起で座礁し、波で船が転んだ谷、
最近七世紀後半の水軍による蝦夷征伐に関する古代史でも注目されている。

「安永風土記」にある水戸辺村の村名の由来として「当村は当郡北沢村不動尊百済国より御渡波成候節塩釜津浦へ御到着岸に付往古は塩津浦と申候」


戸倉神社及び神社下の船沈池がある。百済よりの船は、嵐にあい塩津浦にて風待ちしていたところ波が押し寄せ船が沈んだ、この場所を沈船池(明神池)であり船にあった宝物と共に祀ったのが戸倉神社だという。


戸倉大明神縁起


常陸国の一つの宮鹿島神宮に迎い奉りその神宮に配祀してある所の天児屋根命を守護神として二神を小型の船に奉遷し・・・・供奉の人々は神慮を畏こみて別に大形の船に乗り東海に回航して波伝谷にいたり碇を下した揚陸の機の到来するを待て滞留数旬に渉る然るに一夜海底隆起して丘陵となり海波荒み立ち上がり波に轉しられて船は遠く水面を離れて戸倉山の谷に在り供奉の人々驚きて引き下すんとなすとも船動かずこれにてここに宮殿を造営して三神を相殿に祀りこれを小鋭神社と称して波伝谷という名称もままたここより始まると


波伝谷の民族

http://www.thm.pref.miyagi.jp/archives/book_pdf/minzoku/hadennya_minzoku.pdf



この縁起は相当に歴史的に意義深いものがあるかもしれない、今回の津浪で意識されたのは福島県の浜通りから岩手県の宮古から海岸地帯が実は一つの海洋文化圏であったことが共通認識された。
岩手県とか宮城県はリアス式海岸であり明治にも津浪があったから津浪地帯だと意識していたが実は仙台の沿岸地帯や名取とかから亘理-山元町から浜通りは一つの海岸を共有した海への歴史をもつ共通の場であったことを知ったのである。福島県というとき中通りと会津があるけど海とは関係ない、山との関係が深い。だから地理的歴史的になかなか一体感がもてない地域だった。
今回の津浪で明瞭になったのは宮城県から岩手県とその海岸地帯は津浪の被害にあい共通の海の文化圏に庵たことを意識させられたのである。
大和朝廷の水軍による蝦夷制服はまず常陸からはじまり徐々に塩釜から三陸方面と伸びていた。常陸の鹿島神社は船と関係していた神である。船の操作にたけた人々が祀った神ともとれる。その船の建造や操作にかかわったのは渡来人の技術者であり百済国の人がまず塩釜に来て戸倉に移って来たとか百済の船が沈んだという池の伝説などがあったのも何か百済と関係していた。百済王敬福が宮城県遠田郡涌谷町の黄金の採掘に来たことは有名である。「すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く 大伴家持」は有名である。

この歌によってみちのくが黄金の国であることの伝説が生まれた。それとと同時に古代において大和朝廷が水軍の蝦夷制服がありそれが伝説化して残っている。それが「みちのくの真野の草原・・」の草原は萱が繁っている場所ではなく地名説を出して前に書いた。草(かや)は伽耶(かや)の国に通じるとも書いた。ここでは百済であるが伽耶は後に百済国になった。その前は伽耶だったのである。

そして今回の津浪で塩崎の船着とか市庭と地名が残るところまで津浪が押し寄せたのである。常磐線の線路をくぐり津浪が押し寄せたことには驚いた。船も六号線まで流されてきた。だから万葉時代は海だったことを明確に意識させられたのである。真野の草原と歌われたのが南相馬市の鹿島区の真野郷だとされるが一方で石巻に真野があり萱原という地名が今も残っているからそこが真野の草原だとしていた。ただ歴史的遺物や文献からは南相馬市の鹿島区の真野が有力だとされている。唐神という地名が残っているのもそうである。唐は韓(から)であり朝鮮半島のことである。それでも三陸の波伝谷というと石巻からさらに奥でありそこにもこうした伝承が残っていることがそれを示している。現実に石巻からは真野公という木簡も発見されているから明かに常陸から真野一族の製鉄族とみられる一団が海沿いを移動していたのでありそれは三陸の方にも伸びていたのである。
だから津浪によって古代史も見直されるということがあった。常陸から福島県の浜通りから宮城県から岩手県の海岸地帯は一つの共通の場として海を通じて古代史も形成されたのである。そこには深く渡来人がかかわっていたのである。唐神という地名が残っているのもそうである。


●波伝谷の津の宮村はまさに津浪の村だった

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さらに津浪で注目すべきは波伝谷では津の宮神社がありそれは一つの村を形成していた。津の宮村となっていた。これは津浪があって祀られた神である。でも津の宮神社を中心にして村が形成されることはなかった。それは津浪に由来する村となるからだ。だから三陸は津浪に度々襲われているのだからそういう村があっても不自然ではないのである。ただ南相馬市の鹿島区の烏崎に津神社があった。これは結構大きな神社だった。だけどその由来は津浪であったことが忘れられていたのだ。なけぜなら鯨の祭りをしていて鯨の碑があったり金比羅の碑があったから津浪を記念した神社とは地元の人も思っていなかったのである。

松川浦の津の宮神社はまだ津浪を意識していたらしい。なぜなら津の宮神社に逃れれば助かると実際に逃げた人がいた。ちょうと津浪を逃れる高台にあった。でも烏崎の神社は平地にあり今回の津浪で完全に消滅した。一方家が集中していた烏崎の集落の高台にあった八龍神社はぎりぎりで残った。その石段は急でありあぜあのような高台に作られたのか不思議である。

そもそも平地に作られた津神社のあったところと家が密集していた烏崎はどっちが古かったのかとなる。地形からするとどうしても真野川の沿岸であり河口が広がっていたからその川岸の袋村が江戸時代になくなったように津神社があるところが八龍神社より古いとも思えない、もともと浜町とあるから家が集中していたところが古い町だったのか?港ははあとからできた。南相馬市でも実際に津神社は12もあったのだ。それが津浪に由来していることも忘れていたのである。福島県かち宮城県から岩手県の海岸沿いに津神社があれば400年前の慶長津浪に由来していたのである。ただそれを意識的に学問として警告していた人はまれだろうしいなかった。今回の津浪でみんな意識させられたのである。

岩沼でも津浪で押し上げられた船の伝説が残っていてそれを聞いた東北電力の人が津浪を恐れ女川で高くして原発を造り助かったのである。もちろん津浪は岩沼辺りではそんなに襲っていないが女川では津浪は400年前でなくても経験している。その相違の方が大きく危機感を作り出していたともなる。福島県の浜通りではまず津浪の危機意識がほとんどなかったのである。それが東電の原発を一旦高くして作ったのにコストカットとして知られた清水社長とかの意向があり低くして津浪の被害にあったのだ。自然災害も日本では度々あり歴史そのものが自然災害史のような所があり天皇がその自然を畏れ災害をないことを祈る役割があった。自然災害は天皇の責任だとまでなっていたのである。

それほど日本では津浪でもそうだが自然災害が国をゆるがすものとなるから歴史的にそうなったのである。それがこれだけ文明化したとき自然の恐ろしさを忘れてしまっていたのである。科学文明が自然を征服したような奢りになっていたのである。数学の確率で百万年に一回しか事故は起こらないとか真面目に言う科学者がいた。その根拠がどこにあったのか?全く科学者も科学的だとなり全能の神のようなことを言っていたのである。ともかく奢りとか油断が原発事故を引き起こした。
日本の土地がどういう土地だかも忘れていたのである。地震や津浪がどれほど恐ろしものか?
それは神戸地震で知っていたが津浪は忘れていたのである。


ともかく波伝谷の民俗というのは興味深い、いかにそこに暮らしが形成されてきたか?その村の全容が記されている。その村が今回の津浪で壊滅的被害にあった。もはや村が消滅するような危機になった。志津川町のちの三陸町は湾が穏やかでいい所だと思っていた。何回か電車で行った。岩礁に大きなh浜菊が咲いていたのが印象的だった。三陸とか岩手県のリアス式海岸の町は湾があるから穏やかに感じていた。陸前高田市でも広田湾がありあの湾が穏やかに感じる。福島県の浜通りとか荒い波が打ちつけるのとは違っているからである。だからあんなふうに壊滅的被害を受けたのは余りにも悲惨であった。女川もそうだった。湾があって穏やかだと思っていたところがみんな壊滅的被害を受けたのである。なぜなら町が海岸に密着してあったからそうなったのである。村とは違い街があったから被害が大きくなったのである。


●志津川町は(三陸町)は浜菊が印象に残っていた


岩礁に浜菊大きく湾暮れぬ


志津川の湾の巌に大輪の浜菊咲きて夕べ明るし


わが国の本州、茨城県から青森県の太平洋側に分布しています。日当たりの良い断崖や砂浜に自生し、高さは50〜80センチになります

茨城県から青森県というとき今回の津浪の被害にあった地域の範囲だった。ただ函館にも津浪が押し寄せていたことには驚いた。函館を津浪が襲ったらどうなるのか?何か今回の津浪はそうした恐怖が現実化したのである。


この花は南には咲かない北方系なのか?南方系と北方系で花を分けるのもいい、文化圏も植生と同じく別れることがある。浜通りの地域が真野の草原地域が植生的にはマルハシャリンバイが奄美大島から流れてきて南相馬市の鹿島区の海老の浜が南限の地だというように地理と文化的歴史が一致していることがあるのだ。福島県の浜通り南方的植生であり最近をナギという木の苗のうようなものを相馬市の駅前の花屋で買ったけどこれは熊野神社の御神木にもなっている。凪ぎ(なぎ)草原をきる、なぎるでありナギになった。それが海のことをいうのに凪ぎとなった。草原と海が通じている言葉なのである。津浪でなぎ倒されて海岸近くが草原化しているの風景とも一致する。草原は人為的なぎ倒す、刈っていないと森化してゆくのが日本の風土である。なぐ、なぎという行為は草原を維持するために常に必要だったのである。

歴史は自然から始まっていてその自然に人間がいかにかかわってきたかが歴史でもある。だから常陸から茨城県から宮城県から岩手県、青森まで一つの自然的歴史的文化圏として見直す作業が必要なのである。福島県は会津があってもそこは山国文化圏であり異質なのである。むしろ福島県の浜通りは常陸から宮城県や岩手県の海岸地帯と共通の文化圏を形成していたのである。

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2013年07月14日

草原化した世界(それは遊牧民の世界である)


草原化した世界(それは遊牧民の世界である)


草なびき草原わたる風すずし

草原に境のなしや風涼し
草原に区切りのなしや夏燕
雨しとと老鶯鳴くや草深し


草原の感覚というのも不思議である。これは何度も書いてきたけど日常的に草原の風景に接していると心まで変わってゆくだろう。ここは別にモンゴルのような草原ではない、ただ確かに草原とにた感覚を経験する。草原の感覚と田んぼの感覚はあまりにも違うものだったのである。
田んぼだったら一反二反とかその土地を区切りその狭い土地の所有感の上に世界観すさ成り立つ、つまり日本人はそうして狭い土地にこだわるのはそういう生活が歴史的に水田によって培われてきたからである。大地を狭く区切りそこが俺のものだという狭い了見が当然うまれるし隣をそうして狭く区切ったことで意識する。どっちにしろ狭い了見しか生まれない民族だったのである。

その田んぼにしても五反田百姓であり狭い土地でなんとか生きるほかなかった。そういうふうに土地に制約させれて土地にしばられて生きざるを得なかったのである。だから満州のような広い土地に憧れたのもわかる。満州にもモンゴルのような草原があり遊牧民が住んでいる。

草原の感覚はまず信じられない広々として感覚である。区切るものがない世界である。だからこそまたあういう大陸では区切るものが人工的に作られた国境が必要になった。壁が必要となり万里の長城が生まれた。しかし万里の長城は山の尾根に作られていたから草原とか砂漠の平坦な地域とも違っている。ともかく日本人の特質はこの狭い土地から作られたことは確かである。異常に隣を気にするのも隣と狭い土地を区切って生活する他なかったからである。その土地風土によって宿命的に作られた民族性がある。日本人のいじめとか陰湿さはそうした狭い土地から離れられないかことから起きてくる。


まずモンゴルのような草原に行ったら全く世界観も変わるだろう。どこまでも草原がつづく世界である。そこには区切るものがないのだ。だからどこまでも国境を感じられないから常に移動しているからそのまま移動していたらモンゴルの世界帝国が生まれとまでなる。そういう広い世界で養われる世界観は日本などとはまるで違ったものとなっていたのである。大局的に広い視野で見れる感覚が自然と培われていた。狭い土地にこだわる必要はないから雄大な発想が生まれた。つまり田んぼと草原の相違はあまりにも大きいのである。そのことを毎日草原化した景色を見て思うようになった。

こういう世界にいたら思想そのものも変わる。こだわる狭い土地がない、ただ草がなびき風がふきわたる。そこには区切られたという感覚がなくなる。


広々と草原を吹きわたる風
馬の脚に心地よく吹くその風
馬は本能的にその草原を
どこまでもし疾走したくなる
その果てしない草原に馬が与えられた
風を切り馬はどこまでも疾走してゆく
遠くから吹き渡ってくる風が心地よい
境のない草原を疾走してゆく
そして花々が一面に咲き
草原は一つの大きな絨毯となる


こんな詩にもなるだろう。野馬追いも近いけど馬というのは草原に一番あっているのだ。日本にはこうした広い草原がないのだから遊牧民的感覚がわからない、遊牧民はあれだけ広い所を生活の場としていたのだから自ずから大帝国を成したのである。日本にはそうした大帝国を作り得る土台がなかったのである。

 

数字で確認する南相馬市の現状 (若い人の流出-福祉介護医療の労働力不足が深刻)

 

数字で確認する南相馬市の現状

(若い人の流出-福祉介護医療の労働力不足が深刻)


原子力発電所事故における南相馬市の状況について
平成25年6月22日
南相馬市
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/kaihatu/016/
shiryo/__icsFiles/afieldfile/2013/06/24/1336650_1_1.pdf



○人口について

@○避難等の状況について(H25.5末現在南相馬市避難者情報及びH25.4南相馬市教育委員会調べ)
○避難者の帰還意向について(H24.8旧警戒区域及び旧計画的避難区域の市民を対象とした意向調査

◆市外避難者:16,138人(約22%)
◆市内避難者(津波被災者含む):11,254人(約15%)
◆転出者:6,411人(約9%)
◆市内居住者:46,512人(約65%)
◆子育て世代(20〜39歳)の約44%が市外へ避難
◆小中学校の児童生徒数は約54%に減少
◆保育園・幼稚園の児童数は約40%に減少

◆雇用保険加入者:約44,000人(H23.1)⇒約32,000人(H25.4)(▲1万2千人)
◆有効求人倍率:0.54倍(H23.2)⇒1.92倍(H25.4)

事業所の休止や閉鎖により働く場が失われた一方で、
復興需要の高まりによる労働力不足が発生


○人口について
○避難等の状況について(H25.5末現在南相馬市避難者情報及びH25.4南相馬市教育委員会調べ)
○避難者の帰還意向について(H24.8旧警戒区域及び旧計

◆ 「戻りたい」 43%
◆ 「戻りたくない・戻らない」 21%
◆ 「現在は未定(悩んでいるなど)」 34%
震災前の71,561人から64,368人に減少

○鹿島区、原町区(旧警戒区域外)の雇用と事業所等の状況について
◆震災前の事業所数約3,000、従業者数約24,000人
◆震災後の事業所数約2,500、従業者数約20,000人
○小高区(旧警戒区域内)の雇用と事業所等の状況について
◆震災前の事業所数約550、従業者数約4,000人
◆震災後の事業所数131、従業者数約900人
※事業再開の状況(対象事業所数476、H25.4小高区役所


○介護施設(入居系)と介護認定者の状況について(H25.5南相馬市長寿福祉課調べ )
◆介護施設数:事故前15施設⇒12施設(▲3)
◆床数:事故前680床⇒491床(▲189)
◆職員数:事故前529人⇒390人(▲139)
◆要支援・要介護認定者数:事故前2,761人⇒3,380人(619)


◆原町区(旧緊急時避難準備区域)(H23.9)

55.5%「営農を継続したい」
20.4%「農業をやめたい」
19.0%「迷っている」
5.1%「無回答」


◆小高区(旧警戒区域)(H24.8)

25.0%「営農を継続したい」
46.3%「農業をやめたい」


◆子育て世代(20〜39歳)の約44%が市外へ避難
◆小中学校の児童生徒数は約54%に減少
◆保育園・幼稚園の児童数は約40%に減少


この数字は思った以上深刻である。数字的に44パ-セントもかとなる。約半数になる。小中学校の生徒数が半分も減っているのか?この数字はかなり深刻である。なぜか?南相馬市の未来をになう人背負う人が個々の家庭でも地元全体でも半分いなくなる?それはどういうことになるのか?
ここの家でもすでに跡継ぎがいないとか言われてきた。
それに拍車をかける。跡継ぎがいなくて消失する家が増えてくる。この影響は相当に大きい。南相馬市の将来をになうものが半減する。
少子化もここでは極端な数字として現れているのだ。

事業所の休止や閉鎖により働く場が失われた一方で、
復興需要の高まりによる労働力不足が発生

これは失業保険とか補償金で働かなくても金がかなり入るので労働力を必要としていてもその働き手がいないのである。


南相馬でも、連日のようにパチンコ屋に通う仮設住宅の住民は少なくない。
ここ半年で2店舗も新規にオープンしているほど繁盛している。
中には子供をボランティアに預け、パチンコ屋に向かう母親もいると聞く。
地元市民は怠け、外部からボランティアを募集する。

自粛や団結を忘れた市民には、復興は遠いかもしれない。
http://blade1024.blog.fc2.com/blog-category-1.html

パチンコ屋で遊ぶ人がいてパチンコ屋で働く人がいる。そこで人手たりないんだよなとか言っているのも変なのである。人手たりないところは他にいくらでもある。福祉関係で働くのもいい、ただ資格とか今はめんどうである。家の中に入ってくるので本当はこの仕事は信用が一番大事だった。その信用をどうして得られるのか?それが一番むずかしいことだった。
南相馬市では福祉とか介護とか医療はかなり深刻である。人材を確保できない


◆要支援・要介護認定者数:事故前2,761人⇒3,380人(619)


これだけ介護する人が増えても人材は確保できない、するとどうなるのか在宅でしてくださいとかなりなんらか地域の助けが必要でもそれも今はできない、すると放置されて死ぬ人もでてくるかもしれない、ショ-トスティは事情あってやめた。その分福祉関係では他に人材をまわせるだろう。ショ-トスティでも相当に手間であり人材が労働力が必要なのである。でも一方で仮設に入って暇な人が今はいくらでもいる。その人たちは補償金もらえるから働かないのである。
「自粛や団結を忘れた市民には、復興は遠いかもしれない。」団結など絆など内部ではないのである。外部でボランティアなどが騒いでいるだけなのだ。

◆小高区(旧警戒区域)(H24.8)

25.0%「営農を継続したい」
46.3%「農業をやめたい」


小高区ではやはり農業をやめたいという人がこれだけ多かった。相当に荒れてしまったからだろう。そもそも小高の人は帰りたくないという人が多い、特に老人に多い。そういう人は復興住宅を作ってもらって入りたいという希望がある。小高に帰りたくないと言っているからもちろん農業していた人も農業をもうやらないとなる。

結局津浪や原発事故の被害地域では何が起きているのか?小子高齢化の影響が極端化して現れている。未来をになう子供が半減する、子育て世代、40代前の労働の担い手が流出している。そして働かない老人や介護者などが増大してゆく、するとこの辺はいづれどうなるのか?老人はうば捨て山化する。もう福祉の担い手が少なくカバ-できなくなる。老人は金をもっていても働く人がいないのである。金は銀行でも福島県庁でも使えないくらい増えているのだ。金があっても労働力の人手は確保できないのである。若い労働者が流出して会社が経営できなくなって他に移った会社もいる。するとますます老人だけが取り残される。その老人は金をもっていてもその金が有効に働かないのである。

つまり自分も経験しているが金だけではどうにもならないことがある。金があるからといってすべてが解決はしないのである。現実自分の家では働く人手を確保できなかった。病気だったからひどかったが家のことで手伝ってもらうこともできなかった。今は病気も直ったのでなんとか一人でできるから助かった。でもここではさらに介護者などばかりふえてくる。その重圧にもう耐えられなくなる。それはまさに小子高齢化の影響がここでは極端化して現れているのだ。
もう老人なんかめんどうみる余裕がない、捨ててしまいとさえ本気でなってしまうかもしれない、それは日本の将来の厳しい現実なのかもしれない、金があるからといって労働力は確保できないのだ。
だからここで福祉は限界にくるから外に出ることを考える必要があるかもしれない、もうそれだけの人材の余裕がここにはないのである。一方で田舎では家や土地をもっているしなかなか老人は移動できないこともある。そういうことで老人はかなり苦しい立場に立たされる。金だけでは解決しないのである。

 


 

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2013年07月15日

前双葉町長・井戸川氏が南相馬市の鹿島区の仮設住宅で演説 (緑の風の比例区で参議院に立候補はなぜ?)



前双葉町長・井戸川氏が南相馬市の鹿島区の仮設住宅で演説

(緑の風の比例区で参議院に立候補はなぜ?)



前双葉町長・井戸川氏涙の誓い、腹の底から反原発
「井戸川さん、オレはこんな所で死にたかねえよ」。断熱性のないプレハブの4畳半は、暑くて、窮屈で高齢者の体にはこたえる。「国会に行ってこの無念を晴らすから。投票してけろ」。握手をした井戸川氏は目に涙をにじませながら「これは生き物の住むところじゃない。物置だよ…」とつぶやいた。復興庁によれば、3・11以降、全国にいる災害避難者は27万5969人(6月1日現在)。そのうちプレハブ仮設住宅には、10万7768人が暮らしている。


 井戸川氏自身も埼玉県加須市に借り上げた住宅で、妻と2人で避難生活を送る被災者。「住む所も奪われた者が国会議員を目指すのは初めてでしょう。だからこそ腹の底から反原発を訴えることができるんです」と他候補との違いを強調した。
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20130712-OHT1T00034.htm

http://hochi.yomiuri.co.jp/photo/20130712-451027-1-L.jpg(ここに写真)



「緑の風」の比例区から立候補した前双葉町長の井戸川氏が南相馬市の鹿島区の仮設住宅の前で演説していた。あの人はよくテレビにでていたから知っていた。テレビに出るということは顔を覚えられるから選挙では有利かもしれない、全然知らない人だと親しみがわかないからだ。だから選挙で一人でも多くの人と握手するのがいいとか言われる。どぶ板選挙がいいと選挙のベテランの小沢氏は言っていた。確かに直接あった人は何であれ票に結びつきやすいかもしれない、そういう心理は人間にあるからだ。

ただみんななぜ双葉町長だった人が緑の風で原発反対で出ているのだろう。聞いてみたら「前の町長が原発推進だった」これがいいわけでありこれは必ず聞かれるからそう言っているのだろう。
このいい訳も何かしっくりいかない、ここが一番反発を受けている。

何か今回の原発事故や津浪では被害を受けた人が市町村別でモザイク模様のようにその心も色分けされたのだ。双葉町とか大熊町は原発の恩恵を一番受けていたからと福島県内でも反発が多くなった。それから双葉町の隣の浪江町でもまた違った感情が生まれた。双葉町や大熊町は一番恩恵を受けていたが浪江はそうではなかったとかなる。でも浪江はやはり相当な恩恵を受けていた。原発で働く人がかなり多かった。それで経済的には潤っていた。請戸では船主は億の金をもらい原発御殿が建っていたとか今になると批判されている。相馬総合病院の特等室に入っていたのも請戸の人であり家を建てると言っていた。億の金はもっているだろう。鹿島区でも大熊の人が家を新築した。地元では家も建てられない人もいるからねたまれるだろう。


今回の被害はみんな一様になっていない、仮設に入っていても津浪の被害者は補償金が原発被害者のようにもらえないとか不満である。南相馬市内でも小高と原町と鹿島で心情的に一致しない、だからまとまりが必要だというのもわかる。30キロ圏外とかで区切らないで南相馬市で共同一致して補償金などの交渉をすべきだと市の広報でも指摘している。補償金などでもらえる人ともらえない人とが分断されていることがあるからだ。だから被害が一様でないから団結しにくいということがある。


井戸川氏が反原発で立候補した一番の問題はなぜ推進だったのが反原発なのだろうとなる。もちろんその被害を受けたことで仮設住まいをしていることは評価できる。富岡町長は郡山に新築の家を建てたとか飯館村長は福島市にマンションを買ったとか言われるからだ。そしたら確かに仮設に住む人の痛みはわからないとなる。仮設に住んでみればはそこも物置だという感想にもなる。たいがい一戸建ての広い庭の家に住んでいた人が多いからだ。住まいについてはかなり不自由していることはわかる。ただその他は補償金で楽々暮らしていけるのも現実である。ただ他で新しく生活をするとなるとその資金は相当なものになる。5千万でも足りないと被害を受けた人は思うだろう。
ともかく今回の津浪原発の被害は住む地区によっても一様ではなくモザイク模様に分断されてしまったのである。


井戸川氏については一人の政治家としてはなぜ原発推進派から反対派に変わったのかということが納得いかない人が多いだろう。前町長が推進したというのも納得いかないだろう。そういうことは政治では常に起こってきた。戦前から戦後になったとき鬼畜英米から親米にがらりと変わってしまった。その時マスコミも戦争高揚推進派から平和主義になった。その時も国民はその変化にとまどった。
そういうふうに黒から白に変わるのは信用できないのである。
人間個人でも人生でも何か一貫性があればその人は評価できる。一貫性がないとその人自身が何なのか評価できないのである。右から左、左から右と政治は変わりやすいからわかりにくいのである。
一貫性があるのは共産党くらいだともなる。


そして緑の風があったが緑の党もあった。これは同じじゃないかと思った。これも実にまぎらわしいのである。政党もあまりに小党分裂するともう何がなんだかわからなくなる。だから民主党が分裂して全く力を失ったのである。
いづれにしろ一貫性のない人は信じられない、人間が一貫性がなくなるのは何か権力とか利権のために信条を曲げるからである。人間はみんな権力によって支配されその主張も曲げる、それはマスコミでも戦争中がそうだったようにずっとそうだったのである。
今回の原発事故も全く政府とか東電でもマスコミでも官僚でも戦争中と全く同じ構造が権力的にできあがっていたのである。それに反対を唱えることはできなくなっていた。それは戦争中と同じく非国民になっていた。だから原発を推進してきた前双葉町長にそうした反省があるのかとなる。
それが一番の疑問なのである。


今回の参議院選挙の争点は何なのかわかりにくい、原発が争点でもない、衆議院選挙でも原発を争点にしてもそうはならなかった。ただこの辺では実際に被害を受け苦しんでいる人がいるのだから原発が選挙の争点となる。だから前も原発に反対した未来の党とかに入れたのである。今回もやはりそうなりやすいのである。だから一貫しているのは実質の野党は共産党しかないともなり票を入れるひともいるかもしれない、実際に都議選ではそうだった。野党がいなければ民主主義は成り立たない、独裁になってしまうからだ。自民党と公明党の独裁も危険なのである。そういう歯止めは必ず必要なのである。権力の独占ほど恐ろしいものはないからだ。東電がそれをまざまざとみせつけたことでもわかる。創価などカルト宗教団体だって権力独占すれば恐ろしいものとなる。牙を隠しているが牙がむきだしになり国民を襲ってくる。原発事故の原因はいろいろあっても明かに権力の独占が東電によって行われていたことだったのである。それは戦争中と同じだったのである。権力が独占化されチェックできなくなるとき民主主義は崩壊して独裁になり民衆は独裁者の犠牲にされるのである。だから
自民党一党独裁となることも危険なのである。

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2013年07月17日

原発事故の責任者は誰なのか? (巨利に目がくらんで事故になった-烏崎の津神社も鯨の恵みで津浪は忘れられた)

 

 原発事故の責任者は誰なのか?

 (巨利に目がくらんで事故になった-烏崎の津神社も鯨の恵みで津浪は忘れられた)
 
 ●地域の利益優先のボリティシャアンにならざるをえなかった地方議員

原発事故の責任は誰にあったのかというとこれもわかりにくい、うやむやになっている。
それが民主主義社会になったから余計にわかりにくいのである。
例えば前双葉町長の井戸川氏のことを今になって反原発というのも変だ、辻褄が合わないとか一貫性がないと批判した。でも政治家になる方にしたら町長になるには原発推進でしかなれないのである。その政策でしか町長にはなれなかった。反原発だったら町長には絶対になれなかった。なぜなら町民の大多数が原発推進であり民主主義が多数で決めるとしたらそれに逆らえるものはいない、町長は町民の大多数の意志を代弁したものにすぎないとなる。


ポリティシャンかステーツマンかの政治家の判断基準として「自分の支持者だけを向いている」か、「国民全体を向いている」かという点がある。自分の選挙が優先と考えれば、自分の支持者に顔が向いてしまう。つまり、ポリティシャンになってしまう。しかし、選挙で選ばれる政治家にとってステイツマンになる事は口で言うほど簡単でない。選挙で落選することも覚悟の上で行動する勇気が要る

地方議員はほとんどがポリティシャンであったが、これからの地方のことは地方で責任を持って決める地方分権時代である。地方分権時代はあわら市全体のことを考えるステーツマン議員が求められる。
http://blog.goo.ne.jp/forza_awara/e/0678776374bfdaaf5128993d567a9cff


ポリティシャアンは「政党政治家」「政治屋」「政略家[とか権力だけを。操作したい権力の恩恵にあづかりたいという人たちをさして言っている。

地方政治ではどうしてもボリティシャアンになりやすい、国政だったら大きなテ-マがあり利益追求だけとは限らない。地方ではみんな利権政治屋になりやすいのだ。それが原発事故に結びついていた。そもそも当選できないとしたら反原発などの政策をかかげない、利益求める選挙民に従った方が得だとなるからだ。当選できなかったら何の意味があるのかとなるからだ。でも今になると原発には誰も反対しなかったのかと外部からも問われているのだ。いたのいても数人でありいないと同じだったのである。反対していたらその町に住めなくさえなっていたかもしれない、でも事故後、例え当選しなくても反原発で選挙にでていたら今になるとその人は内部からも外部からも相当に評価されることになっていたのだ。


ともかく町長にしてみれば原発推進でなければ町長にはなれないから原発推進になったのでありそれは町民の意向であり町民が決めたことであり町長なかったとなる。今度は町民が原発事故で苦しんだから反原発になったから反原発の緑の風から立候補したとなる。つまりそうした政策を決めているのは一個人ではない、一個人がそんな力をもっていないのが民主主義社会である。それを決定するのは投票する民衆である。だから原発事の責任は民主主義社会では民衆にあったとなる。結果としても原発推進だった民衆が苦しむことになった。


●極論の中に真実が見えてくる


原発はまた必ず電気がなくていいのかとかなる。電気なしで今の時代暮らせるのかとか脅迫的にもなる。電気なしでは暮らせないという現実もある。だから原発がすべてだということではない。でも原発はもうなくてはならないものだとなっている。それは脅迫的に強制される。映画で原発を信仰のようにして崇めて原発と共に命をともにするのだという映画あった。原発推進を極端化すればそうなる。それはそれなりに筋が通っている。つまり原発と命をともにする、死ぬ覚悟で原発を推進しろとなる。一方で山尾三省のようにパンすら贅沢の極貧の生活あえてする極端がある。しかしその極端の中に真実が見えてくる。中間の人は自分でもそうだが電気を恩恵は受けたいが原発は嫌だとなる、原発を徹底的に拒否することはない、電気が不可欠なのだから原発もやむをえないなと中間派は思っている。原発が嫌なら本当に山尾三省のように極貧にならなければ説得力がない、中間派は原発に反対するにしてもデモに行っても暑かった、どんどんク-ラ-で冷やしてくれとかなる。そういうことに矛盾を感じないのである。

原発反対でも本当に真剣になっていないのだ。だから原発とともに命をともにするのだという極端な人の方が説得力がある。そこまでやるならしかたない容認しようともなる。

一方で反原発はそんな覚悟はない、電気はなくなることがないとみている。だからデモしたあとでもク-ラ-でどんどん冷やしてくれとかなる。山尾三省なら一切電気も使っていない、江戸時代のような暮らしをしていた。燃料は囲炉裏で薪だった。つまり中間派はどっちつかずであり説得力がない、ただ電気の利益とか恩恵は受けたいと虫のいいこと考えている。電気がなくなるという深刻に考えていない、電気がなくなるはずがない、原発がなくなっても石油があるじゃないか、天然ガスがあるじゃないかとか楽天的に考えている。だてから中間派はずるいとなる。本当に現実は二者選択を迫られることさえありうる切迫したものとなるかもしれない、ただ大多数は中間派であり原発推進にしても反原発にしても極端な危機感はもっていないのである。自分もある意味でそういう中間派であり大多数は中間派である。電気の恩恵は受けたい、でも原発はノ-だといって無難な方を選んでいるのだ。

でもいづれは中間派ではいられなくなる。戦争中でも戦争はノ-だといえなくなり3百万人以上が犠牲になり死んだからである。極論が説得力あるのはそれだけの命をかけて主張する真剣さがあるだ。
原発なしではやっていけない、原発とともに死ぬんだというのも間違っていても説得力がある。
そんなことはいやだが電気は欲しいというのは中間派であり中間派には真剣味がないのである。


●人間は目前の巨利に目がくらみ危険を忘れていた-津神社は鯨の神社に変わった訳


人間は利に弱い、それか巨額な利益をうむとなるとそれか危険であっても眼がくらみ、後先なく危険に突入することがある。それが一番現れているのが巨額の遺産相続で遺産争いが骨肉の争いとなる。遺産というのは労せずしてもらえる大きな利になるからそうなる。そういうことは交通事故とかの保険金などやその他巨額の利益が公共事業とかで入ってくるとき起きてくる。その大きな利益のために今までは善人だったものが悪人にもなる。実際そういうことを経験してきた。遺産相続の権利もない雇用主が交通事故に庵た社員の保険金をもらおうとして画策した。それは犯罪になるところだった。その雇用主は別に普通の人だったが保険金が5千万入るとか騒いでいた。その時自分もびっくりしたのである。自分はその時車をもっていないからそんなに金が入るのかと驚いた。そこでいろいろもめたのである。人間はそうした普通の生活で稼ぐ金とは違う大きな金が入るとき突然心も変わるのだ。その大きな金に眼がくらみ犯罪者にもなるのだ。そういうことは常に推理小説のテーマとなっている。


そういうことが津浪とも関係していた。南相馬市の鹿島区の烏崎村の津神社はもともと津浪を記念して建てられたものである。ところがそのことをまるっきり忘れられていたのである。その理由がわかった。その神社は鯨の神社になり鯨の祭りを行っていたのは鯨が烏浜でとっていたからである。
鯨の碑があったのもそのためである。鯨は巨利を生むものだったのである。一匹の鯨をとればその利益は大きい。


島嶼部性の高い日本において「寄り鯨」「流れ鯨」[2]と呼ばれた漂着鯨[3]が高い頻度で発生する。それらのクジラを「えびす」と呼んで神格視しながら受動捕鯨として盛んに資源利用し、これが「寄り神信仰」の起源となった。特に三浦半島や能登半島や佐渡島などに顕著に残り、伝承されている。
寄り鯨の到来は「七浦が潤う」ともいわれ、えびす神が身を挺して住民に恵みをもたらしてくれたものという理解もされていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E9%AF%A8%E6%96%87%E5%8C%96


烏浜の鯨も寄り鯨だった。その利益が大きいから祭りとなったのである。そして津浪の被害のことは忘れてしまった。ここに人間の変わらない心理があった。人間は個人的なことでも嫌なことは忘れたい、でもいいことは覚えていた、利益になることの方に夢中になりやすい、人間の心理は常に利益追求なのである。欲望の追求なのである。大勢の人にとって共通することは欲望の追求である。みんな豊かな暮らしを求めることは共通しているのだ。誰も山尾三省のような極貧の暮らしなど求めていないのである。だからこそ原発が実際は積極的に誘致されたのである。そして請戸の船主などは億の補償金をもらったとか原発御殿が建ったとか実際は原発の巨額な利益に目がくらみ酔っていたのである。漁業だけではそんな豊かな暮らしができない時代になっていたからだ。それは磯部でもそうだったというとき相馬と双葉漁業組合は一体だから補償金をもらっていたのである。事故後も漁業組合には巨額の補償金が支給されているのだ。それで罰あたったとか言われるのである。


つまり原発は鯨と同じだった、巨利を生む故に眼がくらみ危険性をないじんがしろにされた。
東電の清水社長でも危険をないがしろにしたのはコストカットでのしあがったからである。ただ人間は利だけを追求していると思わぬ誤算が生じてくる。結局鯨という巨利を生むものがあり津浪で被害を受けて建てた神社の由来など忘れて鯨神社になっていたのである。それは原発だって事故がなければ巨利を生むのだから原発神社にすらなっていたのである。現実はそうだった。巨利に目がくらむことは人間にとって危険である。石油もまた巨利をもたらすものだからそこから中東の戦争も起きた。童話で未完成だったがジャムの蓋をあけていたらその中に蟻が侵入してかなりの数の蟻がその甘いジャムのなかで死んでいた。そして蟻の列は部屋にまでできていてそのジャムを目指して軍隊のように入ってきたのである。ジャムはあまりにも甘すぎるものでありそれが蟻を殺す結果になったのである。余りの巨利が人間にも災いを生む。そういう教訓があった。日常的に質素に暮らしていればそうした災いにはならない、そこに人間の問題があったのである。

文明はあらゆる面で限度を越えたものとなっている。富の追求でももう限度を越えている。原発という危険なものに手をだしたのもあくことなき限度なき富の追求のためだった。それは原発だけではない、人間の度を越した富の追求は自然も破壊するし公害にもなっているしあらゆる面で弊害が大きくなりすぎたのである。現代文明はあらゆる面で限界に来ている。文明の問題は制御するものがないことなのだ。ギリシャには富や無制限の技術を抑える思想があった。だから自然と調和したものとして後世に残された。現代文明は無制限の欲望の追求であり限界なき技術の追求、利益の追求でありそこに歯止めがないのである。それか文明の滅亡に通じしているのだ。

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歴史や祭りを変えると後の人に災いが・・ (烏崎の津(浪)神社が鯨の神社に変わり津波は忘れられた)


歴史や祭りを変えると後の人に災いが・・

(烏崎の津(浪)神社が鯨の神社に変わり津波は忘れられた)


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津神社の裏側にあった-鯨大明神

名取に鯨が打ち上げられた(相馬(鹿島区)にもあった鯨の碑)

http://musubu.sblo.jp/article/7998365.html

なぜ烏崎の津神社が津浪を記念した神社なのに鯨の神社になっていたのか?鯨の祭りをしていたのか?そのことを原発事故は誰の責任なのかということでも書いた。つまり鯨の祭りになったのは最初は津浪を記念したものであっても寄り鯨がありその恵みが大きかった。それが土地の人に印象に残り津浪のことは忘れられてしまった。鯨は津浪のように一回だけではない何度も寄り鯨がありうるから忘れることはない、その恵みも大きいから忘れられない、一方で津浪の被害も大きかったからこれも本当は忘れにくいものだったはずである。今回の津浪の被害をみれば別に家族を失ったものでなくても簡単に忘れられないし代々語り継がれる大惨事だった。それが忘れられたことはなぜなのか?とにかく400年たつなかで忘れられてしまった。


神社の意義はなになのか?それは別に信仰の対象ではない、ただ津浪を記念したというときそれは大きな意味があったのだ。後世への津浪の警鐘としてまた記念として神社が建てられた。ただ烏崎の津神社はもともと小さいものだったろう。それが鯨神社になったとき大きくなったのだろう。津神社はみんな小さい祠のようなものだったろう。ここで問題だったのは祭りが変わり津浪のことを忘れられたということである。祭りはある事実の何か重大なことの継承だった。それはまた信仰とは違ったものであり歴史の継承の役割があった。神社を祭りをおろそかにするということが祟りがあるというときそれは今回それとにたものを感じた。歴史の改竄とかはよく言われる。それは確かに常に行われてきた。しかし祭りを変えたとかはあまり言われない、それは大きな国の歴史とはかかわらない地域の歴史だからそうなった。でも地域の歴史でも祭りは歴史の継承であり由来がわからないくなったものもある。ただ祭りだけが千年とか継続されているものがある。それは歴史の継承でありその祭りを変えることは重大なことだったのである。神社が畏れ多いなど今は思わない、でもそう思うとき神社を祀って建てたのはそれなりの意味が当時あったから建てられたのである。その意味が400年もたって不明になって別な祭りに変化していた。これは歴史の改竄だったのである。このことが重大なことと認識されたのは今回の津浪の被害の甚大さによってなのである。


よく縁起が悪いとか今でも言うけど昔はもっと言われていた。この世にはわからないことが多々あり縁起が悪いというとき今のような科学も発達しないから縁起が悪いとなり神仏に地蔵にも祈っていた。その土地の神にも祈っていた。その縁起が悪いということが実は津浪を記念した津神社を鯨の神社に変えたことであったのだ。そういうふうにもともとあったものには長くその土地にあったものには何か意味があったのだ。地名のことも津浪で言われた。浪江は標葉郷でありこの標葉は禁断の意味だった。まさに縁起が悪い地だったのである。そんなこと科学の時代に通用しないとなるが今回わかったように科学でもわからないことが多々あるからそのように縁起が悪いということに人間はこだわりつづけてきたのである。なぜ相馬氏が小高の城から海岸に接した村上城へ貴布根城として移したがすぐにそこは縁起が悪いとして城を今度は原町の牛越城に移したのである。やはり村上城は縁起が悪かった。なぜならそのあとすぐに慶長の津浪に襲われていたからである。昔の人は何かと縁起が悪いというのはやはり一つの人間としての危険を感じる感だったのだろう。


それが単に迷信的でなかったのは今回の津浪でわかった。科学ですべてがこの世のことはわからないからこそ縁起が悪いということもそんなこと馬鹿げているとはならなかった。現実にその土地のことは千年以上の歴史がどこにでもあり神社もありそれが何かに由来していて建っている。特に古い神社には何かしら必ず由来があり建てられた当時は意味があって建てられたのである。それが神社には由来がわからなくなったのが多いのである。それを今回は現実にこれほどの津浪の被害を受けて思い知らされたのである。なぜ津神社の由来を鯨の神に変えてしまったのか?その怒りが今回の津浪になったんじゃとかさえなる。津神社の由来をおろそかにしたからこうなったんじゃともなる。なぜならもし津浪のことを伝え祭りしていたら津浪がここにあったということを意識するし早く逃げて助かった人も多かったかもしれない、そういう意識をもたさせる役目が神社にはあった。ただそれは神仏の信仰とは別である。要するに古いものには何でもそれなりに意味があった。言葉でも廃れる言葉が多いがそれも歴史的に意味あるものであった。その言葉の意味が変わったり意味がわからなくなるのともにている。


だから神社とか古い碑があった場所とかは変えない方がいいし祭りも変えない方がいい。場所を変えたらそこが津浪があって高台に建てられたということも忘れられてしまうだろう。由来も変えて祭りをしていたら津浪のことも意識させられないのである。原町区の雫(しどけ)にも小さな津神社があり今回の津浪からまねがれたという。雫というとあれだけ高台なのに津浪に襲われた衝撃があった。
あそこにもすでに人が古くから住んでいて慶長津浪の時被害があったのである。だからこそ津神社が祀られていたのである。歴史は時間がたつとひっそりとした目立たないものになりそれに深い意味がある場合がある。でもそれは後世の人が見いださない限り不明になる。現代でも大げさにマスコミやテレビで騒ぐものに意味がなくなりたちまち忘れられる。歴史的に意味あることは例え残されていても忘れられているからそれを後の人が見いださない限り不明になる。だから歴史には重大なことがまだ埋もれていることもある。発見されず身近にあっても忘れられているということありうるのだ。

人間は今でも例え家族でも60年とか一緒に暮らしていても死ぬとたちまち忘れられ謎になり不明になりやすいのである。死ぬともうその人を思い出すことがむずかしくなる。津浪で死んだ人は写真だけが思い出となり手がかりとなった。それで泥の中から必死で写真帳などを探していたのである。
つくづく人間は忘れやすいものであり過去は失われやすい、だからこそ古くからあるものには何かしら意味があり伝えるものがあり大事にせねばならないとなる。特に現代のようにあらゆるものがめまぐるしく変わる時代はそうである。過去というものを見いだすこともむずかしくなる。それが大きな災いに通じていることもありえた。それが今回の津浪だったのである。


 原発事故の責任者は誰なのか? (巨利に目がくらんで事故になった-烏崎の津神社も鯨の恵みで津浪は忘れられた)
http://musubu2.sblo.jp/article/70998128.html

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2013年07月18日

残された北海道の一枚の写真 (写真はあとで貴重になる)


残された北海道の一枚の写真

(写真はあとで貴重になる)


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ここが北海道のどこかわからなくなった。最近ずといろいろなものを整理していた。ンも整理して半分くらいなげた。結局本も利用しなかったら何の価値もないのである。ただ集めて飾っていても野役目は果たしていない、ただ本が蔵書が必要だったのはどうしても辞書のように参考するものを置いていないと文章が書けないからそうなった。そこに図書館の意味もあった。参考にするを資料など全部揃えられないからだ。


それにしてもまずこの山はおそらく羊蹄山の麓の写真なのだろう。いかにも北海道らしい雄大な景色である。この写真をとった記憶も全くなくなっていた。この写真をみていい写真だなとつくづく思った。デジカメなどない時代だからこれは大きなプリントにしていたのはやはりいい写真だったからかもしれない、ただこれは本当に自分でとった写真なのか不明なのである。雑誌の写真を拡大化したのかもしれない、でも大きなプリントにするというのも解せないのである。


一枚の写真は実は多くのものを語って伝えることがあった。これは風景だけだけど人間が写っているものがそうであった。自分の家の子供の頃の写真を発見した。その写真は本当に不思議だった。
それから死んだ姉の写真もいろいろあった。とくに昭和15年にとった看護婦の写真は貴重である。なぜならその頃白黒写真だったからである。それもぼやけてくすんで汚くなっていた。

人間は死ぬと思い出すものは写真だけになる。その写真をみていると本当に不思議である。
こんな人だったのかとか思い出す、写真で問題だったのは日にちと場所がわからなくなっていたことである。これが意外と写真の盲点だった。日にちと場所と名前を書いておくと写真は貴重な記録になる。


現代はデジタルカメラで膨大な写真が記録されているからそれが50年後とかになるとかなり貴重なものとなり記録がよみがえる。人間にとって記録がいかに大事か、津波で思い知らされた。もし一枚の白黒の写真でもいいから400年前にあったらどうなったか?つたない絵でも残されていたらそんなことあったのと注目したに違いない、ともかく現代は写真で時系列にも記録される時代である。
人間ほどわすれやすいものはない、すでに母はぼけていて写真を見せてもわからなくなっている。

もう自分が経験したことも誰が誰なのかもわからなくなっている。たいがい90すぎたら認知症になってしまうからだ。記録が消えてゆくことは実は人間の死を意味していたのである。記憶していれば過去も生きているし一緒に生きた人たちも生きているのだ。忘れればもうその人たちも生きていないのである。


ただあまりにもくるしい人生だったというとき忘れることも必要である。嫌なことは忘れた方がいい、でもいいことも忘れるから困るのである。と
ともか北海道に十回も行ったからいろいろ記憶されているはずだが忘れてしまうのである。
だから思い出す作業をしているときこうした一枚の写真でも残っていると記憶がよみがえってくるからいいのである。