2013年06月12日

働かない人ばかりふえてきて社会地域の崩壊(続編) (原発避難者が非難されるのは金もって働かないから)


働かない人ばかりふえてきて社会地域の崩壊(続編)

(原発避難者が非難されるのは金もって働かないから)


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働かない人ばかりふえると働く人への負担が比例して増大する

その働く人がへるのだから働かない人たちによって地域は崩壊する

 


地方の名産品を通販で取り寄せようとしたら、送料が価格と同じくらい高くてびっくり。
なかなか届かない商品を待ち続け、やっと鳴ったチャイムにドアを開けたら、超高齢ドライバー
が立っていてまたびっくり。スーパーの陳列棚からはモノが消え、資材が届かない建設現場
では工事が中断されたまま――。
http://osigotosokuho.blog.fc2.com/blog-entry-858.html
現代の社会の特徴は膨大な人が働かないで生活できることだった。それは例えば土地の効率化で生産性があがり機械化でも人手が少なくてすむようになった。だから少ない労力で品質のいい米が多く作れるようになった。農業でも昔のように全部人力でないから人手がかからない、それで働かない人もふえてくる。他でも工場でも機械化して人手のかからない社会を作ってきた。単純な仕事は機械化して効率化できる。ス-パ-でもレジを機械化すれば客が支払いできる。それをしている所もこの辺である。支払いもカ-ドですれば効率化できて人手を省くことができる。そういうことで4千万人が働かない人が生まれても社会が成り立っている。


ところがこの辺で起きていることは働かない人ばかり増えているからサ-ビスを受けられないという事態になっているのだ。チェ-ンのレストランでも時給1200円でも昼間でも働かないから支配人のような人が配膳していた。それは病院であれば看護師もたりない、医者もたりないとか介護士もたりないとか外部から応援を頼んでいる。建築現場で働いている人は外部の人であり地元の人は少ない、原発避難者は補償金がもらえるから毎日パチンコ屋通いであり東京まで競馬に行っていた人もいた。その人は老人ではない若い人だったのである。だから外部から来たボランティアとなぜ若いのに働かないのかと喧嘩にもなった。原発事故の周辺では多数の避難者が出てそういう問題が起きている。

補償金が大きいから働かなくてもいいとなっている。額がまた大きい、一家で百万とか百五十万とかもらっている場合もある。だから食費などは贅沢している。最近この辺で大熊の人が新しく家を建てたという。新築の家がかなりたっている。津浪で家を流された人たちも建てている。立派な大手のアパ-トも二軒たった。百人くらい収容できるかもしれない、これも地元の人が建てたのではない、だから外部から入って仕事している人が多いから長期滞在のホテルが何軒も建ったのである。


ただこうして一時的に外部から来た人が工事関係とかで働いていてもやがて工事が終わればいなくなる。そして変なのは浪江とか大熊でも他から来た人が家を建てて住むにしてもその人たちがみんな働く人とは限らない、大部分の人が働かないから非難されているのだ。避難者であっても原発貴族とか言われる。いわきで問題になったのは数が多いせきもあった。二万人とかが避難して毎日パチンコだ飲み屋だと遊んでいて地元の人は家も建てられないしアパ-トすら不足して若い人が困るとか病院も満員でこまるとかなり非難された。

つまり働かない人ばかりが大量に流入したとき金がその人たちがもっていてもいいとはならなかったのだ。金を使うからいいではないかというのが今までの常識だった。金を使うものが消費者が王様だったという社会だったのである。金さえありさえすれば王様になれたのである。でもその金が通用しなくなったらどうなるのか?誰かがその金で働く人がいればサ-ビスを受けられる。でもいなくなればサ-ビスを受けられないのだ。そういうことがこの辺で現実に起こっている。金を持っていても働かない人ばかり増えたらどうなるのか?金の価値はなくなる。金を出しても誰も働いてくれないというのが現実になってくる。人を使うことは極端にコストが高くなりレストランでも人がいないと廃業になるかもしれない、そういうことは他でも起きてくるかもしれない、金はあっても金が有効に働かないのである。


こういうことはここだけではない、人手不足が深刻になり配達する運転手もいなくなったときコンビニやス-パ-さえ成り立たなくなる。そして原発事故周辺では補償金がもらえるからと働かない人ばかり流入してくるのだ。今までなら家を建て人口が増えることは経済が活発化していいとかなっていた。でも働かない人々がまた増大してくるといくらその人たちが金を持っていても働かない人ばかりなのだからサ-ビスも受けられなくなる。高齢化社会で老人ばかり増えるのもそうである。介護者ばかりふえて介護する人も老人であり人手不足である。金がいくらあってもサ-ビスが受けられない地域となってゆく。だから金ある人は外に出た方がいいとなる。原発事故周辺地域でいくら金があるとしてもサ-ビスが受けられないとしたら金が有効に働く地域に家を建てた方がいいともなる。

金が万能であったが今やここではそうではない、金を持っていても働かない人ばかり増えたらその金は何の価値もなくなるのである。だから働かない人は来るなともなって当然だともなる。いわき市のように一軒経済が活発になっていいじゃないかという面があるがそれよりそこで原発避難者-貴族に働かせられることが不満になるのだ。あいつら補償金で家を建てている。俺たちは地元なのに建てられないとかなる。そういう不満が渦巻きいやがらせにもなる。


だからこの辺で起きていることは未来を先取りした地域となっているのかもしれない、金万能社会が崩壊する。これは昔の村の共同社会のようにもなる。金のために働くのではない、協働して村を維持する。俺は金があるから働かなくてもいいとはならないのだ。もちろん働くといってもいろいろあるからいちがいに強制はできない、とにかく働かない人ばかり増えることはその市町村は崩壊してゆく、放射能汚染もそうだがこれも深刻な問題である。ただまだ金が万能であり金の力に頼っている。それも頼れなくなるかもしれない、働かない人は来るなとなるかもしれない、金があっても来るなとなるかもしれない、その人たちのために働かさせられるのはいやだとなるのである。だから金があるからこの辺ではすべていいとはならない、こういうことはもしかしたら一つの資本主義社会、金万能社会を見直す切っ掛けになるかもしれない、これまでの社会が変わる契機になるかもしれない、地域通貨などの試みもあったが何かそうしたことが現実化してくる。金万能社会の終わりが近づいているともなる。

 
 
posted by 老鶯 at 19:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

郷土史は一人一人の生きた人を語ること (自分の兄は集団就職で静岡で交通事故で死んだ)


郷土史は一人一人の生きた人を語ること

(自分の兄は集団就職して静岡で交通事故で死んだ)

 人間は死んでからその人について考えることがある。死んでみないとその人についてわからないことがある。家族でも死んでみないとわからないことがある。死んでみてその人のことがわかりありがたいと感謝するようにもなる。今になると自分は家のことを料理から家計から介護とあらゆることをまかせられるようになって苦しんでいる。それまでは全くこういうことはなかった。
 三食用意されていたしあとは何もしない、買い物くらいだった。だからどこに行こうが自由だし一か月旅に出てもそんなこと簡単にできたのである。今になると一日すら行けない、三食用意するのは自分だけしかいない、介護もしなければならない、あらゆることを自分一人にまかせられるようになった。それも家族を支えていた一人が死んだためだった。
 
 自分の家は複雑だから他人が理解するのがむずかしいだろう。ただ一人一人の人間にはそれぞれの人生があり死んでからふりかえるようになる。自分にも兄と姉がいた。どちらも死んでしまった。これもあまりにも複雑な関係だった。兄は父親が違っていて今の家で子供の頃五年間は一緒に過ごした。もしこの五年間を一緒に過ごしていなかったら兄という感覚もなかったろう。あとは事情があって原町の実家で五年間過ごして15才で集団就職して東京から静岡の方に住むようになった。
 そこで結婚したのだが離婚したりいろいろ問題が起きてトラック運転手になった。そこの勤め先で交通事故になり42才とで死んだ。今も思うとずいぶん早かったなと思う。その兄は原町の実家の墓に埋められている。その兄に一人の娘がいてその娘にはま娘がいる。死んだ兄の孫になる。東京に住んでいて一時は音信不通だった、10年以上そうだった。でも五六年前から家にも来てかかわるようになった。実際は関係しないと思っていた。その兄の娘も離婚していた。母子家庭だった。

 ただ今やこうして自分の家で残されたのは自分だけになった。それで実家の墓に埋めたのだからそこに兄の霊は眠っていることになる。兄自体は故郷には帰らないと常々言っていたけど故郷に帰って実家の墓に入った。しかし実家の墓は今は家もなく墓しか残らなかった。長男の人も入っているが家を出されたとか事情があり家を継がなかった。だから墓を守ってくれと言って死んでいった。
 やはり家への思いがあったからそうなった。人間は何かの思いを残してみんな死んでゆく。
 
 兄が交通事故で死んだときは静岡なのでそこまでゆくのに大変な思いをした。そこの運送会社では兄が死んだとき保険金がおりることで代理人として保険金をもらうおうとしていたみたいだ。
 だから兄は乞食のようにしてきたとかなんとか特別世話したとかそのことを延々と言われた。
 そして墓を作ってやるからとまで言われた。事情がわからないのでそうなふうになってしまうとこでもあった。それもあまりにも遠いし事情がわからなくなっていたからだ。交通事故になる前に離婚とかありそこでも大変なもめごとになっていたから複雑すぎた。それからやっと母が兄の遺骨をもってきて今の実家の墓に埋めたのである。自分もかかわったけどその時はそれほど直接かかわったわけではない、ともかく運送会社でいろいろ言われたことでいやになった。特別兄を世話したんだと延々と言われた。それは何のためがよくわからなかった。何にも死んだら墓をつくってやるとかなんとかいろいろ言わなくてもいい、普通はめんどうだから遺骨をもっていってくださいと言われるのが普通である。墓まで作ってやるというのも異常なことだった。それは代理人になり保険金をもらうためだったのだろう。ただ遠いこともあり事情がのめこめなかったのである。
 
 ともかくそんなふうにして兄は原町の実家の墓に治まっているから墓参りをしている。娘も孫と一緒にした。墓の不思議はそこに故人がなおいるという感覚になる。死んだ兄は孫いることは知らないのである。でも墓参りすれば喜んでいるのかと思う。一人の人間が生きて死ぬということは何かを語り何かの思いを残してゆくことである。そこには二七才で死んだ母の兄も埋まっている。結核で死んだのでこの人ももっと生きたかったろうなとか必ず思う。一行だけど二七才で死亡とあるときそこに無念が無言の内に伝わってくる。それは戦争で死んだ人たちも同じである。若くして死んだからである。死んだ人もそれぞれが何かを語っている。それを墓参りするとき後の人が思い出すのである。
 
郷土史というときそうした一人一人の人生ともかかわっている。有名な人ではない、郷土に生きた一人一人の人生が郷土史でもあった。集団就職というのはやはり当時の一つの大きな歴史であった。
その時、一クラスで半分くらいは高校にも行けず中卒だったのである。中卒が当たり前だったのだ。自分は大学まで行ったから恵まれていた。成績はまるでだめだったけど金があったから東京の私立大学に行けたのである。でも全然勉強もしなかった。勉強したのはかえって大学を出てからであった。中卒で油にまみれ工場で働いていた集団就職の同級生とはかなりの差があった。 自分は相当に恵まれていた。なぜなら大学出たときから書斎すらもっていた。それから本を読むというより本の収集家みたいになっていたし旅行も自由にした。ただ海外旅行は50過ぎであり遅すぎたのである。
これだけは後悔している。早めに海外に行っていれば語学力もついたし見識も広くなっていた。
今どき海外を知らないでは笑い物になるし何も書くことすらできないものだったのである。

ただ人間の一個人の経験は極めて限られたものであり人生はまたたくまに過ぎてしまうのである。

今思うと人生とは何かとなれば何に時間を費やしたかで決まる。それは才能でもなんでもない、そもそも人間のもっている時間はそれぞれ限られたものでありあらゆることに使えないからだ。
天才であっても同じなのである。何に時間を費やしたかが人生なのである。だからカルト宗教団体に入っていたとしても創価でもそれは無駄だとは言えない、何であれ人間はどんなことでも経験そのものが限られたものしかできないのである。例えそれが間違ったことでも人生は一回きりであり経験できないのである。旅に費やした時間だったから自分の人生は旅だったともなる。


とにかく兄の人生も一つの郷土史なのである。他にも個々人の人生が郷土史となる。やはり集団就職というのは自分には当時わからなかったが一つの大きな時代を象徴していたのだろう。一五才で親元を離れ働くということは容易ではない、そこで兄も苦労して頭がはげたというのはそのためだったろう。他人の家の飯を食うとういことは苦しいことだった。それは丁稚奉公にもにていたのだ。
自分の父親は葛尾村(かつろうむら)から酒屋の丁稚奉公に双葉の新山に出たのとにていたのだ。

中卒が当たり前であり尋常小学校出たというのが普通だった。なんとか読み書きはできたというのが当時の教育だった。母も原町紡績工場(原紡)で働き東京の女中をしていた。その頃養蚕が盛んであり製糸工場と女中が女性の働き口だったのだ。家事が機械化されていないからどうしても人手が必要だったのである。だから金持ちでは二人くらいの住み込みの女中を雇っていたのである。だからその時は在宅介護も女中がしてくれたからできたという。それは金持ちの家だけだったのである。つまり機械ではない、家事を住み込みでしてくれるのだから家族と同じでしり介護もしやすかったのである。今は女中とか家でと働くということはなくなったのである。だから家に入ってきて働く人はそういう時代でないから危険極まりない時代になったのである。女中という言葉自体差別語になって廃止されたようにそういう使い方はできない、すればかえって金持ちでも手痛い目にあうしそういう待遇はすでにできない。雇われる人も全く違った感覚になっている。財産をねらわれもっていかれる。昔の人は働く場所がないのだから働き場所として女中という職業があった。今は女性の働く場所はいろいろある。だから家に入って働くような人はまれでありそこに危険がましているのだ。それも時代だったのである。


歴史をふえかえれば今になるといろいろ解釈ができてくる、女工哀史についても今はいい面と悪い面が語られる。貧乏だから製糸工場で働くことは白い飯が食えるから良かったという人もいる。
つまり飛騨の山奥の農村ではまともに白い飯も食えなかったのである。それは東北の貧しい農家の人が白い飯食べられるということで兵隊にまでなったということとにている。今から当時を考えるとき必ず何かしら違った謝った見方が歴史を考察するとき必ずあるのだ。


たいていの女工は13〜4歳で小学校を卒業すると7〜8年の年季奉公で製糸工場に働きに出たそうです。
製糸工場での労働は現在とは比較にならないほど劣悪な環境で、労働時間は14〜5時間にも及び、蒸し暑さや悪臭などが漂う工場での労働は生半可なものではなく、また逃亡を防ぐため工場には鉄製の桟が張られ、宿舎にも鉄格子が付けられるという監獄にも近い状態だったそうです

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483480944

女工は13〜4歳で小学校を卒業すると・・・というのは集団就職とにていたのである。でも女工がすべて過酷だったとも言えない。母は女工だったけど他の人も女工だったけどそんなに苦労したとも言っていない、かえって現金収入になって親に喜ばれたとも言っている、女中でも金をもらえたから良かったとも言っている。その頃女性で現金収入なることは良かったともなる。女性の働き口が生まれたということ自体、百姓以外で生まれたことが近代化でもあった。女性の働き口は農業しかそもそもなかった。機織りなどはあっても多人数が働く工場などはなかった。でも製糸工場で生産された絹織物がアメリカの女性の贅沢品として使われその外貨で軍事費を増大させて太平洋戦争になったとなれば女性の労働が戦争に使われたともなる。ただ歴史はいろいろな見方があるから一つの見方にこだわるのは偏りを生むのである。

 
 
 


 
 

posted by 老鶯 at 11:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)