2013年06月10日

原野と化した津浪の跡(短歌十首) (夏の日に海老浜-八沢浦-松川浦をめぐる)

 

原野と化した津浪の跡(短歌十首)

(夏の日に海老浜-八沢浦-松川浦をめぐる)

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海老浜-この両脇に家が並んでいた

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車輪梅

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大きなとんぼが飛んでいたのは驚き

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トオスミトンボやオタマジャクシなどがすむ


松川浦から相馬市へ

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和田

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クロ-バ-匂いの強く夏の海
和田に来て船の泊まるや木陰かな
街中に光のまぶし夏柳
黄菖蒲の田の面に写りまちばばし


朝日さし黄色の夏菊映えにけり浜風そよぎ燕飛び交う

夏の花眩く咲きて沖に船釣り津浪の跡に風吹きわたる
津浪跡松の赤くも枯れゆかむここに死ぬ人時は過ぎゆく
海鳥の高くさえづり夏の朝浜風吹きて沖に船見ゆ
津浪跡沼の生まれてトオスミの命かすかやここに育む
津浪跡沼の生まれて生き物のをここに育む夏の日まぶしく
新にそ生まれし沼にオニヤンマ勢いよくも飛びにけるかも
人絶ゆも自然の営みつづくなり花々おおい悲しみつつむ
百間橋長きをわたるそよぐ風松川浦より涼しかりけり
宇多川の河口に葦のそよぎつつ蟹のひそむや浦波よせる


一面にクロ-バ-の原野になってしまった。海老の道の両脇には家が並んでいたがみんな消えてしまいクロ-バ-が咲き満ち都草が咲いていた。菖蒲も咲いていたがあれは庭に咲いていたものだろう。
家がないから海が視界に全面的に入ってくる。沖に船のゆくのが見える。風が原野にふきわたってくるのはまさに北海道の風景である。海老浜は車輪梅の南限の地として有名だった。車輪梅は咲いていた。黄色の菖蒲も咲いていたし夏の小さな黄色の花が一面にまぶしかった。だんだんこんな風景が見なれるとここに人が住んでいたのかとなってしまう。ここは土台が残っているから人の住んだ痕跡が残っている。しかし八沢浦には海岸沿いは残っていなかった。何軒かあったがみんな流されてしまった。そして沼がいくつか生まれていたのも不思議である。オタマジャクシもいたしトオスミトンボもいたしオニヤンマが勢いよく飛んでいる景色は不思議としか言いようがない、北海道にはこうした原野が多いのだ。草原とか北海道化したしまったのだ。


何か大きな鳥が海から飛んでくる。それがいかにも生き生きしているというのも不思議である。つまり原野化して野生の生き物が生き生きとして現れ見えたのである。またこんな事を書いているとここで無惨に死んだ人のことを考えないのかと言われる。あの枯れた松の下では子供も死んで墓標があったがなくなった。時間がたつにつれて松も赤く枯れてきたからあれは枯れてしまうのだろう。
八沢浦の沼になったところには数軒の家があったが家は少なかった。だから海老や烏崎村のように無惨さを感じない、それでもそこで被害にあった人は家族をなくした人は悲しんでいるだろう。
全然違ったものとして見るだろう。でも原野化するということは自然にもどることでありそれは風景としては悪いものではない、美しく花々におおわれてしまう景色はその悲しさをおおってしまうのだろうか、忘れさせるのだろうか?

これが多賀城市とかなると家が工場とかも密集していたから原野化しない、都会だと家が密集してビルもあり工場もありとそこはこんなふうに原野化しない、汚い人工のものが残るのである。
だから東京みたいなところが一旦大災害になると地獄絵図になってしまう。神戸の地震のうよに無惨なものとなってしまうのである。ビルが倒れ道路が壊れ家がぐちゃぐちゃになり地獄の業火に焼け出された風景はすさまじかった。津浪も地獄絵図だったが原野にもどったときそういうものは家族や家を失ったものは違っても他の人はそういう地獄絵図は忘れてここでは感じなくなるだろう。

なんだか気持ちいいなとかなってしまう。これも不遜にはなるが偽らざる気持ちだからどうしようもない、花々におおわれ沼がうまれ自然の生き物がもどってきている光景は不思議である。
こんなこと生きている内経験するとは思ってもいなかった。北海道に梅雨の時期にはいつも行っていたがここが北海道になるとは思いも寄らなかった。


松川浦の和田の方は奥まっていて静かであり趣があった。場所を帰るとまたちがって見える。和田の人と病院であった。あそこで牡蠣とかうなぎとかいろいろとっていた。放射能など関係なく食べていたという。牡蠣は確かにとったのがあった。松川浦は何がいいかというとやはり荒い太平洋の波を感じない゛男性的なものから優しい感じの浦になる。浦波がよせ浦風がよせる。それが穏やかに感じるのだ。それで八沢浦でも一回だけそうなった風景を見たから感動した。そこで死んだ人のことを考えろというのも家族を失った人から見れば不遜になる。でも津浪でも美をもたらしたこと、美があることは救いであった。故郷の景色をいろんなふうに太古の自然から見直すことになったのである。
想像で太古の自然をイメ-ジしていたがとてもこんな現実の太古の世界を見ることはできない、現実は想像を越えたものだった。


それから相馬市に来て田町通りの柳を見た。あの柳は見物である。そこから日立木にでて「まちばばし」をわたる所に黄菖蒲が田の面に写っていた。まちばばしという名がなにかいいのである。まちばというのを感じる不思議がある。なんかいろいろ変化がありすぎてみんな書くことができない、改めてまた書いてみよう。今回は俳句短歌を写真にのせなかった。各自あてはめてみるほかないだろう。

 
 
 


 

posted by 老鶯 at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係