2013年06月08日

睡蓮と蛙と菖蒲(梅雨の俳句)


睡蓮と蛙と菖蒲(梅雨の俳句)


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睡蓮の葉にのり蛙見えざりき

睡蓮や蛙飛びこむ水の音
睡蓮の開くをながむ蛙かな
睡蓮のまた一輪開く夢心地
睡蓮や行く人なしに雨しとと
雨しとと静かにぬらし菖蒲かな
白菖蒲誰かさやるや雨しとと
雨しととお掘りに菖蒲城下町
蓮の花釈迦の両目に写し閉ず
牡丹の花びら重ね富める家
牡丹の散る花びらや雨しとと
飛び石に牡丹の散るや雨しとと


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睡蓮は蓮はそもそも釈迦の生まれたインドが原産地であり暑い所に咲くのにあっている。インドからエジプトに移りロ-タスになった。ナイル川などの岸辺の水辺に咲いていた。暑いところだから日影で蓮の花をみているのがあっている。日本では睡蓮の咲く時期が梅雨の時期なのであっていない。
泰山木の花もアメリカ産だとすると大陸的に毎日晴れている天候にあっている。梅雨の時期にはあわない花なのだ。梅雨の時期にあっているのは菖蒲なのである。


今日例の溜池を通ると睡蓮の葉にのっていた蛙が逃げて飛び込んだ。その時その音だけが辺りにして静まり返った。この音は「古池や蛙飛び込む水の音-芭蕉」なのかと思った。これは一匹の蛙だった。蛙は睡蓮の葉にのり誰も見ていない、ただ睡蓮の花の開くのをみていた。どういうわけか「古池や蛙飛びこむ水の音」にはずっとアクセスがつづいていた。この句にこんなに関心があるのかと不思議であった。やはり何かこの句が俳句的なものの結晶だからかもしれない、でも自分の書いた文にそれほど関心を示していることもわからない、それほどに関心をもつ文なのかとも思っているからだ。
ただ俳句で一番関心ある句はこの句だということは言える。


ともかく今日聞いた蛙が飛び込む音は一匹の蛙だった。何匹かの蛙という人もいるが一匹の蛙の音が飛び込んだあとも余韻として残ったから一匹なのがふさわしいだろう。そこにいる生き物の気配はなかったが蛙が飛び込んだことにより蛙がいることを知ったのである。あとは森閑として何も聞こえない池だった。その池は実際はあまりいい池ではない、自然のものではない、ただそこを毎日のように通るからよるのである。人間は関心をもつのはやはり日常的にかかわるところなのだ。遠くの世界はいいとしても忘れやすいのである。


日本と雨はかかせない、湿気の多いのが日本でありその文化もそうである。からっと晴れる日が日本では少ないのである。だから強烈な原色の花がにあわない、たいがい南国の花は原色である。だから蓮とか睡蓮は何か日本の風土にあわないのである。でも何か睡蓮と蓮は瞑想するにふさわしい花のような気もする。


蓮の花釈迦の瞳に写し閉ず


これも想像で作ったがそんな感じになる。相馬市の堀には蓮の花が咲いている。あれも見物なのだが咲く時期になかなかいけないのが問題なのである。梅雨の時期と重なるから行きにくいということもある。相馬市は城下町だから雨にもあっている。


雨しととお掘りに菖蒲城下町


こんなふうにもなる。春から夏は花の種類も多いから楽しめる。ただ梅雨の時期は外にでにくい、だからこの時期いつも北海道に行っていたのである。そういう贅沢も終わった。毎日家事と介護と書くことに追われている。暇なく仕事しているのだ。家事でも掃除から料理から特に食器を洗うのが手間なのである。なかなかコツをつかめないと時間がかかる。二階から下へと行ったり来たりしているだけで時間がかかる。毎日仕事に追われ過ぎてゆく。


ただ老人になると本当にものを見る目が深くなってくる。だから何か批評することに向いてくるのだ。あることを深く掘り下げて見れるのである。本でもほとんどのものを自分なりに解釈できるようになった。ああ、本とはこうして読むものだと思った。若いときは深く読めなかった。表面的に読んだというよりただ本を買ってこんな本があるというだけだったのである。だから今まで読んだ本をもう一回何回も読んでみると理解が深まっている。自分なりに文章に利用もできる。それこそ読書だったのである。若いときはただ読んでも記録する暗記するだけである。その内容について深く知り得ないのだ。この人はこういうことを言っているのだと自分なりに理解できる。
いくら名著でも自分なりに理解して利用しない限り読んだことにはならなかったのである。

睡蓮と蛙(写真)
http://blog.livedoor.jp/ofuroudo/archives/51322711.html

津浪で見直された南相馬市金沢地区の延命地蔵尊 (延命地蔵は庶民の願いが特にこめられていた)


津浪で見直された南相馬市金沢地区の延命地蔵尊

(延命地蔵は庶民の願いが特にこめられていた)

●全国の延命地蔵の伝説、由来など



 延命地蔵の民話
http://musubu3.sblo.jp/

http://hukumusume.com/douwa/i/minwa/04/01a.htm


子育て延命地蔵
http://www.rinzo2.jp/~njkmmy/w_t-baby/kosazuke_kosodateenmeijizou_00.html


姥ケ橋延命地蔵


姥ヶ橋とはかつてこの地に流れていた稲付川に架かっていた橋です。昔、誤って幼子を溺れ死なせてしまった乳母が、この橋から身を投げ
たという伝説があり、延命地蔵は、この話を哀れんだ村人が供養のために建てたといわれています。(碑文によると川に架かる石橋の安全供養とされています。)
毎年夏にお祭りがあり、大変にぎわいます。

地蔵菩薩像は石材を丸彫りしたもので、台座には享保9年の銘があります。
http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/data/i/7.html


桝形の延命地蔵の由来


江戸時代、安政5年日本各地ではコレラが大流行し、多くの人命がなくなっていました。郡上でも同様にコレラが蔓延し、危機的な状況のなかどうかしてこの災難を鎮めようと元治元年この地蔵尊が建立されました。
以後、人々によって延命地蔵として代々まもり継がれています。
http://www6.ocn.ne.jp/~artwing/jizo.html


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http://www.igasho.com/ishikuramachi-enmeijizou.htm


延命地蔵(えんめいじぞう)は、留萌市瀬越町にある地蔵。


死してのち
 楽しきものは
   花ぞかし
 たむけてくれよ
   詣る人々

http://rumoifan.net/shokupedia/index.php?title=%E5%BB%B6%E5%91%BD%E5%9C%B0%E8%94%B5

これは由来不明というけど面白いと思った。


石造の地蔵菩薩立像じぞうぼさつりゅうぞうで、総高180センチメートル、富士大山道ふじおおやまみちと橋戸道はしどみちが分岐する場所にたっています。台石には、安永あんえい4年(1775年)に谷原村の念仏講中が建てたことが刻まれています。台石の向かって右側面には「みぎ はしど道」、左側面には「左 たなし道 大山道おおやまみち 二里」と刻まれており、道しるべも兼ねていました。往来の多かった道沿いの延命地蔵のありかたを示しています。現在も地域の方々によって信仰が続いています。
 http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/
rekishibunkazai/bunkazai/bunkazaishosai/b059.html


延命地蔵尊は今から約170年前(文政年間)に建之され、当所に移築されましたのは、今から約80年前のことです。当時は江戸五街道の一つ中山道を通行する旅人がここで必ず一休みされました。
当地で死亡した人馬の霊を供養するために建之されました。
http://sugamo.or.jp/promenade_index.html


元禄、宝永、天明、天保期と続く飢饉に加え、疫病が蔓延して連日のように瀕死者が相次ぐなか、当院の檀信徒たちは大仏殿に籠り、熱心に祈祷すると、大仏様はたちまち玉のような汗を流し、人びとの祈願に応えるかのように、大仏殿にお籠りををした人たちは誰一人として罹病しなかったと言い伝えられ「汗かき地蔵」と呼ばれています。また戦争中、出征前に大仏様にお参りした人たちは無事に戦地から帰ることができたことから「弾丸よけ地蔵」とも呼ばれています。
http://shoubouin.com/%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF/
%E4%B8%88%E5%85%AD%E5%BB%B6%E5%91%BD%E5%9C%
B0%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9/


●様々な災害からの延命を望んだのが延命地蔵


延命地蔵は全国各地にある。それは何のためかというと自然災害、病気、安産の願い、子育ての願い・・・そうした庶民の切なる願いがあり祈りの場となった。民話とか伝説には当時の現実が反映されている。


昔、誤って幼子を溺れ死なせてしまった乳母が、この橋から身を投げたという伝説があり


乳母というのは江戸時代辺りは奉公する武士の家やその他普通にあった。それは一族の結束を固めるものとして武士の家ではあえて乳母をその跡継ぎの子の養育をまかした。その乳母となった家ではその子を我が子のように思うようになるからである。最近でも乳が出ないと親戚のものが乳母になっていた人がいた。乳がでないということも牛乳などないから深刻だった。飯館村の佐須村には畑に乳神の碑が畑にあった。あれだけ辺鄙な所だと乳がもし出なかったら子供が死んでしまうだろう。
だからあの乳神の碑には生活の重みがある。佐須という辺鄙な所だからこそその価値が高いのである。

延命地蔵という名前自体が何かその願いが集約されている。人間は様々な自然災害であり病気であり安産の願いであり子供がたくさん死んでいた。だから子だくさんになっていた。自分の母方の実家も八人生んで半分死んでいるとかある。子供が死ぬことが多かったのである。延命地蔵とはまさに人間が長く生きられない時代が長くつづいた。延命することが願いになっていた。その延命は自然災害や病気や貧乏で死ぬ、飢饉で死ぬものも多くそれが願いとなった。延命地蔵はそれだけ全国に多い理由がわかる。また街道の道標となっていた。馬頭観世音があるのも馬や牛を供養したことでもわかる。街道でも馬を使うとすると途中で死ぬ馬もいたからである。


●南相馬市原町区金沢地区の延命地蔵は津浪から残ったので新たな価値が生まれた

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皇大神宮


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皇大神宮(こうたいじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。伊勢の神宮の2つの正宮のうちの1つである。

これはお伊勢参りなどがあったからここにも祀られていた。戦争のとき延命地蔵に祈ると死なず帰れた人が多かったとかも伝えられるのは国家と関係もしていた神だった。


秋葉山


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秋葉大権現(あきはだいごんげん、現在の秋葉山本宮秋葉神社を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない


水天宮


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仏教の神(天部)である「水天」の信仰は、神仏習合時代には「水」の字つながりで「天之水分神・国之水分神」(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)と習合していた。ミクマリノカミは本来は子供とは関係なかったと思われるが、「みくまり」の発音が「みこもり」(御子守り)に通じるというので「子育て」の神、子供の守り神として信仰されるようになった。


山神


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これに上に小牛田と記されてあり小牛田が山神信仰の基となっていた。ではこれは何を祈ったのだろうか?

また、山の神はたくましい女性で、次々と一二人の子どもを生んで丈夫に育てたとも言う。山の神の縁日が十二日であり、彼女を「十二様」というのはこのことに由来する。

 この由来で、山の神はまた、お産の神として厚く信仰されている。山神はすなわち産神でもある。当地方で妊娠・安産の神として有名なのは宮城県小牛田の山の神である。以前は、当地方の村々の嫁御や主婦たちは「産神講」を結んで、小牛田の山神様に月参りをしたり、または、月の十二日に講の宿の床の間に「産神」の掛軸を掲げて礼拝していた。いわゆる「産神講」である。
http://sca.core.ac.jp/kamurorenpo/?p=105


馬頭観世音


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近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。このような例は中馬街道などで見られる。なお「馬頭観世音」の文字だけ彫られたものは多くが供養として祀られたものである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%A0%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3


延命地蔵というのは庶民の切なる願いが集約されたものだった。しかしあそこの延命地蔵は今まであることすらわからなかった。家にさえぎられて見えなかったのである。相馬地域でも狭い範囲にしてもわからないことが多々ある。あの延命地蔵は津浪で新たに見直された。津浪という大自然災害が生き残った、まさに延命したということで霊験あらたかだともなる。どういうわけか神社が津浪から逃れたのが多かった。それは比較的高い所にあったからだ。烏崎の八龍神社はあれだけ高い所にあったから海岸に接していても残ったのである。階段が急だからあそこに上るのは一苦労であった。でもあそこに逃げれば助かったのである。なぜあんな高いところに建てたのか謎である。神社の由来はわかりにくいのだ。八龍神社は水と関係しているともいう。それでも何が由来なのかわからなくなっていた。烏崎村は壊滅した。金沢地区も延命地蔵のある所はほとんど壊滅した。その前には二軒しか家が残っていない、延命地蔵の前には家は集中していたのである。
でも津浪からまねがれた延命したということで別な価値が新たな霊験が生まれたともなる。

あそこにあれだけ古い江戸時代のものがあるとは思っていなかった。江戸時代のものがあるときそこは江戸時代から生きた人たちがいたから貴重である。津浪で壊滅したけど延命地蔵はまるでその村の根っこのように残っていたのである。

延命地蔵というとき現代はこうした庶民の願いはすべて変わった。病気は医者であり火事は消防であり馬は車に変わった。だから庶民の切なる願いは医者頼み病院頼みとなった。安産でも子育てでもそうである。ある意味でこれらのもっている価値は失われたのである。延命地蔵に願うより科学信仰でありお医者様信仰であり病院に頼るのが現代である。
そして今では延命治療はやめてくれ、早く楽に死なせくれというのが庶民の願いとなった。それでぽっくり地蔵の方が人気が出たのである。
庶民の願いも時代とともに変わる。ぽっくり地蔵は全国ではかなり少ないが延命地蔵は多いのこともそれを示している。


それでも津浪のような災害は予測されていなかった。だから原発事故でも津浪の災害でもやはり科学を越えたものがあり神に祈るという行為は廃れるものではなかった。ともかく延命地蔵は明かにあそこの村の中心としてあったのだ。今まで注目しなかったが津浪で注目されたものが多々ある。金沢の延命地蔵もその一つだった。
「津浪延命地蔵」とかなるのが今回の津浪で生まれたのである。

posted by 老鶯 at 11:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

抽象画(縄文人の宇宙)


抽象画(縄文人の宇宙)


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蟹座宮

これは蟹に見える



縄文人の紋様の不思議があるけどここからわかるように実際はパタ-ン化されている。
縄文人の世界観が紋様に現れていたのである。
その時代にパタ-ン化する様式が生まれたのはその時代を象徴していたのである。
縄文人の生活や精神構造はパタ-ン化しやすいものだった
現代のように混沌としていないから同じ様式となり同じ感覚を共有して精神も安定していたのである。
万華鏡でその紋様かパタ-ン化されているのを発見した。

パソコンではエッセンシャル4で印象派様式の絵に転換できるのもパタ-ン化したのをコンピュ-タ-で解析したからできた。
新しい様式でもパタ-ン化すると一般的に利用できるようになる。

この絵の原画はいろいろに変えられた。縄文風の紋様の抽象画になっていたからだ。
だからこれはその原画を加工したものだから著作権に違反するかもしれない
その絵の一部分も万華鏡で加工したからである。

こういうふうにもなるんだよという一例である。

パソコンでし抽象画はいくらでも変化させられるのである。