2013年06月10日

原野と化した津浪の跡(短歌十首) (夏の日に海老浜-八沢浦-松川浦をめぐる)

 

原野と化した津浪の跡(短歌十首)

(夏の日に海老浜-八沢浦-松川浦をめぐる)

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海老浜-この両脇に家が並んでいた

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車輪梅

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大きなとんぼが飛んでいたのは驚き

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トオスミトンボやオタマジャクシなどがすむ


松川浦から相馬市へ

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和田

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クロ-バ-匂いの強く夏の海
和田に来て船の泊まるや木陰かな
街中に光のまぶし夏柳
黄菖蒲の田の面に写りまちばばし


朝日さし黄色の夏菊映えにけり浜風そよぎ燕飛び交う

夏の花眩く咲きて沖に船釣り津浪の跡に風吹きわたる
津浪跡松の赤くも枯れゆかむここに死ぬ人時は過ぎゆく
海鳥の高くさえづり夏の朝浜風吹きて沖に船見ゆ
津浪跡沼の生まれてトオスミの命かすかやここに育む
津浪跡沼の生まれて生き物のをここに育む夏の日まぶしく
新にそ生まれし沼にオニヤンマ勢いよくも飛びにけるかも
人絶ゆも自然の営みつづくなり花々おおい悲しみつつむ
百間橋長きをわたるそよぐ風松川浦より涼しかりけり
宇多川の河口に葦のそよぎつつ蟹のひそむや浦波よせる


一面にクロ-バ-の原野になってしまった。海老の道の両脇には家が並んでいたがみんな消えてしまいクロ-バ-が咲き満ち都草が咲いていた。菖蒲も咲いていたがあれは庭に咲いていたものだろう。
家がないから海が視界に全面的に入ってくる。沖に船のゆくのが見える。風が原野にふきわたってくるのはまさに北海道の風景である。海老浜は車輪梅の南限の地として有名だった。車輪梅は咲いていた。黄色の菖蒲も咲いていたし夏の小さな黄色の花が一面にまぶしかった。だんだんこんな風景が見なれるとここに人が住んでいたのかとなってしまう。ここは土台が残っているから人の住んだ痕跡が残っている。しかし八沢浦には海岸沿いは残っていなかった。何軒かあったがみんな流されてしまった。そして沼がいくつか生まれていたのも不思議である。オタマジャクシもいたしトオスミトンボもいたしオニヤンマが勢いよく飛んでいる景色は不思議としか言いようがない、北海道にはこうした原野が多いのだ。草原とか北海道化したしまったのだ。


何か大きな鳥が海から飛んでくる。それがいかにも生き生きしているというのも不思議である。つまり原野化して野生の生き物が生き生きとして現れ見えたのである。またこんな事を書いているとここで無惨に死んだ人のことを考えないのかと言われる。あの枯れた松の下では子供も死んで墓標があったがなくなった。時間がたつにつれて松も赤く枯れてきたからあれは枯れてしまうのだろう。
八沢浦の沼になったところには数軒の家があったが家は少なかった。だから海老や烏崎村のように無惨さを感じない、それでもそこで被害にあった人は家族をなくした人は悲しんでいるだろう。
全然違ったものとして見るだろう。でも原野化するということは自然にもどることでありそれは風景としては悪いものではない、美しく花々におおわれてしまう景色はその悲しさをおおってしまうのだろうか、忘れさせるのだろうか?

これが多賀城市とかなると家が工場とかも密集していたから原野化しない、都会だと家が密集してビルもあり工場もありとそこはこんなふうに原野化しない、汚い人工のものが残るのである。
だから東京みたいなところが一旦大災害になると地獄絵図になってしまう。神戸の地震のうよに無惨なものとなってしまうのである。ビルが倒れ道路が壊れ家がぐちゃぐちゃになり地獄の業火に焼け出された風景はすさまじかった。津浪も地獄絵図だったが原野にもどったときそういうものは家族や家を失ったものは違っても他の人はそういう地獄絵図は忘れてここでは感じなくなるだろう。

なんだか気持ちいいなとかなってしまう。これも不遜にはなるが偽らざる気持ちだからどうしようもない、花々におおわれ沼がうまれ自然の生き物がもどってきている光景は不思議である。
こんなこと生きている内経験するとは思ってもいなかった。北海道に梅雨の時期にはいつも行っていたがここが北海道になるとは思いも寄らなかった。


松川浦の和田の方は奥まっていて静かであり趣があった。場所を帰るとまたちがって見える。和田の人と病院であった。あそこで牡蠣とかうなぎとかいろいろとっていた。放射能など関係なく食べていたという。牡蠣は確かにとったのがあった。松川浦は何がいいかというとやはり荒い太平洋の波を感じない゛男性的なものから優しい感じの浦になる。浦波がよせ浦風がよせる。それが穏やかに感じるのだ。それで八沢浦でも一回だけそうなった風景を見たから感動した。そこで死んだ人のことを考えろというのも家族を失った人から見れば不遜になる。でも津浪でも美をもたらしたこと、美があることは救いであった。故郷の景色をいろんなふうに太古の自然から見直すことになったのである。
想像で太古の自然をイメ-ジしていたがとてもこんな現実の太古の世界を見ることはできない、現実は想像を越えたものだった。


それから相馬市に来て田町通りの柳を見た。あの柳は見物である。そこから日立木にでて「まちばばし」をわたる所に黄菖蒲が田の面に写っていた。まちばばしという名がなにかいいのである。まちばというのを感じる不思議がある。なんかいろいろ変化がありすぎてみんな書くことができない、改めてまた書いてみよう。今回は俳句短歌を写真にのせなかった。各自あてはめてみるほかないだろう。

 
 
 


 

posted by 老鶯 at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年06月11日

因果はめぐる (カルマを断てないのはなぜ?-親と同じ人生を歩む不思議)


因果はめぐる

(カルマを断てないのはなぜ?-親と同じ人生を歩む不思議)


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因果がめぐるというとき必ず親の代からつづいているのだ。親の因果が子にめぐってくる。
これは迷信でも何でもない、数学のように確実なものである。避けようにも避けられない宿命としてみんな負わされている。


なぜ親が夫で苦労したものはその結婚した娘もその夫で苦労している
夫に苦労する運命にある不思議である。


因果がめぐるとしてもその本人はなぜそうなったとか気づいていない、因果は冷静になって客観的にみると見えてくる。ある程度偶然のいたずらでなく合理的に判断できることである。

ただ本人はなぜこうなっているのか?なぜ自分だけが不幸を負わされているのか?それで神仏に頼ったりする。でも神仏に頼っても解決しない、なぜか?
それはギャンブルで借金して困って神仏にいのるのとにている。
そんな勝手なことを誰も神仏だって聞いてくれないのである。
でも人間は勝手だから自分の不幸の原因を合理的に考えない
仏教には何かわかりにくいのだけど合理的に人生を考えるものがある。
一種の積み重ねられた人生の謎を問題を長い時間の中で何代もの時間の中で考えたのである。
それがインドに起こったということはそれだけインドではすでに数千年とか長い時間を人間が生きていたからその長い時間で人間はなぜこうなるのかということを思索して生み出されたのが
インドの哲学であり宗教だった。


つまりカルマという考え方もそうである。カルマ返しというのがあるのもまたそうであった。
必ず人はカルマを積んでゆく、カルマは因果はめぐるでくりかえされてゆく・・・
そういう例を身近で親族の中で見られる
カルマは決して一代で終わらない、その子に孫にとひきつがれてゆく、ただすべてが悪いものとして引き継がれるのでもない、一般的には悪いものとして引き継がれるのが多いのだ。

だからどこかでカルマをたちカルマ返しをしなければ延々とそのカルマは子孫に受け継がれることになる。

ある人は自分が母親に捨てられたと思い母親をうらんでいた、でも自分も施設に自分の子供をあづけるはめになった・・

親と同じような結果になった。そういうことが身近で常に起こっている。カルマが延々と人間の生があるかぎりつづいてゆくのだ。どこかで断とうとしても断てないのが人間のカルマなのだ。
だからカルマとは業でありキリスト教なら罪であり原罪だともなる。


親を批判して恨んだりしている子供も親になり同じ親になってるのだ!


そういうことは人間はあくことなく延々とつづけてきたのだ。だからインドのような長い時間を積み重ねたところではカルマの思想が生まれたのである。人に害を与えたらカルマをもつ、そのカルマをどこかで返さねばならない、そういうカルマをもったことになるのだ。一方で良いことをしたら善のカルマをもちその人に返ってくる。でもそれが自覚できない、だから恩を受けた人にもその恩をカルマを返さないからまだカルマを積むことになりカルマから脱せられないのである。

恩を仇で返すということもありそうなると二十三重にカルマを積み逃れなくなるのだ。
そして自分はそのことに気づいていない、自分はやることはやっている、非はないと思っているからこそ神仏に頼り祈るわけである。そういう身勝手が人間には常にある。

つまりカルマを指摘しても人は聞かないのだ、聞く耳をもたない、自分はやることはやっているとみんな思っている。もちろん恩も返していると思っているし第一恩すら感じない人もいる。
だからそれを言ってもなんにもしないしかえって必ず怒ったりするのである。

人は自分の非を認めないし罪を犯しても自分は悪いと思う人は少ない、反省したり悔い改める人は少ないのである。ただただ親でも他者の非を責める人が多すぎるのである。
カルト宗教団体ではたいがいそういう人が集まっている。
身勝手な人がいて神仏に祈り自分の勝手な願いを神仏に要求している。
そういうことを許すのは指導する人もただそういう身勝手な人たちを利用して自分たちの欲望を達成することしか眼中にないからどうでもいいわけである。


カルマの法則というときそれは数式のように確実になっている。だからインドの宗教は合理的宗教であり極めて哲学的なのである。ただやたらむずかしくしたのは僧侶階級が形成されて宗教の独占からそうなった。それで逆にあまりにも簡単な題目だけを唱えれば救われるとか日蓮宗や真宗が普及した。それは文字も読めない時代の人を対象だった。今は庶民でも文字は読める、だから合理的哲学的に探求する仏教や宗教が必要ともなる。いろいろわからないにしてもカルマということについては具体的にあまりにも回りにその具体的例がみられるから理解しやすいのである。
題目をやたら唱えてもカルマは消滅しない、カルマを理解してカルマを断つ具体的なも行動が必要になっているのだ。


カルマの法則は現実にある
http://musubu.sblo.jp/article/64859154.html

2013年06月12日

郷土史は一人一人の生きた人を語ること (自分の兄は集団就職で静岡で交通事故で死んだ)


郷土史は一人一人の生きた人を語ること

(自分の兄は集団就職して静岡で交通事故で死んだ)

 人間は死んでからその人について考えることがある。死んでみないとその人についてわからないことがある。家族でも死んでみないとわからないことがある。死んでみてその人のことがわかりありがたいと感謝するようにもなる。今になると自分は家のことを料理から家計から介護とあらゆることをまかせられるようになって苦しんでいる。それまでは全くこういうことはなかった。
 三食用意されていたしあとは何もしない、買い物くらいだった。だからどこに行こうが自由だし一か月旅に出てもそんなこと簡単にできたのである。今になると一日すら行けない、三食用意するのは自分だけしかいない、介護もしなければならない、あらゆることを自分一人にまかせられるようになった。それも家族を支えていた一人が死んだためだった。
 
 自分の家は複雑だから他人が理解するのがむずかしいだろう。ただ一人一人の人間にはそれぞれの人生があり死んでからふりかえるようになる。自分にも兄と姉がいた。どちらも死んでしまった。これもあまりにも複雑な関係だった。兄は父親が違っていて今の家で子供の頃五年間は一緒に過ごした。もしこの五年間を一緒に過ごしていなかったら兄という感覚もなかったろう。あとは事情があって原町の実家で五年間過ごして15才で集団就職して東京から静岡の方に住むようになった。
 そこで結婚したのだが離婚したりいろいろ問題が起きてトラック運転手になった。そこの勤め先で交通事故になり42才とで死んだ。今も思うとずいぶん早かったなと思う。その兄は原町の実家の墓に埋められている。その兄に一人の娘がいてその娘にはま娘がいる。死んだ兄の孫になる。東京に住んでいて一時は音信不通だった、10年以上そうだった。でも五六年前から家にも来てかかわるようになった。実際は関係しないと思っていた。その兄の娘も離婚していた。母子家庭だった。

 ただ今やこうして自分の家で残されたのは自分だけになった。それで実家の墓に埋めたのだからそこに兄の霊は眠っていることになる。兄自体は故郷には帰らないと常々言っていたけど故郷に帰って実家の墓に入った。しかし実家の墓は今は家もなく墓しか残らなかった。長男の人も入っているが家を出されたとか事情があり家を継がなかった。だから墓を守ってくれと言って死んでいった。
 やはり家への思いがあったからそうなった。人間は何かの思いを残してみんな死んでゆく。
 
 兄が交通事故で死んだときは静岡なのでそこまでゆくのに大変な思いをした。そこの運送会社では兄が死んだとき保険金がおりることで代理人として保険金をもらうおうとしていたみたいだ。
 だから兄は乞食のようにしてきたとかなんとか特別世話したとかそのことを延々と言われた。
 そして墓を作ってやるからとまで言われた。事情がわからないのでそうなふうになってしまうとこでもあった。それもあまりにも遠いし事情がわからなくなっていたからだ。交通事故になる前に離婚とかありそこでも大変なもめごとになっていたから複雑すぎた。それからやっと母が兄の遺骨をもってきて今の実家の墓に埋めたのである。自分もかかわったけどその時はそれほど直接かかわったわけではない、ともかく運送会社でいろいろ言われたことでいやになった。特別兄を世話したんだと延々と言われた。それは何のためがよくわからなかった。何にも死んだら墓をつくってやるとかなんとかいろいろ言わなくてもいい、普通はめんどうだから遺骨をもっていってくださいと言われるのが普通である。墓まで作ってやるというのも異常なことだった。それは代理人になり保険金をもらうためだったのだろう。ただ遠いこともあり事情がのめこめなかったのである。
 
 ともかくそんなふうにして兄は原町の実家の墓に治まっているから墓参りをしている。娘も孫と一緒にした。墓の不思議はそこに故人がなおいるという感覚になる。死んだ兄は孫いることは知らないのである。でも墓参りすれば喜んでいるのかと思う。一人の人間が生きて死ぬということは何かを語り何かの思いを残してゆくことである。そこには二七才で死んだ母の兄も埋まっている。結核で死んだのでこの人ももっと生きたかったろうなとか必ず思う。一行だけど二七才で死亡とあるときそこに無念が無言の内に伝わってくる。それは戦争で死んだ人たちも同じである。若くして死んだからである。死んだ人もそれぞれが何かを語っている。それを墓参りするとき後の人が思い出すのである。
 
郷土史というときそうした一人一人の人生ともかかわっている。有名な人ではない、郷土に生きた一人一人の人生が郷土史でもあった。集団就職というのはやはり当時の一つの大きな歴史であった。
その時、一クラスで半分くらいは高校にも行けず中卒だったのである。中卒が当たり前だったのだ。自分は大学まで行ったから恵まれていた。成績はまるでだめだったけど金があったから東京の私立大学に行けたのである。でも全然勉強もしなかった。勉強したのはかえって大学を出てからであった。中卒で油にまみれ工場で働いていた集団就職の同級生とはかなりの差があった。 自分は相当に恵まれていた。なぜなら大学出たときから書斎すらもっていた。それから本を読むというより本の収集家みたいになっていたし旅行も自由にした。ただ海外旅行は50過ぎであり遅すぎたのである。
これだけは後悔している。早めに海外に行っていれば語学力もついたし見識も広くなっていた。
今どき海外を知らないでは笑い物になるし何も書くことすらできないものだったのである。

ただ人間の一個人の経験は極めて限られたものであり人生はまたたくまに過ぎてしまうのである。

今思うと人生とは何かとなれば何に時間を費やしたかで決まる。それは才能でもなんでもない、そもそも人間のもっている時間はそれぞれ限られたものでありあらゆることに使えないからだ。
天才であっても同じなのである。何に時間を費やしたかが人生なのである。だからカルト宗教団体に入っていたとしても創価でもそれは無駄だとは言えない、何であれ人間はどんなことでも経験そのものが限られたものしかできないのである。例えそれが間違ったことでも人生は一回きりであり経験できないのである。旅に費やした時間だったから自分の人生は旅だったともなる。


とにかく兄の人生も一つの郷土史なのである。他にも個々人の人生が郷土史となる。やはり集団就職というのは自分には当時わからなかったが一つの大きな時代を象徴していたのだろう。一五才で親元を離れ働くということは容易ではない、そこで兄も苦労して頭がはげたというのはそのためだったろう。他人の家の飯を食うとういことは苦しいことだった。それは丁稚奉公にもにていたのだ。
自分の父親は葛尾村(かつろうむら)から酒屋の丁稚奉公に双葉の新山に出たのとにていたのだ。

中卒が当たり前であり尋常小学校出たというのが普通だった。なんとか読み書きはできたというのが当時の教育だった。母も原町紡績工場(原紡)で働き東京の女中をしていた。その頃養蚕が盛んであり製糸工場と女中が女性の働き口だったのだ。家事が機械化されていないからどうしても人手が必要だったのである。だから金持ちでは二人くらいの住み込みの女中を雇っていたのである。だからその時は在宅介護も女中がしてくれたからできたという。それは金持ちの家だけだったのである。つまり機械ではない、家事を住み込みでしてくれるのだから家族と同じでしり介護もしやすかったのである。今は女中とか家でと働くということはなくなったのである。だから家に入ってきて働く人はそういう時代でないから危険極まりない時代になったのである。女中という言葉自体差別語になって廃止されたようにそういう使い方はできない、すればかえって金持ちでも手痛い目にあうしそういう待遇はすでにできない。雇われる人も全く違った感覚になっている。財産をねらわれもっていかれる。昔の人は働く場所がないのだから働き場所として女中という職業があった。今は女性の働く場所はいろいろある。だから家に入って働くような人はまれでありそこに危険がましているのだ。それも時代だったのである。


歴史をふえかえれば今になるといろいろ解釈ができてくる、女工哀史についても今はいい面と悪い面が語られる。貧乏だから製糸工場で働くことは白い飯が食えるから良かったという人もいる。
つまり飛騨の山奥の農村ではまともに白い飯も食えなかったのである。それは東北の貧しい農家の人が白い飯食べられるということで兵隊にまでなったということとにている。今から当時を考えるとき必ず何かしら違った謝った見方が歴史を考察するとき必ずあるのだ。


たいていの女工は13〜4歳で小学校を卒業すると7〜8年の年季奉公で製糸工場に働きに出たそうです。
製糸工場での労働は現在とは比較にならないほど劣悪な環境で、労働時間は14〜5時間にも及び、蒸し暑さや悪臭などが漂う工場での労働は生半可なものではなく、また逃亡を防ぐため工場には鉄製の桟が張られ、宿舎にも鉄格子が付けられるという監獄にも近い状態だったそうです

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483480944

女工は13〜4歳で小学校を卒業すると・・・というのは集団就職とにていたのである。でも女工がすべて過酷だったとも言えない。母は女工だったけど他の人も女工だったけどそんなに苦労したとも言っていない、かえって現金収入になって親に喜ばれたとも言っている、女中でも金をもらえたから良かったとも言っている。その頃女性で現金収入なることは良かったともなる。女性の働き口が生まれたということ自体、百姓以外で生まれたことが近代化でもあった。女性の働き口は農業しかそもそもなかった。機織りなどはあっても多人数が働く工場などはなかった。でも製糸工場で生産された絹織物がアメリカの女性の贅沢品として使われその外貨で軍事費を増大させて太平洋戦争になったとなれば女性の労働が戦争に使われたともなる。ただ歴史はいろいろな見方があるから一つの見方にこだわるのは偏りを生むのである。

 
 
 


 
 

posted by 老鶯 at 11:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

働かない人ばかりふえてきて社会地域の崩壊(続編) (原発避難者が非難されるのは金もって働かないから)


働かない人ばかりふえてきて社会地域の崩壊(続編)

(原発避難者が非難されるのは金もって働かないから)


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働かない人ばかりふえると働く人への負担が比例して増大する

その働く人がへるのだから働かない人たちによって地域は崩壊する

 


地方の名産品を通販で取り寄せようとしたら、送料が価格と同じくらい高くてびっくり。
なかなか届かない商品を待ち続け、やっと鳴ったチャイムにドアを開けたら、超高齢ドライバー
が立っていてまたびっくり。スーパーの陳列棚からはモノが消え、資材が届かない建設現場
では工事が中断されたまま――。
http://osigotosokuho.blog.fc2.com/blog-entry-858.html
現代の社会の特徴は膨大な人が働かないで生活できることだった。それは例えば土地の効率化で生産性があがり機械化でも人手が少なくてすむようになった。だから少ない労力で品質のいい米が多く作れるようになった。農業でも昔のように全部人力でないから人手がかからない、それで働かない人もふえてくる。他でも工場でも機械化して人手のかからない社会を作ってきた。単純な仕事は機械化して効率化できる。ス-パ-でもレジを機械化すれば客が支払いできる。それをしている所もこの辺である。支払いもカ-ドですれば効率化できて人手を省くことができる。そういうことで4千万人が働かない人が生まれても社会が成り立っている。


ところがこの辺で起きていることは働かない人ばかり増えているからサ-ビスを受けられないという事態になっているのだ。チェ-ンのレストランでも時給1200円でも昼間でも働かないから支配人のような人が配膳していた。それは病院であれば看護師もたりない、医者もたりないとか介護士もたりないとか外部から応援を頼んでいる。建築現場で働いている人は外部の人であり地元の人は少ない、原発避難者は補償金がもらえるから毎日パチンコ屋通いであり東京まで競馬に行っていた人もいた。その人は老人ではない若い人だったのである。だから外部から来たボランティアとなぜ若いのに働かないのかと喧嘩にもなった。原発事故の周辺では多数の避難者が出てそういう問題が起きている。

補償金が大きいから働かなくてもいいとなっている。額がまた大きい、一家で百万とか百五十万とかもらっている場合もある。だから食費などは贅沢している。最近この辺で大熊の人が新しく家を建てたという。新築の家がかなりたっている。津浪で家を流された人たちも建てている。立派な大手のアパ-トも二軒たった。百人くらい収容できるかもしれない、これも地元の人が建てたのではない、だから外部から入って仕事している人が多いから長期滞在のホテルが何軒も建ったのである。


ただこうして一時的に外部から来た人が工事関係とかで働いていてもやがて工事が終わればいなくなる。そして変なのは浪江とか大熊でも他から来た人が家を建てて住むにしてもその人たちがみんな働く人とは限らない、大部分の人が働かないから非難されているのだ。避難者であっても原発貴族とか言われる。いわきで問題になったのは数が多いせきもあった。二万人とかが避難して毎日パチンコだ飲み屋だと遊んでいて地元の人は家も建てられないしアパ-トすら不足して若い人が困るとか病院も満員でこまるとかなり非難された。

つまり働かない人ばかりが大量に流入したとき金がその人たちがもっていてもいいとはならなかったのだ。金を使うからいいではないかというのが今までの常識だった。金を使うものが消費者が王様だったという社会だったのである。金さえありさえすれば王様になれたのである。でもその金が通用しなくなったらどうなるのか?誰かがその金で働く人がいればサ-ビスを受けられる。でもいなくなればサ-ビスを受けられないのだ。そういうことがこの辺で現実に起こっている。金を持っていても働かない人ばかり増えたらどうなるのか?金の価値はなくなる。金を出しても誰も働いてくれないというのが現実になってくる。人を使うことは極端にコストが高くなりレストランでも人がいないと廃業になるかもしれない、そういうことは他でも起きてくるかもしれない、金はあっても金が有効に働かないのである。


こういうことはここだけではない、人手不足が深刻になり配達する運転手もいなくなったときコンビニやス-パ-さえ成り立たなくなる。そして原発事故周辺では補償金がもらえるからと働かない人ばかり流入してくるのだ。今までなら家を建て人口が増えることは経済が活発化していいとかなっていた。でも働かない人々がまた増大してくるといくらその人たちが金を持っていても働かない人ばかりなのだからサ-ビスも受けられなくなる。高齢化社会で老人ばかり増えるのもそうである。介護者ばかりふえて介護する人も老人であり人手不足である。金がいくらあってもサ-ビスが受けられない地域となってゆく。だから金ある人は外に出た方がいいとなる。原発事故周辺地域でいくら金があるとしてもサ-ビスが受けられないとしたら金が有効に働く地域に家を建てた方がいいともなる。

金が万能であったが今やここではそうではない、金を持っていても働かない人ばかり増えたらその金は何の価値もなくなるのである。だから働かない人は来るなともなって当然だともなる。いわき市のように一軒経済が活発になっていいじゃないかという面があるがそれよりそこで原発避難者-貴族に働かせられることが不満になるのだ。あいつら補償金で家を建てている。俺たちは地元なのに建てられないとかなる。そういう不満が渦巻きいやがらせにもなる。


だからこの辺で起きていることは未来を先取りした地域となっているのかもしれない、金万能社会が崩壊する。これは昔の村の共同社会のようにもなる。金のために働くのではない、協働して村を維持する。俺は金があるから働かなくてもいいとはならないのだ。もちろん働くといってもいろいろあるからいちがいに強制はできない、とにかく働かない人ばかり増えることはその市町村は崩壊してゆく、放射能汚染もそうだがこれも深刻な問題である。ただまだ金が万能であり金の力に頼っている。それも頼れなくなるかもしれない、働かない人は来るなとなるかもしれない、金があっても来るなとなるかもしれない、その人たちのために働かさせられるのはいやだとなるのである。だから金があるからこの辺ではすべていいとはならない、こういうことはもしかしたら一つの資本主義社会、金万能社会を見直す切っ掛けになるかもしれない、これまでの社会が変わる契機になるかもしれない、地域通貨などの試みもあったが何かそうしたことが現実化してくる。金万能社会の終わりが近づいているともなる。

 
 
posted by 老鶯 at 19:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年06月13日

相馬藩の飢饉を救った移民と原発事故の危機の相違 (人口の三分の一減ったが移民が働き回復した)

 

相馬藩の飢饉を救った移民と原発事故の危機の相違

(人口の三分の一減ったが移民が働き回復した)

●移民は資産がなくても「労働力」に価値があった


津浪も原発事故も相馬藩の歴史をふりかえると大きな危機、相馬藩存亡の危機となる。時代があまりにも変わりすぎても同じ傾向はある。だから歴史をふりかえることは意味がある。相馬藩の危機は三分の一の人口が減ったのだからもう相馬藩を維持できないほどになっていた。その危機をどうして脱出したのか?それは移民政策だったのである。三分の一がへった人口の穴埋めが必要になったのだ。そのためで藩全体で人を呼び込む宣伝をした。その時の民謡を利用したので相馬民謡が全国に広がった。相馬へ、相馬へ草木もなびく・・とかなった。移民は九州の方からも来ていたし全国から来たのである。それで九州の福岡の地名とかが残ったのだろう。ただ江戸時代は移動自体が藩を出ることは禁止されているから危険なものとなっていた。それで越中の真宗の移民のそのときの苦労話が語られている。それではなぜそんな危険を犯してまでまたわざわざ困窮している場所にあえて移動したのだろうか?双方にそれなりの動機はあった。

江戸時代は戦前までは農業中心だからどうしても土地中心の経済になる。土地不足になると土地を求めて移住も辞さないとなる。そのことは戦前は満州に土地を求めてそれが戦争の原因になったり戦後もブラジルとかに移民があったことでもわかる。農業中心の経済は土地が求めるからである。

そして越中の真宗系の移民が今の原発事故の避難民と根本的に違っていたのは彼らには何ももっていなかったのではない、移民した人たちは老人でもないし働くために移民したのである。移民した人は相馬藩の欠落した村の建て直しの労働力となったのだ。彼らは確かに何ももっていなかった。でも労働する力をもっていたのである。相馬藩の土地は人口が減り荒廃したがその土地を回復させたのは移民の労働力だった。人間の価値は資産があるからだけではない、土地をもっていても土地を耕す労働がなかったらなんのかちせ出てこないのだ。それで地主制は戦後廃止されたのである。土地をもっていても労働しないものはただ働かせているだけのものは土地をもつ権利がないとされたのである。

「労働」にこそ人間の価値があった。だから「働かざるもの食うべからず」というマルクスの理論が根強く生き残る。武士も働かないから否定された思想も生まれていた。この思想は実際はやはり相当に人間の根本の問題として強烈にある。そういう思想は現実に根ざして具体的だから常に訴えるものをもっていた。土を耕す百姓から生まれた思想は学者が机上で考えていたのとは違う。血と汗がにじんだものとなるから訴えるものが出てくる。それは芸術にしても詩にしても言える。自分もそういうところに欠けているから批判される。


●農民の詩の力強さ


絶えず蹂躙されながらも
太く黒く生気に満ちて伸び上がる麦畑に
とても新鮮な空気を力強く呼吸して
自ずからわきわがる正義感に
がんじょうなこの体をうねらせて
おれは大樹のごとくじぃっと立って動かない
新しき生産者
百姓渋谷定輔
 (農民哀史より)

この詩ではそういう大地に根付いて生きるものの力強さを理屈なしで感じる。これは山尾三省などより力強い詩である。山尾三省の場合はどうしてももともとの農民ではないし都会民だったから何かこうした土着的な根っからの百姓とは違っていたのである。
この人は絶えず地主きことを批判していたのもわかる。それだけ労働が過酷だったのである。正直逆に労働が過酷だともう芸術もありえなくなるだろう。ただ労苦だけが延々とつづくのである。家事だけでも自分一人で全部やると相当な労働であり考えることすらできなくなるし絵を描いたりする余裕もなくなるのだ。

ただ人間の価値を作り出したのは労働である。家事でも自分で労働したときその価値がわかる。農業でも自分で土地を耕して野菜を一つでも作ってみればその価値がわかる。こんな苦労してできるものかとなり自分で食べてもありがたいとかなる。でもそれを他人に与えたとき他人は労働していないからその価値がわからないともなる。今やこれだけの多様な社会になるとモノが別に金を払えばいくらでもあるではないかとなりそれを作り出したり運んだりする人の労働を知り得ないのである。
地球の裏側からも果物などが入ってくるけどそれを作り出している人の労働の苦労は知り得ないのである。


ただ労働というとき現代は多様になっている。肉体労働は機械に代わり知的労働が重んじられる時代である。知的労働がコンピュ-タ-を作ったような人が新たな価値を生み出している。原子力でもこれは知的労働の成果だったのけど崩れさってしまった。労働というとき古い観念にとらわれている。
肉体労働の比重は極端に低下していても何か労働というと体を使う労働をイメ-ジする。
だから知的なものはまだ評価されないことがある。情報産業の時代、インタ-ネットの時代でもいくら情報を発信しても評価されないことがある。金にならないものはまた価値もないとされる。
知的労働もやはり労働であり生産者なのである。

ともかく相馬藩の飢饉を脱出したのは真宗の移民の労働のおかげだったということである。何故なら移民は土地でもいい土地は与えられていないから苦労した。草分けという農家に世話になりいろいろ苦労した。でもそれに耐えて相馬の土地に根付いたのである。そういうことが三陸の町で同じ様なことが起こっていた。外から来た人がボランティアだったのだがそこで根付いて暮らしていくといっていたが土地の人から本当にここで働き続けるのかと何度も訪ねていた。なぜならそんな回りも住まなくなってしまうよな土地に誰も住みたくないからだ。別にあえてそんな悪い条件の場所に住む必要もないのである。現代は移動が楽だからかえって地元の人もこんなところに住みたくない補償金もらえば外で住むとなっているのだ。江戸時代の意味はまた別なものがあったにしろやはりその苦労はなみたいていのものではなかった


●原発避難民は労働力もない金だけもっていても価値にはならない


つまり相馬藩の飢饉のときと今の原発避難民を比べるとあまりにも違いすぎるのである。補償金があるから原発貴族で毎日ギャンブルしている、それも東京まで行っているとか一体これは何なのだろうとなる。江戸時代の移民が見たらとても理解できないだろう。働かずに働かせる、避難民貴族になってるからだ。もちろん高齢化社会とかいろいろ時代の事情があるにしろあまりにも違いすぎる。
もはやこうした危機を乗り越える力も方策も地元にはない、そして国から東電から補償金だけをぶんどる、生活保護地域特区とかなってしまう。相馬藩の飢饉のときは移民は労働力で奉仕して相馬藩を建て直した。でも原発避難民は寄食者であり労働力ともならないから例え補償金をもらってもそれが相馬藩と福島県全体に貢献するプラスになるとは限らない、価値を生み出すものは必ずしも金ではない、労働が価値を生み出すからである。


今回の株の値上げや値下がりも実体の経済が反映していないからそうなる。ただ紙幣をすって金をふやしただけでは経済は良くならないのだ。ただ金を右に左に流してもうけるファンドなどはやましいものがあるというのはそのためである。銀行とかそうした株でもうけるものは虚業だというのもわかる。自分も株を買ったが金余りというのも株を買う原因になっている。でも金はその人の価値観に基づいて使うとき生きてくる。投資信託は他人任せだから何に投資しているかもわからないから金がどういうふに流れいきくるのかわからないのだ。投資する人もある会社を見込んでその会社を成長するために投資するというふうに変わっているというのもわかる。投資とは株で一攫千金のような宝くじとも違っていたのである。だから金をどう使うかの方がむずかしいというのもわかる。大金を使うことには相当な経験とかその人なり価値観をもっていなとできない、自分なら花とか好きであり庭作りに興味をもつからそういう投資はしてみたいとなる。そこには多少知識もあるからである。投資するにしてもその分野にまるで知識がないならできない、でもめんどうだから全面的に頼むだけになる。また実際に分野に知識をもつことは容易ではない、一朝一夕にはできないのである。


 

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2013年06月14日

「古池や蛙飛び込む水の音」の意味するもの(続編)


「古池や蛙飛び込む水の音」の意味するもの(続編)

 An old quiet pond‥
      A frog junps into the pond, Splash! Silence again.


この英訳は雰囲気を現すのに成功している。俳句を英語化してももつまらないものになる。
これが何が詩になっているのかもわからなくなる。あまりにも短いせいもある。
ただA frog ではない、one frogだということが実感としてわかった。


 今日例の溜池を通ると睡蓮の葉にのっていた蛙が逃げて飛び込んだ。その時その音だけが辺りにして静まり返った。この音は「古池や蛙飛び込む水の音-芭蕉」なのかと思った。これは一匹の蛙だった。蛙は睡蓮の葉にのり誰も見ていない、ただ睡蓮の花の開くのをみていた。

ともかく今日聞いた蛙が飛び込む音は一匹の蛙だった。何匹かの蛙という人もいるが一匹の蛙の音が飛び込んだあとも余韻として残ったから一匹なのがふさわしいだろう。そこにいる生き物の気配はなかったが蛙が飛び込んだことにより蛙がいることを知ったのである。あとは森閑として何も聞こえない池だった。その池は実際はあまりいい池ではない、自然のものではない、ただそこを毎日のように通るからよるのである。人間は関心をもつのはやはり日常的にかかわるところなのだ。遠くの世界はいいとしても忘れやすいのである。古池をdark old pondと訳しているのもあった。やはり古いとあり何か暗く淀んだ感じの池にもにあっていた。透き通ったきれいな水ではない、ただ池は濁ったのが多いからそうなる。
その池には藤の花がさわに咲きその影を写していた。今は睡蓮が咲いている。


藤の花影を写して古池に睡蓮開く季(とき)は移りぬ

古池に睡蓮の影写りつつ葉にのる蛙動かざるかな

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睡蓮と蛙と菖蒲(梅雨の俳句)
http://musubu.sblo.jp/article/69078752.html


つまり芭蕉は耳の詩人ともいわれ音にこだわった。なぜこれほど音にこだわったのか?それはとりもなおさず江戸時代の沈黙の世界だったからこそ音が深い意味をもっていたのである。「静けさや岩にしみいる蝉の声」こういう俳句もなかなか今では作れないだろう。何か常に騒がしい気分になっているのが現代である。なんらか音をシャットアウトする空間を作り出さないとそうした深い沈黙に反響する音は聞こえなくなったのである。


落葉してとおくなりけり臼の音(蕪村)


これは芭蕉ではないが江戸時代は物音することでそこに生活するもののを感じた。そういう微妙な音だけで生活を感じた。それはとりもなおさず辺りが沈黙の世界だったからである。現代のような絶えざる車の騒音洪水にさらされたらこうした感覚は消失する。現代はどこかで工事していて騒音がたえない世界である。どうしても機械は音がでるし機械の時代は騒音の世界になる。
それでも戦前でも山頭火が

音はしぐれか


などで音にこだわっていた時代がまだあった。日本人の感覚は虫の声に聞き入るように音に敏感だった。

元々、去来が作った俳句は、
『 山吹(やまぶき)や 蛙飛び込む 水の音 』 というものです。

山吹を古池に変えたのが芭蕉だった。俳句にはこうして連句となる、座の文化でもあった。 山吹と古池ではあまりにも変わりすぎていた。


古池や蛙飛びこむ水の音

蛙消え余韻深まる水の音


とか自作でもできる。蛙消えて音だけが残っていることが余韻を深めているのだ。それは人が死んだということにも通じる。人が死んではじめてその人のことがわかり余韻を深めるともなる。俳句はその人の観賞しだいで価値が決まるというのも本当である。作る人よりどれだけ読みを深くするか観賞できるかで俳句の価値は決まる。その作った本人にもわからない価値を見いだすこともある。
それだけ短いからそうなっているのだ。


この句がなぜこれほど関心があるのか?自分の観賞の文がこれほど読まれるのか?それはこの句が俳句を象徴した句であるからだ。この短い句に天地の静寂をよみとったのである。天地の静寂に蛙という一つの命の音の波紋が深い余韻となって心に残される。そういう深い沖の余韻は江戸時代には普通にあったからこそ読まれた句でもあった。


鐘の音や千年の都春の暮

京を去り鐘の音残る春深し


鐘の音で千年の都を象徴することもある。そもそも京都は寺が多いし歴史的にも僧侶の勢力によって支配されていた。それで信長が僧侶を敵と見なし殺したのはやはりそれだけ権力化していたからである。僧侶はすでに権力集団だったからである。権力集団であることはあらゆる権力が僧侶に寺に集中していたとなる。職人でも寺に雇われて繁栄していた。だから信長の安土城の瓦を作るのに観音寺を滅ぼしてその瓦を使った。観音寺は寺であっても立派な城だったのである。その城をまねて安土城を建てたという。 だからこそ京都を集約すると鐘の音にもなる。京都の鐘の音には千年の都の歴史の音になるから他で聴くのとは違ったものとなる。音にも歴史的にもそうだし自然的にも何か深い意味がこめられている。ただ蛙とびこむ水の音は極めて俳句的であり斬新であり新しい音の意味の発見だったのである。


 

睡蓮と鯉


睡蓮と鯉


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ぽっかりと口あき浮くや鯉三匹
睡蓮や鯉あどけなく顔だしぬ
睡蓮や鯉三匹浮き顔だしぬ


ゆうたりと鯉の泳げる優雅さや睡蓮咲きて波紋広がる

この池に睡蓮咲きてその岸に木陰のなして訪う人もなし
ゆうたりと三匹の鯉の泳ぎつつ急がざるかな睡蓮の咲く
赤と白睡蓮の影池写り夢心地かな調和し咲きぬ

夏菊の白より黄色に変わり咲く原町に来てまた帰るかな

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あそこの池にまた行った。睡蓮が咲き鯉がゆうたりと泳いでいて顔を出している。それがなんともあどけなくてんやされた。鯉は決して急いで泳いだりしないその泳ぎ方が何とも優雅なのである。それはまさに自然と調和しているからなんともいえぬ美を作り出す、水と調和して花に調和して回りの自然と一体となるのが自然の生き物なのである。人間は唯一自然と調和しない生物なのである。その点で人間は動物にも劣っているとなる。この池にいるとき脱世間になりここが天国のように思えた。

自分がここ6年間はまさに地獄だった。会ったのは地獄の人間だった。ただ苦しめられただけである。これほど人間は非情なのかとか悲惨だった。だから確かに津浪で無惨に死んだ人が多数いたけどこうした人間の残酷な非情さがありそのために神が怒ったとも思えたのである。勝手な見方にしろ何か人間は本当に金ばかりもとめて非情になってしまったのである。そういう人間界に対して無垢なる自然が怒ったということもあるかもしれないのだ。


原町というといつも不思議に思うのは相馬市と比べて感じが違う、自然まで感じが違ってくる。何か明るい新しい感覚がある。街の形成にはやはり歴史がかかわっていてそれが雰囲気を作り出している。原町はいち早く近代化した街だからそういうモダンな感覚の街になるのだ。相馬市はお掘りと石垣くらいしか残っていないにしろやはり城下町なのである。だからなにかしんみりとした古風な感覚になる。この相違は長く住んでいないとわからないだろう。千年の都、京都ならそれは外から来てもわかるがこんな小さな街ではわからないのである。ただ他の小さな街でもその特徴が一回くらい行ってもわからないだろう。やはり時間で積み重ねられた歴史がわからないのである。外国旅行になると特に歴史が長いからわからなくなるのだ。


睡蓮の赤と白のように夢心地に咲きたい、そういうふうに夢心地に咲いていることも人間にはないだろう。恋愛でもたちまち色あせて生活の垢がこびりつき争いとなり離婚が三分の一となる。つまり男女の仲も夢心地だったのはほんのわずかな時間だったのである。すべてが人間はたちまち色あせて汚れてゆく、今は金に汚れるのが一番多い、頭なのかが金、金、金、・・・しかなくなる。
人を見たら泥棒と思えは変わらなかったし今は人を見たら金と思えしかない、こいつからいくら金とれるのだとかしか頭にない、この辺もただ結局最初から原発の金をめぐってはじまり今も補償金でもめている。これも金、金、金だったのである。地獄まで金を追い求めているのが人間である。いお前もそうじゃないかとなるがある面ではそうである。でも年になると金より別なものが価値帯びてくる。普通に食べて着て住まいがあるならそれほど他に求めるものはなくなる。一番欲しいのは何かとなると信頼する人だったりものを見る目だったり時間だったりする。それらは不思議に金では買えないものだったのである。金を求めたが人生の最後になると金で買えないものが貴重になる。だからかえって金だけを求めたものが間違ったともなるのだ。

2013年06月15日

時間的思考から空間的思考(ググロ-バル化)の時代 (津浪で判明した時間的思考の無視が事故につながった)

 

 時間的思考から空間的思考(ググロ-バル化)の時代

 (津浪で判明した時間的思考の無視が事故につながった)


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●遊牧民は空間思考、農耕民は時間的思考
 
 人間には必ず二つの思考方法がある。一つは時間的思考方法であり縦軸型の定着的思考方法である。時間をたどる思考方法である。それは自分の親からその親へと先祖をたどる思考方法であり家族の歴史が誓書のように最初の歴史である。家族によって代々伝えられた歴史が基本的時間の思考方法である。これは固定観念を作りやすい、それは大地とか石とか樹とか山とか動かないものに視点を吸えるからである。日本は海に囲まれて固定観念を作りやすいのだ。狭い土地の中で移動しないから自然とそうなってしまう。他の国は陸続きでありどうしても外国の異民族との衝突をがさけられない、そこで外国の文化が入りやすい、日本は回りを海で囲まれているから閉ざすことができて鎖国ができたのである。それはあくまでも地理がそうしたのであり地理が歴史を作るということはどこでも同じである。地理には神の配剤がありこれにはさからえないのである。
日本は海に囲まれていたということでそれが大航海時代のような海に出るより海によって閉ざされてしまったのである。海が障壁となってしまったのである。

ともかく世界史を作ったのが遊牧民だというとき壮大なユ-ラシア大陸を生活の場とする羊を飼って馬と共に移動する民族がいたから空間的に拡大して世界国家を作った。最初の国家が都市国家でも遊牧民が作ったというとき、 国家というのは空間的要素も強い。広く拡大しないと広域国家は形成されない、国家の形成にはどうしても空間的拡大が必要であり空間的思考-グロ-バル思考になる。
遊牧民が航海民になったというのは納得がいく、大航海時代はユ-ラシア大陸を生活の舞台とした遊牧民の延長としてあった。そして国家の基は遊牧民が作った。中国の最初の国家は始皇帝の国家も遊牧民の国家だった。その場所をみればわかる。歴史を見るときその場所が大事なのである。そこは遊牧民と農耕民との境を接する場所にあった。今の西安が長安が首都だった。兵馬俑の大騎馬軍団が中国という広大な領域を移動できたからこそ最初の国家が生まれたのである。国家は広域的に形成されるからどうしても移動することが必要になる。その移動の手段がないと広域国家は形成しにくい。
それか馬であり地理的には黄河や揚子江だった。四大文明が大河の辺りに生まれたというのはそのためである。交通の要所に生まれたのである。たいがい栄える場所は交通の要所にあった。日本でも大阪などがそうであるしその前は博多などがそうであった。


●空間的思考から時間的思考も見直される時代


世界のグロ-バル化は遊牧民によって行われた。世界的ネットワ-クの世界である。最初のグロ-バル化は遊牧民によって行われ次のグロ-バル化は航海民によって行われた。現代のグロ-バル化はもう日常化した庶民レベルでのグロ-バル化であり世界的ネットワ-ク社会となった。グロ-バル化社会が当たり前となりその思考も常に空間的思考に常時なっている。IT時代ともなり通信技術の飛躍的進歩も加速した。江戸時代の情報世界とは比較できない、一万倍という情報に接しねばならない、頭を使う知識社会になったのである。いたるところで膨大な知識を必要とする社会になった。一見庶民に関係ないと思っているが仕事の面でも農業だけをしている社会ではない、花屋を開くにしても相当な花の知識が必要になる。日本だけの花ではない、世界的な花の知識が必要になっているのだ。グロ-バル化したグロ-バルな知識が必要になる。遊牧民が最初の商人に羊を飼って移動していた故になった。
グロ-バル化すると商業化して商業民族化する。中国も農耕民のようでも商業民族であり商売がうまいのである。イスラム商人も有名である。空間的拡大は世界を商業化する。現代はもうすでに世界が商業で結ばれているからギリシャが破綻したら大騒ぎになりキプロスの金融危機で一喜一憂と株をするものは気が休まらないのである。


こうしてまるでグロ-バル化が頂点に達したような感がする。その極端なグロ-バルで弊害も生まれてきた。金万能社会の疑問である。グロ-バル化すれば金の力が極端に増大して世界中がマネ-ゲ-ムとなる。今やエジプトの果てまでロバにのった少年がワンド-ラくれという時代である。それはアフリカの果てまでそうなっているだろう。ドルが世界通貨になっているのだ。そこに格差や様々な問題も生まれたのである。かえってグロ-バル化の弊害が顕著になった来たのだ。グロ-バル化はどうしても地域に時間で培われた文化を破壊するのである。料理でもなにもみんな牛肉を食べる必要はない、コカコ-ラも飲む必要がない。それぞれの国には文化があるからである。その土地を耕す文化がある。
それを無視することは破壊することは非情に危険なものとなる。歴史は確かに時間軸で培われたものと空間的グロ-バル化が交わり形成される。空間的拡大というのはモンゴルの帝国を見ればわかるように意外と楽にできたという面もある。でも一過性であり簡単に消えたというのも歴史の事実である。それは一時的なものとして終焉した。一方でロ-マ帝国が持続したのはなぜなのこだろうか?
一過性ではなかった。それはモンゴルとは違いロ-マ帝国を形成したのはロ-マを中心として文化がありその文化の優位性で異民族を従えたということがあった。建築でも何でも異民族との差が大きかったからである。モンゴルにはもともとそうした文化の優位性はなかった。インドには仏教文化があったがモンゴルにはただ移動に優位な馬を駆使する文化があっただけなのである。だから一過性に消滅したのである。


●神社は時間的思考の上に建てられていた


今回の津浪ほど衝撃的なことはなかった。一体これはなになのか?未だにその解答はないし日本の歴史を変えるほどの力をもっていた。津浪で見直されたのは時間的思考だったのである。なぜなら400年前に三陸ではない、宮城県の平野部や福島県にもあったのである。相馬藩政記には700人溺死とか一行しか記されていなかった。その慶長津浪のとき津神社がこの辺で12建てられた。しかしその由来も忘れられていた。津神社が津-波に由来している言葉だと気づいていなかったのである。そして多くの神社が津浪からまねがれた位置に立っていたのは津浪をさけるように建っていたのは何かしら津浪の記録があり伝えられて高いところに建てたというのも何か信憑性を感じる。烏崎の八龍神社は高いし津浪からぎりぎりで残ったのである。それを見たら本当に奇跡的だと思った。一方で八沢浦の妙見を祀った社は海岸近くにあり流された。これは明治以降に武士が開拓したところだから新しいのである。古い神社は比較的残り新しい神社は残らなかったとかもなるかもしれない、神社の由来自体が不明なものが多いのである。もともとの由来とは違ったものとして祭りが行われていたりもする。


烏崎の津神社は鯨の祭りをしていたのである。あれが津浪を記念した神社だと思っていた人は地元ですらなかった。それは時間的思考の欠如からきていたのである。現代はグロ-バル化していても時間的思考は欠如した時代になっていた。時間的思考、歴史的思考は空間的思考のように移動すればできるというものではない、時間的思考は長く定着していないとできない、時間がかかるのである。だから歴史を理解することはその時間で培われたものがわかりにくいから簡単に理解できない、例えば狭い地域でも相馬藩のような所でも理解しにくいのである。相馬藩は国替えがなかったから歴史が継続したから相馬藩政記を外からでも参考する人が結構多い、それでも地元の人でも歴代の殿様の名前であれどういう働きをしたかなど知っている人は特別の人である。殿様の名前すら知らないから庶民のことなどもほとんど忘れられる。つまり時間的思考がむずかしいのはすでに家族でも死ぬとたちまち遠い存在となり忘れられ抽象的なものにすらなる。庶民なら名前すら残ればいいとなる。


●地名も古代からあり時間的思考の上に名づけられていた


原発事故でもこの時間的思考、歴史認識の欠如があって事故になったとも言える。東北電力の副社長が岩沼に住んでいて津浪がそこまできたと伝説を聞いて女川原発を高くして作った。それは時間的思考を地元だからしていたから助かったのである。東京電力は東京でありそうした時間的思考をしていない、例えは最近の科学的発見で貞観津浪のことが地層からわかって指摘していたが無視された。
伝説ではなく科学的に津浪がかなり奥まで達していたことがわかったのである。そういう警告も全く無視された。つまり時間的思考の欠如が事故の要因ともなっていたのだ。例えは地名に着目した人もいた。地名は古代から縄文時代からあったという人もいて古いのである。すると標葉(しねは)郷という浪江の古代地名が何を意味していたのか?それは万葉集にもある禁断の地だったのである。するとここは縁起が悪いから建てない方がいいと土地の人が言ったら笑われるだろう。でもそれは時間的思考であり一笑にふされることでもないことがわかったのである。古代からあるのだから何かの意味があると時間的思考が欠如していたのである。グロ-バル化はそうして時間的に土地土地に培われたものを無視しやすいのである。特にアメリカはそうである。時間的思考そのものが歴史が浅いからしない、ただ広大な土地を征服する、空間的思考の国なのである。


科学技術の進歩は空間をグロ-バル化に結びつけたのだけど時間的思考は欠如して文化を破壊するからそこに様々な問題が生まれているのだ。原発事故でも企業はコスト-安全性-地域性というのが問題になる。地域性というときその土地を掘り下げた時間的思考であれその土地の歴史なのである。自然史もあるし人間史もある。その時間的思考は東京電力には欠けていた。グロ-バル化というとき空間的に無防備に拡大化する。ところが石油でもアルジェリアで日本の企業の社員がテロにあい殺害されたようにその地域にも昔から人が住んでいる歴史がある。そこはなにもない無人の荒野ではないのだ。石油さえとればいいという空間的グロ-バル的思考しかない、その地域に住む時間的思考が欠如するのだ。アフリカだってそこに資源があるから資源さえもらえばいいとはならないのである。グロ-バル化すると国内でもそうした地域の歴史とか時間的に形成されたものが無視されるのである。神社が津浪がまねがれたのが多いというとき神社はそれだけ古いからその土地の歴史があった。慶長津浪の記憶がありそれだ高台に建てられたということせありうる。だから空間的思考はその土地の長い時間で培われたものを無視しやすいのである。空間的に拡大することは飛行機でも今は一気にできるからだ。そこに大きな落とし穴があり事故につながったともなる。

 


 

2013年06月17日

飯館村の喫茶店の椏久里(あぐり)の思い出 (二年過ぎて飯館村を思う短歌十首)


飯館村の喫茶店の椏久里(あぐり)の思い出

(二年過ぎて飯館村を思う短歌十首)


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珈琲の香りの満ちて飯館の喫茶店の窓秋の蝶かな

飯館の喫茶店に入り秋日さし珈琲飲みつパンの味かな
人々のここに集いて様々に話せし日やそれもなくなりぬ
飯館に住みにし人の様々に思うことあれ二年のすぎぬ
飯館に住みにし人の何思ふ思いで深く帰れざるかな
嘆けども仮設暮らしの身につくや飯館は馴れ二年のすぎぬ
故郷は遠きにありて思うもの思い出深き暮らしなるかも
庭広く花々映えぬその家も人の住まずに夏も淋しき
川俣に来ればここに暮らしあり古き農家に春の日暮れぬ

川俣に別れし道は山木屋につづくとあわれ春の日暮れぬ

飯館村に行けばよる場所というと椏久里(あぐり)という喫茶店しかない、あそこは単なる喫茶店ではなかった。特製の自家製のパンを作っていたのである。それがおいしかったのである。飯館村だったらとれているのは米だから米パンでもいいかなと思うがやはりパンは麦でないと味が出ない。
飯館村では外からもあの店にはよっていた人が多い。だから今になるとあの店は価値があったなと思う。この辺で起きていることは未だに信じられないことである。津浪で村ごと消失するとか原発事故で町や村がなくなるなど想像もできなかった。そしてもう二年もすぎたのである。

仮設暮らしも二年すぎるとそれなりになれたということもあるかもしれない、しかし不思議なのは飯館村で暮らした歳月は長いしそんな簡単に忘れられるものではないだろう。他でもそうである。

そこに暮らした時間が長ければ長いほど思い出は深いものとなる。だから仮設暮らしの人々がどんな心境でいるのか不思議である。いくら自分がその代わりに短歌にしてみても本人の思っていることはまた違っている。飯館村の特徴はみんな一軒家でありそれも森につつまれていて庭も広々としていた。人間の住まいとしては理想的だったのである。だからそういうところから仮設とか都会に暮らすとその相違が大きいのである。広々とした家や庭やその回りは森につつまれている。そういうところから都会や仮設で暮らすのはあまりにも違いすぎるのだ。

思い出というときそれは今生きている人だけではない、飯館村は江戸時代からの歴史があるからそこに生きていた人たちは死んだ人の思いがこめられている。飢饉の時は苦しんだからその人たちの苦しい思い出も残されている。そういう思い出が失われることはどういうことになるのか?
葦が茂り原始の状態に還るのかとなると一旦人のすんだ所はそうはならない、人の思いがこもった場所だからそうなる。もし原発事故で人がすまなくなった町村はどうなるのか?過去は忘れられる。そこに人が住んでいれば過去を思い出すことができるがその土地を離れたらできない、その土地と共に思い出が歴史が刻まれているからだ。


いづれにしろ時間がすぎて価値がでてくるものがあり一旦失われて価値がでてくるものがある。思い出というのはそういうものである。その時
はその価値がわからないのである。青春などもたちまちすぎてしまう。その時はしかしその価値がわからないのである。そしてものの価値は思い出はその場所とともにある。場所が意外と大事なのである。椏久里という喫茶店は飯館村という山村にあったことが価値があった。都会にあったら他の喫茶店と変わりないだろう。福島市に古民家を改造して再開してもそこには場所の価値がないのである。相馬市の花屋のことを書いたけどあそこも場所の価値があった。駅前の店は前は場所の価値があった。今でもス-パ-は便利でもモノを買うという価値しかないのである。


啄木の短歌の特徴は故郷であり何でもあれつまらない日常的なことが何か人生で貴重なものになった。それが彼独特の天才的感受性で短歌にしたのである。それはすでに15才のときにできたのだから天才だったのである。そして27才で死んだからすでにその時60才くらいの心境になっていた不思議があるのだ。故郷のことでもあれだけ思い出深いものになった。故郷は遠くにありて思うもの・・まさにこの辺の不思議は住んでいた場所から離されたからそうなってしまった。いろいろなものを見直すことになったのである。それは一人一人また思い出があるからわほからないにしろ一旦長く住んだ場所を離れたらそのことを思い出深いものとして見直すことになるのだ。


だから椏久里(あぐり)という喫茶店はもう二度とあそこでコ-ヒ-が飲めないのだから思い出だけになったから不思議であり価値が大きくなったのである。なぜなら人生でも青春が失われれば老いれば二度と帰ってこないと同じなのである。その時は二度と帰ってこないのである。二度と帰ってこないものはそれだけ価値が大きい。もう二度と経験できないからそうなる。つまり椏久里で飲んだコ-ヒ-にしろパンの味にしろそれを味わうことができなくなったのである。福島市でできるかとはできるが飯館村の場所で味わうコ-ヒ-の味とパンの味は違っていたのである。その場所が味を深めていたのである。

 いづれにしろ川俣にでると暮らしがあったが飯館村にはもうない、その相違が大きいのである。
 暮らしがあってこそ思い出がありうる。その暮らしもまでいな暮らしとか目指していた。
 所得も福島県では一番低いものであった。だから原発マネ-は入っていなかったから飯館村は悲劇の村になった。ただ警戒区域になっていないから人が入れるので他とは違っている。
 全く無人の村とも違っているのだ。ただこれからどうなるのか?
 やはり人が帰って住む人もでてくる。でも前のようにもどることはないのか?みん,な模索中でありわからない、ただ一旦離れてみて思い出が深くなりその価値を見直したということはある。
 つまり当たり前であったものが実は金では変えられないような価値があったということがあるのだ。いくら補償金をもらってもそうした価値は金ではとりもどせないことがあったのである。
 
 
 盛岡の中学校の露台(バルコン)の欄干(てすり)に最一度我を倚らしめよ


これとにていたのが椏久里(あぐり)だったのである。啄木には啄木調が作ったから独特だった。芸術でも印象派という手法が生まれたときそれは芸術の新たな分野が生まれた。そういうことができるのはやはりどんな分野でも天才なのである。でもそのあとにそれをまねする人が普通の人でもでてくる。ともかく啄木の短歌は60才以上の老境になって作れるものであった。だから凡才である自分でも今になって啄木調の短歌が作れたとなるのだ。

posted by 老鶯 at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2013年06月18日

蟻が甘いもののためにいなくなったわけ(童話)


蟻が甘いもののためにいなくなったわけ

夏になりムンムンとして湿気も出てきた。この家の主人は今90才になる母親を介護している。それで家事も全部一人でやっているから毎日が仕事に追われ忙しい。料理もしなければならないし掃除もしなければならない、食器も洗うのも手間である。リンゴの皮をむいたり、飲み物がこぼれたり、お菓子を食べたものが散らかったりとそこらじゅう甘いものがあった。
そこに蟻がいつも湧くようにどこからか集まってくる。
「ああ、きょうも蟻がたかっている、この蟻はどこからくるんだ、殺しても殺してもやってくる、
しつこいやつらだ」
そこで虫殺しスプレ-でいつものようにシュッシュッと吹きかけて殺すのが仕事となっている。
そもそも小さな狭い庭でありそんなに蟻がいるとは思えない家だった。
その蟻たちは蟻の巣で仲間と話していた。
「甘いもの向こうにいくらでもあるんだよ、いくらなめてもなめきれないよ、この狭い庭じゃ何もないよ、本当に限られたものしかないよ、延々と探してもたまに虫の死骸が見つかるとかな・・
わずかなもしか見つからないんだよ、遠くはなるがあそこに行けば甘いものがふんだんにあるんだよいくらでも甘いものにありつけるんだよ」
「そんなに甘いものがあるのか」
「あるというもんじゃないよ、もうそこら中あまいものだらけだよ」
」へえ、そんなにあるのか、俺も行ってみよう」
「俺もだ」
こうして蟻は甘いものにあるところに毎日のように出かけた。蟻にとってリンゴの皮一枚でもあめきれないほどの蜜の宝庫だった。他にもこぼれた飲み物の甘いものがいくらでもあった。菓子の屑などもあり甘いものはあまりにも過剰にあった。
そこの家の主人は今日もその蟻に困っていた。
「今日も蟻の大群がきたな、どうしてこんなに湧いてくるんだ、殺しても殺してもきりがないやつらだ」
こう言って虫殺しスプレ-で日課のように殺していた。
しかしそんなことをつづけているうちに蟻の巣で仲間たちが話ししていた。
「なんだか変なんだよな、仲間が巣に帰ってこないんだよ、毎日甘いものが一杯あるところに行くとみんなぞろそぞろ行くんだけと帰ってこないんだよな、このままじゃ巣がからっぼになってしまうよ」
「本当だよな、こののままじゃ巣はなくなってしまうよ」
「なんとか甘いものが一杯あるところに行くなととめるべきだよ」
「とはいっても甘いものにはひかれるからな、とめられないんだよな」
「そんなこといったってとめなきゃ巣はなくなってしまうよ」
こんなことを小さな狭い庭の中の巣で話ししていた。
「おい、今日は甘いものが一杯あるところには行くな、帰ってこれなくなるぞ」
「何を怖がっているんだよ、甘いものが欲しいんだよ、俺も行ってみるぜ」
「帰ってこれなくなるぞ、殺されているかもしれんぞ」
こう言っても無駄だった。甘いものの誘惑はおさえることができなかった。
こうしてそこの狭い庭の蟻の巣には蟻がいなくなり巣はからになり消滅したのである。
今も蟻は玄関の前の所に長い蟻の道を作っていて行進していた。
ただそこは甘いものがあるところから台所からかなり遠いのでそこまでは行かない、今は蟻がいたるところに活動している時期である。
ここの主人がその玄関に花を買って飾った。蟻はその前に蟻の道を今日も行進している。


この童話の自分の説明した評論です


過度な富の呪い
(文明も過度な富を求めた結果呪いがあった-原発事故もそうだった)
http://musubu.sblo.jp/article/69616306.html
posted by 老鶯 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 童話