2013年05月27日

藤の花と菖蒲(相馬市へ-蛙は人間と一体だった)


藤の花と菖蒲(相馬市へ-蛙は人間と一体だった)


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草原に燕交差し夏雲雀

この道や夕べ日影に藤の花
天守なし六万石や蛙鳴く

人のなお交わる夕べツツジかな

長々と紫と白の藤の花垂れ咲き農家の庭の広しも
城跡に藤の花かな夕日さし白きつつじの映えつつ暮れぬ
紫の菖蒲の堀に写しつつ我がより歩み相馬市暮れぬ
女子高生そぞろ歩みぬお掘りばた菖蒲の咲きつ夕暮れぬかも

藤の花風にそよゆれ事もなく夕べ静かにこの道帰りぬ

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南相馬市で田畑が草ぼうぼうなのは田んぼの場合、区画整理が進まないからだと言っていた。日本の田んぼは細分化して所有されているから区画整理するのに時間がかかる。別に田畑を作るなということではなくなったのか?何年かは禁止されていると思った。5年間は作れないと農家の人が言っていたからだ。ただ補償は南相馬市は避難した小高地域くらいしかないのか?耕作する許可はすでに出ているのか?

ともかく南相馬市と相馬市は一番の相違は田が南相馬市にはない、草茫々になり草原化している。そして蛙が鳴かないから相馬市に行くとその違いをいつも感じるようになった。日本で蛙が鳴かない、蛙の声を聞かないということは意外と大きな変化だった。蛙はもはや単なる蛙でなくなっていた。

人間と密接に通じあった蛙だったのである。蛙などいなくても食うに困るわけではないとかみるものもいるだろう。でも蛙は田を人間が作り出したとき蛙もその田に棲むようになった。その歴史が長いから理屈ではない、奥深い精神で一体化していたのである。だから斎藤茂吉の短歌が生まれた。
蛙の声が死者を送るとまでなっていたのである。それほど蛙は蛙の声は人間と一体化していた。
これはおそらく蝉でも同じである。蝉の声が聞こえなくなったらどうなるのか?


それも蛙の声が聞こえなくなくなるのとにている。「静けさや岩にしみいる蝉の声-芭蕉」蝉の声は岩と一体化してあり芭蕉は死んでも蝉の声を聞こうとしていたのである。だから「やがて死ぬ景色見えず蝉の声」の句ができた。そもそも蝉の声にこれほどこだわることがわかりにくい、それは蛙の声が聞こえない世界がどういうものか知るとわかる。相馬市に行って蛙の声を聞くとなにかほっとするのだ。それは理屈ではない、奥深い心で共鳴するなにかである。人間にとって蛙の声とか蝉でも欠かせないものとしてあった。蛙でも蝉でも他の動植物でも当たり前にあるから意識しないのである。
それは当然そこにあるべきものであり意識しない、でも一旦当たり前にあるものがなくなるとき意識するのである。家族でも当たり前にあるときは意識しない、死ぬと意識するようになる。

だから人間は当たり前にあるものの価値とかがわかりにくいのである。そんなものもいつもあるじゃないか、何か特別なものなのかとなりその貴重さを意識しないのである。だから蛙がいない世界になったとき、はじめて蛙とは何だったのだろうと意識する不思議がある。


死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる 斉藤茂吉


蛙の声とともに死んでゆこうとする母がいる。あたかもその時この蛙の声は経文のよう血なっているのかもしれない、もしこの辺のように蛙が鳴かないで死んでゆくとしたら淋しいとなる。
蛙の声を聞きつつ死んでゆくところに救いがあるとまでなっていた。何かわからないが斎藤茂吉には縄文的心性があった。やはりこれも現代では近代化した中ではもち得ない心性だったのだろう。
賢治にもそういう縄文的なものがあった。これはみちのくの心性でもあった。ただ現代は方言すらなくなっいるからみちのく的な心性をもつことができなくなっている。


今は藤の花と菖蒲の季節である。原町の高平の農家の庭は広くいい庭だといつも見ていた。今は藤の花がきれいである。あそこは芙蓉の花も咲く、庭が広いからゆったりとしてにあっている。ただ前が田んぼになっていないから何か農家といっても変なのである。

相馬市のお掘りを歩いていたのは相馬高校の女生徒だった。相馬女子高から相馬高校になった。その前は相馬女学校だったのである。相馬女学校に入った人は本当に少なかった。金持ちしか入れなかった。ただ大倉の人が相馬女学校に鹿島区の親戚の家から通ったというのを聞いた。大倉は山持ちだと当時金持ちだったのである。だからそんなふうにしてまで通うことができたのである。
相馬市は何か女子高生が歩むのが様になっている。そこに情緒が生まれているのである。
そこに城下町の風情が生まれている。

藤の花が風にそよゆれて夕暮れる。そのようにもういろいろもめごとや災難が起きてくれるなとなる。あまりにも災難がつづきすぎたのである。そろそろ今年は梅雨入りの天気になるとか,例年より早いという。今日くらいだったのか晴れる日は、今年の春も4,5月は天気も良くて穏やかだった。

去年よりはいい春であり初夏だった。ただ介護はつづいているからいいとはいえない、相馬市の花屋の人も4人介護したとかテレビでは20年介護したとかリホ-ムする家のことで写していた。その女性も寝たきりだった。今の時代介護の時間も長くなりすぎるのである。するとその負担を負わされる人も大変だとなる。家族が多ければいいのだが家族が少なくなっている時その負担を負いきれない人が増大する。介護する家は何かくつろげる家族というより病院のようになってしまうのである。

相馬市はイオンの中で9時とか10時まで開いている。イオンが10時までやっているとは思わなかった。
鹿島では6時ころでもしまっている。特に震災以後早くなったのだ。
原町でもそんなに夜遅くまでやっていない、相馬市はやはり人の出入りが夜遅くまである。
原町より相馬市の方がにぎやかになっているのか?そうでもないと聞いたけど夜遅くまで開いていることは
それだけ人の出入りもあるからだろう。でもレストランとかは空いていた。
生活が夜型になっているからもあるが10時までやっているとは思わなかった。