2013年05月16日

牡丹-草原と夏の海 (写真をエッセシュル4で変化させる)


牡丹-草原と夏の海

(写真をエッセシュル4で変化させる)

botatutuji2.jpg
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これが原画です

bottannnn111.jpg
印象派ペイント

bottannnn3333.JPG
水彩画ペイント




草原に朝海望み夏雲雀

草原にイソシギ飛びくる夏の朝
タンポポに潮の香満ちて朝の海
夏の朝鶏(かけ)鳴く声の遠くより


我が庭ゆ綿毛飛びゆく見送りぬ

防波堤津浪の壊し荒々し波打ち寄せる夏の朝かな
牡丹咲きつつじの咲きぬ燃ゆるごと雲雀は鳴きぬ夏の朝かな

うなだれてスノ-フレイク我が庭に咲き虫一匹の入るひそけさ

snowflake111.jpg


今日は朝に海の方に行ったらタンポポが咲いて壊れた防波堤に荒い波が打ち寄せていた。
防波堤が一部なくなると波がダイレクトに砂浜に打ち寄せる。この感覚はやはり松原とか防波堤があった感覚とは違い、より野性的な自然を感じる。北海道では防波堤がない砂浜は延々とつづいている。人工化されていない荒々しい自然があることで魅力的だった。
日本の砂浜が消失したというとき防波堤の影響が大きかった。どこもコンクリ-トの防波堤になり砂浜が消失した。それも自然の作用として海が陸地を浸食していたからである。
そもそもそうした自然を人間の力で防ぐこと自体自然に逆らうことでもあったのだ。
そんなこといっても人が住む家があるのだからそうせざるをえなかった。
でも今考えると津浪を防ぐために万里長城のような防波堤を築くこと自体が自然ではない、
人間が自然に逆らう住み方だともなる。白砂青松の風景も人工的なものだったのである。
それに気づかなかったが津浪で自然にもどったとき気づいたのである。

水田がなくなり草原化して海がじかに見えて波が荒々しくよせてくる光景は北海道なのである。
草原は日本では雨がふれば湿地帯になるからこれも湿原化するからサロベツ原野とかとにてくるのだ。サロベツ原野のような風景を憧れて北海道にゆく人が多いがまさにいながらにして北海道二男たという不思議がある。
こんなことを書くとお前は津浪を喜んでいるのかとか言われるが津浪はやはり大きな自然の作用であった。人間の方で津浪を忘れ危険な領域に住むようになって被害を大きくしたのである。
でも水田は津浪の被害は大きなものでないみたいだ。津浪の被害地域でも田植えしているからだ。
ただ津浪で残った松は枯れ始めていた。

タンポポが咲いてそこに防波堤を破った波が荒々しくよせてくる。すると潮の香が強く匂ってくるというのも今までにはない自然の体験になっている。だからも防波堤など作らないで自然にもどすのがいいともなる。今の時代米あまりだからである。ただ生活するものにとっては問題がある。

牡丹が隣の庭で咲きはじめた。ツツジも咲いた。花は別に隣の家の庭でも楽しめる。どこの家の庭でも花をみるのは無料でもある。ただ塀とかでみえない、ここは丸見えなのである。
これをエッセンシャル4で変化させるとまた別なものとして楽しめる。
これも写真をより楽しめるものとなったのがパソコンの技術である。
もともと写真と絵はにた面があったからだ。

庭に咲いていた菊ににた花が綿毛になり飛んでいった。綿毛になるのはタンポポだけではない、いろいろの花がなるみたいだ。自然は春から夏と変化が激しい。だから写真をとるにはいい季節である。梅雨になったら写真をとるのには向いていない、今の時代は映像の時代である。
活字文化は団塊の世代はまだそうであった。その前はもっと活字文化だから小説全盛の時代だった。今はあらゆるものが映像化する時代なのである。
これがいいのかどうかわからない、文章でないと現せないものがかなりあるからだ。
全部が写真で現せるわけではない、だから俳句でも短歌でも無用になったわけではない。
写真と一体化して豊かさを増したのである。