2013年05月13日

抽象画(原初の花-光る花)


抽象画(原初の花-光る花)

原初の花

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ラフレシア


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光る細胞-細胞分裂


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結合する光


抽象画は題名はどうにでもつけられる。
これは光っているから光ることがテ-マになる。

ラフレシアににているから名前をつけたが
やはり光ることはパソコンでしか表現できないア-トだった
結合する光はまさにまばゆい

人も光として結合すればこうなるだろう
一方で闇ともなるのが人間である。

小人閑居して不善を成す (原発避難民が東京でギャンブル遊び)


小人閑居して不善を成す

(原発避難民が東京でギャンブル遊び)


いわきにはパチンコ屋が多いのですが、どこもかしこも平日の昼間から駐車場が満車です。
普通じゃありえない混雑振りです。

原発被災者の方もほどほどにしておかないと、批判にさらされるでしょうね。電気代の値上げも結局そういう人たちに行くわけですから。一人10万円で5人家族で50万円も毎月入るなら湯水のように使うでしょうね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1485326309


今日あった人は東京まで行ってギャンブル、競馬をしていた。新しい靴を東京で買ったとか自慢していた。靴自体安物であった。東京とか仙台で原発避難民が遊んでいるというのは本当だったと思った。近くでパチンコ屋に行くことは聞いていたが東京までけいはに行くというのはちょっと贅沢であり今まで競馬するにしても福島市まで行っても東京まで行かないだろう。金が入るから東京まで行っているのか?競馬のことはわからない。仲間が400万もうけたとか言っていた。もともと競馬をしている人はいたしパチンコをしていた人もいた。ただその時ほとんどの人が働いていたのである。
だからそのことでそんなに批判する人はいなかった。気晴らしにやっているくらいだと思っていた。今原発避難民は毎日ギャンブルであれ何であれ遊んでいるだけである。それも東京まで行くとなるとそれは贅沢だなとなる。ギャンブルだけではない東京に行ったら風俗などの遊びに行っているかもしれない、それだけの金が入るとなると一般的にそうなりやすい。


第一高尚な趣味は相当な年期が必要なのである。老後に軽い気持ちで俳句を作ろうかなどとなるが俳句でも季語や花の名前を覚えるだけで十年二十年とかかるのだ。簡単に俳句だって作れないのである。だから一般的には仕事でも強いられてしてでもしていればそうはならないのだ。
「小人閑居して不善を成す」このことが今は原発避難民に起こっているのだ。自分も小人だったから若いときから仕事していないからそうなった。暇で暇でしょうがなかったのである。いつも三食用意されているし時間はありあまるほどあった。だから旅ばかりしていたとなる。読書も趣味だからしていた。パソコンもその間に覚えたとかは違っていた。でもやはり小人は暇を与えられると不善を成すのである。暇を有効に使うことは簡単にできないのだ。


英語 school(スクール)の語源は古代ギリシャ語で、schole(スコレー、暇)。古代ギリシアや古代ローマの「市民」(市民権をもつ男。裕福で、労働は奴隷がおこなう)が、音楽や芝居、議論を楽しんだり、スポーツを嗜んだりする暇な時間、そしてその暇つぶしの場所から由来し、ラテン語でそれをschola(スコラ)と訳したのが直接の語源になる。scholaは、「学院、僧院」の意味で、思想史では「スコラ学」(僧院哲学、スコラ哲学)の名前で出てくる。実際には、スコラはキリスト教の教義の研究や教育に専念する修道士たちの生活と研究の場であった僧院のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1


暇があったからこそ学問も芸術も生まれたことも確かである。一方でロ-マではパンとサ-カスのように堕落した民衆にもなった。現代でもやはりパンとサ-カスになっている。ただサ-カスはテレビとかいろいろ大衆的娯楽が増えたが本質的には変わっていない。民衆の知的レベルはやはり上がらないしそういうものが人間である。最近思うに民衆は民主主義になりただすべてが平等となりもう誰も何が人間として尊敬すべきものかなどない、貴族がなくなったとき貴族ならそれなりに芸術の鑑賞や価値を知るものがいた。何が人間にとって価値あるものか精神的に価値あるのもか知るものがいた。


そういうエリ-トは社会にとって必要だった。それがなくなったとき、どんな下劣なものでも対等の原理が働くようになった。そのことは誰も偉い人はいないし認めない時代である。江戸時代あたりなら分をわきまえるということがあった。それは差別で不平等だということもあった。でも今の時代になるとどんな下劣でも分をわきまえる人などいない、相手が金持ちだったら自分も金持ちであるべきだ。相手が才能があったら自分も同じ才能があるべきだ。そうならないのは金がないからだと極端化しているのだ。だから非常識な人が増えているというとき民衆自体がただ民主主義ではすべてが対等でありあらゆるものの平準化を均等化を要求する。そうしないとみんな不満になる。だから学校では競争させないとまでなった。何か差をつけることが否定されるのである。

だからもう大衆に何かモラルとか理屈とか言うのは無益だとさえ思うようになった。なぜこんなひどい人ばかり増えたのかと思う。知識がなくても分をわきまえるとかなればそう思わない、民衆は今や民主主義、資本主義の下では欲望の無限の追求である。そこで分をわきまえて欲望を抑えることなどしない、大衆にはもはやモラルは喪失して欲望の野獣化したのである。
だから民衆が素朴だといういうことは田舎でもない、一部にあっても一般的にはそうである。だから欲望を満たしてやる欲望を刺激することが進められる。そのことを大衆は一番求めていることなのだ。カルト宗教団体もだからあなたたちの欲望が拝めばかなえられますよとしか言わないからこそあれだけの数が集まってくる。だから今までの素朴な分をわきまえる民衆というのはいなくなったのである。非常に利己的に分をわきまえないどこまでも欲望を追求する人しかいない、それが戦後の民主主義と資本主義で拍車がかかったのである。


原発避難民ではさらにそうしたことが露骨に現れる場所になったのである。もう補償金ずっともらって遊んでいればいいんだ、今がいいければいいんだと言っていた。補償金はあといつまでももらえないよと言っても無駄である。刹那的快楽を求めているだけとなっている。そして政府とか東電とかが払うのだから払ってもらえると思っている。そしてその権利があると思うようになったのである。
今の時代は被害者になると被害者特権が生まれてそうなりやすいのである。沖縄なんかもそうなっているし韓国でも常にそうだった。中国も被害者だということで日本から賠償金を請求し続けていたのである。そういうふうに原発避難民は堕落してゆく。

それで浪江町長の馬場町長が補償金いらないと言ったそうである。この真意はわからないがもしかしたら補償金ばかり請求して堕落している避難民のことがあったからかもしれない、これは何なのか実際はわからないが原発避難民と化している市町村にはそういうことを危惧することがある。この辺ではこれから生活保護所帯がかなり増えてくる。そういう地域はやはり外部からまともな市町村とは見られないだろうしイメ-ジが悪くなるのだ。
飯館村のように所得が低くてもまでいな村として村作りしていたとき外部の人から好感がもたれていて訪ねる人も結構あったのだ。今はこの辺にはそういうことがなくなったのだ。原発事故周辺はこうして人心の荒廃がすすみ外部から入ってきた人もここに住みたくないと大内村では出て行った。


でもその解決策はあるのかとなるとこれまたむずかしい。職につけといっても簡単につけないこともある。遊んで暮らせるならめんどうだからその方がいいともなるのが人間でありそうしたことを変えることは簡単ではないだろう。人間はどうしても楽な方につきたいのである。何か強いられない限り苦しいことはやりたくないのだ。それは自分でもそうだった。仕事でも若いときから流れ作業のアルバイトはかりしていたからもう仕事がしたくなくなった。仕事はこんなものしかないのとか思いしたくなくなったのである。なかなか生きがいある仕事につけないのが社会なのである。だから遊んで暮らせるならそれでもいいやとなる。でもそれは「小人閑居して不善を成す」になる。仕事をしていればやはり仕事なのかで培われるものがある。ただ単に金をもらうというだけではない、ギャンブルばかりしていたらその一生は恐ろしい浪費として終わる。例えそれで生活できたとしても浪費意外なにものでもないとなる。だから今になって仕事なくても生活できるけど虚しい生きがいがないと思う人も増えたのである。


いづれにしろ小高の人は下水道などが整備されれば帰らざるをえなくなるのではないか?インフラが調えば帰ってくださいとなり補償金も打ち切られる。仮設住宅は5年住むのが限界だという。すでにかなり痛んでいるというからだ。すると復興住宅がこの辺でも建設されているがここに入れる人は津浪の被害者であり原発避難民はまた別である。小高に家があれば帰ってくださいとなる。ただ南相馬市は小高でも南相馬市民だから違っている。いわきで問題なのはいわき市民になっていないからである。相馬市の場合も相馬藩というアイディンティティはあってもやはり南相馬市とはまた事情が違っている。補償金は全くもらっていないから反発されるだろう。結局金があればいいだけでは解決できない問題が実は結構あるのだ。それでもしかしたら馬場町長が金をいらないと言ったのはそういうことがあったからなのか真意は不明である。

つまり金を要求すればするほどなぜか原発避難民は強欲だと事故も前も金をもらっていた。事故後もまた補償金で潤っているとか実は東電とか政府は批判されず批判の矛先が原発避難民に向けられているのだ。そうなるとだんだん原発事故地帯は国民から同情されず生活保護も増えてやっかいな人たちが増えたとなる。東電社員は最初責められていたが今は責められないのである。会社の幹部も事故の責任追及もされない。だから補償金を大目に払い批判の矛先を原発避難民にむけるという意図があるのかもしれない、ただそんなに補償金を払い続けることもむずかしい。ただ避難の矛先は原発避難民の方に向けられていることは確かなのである。

posted by 老鶯 at 15:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連