2013年05月11日

菖蒲-忘れな草-八重桜(淋しい町)

 

菖蒲-忘れな草-八重桜(淋しい町)


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駅に待つ雨しととふり八重桜

夏雲雀草原のかなた海光る


八重桜今日も咲きつつ散りにけりこの道行きてともに暮らしぬ

牡丹の散れる花弁のあまたかな華やかさの余韻残して暮れぬ
忘れな草庭の隅に隠されて咲きしを知るは我のみなりしも

菖蒲咲き鈴蘭咲きぬ通りかなこの町淋し人もともしく

今の時期は八重桜になった。駅に待っているという時間が一つの旅なのである。待つ時間を旅を豊にするのだ。旅も団体でゆくとこうした待つ時間とかないのだ。自分の場合はあまりにも待つ時間が長かった。それだけぜいたくな旅をした。電車を待つために人生の時間があったとすらなる。
それほど旅していたのである。これほど恵まれた時間はなかった。しかしそれもまたたくまにすぎた。そんな時間が有益だったかどうかはわからない、何が人生で有益だったのかなど最後になってみないとわからない、本当に人生は最後にならないと何が幸福だったのか不幸だったのかわからない、

結婚でもなんでもその結果は最後にわかる。その結果は常に意外なのである。その時は幸せだったと想ったことが不幸になっていることなどいくらでもある。あの人はうらやましいなと思ってみても実際は最後にはそうでもない、かえって不幸だったとかなる。
金持ち羨んだりいろいろうらやむけどその結果はその時見ただけではわからないのだ。

一人は家事をやらせれていて奴隷のように働かせられていた。一人は何もしない、いつも食事でも用意されていた。結果的にどうなったか?働かせられていた人は97才まで生きて何もしなかった人は85才で認知症になり死んだのである。これも予想もつかないことだった。奴隷のように働かせられた人が認知症にならなかった。何もしないで体と脳を働かせなかった人は認知症になったのである。

認知症は家事でも何か頭で体でも働かせていないとなりやすいということは確実にあるのだ。
それがすべてではないにしろ確率的には大きな要因であることはまちがいないのだ。
その時奴隷のように働かせられた人は不幸でありそれを使っている人は幸福に見える。
結果的には逆の結果ともなっていたのだ。だから何が幸不幸かなどわからないのだ。


本当に金持ちの使用人が不幸なのか、何もせずなんでもしてもらえる金持ちが幸福かとなるとこれもわからないとなる。何でもしてもらえて家事もしないとなるとその人は怠け者となり認知症になりやすくなるかもしれない、脳が働かなくなりそうなりやすい、家事などしないで遊んでいてもやはり家事はそれなりに仕事になっているから遊ぶのとは違うのである。一人で家事をやるとなるとこれはなかなか大変なのである。今は介護でまたベッドとポ-タブルトイレになったから負担になる。

それで思い出したのが病院で入院していた女性がポ-タブルトイレにたまった便などを看護師になげてもらうのにすまないすまないと何度も恐縮して言っていたことである。あんなにすまないすまないと言わねばならないのかわからなかった。それだけ他人に世話になるのは気を使うということもある。でも施設でもそんなこと全然気を使うこともない人もいる。これも人によりけりだったのか?
家にいる限りはそんなに気を使う必要がないから楽だとなる。


通りには菖蒲と鈴蘭が咲いていた。通りといっても川の方は店もほととない、ただ車が通っているだけである。仮設で人が増えてもやはりこの辺はまだ都会とはあまりにも違っている。びっしり家が建っていることはない、都会は隙間なく建っているのだから密集地獄になっている。あういうところには住みたくない、だからどうして東京のような狭苦しい密集地獄に住めるのか自分には不思議である。若いときはかえってあういう所でも良かった。そのあとは自分の性格もあるがあういう密集地獄には住みたくない。ただ都会に住めば都会はいいという人もいる。都会には都会の良さがあることは確かでも自分には向いていなかった。やはり秘境のような所がまだあるところが向いていた。

丸森は秘境的な場であり飯館もそうだったが今度は丸森の方にどうしてもゆくようになる。飯館にはやはり店もないし休む場所もなくなったからだ。

忘れな草がどうしてここに咲いていたのかわからない、隠されるように咲いていた。やはり竹とかには花がにあう。老後は庭いじりが向いているのだ。狭い庭でもなぐさめになる。ただこうして全部一人でやっているから忙しいのである。

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