2013年05月06日

丸森の深い森から出れなくなった恐怖 (人間は文明化して自然への恐怖(津浪など)、畏れを失っていた)


丸森の深い森から出れなくなった恐怖

(人間は文明化して自然への恐怖(津浪など)、畏れを失っていた)

イノシシの左右に駆けて夏の闇


丸森で闇の中でイノシシに出会った。二三匹いた。かなり大きなもので迫力があった。警戒して盛んに左右にプットワ-クがよく機敏に動く、このイノシシにぶつかられたら大けがすると思った。
イノシシは別に夜行性ではないらしい、警戒して里近くでは夜に行動している。
野生のイノシシにあったのはじめてである。イノシシは良くみかけるといっても山の方に行っても猿はいてもイノシシはみかけなかった。野生で見るものは何でも迫力がある。
飼っているイノシシとは違うからだ。ただ本当の野生は喪失している。
野生が何かわからなくなっている。

丸森の森は大きく深い、落葉杉の葉で道がうまり道なき道を奥に行き過ぎた。どこかに道があると思い行き過ぎた。人間は普通に生活していれば今ではどこにでも道があるから迷うことなどないと思っている。それが文明社会である。人間は今やあまりにも文明社会に馴らされているのだ。
だから野生が何かわからなくなっている。秘境などどこにあるのだとなる。

丸森になぜ米沢藩と伊達藩と相馬藩で争いが起こったか?これは歴史資料としても有名であり論文もでている。森林資源を巡って争ったのである。それだけここが木材資源が豊富だったのである。
飯館村よりも豊富である。飯館村はそれなりに平地があるがここは山が重なり森が多いのである。
だから樅の木の原生林などが残されていた。樅の木はもともと原生林を形成していた。今は一本か二本しかないのが普通である。人間は森がどういうものか実感できなくなっている。
今回の経験は富士山の麓の樹海のように森から出れなくなるという恐怖だった。それだけ森が深く丸森では覆っていたのである。

人間は自然の中で本当の自然が何かわからなくなっている。自然というと動物園のようなものが自然だと錯覚している。動物も動物園でしか接していないからだ。野生の動物に接していないからそうなる。それでカバに中国人の子供が近づいて殺されたとかのニュ-スもあった。子供でも動物園の動物しか知らないしペットの動物しか知らない。おもちゃの動物のような錯覚もしている。

人間はこれだけ文明化されているとき本当の自然を肌で知らない。観念的にしか自然を知らないのである。丸森で森林資源を巡って争いが起きたことはこの原自然の状態があって必然的に起きたことである。それだけここの森林資源は豊だったのである。それだけ森が深いことをの証明だった。
そんなことをわかっているじゃないかというけど実際にこの深い森で道に迷って出れなくなるという恐怖からこの森がいかに深いか知った。

人間は今は自然を甘くみている。それも文明化された便利なものの延長として自然がある。だから森でもどこかに道があるだろうと思ったのが失敗だった。
道が途切れ道がなくなっていたのである。そこに樹々が暗い森がどこまでもおおっていた。

こういう自然の恐怖、例えば砂漠でも迷ったりしたらそれこそ命にかかわる恐怖である。
まず水がないから死につながりやすいのだ。森にはまだ水は流れているから命がつなぐことができる。しかし砂漠ではできない、水がないことが致命的となり死にいたるのである。だから水のある場所を探すことが最優先されるしその方向が間違ったら即集団でも死にいたるのである。
そういう自然の恐さを今は知らない、どんな場所に行っても自動販売機があるんじゃないかと思ってしまう。道はみんな舗装されていると思ってしまうのである。
だから近くの低山でも遭難することがあるということはやはり自然も奥深いものがあるからだ。
道がなくなると低山でも近くでも危険なのである。


自然を甘く見たというとき津浪もそうだった。津浪も一つの自然現象だった。しかし400年前に起きたことであり忘れていた。津浪によっても自然は恐いものだと改めて自覚させられた。あまりにも
文明化した世界に住んでいるとそうした自然の本当の力とか恐怖と恐れを感じなくなったのである。今は科学を敬っているというとき宗教のようになっているとうときまさに自然は科学で知り得るものだという信仰になっているのだ。ところが津浪で原発事故でもそういう自然の人間の力を越えたものに直面して狼狽した。つまりまさに自然の驚異、野生の驚異が地球にはまだある。とても文明だけでは計りしれないものが自然なのである。人間は計られている存在であり自然計ることができないのである。そのことをまざまざと示したのが津浪だったのである。
人間はどんなに文明化したとしても自然の驚異から逃れることはできない、自然の力は常に人間よりまさるものなのだ。人間はその前になす術もなくなる。それを示したのが津浪だったのである。

「心の青雲」で地震とは予知できないという、つまり学者がただ部分的に専門分野でみているだけで全体をみていない、地震は天体とも月などとも関係しているという、プレ-トがどうのうこうのという学説至上主義も疑っている。それもまた一理あるなと思う。要するに学説至上主義も一種の科学の信仰に近いものとなるがそれも信用できないのである。科学によって地球のすべてが解明されることなどないのだ。ただそういうふうに思い込まされているにすぎない。だから科学も詐欺的なところがあった。原子力関係者がすべての日本の支配階級が組んだペテンの面があったのだ。つまり核のことは実際は解明されていなかったのである。そういうものに手を出した結果としてこれだけ痛い目にあったのである。科学の力は偉大だし肯定されるべきである。でもすべてを人間が解明できないし科学者には限界がある。それが錯覚して原発事故のようなものがこれからも起きてくる。神は必ず人間の奢りを打ち砕くのである。これはどんなことしても神が造ったものは神しかわからないということである。そこに神に対する畏れをもつべきなのである。

posted by 老鶯 at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

丸森の秘境へ (夏の旅-新地からのつづき)


丸森の秘境へ

(夏の旅-新地からのつづき)


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山吹や峠を越えて丸森へ

丸森へ峠越えるや朝桜
戦死塚訪ねてみればスミレかな
丸森や山路の深く落椿
丸森に海を望むや桜散る
イノシシの左右に駆けぬ夏の闇
丸森ゆ相馬へ飛ぶや夏の蝶
丸森の奥に家あり夏の星


峠越え蔵王の見えて丸森やなほ雪厚く新緑映えぬ

昼暗き旗巻峠相馬へと下りゆくかな椿散りにき
丸森の森の深きに黒揚羽舞い出て消ゆる山路ひそけし
大内の部落やあわれ天明の碑のあり夏に我が来る
分け入りて二筋の滝岩伝い流れし奥や新緑に映ゆ
二輪草木洩れ日さしてあまた咲く人に知られずここに映えにき
丸森の森の深きに鳥の声かすかにひびく夏の夕暮

丸森に蛙の鳴く声ひびきあう山間深く数軒の家

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二筋滝

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樅の原生林

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忘れられた石

鹿狼山から丸森へ峠を越えてゆく、山吹が咲き桜がまだ咲いていた。ここの坂は帰りの方が辛い。ただ今回は電動自転車だから楽である。庭に三色桜というのが咲いていた。蔵王はまだ雪が厚い。
丸森の景観は変化に富んでいる。阿武隈川があり山が深い。蔵王も見える。金山城など歴史もある。戊辰戦争の戦死塚もある。大内部落に子安観音があり天明の碑があるのも相馬藩の飢饉の影響があるかもしれない、天明山というのも飢饉のとき名づけられたのかもしれない、ただ当時は飢饉だからといって伊達藩で援助することがなかったのである。


今回は手倉山の方に入って行った。そこに流れがありでこぼこの悪路がつづいた。電動自転車だからなんとか上れた。マウテンバイクのオフロ-ドのみちだった。そこは誰も入ってゆかない、車が一台通ったので道が通じていると思ってどこまでも進んだ。あそこは本当に秘境なのだろう。二筋の滝が岩を伝い流れていた。「二筋滝」という命名がいいみたいだ。誰も知らない奥深い谷間に二輪草が一杯咲いていた。あの二輪草を見る人もまれである。何か神秘的であり秘境に入る感じがした。

実際に樅の原生林というのがありそこに十数本の樅の林が確かにあった。樅は一本か二本しか森でも見られないからここは樅の原生林だったのだろう。原生林など今はない、丸森も名の通り森の町であり森が思った以上に深い、ただ杉の森である。もともとここは森林資源で米沢と伊達と相馬が争った境界の地帯でもあった。江戸時代から森林資源が豊富だった。その森に迷ってここの森がどれだけ深いか豊であるか知った。わずかに道のようなものをたどって下って行ったら道が尽きていた。
その時電動自転車をおして前の道にもどるのに大変な労力がかかった。そして森から出れなくなる恐怖を感じた。樹海にまぎれこんだみたくなってしまった。5時過ぎてくらくなりつつあったから余計に恐怖だった。こんな近くでこんな恐怖を味わうとは思ってもいなかった。必死で自転車をおして元の道にもどった。そしたら運良く下る道がありそこを一路下った。この道を下れば前の道に出れると思い安心した。誰も見ないようなコブシの花がひっそりと夕べの闇がつつむなかに咲いていた。


6時ころになりすでに暗くなっていたときまた相馬へゆく道をまちがいた。別れ道があり大きな道の方を行ったらそこは坂になっていてどんどん進んで相馬へ出れるのかと思ったらあの道は相馬に出れない、車の人に聞いてわかった。丸森の奥は深い、あんなところに家があった。それから引き返してやっとこの道をゆけば相馬だと聞いて一路帰った。星が光り蛙の声だけが山間に高くひびいていた。丸森はまだまだわかりにくい場所である。地形に変化があり魅力ある場所だと思った。

相馬に出たの8時過ぎで帰ったの9時ころだった。これだけの運動をしたからぐったり疲れた。
でも自分は身体障害者でなくなったからこれだけの無理ができるし結構無理ができると思った。
登山もできる。今まではこういうことは絶対できない、身体障害者であり小便でなくなったら死にいたるからだ。そういうことはないから安心した。やはり今は手術して正常に戻ったことで体に自身がついた。ヒマラヤ登山すら苦しいけどでるかもしれない、3000メ-トルまで上れば9000メ-トル級の山を見れるのだ。もう一度見てみたいと思った。


こうして家に帰ったら母が足を悪くして動けなくなっていた。トイレにも行けなくなっていた。
食事もほとんどとらないからもう寿命なのかもしれない、90以上になると突然弱るとパタパタと死ぬ人が多いらしい。だから死ぬ時期がきたのかもしれない、明日は入院とかの相談でありちょっと忙しくなるからプログの方は休みになるかもしれない、ただ自分は体が正常にもとったのでその点これら一人でものりきれるなと安心した。やはり介護は第一に健康であり健康がなくてはとても介護はできない、自分も介護されるような状態では介護はできないのだ。

こんなわけでこれからしばらくまた母のことで追われるかもしれない、人間はともかく死ぬまで手間がかかるものでありそれが大変なのである。
 
 
 
 

新地から丸森へ夏の旅(新地編)


新地から丸森へ夏の旅(新地編)

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利休梅

松影の街道行くや夏の朝
相馬より新地に来れば燕飛ぶ
臥牛城夏草埋もれ何語る
リキュウバイ手入れの人や開園す


新地なる高台に水張りぬ海を望みつ夏の朝かな

文禄の碑こそ古りぬれ新地なる社訪ねて燕飛ぶかも
新緑に風のそよぎて望む海牡鹿半島連なり見ゆも
新地より金華山見えにしや船も行くなり夏の朝かな
山路来てなお残れる花あれや風に吹きちりあわれ深まる


新地から丸森まで電動自転車で行った。新地で火力発電所の近くで田に水張る人がいた。この辺は津浪の被害があったはずたと聞いてみたらここは高いし塩分は気にしないという、新地火力発電所は地形の関係で原町火力発電所より被害が少なかった。あういう大きな建物があると津浪を弱めるのにはいいだろう。ただ見晴らしよくなくなるから問題なのだ。一見田はみんな同じ高さに見えるが違っている。鹿島区では烏崎や小島田の方が低いから塩崎まで六号線を越えておしよせたのである。あの辺は万葉集にも歌われた地だからやはり低くかったのかなと思う。真野の入江が津浪で再現したのである。


新地にくるとここは伊達領と相馬藩の領地にもなった境で争いがあった。臥牛城ともう一つの新地城もそうである。新地はもともと谷地小屋が中心で谷地小屋要害とかいものが残っていた。新地城から臥牛城へ相馬藩をおさえるために城を造った。でも臥牛城はあまりにもその跡も小さいのでこんなところに城があったのか、ちょっとした砦のようなものだったのか?それでも城下があったとか新地についても良くわからない、新地にくると確かに宮城県に半場入ったような気分になるのだ。
相馬市までは相馬藩だけど新地はまた違っている。今でも伊達藩の武士の子孫で相馬市との合併を拒んでいたという人が駅の近くに家があった。それが津浪で流された。


実際に鹿狼山から太平洋を眺めると牡鹿半島が見えた。写真でははっきりしないが金華山も確認できる。高い山の上だからあれだけ見える。しかし新地の海岸からも牡鹿半島は見えたのである。あれくらい見えれば航海があの山を目印にするのだから意外とここは方向は間違うことがない海である。
船乗りが山を目印にするというとき牡鹿半島は一番わかりやすい目印になる。あれだけ見えれば方向は間違うことがない、だからここの海は鎌倉時代辺りから船で行き来があったとしている。

古代でも石巻の真野の萱原が港だという説もやはりこの海も見ればわかるのだ。波は荒いにしても方向を間違うことのない海なのである。

新地の街道から少しそれた上の町というところに社があり文禄の碑があった。これは今まで見た碑では一番古い。なぜここに?というときここが伊達領だったから古い碑があるのだ。松島にはすでに鎌倉時代の碑があった。伊達領には相馬藩より古いものがある。相馬氏は伊達氏よりは新興の勢力だった。だから伊達領よりは新しいから古い碑も少ない、文禄となると豊臣秀吉による朝鮮出兵=文禄の役があった朝鮮出兵である。そして文禄の後にすぐ慶長の津浪に襲われたのである。
戦争もあり津浪もありと動乱の時代だったのである。


新地の地形の特徴は貝塚が写真の海が見える辺りの高台にあったように海が近く海と山の間が狭いのが特徴なのである。これだけ海が見える場所は浜通りでもない、手の長い神がかい貝をとって食べていたというのはこの高台に貝塚があったからである。まさに地形の特徴がありここは山の幸海の幸に恵まれた所であり縄文人が住むには最適の場所だったのである。


菜の花が植えているのはここも放射能汚染でそうしているのか?別に相馬市から普通に田畑も作っている。あの茅葺きの家は特別残しているのか?まるで写真とるためにある。ただいくら茅葺きの家でも今は昔の生活がないのだから何か生活感ない、結局昔はどんなことしたって再現できないということである。なにかこれみたら写真をとらせるために人工的に作った、映画のセットのような感じすらするからだ。そういう場所は中山道の妻籠宿、馬籠宿にも感じた。まるで映画のセットになっていて生活感覚がなくなる。だから昔を再現すふることは容易ではない、観光化するとどこもかえって昔が偲ばれなくなることすらある。観光客ににぎわっているからここがいつもそんなににぎわっていたと錯覚するのである。だから最近名所観光はつまらないと言う人が多くなっている。歴史はかえって何か忘れられてしまった道の辺の古い碑のようなものに感じるのだ。仰々しく観光客用に再現してもそれが作られすぎてかえって歴史をそこなうということもある


鹿狼山に作った花木山の花園ではリキュウバイの手入れをしていた。利休梅だというのもめずらしい。堺辺りでは外国のものがいろいろ入ってきたのである。
壺でも茶碗でも外国製の高価なものが入ってきた。利休はそうした外国製の高価なものを嫌いわび、さびの茶道を確立した。みちのくあたりだったらそんなことはない、そもそも堺のように高価な陶磁器などすら入ってこない、平泉にあったにしろ普通は見ることもできないものだった。
利休梅は明治以入ってきたのだから利休が生きたときにはその名はないしこの花自体見ていない、
この名は相当新しい名でありそれだけなじみのない花だった。花の名前は万葉時代からあり古いのが多いからだ。

新地から峠を越えて丸森に向かった。丸森では森に迷い出れなくなる恐怖を味わった。だからそのために体が今も痛い。新地は福島県だけと宮城県の部に入れた。丸森まで旅がつづいたからだ。