2013年05月30日

空間的グロ-バル化志向の時代に土着的時間的志向が欠如 (相馬藩の飢饉のときの危機が津浪原発事故でよみがえる)


空間的グロ-バル化志向の時代に土着的時間的志向が欠如

(相馬藩の飢饉のときの危機が津浪原発事故でよみがえる)

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●第一次産業主体の生活は時間的思考をうながした


現代社会の急激な変化の最大の特徴は何か?それはいろいろあるにしろやはり社会構造、経済の変化が一番大きいだろう。戦前から戦後十年くらいまでは前にも書いたけど江戸時代の継続、延長だった。自給自足経済だったのである。燃料は炭だし食糧も外国からも遠くからも運ばれない、身近にあるものでまかなっていた。つまり第一次産業主体の経済である。7割8割が農民であり漁民であり山林業にも従事していた。常磐炭田があったように炭坑は今の石油や原子力の代わりでもあった。炭田でも落盤事故があり大きな犠牲がでた。エネルギ-を供給するのにはやはり大きな犠牲がともなっていたのだ。でも経済の基本が自給自足であるときは極めて地元志向であり土着的に意識しなくても自然となっていた。まさに自然に則した生活に自ずとなっていた。

それは今から比べると極めて貧乏なのだけど自然に則した生活だった。そういう生活は例えば出稼ぎ時代がありその時東京に金を稼ぐために農民が出ていったが戦前は東京で失業したら田舎に帰る、実家に帰る、田舎に帰れば農業中心の生活だから貧乏でも食うことはできるとなっていた。現代では田舎に仕事がないから東京に働きに行くとなっている。その人たちは田舎にはもどってこない、仕事がないからである。農業だけで食うだけでいいという時代ではないからだ。そうして田舎の限界集落が生まれ田舎は捨てられるとまでなった。そういう基本的経済活動の変化が根底にあって社会をみると今回の原発事故にも見えてくるものがある。


現代はその土地に密着した土着的志向の生活ではない、経済ではない、地球の裏側からも食糧が入ってくる時代である。空間的にはグロ-バル化した中で生きている。隣のことより地球の裏側のことをニュ-スでみて関心をもち心配している時代である。皮肉なことに隣に困った人がいても飢え死にする人がいても関心をもてない時代でもあるのだ。空間の視野はグロ-バル化した。でも人間の生活というのはもともとグロ-バル化して生きられるものなのかと問うとそうはならない、常に毎日生活しているのは狭い範囲なのである。つきあう人も限られた狭い範囲である。地球の裏側からモノが入ってきてもモノだけが入ってくるのでありそれに付随ふするものには人には関心がないのである。

空間的志向はグロ-バル化した、でもそのグロ-バル化の中で失われたのは土着的時間的思考ではないか?時間的思考(志向)と空間的思考がある。空間的思考は今なち飛行機で世界を見て回れる、ところが時間になると過去にさかのぼることが容易にできない、過去をたどることはすでに個人の一生でもあいまいになる。60過ぎると過去がどんどん脳裏から消えてゆく、会った人のことも経験したこともどんどん忘れてゆくのだ。人間はこんなに忘れるのかと驚くほどである。記憶が喪失してゆくのだ。最後には認知症になったら家族の顔すら忘れる、あんた誰なの?これほど忘れるのである。これは病気にしても人間を象徴していた病気だったのである。人間ほど忘れやすいものはいないということである。


個人の一生でもこれほど忘れやすいとしたらもう個人が経験しない過去は歴史はまたたくまに忘れられる。現実にあれだけの300万人以上死んだ戦争も忘却される。歴史の基本は正確な記録を残すということだった。津浪にしても津浪を記念して建てた神社が津神社だったというけどこれも忘れていた。津が津浪と連想する人もまれだった。祭りでも違った祭りをしていたのである。烏崎の津神社は鯨の祭りをしていたから津浪とは何の関係もなくなっていた。神社そのものが由来がはっいりしないものが結構多かったのである。人間はそういうふうに忘れやすいものなのである。津浪から400年たって津浪のことは全く忘れられてしまっていたのである。


●土着的時間思考が欠如した現代


現代はますます自分の住んでいる場所のことすら関心をもたくなくなっているのかもしれない、情報もグロ-バル化すると絶えず外の方に関心をもたされるからだ。世界的なニュ-スを理解するだけで大変な労力がいる時代である。空間的にグロ-バル化するとそうなる。でも時間的思考はかつての第一次産業の自給自足的土着的思考から起きてくる。つまり時間的思考とは定着的生活から起きてくる。ある場所に定住して長く暮らすことで土着的時間的思考が生まれる。それは山や大地や樹や石とにているのだ。それらは動かないということで存在感をもち意味をもち時間的思考をうながすのである。そして時間的思考にはまさに時間がかかるのだ。その土地を理解し自然を理解することは時間がかかる。その土地と一体となることは時間がかかるのである。それはそこに生きた人間の歴史もありその歴史と一体化することも時間がかかるのである。外国を旅行しても空間的に移動してもどうしてもそこで培われた時間の歴史が理解しにくいのである。空間を移動しても今しかそこにはない、過去があってもそれを理解することがむずかしいのである。過去を理解するには時間がかかるのである。


現代は空間的拡張がグロ-バル化したのであるがそれで人間の思考が深くなったとはならない、かえって時間的思考が欠落してきたのである。歴史的土着的思考が欠落してきた。だから原発事故でも金さえもらえば今まで生きてきた村がなくなってもかまわないとかなり故郷に執着しなくなってきた。金あればほかでも別に生きられるとなる。会社が移れば会社と共に移動すればいいとか土着思考がなくなった。移動が容易な社会だから金がまた力をもつのである。江戸時代は移動そのものができなかった。そこが過去と現代の大きな相違である。では人間が時間的思考が欠如してくるとどうなってくのか?過去からの歴史的時間的認識ができなくなってくる。過去からめんめんとつづいた時間的認識ができなくなる。そのことは何を意味しているのか、過去が抹殺される、過去が忘却されるということである。人間でも認知症になったら記録が喪失するのだからその一個人でも何ものなのかすら不明になる。過去が忘却されることは過去に生きた人たちも忘却される。それは現在生きている人もたちまち忘却されるということにも通じている。そしてその生きた意味も忘れられる。


私たち人間は過去の現実の経験によって始めて人間にとって可能な水準というものを設定できるのだが私たちはそうした過去の経験の実例に対する関心をほとんど失ってしまっている。


私たちは現在にとりつかれているので自分自身どのような過去からいかなる道をへて今日にいたったのか頭にないのである。
(過剰化社会-DJブ-アスティン)


アメリカノ特殊性は歴史が短いことである。広大な土地に突然街が生まれ常に移動するのが生活である。アメリカ自体がグロ-バル化であり広大な土地であり現代を象徴する国なのである。ヨ-ロッパのような歴史がないから今だけが突出して時間的思考ができないのである。アメリカが他の国を攻撃するとき文化まで無頓着に破壊するのはそういう国柄があるかかもしれない、古いものを歴史がないからその国の歴史を無視することになる。


とにかく過去の現実の経験によって始めて人間にとって可能な水準というものを設定できるのだ


この言葉には重要な示唆がある。例えば現代の生活の水準は過去と比べれどうなっているのか?
戦後十年は炭を燃料としていた江戸時代からつづいた自給自足生活が基本だった。それが今はどうなっているのか?その水準ははるかに越えて想像を絶するものとなっているのだ。
自分の父親は病気になりさしみ食えるようになったが体が悪いから食欲がないから食いたくないと言って死んだ。さしみもまともに食えずに死んだのである。たいがいそういう人が多いのである。
そういう生活の水準から比べると今の生活は庶民でも食生活では王侯貴族の生活なのである。
それでもみんな不満が尽きないのである。


●相馬藩の飢饉がよみがえる


それ以上に相馬藩でも天明の飢饉とかでは三分の一の人口が減った。他でも飢饉で東北では現に人肉を食べたという記録がある。飢饉など特殊であり異常なことであるとされるのが現代だけどそれが注目されたのは津浪原発事故だったのである。飢饉とは違っても相馬藩の最大の危機に直面したからである。飢饉でも町自体村自体がなくなることはなかったのである。三分の一は残りあとから越中などの移民が入ってきたのである。そして確かに歴史として飢饉のことは言われてきた。でもそれは具体的に今のことから真剣に飢饉のことを考える人はいなかったろう。現代の飽食時代では考えることもできなくなっていた。だけど今回の津浪や原発事故は相馬藩の最大の危機の飢饉についてふりかえるようになった。飢饉で無惨に死んだ人や恨みを残して餓死したような人の声がその土地から聞こえてくるのだ。


「俺たちはな、食うものもなく、家族も死んだ、その苦しみがわかるか?お前たちまだ食うものがある、それも何も変わらず贅沢している、毎日マグロのサミシ食っているんだってな、サシミ自体食べたこともないやつがと多いんだぞ、俺たちの恨みをしれ、お前たち恵まれているんだ、・・・」


こういう声が地の底から聞こえてこないか?その声は一つの供養の碑に残っている。しかし今では片隅に忘れられている。でもその声は相馬藩の危機に際して大きく聞こえてこないか?飢えに苦しんだ人々の声が今また相馬藩に聞こえてこないか?歴史が蘇るとはこのことかもしれない、戦争で死んだ人もまた戦争になって死んでゆく人が多数あればそのことがよみがえるのである。歴史はくりかえすとはこのことである。「なぜ戦争で死なねばならないんだ、ああ、こんなふうにして死んでいったのが戦争だったのか」とかなる。そこではじめて戦争のことを頭でなくて体で理解するのである。
頭でなくて体で理解しない限り人間は理解したとはならないのである。歴史も頭だけでは理解できない、戦国時代でも理解できない、無惨に敵に殺される身になって理解できる。人間の歴史もまた無情残酷の歴史だったのである。

飢饉ありその碑の一つ重きかなあまたの苦しみここにこもれり

posted by 老鶯 at 21:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年05月31日

菖蒲-青葉(相馬市城下町の夏)


菖蒲-青葉(相馬市城下町の夏)

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老鶯や前畑に婦松並木
辻曲がり青葉に映えて大手門
駆け上り黒橋渡る青葉かな


植田に三羽の鷺の餌あさる変わらぬ生活ここにありけり

黄菖蒲の水に写りて流る水とどまることなく真昼明るし
今日も見ゆ城のお掘りに紫と黄の菖蒲の写り映えにき
黄菖蒲のお掘りに映えて女高生明るく歩む真昼なるかな
宇多川にしきり鳴きつつヨシキリや我がまた来る相馬の街に
長々と柳の垂れてそよゆれぬ影の深しも城下町かな
義胤の中村城に移りすむ青葉目にしむ光まぶしも
街中の畑に塊り紫の菖蒲色濃く雨しととふる


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梅雨入りだと言っていたけど今日は快晴だった。昼間から相馬市へまた行った。毎日のように原町から相馬市へ行っている。自転車が前より快適に走ることもある。前の自転車は疲れやすかったのである。そして毎日のように書いているけど相馬市は今までと変わりない景色であり生活なのだ。南相馬市は田んぼも試験のための田しかなく草茫々となっている。それで相馬市にゆくと今までと変わりない風景と生活になっている。

それが今までなら当たり前なのだが何か新鮮なのだ。
何かはじめて見るような景色にもなっている。鷺が三羽植田を歩み餌あさりしていた。三羽というと今までは普通にみかけた。南相馬市では時々一羽くらいはみかける。でも三羽はみかけないのである。それが何か新鮮なのである。


今の時期はすでに藤の花は散っていた。菖蒲と青葉の季節になっていた。菖蒲が植田に映える光景は今でもあったが南相馬市にはない、流れる水に写っているのも新鮮だった。相馬の城跡の大手門は青葉だった。あそこの瓦は滴水瓦であり朝鮮系らしい。新地の神社にあった文禄の碑は文禄慶長の役であり文禄の役とも言われたから朝鮮への秀吉の出兵を記念して伊達領であった新地に建てられたのかもしれない、文禄とかわざわざその時代だけを碑にするのはない、だから文禄の役でありそれが特別だから文禄となった。伊達政宗も第16代当主・相馬義胤も参戦して九州の名護屋城にともにあったのである。名護屋城には行ったことがあるが石垣が崩れ直していた。蜘蛛の巣が張っていたりあまり訪れる人もないみたいだった。あの時は冬だっから人も訪ねなかったのかもしれない。相馬義胤の時代に中村城に移ったり相馬藩の礎が築かれた。九州まで行ったし伏見にもいたし朝鮮から広く日本を見聞したのである。小高の貴布根城はやはり海に面した城を見聞してまねて作ろうとした。小高の塚原は実際に船の出入りがある湊だったのである。


義胤の時代に津浪があった。義胤の時代は相当な激動の時代だったのだ。戦国時代の真っ只中でもあり津浪もあったし城も三回ほど移るとなると落ち着かなかったろう。だからこの時代は小説にもなった。ただ青葉というと政宗の青葉城がふさわしいともなる。仙台の青葉城に行ってもなにか当時を感じなかった。仙台の街があまりにも大きくなりすぎて変わりすぎて感じないということもある。
相馬の城は何もないのだけどさほど変わらないということがある。町並みは拡大しても高いビルなど建っていないから情緒が残っているともなる。


黒橋を上ったり下りたりして高校生が訓練していた。あそこは足腰を鍛えるにはいい、一方もう一つの橋は赤橋となっている。その橋から見ると地震で崩れた石垣が見える。赤橋から見る景色と黒橋から見る感覚は違っている。本丸のあった所の藤の花はほとんど散っていた。意外と早く散るものだと思った。