2013年05月18日

災いの家(災いが災いを呼ぶ-原発事故被害市町村も同じになっている)


災いの家

(災いが災いを呼ぶ-原発事故被害市町村も同じになっている)


●寝たきりになりボ-タブルトイレから災いが・・・


災いの家ということで前にも書いた。自分の家は身内の一人が認知症になってから災いがはじまった。それからまた身内は高齢化して病気になり介護になり災いはつづいた。今回の災いも技術的なものであってもやはり介護状態になってベッドに寝てポ-タブルトイレになったから起こったことである。ポ-タブルトイレのたまった糞尿や紙を流そうとして水洗トイレがつまってしまった。結構紙がたまるからそれを一度に投げることができなくなっていた。こういうトラブルももともと寝たきりになりポ-タブルトイレになったこら起こったことである。それで昨夜はトイレにたまりつづけるのでパケツで出していた。水道の元栓を閉じれば良かったのだがきづかなっかた。意外とこうした緊急事態では簡単なことにも気づかないのである。その時一種のパニック状態になるから簡単なことに気づかない、冷静になればいいが水がどんどんでてくるので困った困ったとなりそのことに気をとられて気づかないのである。一回も水道の元栓をしめたりしない人は余計にそうである。一回だけ元栓をしめた経験があったので気づいたのである。ポ-タブルトイレに紙が多くなっていたのは小便でも利用していたからである。介護とかは思わぬことが必ず起きてくる。病気でもそうである。必ず災いが災いを呼ぶのだ。災いは一つでは来ない、いくつかの災いが必ず重なるようになっているのだ。

悪いことは重なる。良いこともそうである。病気になれば一つの病気だけではない別な病気を併発しやすい、死ぬと気になれば体中病気にな
ってしまうのである。

災いの家というとき別に自分の家だけではない、どんな宗教団体に入ろうが災いを逃れることはできない、そもそも人間は病気にならない人、老いない人はいない、とするとどんな家でも病人をもつ。すると必ずそのことで災いの家となるのだ。高齢化社会では必ず介護する家が多くなる。するとその家は災いの家になりやすい。老人になること自体いろんな機能が衰えるし弱体化するから災いになりやすいのだ。認知症になったりしたら最大の災いだけどこれも高齢化で増えつづけているのだ。
高齢化社会とは災いが増大する社会でもある。介護している人の数が膨大でありそれらは家庭だけではない、社会の災いとなっているのだ。かといって病人にならずに死ねる人はいないし老化も防ぐことができないのである。みんなぽっくりとは死ねないのである。


●災害と事故に弱い便利な文明社会


この世にこんなに災いが多いということを震災と津浪で感じたことはないだろう。津浪の結果さらなる災いが生まれた。原発事故でありこれは収拾がつかないものとなった。この災いはあまりにも大きすぎたのである。この災いはどこからきたのか?災いは技わいであり人間の技がわざわいを生んだのである。水洗便所でもトイレでも便利なものだけど一旦事故になるとめんどうになる。災いになる。便利なものも圧りに追求すると必ず大きな災いが待っている。電気に頼り水道にたより車に頼りと便利なものに頼る現代生活は災害や事故になると弱いし莫大な被害にもなる。だから今になると大都会は本当は神戸地震のように非常に危険なものに見える。高層ビルが本当に崩壊しないかのか?それだって保証はない、地下を津浪で水浸しになるとか予想もつかない被害がでてくる。電気も水道も停まったりしたら交通も途絶える、車があっても石油がないと走らなかった。長蛇の列がガソリンスタンドにつづいた。水道も壊れ裏山の清水で急場をしのいだ人もいた。文明化した便利な生活は災害と事故に極端に弱いのである。裏山の清水や井戸水を利用していれば水道がなくても水は用意できる。
電気や石油を利用していなければ薪を燃やして煮炊きするほかない、それが電気に頼りガスにたよっていたらできないのである。ガスでも外から入ってこなかったら利用できないのだ。でも近くにあるもので水でも薪でも利用していたら自給自足の生活ならそうした災害事故にもしのぎやすいのである。

過去にも大きな災害が日本には度々あった。特に火事が多く、江戸だけではない火事はどこにでもあり町全体が被害にあった。でも江戸だったら長屋住まいだから火事になったら家財道具もなにもないから身一つ逃げればいいとなっていた。あとは延焼をとめるために家を壊すことしかなかった。そしてかえって多数の家が燃えて新しく家を建てるので景気よくなったとか言われる。災害に対しては何ももたないのがかえって有利だという逆説があるのだ。今の時代はいろいろなものをもちすぎるからかえって津浪から早く逃げろと言っても逃げない人が多くいて死んだ。江戸の長屋住まいのように身一つで逃げる習慣があったらとっさに逃げていたかもしれない、現代人はあまりにも多くのものをもちすぎるのである。復興するにも今度は水道だなんだかんだとインフラを整備するために大変な時間がかかるから進まないのである。海岸地帯でもそもそもなぜまた津浪がくる処に住んでいたかというとそこが便利だからである。また生活の糧が海にあるからどうしても海の近くに住むようになった。でも掘っ建て小屋のようになものを建てるなら簡単である。トイレにしても水洗となれば下水道が必要とかとても簡単にはできないのである。それが今回の津浪や原発事故でこの辺は復興できないほどの痛手をこうむったのである。市町村自体が災いの場になった。


●原発被害市町村には災いが外からももちこまれている


水洗トイレのトラブルはたいしたことがないようでもそれなりにパニックになった。文明化した生活はトラブルに弱い。一旦事故になると交通事故やその他被害が大き々なる。便利なものは何もなければ意識しない、パソコンでも壊れなければ意識しない、でも突然壊れるとパニック状態になりすべての記録も消失するのである。紙ならそういことはなかったのである。そういう経験を何度かしているからパソコンも一旦急に壊れると恐いしその被害が甚大になるのだ。水洗トイレと同じとは言えないにしても文明社会は一旦事故が起きたりとりかえしつかなくなる。それが原発事故だった。水洗トイレの水あふれてとめれなくなったように汚染水の処理ができなくなり海に流れだすとか止めようがなくなる。一時自分もパニックになったようにパニックになり解決できなくなり災いは災いを呼びとめられなくなる。それが原発事故だった。原発は事故さえ起きなければ悪いとはいえない。一旦事故が起きたら収支がつかなくなり抑えることもできなくなる恐怖であった。水も土も森も放射能汚染されて30年は使えないとかなってしまった。でも災害必ず来るしそれも予想できない、事故は必ず起きるようになっている。万全を尽くしても事故は起きるのである。実際災害や事故は予想されるからその予想をぬきにしては原発なども建設できない、人間の力ではどうにもならないものが自然から起きてくるからだ。一旦これだけの大事故になるともう修復できなくなる。災いが災いを呼び原発の被害地域は町も村も復興するにもすでに崩壊状態にある。


飯館村などでは個人の土地を買ってそこを放射能汚染したガレキの処理場にしようとか宗教団体も入りこんでいるという。つまりこのうよに弱体化した家でも市町村でもいいものだけが入ってきるとは限らない。悪いものが入りやすくもしているのだ。自分の家でも身内が認知症になってその後も介護になったりしてさんざんだった。その弱みにつけこまれ火事場泥棒があり今度借金を要求される。
自分が病気になっても同情などまるっきりない、弱者化したときこれ幸いと入院の保証人欄に名前を書くだけで借金が要求されるのである。それが世の中だということをつくづく知った。人が困ったら助ける人は今はほとんどいない、人が困ったらその困ったことで責めて借金してやろうとかなるのが普通である。だから連帯保証人が何百万にいるとなるとそれだけそうした恩とか義理ができるから断れないとなり自殺している人がそこで一番多いというのもわかる。災い家だけではない、災いの市町村とこの辺はなっていてそれで土地までそうした悪いものに奪われ遂にもう村は復興できなくなる。村の土地は虫食い状態になり村として維持できなくなる。まさに家が災いで維持できなくなるのと村が維持できなくなることもにているのだ。村が連帯するにしてもそれぞれの思惑は入り乱れもう村に帰れないから土地を売って他で生活するという人もかなりいるからすでに村はばらばらになり心もばらばらになっている。そういう状態では外からの圧力に負けてしまう。村を守るという気力も団結もなくなっているのだ。家でもそうだが外から食い荒らされるとまでなる。


政経東北5月号にこの個人の土地が買われることは書いてあったので参照を

 
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2013年05月19日

飯館村の土地か外部のものに買われようとしている (核廃棄物の最終処分場にするのがねらいだった?)


飯館村の土地か外部のものに買われようとしている

(核廃棄物の最終処分場にするのがねらいだった?)

●放射線量が低くてもなぜ強制移住させられたのか?


フクシマ第一原発付近の20キロ圏内の土地を、国が一兆4000億円で購入し、使用済み燃料の最終処分場にする

いろいろな形で買収範囲や買収価格など検討しているのは事実です

農業や畜産が不可能な地域となれば実質的に国が買い上げて移住していただくほかありません


放射能というのは素人にはわかりにくい、今でもわかりにくい、過度に危険だというものもいるしこのくらい何ら影響がないしかえって健康にもいいとか言う学者もいて混乱した。
そして30キロ圏外でもなるべくすぐ避難して下さいと急に言われたことである。確かに原発が爆発したからあれをみたら危険を感じた人も多いだろう。しかし自分などは何が起こったのかすぐに理解できなかった。30キロ圏外でも南相馬市でも鹿島区の人でも半分くらい避難した。バスが用意されたからである。それにしてもすぐバスにのって自分の土地から移ることは簡単にできない、だから30キロ圏外では半分にとどまった。20キロ圏内は強制的に移住させられた。その時やはり爆発したのだから危機感があったから住民は放射能のことはわからないにしても政府の支持に素直に従ったのである。でもあとから冷静に考えると小高区などは放射線量は実は中通り福島市や郡山市より低くかったのである。ただフクシマ原発が近いということで避難区域になった。


最初からこういうことを言う人がいた。核の廃棄物処理場にするために移動する必要ない人も移動させた。そのことも良くわからなかった。なぜなら移動させるにしても住民の数が多い、最初は補償金のことを考えなかったけど実際は莫大な補償金が払われることになった。そんな補償金が払えること自体驚きだった。そんな莫大な補償金を払ってまで核の廃棄物処理場にしたいのかというのも疑問だった。今でも補償金の額が大きいからそう思ってしまう。今後も国や東電で補償金を払い続けられるのかと思う。しかし今になるとなぜこんなに町民全部を移動させたのだろうか?放射線量の低い地域でも移動させたのだろうか?そのことが疑問になった。そして飯館村で放射線に汚染された廃棄場にしよと政府ではないが民間の人が土地を買ってくれと個人に頼んでいるという。他にも宗教団体が飯館村の土地を取得しようとはたらきかけているという。それは国がしていることではないが国も飯館村の土地を取得して核の廃棄物処理場にしたいということもある。それは20キロ圏内の住民を移住させた政府の意図だったということと通じていた。


●住民が移住することで分断された


町の住民が全部強制移住されたことで二年がたち何が起きてきたのか?住民の心がすでに分断されたことである。帰りたいという人帰りたくないという人によって分断された。老人は帰りたいというが若者はすでに帰りたくない、補償金をもらって新しく他の土地で生活を建て直したいという。この時点ですでに帰りたくない人はもう町や村や故郷を心の中で捨てたのである。老人は故郷に執着しているが農民の人は自分が耕した土地に一木一草に愛着があるとか言っていた。でも現代の生活はそうした第一次産業の割合が田舎でもこの辺でも全体の経済の一割にも満たなかったのである。原発の経済的効果は大きすぎたのである。敦賀原発でも経済が原発で成り立っているからとめられると困ると言っていたし原発があるところはどこでもそうなる。

そして現代は広域社会となっているとき移動するのが容易な社会である。農民だったら土地と一体だから移動しにくい、第一産業主体ならそうなりやすい、資源がその土地にあるだ。でも現代は会社員が大多数だとしたら会社があれば生活が成り立つとなる。だから浪江の人が鹿島区に家を借りて二本松に移った会社に車で通っていたのである。
つまり土地に糧を求めて生活していた時代とは違うから故郷に執着する人がいてもまた別に執着しない人もいる。その割合は大きくなっている。だから金さえもらえれば別に故郷の土地に執着する必要はないという心情になっている人が多いということも言える。


飯館村でインタ-ネットで主張していた人はあからさまに除染なんか無駄だ、補償金でもらって新しい土地でやりなおした方がいいと主張していた。その人は若い人ではない、年齢に関係なく補償金をもらって新しい土地でやりなおしたいという人も増えている。それも一つの主張である。ただそういう人たちはもう飯館村を捨てている。飯館村に住まないのだからその土地をできるだけ高く売りたいということしかなくなる。今までだったら飯館村に住んでいればこういう心情にはならない、例え住みにくくても貧しくても飯館村に住み死ぬのだという感覚になり自分の土地に愛着をもち住みよい場にしようとなる。それが移動したことによりその住んでいた土地から切り離されたことによってそういう心が失われたのである。ここが意外と深刻なものなのかもしれない、すると誰でもいい、悪徳業者でも宗教団体でも何でもいい、政府が買ってくれないなら高く売れるなら誰でもいいとなる。
そこにはもはや飯館村を維持するなにものもなくなっている。ただいかに土地を高く売ることしか頭になくなっているのだ。俺の土地は俺の土地であり財産でありどこに売ろうが関係ない、どうせ住むことはないのだから関係ないとなってしまった。


●市町村の連帯感を喪失させた強制移住


20キロ圏内とか飯館村や大内村の強制移住で起きたことは何か?それは住民の連帯が失われたことである。その一番の原因が自分たちの住んでいる村や町や市から離れたことなのである。これが結局致命的なものとなっていた。もしいくら公害があっても水俣病でもそこに住んでいればこうはならなかった。ヘドロの海になってもそこに住んでいればなんとかきれいにしてもらいたい、元の海にもどしたいとなり現実にそこに住んでいたから元のきれいな海にもどったのである。それはそこに住んでいる住民がヘドロの海と一緒に住んでいたからそうなった。そこに住んでいればなんとかしてきれいにしてもらいたいと運動するからである。ところが今回の原発事故は肝心の住民が移動させられたことである。そして帰りたいという人と帰りたくない人とかに分断されたことなのである。そこに住んでいればなんとか海をきれいにしてもらいたいと住民運動がありうる。でもそこに住んでいないのだから住めなくされたとしたらもう住めないのかとなりでは補償金をもらって新しい土地でやり直す他ないと考える。新しい土地でやりなおすにはまず金だとなり除染なんか無駄なんだからゼネコンに金を払うより個人に補償金を払ってくれというのも理にかなっている。

現実に避難した人たちは補償金が一か月百万とかもらえるとなることに驚いているかもしれない、こんなにもらえるならいいや、もう他で暮らそうとか、仕事のしていなかった、ニ-トとかは喜んでいるのである。生活保護もらえばいいやとかなりギャンブルに明け暮れている。東京の方まで行って遊んでいるのも事実なのである。
金の世の中だというとき金があれば容易に他に移っても生活できる広域社会だということである。
金の力はかえってグロ-バル社会になったとき外部で大きな力を持つ、後進国では日本の金が十倍の価値にもなっていた。これまでの社会は金より土地とか森林の木材とかそうした資源の方が価値があった。土地もち山もちが裕福な人だったのである。そういう資産があって金にも価値があった。

現代は金が第一だというとき広域社会になったから金さえあれば外部からも食糧でも何でも買うことができる。現実に避難した人でも食糧を現地で生産しなくてもいくらでも食糧が入ってくるから困らないのである。つまり現代社会は土地中心の社会でないからまたその市町村も解体しやすいということも起きているのかもしれない、大内村の人が郡山市で便利な生活をするようになったら帰りたくなくなったというのもそうである。補償金をもらって生活した方がいいとなった。そうしたところでは都会にはない住民のつながりがありそこに価値があったというのもある。でもそういう人とのつながりも広域社会になると便利さの方がいいともなる。人とのつながりといっても希薄化してたともいえる。実際は人とのつながりより金だというのも現実だった。そういうことも露骨に現れているのかもしれない、現代の社会はこうして金が第一の社会になるとまた解体しやすいということがあった。

村を守ろうだとかならず、個人個人がまず補償金だ、それで広域社会の中で個人個人が金を頼りに生きているように村の人とのつながりとかが解体しやすくなり一旦住まなくなったら金しか関心がなくなった。

結局このことは村が解体して喪失してそこが核廃棄物の処理場になりやすいことになった。それは政府の目論見であったからその通り進んでいるともなる。そうさせられたのは強制移住の結果だった。人がすでに住んでいないということは致命的になった。そして帰らないという人も増えたことも致命的だった。だから政府の思惑通りに20キロ圏内とか飯館村とか放射能汚染の町や村は核の廃棄物処理場になりやすい、まず人が住んでいないのだから反対するにしても抵抗する人がいない、立入禁止なのだから強制的に政府が廃棄場にしても強制執行しやすいのである。
 

法律でも占有権とかありその土地に最初に住んだものが権利が生まれる
また土地をもっているだけでも権利が生まれない、その土地を有効活用するものが権利が生まれる。その土地に労働を加えたものがその土地に権利をもつ、それで地主制度は廃止された


その土地に住まないものはすでにその土地の権利を放棄した!


法律はわからないにしても現実問題として避難住民は強制的に権利を喪失させられたとも言える。

 


 

posted by 老鶯 at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年05月20日

田んぼは米を作るだけではない日本人の血肉となった風景だった (グロ-バル化で文化が破壊される深刻さに日本人は気づいていない)


田んぼは米を作るだけではない日本人の血肉となった風景だった

(グロ-バル化で文化が破壊される深刻さに日本人は気づいていない)

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相馬市の風景

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南相馬市の風景

五本松植田になじむ景色かな

草原のかなたに望む夏の海
老鶯や広間に障子ものを書く

遠くまで夕べ明るし夏雲雀

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この辺の不思議は南相馬市と相馬市とは今や違った風景になっていることでてある。このことは前も書いてきた。すでに津浪原発事故から二年過ぎた。でも南相馬市と相馬市は風景が違っている。鹿島区までは草茫々であり田んぼがないから蛙もほとんどなかないし鷺もいない、植田もない。
それが相馬市に行くと今までと同じ景色になっている。
そして気づいたことが日本人がいかにその風景と一体となっていたかである。それはもはや理屈ではない、風景が血肉となり心と一体となっていた。文化とはまさに風土だということが理屈でなしにわかる。文化は理屈ではない、血肉となったものでありその血肉となった風土から切り離されたとき日本人は日本人でなくなる。


これは草茫々の草原地帯になって以来毎日感じていたことである。ここはどこなのか?日本ではない、北海道だとかモンゴルの草原だとか感じた。田んぼの感覚とはあまりにも違っていたのである。
風土が変われば明かにその心も変わってしまうのだ。まるで違った感覚に生きることになる。それは北海道に旅行ではなく長くいればそうなってくる。そこには田んぼがないからだ。

北海道はだから日本では異質な空間となっていたのである。ただ湿地帯とかは草茫々になり水がたまったとき同じような景色になった。そこは共通していたのである。

外国に長く住んだりして日本に帰り田んぼの景色を見たらほっとする。ああ、日本に帰ってきたなと思うだろう。ただ田んぼは別にアジアにあるから日本だけの景色ではない、松の景色は日本独特だった。ともかく田んぼや松や社の景色はそもそも日本がはじまって以来ある風景なのである。

これはだから理屈ではない、血肉化していた。水が流れるのはまるで血液が流れると同じだったということを詩にしたがそうだった。田んぼはそれほど日本人の原風景でありそれは単に米を作り食べるというだけではない、山が水を供給して先祖が祀られているようにそれはまさに日本人の血肉となった風景であった。そのことはだから別に何も文化人が問題にするだけではない、理屈なしで日本人がその風土と一体化していたのである。農民は一木一草に愛着をもっているというのもそのことである。

例えば世界には別に日本のような風景だけではない、砂漠のような所もある。これもあまりにも異質であり砂漠の中に一週間でもいたら気が狂うようになるかもしれない、一木一草もない世界なのである。実際にモ-ゼが上ったというシナイ山に上ったがそこに一木一草もない岩山だからけだった。たいがい外国の山は木がないのが多いのである。岩山砂山と名づけられたのが多い。森がない山なのである。そういうところから厳しい一神教が生まれた。この風土はあまりにも厳しいから田んぼの風土とはまるで違った想像を絶するものだったのである。


老鶯とか夏鶯なども日本の季語であり老鶯を一応自分の俳号にしたのは老鶯はまさに老いても歌っているものだからである。自分は老いてから自分でも言うのも変だがいいものができてきた。老鶯の歌っている時期は8月まで鳴いているから時期が長いのである。
そしてやはり老鶯の鳴き声が家の中に聞こえてきた。自分の家は大きな家だったが八畳間など利用していなかった。今は一人で八畳間も6畳間も利用している。そこではゆったりとした気分になる。
そのときものを書くにふさわしい空間となっていた。ものを書くと言っても今やバソコンでプログに書いているから違っている。

つくづく障子であれ畳みであれ日本間であれこれも日本的文化の血肉化したものなのである。
それがまた老鶯の鳴き声と融和してゆく、自然と融和してゆく空間として日本間もあった。

文化とは長い年月で血肉化したものでありそれは食文化でも同じであり文化というとき実際はその国の生活全般にかかわるものである。
だから文化を破壊することは血肉化したものを破壊するから実際は相当な深刻なものとして影響する。グロ-バル化で食文化であれいろいろな日本の文化を破壊することは心まで破壊される危険なものだったのである。実際にあまりの西欧化でアメリカ化にもなり日本人の心まで破壊されたのである。それがいかに深刻なものか理解している人は少ない、文化というとき茶道とか歌舞伎とか俳句とか一つの芸ではない、田んぼがあり山の神がありそうした祭りがあり風土があり全体のことなのである。食文化もその基礎にありそれが破壊されることは日本人の魂が破壊されたことだったのである。
その危機感が日本人にはまるでなかったのである。

2013年05月21日

弱者を相手にする職業は権力を持つものは人格がゆがむ (医者、看護師、介護士、福祉関係の仕事)


弱者を相手にする職業は権力を持つものは人格がゆがむ

(医者、看護師、介護士、福祉関係の仕事)
 
家族が看護師から虐待、虐めを受けています。
詳しくは書けないのですが、当分の間、他へ移る事は難しく、
看護師の虐めを公的機関(役所、保健所、法ム省)に相談しても
何の対応もしてくれません。
弁護士に相談しても証拠がないから他へ移るようにと言われ、
困っています。すぐには移れないので。


このままだと家族が看護師から何をされるのか?と思うと恐怖で
なりません。家族にまで電話をしてきて意味不明な暴言を吐き
まくり、家族に対しては健康や医療行為を妨げる行為を
平気でしている看護師に対して厳しい処罰を施したいのですが、
何か良い方法ないでしょうか?
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/hosp/1293579580/l50


医者と看護師を比べたとき医者の権力は看護師よりだんとつに大きい。それでも看護師が力がないかというと医者に対してそれなりに力をもっている。看護師に医者も協力してもらわないと仕事ができないからだ。病院では看護師の数が多いし看護師も結構力をもっているのだ。看護師の評判が悪い医者は仕事がスム-ズにできなくなる。


ではなぜこれほど医者とか看護師の悪口が多いのか?ここに明かに何らかの根本的な問題がある。
それは弱者を相手にすいる職業はどうしても人格がゆがんでくるということでてある。
医者とか看護師とか福祉関係は常に病人であり身体障害者であり精神的障害であれ弱者なのである。その弱者を相手にすることが人格を自ずとゆがめさせるのである。
医者と患者の関係は看護師でも普通の関係ではない、絶対的強者と弱者の関係になり強者に絶対服従の奴隷的関係になるのだ。そこに医者や看護師や福祉関係でもまた権力をもっているものは警察でも人格がゆがんだ人が多いのは相手を奴隷のように服従させることができるからなのだ。


普通の社会の人間関係は別に強者と弱者に明確に別れていないのである。ただ一般的に商売しているような人は常に客には低姿勢になっている。コンビニであれ小さな商店であれビジネスにたずさわる人でも客との関係で低姿勢になっている。ところが医者とか看護師や福祉関係は相手は病人だったり老人だったり身体障害者だったりと常に弱者を相手にしているから高姿勢になり謙虚さがなくなるのだ。ほかの職業は社会ではどうしても低姿勢にならざるをえないから謙虚さが自ずと身につくというより威張ることもできないのである。だから弱者を相手にするものは何らか人格に必然的にゆがみが生まれる。


自分が身内が病気になったりして自分も病気になり二回も入院してそのことを嫌というほど体験した。弱者になったとたんに人の態度はまるで変わってしまうのである。普通に差別があるしその弱みにつけこまれて火事場泥棒にあったり精神的にも虐待されつづけたのである。弱者に対して人間は同情するということもあるが逆に優越感にひたり虐待することもあるのだ。田舎でわかったことは「他人の不幸は蜜の味」ということがあからさまに現れるのである。都会では無関心だが田舎では狭い人間関係の中で露骨に人間の悪い性格が現れやすいのである。田舎では他人の不幸が楽しみになりやすいのである。


自分の親戚というものでもなかったが最初はわからなかったがだんだん虐待になってきたのである。二年間は身体障害者になっていたし相手がどんなことを言ってきても逆らうことができなかった。
自分が弱者になって相手が強者になったのである。それは医者や看護師と患者の関係とにていたのである。「お前は俺たちの言うことを聞かないならめんどうみない・・」とかなんとか入院しているときも恐喝してきた。もちろん相手も借金などで困っていたからそうなっていた。でも自分は病気であり身体障害者になっていたのだから相手のことを気づかう余裕がなかったのである。でも相手はそんなことをかまわないのである。一旦弱者になると人間の悪い性根が露骨に出やすいのである。
強者だったら低姿勢になっているが一旦弱者になると責めてくるそれが人間社会には常にあった。
まさに弱肉強食が人間の世の中でもあった。


いつも低姿勢の中で生きているのが大多数かもしれない、ただ医者とか看護師とか福祉関係や警察などは違う゛公務員などもそうかもしれない、常に上にたち権力をもつものとして威張れる。そこで性格がゆがんでくる。「俺は偉いんだ・・俺の言うことは聞け・・」とか一方的な強圧的な性格になりやすい、謙虚さがなくなる。一方いつも低姿勢で生きざるえない人も実は一旦権力をもつと高姿勢に変わる。いつも虐げられていた弱者として扱われていたから今度は逆に強者になったとき相手を虐待することがありうる。いつもいじめられていた人はまた強者になったとき弱者をいじめやすいのである。親戚の人はそういう人だった。いじめられていたから強者になったときいじめるということがあった。


そもそもそれは誰彼というのではなく人間性の悪質性がありそうなっていることがわかった。人間とはそういう悪質なものなのである。それが相手が弱者になったとき隠された本性が一番現れやすいのである。医者や看護師や福祉関係や警察官などは日常的にそうなっているから人格がゆがんでくるのだ。相手を奴隷のように扱いやすいのである。それが当たり前の世界になっているから当然その職業によって悪しき人格が形成されるのである。だから職業が人格を作るというときまさにその職業につけばそうなりやすいということである。


結局人間の歴史自体弱肉強食の世界だった。国と国同士も食うか食われるかの世界だった。今でこそヨ-ロッパが優位にたっていたけどヨ-ロッパ人の女性がイスラム社会に5ドルで買われていたという時代があった。まさにイスラム社会が優位にヨ-ロッパは辺境人だったという社会があったのである。それが逆転したのである。歴史でもそうだが強者がいつまでも強者ではない弱者に転落する。

アメリカがいつまでも強者ではない、必ず弱者にいつか転落する。個人でもいつまでも強者でありえない、そういうことをまじかでまざまざと見たら驚きだった。体も健康優良児で頭もいい人が認知症になってしまった。完全な弱者となってしまった驚きである。それはもう年とればみんな弱者に転落する。いくら大金持ちでも地位があろうが権力があっても体も頭もだめになって弱者に転落するのである。どんな人も弱者になるということである。例え金があっても高額な施設に入っても優遇はされない、福祉では施設では金持ちだからといって威張ることはできない、家族とは違うのだから金持ちも施設では虐待されたりするのである。悲しい末路だとか週刊誌にも書いてあった。金持ちはどうしても家族でめんどうみる人は少ない、金で高額の老人ホ-ムに預けられ弱者に転落するのである。


具体的に病院に入院した経験では南相馬市立病院と相馬総合病院しかないが相馬総合病院では一人の看護師に虐待された。泌尿器系統はどうしても汚すことがある。それをものすごい剣幕でしかられたのである。この点では南相馬市立病院の方が看護師は優しかったのかと思う。ただそこは医者が一人若いのしかいず患者を診る体制がなかったのである。相馬総合病院は三人もいたし回診も二回だから全然違っていたのである。ともかく一人でもそうした印象悪くする医者でも看護師でもいるとそのことが全体に影響する。だから南相馬市立病院の看護師はそういうことを一か月入院して経験していないから意外と親切だったなとふりかえるのである。それはあくまでも二つの病院しか知らないからそうなっている。一人でも印象が悪いと私的なものだが印象が悪くなるのも事実である。だからといって南相馬市立病院の看護師がすべていいとはならない,隣では特養の身寄りのない老人をオモチャのように扱っていたからである。ただ病院の評価は個々人で違ってくる。
一般的にはどうしても強者と弱者の関係でありそこからゆがみが生まれてくるのである。
その関係は正常な関係ではない、健康なものの同士のつきあいでもないから異常な関係になっているのだ。

夏菊(デジカメで肉眼で見えないものが見える)


夏菊(デジカメで肉眼で見えないものが見える)

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夏菊の写真はクリック拡大!



この丘ゆかなた波しぶく夏の海

新緑の森のかなたや鹿狼山
森深く遠くにひびく夏の鳥
穏やかに日影に日がな藤の花
千輪の夏菊白し汚点なく
夏菊の大空仰ぎ伸び咲きぬ
三色のつつじや人の交わりぬ
涼しさや我が庭のありそよぐ風


夏菊の千輪白く風にゆれ一輪一輪喜び咲けり

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今日は川子の高台から海を見て森をぬけてイオンを回った。やはり今頃の季節が春から5月が一番気持ちいい。川子の高台はビュ-ポイントである。あそこはなかなか土地の人でないとわからないだろう。そういうビュ-ポイントは各地にあるが地元の人でないとわかりにくいのがあるのだ。あそこは松原がなくなり海が直接見えるようになったことが違っている。意外と海が直接見える場が少なかったのである。松原の影響で見えないことがあった。朝には白い波がしぶくのが見えた。

森の彼方には鹿狼山が見えた、写真ではぼやけていた。あそこから鹿狼山を見たのも始めてだった。意外と近くのことを良く見ていないのだ。低い山だけど鹿狼山はこの辺では目印になく山である。

イオンに行く川の土手に白い夏菊が一面に咲いていた。あれは見物である。デジカメで撮ったら
夏菊が大空に伸びるように咲いていたことである。これは肉眼で感じなかった。それからこの夏菊がみんな風でゆれていたのも見物だった。やはりデジカメは見えないもの見えさせることがある。
それもたまたま適当な角度から何枚もとると見えてくるのだ。別に計画して見えたわけではないのだ。
イオンでは三色のツツジがあざやかに咲いていた。


最近体の調子が良くなったしもっと遠くに出かけたいがなかなか介護でできない、それにしても近くでも見えないものがまだあることの不思議である。たいがい全部見たような気がするからだ。


藤の花の時期だけど日影に穏やかに咲いているのがにあっている。この6年間あまりにも穏やかでない生活がつづきすぎたのである。だから災いのなく穏やかにあって欲しいということがこの辺では切なる願いになってしまったのである。ただ一人でも病人とか介護している実際は穏やかではなくなる。

 


 

2013年05月23日

株も運なのか? (財産は努力しても得られない、fortune(財産)は運である)


株も運なのか?

(財産は努力しても得られない、fortune(財産)は運である)


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●財産は運(fortune)


fortune
身代, 運, 幸, 資産, 資財, 福徳, 富, 富み, 吉凶, 昌運, 運勢, 幸い, 財産, 盛運, 幸運, 好運, 好事, 身上, 運気, 財, フォーチュン, 産


Fortune
運命の女神.


印欧語根
bher- 運ぶこと、実行すること、または、子供を産むことを表す印欧語根。語幹fer(offer, transferなど)の由来として、運ぶこと。他の重要な派生語は、bear, birth, peripheralなど。



みんな誰しも金が欲しくないという人はいない、毎日頭から金のことが離れない、では財産どうしてできるのか?こつこつ貯めてできるのか?それも無視できないにしろそれで財産を築けただろうか?
そういう人の確率はどれくらいあるのだろうか?というとき何か疑問なのである。
金はためようとしてもたまらない、もうけようとしてももうけられない、金はたまるのだと宗教者が言っていた。富とか財産とかが古来からfortune(運)と一体として考えられてきたのはそのためである。努力の結果として財産が築けるとは限らないから古来からfortune(運)の意味になっていたのである。もちろんこつこつとためれば金もたまる。高齢化でそういう例がある。年金一か月二万五千円もらっていた人が60から90まで使わずに30年間ためると30000×12×30=10800000になった。
高齢化社会だともう90まで生きている人がめずらしくないからこういう人も現実にいるということである。このことは逆に年金を長い間、払い続けなければならないから高齢化は若い人にとっては相当な負担になりつつづけるのである。これもやはり高齢化で生まれた金勘定だったのである。


ではこの人が財産家になっているかというとなっていない、生来がやはり貧乏性だったからその金もつまらない犯罪で失ったのである。振り込め詐欺のようなことで失ったりする。財産はもともとそんなふうにしてたまらないと思う。財産家を見てみたらそんなふうにしてこつこつ貯めて財産家になっている人は少ないと思う。身近でも財産家をどういう人がなるのか見ていたらこつこつと貯めて財産家になったような人は確率的には相当少ない、財産が入るのはやはり運(fortune)が多いのではないか?なんげあの人が金が入ってくるのか、さほど努力もしないのになぜなのか?そういう事例を近くに見ていないか?

 
それはこの辺で住宅の宅地区画整理でそもそも金がなくて家も建てられないような人が立派な家を建てることができた。それも広い土地が与えられたのである。それだけで何千万もかかっていたが自分では金は全然払っていなかったのである。そういう公共事業であり国から金が支払われたからである。これは全く運があってまさfortune(財産)が生まれたのである。道路などできるとそこに土地をもっていた人は思わぬ金が入ることがある。運は何かそうした外部からの影響があってなることが多い、語源が運ぶことにあるのもどこからか外部から運ばれるのが運でありfortune(財産)になるのである。商人が財産家になりやすいのは運ぶことによっている。運ぶことによって巨利を得ることがある。国と国の貿易が巨額の利益を得ることになるのもそのためである。


●こつこつためても金はたまらない


自分の一身上のことでも一時自分の家が商店を開いたときは繁盛した。そこで一財産築いた。今の家が建ったのもそのためである。ただその時はみんな小商店でも高度成長の波にのって商店街は繁盛したのである。それは小さな工場とか小資本の商売もみんな繁盛したのである。だからその時は自分だけの力ではない、富は日本全体に及んでいたからみんな財産を得たのである。所得倍増に本当になったのである。つまり富は決して自分だけでは築けない、その時日本全体の経済がどうなっているのか、昇り調子なのか下降気味なのか、世界全体ではどうかなどが関係してくる。富はそもそもどんな財産家でもその人一人で築けるものではない、だから富は公平に分配されるべきだというのも一理あるわけになる。富はどんなに能力があっても努力しても一人では築けないものになっているからだ。
現実には必ず栄枯盛衰がありある個人に家に富はとどまることがない、必ず個人でも家でも国単位でも富は移動しているのだ。そういうふふうに見るとき日本の富は限界に達して他の国移るのが順序だというこきともいえる。だからもう日本の経済はこれ以上伸びない限界説がでてくる。株ももちろん金融であげても上がらないとなる。


ただ富をえるために古来から諺(ことわざ)にあることは真理である。
「あわてる乞食はもらいが少ない」「せいては事をしそんじる」とかは今でも通用している。
結局株があがったからあわてて買ったということで多くの素人が損するかもしれない、そういうふうに仕組まれていたのかもしれない、株は素人はもうけられないという人もいるからだ。
株でなくても「あわてる乞食はもらいが少ない」「せいては事をしそんじる」とか普遍的真理である。金がない人はまたあわてる、余裕がないからあわてる、今金を得よう得ようとあせりかえって金を失ったりする。余裕がない人は失敗しやすい、仕事もできないのである。
バチンコやっている人と借金ある人とは経営者は組まない、採用しないというときそういう人は信用できない、余裕がないから仕事もできないのである。

まず相手のことを余裕をもって配慮することすらできない、絶えず借金に追われ頭にそれしかなくなる。相手のことを慮(おもんぱかる)余裕がないのだ。つまり相手がどうなろうとかまわない、自分のことしか考えられてくなるのだ。そういうふうに相手のことを慮(おもんぱかる)ことができないならビジネス自体成り立たないだろう。借金していると何か追いつめられているから犯罪者に近くなっているのが多くないか?


●自分が調子良くなったから株を買った


ただ今回株が上がったのも一時的であり金融政策の結果であり日本の経済が高度成長のように好調になったからとはならない。それでまた株が下がったともなる。高度成長のような好景気はもう日本には来ないのかもしれない、日本の富は限界であり他国に移ってゆくということもある。
それでも自分も今回また投資信託で株を買ったのはなぜか?

それはちょうど自分が5年前に投資信託を買った時期と同じだった。その時も株は1万5000円で上がり調子だったのである。それから下落一方になったのである。それは同じ傾向にも今もなっているのか?自分の運不運からみると本当にその苦しみをプログに書いてきたように苦難の連続だった。それは2006年からはじまっていた。株が下がり始めた時と一致していたのである。

その自分の不運や苦難は自分だけにはとまらなかった。回りが津浪の被害や原発事故などでこの辺は自分の苦難だけではない回りも最悪の状態になっていたのである。その時自分も病気になり一か月入院したり最近は手術して二週間入院したりと苦難の連続だった。その間二年間は身体障害者でありこれもふりかえると実際苦しいことだった。ただそうした自分の苦しいことで同情した人は一人しかいない、かえって火事場泥棒だとかいろいろ苦しいとき責められつづけたのである。何より健康でないことが苦しさを増したのである。


そしてその苦しみも継続中でも自分の健康が回復したことで楽になった。自分の状態が楽になった、余裕ができたということでまた株が上がっているということで投資信託で株を買った。5年間塩漬けであり放置したが株はまた上がるものだと思ったからだ。ただまた株が下り5年前と同じ下降線をだとるのか?それは自分の運命曲線からすると上がり調子だから株をまた買った。ただ投資信託は長期戦用だった。だから5年間で一回売っていないし放置していたのである。

自分がここで何を言いたいかというと自分の調子が上がり調子になった。だから余裕ができたから株を買ったのである。そもそも大学の経済学の先生が株だけはやるなと忠告していた。それだけ専門家でも株ではもうけられないのが多いのだ。専門家でも株はギャンブルなのである。
だから5年前と同じ様に下降一方になるのか?それは今回が自分が調子が上がり調子になったのでそうはみない。自分の運、不運があり運が上向きになった、つきがでてきたからギャンブルのようにして株を買ったのである。額はさほど大きくないからどうでもいいということもある。


 

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2013年05月24日

家事の機械化の意味するもの (人を雇うのはめんどうすぎるから機械化になった)


家事の機械化の意味するもの

(人を雇うのはめんどうすぎるから機械化になった)



私なんて専業主婦なのに家事が嫌いです(爆)
もう19年にもなるのに・・・
嫌いだし正しいやり方かどうかも自信がなくて、
娘4人もいるのに家事を教えることができません。
こうして家事ができない女が増殖していくのです。

あまりのダメっぷりに、夫はいろいろ機械を導入してくれました。
機械のほうが信用できるそうです(私の信用ゼロ!?)


高齢者です。
やらなければいけないから仕方なくやってきました。

特に料理、なんで人間は一日に3回も食事をするのか
それも365日延々と続く。
せめて3日でもいいから家事から解放されたら、などとも
思いましたが夢のユメでした。


私たちの子どもの世代では、子どもを持たない割合が38%、孫を持たない割合は50%になるだろうと言われている。家族で支え合うことが難しくなるということです。

 その結果、世帯構成が変わり、例えば一人世帯が増える。ならば、どうするか。生活の中での効率化という視点が意味を持ってくる。人がするべきことは人がするべきですが、人がものとかかわるような場面で、人でしなくてもよいことは機械がやればいい。そうすることで、さまざまな負担が軽減できるようになるわけです。
http://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=001539


●女中は戦前は家事手伝いとしてあったから抵抗感がなかった
 
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女中というのは戦前までは女性が経験するものとしてあった。それは嫁入りの修行とか単に賃金をもらうだけではないメリットもあった。家の中で働くことが若い女性の働き口であった。そういう社会では女中であることはめずらしくないし女中を雇うことも抵抗がない、一つの歴史として文化として女中という仕事があった。それはどうしても家事が機械化されていないから骨の折れる労働になっていたからだ。洗濯自体が洗濯機がないとき洗濯板でごしごし洗っていたのだからその労力は大きなものだった。家事自体が女性の仕事の大半をしめていたのだ。だから若い人は結婚前の女性は嫁入り前の仕事として女中を選ぶことは社会慣習としてあったのだから雇う人も雇われる人も抵抗感がなかったのである。


戦後は社会が急速に変化した。家族は核家族化して大家族が消えていった。高度成長時代になり人手不足の時代になった。そこで若い女性は工場労働者となったり働き口が増えたのである。それで家事に手が回らなくなり家事は機械化され外注されるようになった。
オカズも惣菜屋とかでまにあわせて家事は洗濯でも掃除でも機械化した。女性はその分外で働き稼いだ金で電化製品を買うようになったのである。
機械化というとき別に家事だけではない、あらゆるものが機械化がどんどん進んだのが戦後でありそれは今なお継続中である。もう理想はロボットで家事をやってもらうことなのだ。介護でもロボットにしてもらいたいという願望があり開発されている。結局こうしたあらゆるものの機械化は何を意味しているのか?


雇う側からすれば個人の家だろうが会社だろうが人を雇うことほどめんどうなことはないからである。特に家の中で働いてもらうことが一番めんどうなのことなのである。そのことが後進国の人がフィリンピンであれ手伝いとして雇用されるがそこで問題が起きる。
日本でもアジアなどの後進国でどうしても人を家事のために雇わねばならないから問題が起きる。この世で人間ほどめんどうなものはない、人間は使う方から見るとどれほどめんどうなものか?
機械化する原因はやはり雇う方にすると人間があまりにも要求が多くて仕事させるのがむずかしいからである。

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https://www.gcoe-intimacy.jp/images/
library/File/working_paper/New%20WP/
WP_NextGenerationResearch_11_YAMAMOTO_s.pdf


家の中で働いてもらうには機械のようにはいかない、いろいろと気を使うし信用もできないからさらに疲れる。戦前のように嫁入り修行だとかモチベ-ションがあればいいが今は賃金しかないから余計に気を使う。そして人間と人間の信用関係は長い時間がかかる。すると何かしてもらうには機械の方が便利だとなる。それが人間が機械化する大きな要因でもあったのだ。


別に今家族の中で働く人手がたりないということではない、働ける60代の人が相当にいる。でもその人たちはゲ-トボ-ルとかパ-クゴルフとかして働かない、原発事故地帯では働ける人も補償金もらっているから働かない、そういう働けるのに働かない人も今の時代は膨大になっているのだ。いくらそういう人がいてもその人たちは金があれば無理して働かないのである。それでますます機械に頼る生活になっている。電化製品はそれで実際はますます必要になってくる。料理するにはガスよりIHヒ-タ-が便利である。安全装置があり今度は自分も安いのを買うことにした。ガスだとガスを消すのが忘れやすいのだ特に自分の家は台所と食事するところが離れている古い家だから特にそうなのである。だからなんとか家事をやりやすくするために機械に頼らざるをえないのである。いろいろ験してみたがおかゆメ-カ-は使えなかった。機械も使いこなすのがパソコンのように馴れるまで結構手間がかかるのである。


●時間給とか人生の時間を切り売りしたくない


ともかく人間は一つの機械のように部品のうよに使えないめんどうなものである。人を使うということはその全人間が問題になってしまう。それを無視して派遣だとかアルバイトだとかパ-トだとか一時的に便宜的に人間の時間をさいて働いてもらうのはそれは雇用主側の要求でそうなっているのだろう。人間はそんな時間を切り売りするような働き方をしたくないというのが普通である。人間は時間ほど貴重なものはない、その時間を部分化され賃金のためにパ-ト化されるのは人間を無視していることなのだ。ただ雇う側からするとどうしてもそんな全人間を相手にするようなことをしていられない、便宜的に効率的に安く雇いたいとなる。それで今のような人間の時間を人生を切り売りするような労働形態が生まれたのである。だからこそ雇用する側からすると人間より機械の方がいい、いっそうロボットの方がいいとなる。現実的にパ-トとか派遣とかアルバイトとかの雇用は人間のロボット化なのである。現代の雇用形態自体が無数に部分化した労働になっているのだ。そこから人間疎外が言われるようになったのである。ス-パ-でも労働力不足になると自分で機械を操作して計算してカ-ドで金を払うとか自動化する。それは雇い主のためというより客のためにもなる。そうして労働力を省けば品物のコストが安くなるということもある。


労働は雇う側と雇われる側ではそこに大きな溝があり埋められないのである。実際は雇う側も雇われる側も一体化する、区別がないような労働形態が理想でありそういう会社を小規模ながら目指している所が紹介された。そもそも一時間いくらとか時給制という働き方自体が人間を無視したものである。人間を雇い主の都合によりロボット化機械化したものなのである。それより戦前のように雇う人も使用人も一つの家族のようになっているのがかえって全人間的な働き方だったかもしれない、現実に一つの墓に使用人の名前が記されている所が一緒に墓に埋められているのがある。それは墓まで一緒だったとなりそれなりに家族のようになっていたとなる。ただこれもいろいろな見方がある。そんなものは一方的に奴隷のように地主にでも働かされたのだろうとかともなる。

ロ-マ帝国のような奴隷制でも結局人間を奴隷として扱うことはできないからこそ主人と奴隷でも人間的なものが生まれたし奴隷制は廃止されたのである。現代もやはりロ-マ帝国のように露骨ではないにしろ社会組織の中で奴隷制が生まれているとも言える。それで働くこと自体に抵抗を感じるから働かない人もニ-トなどもでてくる理由にもなる。もし働くことが自らの価値観で自ら求めてその働くことに満足するならいいがほとんどの人は満足していない、自分は奴隷だよとなっているから問題があるのだ。ただこうしたことは何千年前から継続された人間の問題であり簡単に解決しない、その解決方法として機械化がロボットに労働を代行してもらうということになったのである。


 それにしてもあまりにも機械化された結果、農家でも昔は村のもの総出で田植えとか稲刈りをしていたときそのとき協働することで連帯が生まれていた。今でも家族総出で田植えしているときそういうものを感じる。大家族で労働しているとき協働しているとき家族の連帯も生まれたのである。
つまり労働を通して家族のつながりや地域のつながりが作られていたのである。
労働は単に便利になればいいというものでもなかったのである。だからいくら人間の労働を機械化してもロボットにしてようとしてもそこに必ず欠けたものが生まれ矛盾が生まれる。
何でも便利に使用として機械化しても何にしても人間はうまくかないものなのである。
どんなことしてもすべてを機械に代行することなどできないのである。


 

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2013年05月27日

藤の花と菖蒲(相馬市へ-蛙は人間と一体だった)


藤の花と菖蒲(相馬市へ-蛙は人間と一体だった)


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草原に燕交差し夏雲雀

この道や夕べ日影に藤の花
天守なし六万石や蛙鳴く

人のなお交わる夕べツツジかな

長々と紫と白の藤の花垂れ咲き農家の庭の広しも
城跡に藤の花かな夕日さし白きつつじの映えつつ暮れぬ
紫の菖蒲の堀に写しつつ我がより歩み相馬市暮れぬ
女子高生そぞろ歩みぬお掘りばた菖蒲の咲きつ夕暮れぬかも

藤の花風にそよゆれ事もなく夕べ静かにこの道帰りぬ

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南相馬市で田畑が草ぼうぼうなのは田んぼの場合、区画整理が進まないからだと言っていた。日本の田んぼは細分化して所有されているから区画整理するのに時間がかかる。別に田畑を作るなということではなくなったのか?何年かは禁止されていると思った。5年間は作れないと農家の人が言っていたからだ。ただ補償は南相馬市は避難した小高地域くらいしかないのか?耕作する許可はすでに出ているのか?

ともかく南相馬市と相馬市は一番の相違は田が南相馬市にはない、草茫々になり草原化している。そして蛙が鳴かないから相馬市に行くとその違いをいつも感じるようになった。日本で蛙が鳴かない、蛙の声を聞かないということは意外と大きな変化だった。蛙はもはや単なる蛙でなくなっていた。

人間と密接に通じあった蛙だったのである。蛙などいなくても食うに困るわけではないとかみるものもいるだろう。でも蛙は田を人間が作り出したとき蛙もその田に棲むようになった。その歴史が長いから理屈ではない、奥深い精神で一体化していたのである。だから斎藤茂吉の短歌が生まれた。
蛙の声が死者を送るとまでなっていたのである。それほど蛙は蛙の声は人間と一体化していた。
これはおそらく蝉でも同じである。蝉の声が聞こえなくなったらどうなるのか?


それも蛙の声が聞こえなくなくなるのとにている。「静けさや岩にしみいる蝉の声-芭蕉」蝉の声は岩と一体化してあり芭蕉は死んでも蝉の声を聞こうとしていたのである。だから「やがて死ぬ景色見えず蝉の声」の句ができた。そもそも蝉の声にこれほどこだわることがわかりにくい、それは蛙の声が聞こえない世界がどういうものか知るとわかる。相馬市に行って蛙の声を聞くとなにかほっとするのだ。それは理屈ではない、奥深い心で共鳴するなにかである。人間にとって蛙の声とか蝉でも欠かせないものとしてあった。蛙でも蝉でも他の動植物でも当たり前にあるから意識しないのである。
それは当然そこにあるべきものであり意識しない、でも一旦当たり前にあるものがなくなるとき意識するのである。家族でも当たり前にあるときは意識しない、死ぬと意識するようになる。

だから人間は当たり前にあるものの価値とかがわかりにくいのである。そんなものもいつもあるじゃないか、何か特別なものなのかとなりその貴重さを意識しないのである。だから蛙がいない世界になったとき、はじめて蛙とは何だったのだろうと意識する不思議がある。


死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる 斉藤茂吉


蛙の声とともに死んでゆこうとする母がいる。あたかもその時この蛙の声は経文のよう血なっているのかもしれない、もしこの辺のように蛙が鳴かないで死んでゆくとしたら淋しいとなる。
蛙の声を聞きつつ死んでゆくところに救いがあるとまでなっていた。何かわからないが斎藤茂吉には縄文的心性があった。やはりこれも現代では近代化した中ではもち得ない心性だったのだろう。
賢治にもそういう縄文的なものがあった。これはみちのくの心性でもあった。ただ現代は方言すらなくなっいるからみちのく的な心性をもつことができなくなっている。


今は藤の花と菖蒲の季節である。原町の高平の農家の庭は広くいい庭だといつも見ていた。今は藤の花がきれいである。あそこは芙蓉の花も咲く、庭が広いからゆったりとしてにあっている。ただ前が田んぼになっていないから何か農家といっても変なのである。

相馬市のお掘りを歩いていたのは相馬高校の女生徒だった。相馬女子高から相馬高校になった。その前は相馬女学校だったのである。相馬女学校に入った人は本当に少なかった。金持ちしか入れなかった。ただ大倉の人が相馬女学校に鹿島区の親戚の家から通ったというのを聞いた。大倉は山持ちだと当時金持ちだったのである。だからそんなふうにしてまで通うことができたのである。
相馬市は何か女子高生が歩むのが様になっている。そこに情緒が生まれているのである。
そこに城下町の風情が生まれている。

藤の花が風にそよゆれて夕暮れる。そのようにもういろいろもめごとや災難が起きてくれるなとなる。あまりにも災難がつづきすぎたのである。そろそろ今年は梅雨入りの天気になるとか,例年より早いという。今日くらいだったのか晴れる日は、今年の春も4,5月は天気も良くて穏やかだった。

去年よりはいい春であり初夏だった。ただ介護はつづいているからいいとはいえない、相馬市の花屋の人も4人介護したとかテレビでは20年介護したとかリホ-ムする家のことで写していた。その女性も寝たきりだった。今の時代介護の時間も長くなりすぎるのである。するとその負担を負わされる人も大変だとなる。家族が多ければいいのだが家族が少なくなっている時その負担を負いきれない人が増大する。介護する家は何かくつろげる家族というより病院のようになってしまうのである。

相馬市はイオンの中で9時とか10時まで開いている。イオンが10時までやっているとは思わなかった。
鹿島では6時ころでもしまっている。特に震災以後早くなったのだ。
原町でもそんなに夜遅くまでやっていない、相馬市はやはり人の出入りが夜遅くまである。
原町より相馬市の方がにぎやかになっているのか?そうでもないと聞いたけど夜遅くまで開いていることは
それだけ人の出入りもあるからだろう。でもレストランとかは空いていた。
生活が夜型になっているからもあるが10時までやっているとは思わなかった。

2013年05月28日

相馬市の菖蒲 (苦難で自覚された-城跡は相馬藩の収斂する場)


相馬市の菖蒲

(苦難で自覚された-城跡は相馬藩の収斂する場)


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城跡に菖蒲の花の色深む誰か訪ねむ相馬の街を

代々の相馬の殿のここにあれ災い重さなり思い深しも

飢饉ありその碑の一つ重きかなあまたの苦しみここにこもれり

相馬の城跡はやはり相馬藩の歴史の思いが収斂する場所である。今回の津浪原発事故では特にそうなった。相馬藩崩壊の危機にさらされたのである。そういう危機は過去にもあった。天明の飢饉とかでは相馬藩の三分の一の人口が消失した。その傷は深いものだった。今になれば一つの飢饉の碑になって忘れられているがその碑の一つにそうした苦難の人々の怨念がこもっている。
それを自覚したのは今回の津浪原発事故で特にそうなったのである。街自体がなくなるということなど想像すらできなかったからである。三分の一の人口が減ってもなお相馬に住む人はいた。
人口が減ったから越中を中心に移民をつのりその人たちが支えて相馬藩が維持できた。
そういう危機を一番感じたのは相馬藩の殿だったとなるのだろう。

その時と比べればこれだけの事故でも南相馬市とか相馬市範囲だと人口は三分の一までは減っていない。ただ浪江とか双葉、大熊などが町自体が消失したということは飢饉より痛手だった。
もはやそこは住む人がいないのだから立ち直りようもなくなった。
三分の一が減っても三分の二が残っていれば復興はありえたのである。

ただ相馬市は津浪の被害だけにまねがれたことが救いだった。そして現代では別に飢えることはない、飢えることは原発事故より厳しいものだったろう。人の肉まで食うとかなると想像を絶する。
原発事故では避難した人もかえって金が入って贅沢さえしているからうらやまれている。
飢饉は現代からしたらもう想像を絶するものでありその苦しみをしりえようがないのである。


相馬市は田植えもしているし普通と変わりないなと感じる。南相馬市から田んぼがないからやはり何か荒廃していると感じる。でも食糧に困ることはないのである。バチンコやギャンブルで遊んでいる。東京まで行って競馬もしているというからあまりにも飢饉の時とは違いすぎるのだ。
東北でも貧乏であり米が不作のときは娘を売ったとかあった。そんな苦しいこともないのである。
部屋が狭いということあるくらいである。そこに津浪の被害の人との差が大きいからもめる。
同じ仮設でも相当な差なのである。


結局回りが田んぼでも全体の経済からすれば一割にも満たない、むしろ火力発電所とか南相馬市にも相馬市にもあるからそこで雇用される経済効果の方が農業や漁業より大きいかもしれない、原発はそれ以上に大きかったのである。農業とか漁業は跡継ぎがなくてつづかない、誰もやらないとかなって大原では三軒廃屋になっていた。そこに放射能汚染が大原では大きいからもう誰も農業はやらない、跡継ぎもいないから放置されて補償金をもらった方がいいとなっている。


自分は何か農民の生活とかには興味をもつ、原町の高平の写真にだした農家は蔵があり庭が広い。
すると何か見ているだけでゆったりしていいなとなる。別にそういう家に住まなくてもそういう家があることが田舎であり豊かさであった。都会の隙間もなく密集している所には住みたくないのだ。
あういう所に住む人の気持ちがわからない、それがいいと思っていたのは大学四年間だけだった。
あとはあんなところに住みたいとは思わなくなった。田舎の方がずっと豊かな生活だったのである。ただその田舎も実際は農業とか漁業とか林業で生活が成り立っていなかった。
会社中心であり双葉町などは東電に依存した東電村だったことが事故でわかった。
そこに田舎の矛盾がありそれが事故で露呈したのである。

菖蒲というとき菖蒲は紫の菖蒲のことである。黄色のは黄菖蒲としなければならない。菖蒲は文目からきているとすると水辺に咲くアヤメのことではなかった。乾燥した所に咲くのが文目でありその模様から名づけられた。でも今は菖蒲は水辺に咲く菖蒲なのである。だから単に菖蒲としたときは紫の菖蒲なのである。白い菖蒲もあるがそれも白菖蒲とせねばならない。
相馬市は何か菖蒲とかにあっている。しんみりとしているから花が映えるということがある。あまりにも大きな都会になったら騒々しくて花が映えないのである。どういうわけか原町は明るい色の花があっている。ひまわりとかタンボホとかチュ-リップとかがあっている。その感覚は外から来てはわからないものである。のことは何度も書いてきた。


神山や太田の沢の3かきつばた深き頼みぞ色にみゆらむ 藤原俊成


「頼みは」期待ではなくて神への帰依、信仰心の意、
賀茂の神への深い信仰心があるからあのように濁りのない、清らかな紫の色にさくことができるのですね
(京都のうたごよみ-松本章)


花をこういうふうに見るというのは一つの信仰心だったという。そこに花を見る深い心があった。
それは万葉集時代からあった。平安時代にも宮廷に受け継がれていた。まつりごととして花もあったのである。自然に対する畏敬がまだ残っていた。だんだんそれが失って美的なものとしてのみるようになったのである。

相馬市の神社には藤の花が咲き白いツツジが咲きそういう雰囲気がある。神苑という感覚がある。
花は神苑に咲くべきものである。だから穢れをつつしまねばならないのだが実際はすべては観光の地となり遊興の場となりけがされたのが現代の大衆化時代だったのである。大衆がどやどやどこにでも踏み入り聖なる地はけがされたのである。大衆は今や同情する対象でもなくなった。あまりにも権利意識ばかり表にでる、対等を主張するものとして傲慢になってしまったのである。

大衆の欲望のままに社会は操作される。原発事故もそうだったのである。
いかにこの辺でも欲望が強いから原発を積極的に誘致したということもある。
浜通りの人間は欲望が強いというのは本当なのかもしれない、一般的にそうなっているにしろそういうものがあったから双葉町などは特に批判されている。
その点飯館村では東電から補助金などもらっていたとは思えない、それはデマだったのだろう。
インタ-ネットはデマにまどわされるのが問題なのである。
所得も福島県では一番低い方だったからである。
双葉町とは対象的な村だったのである。


 

2013年05月29日

相馬藩山中郷(飯館村-葛尾(かつろう)村)などの天明飢饉の影響


相馬藩山中郷(飯館村-葛尾(かつろう)村)などの天明飢饉の影響

天明三年、嘉永元年中村藩検地石高表収納戸口等調


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これは相馬藩の山中郷の検地の石高表である。山中郷は葛尾(かつろう)村も入っていたし津島も入っていた。玉野村も入っていた。面積にすれば相当に広い。

1744延亭−1781天明−1847嘉永-37年間と66年間に生じた飢饉の結果の数字である。戸数がどれだけ減ったかが数字で明確に現れている。この数字から読み込めるものが相当ある。

ただ数字だけだから具体的内容はわからない。それにしてもやはり減り方が尋常ではない。

飯館村とか葛尾(かつろう)村などが歴史がないようでも意外と古いのである。だから落合村に明暦と元禄の碑があったことでもわかる。外からも何か原発事故で注目されても歴史ある古い村だという認識がない。地元の人でも意外とそう思っている節がある。飯館村でも葛尾(かつろう)村でも古いのである。だからやはり村かなくなればそれなりに古い歴史の積み重ねも消失してしまうことになる。


時間的には延亭から嘉永までで約百年の間に飢饉の影響があった。百年というと相当に長い。一気に人口が減ったわけではないのだろう。その間に徐々に減っていった。原発事故のように町民全部が避難するようなことはなかった。一軒一軒とか時間をかけて減っていったのだろう。なぜなら百年とすれば相当長いからでてある。なんとか飢饉をしのいだ家もあったがどうしても成り立たなくなり他に移ったか消えてしまった。


ただ地域によってその人口の変化は違っていた。表で見ると玉野村や落合村や野川村はさほど減っていない。それはなぜなのか?おそらく葛尾(かつろう)村の田畑の面積を見るとずいぶん少ないと思った。あそこは山が多く平地が少ないせいだったのだろう。飯館村は結構平地が多く田んぼも畑も広くあった。葛尾(かつろう)村は耕作する平地が少ない、落合とか野川とかは川沿いであり急な坂になっていた。もともと平地が少ない所だった。自分の父親が出た小出谷(こでや)は小出屋であり出小屋として住んだ所である。それも後ろは山であり前は小出谷川であり平地がほとんどないのである。
そういうところでどうして暮らしていたのか不思議である。

でも飢饉の影響が少なかったのはなぜなのか?それは山には山の幸が山菜とかあってそれでしのいだのかもしれない、飢饉になると山に逃れたということも聞く、山には最低限でもしのげる野草などがあったのかもしれない、それと山林が多いから燃料には事かかないことはあった。山はもともと自給自足の時代は薪は豊富だしそれなりに豊かな面もあった。だから落合に明暦と元禄の碑がありあそこは古くから開けていた。玉野村とかもそうである。玉野村も木材資源が豊だからそういう方面で良かったのかわからない。それほど人口がへっていないのである。

川俣町が耕地面積がこれだけ少ない、それで絹織物で養蚕業を産業にして栄えた。
そうでなければこれだけ少ない耕地面積であれだけの人口は養えなかったのである。

ただ津島がなぜ極端に減ったのか? これは何かありその辺はわかりにくい。

平均してやはり三分の一は減っているだろう。十軒あったとして三軒へっているとなるとやはり影響が大きいだろう。ただこの天明の飢饉は延亭から嘉永まで百年の間に徐々に進行したのであり一気に人口が減ったのとは違っていた。百年といえば長いのである。原発事故でも放射能汚染は30年で半減するとするとそうした長い時間で考えれば飯館村の復興もありうる。ただその時は農業林業中心の社会だからなんとか土着して生きようとする。でも現代になるとそもそもそうした一次産業は苦しい中でやってきたから違っている。

今この飢饉のことが注目されるようになったのは津浪や原発事故で苦難を強いられたからふりかえるようになった。この時相馬藩の人口は三分の一に減り越中からなどの移民で建て直したのである。

それ以来の最大の危機に直面している。ではこの飢饉のときと津浪原発事故と比べるとどっちが苦しいかとなると比較もむずかしいがやはり飢饉のときの方が苦しかった。なにしろ食うものがないということほど苦しいことはないだろう。原発事故でも住む所はあるしかえって食べることは贅沢しているのだからその点は比較にならない、ただ故郷自体を失うということは想像もできないことであり
それはかえって精神的には苦しいことかもしれない、ただもし百年とかの時間を考えれば放射能汚染からも立ち直れる。今ではそんな時間の余裕がないとなるからまた違っている。

つまり農業とか漁業とか林業で暮らす時代でないからそうなっている。
みんな会社員なのだから土地に執着する必要がないからこそかえって町や村は捨てられるとなる。

そして捨てられた村や町は元の自然にはもどらない、その土地は国が買い上げれば放射能処理場にされるしまた他のよからぬものも入ってくる。そのことは飯館村や双葉町とかだけの問題ではないのだ。自然は相馬藩内ならつながっている。飯館村から水が流れてくるのだから放射能汚染された土や水も流れてくる。核の廃棄物処理場になってもやはり同じなのである。地理的に近いのだからどうしても自然の影響はまねがれないのだ。そもそも放射能汚染は広域的だったのである。

一地域の問題としてすまされないものだった。だから中通りまで放射能汚染されたのである。
飯館村の土地をかってに個人の土地だから売った方がいいというのも問題である。なぜなら核の廃棄場になったらやはり中通りでも影響するのである。勝手に自分の土地だから高く誰にでも売ればいいですまされるのか?そしたらまた原発事故のように勝手に金になりさえすればいい、もう飯館村は関係ないでいいのか?そうして放置された村は核の廃棄場に一番適したものとして売られることになる。それは回りにも広範囲に影響するのである。




 
posted by 老鶯 at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)