2013年05月01日

常識のない人が増えている (若者にも大人にも老人にも共通している)


常識のない人が増えている

(若者にも大人にも老人にも共通している)


昨今では勉学を学ぶことよりも、「常識」を学ぶことの大切さの方が強調されている感じすらあります。一般社会においてはどれほど頭脳が優秀でも「常識」のない人間は問題視され、評価もされません(あくまで一般社会ではね)。
http://www.kuro14.net/2013/04/blog-post_11.html


「気づきがない、無頓着、理解力がない」
「基本を知らない、マナーを知らない、常識がない」
「気配りがない、気遣いがない、対応が悪い」
「機転が利かない、臨機応変に対応してくれない」などなど。


企業は困っている、悩んでいる
http://www.manavinet.com/special/0801/no16.html


周りの人が右を向いているときに、左を向いてしまう
周りの人が当たり前にできる事が、全く出来ない
その結果、周りからは、
「あの人は変わり者」と思われてしまいます!

相手のことを意識できないので、仕事にならない

仕事というのは、相手が気持ちよくならないと
商品を買ってくれたり、契約を結んでくれたりしません。
お世辞や愛想笑いなどが出来ないと、仕事にならないわけです。


ただ、大人のアスペルガー症候群の人は、
他人のことを意識することが出来ません。


どういった言葉を言えば、相手の気分が良くなり、
どういった言葉を言ってしまうと、相手が不機嫌になるのか
全く理解できないのです。


そのため、物を売ったり、契約をまとめるような仕事は、
ほとんどできないわけです。


相手からは過激な性格だと思われてしまう

上記のような状況でも、
本人は悪気があって言っているつもりはありません。
自分の考えていることや思ったことを、
素直に表現しているだけで、
他に深い意味はないのです。
http://アスペルガー大人特徴.net/asupe1/page5.html


子供は、言って聞かせれば解りますが年寄りは絶対に自分の非を認めません。
その場で言い争いになれば尚、悔しい思いをしたと思います。



常識とは何かというとき定義するのがむずかしい。非常識が何かも定義するのがむずかしい。だからいちがいにすべて常識-非常識では計れない、ただみんな今の社会では常識そのものが若い者だけではないいい大人でも老人でも増えている。そう感じている人が多い社会ではないか?
若い者ならしかたない面があるだろう。でもいい大人が老人が常識を身につけていないというのはどういうことなのだろうと疑問に思う人がいる。これはなんなんなのだという非常識な人間に出くわすことが増えているのではないか?

病院であった人はそうだった。職人として家で働いてくれたことがあった人なのでそのおくさんに声をかけた。その人は重症にその時見えたのだ。そのあともどうしたのかと気づかった。同じ病気ということで情報交換もしたかった。この前話ししたら
「あんた困っているの今はディサ-ビスに通っているよ、自分のことは自分でやっているよ、あんたなにかしてもらいたいの」
これまでは確かに自分は困っていた。今も困っていることはある。でも手術してからは余裕できてほとんど困っていないのだ。その時声をかけたのは自分のことを思ってしたのではない、自分が何かしてもらいたくて声かけたのではない、でもその女性は何かしてもらいたくて魂胆があって声かけたととりうざいから声かけるなと言ったと同じである。こんな人のことを気にもかけない気遣いも常識もない人間は何なのだろうと思った。その人は60くらいになっているかもしれないし老人である。

今や老人でも常識のない切れる老人とか暴走老人とか増えている。ただこれも人によりけりでありすべてではない。これは別に人を思いやる心がないとか宗教でいう愛がないとかそうした高等なものではない、人間として最低の常識がないということなのだろう。この女性をどう理解していいかわからない。四人の人と自分は家のごたごたでかかわった。一人は犯罪者であった。一人は会社経営者だけど嘘ついて成功を装って借金をかかえていた。もう一人は夫が公務員だったけど異常な行動をした。犯罪者と異常な行動した女性はもはや常識では語れない、異常者ということになる。他は別に普通に社会生活している人たちである。


常識がない人間がふえたというときこれは若者だけではない、社会人全般に常識がない人間が増えたのである。現代は常識が養成されにくい社会なのかもしれない、常識を養成されるのは今では家族でも地域でもない会社になる。だから会社で社員教育するわてけである。会社組織に入らない人は常識が欠けやすいかもしれない、例えば職人でも職人気質と昔言って悪いものとして言われなかった。しかし現代のような社会が複雑になると人との接触もふえると対人的には非常識な人が増えるかもしれない、職人はただその技術をみがけばいいとかになはならななる。そういう職人の家族はまた非常識になっているかもしれない、でも一人親方のような職人は契約をとるために社会性があることに驚いた。技術力もあり優秀であり人との対応も知り尽くしていたのである。その人と接して自分が常識がないとなった。それは仕事上そういうふうに社会性を身につけたのである。

そもそも他人と接触することの前提として宗教と関係なく他人を思いやることが前提にある。そうでないと仕事もうまくはかどらないだろう。モノを売るにしてもその人が心をこめて売るのとでは同じモノでも違っているのだ。東北人は自分もそうだけど人との対応がへたである。関西人はつまり京都のように文化の蓄積があるところは人との洗練した対応が生まれる。それは本心でなくてもやんわりと断るとかの文化が京言葉に現れる。それが他から来た人にはわかりにくいのである。京言葉自体東北の言葉とはあまりにも違いすぎるのだ。人に対応するやんわりとした言葉なのである。


一般的に常識があるというとき人と接する職業はどうしても常識が必要とされるから常識が社会性が身につく。職人だけをやっている人や農業の力仕事やっているだけの人や工事関係でも現場で肉体労働だけしている人とかは人と対応しない仕事であり社会的常識が身につきにくいかもしれない、結局人間はその人の職業が習慣性を作る。職業はそれだけ人間を作るものなのである。だからニ-トとかはまず社会性がないから常識が身につかないから人と対応できないから職につけないともなる。

自分もそうだったから社会性がないから職業についていないからそうだった。ただ変な話だけど創価にいたとき毎日社会的に人と接していたから人と対応する言葉使いができたともなる。人間はまず集団に帰属して社会性と常識を身につけるのである。人間は何であれあらゆることを経験できないカルト宗教団体でもそれは一つの経験であり間違っていてもそれなりに得るものがある。一人の人間の経験することは極めて限られているのだ。だからこそ常識自体を身につけることがそもそもむずかしいのである。教員が常識がないとか医者が横柄で常識がないというときそれはその職業がそうさせているのだ。学者バカというのもそうである。マニアックな理系馬鹿、研究一筋の人も社会性が身につかないとかなるか。現実はとても理論通りにはいかない、複雑怪奇なのである。上からの目線ばかりで人をみる立場にあれば常識もなくなる。そして夫婦が一体だというときその夫の職業の影響を妻も必ず受けるのである。


つまり医者であれ教師であれその仕事ばかりしていれは世界を社会をその職業から見てしまうのである。この世には様々な仕事がありそれは体験できない、だから他の職業に従事するもののことをなかなか理解できないのである。こういうことはこれだけ多様な社会になると特にそうである。
原発に従事している東電の人が何をしているのかなど地元の人がしりえようもないのと同じだったのである。そうなると東電では相手が何もしらないし反論もできないとなるからやり放題になった。
絶えず不具合、故障があっても隠せる。だからそれが習慣化していたのである。どうせ誰にも追求などできない、みんな金で抑えている。こうしてしそれが大事故につながったのである。

無数の職種ごとに常識も違っているとなれば常識自体何を基準にしていいかわからないとさえなるのだ。常識がない・・というときカルト宗教
団体でもその権力を背景に誰も責められないとなり警察も味方だとなれば非常識なことでも社会に通るとなる。検察官僚組織でも非常識なことが権力で隠される。警察関係もどうしても権力をバックに横柄になり常識が欠けてくる職業だとなる。
常識非常識というときそれは個人の問題でもあるがその所属している会社や組織や団体の問題でもある。


今回自分が経験したの非常識な女性は個人的要素が大きいだろう。ディサ-ビスに通っていて自分のことは自分でやっています・・それだけ言えばいいことだった。そうですかと言ってこちらも終わりであり傷つくことはなかったのである。お前はオレに何かしてもらいたいのかという言いぐさがあまりにも人との対応で非常識だったのである。田舎の人間はあけすけにモノを言うにしてもちょっとひどいと思った。そこには嫌であってもやんわりと京言葉のように言えば傷つかなかったともいえる。
こういう人は全く他人は無視であり気づかっていないのだろう。自分がきらいだからということでないみたいだ。
人間は人をみないで接すると大変なことになる。ただ非常識な人であれ犯罪人であれ人間はこの世にいる限り否応なく接触する。
それがさけられないのだ。ただ人間がいかに人を見ることが大事か思い知らされた。
ちょっと声かけるにしても素直でない人も嫌う人もいる。こっちが善意でも相手は悪意にとる。そいうことは常に起きてくる。
結婚も結局人を見分けられないから離婚が三分の一とかふえる。家と家の結構、どういう家で育ったか見て結婚した方がうまくいっていたともなる。女性などはどういう家で育ったかでかなり影響されているかもしれない、余りにも顔とか外形だけ判断すると失敗する。
あとになって顔などさほど問題でなく人間は気持ちだとかなる。顔見ただけでも人間はわからないのである。

抽象画(京都(夏)-秋の紋様-躍動する地球 (ソフト-painter4 エッセンシャル)


抽象画(京都(夏)-秋の紋様-躍動する地球

(ソフト-painter4 エッセンシャル)


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京都-夏

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眩しい夏の光


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京の紋様
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秋の紋様
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躍動する地球

抽象画はソフトによって変化できる。今回はpainter4 エッセンシャルを買ったのでそれを基にしてまた増やせる。抽象画は定型化してしいるかもしれない、決まった手順がある。
万華鏡は必ず使っている。それからしあの変化も良く使う。それからテクスチャ-も良く使う。
今のところ三つ使った。それぞれにない機能がありそれらを組み合わせる必要がある。
エッセンシャルは機能が多いからかなり役立つだろう。これも早く買っておいてなれていれば良かった。

抽象画はまず色を楽しむことなのである。色の変化を楽しむことが基本にある。色の美しさだけでも楽しめる。色は花でもそうだけど美の基本にある。もちろん形もあるがそれは絵の才能がないと描けない、色はパソコンのソフトでいろいろできるのだ。
エッセンシャルでは写真の加工でもいろいろできるから役立つだろう。
結局抽象画自分の才能より技術として習得するとできるものだった。

化学反応の実験ににているのだ。ソフトがいいものがあるとそれでまた無限の変化を楽しめるということがある。

もちろんこれはどうしても第3芸術とかになるがそれでも素人として色を楽しめる、創作できるということはパソコンとソフトの技術でできたことなのである。

プログに記録された右田浜の松原の写真 (もはやもどらない松原の風景)


プログに記録された右田浜の松原の写真

(もはやもどらない松原の風景)


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この写真のように松の記録は津浪で海中に消えたようになった


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台風で決壊した八沢浦の防波堤の工事

プログを読み返した。そこでまた右田浜の松などが写っているのを発見した。
自分で書いても忘れている。プログが備忘録というように忘れることに備えるために書いているとなる。
ともかく人間は忘れやすいのである。えか、こんなこと書いていたの、こんなこと写真にとっていたのとか全く忘れているのだ。2005年からはじめたから2年間くらい見たものだった。


まず右田の松原はもはや見ることもできないし再現もできないものとなった。
これは平和な時に松原があったときの写真である。


八沢浦は津浪の前に台風の嵐で前の家の何軒かに潮水にひたった。その時防波堤が壊れてしまったからだ。その防波堤を直していた。今回は津浪で全部喪失した。直しようもなくなったのである。
松二本だけが残された。


もう松原を回想する方法がない、松原がありその前に田植えをして実りがあった風景がおそらくこの辺で何百年とつづいていたのだ。それがみんな喪失したから信じられないとなる。
右田浜のキャンプ場の松もなくなった。あそこは歩くようにできていた。
でもあのコンクリ-トの歩く場所もみんな流されたのである。
確かに名残の松は残っている 。でも当時を偲ぶことはできない、今は荒れ果てたものとなってしまった。


右田の松原はただここに残した写真でわずかに思い出すほかないのか?
松は津浪と共に消えてしまった。幻想のように消えてしまったのである。


 松に寄りてここに変わらぬ秋薊

松というのは常盤木であり変わらないものの象徴だったのである。それがみな消えたということが
信じられない。変わらないものとしてありそこに秋の薊(あざみ)がよりそうように咲いていたのである。そのよりそう松はみんな消えてしまったのである。
この自然の変化はあまりにも大きすぎたから想像すらできないものであった。
もはやよりそう松はないのである。
 
 

posted by 老鶯 at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

消えた六号線と常磐線の活気 (プログに記録された原発事故前の写真二枚)

 

消えた六号線と常磐線の活気

(プログに記録された原発事故前の写真二枚)

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常磐線でもス-パ-ヒタチが走っていたときは常磐線が活きていた。今は二両の電車であり原町と相馬市間を走っているだけであるから淋しい。まだ走っているだけでいいともなる。
常磐線が開通するのは相当に先である。その見通しがたたない。
津浪の被害にあったわけではないから線路はつうじていても原発をかかえてんるから
警戒区域になっているところが広いからなかなか復旧できないだろう。
住民がもどってこないと駅も開けないだろう。それがいつになるのか見通しがたたないのである。

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六号線でもこのサイクリングの一団が走っているような時は活気があったなと思う、東京と通じていたときは六号線も活きていたのだ。自分は長距離トラックの音などが嫌だった。
今は全く通らないのだから聞こえない、東京からの車は六号線では来ない。
でもこの写真を見たとき不思議に思う。今でも一人のサイクリングの人がきている。
でもこのうよに何人かで組んで走る姿はない、だからこの写真見たときつくづく六号線も活気あったなと思う

東京から歩いて来た人もいたし鹿児島から歩いて来た人には驚いた。
六号線では遠くから来る人良くみかけたのである。今は東京と通じしていないのだからみかけない

でもサイクリングで一人津浪の見聞にきている人が結構いる。
でもこのうよな感じにはならないのだ。
だからこの写真を見ると六号線は活きていたなとつくづく思う

常磐高速道は二年後とかに開通しても六号線の方が自分には身近だった。高速道路ではこんなふうに走っているサイクリングの人を見ることはできないからである。

まだここは人間的なものがあったとなる。高速道路になると何か人間的なものがなくなる。
まずこんなふうに風景はない、全く隔離されたところで車だけが走っているから
車に名乗らない限り関係できないものとなる。


でも常磐線の代わりになるから東京と直接通じることで電車の代わりの役目を果たすことは確かである。するとまた活気がでてくるだろう。
すでに常磐線は原町-いわき間は乗る人が少なかった。仙台が多くていわき間は少ない、いわきにゆく人はこの辺では少なかった。それでも六号線を通じて交通があり人と物の往来があった。

常磐線もス-パ-ヒタチが通っていたときが活気があった。ス-パ-ヒタチには何度も乗ったからである。それが乗れないということ走らないのである。原ノ町駅にス-パ-ヒタチは時が停止したように停まったままなのである。

posted by 老鶯 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年05月02日

桜-牡丹-葉桜-春時雨 (俳句十句) (原町へ行く)


桜-牡丹-葉桜-春時雨 (俳句十句)

(原町へ行く)

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これはクリック拡大!-大画面でないと映えない

ソニ-のデジカメはカシオよりきれいに写っている

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故郷に夕べ桜を見いだしぬ
風そよぎみ空に映えし桜かな
牡丹の一心に朝の光浴ぶ
牡丹四輪朝の光の注ぎけり
牡丹には光のみあり目覚めかな
牡丹四輪揃い咲きにし栄かな
朝の日に闇を払いぬ牡丹かな
邪念なき一心に光牡丹咲く
原町やはや葉桜や風そよぐ
原町や街中通り春時雨
前畑に耕しの人石一つ

耕し二両の電車行き来する

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ここに石一つあるのがきづいていなかった


牡丹の四輪我に向かい咲く朝の光の注ぎ射すかな
空に映え桜美し飛ぶ鳥も高きに見えて風そよぐかな
みちのくに花なお散らじ惜しむかな今日しとと雨のふるかな


今日は原町まで行った。原町の桜は散ったけど山桜はまだ咲いている。あそこに咲いていた桜は今まで気づかなかったのである。あそこは塩崎に近くいつも通ってゆく道である。そこに桜が咲いていたのが気づいたのは今年だったのである。今まで気づいていなかった。あんな近くにきれいな桜が咲いていたなと気づいたのがこんなに長く住んで始めてだったというのも不思議である。
人間は最も身近なものを美でも見いだしていないのだ。故郷の桜だけでまず全部など見ることができない、一部しか見れないのである。それが全国になれば桜の咲く時期は短いのだから見れないのである。


そもそも人間はいくら回りに美しいものがあっても目が曇ってしまったら見えないのである。美しいものは心で見るからである。様々な欲望があっても見えなくなくなる。そして感性というか感じる感覚も天才でない限り一つの訓練として積み重ねで見れるようになるのだ。感受性も長い年月の間で作られてゆくのである。だから若いときは様々の欲望もありまた積み重ねて感受性が訓練されていないから見えないのである。日本の俳句にしても季語が膨大なものになっている。これは時間の中で様々な人が日本の美を発見していった集積なのである。だから季語は現代風になりまた増えてくるのだ。季語は日本人が積み重ねた文化の集積なのである。全体でもそうだが個人的にも感受性は長い間に作られてゆくのだ。


牡丹には今や光しかない、一心に光のみが注いでいる。あとは何も見えない、それが至福の時だったかもしれない、この世の汚れは何も見えない、ただ光のみがそそぎ何も見えないのである。
自然は浄化であり光は最も浄化の作用がある。ゲ-テが死ぬとき言ったという、「もっと光を・・」まさにそうなのだ。光は浄福の光なのである。それが春に一番現れるのである。


原町に行ったら病院の桜は全部散って葉桜になっていた。今日は春時雨だった。これはまちがいない、ぱらぱらと時雨れたのである。前にも一回だけ春時雨を経験した。それは松島の浦戸諸島を船で巡ったときだった。春時雨はめったにあわないだろう。春時雨に原町にふさわしかったのか、原町と相馬市ではかなり感覚が違ったものとなるのだ。こも不思議なのだがみんな市町村でそれぞれの色があり違っているのだ。相馬市は城跡の城下町としての雰囲気が残っているし原町はいち早く近代化した街でありそれが雰囲気をつくっているのである。ただ今は六号線が東京に通じていないから違ったものになっている。


前畑を耕す人がいた。こうしてまだ暮らしがあると活きてくるものがある。二両の電車も何かその風景にあっているのだ。これからは春から夏となる変わり目である。

春時雨(そのイメ-ジは・・)

 

春時雨(そのイメ-ジは・・)

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淡き恋消えにけるかな春時雨
街に来て濡れて甘しや春時雨


春時雨というのもやはり独特のものだった。これはめったにあわないから感覚的にわかりにくかった。これは時雨といっても冬の時雨とはあまりにも違っていた。
これは創作だけどそういう感じだろう。淡い恋の味というのはいいかもしれない、
これが濃厚になるとどろどろした欲望としてしつこいものとなる。
これはただの想像である。誰にでも恋はあるがそれは小学生の頃から芽生える。
でもだんだんと何かどろどろとした肉的なものになってゆく。
淡く消えてなどゆかない、延々とどろどろとした欲望がつづいている。
それが老人になってもそうなのである。


人間は男女でなくてもどろどろとした濃厚な交わりより淡い交わりがいいのかもしれない、
それができないからいろいろ問題になる。淡いものなら別れるのも容易なのである。
あるゆる出会いは別れを前提としている。最後は人間は会うのではない、もうみんな別れてゆくだけなのである。それがどんなに濃厚に交わってもそうなのである。
結局は別れてゆくだけなのだ。


60以上になると次々と同世代といかなくても知られた人が死んでゆく、今日もテレビに出ていた人が死んだなとか毎日のことである。そうするといちいちそれらをもう考えることすらできなくなる。
もうどうでもいいとかなってしまう。


ともかく春時雨はこれは何か甘い、スイ-トだというのも不思議である。
I am getting wet in the  rain with sweetなのだろうか?
甘い水玉のような感覚になる。自然には多様に感じるものがある。

おそらく春時雨など感じているのは日本だけだろう。外国でこんな感覚にはならないだろう。
時雨という言葉すらないだろう。
日本でしか感じられないものが風土にある。それが俳句の季語に凝縮されていたのである。

2013年05月03日

新聞からテレビからインタ-ネット時代に (マスメデアを通じないで主張する民主主義-個人が記録する写真の時代)


新聞からテレビからインタ-ネット時代に

(マスメデアを通じないで主張する民主主義-個人が記録する写真の時代)

現代の変化は何かというとやはり交通手段の発達とメデアの発達であった。江戸時代は遠距離は船の交通が多かった。明治になって鉄道網が全国にしかれた。その交通の発達が江戸時代の閉鎖的封建時代の環境を変えてしまったともいえる。封建時代は移動の自由がなかったからだ。
街作りにても駅前通りが中心になったことである。原町だともともと昔の街道沿いに商店街などがあった。宿場町から発展した。そういう街が日本には多い。鉄道網がしかれて駅中心の街作りになった。ただ相馬市は城下町であり駅中心の街作りにはならなかった。古い城下町の形が残ったままだった。だからかえって原町が新興地域として無線塔などができていち早く近代化した街になったのである。原ノ町機関区になっこたとも鉄道を利用する拠点の街となった。相馬市は近代化に遅れをとった。会津でも明治以降発展したのは会津の北の喜多方だった。ここは商人の街として発展して多くの蔵が建った。会津の城下町は新しいものを受け入れることがむずかしかった。それは相馬市が城下町であったことともにている。


交通の変化とともにメデアの変化も大きかった。グ-テンベルグの活版印刷が社会を変えたようにルタ-の宗教革命を起こしたようにメデアも社会を変えた。明治以降は新聞の力が大きかった。それは
大政翼賛会となり政府の大本営発表の機関化してしまった。だから新聞では戦争に勝っているという報道しかしなかった。新聞の影響は戦争後も長くつづいた。正力松太郎が読売新聞社を経営して原発を自分の野望のため利用できたのは新聞社をもっていたからである。一人の権力者によって新聞社が操作されていたのである。新聞社からテレビに変化して50年くらいたつかもしれない、東京オリッピック辺りからテレビの影響が大きくなった。テレビ局が新聞社経営になっているのもまだ新聞社の影響が大きかったのである。


今またメデアの大きな変革期に突入した。新聞社はすたれテレビ全盛時代も翳りが見えてきてその主役がインタ-ネット時代に移りつつある。若い人はもうテレビすら見ない、インタ-ネットから情報を摂取しているのだ。新聞は団塊の世代で終わりになるという。インタ-ネットはパソコンから生まれたのでありこのメデアの変化も大きいものだった。これはまだ発展途上のものであるがすでに社会化ししてのが違っている。パソコンの情報の流通が個人レベルで可能にしたことである。この変化は大きい。メデアを個人がもつなどありえようがなかった。個人で写真でも動画でも自由に出せるしデジタルカメラで簡単になったことである。現代は写真とか動画の時代なのである。写真のインパクトが活字よりに大きい。アメリカのイラクの戦争で石油まみれの鵜が写されたけどあれはやらせだった。でもその一枚の写真が衝撃を世界に与えたのである。写真も動画も操作できるからだ。



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写真の時代というとき自分が前にとっていた六号線を走るサイクリストの一団の写真は迫力があった。むんむんとした熱気があふれだして六号線を走っていたのである。これを言葉で表現してもその迫力を伝えられない、一枚の写真が過去を蘇らせたのだ。これは津浪にも言える。これほど映像で津浪が記録して伝えられることが今までなかった。動画では全くなかった。その印象派あまりにも鮮烈なものとなったのである。自分も津浪の記録を写真でだしたら全国の人が相当見たのである。
津浪に対するリアルな情報はこの辺ではなかった。400年前に700人溺死と記録はされていたがそれ意外の記憶は何もない、せめて図とか何か拙い絵でもいいから残されていたらまたかなり違ったものとなっていた。400年前の津浪をリアルなものとして認識して記録されないから危機感もなかったのである。今回ほど津浪の恐ろしさを映像で記録された時はなかったのである。



美しい八沢浦がよみがえったとしてプログに写真と共にだしたとき、地元の人がお前はここで無惨に死んだ人のことをどう思うのだ、子供まで死んだだそと批判された。それは確かにそうだった。ただ比較的そこは人家が少なく被害が少なかった。海になったところにはほとんど家もなかった。被害はあったにひろ村とか街が壊滅するのとは違っていた。
まずマスコミだったかこういう表現もしない、ただ無惨だ無惨だと悲惨な津浪の光景しか写さないのだ。でも明かに八沢浦が奇跡のように浦としてよみがえったことは事実なのである。それは美しいものであることも事実だった。こういう報道ができたのもインタ-ネットで個人で写真でも方とをすることができるようになったからなのである。マスコミと地元の人と個人の見方はちがってくる。そこに多様な情報の真実が追求できるのである。

情報はすべてインタ-ネット化してゆく方向にあるのかもしれない、選挙にも活用されることでもわかる。インタ-ネットは仮想空間でなく現実空間となりつつある。インタ-ネットで写真と実名で主張している人も増えた。そのことは今までのメデアを通して新聞や雑誌やテレビで主張するのとは違う。これまではマスコミというメデアを通して主張してきたがそれはマスコミによって操作されたものとして情報は出されていたのである。マスコミに出る人は限られている。そしてマスコミは宣伝費が経営を支えているのだから金を出す大会社の方を大事にする。また巨大な権力集団の圧力に抗すことはできない。そこから金が入ってくるからだ。だから今回の東電の原発事故にしてもマスコミはすべて安全神話を戦争のときのような大本営発表になっていたのである。なぜなら政府と東電が一体化して莫大な金がマスコミに流れていたからである。情報は常にこれまでも権力によって操作されたものしかででこないのである。出版の本ですらそうだった。確かに原発を批判する本をほんの一部出ていたにしてもそれは何か空想的SFの小説のようなものとして見ていたというよりそういうふうに情報によって操作されていたのである。原発は絶対に安全だとまで操作されていたのである。


インタ-ネットではマスコミのメデアを通じないで直接訴える人がでてきた。


テレビも新聞も取材に来るけど、表面しか捉えていない。NHKにも抗議したんです。
 「表面の話はもういいから。裏で苦しんでいる人がたくさんいるんですよ」って。そしたら、「貴重なご意見、ありがとうございました」で終わり。
 裏を取材して下さい。住民の心の中を。「飯舘村はきれいで、だけどそこに住めなくなって、涙を流していました・・・」。こういう話はもういいの。


帰りたい、帰れない 飯館村の苦悩
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-66.html


この人は飯館村の住人として本根で語っていた。村長が国の管理化に入って放射線量が高いのに避難させなかったとか除染は無駄だから金をくれ、金が大事だとか主張している。現実問題としてはもう住めないのだからそれが当然の主張だとも言っている。こういうことの是非はともかくなかなかマスコミではストレ-トには言えないだろう。補償金で避難民はパチンコで遊んでいるとかもマスコミを通じては言えない、きれいごとに終始しているから実体が外からわからないのである。


ともかくこの辺では原発問題で民主主義に目覚めたということもある。実際に深刻な被害を受けたのだから東北特有の無口なお上に従うという慣習だけではだめだとなる。そういうことを強いられた場にもなったからである。自分たちが主張しなければまた国や東電やマスコミや大きな団体のいいなりになり苦しめられるだけだと現実的になっているからだ。

写真の影響というとき自分のプログの奥松島を旅して写真にだしていたのがここのところずっとかなりの数が読まれている。毎日20人近くのアクセスがある。これもどうしてだかわからないがそれは

津浪以前に訪れた写真の影響だと思う。自分が写真に撮ったところは津浪で被害を受けて喪失したのだろう。そこで写真が貴重になったのである。それは六号線のサイクリストの一団の写真と同じだったのである。写真の影響、迫力は言葉より大きいのである。それが一番力を発揮したのはまさに今回の津浪原発事故でその風景が失われたときだったのである。


奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)
http://musubu2.sblo.jp/article/29414836.html


ここに行っていないのだけどこの風景が津浪で喪失した。被害状況はみていないにしろここに当時の風景が残っているからアクセスが絶えずある。他でも写真は残っていると思うけどどうしてかアクセスがつづいているのだ。これも明かに文章より写真の影響なのである。失われたものを回想するには写真の方がインパクトが大きいのである。


 

2013年05月06日

新地から丸森へ夏の旅(新地編)


新地から丸森へ夏の旅(新地編)

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利休梅

松影の街道行くや夏の朝
相馬より新地に来れば燕飛ぶ
臥牛城夏草埋もれ何語る
リキュウバイ手入れの人や開園す


新地なる高台に水張りぬ海を望みつ夏の朝かな

文禄の碑こそ古りぬれ新地なる社訪ねて燕飛ぶかも
新緑に風のそよぎて望む海牡鹿半島連なり見ゆも
新地より金華山見えにしや船も行くなり夏の朝かな
山路来てなお残れる花あれや風に吹きちりあわれ深まる


新地から丸森まで電動自転車で行った。新地で火力発電所の近くで田に水張る人がいた。この辺は津浪の被害があったはずたと聞いてみたらここは高いし塩分は気にしないという、新地火力発電所は地形の関係で原町火力発電所より被害が少なかった。あういう大きな建物があると津浪を弱めるのにはいいだろう。ただ見晴らしよくなくなるから問題なのだ。一見田はみんな同じ高さに見えるが違っている。鹿島区では烏崎や小島田の方が低いから塩崎まで六号線を越えておしよせたのである。あの辺は万葉集にも歌われた地だからやはり低くかったのかなと思う。真野の入江が津浪で再現したのである。


新地にくるとここは伊達領と相馬藩の領地にもなった境で争いがあった。臥牛城ともう一つの新地城もそうである。新地はもともと谷地小屋が中心で谷地小屋要害とかいものが残っていた。新地城から臥牛城へ相馬藩をおさえるために城を造った。でも臥牛城はあまりにもその跡も小さいのでこんなところに城があったのか、ちょっとした砦のようなものだったのか?それでも城下があったとか新地についても良くわからない、新地にくると確かに宮城県に半場入ったような気分になるのだ。
相馬市までは相馬藩だけど新地はまた違っている。今でも伊達藩の武士の子孫で相馬市との合併を拒んでいたという人が駅の近くに家があった。それが津浪で流された。


実際に鹿狼山から太平洋を眺めると牡鹿半島が見えた。写真でははっきりしないが金華山も確認できる。高い山の上だからあれだけ見える。しかし新地の海岸からも牡鹿半島は見えたのである。あれくらい見えれば航海があの山を目印にするのだから意外とここは方向は間違うことがない海である。
船乗りが山を目印にするというとき牡鹿半島は一番わかりやすい目印になる。あれだけ見えれば方向は間違うことがない、だからここの海は鎌倉時代辺りから船で行き来があったとしている。

古代でも石巻の真野の萱原が港だという説もやはりこの海も見ればわかるのだ。波は荒いにしても方向を間違うことのない海なのである。

新地の街道から少しそれた上の町というところに社があり文禄の碑があった。これは今まで見た碑では一番古い。なぜここに?というときここが伊達領だったから古い碑があるのだ。松島にはすでに鎌倉時代の碑があった。伊達領には相馬藩より古いものがある。相馬氏は伊達氏よりは新興の勢力だった。だから伊達領よりは新しいから古い碑も少ない、文禄となると豊臣秀吉による朝鮮出兵=文禄の役があった朝鮮出兵である。そして文禄の後にすぐ慶長の津浪に襲われたのである。
戦争もあり津浪もありと動乱の時代だったのである。


新地の地形の特徴は貝塚が写真の海が見える辺りの高台にあったように海が近く海と山の間が狭いのが特徴なのである。これだけ海が見える場所は浜通りでもない、手の長い神がかい貝をとって食べていたというのはこの高台に貝塚があったからである。まさに地形の特徴がありここは山の幸海の幸に恵まれた所であり縄文人が住むには最適の場所だったのである。


菜の花が植えているのはここも放射能汚染でそうしているのか?別に相馬市から普通に田畑も作っている。あの茅葺きの家は特別残しているのか?まるで写真とるためにある。ただいくら茅葺きの家でも今は昔の生活がないのだから何か生活感ない、結局昔はどんなことしたって再現できないということである。なにかこれみたら写真をとらせるために人工的に作った、映画のセットのような感じすらするからだ。そういう場所は中山道の妻籠宿、馬籠宿にも感じた。まるで映画のセットになっていて生活感覚がなくなる。だから昔を再現すふることは容易ではない、観光化するとどこもかえって昔が偲ばれなくなることすらある。観光客ににぎわっているからここがいつもそんなににぎわっていたと錯覚するのである。だから最近名所観光はつまらないと言う人が多くなっている。歴史はかえって何か忘れられてしまった道の辺の古い碑のようなものに感じるのだ。仰々しく観光客用に再現してもそれが作られすぎてかえって歴史をそこなうということもある


鹿狼山に作った花木山の花園ではリキュウバイの手入れをしていた。利休梅だというのもめずらしい。堺辺りでは外国のものがいろいろ入ってきたのである。
壺でも茶碗でも外国製の高価なものが入ってきた。利休はそうした外国製の高価なものを嫌いわび、さびの茶道を確立した。みちのくあたりだったらそんなことはない、そもそも堺のように高価な陶磁器などすら入ってこない、平泉にあったにしろ普通は見ることもできないものだった。
利休梅は明治以入ってきたのだから利休が生きたときにはその名はないしこの花自体見ていない、
この名は相当新しい名でありそれだけなじみのない花だった。花の名前は万葉時代からあり古いのが多いからだ。

新地から峠を越えて丸森に向かった。丸森では森に迷い出れなくなる恐怖を味わった。だからそのために体が今も痛い。新地は福島県だけと宮城県の部に入れた。丸森まで旅がつづいたからだ。
 
 
 

丸森の秘境へ (夏の旅-新地からのつづき)


丸森の秘境へ

(夏の旅-新地からのつづき)


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山吹や峠を越えて丸森へ

丸森へ峠越えるや朝桜
戦死塚訪ねてみればスミレかな
丸森や山路の深く落椿
丸森に海を望むや桜散る
イノシシの左右に駆けぬ夏の闇
丸森ゆ相馬へ飛ぶや夏の蝶
丸森の奥に家あり夏の星


峠越え蔵王の見えて丸森やなほ雪厚く新緑映えぬ

昼暗き旗巻峠相馬へと下りゆくかな椿散りにき
丸森の森の深きに黒揚羽舞い出て消ゆる山路ひそけし
大内の部落やあわれ天明の碑のあり夏に我が来る
分け入りて二筋の滝岩伝い流れし奥や新緑に映ゆ
二輪草木洩れ日さしてあまた咲く人に知られずここに映えにき
丸森の森の深きに鳥の声かすかにひびく夏の夕暮

丸森に蛙の鳴く声ひびきあう山間深く数軒の家

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二筋滝

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樅の原生林

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忘れられた石

鹿狼山から丸森へ峠を越えてゆく、山吹が咲き桜がまだ咲いていた。ここの坂は帰りの方が辛い。ただ今回は電動自転車だから楽である。庭に三色桜というのが咲いていた。蔵王はまだ雪が厚い。
丸森の景観は変化に富んでいる。阿武隈川があり山が深い。蔵王も見える。金山城など歴史もある。戊辰戦争の戦死塚もある。大内部落に子安観音があり天明の碑があるのも相馬藩の飢饉の影響があるかもしれない、天明山というのも飢饉のとき名づけられたのかもしれない、ただ当時は飢饉だからといって伊達藩で援助することがなかったのである。


今回は手倉山の方に入って行った。そこに流れがありでこぼこの悪路がつづいた。電動自転車だからなんとか上れた。マウテンバイクのオフロ-ドのみちだった。そこは誰も入ってゆかない、車が一台通ったので道が通じていると思ってどこまでも進んだ。あそこは本当に秘境なのだろう。二筋の滝が岩を伝い流れていた。「二筋滝」という命名がいいみたいだ。誰も知らない奥深い谷間に二輪草が一杯咲いていた。あの二輪草を見る人もまれである。何か神秘的であり秘境に入る感じがした。

実際に樅の原生林というのがありそこに十数本の樅の林が確かにあった。樅は一本か二本しか森でも見られないからここは樅の原生林だったのだろう。原生林など今はない、丸森も名の通り森の町であり森が思った以上に深い、ただ杉の森である。もともとここは森林資源で米沢と伊達と相馬が争った境界の地帯でもあった。江戸時代から森林資源が豊富だった。その森に迷ってここの森がどれだけ深いか豊であるか知った。わずかに道のようなものをたどって下って行ったら道が尽きていた。
その時電動自転車をおして前の道にもどるのに大変な労力がかかった。そして森から出れなくなる恐怖を感じた。樹海にまぎれこんだみたくなってしまった。5時過ぎてくらくなりつつあったから余計に恐怖だった。こんな近くでこんな恐怖を味わうとは思ってもいなかった。必死で自転車をおして元の道にもどった。そしたら運良く下る道がありそこを一路下った。この道を下れば前の道に出れると思い安心した。誰も見ないようなコブシの花がひっそりと夕べの闇がつつむなかに咲いていた。


6時ころになりすでに暗くなっていたときまた相馬へゆく道をまちがいた。別れ道があり大きな道の方を行ったらそこは坂になっていてどんどん進んで相馬へ出れるのかと思ったらあの道は相馬に出れない、車の人に聞いてわかった。丸森の奥は深い、あんなところに家があった。それから引き返してやっとこの道をゆけば相馬だと聞いて一路帰った。星が光り蛙の声だけが山間に高くひびいていた。丸森はまだまだわかりにくい場所である。地形に変化があり魅力ある場所だと思った。

相馬に出たの8時過ぎで帰ったの9時ころだった。これだけの運動をしたからぐったり疲れた。
でも自分は身体障害者でなくなったからこれだけの無理ができるし結構無理ができると思った。
登山もできる。今まではこういうことは絶対できない、身体障害者であり小便でなくなったら死にいたるからだ。そういうことはないから安心した。やはり今は手術して正常に戻ったことで体に自身がついた。ヒマラヤ登山すら苦しいけどでるかもしれない、3000メ-トルまで上れば9000メ-トル級の山を見れるのだ。もう一度見てみたいと思った。


こうして家に帰ったら母が足を悪くして動けなくなっていた。トイレにも行けなくなっていた。
食事もほとんどとらないからもう寿命なのかもしれない、90以上になると突然弱るとパタパタと死ぬ人が多いらしい。だから死ぬ時期がきたのかもしれない、明日は入院とかの相談でありちょっと忙しくなるからプログの方は休みになるかもしれない、ただ自分は体が正常にもとったのでその点これら一人でものりきれるなと安心した。やはり介護は第一に健康であり健康がなくてはとても介護はできない、自分も介護されるような状態では介護はできないのだ。

こんなわけでこれからしばらくまた母のことで追われるかもしれない、人間はともかく死ぬまで手間がかかるものでありそれが大変なのである。
 
 
 
 

丸森の深い森から出れなくなった恐怖 (人間は文明化して自然への恐怖(津浪など)、畏れを失っていた)


丸森の深い森から出れなくなった恐怖

(人間は文明化して自然への恐怖(津浪など)、畏れを失っていた)

イノシシの左右に駆けて夏の闇


丸森で闇の中でイノシシに出会った。二三匹いた。かなり大きなもので迫力があった。警戒して盛んに左右にプットワ-クがよく機敏に動く、このイノシシにぶつかられたら大けがすると思った。
イノシシは別に夜行性ではないらしい、警戒して里近くでは夜に行動している。
野生のイノシシにあったのはじめてである。イノシシは良くみかけるといっても山の方に行っても猿はいてもイノシシはみかけなかった。野生で見るものは何でも迫力がある。
飼っているイノシシとは違うからだ。ただ本当の野生は喪失している。
野生が何かわからなくなっている。

丸森の森は大きく深い、落葉杉の葉で道がうまり道なき道を奥に行き過ぎた。どこかに道があると思い行き過ぎた。人間は普通に生活していれば今ではどこにでも道があるから迷うことなどないと思っている。それが文明社会である。人間は今やあまりにも文明社会に馴らされているのだ。
だから野生が何かわからなくなっている。秘境などどこにあるのだとなる。

丸森になぜ米沢藩と伊達藩と相馬藩で争いが起こったか?これは歴史資料としても有名であり論文もでている。森林資源を巡って争ったのである。それだけここが木材資源が豊富だったのである。
飯館村よりも豊富である。飯館村はそれなりに平地があるがここは山が重なり森が多いのである。
だから樅の木の原生林などが残されていた。樅の木はもともと原生林を形成していた。今は一本か二本しかないのが普通である。人間は森がどういうものか実感できなくなっている。
今回の経験は富士山の麓の樹海のように森から出れなくなるという恐怖だった。それだけ森が深く丸森では覆っていたのである。

人間は自然の中で本当の自然が何かわからなくなっている。自然というと動物園のようなものが自然だと錯覚している。動物も動物園でしか接していないからだ。野生の動物に接していないからそうなる。それでカバに中国人の子供が近づいて殺されたとかのニュ-スもあった。子供でも動物園の動物しか知らないしペットの動物しか知らない。おもちゃの動物のような錯覚もしている。

人間はこれだけ文明化されているとき本当の自然を肌で知らない。観念的にしか自然を知らないのである。丸森で森林資源を巡って争いが起きたことはこの原自然の状態があって必然的に起きたことである。それだけここの森林資源は豊だったのである。それだけ森が深いことをの証明だった。
そんなことをわかっているじゃないかというけど実際にこの深い森で道に迷って出れなくなるという恐怖からこの森がいかに深いか知った。

人間は今は自然を甘くみている。それも文明化された便利なものの延長として自然がある。だから森でもどこかに道があるだろうと思ったのが失敗だった。
道が途切れ道がなくなっていたのである。そこに樹々が暗い森がどこまでもおおっていた。

こういう自然の恐怖、例えば砂漠でも迷ったりしたらそれこそ命にかかわる恐怖である。
まず水がないから死につながりやすいのだ。森にはまだ水は流れているから命がつなぐことができる。しかし砂漠ではできない、水がないことが致命的となり死にいたるのである。だから水のある場所を探すことが最優先されるしその方向が間違ったら即集団でも死にいたるのである。
そういう自然の恐さを今は知らない、どんな場所に行っても自動販売機があるんじゃないかと思ってしまう。道はみんな舗装されていると思ってしまうのである。
だから近くの低山でも遭難することがあるということはやはり自然も奥深いものがあるからだ。
道がなくなると低山でも近くでも危険なのである。


自然を甘く見たというとき津浪もそうだった。津浪も一つの自然現象だった。しかし400年前に起きたことであり忘れていた。津浪によっても自然は恐いものだと改めて自覚させられた。あまりにも
文明化した世界に住んでいるとそうした自然の本当の力とか恐怖と恐れを感じなくなったのである。今は科学を敬っているというとき宗教のようになっているとうときまさに自然は科学で知り得るものだという信仰になっているのだ。ところが津浪で原発事故でもそういう自然の人間の力を越えたものに直面して狼狽した。つまりまさに自然の驚異、野生の驚異が地球にはまだある。とても文明だけでは計りしれないものが自然なのである。人間は計られている存在であり自然計ることができないのである。そのことをまざまざと示したのが津浪だったのである。
人間はどんなに文明化したとしても自然の驚異から逃れることはできない、自然の力は常に人間よりまさるものなのだ。人間はその前になす術もなくなる。それを示したのが津浪だったのである。

「心の青雲」で地震とは予知できないという、つまり学者がただ部分的に専門分野でみているだけで全体をみていない、地震は天体とも月などとも関係しているという、プレ-トがどうのうこうのという学説至上主義も疑っている。それもまた一理あるなと思う。要するに学説至上主義も一種の科学の信仰に近いものとなるがそれも信用できないのである。科学によって地球のすべてが解明されることなどないのだ。ただそういうふうに思い込まされているにすぎない。だから科学も詐欺的なところがあった。原子力関係者がすべての日本の支配階級が組んだペテンの面があったのだ。つまり核のことは実際は解明されていなかったのである。そういうものに手を出した結果としてこれだけ痛い目にあったのである。科学の力は偉大だし肯定されるべきである。でもすべてを人間が解明できないし科学者には限界がある。それが錯覚して原発事故のようなものがこれからも起きてくる。神は必ず人間の奢りを打ち砕くのである。これはどんなことしても神が造ったものは神しかわからないということである。そこに神に対する畏れをもつべきなのである。

posted by 老鶯 at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係