2013年04月29日

新田村のおみかとは実在したのかな?


新田村のおみかとは実在したのかな?

 

飯豊耕土にや 箒はいらぬ
新田、おみかの裾で掃く


こんな歌が残っていること自体、新田は相馬藩の城からもさほど遠くなく古い地だった。
柏崎梅川のお釣り場からの帰りにおみかという娘を見せめて城勤めになったという。
こういう話は他でもいろいろあるから何が本当かわからない、ただこんな歌が残っているのだから
おみかとは実在の娘だったのだろうか?でもなんらか相馬の城の殿様と関係していたのか?
新田という地はそれだけ何か相馬藩の城の殿様と親しい村だったともなるのか?
ただこんな浮ついた話しがあるとすると他の村では面白くないだろう。
そんなことで村が厚遇されたりしたら他の村人は働く気がなくなるだろう。
誰か器量のいい娘を殿様にあづけて楽しようとかなる。相馬藩は貧しいからそんな余裕があったのかということにもなる。ただ別に殿様は当時は側女を多くもつことはとがめられていなかった。
ただそれも豊かな藩のことである。

おみかという名前の由来はここからきていたのだろうか?


現在では「みか」とはいわず、
「瓶」=「甕」=「かめ」と読むことが多い。
古代人は、美しく流れる川を「御河(みか)」と呼んだ。
その川沿いにひらけた原野に、「御河之原(みかのはら)」と地名をつけた。
川の流れ込む形が甕(カメ)に似ていたからという説もある。


聖武天皇がそこに恭仁京(くにきょう)をおいて生活していた
時期がある。(740〜744年)


「三日原(みかのはら)、布当(ふと)の野辺を清(すが)みこそ、
大宮処(おおみやどころ)定めけらしも」―― 『万葉集』
http://blog.goo.ne.jp/obi-jime123/e/506c6a3bd586ca16e57c5dad4baf619f


大甕(おおみか)という地名もそうなのか?  川に由来したものなのか、梅川が流れていてその名がついたのか?名前も考えてみるとどうしてつけられたのか不思議である。


ただ新田村には近くに釣り堀があり通っていたのである。

例の溜池で誰かが釣りをしていた。その釣りをしている人と話をした。どこかの釣りする所では魚を釣り堀のように放流しているという、それで人を集めている。釣りといっても今はとった魚を放している。魚をとって食べるというより魚をつり上げる醍醐味を楽しんでいる。そもそもそんなに魚をみんな釣って食べてしまったら魚がいなくなってしまう。
最近読んだ雑誌でもそもそも日本近海の魚はとりすぎていなくなり漁師はもう生活が成り立たないという。魚もとりすぎるとそうなる。魚の養殖を考えるべきだというのもわかる。天然の魚はとり放題にしたらへる一方なのである。魚も釣り堀化しないとへって魚はとれなくなるのだ。天然の鰻も絶滅するとかなる。そういう時代になってしまった。養殖化しない限り漁師の生活は成り立たなくなる。右田浜でとれたのはイシモチとかスズキだった。それらとって食べていた。海の魚は食べていた。

その人はとれたときは60匹もとれたという。魚もとれるときはとれるのである。

魚釣りは自然との交流でもあるから何か見ていても気持ちがいい、自然に溶け込むということがある。だから釣りから自然を考察して村のことを探求した哲学者がいた。釣りというのは遊びでもそれだけ自然と通じ合うから違っているのだ。ゲ-トボ-ルとかゴルフとか何かこういう娯楽は自然と通じ合うものでもないからあまりそういうものをしているものと共感しにくい。釣りをしている人をみていると自然に溶け合った自然の一風景に感じるから好感をもつ、ただ自分はじっとしていられないたちであるから向いていない、自然と交流するとき絶えず動いている自転車などが向いているのだ。


ともかく釣りしている人と話したように相馬藩の城の殿様も釣りを楽しんでいたのである。

「何か今日は釣れましたか」
「今日はさっぱりだったな、でも人間が釣れたよ、鄙にはまれな美人が釣れた」
「どこのどなたで、新田の里の娘だった、おみかと言っていたな」
「殿、あまり遊びはいけません、他の村の者が働く意欲をなくします」
「まあ、そんな娘がいたことを話しただけだよ」
「釣りの方に精をだしてくだされ」
「それもそうじゃ、人間を釣るより魚じゃな」
「そうでございます、殿様は村民の模範でもあるんですから・・・」


その日はぼかぼかと春のあたたかい日が新田の里にさしていた。桜もそここち咲いていた。

相馬中村石屋根ばかり、瓦(変わら)ないのでドント人が好く・・」こんな戯れ歌が残っていること相馬藩の城があった中村は何か本当に田舎の城であり貧しい城下町だったのである。
だからこそやはりそうした浮ついたもの、贅沢はできない藩であり殿様も質素を心かげるのが普通である。そうしないと下々の風紀も乱れるからである。


我が城より相馬の城下を見渡せば
相変わらずに石屋根ばかり
春なれど何か寒々しかな
新田の開拓は成れどなお貧しき
いかにして民の豊さのあれや
今年の春も花散りて逝かむとするかな

こんな話しになっていたのか、それなりに相馬の殿様の話があれば新田の里も興味が湧くということがある。相馬の殿様のことは何か具体的に浮かんでこないのである。

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元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった



元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった

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新田の里を開いた人の名が記されている

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横山の姓があり二種類の旗印がある
横山は新田の里を開いたと記してあった
新田村は20の旗印があるから大きな村だった



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碑が津浪で倒されたまま

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バイパスまで津浪が来た


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鷺が田んぼにいた-今はめずらしい(鹿島区)

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元禄の碑があったのは程田ではなく新田だった。新田という地名が新しいと思って程田が古いと思ったから程田としてしまった。今日その碑のあるすぐ近くで畑を耕している人がいた。そこは飯豊村であると最初に言った。土地の人ですかと聞いたら違っていた。どこの人ですかと聞いたら南相馬市だという、なぜここで畑を耕しているのか?南相馬市では畑を作れないからここで耕しているという、土地を借りて耕している。ここでも津浪をかぶった。津浪はバイパスまで到達していた。見れば相当に広範囲である。今回の津浪はどこでも広い範囲に広がったのである。飯豊小学校前まで来たというから驚きである。鹿島区でも鹿島小学校前まで来た。ともかく飯豊村は大曲と程田と新田がある。元禄の碑があったところ古い碑が一杯あったところは新田である。新田と言っても実際は元禄時代にすでに新田となった。新田となったのは開拓したからそういう名になった。

その名がついたのは元禄時代にすでにその名があった。正徳時代に新田村は756石であった。大曲と程田は400石である。干拓された面積の方がそれほど広かったのである。それ故にあそこに古い碑があるともいえる。何らかの記念なのかもしれない、実は元禄時代は全国で開拓が進み米の生産高がかなりあがった繁栄した時代だった。だから元禄時代には華やかなイメ-ジがある。芭蕉が活躍したのも元禄時代である。日本文化の興隆期でもあった。だからそこに元禄の碑があっても不思議ではない。相馬藩でも開拓が盛んに行われた時期でありその時の新田なのである。 その畑を耕していた人はあの辺に杉堂とかあって杉林があり隠れて田を作っていたという。隠し田ですかと言ったら税金逃れるためにそうしたものだろうと言っていたからそうなのである。でも平坦な地だから隠れようがないのである。ただ当時の風景は違っていた。杉林があり隠れるような田があったのかもしれない、隠し田というとき日本全国でありこの辺では鹿島区の塩崎とか小山田に隠町という地名で残っている。これは隠し田のことである。確かに塩崎でもそこは目立たない隠れた地点であり小山田も山側であり隠れた地点にあるから合点がいく、でもあそこは平坦であり隠れるような田が作れるようには見えなかった。
 
隠し田と五郎右衛門
http://yaromai.dip.jp/minnwa2/mukasibanasi/kakusida.html
 
隠し田が発見されると首が飛ぶ厳しい罰があった。それでも作っていたということは税としての取り立てが厳しいからそうなった。この物語では庄屋がわびて腹を切った。庄屋とはそれだけ責任がありかばうものだった。これは明治以降の地主とは違うものがあった。地主には自分が犠牲になるような物語はない、庄屋と地主がにているようにも思うが実際は違っていた。だからかえって明治以降は江戸時代より農民が不平等にもったとしたら何ための明治維新だったのか?庶民にとってはいいことがなかったともなる。ただ商人とかその他会社とか工業関係の仕事に就いた人は良かったのだろう。農民は江戸時代より悪くなったのだろうか?明治維新で得したのは誰なのかとなる。
 
その人はここも放射能のために土を半分くらい削り取ったという、ここは津浪で塩分のため削りとったのかと思っていた。放射能のために削り取った。放射能は計測して今はここは安全だという。かえって栃木や群馬の方が放射線量が高い田畑があるとか言っていた。相馬市でも南相馬市とそんなに距離がないのだから放射能の影響はさほど変わらないとなる。 その場所ではその畑の前に竹藪がありそれが津浪を防いだという、今は何もなくなっていた。竹藪のようなもので防げるのかと思った。勢いをおさえたのかもしれない、津浪は意外と何らかの障害物があると弱まる。鹿島区でも海老の坂が津浪を防いだとか言うのは意外だった。つまり意外なものが津浪の力を弱めていたので悪。竹藪は竹が密生して根が強く張っているから波の勢いをある程度とめたのかもしれない、ただ松原などは根こそぎ倒された。海岸線から多少離れているから津浪の力も弱かったのか?松川浦はそこは近くである。松川浦の方かもあふれてきたかもしれない、バイパスまで津浪が広がったのだから広範囲だったのである。今では新田辺りは津浪の跡はない、家も元のままである。ただ元禄の碑があったところが碑が多くあり津浪で倒れたままだったのである。
 
相馬市の程田、大曲、新田を訪ねる
 http://musubu.sblo.jp/article/64988032.html
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残る桜(まだ桜はそちこち残り咲いている)


残る桜(まだ桜はそちこち残り咲いている)


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古き碑や花は散りにき薬師堂
夕陽さし今一時の桜かな


松になお残る桜の咲きにけりこの一時の美しきかな

雷鳴りて嵐はすぎぬ来てみれば一木の桜残らず散りぬ
移りゆく時の早しもたちまちに一木の桜散りてなしかも
六万石残る桜のかすか散る遅れたずねる人のありしも
街道に残る桜や松並木夕日のさして我が帰るかな

日立木の薬師堂に咲く桜散り夕暮れあわれ細道帰る

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桜はまだ咲いている。それなりに咲いている時期が長いなと思った。すべて散ったものがあにしてもまだ残っている桜がある。イオンの前の一木の桜は見事に満開に咲いていたと思ったら全部散っていた。この前見たときから一週間くらいたって雷も鳴ったし嵐もきたし風が結構吹いたのでみんな散ってしまった。相馬の城跡の桜もほとんど散ったがわずかに残る花がかすかに散っていた。そしてまだ訪ねる人がいた。桜はないが城跡を見に来たのだろう。街道にも名残りの桜が咲いていたし日立木の薬師堂の桜もいつもきれいである。でもみんな散っていた。桜はいたるところに咲いている。薬師堂の桜もきれいでありいい桜だったのである。日立木のあの薬師堂は浜街道の要のような場所に感じる。だからあそこに明暦とかの古い碑が並んである。基金の供養の碑もある。あそこは情緒のある場所である。昔は情緒だけではない、今の医院のような役目を果たしていたのである。


江戸時代ころが良かったのは自然の中に暮らしているから癒しがあったのだ。病気だって病院とか無味乾燥であり美が欠けているのだ。美は常に必要なものなのである。人間は最後まで美しいものを見て死にたいという気持ちがある。美しいものを心に映じて死にたいのである。人間は醜かった。しかし自然は美しく心をなぐさめてくれた。だから花の下にて春死なむ・・・となる。


津浪はあまりにもむごたらしかった。その死も無惨だった。泥の海で死んだことが無惨だったのである。ただ八沢浦は確かにあそこで死んで水がひいて泥の海から死体が発見された。ただ津浪が美しかったなどと写真にだした人はいなかったのかもしれない、でも小高の井田川浦でも磯部でも一時湖のようになったときは美しかったのである。自然はあのような災害でも美をもたらすものだと感嘆したのである。人間の戦争のようにはすべてならないのである。戦争などはそこに一かけらの美も見いだせないのである。広島の原子爆弾を見ればわかる。津浪はむごたらしいにしてもわずかでもあっても美をもたらしたのである。無惨であったけどその美を否定することはできないのである。

人間は日頃接していてただ欲望だけを求める醜いものである。そもそももはや人間に救いはない、純粋な心の人はまれである。たいがいは欲にまみれて自分のことしか頭にない醜いものである。それは自分にもあてはまるだろう。そういう世界に救いはない、美があるときそこが救いになっているのだ。こんな醜い世界にも美しいものがあるから救いなのである。自分は人間がいなくなっても美の世界はあってほしい。
人間がいなかった原初の世界の美しさは信じられないものだった。それがとりもどせればどれほどすばらしいかと思う。
東京のような文明都市が醜悪であり美しいものがないから絶望的なのである。醜悪だから滅びてもいいと思ってしまう。
もし美しかったらそういう否定的なものにならないのである。なんと美しい都市だろうとなれば誰も滅びてもいいなどと思わないのである。


桜に日本人がこれほどひかれるのは桜は咲く前からはじまり徐々に咲いてやがて残る桜となり散ってゆく、それが何か短い期間だけど人生とにているから桜にひかれるのである。そして時間的にもそうなのだが空間的にも桜前線があり関西の方は散ってもみちのくが咲き始める。みちのくでも広いから福島県の方は散っても岩手県の方が盛りになり弘前の桜が咲いて東北の桜は終わりさらに北海道と移るのである。それがまた時間差があり桜の咲く時期は六月まである。稚内でその桜を見たからである。ともかくまだ残る桜として桜は名残を惜しみ咲いている。