2013年04月28日

相馬藩の石高からみる津浪被害の大きさ (日本の歴史は米を作るための開墾開拓の歴史だった)


相馬藩の石高からみる津浪被害の大きさ

(日本の歴史は米を作るための開墾開拓の歴史だった)


正徳元年7月郷村高辻帳



栃窪村-915石
南屋形-730石
鹿島村-1117石
小島田村-664石
南海老村-713石


北右田村 719
南右田村-450石


(飯館村)

草野村 330石
飯樋村 450石
小宮 35石
関根 16石
二枚橋 45石



この石高を見ると村の規模が数字で明確化される。全部の分析はできないが500石になると上位になる。そしてどこがその郷の中心地だったかわかりやすい。飯館は今は草野だけど元は飯樋村がちゅうしんだったことがわかる。そこには塩の番屋が置かれて60人も役人がいたとか塩を管理していたので人数が多かった。石高も多かった。つまり草野と飯樋村の他は極端に少ないのであり原野が広がっていた。飯館村は明治以降でも開拓に入った人が多い土地だった。それだけの未開の土地が多かったのである。

この石高で注目したのが北右田と南右田である。それから小島田村である。ここはすべて津浪の被害を受けたのである。ここはもともと海であり開拓された土地だったのである。北右田が南右田より古い。北右田から野馬追いの甲冑競馬に出る人と話したことを書いた。南右田村は江戸時代からあったとしても新しい。意外なのは栃窪村が石高が多い、そしてそこは水がいいから鹿島区では一番がうまいと自分の家でも買っていたのである。そしてどういうわけか栃久保という姓の人が相馬藩内の村に結構いるのだ。栃窪村の人が他の村に移住して栃久保と名乗ったのだろう。栃窪村はそれだけ大きな村だったとなる。
北右田-南右田村と小島田村をあわせても石高はかなり多くなる。1700石とかなる。鹿島村は1000石であり小高村も1000である。1700石となるとかなり相馬藩内では大きな石高になる。大内村なども被害にあったから2000石くらいの面積が津浪の被害にあったのである。当時の経済からすると津浪の被害は思った以上相馬藩の財政の負担になったかもしれない、ただその状況は記録されていない、そして津浪で海になった所はそもそも海であり開拓された所だったということである。逆の見方をすれば2000石くらいが開拓によって米の生産高をあげたということである。つまり相馬藩が六万石として2000石はその開拓によって得られたものだということである。これは相馬市の磯部とか他にもありその石高は一万とかになるかもしれない、それだけ開拓によって得られた米が相馬藩の経済を支えたことになるのだ。


このことは伊達藩にあてはめれば桁違いの面積が仙台平野が開拓されて米が生産されてその米が江戸に商品として運ばれて伊達藩の力となった。伊達藩の力は開拓から生まれたとも言えるのだ。米中心の経済では米をいかに増産するかが問題となる。それには日本では土地がないから海の方に開拓地を広げた。その開拓したところが今回の津浪で被害にあった。その被害はあまりにも大きかったのである。
小島田も島のようになっていた田であり真野川の河岸が湿地帯のようになっていてそこに島のように田が最初作られて人が住み着いた。鹿島区の中心はもともと鹿島村ではなく栃窪村の方にあった。
なぜならそれだけ水が良く良質の米がとれる場所だったからである。海側になるとどうしても水が良くないからいい米がとれないからである。でもとにかく米の増産のために無理して海側を開拓していった。その結果として津浪に襲われてすべてが元の海にもどってしまったのである。


飯館村でもそうだが日本の国力は米の増産にかかっていて日本全国の開拓はつづいた。それは大正時代でも小高の井田川浦が開拓されたり戦後も戦争から帰った人たちがこの辺では小池とかにも開拓に入っている。そういう人を現実に自分は知っていた。あそこに開拓の碑がある。飯館村は開拓者のしめる割合が他よりずっと多かったのである。それだけ原野が未開の広がっていたからである。
日本の歴史を土台からかえりみれば開墾開拓の歴史だったのである。土地が少ないから棚田でもそうだけど狭い土地を開墾して米作りに営々と励んだ歴史だった。海側の開拓はだから津浪の被害を受けたように自然条件を越えて無理した結果としての被害だったとなる。でも日本では土地が狭いからその土地をえるためにやむをえなかったのである。


だから満州のような広大な日本では想像すらできない土地に憧れたこともわかる。そしてその寒冷地帯でも米作りしていたのである。日本の歴史は米作りの執念が綿々としてつづいたのである。それでも米が満足に食べられたのは戦後十年以後でありそれまでは麦飯であり農家すら満足に米を食べていなかったのである。白い飯を食べていなかったのである。ご飯が食べられると東北では兵隊になった人もいた。米なんかいくらでもある、米なんか減反しているじゃないか、今はパンでも何でもなる。米に頼る必要はないというとき先祖から罰があたるともなる。その営々とした労苦の歴史が無視されるからである。だから現代の豊かさも過去の歴史の継続としてふりかえらないと傲慢なものとなりその豊かさによってかえって自然から復讐されることがある。そんな米作りより今は科学だ、原発だとかなりかえって故郷すら住めなくなったこともそういう歴史をふりかえり国作りであり村作りでありしなかったからではないか? 科学は原発でもそうだがあまりにも魔法的要素が多かった。その富をもたらすものは危険に満ちていたのである。またそこに過去の米作りのような労苦の積み重ねの歴史もない。科学は確かに富を便利さをもたらすのだが一面常に危険なものとしてもあった。自然との調和も計られていなかった。それが見逃されていたのである。なぜなら米作りさえ海側を開拓したことさえ自然の調和を計ったとはいえなかったからだ。それが津浪で証明されたのである。


 

posted by 老鶯 at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係