2013年04月26日

機械文明崩壊の中で(星野芳郎)を読む (40年前に警告されていた原発の危険性)


機械文明崩壊の中で(星野芳郎)を読む

(40年前に警告されていた原発の危険性)


●原子力発電の重大事故は起こりうる
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日本の原子力委員会はアメリカの原子力機器メ-カ-のカタログを鵜呑みにして信頼性を高める実験はなんらやらなかった。日本の原子力行政はこれほど官僚的でかつ植民地的な性格をもっている。

もともと工業は農業や漁業とはちがって自然の地形や気性に致命的に制約されない、自然条件から多分に解放されているところに大きな歴史的意味があった。しかし工業の生産力が今日ほど大きくなり技術の上でも決して重大事故を起こしてはならない技術が登場してくると工業の展開も自然条件に大きく制約されるに到ったのである。
日本の自然条件は少なくとも現在の形の原子力発電の展開を許さないことを知るべきである。
あえてそれを強行するならば自然は必ずや日本に復讐すると考えなければならない。


この本に注目したのは40年前に出版されたものであったことだ。フクシマ原発の一号機が作られたのは1971年でありこの本が出版されたのは1974年なのである。この時期に適格に原発の危険性を指摘していたのである。事故があっての今ならいろいろ言うことができる。しかしその当時はそもそも原発が何か知らない人が多かったろう。その危険性も科学者ならわかっていたのである。この人は技術評論家であるから原発の危険性を専門的に知っていた。これまで原発事故に関してプログで究明してきたがその原因は何なのか、この本を読めばすでに原発事故が起きることは予測されていたのである。でもなぜそれをとめることができなかったのか?それはひたすらに経済成長を望んだことであり巨大工業化の道が自然条件を越える規模になっていた。人間は自然条件の制約の元で生きているのでありそれを越えるとき危険をはらんでいたのである。瀬戸内海のコンビナ-トの公害から原発の危険性も指摘していたのだがまだコンビナ-トは小規模なものであり限定されていた、原発事故は規模が地球大にも拡散される危険なものだった。一旦事故が起きたらどうなるか科学者はわかっていた。


それではなぜ無理して原発が作られたのか?それは政治的意図が働いたのであり政治家の責任が大きかったのである。ただ科学者も原発は専門的にみて危険なことがわかっていたのだから政治家の圧力に屈してはならず危険性を指摘するべきだった。つまり原発は政治家と官僚とかの圧力で無理やりに安全を無視して作られたものなのである。正力松太郎などという一個人の野望のためにも原発は利用された。正力松太郎はCIAのアメリカのエ-ジェントだった。アメリカの植民地としてなお日本はあり危険な原発を売りつけられたのである。その後継者として福島県の渡辺やその息子の・・がいてこれらもアメリカのエ-ジェントであった。原発を作っているGEの社員だったのが渡辺耕造の息子だったことでもわかる。中曽根首相もかかわっていた。原発は新幹線の駅を政治家の口利きで作られたように政治家の圧力で作られたのである。安全より原発のその巨大な能力にひかれて誘致したのである。


自然条件を無視したというとき日本には地震や津浪の頻発地帯だった。それが小規模な工業だったら原発のような大事故にはならなかった。そもそもこれだけの巨大な工業化はすでに限界に達していたのである。自然条件を越えて発展していた。一千万の東京があること自体すでにそれだけのエネルギ-をまかなうものを用意することは危険なものとなっていた。自然条件を越えたものとなっていたのだ。自然条件を越えたというとき日本古来の白砂青松の風景も自然条件に適合していた美しい風景だと思っていたが津浪で破壊された。これも自然条件に適合していたものではなかったのである。
人間は自然条件の制約を越えて生きられない生物だったのである。これは生物である限りその宿命をまねがれないものである。人間だけが自然条件を越えて生きられるものではない、その自然条件をはるかに越えた文明は自然から復讐されることは予見されていたのである。


●公害患者の賠償で金で解決して会社や国の責任は問われない

 


瀬戸内海の汚染地域を訪れて痛感させられることはコンビナ-トができてはじめて農業が破壊されたのではない、コンビナ-ト来る前にすでに農業が破壊されていたから地域は工場を誘致してその工場がさらに農業を大きく破壊した。 農業の破壊とは若年労働力の流出であり年配の農民の出稼ぎでなどである。


農民や漁民や林業にたずさわるものの政治力が強ければ農民や漁民や林業者は生産労働の上で汚染にもっとも敏感であるから大会社のように廃棄物を垂れ流す自然環境を汚染させることはできなかったろう

自然環境は金でかえない、汚染は金で解決できるものではない、健全な自然にもどすことによって
真に解決できる。


この意味で公害基金の思想は有害である。公害患者に金を払うということは企業の責任を追求せずということにほかならない。企業は公害基金のかげに隠れて公害患者からの直接的追求をまねがれる。
四大公害裁判いづれも企業の補償金の支払という形で解決されたがほんらいならば企業の幹部の社会的責任が法的に追求されなんらかの社会的制裁が当然ともなうべきだった。


公害基金などで公害患者に賠償して事をすませる。会社自体は責任をとらない、NHKのクロ-ズアップ現代でもとりあげていた。JRの事故で会社自体を罰することはできない、会社の罪は問えない、個々人の罪は問えるが会社自体を罰する法律はない、だから会社は安全対策に真剣にならないという。
会社とか大きな団体は不正があってもその罪を問えないのである。これは大きな団体自体の罪は問えないのと同じである。カルト宗教団体だってあれほど大きな団体になればその団体の罪を問えないとなる。大きな団体を罰する法律がないのである。国自体の過ちを問えないのと同じである。
今回でも賠償問題でこの辺はもめているけどその賠償金ですべて責任がないがしろにされかえって高額な賠償金を要求する人たちが悪いとされるようになった。東電とか政府の責任は追及されないし誰も責任をとらされないのである。それはなぜか?会社とか大きな団体を罰する法律ないからなのだ。


●安全は結局は機械だけではない人間の管理である


機械や装置にどれほどの安全のシステムがほどこされていようと安全を守るのは人間である。つまるところ人間の管理である


安全はいくら機械をコンピュ-タ-で制御しようとしたってできない、機械もコンピュ-タ-も人間が監視しているのだから人間が安全を作るのであり機械ではない、そして原発のような巨大なシステムはすでに人間が管理する能力を越えていたのである。その結果としてメルトダウンが起きた。つまり手のほどこしようがなくなっていた。それは必然的にそうなる運命にあったのである。人間が安全を管理するというとき清水社長がコストカッタ-といわれてのしあがったように安全よりコスト重視した。それを保安委員は点検していないし東電のコストカットを許していたのである。保安委員は何の役目を責任も果たしていなかったのである。いくら機械やコンピュ-タ-駆使しても安全は守られない、それは人間が安全を守るからである。コストカットで利益中心の会社なら安全よりコストだとなる。それは管理するのが機械ではない、人間だからである。津浪を考慮しないでわざわざ高い所に建てるのを低い所にたてて利便性をましたのもコストカットであり安全を計らなかったからである。それは人間の判断でありトップの判断であり指示だったのである。

もはや巨大化した文明の安全は守れない、いくらシステムを構築しても守れない、それは人間の手から離れて巨大化しているから最終的には原発の事故のようにメルトダウンするのが運命だともなる。いくら事故が起きても自然の制約の元で生きていればそうはならない、一部の損傷だけですむ。しかしこれだけ巨大化した文明は全体に波及して全体がメルトダウンしてしまうのである。それがとめられないということである。それが人類の滅亡に通じている。だから原発事故は文明そのものを見直さない限りもはや制御できない、文明の巨大化がエネルギ-の膨大な消費文明が破滅に導いているのだ。何らかの小規模なダウンサイジング的経済が要求されているのである。これは個々人の電気の節約などですまないのである。でも国民総生産の増大が望まれとめることができない、景気を良くするために縮小生産などできない、そして最後は文明の破滅、メルトダウンになってゆく宿命にある。

制御すること縮小することができない文明だからそうなる。そして最後に自然から復讐されて滅亡することになる。だから小子化の人口減も自然的条件維持のために自然の作用でそうなっているのかもしれない、日本は6千万人くらいが適正規模でありその中で自然条件に見合った文明を作るべきなのである。自然条件を無視していはいかなる文明も成り立たない、エジプト文明が三千年維持できたのは自然条件に適合して生活していたからである。現代の文明は百年ほどで衰退して滅びるのは自然条件に適合していないからなのだ。だからこそ自然に復讐され破滅させられるのである。

posted by 老鶯 at 10:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連