2013年04月21日

残る花(雪に雨の情緒)


残る花(雪に雨の情緒)


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みちのくや残れる花に雨あわれ
みちのくや雪の清しく残る雪
みちのくに月のあわれや残る花


今しばし残れる花に時ならぬ雪のふるかな清しかりけり


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夕べちる花

夕べちる
ひとひらふたひら
花のあわれや
陽は入りぬ
ゆく人まれに
残れる花に
光る月
ひとひらふたひら
なお花のちるかな

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今日は朝から雪ふった。特別寒かった。桜さく時期に雪がふるのは30年ぶりとか言っていた。本当にまだ桜が咲き残っていてそこに朝から雪がふった。それは清々しい美だった。自然界は時ならぬものがある。天候も日々変わっている。世の中も日々変わっている。津浪も400年ぶりだとしてもそういう時ならぬものが自然なのである。人事でも社会でも事件は時ならぬものとして起きてくる。

ここ6年間の自分の一身のこともそうだった。次から次と災難が時ならず襲ってきたのである。 桜の咲く時期は短いから貴重な時間である。一年の内で一番貴重な時間となるかもしれない、他に自然を鑑賞するにしても桜のように一時期を鑑賞するものはない、だから桜の咲く時期は貴重だとなる。桜は身近でも見ていないものがかなりある。桜は実際はいたるところに咲いているからだ。


今日の桜は特別だった。雪であり雨でありなお咲き残る花の情緒はなんともいえぬものだった。
会津の方でも雪がふった。そこに桜が咲いていた。これも山国の美であり思わぬ風景に写真をとっていた。会津の桜は見たことがない、ただ湖南地方の桜は自転車で旅して見たのである。会津の桜はほかにもいろいろあるが見ていない、ともかく今日の自然の変化はめまぐるしかった。次々に美が展開したのである。

残る花-桜の随筆(相馬の城跡の情緒-日本の城は城跡だけ残る)


残る花-桜の随筆

(相馬の城跡の情緒-日本の城は城跡だけ残る)

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何か語る散る花あわれ京の雨
雨しとと花散る夕べの京の辻

いづこへと花に暮るるや京の街

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城跡にまた来たりつつ残る花人もまばらに夕暮れにけり

城跡に散る花あわれ二年すぎ津浪に死せる人し思いぬ
城跡に残れる花のあわれかな人もまばらに風寒しかも
一本の松に添え咲く桜かな唐神堤の岸辺に我がよる

この道を行き来しあわれ残る花しばし見つつも我が里暮れぬ


相馬藩というとき城が残っていない、ただ城跡だけである。わずかに石垣があり震災で一部崩れ落ちた。野面積みだから古い。ここを外部から訪ねた人は歴史マニアでなければ感じるものは少ないだろう。もちろん日本では城そのものが残っていないのが多い。城跡だけなのが多い。日本の情緒は城跡の情緒になる。


小諸なる古城のほとり          雲白く遊子(いうし)悲しむ


嗚呼古城なにをか語り          過し世を静かに思へ 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%9B%B2%E5%B7%9D%E6%
97%85%E6%83%85%E3%81%AE%E6%AD%8C


不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心  石川啄木


島崎藤村の千曲川旅情の詩もそうである。そこも石垣だけが残っている。日本の城は新しく城を再建したりしているが実際にそのまま残された城はほとんどない、城跡しか石垣しか残っていないのだ。石垣は石だから残ったのであり木造の城は残りにくくかった。古城といっても石垣だけが残りそこに寝そべり雲が流れてゆく情緒である。


相馬藩も城跡だけでありそこに昔を偲ぶというとき何をよすがに偲んでいいのか地元の人でもわかりにくい。ここは城だったの?何もない、この石垣と堀が当時の城の名残なの?でもやはり城下町というときあそこに城跡があるというだけでやはり歴史を伝えている。相馬藩は代々君主が変わらなかった。国替えがなかったから相馬藩政記が記録として貴重であった。それを外部の人が研究の参考にする。ただ今回の津浪の被害も確かに記されていた。それも一行だけだった。700人溺死としか記されていなかった。もし君主がそのことについて語ったことや歌でも残していれば当時のことが多少浮かんでくる。それが全くないからわからないのである。ただなぜ津浪の被害の後に一か月後に中村に今の相馬市に城を移したのかそれが謎である。前々からそういう準備をしていたということはあっても何も一か月前となると相当に混乱している時だから理由がわからない。何か特別な理由があってそうしたのか、それがわかりにくい。


伊達藩の被害も今回と同じ様に宮城県は甚大な被害があった。だから伊達氏は津浪の被害で弱体化したからこの機に乗じて城を移して防備を固めたともとれる。なぜなら伊達氏は相馬半分というように相馬地域、宇多郷の半分を支配下に治めていたからだ。
相馬藩は六万石で小藩なのだが結局300年つづいたということが歴史の重みとなっている。野馬追いに出る大将となる相馬の殿様がまだ殿様扱いされている。それは相馬藩しかないのである。それも野馬追いがあるからそうなっている。殿様は別に相馬に住んでいないけど呼んで野馬追いに出る。野馬追いが継続されていることで相馬藩のアイディンティティがあり一体化がある。だから浪江でも双葉でも相馬藩内にあり野馬追いにもでている。だから原発事故周辺まで一つの歴史的一体感アイディンティティをもち得る場になっている。ところが磐城はまた相馬藩とは別なのである。


情緒はやはり歴史がつくり出すものがある。相馬市に住んでいたらどうしても城跡と一体化する。もちろん何もないわずかの石垣と堀しかないにしろそこに城があったということは知らず意識されるのである。そこに歴史的情緒が育まれる。それが原町とは違っているのである。南相馬市は同じ相馬でも原町が中心でありそこは野馬土手という地名が多いように野馬を追う原っぱだったのである。だから相馬市のような城下町の情緒はない、歴史的情緒はなかなかそこに住んでみないと感じにくいのである。だから旅行してもなかなかわかりにくい、その土地と一体化すると自ずと会得するものがある。京都など千年の都だからその歴史から情緒が生まれてくる。これもしかし様々な歴史が積み重ねられているからその歴史を理解することがむずかしいのだ。でも花が咲くにしても散るにしても歴史と一体化する情緒が京都ではかもしだされる。だから京の雨というだけで他とは違った感覚になるのである。この辺で桜というとき霊山は南朝が滅んだ跡として有名である。その期間は何か月とかあまりにも短かった。霊山は炎上としてはかなく滅んだ。北畠顕家も20才の若さで死んだ。それでも歴史の跡として情緒をつくり
だしている。


南北朝時代の1337年(延元2年)、北畠顕家が霊山城を築き義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国の国府を置くなど、奥羽地方における南朝方の一大拠点として機能した。しかし、北朝方が優勢になるにつれ、霊山の南朝軍も追い詰められていき、1347年(正平2年)、ついに落城した。以後、霊山が歴史の表舞台に現れることはなかった。域内の日枝社観音堂は往時をしのぶ遺構とされる。


後醍醐天皇より、16歳にして陸奥守に任ぜられ、親房と共に義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥多賀城へ下向、奥州を治める。

20才で死んだけどこれだけの活躍をした。当時の16才はもしかしたら26才くらいの感覚になっていたのかもしれない、それは江戸時代でも明治でもそうである。明治維新でも秋ように若くして大事業をしたのも年の感覚が今とは違っていたのである。

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顕家の像に朝散る桜かな


霊山や南朝滅ぶ夕桜


俳句紀行(霊山から梁川へ)
http://www.musubu.jp/ryouzankikouhaiku.htm


南朝や吉野に霊山秋の暮


みちのくゆ我もたずねて吉野山南朝の跡や月のい出けり


月となると秋だが吉野は桜である。ただ南朝は月にふさわしいともなる。


芳野懐古  <藤井竹外> よしのかいこ < ふじい  ちくがい>
古陵の松柏   天に吼ゆ こりょうのしょうはく  てんぴょうにほゆ
山寺春を尋ぬれば  春寂寥 さんじはるをたずぬれば はるせきりょう
眉雪の老僧 時に帚くことを輟め びせつのろうそう  ときにはくことをやめ
落花深き處 南朝を説く
http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_A14_2.html


南朝に関してはいろいろな故事がある。そもそも南相馬市の鹿島区の真野に逃れてきたのが霊山が滅びたとき逃れてきた一族だったことは有名である。浪江辺りにも小丸とかの墓があったが南朝と北朝の争いと関係していた。ただ今や浪江には警戒区域で入れないから歴史すら訪ねることができないのである。もし浪江町が喪失したらそうした歴史すら喪失する。それが一体何を意味するのか?つまり歴史保存のためにも誰かが住まねばならないのである。

昨日は寒かったし今日も雨で寒い、この頃こんなに寒いのかとも思った。唐神堤の岸に松一本と山桜が咲いていた。桜はともかくどこでもいくらでも咲いている。たいがい山桜であり白い花である。
染井吉野は何か色が赤み帯びていて艶である。本当は染井吉野と山桜はかなり違った情緒ものとなる。唐神という地名は古代からのもので唐は韓(から)である。この地名があって堤の名となった。でもすでに唐神を韓の神だと意識する人はいないだろう。仏教は韓国から伝えられて韓の神とされていたのである。


一本の松に添え咲く桜かな唐神堤の岸辺に我がよる

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敷島の大和心を人問わば、朝日に散りぬ桜花かな 本居宣長


これは山桜であり染井吉野ではない、より野性的な純白のげがれのないものとして山桜を日本の象徴の花としたのである。


山桜さわにそ咲きて風さわぐ街の近くの畑に咲くかな

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イオンの近くに咲いていたのは山桜であり見事な満開の桜だった。桜はいくらでも知らない桜がある。あそこの桜も街道からは隠されていてわかりにくい。こうした桜は日本ではいくらでもあるのだ。人間は近くをつくづく見ていない、あそこにいい山桜があった。でもイオンなどできると騒がしく見えなくなっている。桜は別に京都や弘前に行かなくてもどこでも見れるものである。ただ桜の情緒は全国で場所によって違っている。その情緒は味わえるのは一部である。なぜなら桜の咲く時期は限られている。だからいくら桜が見れる場所も限られているのである。


弘前の桜はなおも我が見ざるいつしか見なむ年も老いしに


弘前の桜はまだ見ていない、一日新幹線で行けば見れるかもしれない、ただゆっくり見れないので損である。日本はやはり桜の国だけど桜の時期は限られているから見れない桜が多いことが残念なのである。