2013年04月17日

相馬氏が慶長三陸津浪の一ケ月後に城を小高から今の相馬市に移した謎 (津浪の復興ではなく伊達氏の津浪被害による弱体化が原因では?)


相馬氏が慶長三陸津浪の一ケ月後に城を小高から今の相馬市に移した謎

(津浪の復興ではなく伊達氏の津浪被害による弱体化が原因では?)


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図のようにもともと相馬市の領域は相馬藩の支配地域ではなかった。1600年(慶長)前は相馬氏の支配地域になっていない、だから相馬半郷とか相馬半分と呼ばれていた。だから伊達氏と相馬氏の興亡は北郷の鹿島区の田中城で行われていた。伊達側についた黒木氏と相馬氏との戦いが田中城をめぐって行われた。小高城を基点として相馬氏が進出して小高城の北にあるから北郷になったのであり歴史的には小高城が中心として相馬氏は今の相馬市地域に進出した。歴史的に言えば相馬藩では小高が一番古い場所だとなる。その後原町の牛越城などに移ったりしたが小高城が基点であり最後に城を中村(相馬市)に移した。

相馬市になぜ館腰宮などがあるのか?伊達氏関係の信仰が残っているのはもともと相馬市領域は伊達氏の領地だったのだからそうなる。館腰宮というのはめずらしく感じられる。それが日立木にもある。仙台の近くに館腰駅があるから何か親しいのである。単なる地形的なものかと思っていたが信仰的なものであり同類の神が祀られていたのだろう。伊達氏関係の神が結構相馬藩内に多い。特にもともと伊達領だった相馬市には多いのはそういう歴史の経過を見れば当然だとなる。相馬藩は伊達氏と戦っても密接な関係にあったのだ。ただ伊達氏は強大な勢力だからそれに対抗できた相馬藩の力はどこから出たのかともなる。軍事力の強化によってできた。それで野馬追いがその歴史の証しとして残ったということがあるのだろう。たとえば北朝鮮でも小国であり何で力を見せつけるかとなると軍事力でありその象徴が核になってしまう。他にはなにもない、貧乏な国だけになってしまうからである。絶えず軍事力を示していないとたちまち他国に侵略されたりするだろう。そういう位置に相馬藩もあったのかもしれない、新地に伊達氏の居城がありそこでも興亡があった。新地には伊達氏の子孫がいて相馬市との合併を拒んでいたというのも今につづいている相馬氏と伊達氏の歴史的因縁である。


1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震津波

この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。


慶長三陸津波の後、仙台平野において塩害で約10年が経過しても米が収穫できず、名取郡の農民が仙台藩の奉行に年貢の申上状を提出したとされる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%B8%89%
E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87


この津浪の衝撃は伊達氏領地で大きかった。それで全国的に津浪という言葉がこの津浪によって定着した。塩害で十年も米が収穫できないというのも痛手だった。当時はまだ科学が発達していないから手だてがなかったのだろう。

ただここで不思議なのはこの津浪の後に今の相馬市になぜ小高から城を移したのかという謎である。これは相馬藩内でも700人溺死したという記録がありかなりの被害だった。そんな混乱の中どうして城を移すような大事業をしたのだろうかという謎である。これは津浪の復興事業として城を中村に今の相馬市に作ったという説を出したとしても何かわかりにくい。


逆にもしかしたら伊達氏の被害が甚大だったのだからその時伊達氏は混乱して弱体化していたのだから今の相馬市に城を作りやすかったということもあるのではないか?そんな津浪の被害のときにわざわざ城を移す理由がわからない、もちろん城を移せば公共事業のうよな役割はあったかもしれない、でも今と昔はちがう。そんな混乱のときはそんな財力もないだろうし無理をしないだろう。相馬藩内で財を出すのだからそんな余力がない、公共事業というとき今は政府から出るからそれにたかるとなっているのだ。そういう時代とは違っている。

だから津浪被害の混乱に乗じて伊達氏の弱体化に乗じて津浪の一か月後に城を移し作ったという説もありうる。この津浪を分かれ目にして伊達氏は今の相馬市の領域から後退しているからだ。この津浪による激動がそうさせたともとれる。これだけの大きな災害は政治も変えてしまう力をもっていたのである。今回でもこの津浪の被害は原発事故もともなって日本全国に影響があり変革を迫るものであったと同じだったのである。
 
posted by 老鶯 at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係